ヴァンパイアといっしょ |
チチチと鳥の声が聞こえる。
今日も朝がやってきたんだ。 私は暑苦しいドレスを脱ぎ捨てて、糸一つ纏わない姿になる。 ベッドの横に置いてある器の蓋を取り、白い軟膏を人差し指で掬い取る。 ぬるりとしたその軟膏を二の腕につけて掌で薄く延ばし腕全体に広げていく。 もう一度掬い取り、また広げる。 指先までしっかりと軟膏を塗ると、次は反対側の腕にも軟膏を塗る。 首、胸、お腹、太もも、足先。 背中を塗る時は何時も通り、軟膏の器を手に取り彼女に渡す。 「じゃ、背中もお願い」 「畏まりました」 ずっと一言も発しないで傍に立っていた私専用の使用人、パルパが軟膏を手に取り背中に塗っていく。 長くて鬱陶しい髪は軽くまとめて手で押さえている。 冷たい彼女の手が軟膏を塗り終えると、すっと離れていく。 最後に彼女から器を受け取り掬い取った軟膏を顔に塗り広げて、器をベッドの傍に置く。 クローゼットから簡素な下着を取り出す。 パルパが畳んでいる私の下着に比べれば飾りも少なく生地も厚い。 下着を身につけ、他の服も身につける。 「さてと。どう?」 「何時も通りです」 「それならよし」 長い髪を大雑把に革紐で束ね、灰色の底が浅い帽子を被る。 「行ってくるわね」 「行ってらっしゃいませ、ルリルファーシアお嬢様」 窓を開ける。 刺すようにまぶしい太陽が既にあがっている。 家族は皆寝静まっている頃だ。 「後はよろしく」 「お任せを」 いつもの様に窓枠に足をかけ、屋敷の窓から茂みに隠してある分厚いクッションへと飛び降りた。 格式高いヴァンパイアの一族の三女。 それが私、ルリルファーシア=ディア=ベルトラン。 新しい魔王になってからはお父様もお兄様もお母様やお姉様になってしまってから久しい頃、私は生まれて始めて人間というモノを見た。 今までワイングラスに注がれた血でしか人間とは触れてこなかった。 見た目はヴァンパイアの様で、けれどヴァンパイアよりはるかに弱く、そして瞬きをするほどの時間しか生きる事が出来ない。 優雅に紅茶を飲んで気づけば寿命で死んでしまうほど、短命な存在なのだとか。 私は生まれてこの方、人間というものに興味を抱いた事が無かった。 でも父様が母様になり、パルパの肌綺麗になって話すことができるようになり、そしてヴァンパイアが人間に血以外のものを求めるようになってから、少しずつ私たちの人間に対する感情が変わってきた。 貴族が下賎な人間と交わるなど愚かしい。 今でもその風潮はあるけれど、一部ではインキュバスとなって貴族の仲間入りをした元人間との甘い生活に浸っているヴァンパイアもいるとか。 噂を嫌うヴァンパイアの間でさえ話に上るほどなのだから、実情は人間との交流や色恋沙汰もあるのだろう。 そして私も人間が気になった。 だから私は人間を見る事にした。 町は魔物が人を殺していた頃の名残で高い石の外壁に囲まれている。 でも外壁のある部分だけは石をどかせば町の中に通じる穴が開いている。 大人は入れないけど、細身の私ならぎりぎり入ることが出来る。 帽子を頭で押さえながら狭い石の穴を潜るといつもシャンプーと香油で綺麗にした髪が土で汚れてしまうけど、町娘に化けるならコレぐらいでちょうどいい。 そう、私はいつもこの町に人間として遊びに来ている。 服装も町でコツコツと購入した物を着ている。 なめし方荒い革の財布に硬貨を何枚か入っているのを確認して、いつものパン屋でパンを買う。 自分の顔ほどはある楕円形のパンを屋敷では出来ないような食べ方、大きく口を開いてかぶりつき、そのまま噛み千切る。 堅いパン生地を噛み解し、ごくりと喉を鳴らして飲み込む。 二口目を食べながら広場の噴水にたまった水に手を入れ、手で水をすくって喉を潤す。 噴水の縁に腰掛ける。 屋敷の中に流れる空気はとても静か。 歩く音は毛の高い絨毯が雪の様に音を吸い込み、話し声は長い廊下や広い部屋の空間に溶けてしまう。 でも町の中は音に溢れている。 チチと鳴き声が聞こえたと思い空を見上げると2羽の鳥が視界を横切る。 パン屋が焼きたてのパンを宣伝する声を上げて、その声に誘われた白エプロンの奥様方が財布片手にやってくる。 噴水の反対側にはリュートを手にした詩人が弦を弾きながら遠い町の話を歌い、町の子供や若い娘達は詩人を囲んでその話に聞き入る。 大通りの脇には様々な食べ物の屋台が並んでいて、荷馬車がカポリカポリと蹄鉄を鳴らして通る。 煩いほどの賑やかさは無いけれど、誰かが生きていて誰かが生活している。 その音が、声が、耳に心地よい。 パンの最後の一切れを口に入れる。 「ん。今日も遊びに行ってみようか」 長い裾のスカートを払うと、私は歩きなれた道を進む。 町には家が建ち、店が建ち、次から次へと建物が増えていく。 ここに新しい家を建てたい。 私は2階建てで馬を預ける事の出来る宿屋を建てたい。 建物が増えれば増えるほど町の中は狭くなり、やがて隣の建物との隙間が殆どなくなったり、火事が広がるのを防ぐ為にあえて建物同士の間に空間を作ったりする内に道が消えたり逆に増えたりする。 すると町のどこかには必ず袋小路が出来上がる。 周囲を壁に囲まれた袋小路は、多くが裏口を持つ店の荷物置き場になる。 私が訪れたのはその内の一つで、最後の角を曲がるとその先には見知った顔ぶれが並んでいる。 「よぉ、ルル。今日はちょっと遅かったじゃん」 積み重ねてある木箱の一番上に腰掛けている少年が私の名前を呼ぶ。 年の頃は10代半ば頃のはずなのに、他の年下の少年少女と同じ位子供っぽい顔つきをしている。 悪戯好きでいつも誰かをからかっては笑っているからかもしれない。 身につけている服装は茶色いボサボサした髪に底の浅い帽子を被っている 商人の弟子をしているだけはあり、こげ茶色のベストが他の少年たちとの違いを明確にしている。 「細かい事は気にしないの。それで、今日はなにをするの?」 「へへ。今日はいつもみたいな遊びじゃない。ガキ連中は怖いなら今の内に帰る事をお勧めするぞ」 機嫌よく鼻を擦りながら茶色ベストの少年、この子供達のリーダー格のチェイルは脅すように声音を低くさせる。 チェイルの脅しに緊張しつつも興奮を抑えきれない少年たちに代わり、私がチェイルに尋ねる。 「なにをするの?」 「そうだなぁ。何をしようかな」 「決まっているんでしょ。もったいぶらないで話しなさいよ」 「仕方ないなぁ。じゃあヒント。何日か前にここで話していたことを覚えているか?」 チェイルが体を前のめりに倒し私の顔を覗き込む。 屋敷ではありえない上から見下ろされる視線を受けながら私は思い返す。 答えは直ぐに出た。 「あぁ。お化け屋敷のことね」 待っていましたとチェイルは太ももを叩く。 「それだよ。やっと親方に都合をつけてもらって、今日は時間がもらえたんだよ」 「へ〜。あの厳しい親方から、ねぇ」 他の子供たちもチェイルから何度も愚痴を聞かされているため、似たような反応を見せている。 「という事で早速行くぞ!」 チェイルの掛け声にあわせて子供たちは拳を空へと挙げる。 子供っぽくて馬鹿らしいと思いながら、子供たちの嬉しそうな顔とチェイルの自慢げな顔に流されるように、仕方なく、仕方なく私も手を挙げた。 お化け屋敷は町から歩いて15分ほどの距離にある森の中にある。 誰かが住んでいるという話は聞かないし、誰かがあの屋敷の入っていくのを見たという話も聞かない。 けれどその屋敷はずっとそこにあるし、時々その屋敷に人影が見えたり、夜に屋敷を見に行った子供が屋敷の中に明かりを見たという事もあった。 怖いもの見たさ、あるいは子供特有の好奇心。 その両方を満たすのにこのお化け屋敷はまさに格好の的で、子供たちはいつかこのお化け屋敷の正体を突き止めるのだと怯えながらも口々に話していた。 だからこうして森へ歩いていく間も子供たちはどうやってお化けを捕まえるのだとか、お化けに見つかったらどうやって逃げようとか、怖がりながらも興奮していて、誰も彼もが仲間と話をしている。 お化けを捕まえる為に空の粉袋を用意している少年。 お化けを退治する為に真っ直ぐな棒を振り、騎士の様に声を上げる少年。 可愛らしい所では、手鏡を持って来ている少女もいる。 どうやらこの少女は「怖いお化けが自分の姿を見て怖くなって逃げ出す」のだと思っているらしい。 このメンバーの中でも一番年上な私はお化けを捕まえた後はどうしようかと相談を受けたり、お化けが出たら守ってあげるよと棒を持つ少年の強い意気込みを聞いたり、「お化けもやっぱり鏡に映る自分の姿を見たら怖いと思うのかな?」と不安そうにする少女の頭を撫でてやったりしてあげた。 実の所、私はチェイルが言う「お化け屋敷」の正体を知っている。 森にある屋敷はベルトラン家の別荘で、お化けの正体は時々場所を変えて楽しんでいる私の家族であったり、屋敷が荒れないように手入れをしている使用人だ。 夜目の効くヴァンパイアがなぜ明かりを灯すのかといえば、答えは簡単。 答えは「蝋燭の明かりに浮かび上がる自分の痴態を見てもらう(或いは見せ付ける)」ためなのだ。 普段は貴族としての誇りがどうとか、下等な種族がどうとか口にする私たちヴァンパイアだけど、新しい魔王様に代わってからは考え方が根本的に、その、性的欲求に正直すぎる。 恋人を持たない、前魔王時代から生きているヴァンパイアからすれば、もう少し誇りと慎みを持って欲しいと思うほど、予想外な事までしでかしてしまう。 私としては、まだ「夜中に空を飛びながら交わる男女」の噂が流れていない事に安堵しながらも、何時発覚してしまうのかと気になって仕方が無い。 ちなみに、前回の話で「夜にお化け屋敷に行こう」とチェイルが話していたのを無理やり止めたのは私だ。 理由は簡単。 どうして私が人間の友達に家族の痴態を披露しなければいけないのか。 おまけにその時に屋敷に居た家族が好色でいつも新たな刺激を欲しているアンデリス姉様であれば、享楽を共に楽しんでいるアンデッドの付き人達(&その夫や恋人その他)の輪の中に子供たちを放り込みかねない、いえ、必ず放り込む。 私もこの子達が同族となり屋敷で住まうようになればとても嬉しいし喜ばしい事ではあるけれど、それならば私の手で同族にしてあげたい。 いえ、そもそもこの子たちにも親がいる。 親のいない子はいるけれど、親の居る子にとっては親と引き離す事になってしまう。 親ともども面倒を見る事は十分可能だけれど、それはしてはいけないこと。 町の人たちは魔物を嫌っている。 恐れている。 こうして子供たちが外に出られるのも、ここ数年はこの辺り一帯に殆ど魔物が現れないと言う事、そして私が魔物避けのアミュレットを持っているから。 お陰で町の人たちは安心して暮らしているし、魔物があまり出ないから商人もよく馬車を走らせてくるので町は今まで以上に賑わうようになった。 そのどちらも、私が他の魔物たちを牽制しているからだけど、その事は私以外には付き人のバルパしか知らないし、知らせる気も無い。 気づけば私の腰ほどまでしか背丈が伸びていない幼い兄妹に挟まれるように手をつなぎながら歩いていた私は、目的地に着いた事を知る。 この辺りは平地の所々に木が生えている、どこにでもある平原。 そして不自然なほど木が密集して生えている森。 密度の高い葉の屋根に覆われていて、森の奥は薄暗い。 魔物であり、夜に属するヴァンパイアである私には心地よい暗がりでも、人間の子供たちには恐ろしいみたいで、両脇の兄妹はぎゅっと私の手を強く握る。 他の子供たちもごくりとツバを飲み込むなど、緊張感が高まっている。 「みんな、準備はいいな?」 念を押すチェイルの顔にも悪戯っぽさは無くて、彼の顔を見て、そういえばお化け屋敷に向かうのだったと思い出す。 余りにも他の皆が緊張しているので、私は思わず噴出してしまう。 皆は驚いて私のほうを振り向き、チェイルは不機嫌そうに眉を顰める。 「何だよ、ルル。そんなにおかしいかよ」 「ええ。だってまだお化け屋敷の前にも立っていないのに、もうそんなに緊張しているんだもの。それじゃあお化け屋敷の目の前に立ったら震えて足が動かなくなってしまうんじゃないの?」 「な、そ、そんなことあるもんか!」 「大丈夫よ。お化けは夜にしか出ないものでしょう。明るい昼の内に入って、日が暮れる前に森を出れば問題ないわよ」 それに、と私は付け足して棒を手に直立している勇敢な小さい騎士を顎で示す。 「こわいお化けはやっつけてくれるわよ。でしょう?」 「お、おぅ!」 慌てて棒を振る少年を見るとチェイルは緊張がほぐれたみたいで、大きなため息をつく。 「あのなぁ。そんなへっぴり越しで倒せるわけ無いだろ」 「だ、だったら僕が捕まえてやるんだ!」 今度は粉袋を持った少年が何かを捕まえるように袋を動かす。 他にもお化け対策をしている少年少女が、それなら自分が、と主張し始める。 「どう? これでも怖いの?」 あえて挑発するように声音を上げる。 「む。怖くなんかあるもんか。ほら、みんな、いくぞ!」 予想通り不機嫌そうに眉をしかめたチェイルが声を上げて拳を挙げる。 「おぉー!」 他の皆もそれに合わせて拳や手にした物を挙げる。 「じゃ、行きましょ」 一人、私だけは参加しないで手を繋いだ兄妹と共に森の中へ入る。 「お、おい! 抜け駆けするんじゃない!」 慌ててチェイルが森へと走ってきて、他の子供たちもチェイルの後を追うようにやってきた。 太陽の光を遮る深い森に、その屋敷はある。 私の母様が定期的に人の血を吸える様にと町の近くに造った屋敷は貴族の趣味が全面に現れていて、高い屋根と黒い石壁が威圧的で、見る者に畏怖を、侵入者に威圧を、来訪者に権威を見せ付けている。 森の中でもずっと繋いだままだった手が、さらにきつく握り締められる。 「着いたね。それじゃ、入る?」 この屋敷には侵入者を拒む石の壁も高い門もない。 入りたいならどうぞ。 その代わり、二度と出られはしないけれど。 これが昔の母様の口癖。 誰も返事をしない。 チェイルは私の声にびくりと背を震わせて、じっと私を見ている。 「まぁ入るのは無理だと思うけど」 「何で、そう思うんだ」 緊張でかすれた声に、私は人間が魔物を恐れているのだと知る。 これが人間と魔物の距離なのだと再認識する。 「だって、普通屋敷には鍵が付いているでしょ。持ち主が誰か知らないけど、留守にしているなら鍵位かけるに決まっているじゃない」 「そ、そうか」 「なんなら私が確かめてこようか」 このままだと何時まで経っても屋敷の前から動けないんじゃないかと思い、私は繋いだ兄の手を妹の手に導いて、二人から手を離す。 幼い少年は不安そうな顔をしながらも怯える妹の手をしっかりと握る。 「お、おい」 「ちょっと見てくるね」 屋敷の外観に怯えるみんなを置いて私は屋敷の入り口まで歩いていく。 大きな屋敷に見合った、威圧感のある大きな木製の扉。 母様の趣味で特別に用意した鉛のドアノブを掴み、ひねる。 小さな金属音と共にドアノブは回る。 「え?」 ドアを開ける時の習慣で手を引くと、重い木製の扉がきしんだ音を立てて少しずつ開く。 背後のざわつきを感じながら、私は内心で舌打ちをする。 使用人が掃除に来る時はいつもドアに鍵を閉めさせるよう注意させている。 仮にも貴族であるヴァンパイアの使用人。 鍵のかけ忘れは無い。 つまり。 あの色欲まみれの馬鹿姉が日も高いうちから楽しんでいると言う事であり、しかも鍵が開いていると言う事は、母様の口癖を実践させているのだろうと当たりが付いてしまった。 「あの、色欲馬鹿姉ぇ……!」 思わずドアノブをきつく握り締めてしまう。 先日、飼っていた若い男がインキュバスとなり同族として扱える様になってからは2人以上の交わりは減ったと聞いていたのに、この頃は大人数での交わりを眺めながら自分たちの痴態を見てもらう事を好むようになっていて、そしてよりにもよって母様の別荘でも同じ事をしているなどとは、呆れて物も言えないばかりかむしろ溶岩にも似た怒りが湧き上がるほど。 今度見かけた時はその色欲が生み出す弊害を物理的に思い知らせなければいけないのかもしれない。 「鍵は開いているみたいね。ただ、中に入るのはまた今度にした方がいいかも。誰かがいるって事は、中の人に怒られるかもしれないから」 皆を中に入れない為の言い訳を口にしながら振り向く。 相変わらずみんなの顔は恐怖で引きつっている。 「大丈夫よ。中をちょっと見てみたけど、誰もいないわよ」 「いや、そうかもしれないけど。ルル。おまえ、どうしたんだ?」 「何が?」 「いや、さっき滅茶苦茶怖かったんだけど。マジで」 「え、あー、えっと、わたしも私になりに気合を入れていたのよ」 自分でもどうかと思うほどいい加減な言い訳。 「じゃ、帰るわよ」 開いたドアを閉め直す。 でもみんなの視線はドアに集中している。 「何? ドアには何もなかったわよ」 「本当か? それ、潰れているよな」 「潰れているって何が、……」 チェイルが指差した先には、鉛色をしたドアノブが愉快なほど変形していた。 「はぁー。今日は失敗しちゃったよ」 私は部屋に戻るなり服を脱ぎながらぼやく。 あの後、ドアノブが妙に柔らかかったとか苦しすぎる言い訳をしながら皆を引き摺るように森を抜け出した。 まさか森に日光がさえぎられているお陰で、ヴァンパイアとしての筋力が復活しているだなんて思っていなかった。 「まぁ、みんな何も聞いて来なかったからよかったけど」 私は服を脱ぐ手を止める。 皆の怯えるような視線を思い出した。 魔物であるとバレてしまったのかと思ったけど、森を出た後にそれが思い過ごしだとわかった。 「お陰で私は怪力女に昇格したけどね。まったく、どこの世界にこの細腕で金属を握りつぶせる人間がいるのよ」 皆が怯えていたのは、ドアの前に立っていた私が「なぜか物凄く怒っていた」からだとか。 チェイルは私が「どうして女である私が皆を代表して一番怖い思いをしなくちゃいけないのだろう。コレは男であるチェイルの仕事だろう」という理由で怒っていたのだと勘違いしていたみたいで、森を出るとしきりに謝っていた。 他のみんなも同じ事を思っていたみたいで、みんなして謝っていた。 「そんなに怖かったのかな。私って」 「ルリルファーシアお嬢様の癇癪はベルトラン家の三大禁忌の一つ」 「ちょっと、何その不名誉な称号」 「使用人仲間ではもっぱらの噂」 「あんたたち、普段どんな話をしているの」 「使用人の秘密」 「何よそれ」 服を脱いだ端から淡々と服を畳んでいくバルパは基本的に答えたくない時は命令しない限り絶対に内容を教えてくれない。 私もわざわざ命令してまで聞きだしたくない。 「それにしても。あの色欲姉様には本当にどうにかしてやらないと」 「アンデリスお嬢様は定期的、別荘で絡んでます」 「ええ、今日はお陰で苦労したわよ。バルパ、あの色欲姉様の別荘でのスケジュール、ちょっと抑えておいて」 「畏まりました」 いつもの様に町娘に変装して町に繰り出す。 今日は昼は軽食店、夜は酒場を経営するお店で働いている。 手には金属製のトレイ、白いエプロン。 店の娘は共通して来ている茶系統で統一された服装。 「はい、ご注文の川魚のムニエル、お待ちどうさまっ」 「ありがとー。いつもルルちゃんの笑顔に俺は救われているよ」 「またまた、店の若い娘には皆に言っているんでしょ」 「そんな事ないって」 「はいはい。他にお客さん待たせちゃっているから、また後でね」 昼でもエール酒を飲む人は多いので、開いた木製のコップに樽から小麦色のエール酒を注ぐ。 白い泡がコップから溢れるギリギリで止める事にも慣れた。 「ありがとよ。ほら、ルルちゃんもどうだい?」 「生憎だけど酔って変な事をされたら敵わないから。昼間っからお酒飲んでいていいの?」 「いいんだよ。馬車を走らせるのが仕事なら、飲んで騒ぐのも仕事だ」 「そして若い娘は愛想を振りまくのが仕事。はい、これでいい?」 最初は馴れ馴れしすぎる態度に一々突っかかっていたけど、今では軽く流せるようになった。 今では屋敷とは全く別の自分になっている証拠なのだと、逆に会話を楽しめるほどになっている。 「おやじさーん。追加オーダー」 「あいよ」 空の皿を厨房担当の娘に渡して、新たな料理を受け取る。 料理を受け取るとテーブルで騒いでいるお客さんや料理を運んでいるほかの娘にぶつからないように、そして手早くテーブルの間を抜けて注文した人に料理を届ける。 通り過ぎる際に声をかけられたら軽く返事を返す。 最近は夜も仕事をしていて、客が少ない時間帯なら向かいの席に座ってご相伴を頂く時もある。 ここで働くようになってからもう半年が経つ。 定期的にやってくる商人さんは名前は勿論のこと、どんな商品を扱っているのかも知っている。 今回はニシンが活きのいいニシンが大漁だったので、荷台に詰めるだけ詰め込んで誰よりも早く町を出て魚料理の店が多い町にニシンを売ったら、笑い転げるほど儲かったとか。 やっと頑固なパン屋の親父を口説き落として有名なパン屋のパンを他の町へ売り出す商売にこぎつけたのだとか。 酒が入ると誰でも口が軽くなるし、自慢話ならなおのこと口が軽くなる。 それが若い娘相手ならエール酒の泡の様に溢れ出んばかりに様々な自慢話を出してくる。 私はこの店で働いている娘の中でもとびきり可愛いのだとか。 気づけば黒い鼻髭が自慢のオヤジさんが私の事を看板娘だと宣伝しているみたい。 お陰で一時期は私を妬んだ他の娘、特に私の前の看板娘だった娘が嫌がらせをしてきたけど、今ではそれも落ち着いてみんなと仲良く出来ている。 「どーしたの。ぼーっとしちゃってさ」 「ん、ちょっと色々思い出しててね」 ちょうど昼食時が過ぎて客足が減った頃、その当の本人に声をかけられる。 「貴女とはひと悶着あったなぁ、とか」 「ああ、ああ。あれは私の人生の中でも数少ない衝撃的な出来事だったよ」 「そう? ただ私が一方的に啖呵を切っただけでしょ」 「効いたよぉ。迫力もあったけど、あの言葉は効いたよ。ごついおっさんの平手より効いた」 ニィ、と含みのある笑みを浮かべて彼女は頬を撫でる。 詳しく話を聞いたわけじゃないのに、私はその光景を思い描けてしまった。 「何て言ったかな」 「はは。『私が気に入らないならやめても良いわよ。けど、誰かを追い出して1番になって、あなたはそれで嬉しいんだ。それなら私は貴女を、今後二度と尊敬しないわ』って。言われた時は凄く悔しくてさ」 「それで私の頬を張ったんだ」 「そうだよ。同じ位の強さで張り返されたけどね」 「当然。やられっぱなしなわけないでしょ」 あの時の痛みは今でも思い出せる。 ただの人間に顔を叩かれた。 怒りのあまり顔を張り飛ばし返して、自分が何を思って彼女の頬を張ったのかを思い出し固まってしまった。 「あの夜は感情がぐちゃぐちゃになって眠れなかったわよ」 「私もよ。そして翌日になったら」 「私もルルも、お互い酷い顔だったわよね」 看板娘が二人とも酷い有様になってしまい、オヤジさんと常連の客が悲鳴を上げた事を思い出し二人して笑ってしまう。 「で、結局の所は店の看板を二つ用意したんだよね」 「ええ、そうね。『この店の看板は二つあります』ってね」 私たち二人の喧嘩をオヤジさんが見ていたのか、それとも翌日の険悪さに怯えたのか、喧嘩をした翌々日には店の看板がもう一枚用意されていた。 「あの時のオヤジさんの顔ったら、ねぇ」 「ふふ。笑ってはいけないわよ。オヤジさん、アレから数日は帳簿と売上げをにらめっこしていたって話よ」 「あらあらぁ。でもいいじゃない。それから売上げも上がったのだから」 「そうね。と言う事は、私たちは売上げに貢献したって事ね」 「ふふ。お給料、上げてもらうの忘れてたわね」 「そういえば私も」 「ルルったら、私のマネしちゃ駄目でしょ」 「いいじゃない」 本格的に交渉しようかと話をしていると、厨房の方から大きな咳払いが聞こえてきた。 「あらあら」 「困ったわね」 私と彼女は顔を見合わせて笑ってしまった。 私の屋敷は本当に広い。 町に比べれば狭くて小さいけれど、建物としてみるならとても大きい。 ヴァンパイアの脚力で駆けても端から端まで走るのに時間がかかる、と言えばわかるだろうか。 「まったく。嫌になるわね」 私は風で乱れた髪を手櫛で整える。 抵抗無く指を滑る髪は絹の滑らかさと呼ぶに相応しいが、私はどうにもこの柔らかな髪が昔から苦手だった。 重力に逆らわず真っ直ぐ下りる髪は人形の様で、屋敷の堅苦しさを象徴するようで息が詰まる。 鏡に映る姿を見ても同じ。 綺麗な姿は飾られる人形と同じ。 昔も今も、誰かから糧を得なければ生きていけないと言うのに、誇りが高いからと他人を見下している。 高い場所に飾られた人形になりたくない。 人を知ろうと考え、どう人に化けようかと悩み、人を調べていた。 けれど私も誇りを第一とするヴァンパイアの一人。 人間を知る事にかけては問題が無くても、人の様に過ごし人と共に過ごすことに強い抵抗があり、書物と遠目に見る事でしか人を知ろうとしなかった。 魔王が代替わりをして情況が好転した。 ヴァンパイアの人間に対する態度が変わった。 私の人間に対する考え方も変わった。 「けれど母様はどうして綺麗に身飾ろうとするのかしらね」 私は人形でいるつもりは無い。 幼い頃から抱いていた思いと人間に対する好奇心が私を町へといざなった。 人間については良く知っていたから、人間に溶け込む事は容易かった。 ただ、自分を表に出せるようになるまで時間はかかったけれど。 「女性が身を飾る事は、呼吸をする事と同じですわよ」 部屋へ戻ろうと歩き出そうと足を踏み出すと、背後から聞きなれた、今はあまり聞きたくない声が聞こえた。 「貴女は昔から自分を輝かせようとしなかったけれど、この頃の無頓着さは目に余るわ」 「母様。私の髪を香油を塗った櫛で梳かないで戴けますか?」 「いいじゃない。この香油、よい香りでしょう。歩き通り過ぎるだけで異性をひきつける、虜の果実の皮脂を使った香油よ」 私は歩き逃れようとするけれど、母様は髪を梳きながら同じ速度で歩いてついてくる。 歩いて髪が揺れるたびに油分を含んだ甘ったるい香りが鼻腔をくすぐる。 確かに、この匂いなら異性をひきつけるには十分すぎるだろう。 ただでさえ魔物の体臭は異性同性を問わずひきつける。 虜の果実を使った香油なら、町を歩くだけで町中の男たちを虜に出来るだろう。 「そのような香油は男性経験の長いアルベルト、いえ、アルベティア姉様に差し上げては如何ですか」 「この香油はアルベティアから教えてもらったのですよ」 「……本当に、ヴァンパイアも変われば変わるものですね」 武芸を嗜む凛々しくも同族から注目の的であった嘗ての「お兄様」を思い起こす。 「貴女もアルベティアを見習い、もう少し女性らしさに磨きをかけなさい」 「考えて、」 これ以上香油が染み付いては町に行けなくなる。 「おきます、わ!」 私は一瞬沈む様に踏み込み、再び全力で赤絨毯の廊下を走り出した。 「あ、待ちなさい! この腕白娘!」 「ルル、なんかいい匂いしない?」 「知り合いのおじさんに新作の香油を少しだけつけさせてもらったのよ」 裏路地でいつもの様に子供たちと遊んでいた時と同じ言い訳を口にする。 「へー。ルルってさ、時々どこのお嬢様?って思う時あるんだよね。ココに来た頃なんて特にそうだったよ」 「躾けの厳しい家だったからね」 「そうなんだ?」 鉄製のトレイをカウンターに置いて、おやじさんが差し入れてくれたレモンティーを口にする。 「ほら、今も。紅茶を飲む時の何気ない動きっていうのかな。全然私たちと違うんだよ」 「親に感謝って所ね。玉の輿には乗れるかな?」 「あはは。ルルだったら何時でも乗れるって。でしょ、マスター」 「こらこら。おやじさんも答えなくっていいから」 「けどさ。今日はどうしたの? 妙にめかしこんじゃって」 「どこがよ。何時も通りよ」 「髪。丁寧にブラッシングしたでしょ」 つぃと髪を突付く仕草に自分の頭を手で触る。 町に来るまでに髪を洗い直して乱暴にかき混ぜたのに、いつもよりも髪が大人しくなっている。 もしかすると虜の香油の効果がまだ残っているのかもしれない。 「あ、いらっしゃい。何時も通りホットコーヒーとサンドウィッチね」 そろそろ来る頃だろうと辺りをつけていたおやじさんが用意したコーヒーとサンドウィッチをトレイに乗せて運ぶ。 「ありがと。あれ、ルルちゃん。今日は一段と綺麗じゃないか。もしかしてデートかい?」 「違うったら。香油のお陰でしょ」 「いやいやー、そのさらっとした髪がまたいいね」 「そう?」 人形らしく大人しい髪は私のコンプレックス。 気になって髪を手でかき上げると、髪は指を滑りさらりと流れ落ちる。 「……へぇ。本当に、今日はどうしたんだい?」 「何でもないわよ。ほら、コーヒー、冷めないうちにどうぞ」 「お、おぅ」 いつも顔を見ているおじさんのうろたえ振りに香油の効果を感じる。 「おやじさん。今日、ちょっと悪いけど早めにあがるね」 「あ、やっぱりデート?」 「違うったら」 「またまたー。相手は誰? 金物商人をしているフレッズさん? 自警団に勤めているナイフスさん? それとも、いつも一緒にいるチェイルくん?」 「さぁ誰でしょう〜って、だからそういうのじゃないの。しつこいわよ」 私はもうひとりの看板娘の悪戯っぽい笑顔に指を向け、可愛らしいその鼻先を突付いてやった。 暗い寝室。 室内にいるのは私と使用人のバルパだけ。 ヴァンパイアは夜に生きる魔物。 夜は生き物が眠る静かな時間帯で、夜に生きるヴァンパイアもやはり眠る様に静か。 だからヴァンパイアの屋敷は音が聞こえない。 小さな音、かすかな話し声も、分厚いカーテンと起毛の高い絨毯が吸い尽くしてしまう。 町に行く時は朝に起きて夕方に戻ってくる。 けれど家族にその事を知られてはいけないから夜も起きている。 人と魔物の二重生活は辛い。 主に眠気の面で。 幸いな事に母様は専用の奴隷と仲良く過ごすし、父様……もう一人の母様はやはりお気に入りの奴隷夫婦を見て楽しみながら過ごしている。 他の家族も似たような物で、二重生活と言ってもベッドに寝転んでいれば事足りる。 「ねぇバルパ」 「はい。何でしょうか」 「バルパは人間になりたいと思ったことはある?」 バルパは体の半分近くが骨で構成されているスケルトン。 つまり元々は人間で、死後にアンデッドとして蘇った部類の魔物。 定期的にヴァンパイア用の奴隷から精を得ていて、私の世話をする時はいつも意識が明瞭になっている。 アンデッドは生前の記憶を持っていて、意識が明瞭になっている間は時に人間の様に話し行動する事もあるという。 私の問いかけに考える様に目を閉じ、間を置いてバルパが目を開く。 「ありません」 「何故? 貴女は元人間でしょう」 「はい。そして元ここの奴隷です」 「そう言えばそうだったわね」 昔のヴァンパイアは血を吸いすぎたり、戯れで人を殺してしまっていた。 バルパはその中の一人が、スケルトンとして蘇り、死後もヴァンパイアの奴隷として働かされている。 「人間に戻っても、また死ぬ思いをするから?」 死を経験した事の無い私は思いつきで問いかけ、すぐに不注意な質問だと気づく。 「ごめんなさい。死んだ時の事なんて思い出したくないでしょうに」 いいえ、とバルパが首を横に振る。 「人に戻るつもりが無い理由は、死が原因ではありません」 「では、どうして?」 ベッドから体を起こし座りなおす。 何時も通り部屋の隅で直立しているバルパの表情は何時も通りで、考えていることがわからない。 盟約? 契約? 幾つかの考えが浮かぶけれど、そのどれもが彼女に使用人を強制するものばかり。 私の疑問が落ち着くのを待つように時間を置いてから、バルパが答えを口にする。 「私が貴女の使用人だからです」 聞いてすぐその意味が理解できなかった。 私の使用人だからどうして人にならないのか。 人間ではヴァンパイアの誇りが邪魔をするから、と思ってその考えを打ち消す。 女性であれば同族にし、男性であっても交わりの末にインキュバスとして同族に迎えられる。 事実、母様たちも元奴隷を使用人として、従者としてつき従えている。 そうして長く時を刻むパートナーとして傍に置く。 「長く、時を?」 頭の中に引っかかる単語、フレーズ。 スケルトンである彼女は死が無い。 ヴァンパイアである私もまた寿命による死は存在していないに等しい。 少なくとも寿命で死んだヴァンパイアを私は知らない。 まさかとは思うけれど。 「私の傍に、ずっと仕えるため?」 浮かんだ答えを言葉に乗せる。 バルパは、なぜか私の疑問に対する答えなかった。 ただ、静かに、ほんのうっすらと笑みを浮かべていた。 「おいちゃん、ほんっとにルルちゃんと会うのが楽しみで楽しみで、仕方なかったんだよぉ」 「はいはい。私も嬉しいから、大人しくしてて。子供じゃないんだから」 顔が真っ赤になるほど酒に酔った人をあしらうのは楽じゃない。 慣れてきたと言っても、理屈の通じない大きな子供を相手にしながらも大人相手なので失礼のない対応をとらないといけない。 かといって下手に出れば幾らでも図に乗るし、他のお客さんの迷惑にもなる。 今もこうして何時会ったか覚えていないほど久しぶりのおじさんに両手を掴まれて、対処に困っている。 重い荷物を持ち上げてきた分厚い掌が、アルコール特有の熱でじわりと汗ばんでいる。 助けを求めて視線を巡らせても仕事仲間の子達は皆忙しくて視線が合うと申し訳なさそうに返してくれて、他の人は殺気の篭った視線を私の手を掴んだままのおじさんに向けている。 「イヤー、ルルちゃんは本当に優しい! おいちゃん、感動した!」 「あのー私は何も言ってないけど」 「わかるんだよ。おいちゃんは、わかるんだよ!」 「私にはまったくわからないんだけど?」 駄目だ、既に自分の世界に浸っている。 仕方ない、こういう手合いは少し痛い目を見てもらわないと。 怒鳴りつけて手を振り払い頬を張ってやろう。 そう思って息を吸う。 「あんた、いい加減に」 「いい加減にしなさいよ、この酔っ払い!」 私が怒鳴りつけるより早くおじさんはびしょぬれになった。 怒鳴り声の主はこの店で一番仲のいいもう一人の看板娘。 手にはお客さんのコップに水を注ぐ鉄製の水差し。 私はおじさんがびしょぬれになっているのを見ながらへたり込んでしまった。 「ここは皆に楽しんでもらうための店なのよ。あんた一人のための場所じゃないの。わかった? わかったらお金なんて要らないからとっとと荷物掴んで出て行きなさい!」 「ひゃ、ひ、ひぃぃぃ!!」 オーガもかくやとばかりの剣幕に怯えたおじさんは言葉どおり荷物を掴んで方法のていで店から逃げ去っていく。 おじさんの姿が見えなくなると、店中から大歓声と拍手が巻き起こった。 照れ笑いを浮かべながら応対している彼女が、へたり込んでいる私に手を差し出す。 けれど、それが不味かった。 私はおじさんの暑苦しい絡み酒に驚いたわけも無く、また彼女の剣幕に腰を抜かしたのでもない。 おじさんに叩きつけられた水の飛沫が私の顔や腕にかかってしまった。 冷たい水が頬に腕に触れた途端、私は体の奥から湧き上がる強い熱に力を奪われてしまっていたのだ。 ヴァンパイアは、流水を越えられない。 その弱点は魔王の代が変わってからも引き継がれている。 ヴァンパイアは、流水の快楽に耐えられない。 そして私は怯える目で彼女を見つめていた。 彼女が私に差し出した手は、水差しから零れた水で塗れていた。 「だ、だめ」 「もうだらしないなぁ。ほら、立って」 いま触れられたら声を上げてしまう。 それなのに、よりにもよって水で塗れた手で触れられてしまうなんて事があれば、私は、私は。 「はい。立ちなさいって」 「きゃ、ひゃぁあああああんんっっっ♪」 手を掴まれた瞬間、私は引き上げようと繋がれた手を振り解いて、イッてしまった。 脳髄は鈍器で殴られたようにチカチカと瞬き、体全体に絶頂の余韻が心地よく広がる。 「え、ちょっと、ルル?」 体に力が入らない。 ここで何をしていたかとかそんなことを思い出すのも面倒なほど、心地よい気だるさに身を委ねる。 「ルル、ルル!」 肩を揺すって焦る彼女の顔を見て、体に溢れた熱が少しずつ引いていき私は冷静さを取り戻していく。 彼女を見る。 目を見開いて今まで見た事が無いような顔をしている。 周りを見る。 他の人も驚いている。 そりゃ、そうよね。 触れられただけでイッてしまうなんて、そんなのは、普通じゃない。 「そういえば、聞いた事があるぞ。ヴァンパイアって魔物は真水に弱いんだって」 ヴァンパイア。 その名前を聞いて店内がざわつく。 それはそうでしょう。 この町から馬で1時間の距離にヴァンパイアの大きな大きな屋敷があるから、町に住む人も町へと訪れる人もみんな、その屋敷のヴァンパイアの事を知っている。 少しずつ、みんなの驚きの視線の質が変わっていく。 「ルル、あんた、まさか」 私の肩を揺すっていた手が小刻みに震えている。 私を心配していた目が、怯えに揺れている。 ようやく冷静さを取り戻した私は、楽しい楽しいお遊戯の時間が終わったのだと気づいた。 強張っている彼女の手を離して立ち上がる。 「ごめんなさいね」 私は彼女に、マスターに、周囲の人たちに対し、優雅に頭を下げる。 日は既に沈んでいる。 私は頭を上げると同時に、人間が目で追えないほどの速度で、絡み酒のおじさんよりも鮮やかに、素早く。 この慣れ親しんだ店から逃げ去った。 私が町から距離をとってもう半月も経つ。 町の人たちはいまごろなにをしているのだろう。 私が魔物だと知って、恐ろしいヴァンパイアだと知って、怯えてるのだろうか。 或いはみんなを欺いた私を憎んで、次に私が町へ訪れた時はいつでも殺せるように得物を研いでいるのだろうか。 あの一件以来、私はヴァンパイアの生活サイクルに戻っていた。 日が沈む頃に目を覚まし家族と共に月明かりの元で紅茶を飲み、見上げるほど高い本棚に囲まれた書斎の本をランプの明かりで読み、日が昇る頃に眠りに付く。 貴族たちのダンスパーティに混ざって踊る事もあったし、マーメイドの合唱団を招いて晩餐会を開いた事もあった。 いかにも貴族らしい生活を送る事で私は町の事を忘れようとしてきた。 けれど朝の日差しを見ると、罪悪感と後悔、そして他の暗い感情が沸きあがる。 私はそれら全てに蓋をするように布団を頭から被り、お化けに怯える人間の子供の様に震えながら静かな眠りを待つ。 夜が来れば考える時間を埋めるように没頭し、朝が来れば考える時間を消すように眠りにつく。 母様が何をしていようと、姉様が何をしていようと関係が無い。 私はただただ町のことを、町の人たちのことを忘れたい一心で時間を埋めていった。 さらに月日が経った。 バルパが心配そうな顔をする時があるけれど、何も言わない。 元々バルパは口数が少ない。 けれど私が塞ぎこむようになってからは本当に何も話さなくなってしまった。 原因はわかっている。 私が誰かとの会話を拒んでいるから。 バルパには申し訳ないと思っているけど、私はもう何もかもから逃げてしまいたかった。 沢山の本を読み、その合間を縫ってダンスを踊り歌を歌い、バイオリンを奏で談話室で魔界の話を聞いた。 チクタクチクタクと時計の針を刻むように、日々が過ぎていく。 時間が経てば経つほど皆が忘れていくだろうと思いながら、時間が経てば経つほど私の知っている人がいなくなることも知っている。 知っている人が気づいたらいなくなっている。 そう考えるだけで恐ろしくて、でも会いに行く事も怖い。 だから私は、ずっと部屋にこもり続け、屋敷から一歩も出なくなった。 今日もまた夜がやってきた。 満月の夜は明るく、ランプの明かりが無くても本が読める。 たまには屋敷の屋根に上り月明かりの元で本を読むのもいいかも知れない。 そう思うくらい外は明るくて、月は綺麗だった。 「……?」 でもおかしい。 満月は確か何日か前に見たはずだった。 確認すると月は満月どころが、下弦の三日月。 新月に程近い細く尖った月が私を見下ろしている。 空を見る私を嘲るような、薄く尖った月。 言い知れぬ不吉な予感を感じて月から視線を下ろす。 その時になって私は気づいた。 窓の外が明るいのは空が明るかったからではなく。 地上が明るかったのだ。 「え、うそ」 明かりの正体は松明。 人の頭ほどに燃え上がる炎が遠目にもわかる。 夜目の効くヴァンパイアの目には燃え上がる黒い煙も見て取れる。 そして、松明は一つではなかった。 2つ、3つ、4つ。 10、15、20。 途中から数える事を放棄したくなるほど、膨大な数の松明の炎が町からこの屋敷へと続いている。 何をしにやってくるのか。 簡単な事だ。 準備が終わったからヴァンパイアを狩りに来たのだ。 夜のヴァンパイアに勝てる人間などいるはずが無い。 けれど人々は松明を手にやってくる。 炎に照り返される顔には厳しい仮面がつけられていて、表情をうかがい知る事は出来ない。 手には金具のついた農具。 古い本に書いてあった、魔物狩りの様相が、現実となって今私の目に映っている。 戦って勝つことは容易い。 あれだけの数がいても私一人で、片腕であしらう事が出来る。 でも、あの人達は町の人たち。 私に出来るの? 彼らに手を出す事が出来るの? そして私の家族がもし出てきたらどうなるか。 貴族であるヴァンパイアは下等な人間など意にも介せず、薙ぎ払うだろう。 寡兵を出せば終わる。 使用人たちだけでも片付ける事が出来るだろう。 それを私はただ眺めるのだろうか。 町の人たちを虐殺する家族を、私は止めるのだろうか。 何故、何の為に。 もう私はあの街には帰れない。 未練はあるけれど、届かない陽炎のような物。 私には縁がなくなった場所のことを考えていても仕方が無い。 松明の明かりは少しずつ近付いてくる。 私は窓に背を向けて布団を頭から被り、ベッドの上で丸くなる。 けれど起きたばかりの体は睡眠を欲していない。 何より、瞼の裏に焼きついた火と仮面たちが、私を追い詰める。 逃げても逃げても無駄なのだと、物言わぬ仮面たちが私を追い詰めていく。 窓の外が明るい。 静寂に支配された屋敷。 外では燃え上がる炎の音と木枝の爆ぜる音。 窓から見下ろさなくてもわかる。 屋敷を町の人たちが包囲している。 松明が燃え上がる音以外は何も聞こえない静かな夜。 私はこのまま朝が来るのを待つか、それとも意を決して外に出るべきか悩んでいた。 太陽はいずれ昇る。 朝になり大勢の町の人がいなくなったとあっては旅の商人たちは驚くだろうし、もしかすると泥棒が入るかもしれない。 取り囲んでいる人たちの半分は自分たちの仕事があるはずだし、パン屋や肉屋の仕入れを怠ればここに来ていない人達も困るだろう。 町の人たちが何時までも屋敷を包囲していられない理由を考えて、私は少しだけおかしくなって吹きだす。 ヴァンパイアを恐れてとか、空腹を感じてではなく、余りにも現実的過ぎる理由だ。 所帯じみているとも言える。 「はは。何だか笑えて来た」 言葉に出すと気分が楽になった。 今すぐ布団から出ていけるほどではないけれど、少しだけいつもの自分が戻ってきた。 「そういえば。今の私の姿ってどう映っているんだろう」 心の余裕が生まれてから改めて自分の状態の事を思い出す。 布団を頭から被ってベッドの上で丸くなっている。 その姿を思い描いて、先ほどまでとは別の意味で頭を抱えて丸くなってしまう。 「うわぁ。これはひどい。こんな所を誰かに見られたら」 「ご心配は無用です。お嬢様の有様を見ている人物はいません」 「……」 「嘘ではありません。私は基本的に睡眠を必要としません。そして私はお嬢様が寝ている間も、部屋にいない間も、誰もこの部屋に入っていないと確信を持ってお答えできます」 「……、そう。頼もしいわね」 布団の隙間から覗き見た私の使用人は、いつもよりも誇らしげに、いつもの定位置に立っていた。 そして私は今までの醜態を一部始終余すことなく見られていた事を知って、真っ赤になった顔を隠すために布団を頭から被りなおした。 ドアのノックが聞こえたのは、ちょうどその後。 事務的な音が3回。 不吉な予感がして、私は先ほどまでの恥ずかしさが吹き飛んでしまう。 ベッドから体を起こす。 「どうぞ」 「失礼するわね」 バルパがドアを開けると、その先に私と似た金色の髪を腰まで下ろしている若い女性が立っていた。 背丈も見た目の年齢も私と同じか少し年下の彼女は部屋に入らず、下ろした手を体の前で組んで部屋の中の私を見ている。 「何か御用ですか、お母様」 手櫛で乱れた髪を整えて、私はベッドに腰掛ける。 母様はいつも微笑んでいる。 それは今も同じ。 けれど不吉な予感が教会の鐘の様に私の頭の中で響き続ける。 「外にいらっしゃる方々は、あなたのお友達?」 心臓に白木の杭を打たれたような気がした。 母様は私が町に出かけている事を、部屋に篭るようになった理由を、全ての事情を知っているのではないかと考えてしまう。 私が返事を返せないでいる間も、母様の微笑みは変わらない。 何かを言わなければいけない。 しかし何を言えばいいのか。 ええ、そうです、と肯定すればいいのか。 何を仰っているのかわかりません、と知らない振りをすれば良いのか。 いいえ、邪魔ですから片付けてまいります、と微笑んで屋敷の外に出ればいいのか。 次にとるべき行動の選択肢が浮かんでくるが、どの選択肢が最良かわからない。 ヴァンパイアは人間を奴隷程度にしか考えておらず。 人間は武装して屋敷を取り囲んでいる。 この状況下で、私は何をすればいいのだろう。 「丁重にお迎えしなければいけませんね。寝巻きのままでは失礼でしょうから、着替えてからロビーにまで下りていらっしゃい」 母様は散歩に誘う様に笑って、去っていく。 私は出遅れてしまった。 先手を取られた。 一人で出向けば誤魔化しようもあったのに、今の話し振りでは母様も一緒に町の人たちを迎える事になる。 母様がもし「お掃除しなさい」と言えば、私は屋敷を取り囲む人間を「掃除」しなければいけない。 「どうする。どうすれば、いい」 折角整えた髪がくしゃくしゃになるほど、頭を抱える。 まだ間に合う。 今は夜。 私が窓から飛び降りてヴァンパイアの暴力を示し追い払えば、怪我人を一人も出さずに終わらせる事が出来る。 そして人々がこの屋敷にくることはなくなり、そして私は町に姿を現すこともなくなる。 2度と、人とヴァンパイアは交わらなくなる。 町の人たちの命と、人と私の交流、どちらを優先するべきか。 「はは、簡単な事じゃない」 天秤にかけると直ぐに答えが出た。 「バルパ、着替えを」 「……畏まりました」 バルパは私の意図を察し、ヴァンパイアとしての服を取り出す。 屋敷でもあまり着る事がない正装のドレス。 上位のアラクネが出した糸で作られている生地は肌に心地よく、袖を通せばさらりと滑る。 足首まで届くスカートの裾。 横髪を編みこみ纏め、後ろ髪をブローチで束ねる。 姿見に映る自分の姿を見る。 どこに出してもおかしくない、ヴァンパイアの令嬢の姿が映っている。 「さぁ、参りましょう。ヴァンパイアの恐ろしさを人間たちに知らしめましょう」 軽く跳ねて窓枠に降り立つ。 後は窓を開けて下りるだけ。 「お嬢様。どちらへ行かれるのですか」 薄いカーテンに手をかけた所で、予想もしない声が背中から聞こえた。 バルパは私に声をかけられるまで、声を出す事は殆どない。 驚きながらも振り向かず、私は同じポーズのまま窓の外を見下ろす。 「外よ。何時も通り、窓から下りて外に出るのよ」 「何の為にですか」 「……え?」 今度こそ、私は驚きのあまり彼女を振り向く。 部屋の中央、いつもの定位置に立っているバルパは無表情ながらに意を決した顔をしている。 頭蓋で構成された顔の一部、暗い眼孔の奥に光る赤が私を捉えている。 「何の為に外に出られるのですか」 使用人は主に忠言する事はあっても、意図を問うてはならない。 主の影となり主を支えるのであって、主に対し意見を言ってはならない。 それら使用人としてのルールを全て承知しているはずのパルパなのに、いえだからこそ今のバルパの問いかけが信じられない。 「私に、意見をするというの?」 無礼な使用人を叱責するのではなく、驚きと微かな恐れを抱きながら問い直す。 ……恐れている? 私が、何を? 胸の内側で泡の様に沸いた疑問の答えを探す。 「はい。外出される前に、まず私の問いにお答えください」 使用人が主の行動を制限して、主に対し命じる。 長年付き添ってきた使用人の変貌ぶりに私は戸惑うばかり。 けれど事は急を要する事。 大きく息を吸い、無理やり落ち着きを取り戻す。 「屋敷を取り囲む人間たちを片付けるのよ。私の知っている人たちだから、私が出迎えをするのよ」 「であれば、玄関からどうぞ。ベルトラン家の娘ともあろうものが、窓から客を出迎えるなどあってはなりません」 「バルパ。あなた、何を言っているのかわかっているの?」 初めてバルパに注意された。 従順だった使用人。 その彼女に私は怒りを込めて睨みつける。 「お嬢様こそ、何をなされるおつもりか正しく理解されていますか?」 「ええ、理解しているわよ。ヴァンパイアとして、魔物として、人間を片付ける。それだけよ?」 「町の方々とはもう会われないのですか」 「っ、ええ、会わない、わよ!」 考えたくもない事を言葉にされ、私は怒りに声を震わせる。 「ならどうするっていうの? 母様が、ヴァンパイアが、町の人たちに危害を加えるのとただただ眺めろって言うの?」 お願い、これ以上私を追い詰めないで欲しい。 言葉に出せない思いを、心脳で付け足す。 大事な使用人に手を出したくない思いから、私は祈る様に声を絞り出す。 「人と魔物は相容れない存在。今までも、そしてこれからもよ」 話はこれで終わりにする。 その意思表明として私は窓に向き直る。 「お嬢様。ロビーで奥様がお待ちです」 「母様は人間を片付けた後、私が玄関から入って事情を説明するわ」 蝶番を開けて窓に手をかける。 もう、迷わない。 あとすこし力を込めれば窓は開き、後戻りが出来なくなる。 「では、お嬢様は必ず後悔されるでしょう」 私の手の動きが止まる。 怒りに任せてバルパを殴りつけようかと振り向く。 振り向いて、本日何度目かの驚きに硬直する。 私が見たのは、部屋を出ようとするバルパの背中だった。 「先にロビーでお待ちしております」 振り向きもせず、背中を向けたままバルパが言い放ち部屋の外へと出て行く。 「ちょっと、待ちなさい!」 ひと蹴りで窓から廊下へと降り立ち、部屋を出たばかりのバルパの手を掴む。 力を込めすぎて、バルパの骨の手にヒビが入る。 「お嬢様」 「何?」 「もう少し、奥様の事を信じてあげては如何ですか?」 「どういう事?」 今の騒動と私が母様を信じる事がどう関係するのだろう。 バルパは疑問に答えずに、手を繋いだ私を案内するように歩き出す。 手を引かれる形で私はバルパについていく。 「子を想わない母はいない。それだけです」 ロビーに下りると母様の他にも私の家族が集まっていた。 家族を誤魔化して町の人たちを追い払う作戦は、この時点で不可能になっていた。 「あらあら。バルパに手を引かれて来るなんて、何時振りの事かしら」 「さぁ。遠い昔の事ですからすっかり忘れてしまいましたわ、アンデリス姉様」 私は名前の部分を殊更強調して、家族に会釈をする。 「相変わらず、私の末の妹は気が強いわね。さ、お客様が貴女を待っているわよ。いってらっしゃい」 「ええ、母様」 「癇癪を起こすんじゃないよ、ルル」 「わかっていますわ、お父様」 からかう姉、心配する父、変わらずほほえむばかりの母。 それらの視線を受けて私は重く見上げる程大きな木製のドアを開ける。 外には片手に農具、片手に松明を持った人の群れ。 自分で全てを終わらせるおかしさからか、私は自然と微笑んでいた。 一番前に立っていたのは、茶色のベストを身につけたチェイルだった。 「ようこそ、ベルトラン家の屋敷へ。私はルリルファーシア=ディア=ベルトランと申します」 スカートの端を持ち上げて貴族らしく会釈する。 「皆様総出でお出でのようですが、どのようなご用件でしょうか」 町の人たちが息を呑む音が聞こえる。 夜のヴァンパイアは恐ろしい。 町が作られる前から伝え聞かされている昔話を思い出したのだろう。 私が一歩外に出るだけで、人々は波打つように反応する。 私はチェイルの前に立つ。 チェイルは顔が強張り、顔中から汗が吹き出ている。 「チェイル、今晩は。ご機嫌いかが?」 「あ、ああ、ご、ごきげんいい、ぞ」 血の気の引いた顔がぎこちなく動く。 「知っていたかしら。私はヴァンパイアなのよ。ふふ、昼間は人間とあまり変わらないから気づかなかったでしょう」 「あ、ああ、そうだな」 会話にならない会話。 私とチェイル以外は誰も言葉を発しない。 何度か私が話しかけ、チェイルが毎度同じ様な言葉を返す。 そんな時間稼ぎをしてから、私は喉元にナイフを突き出すように決定的な問いかけを彼に投げる。 「それで。今日は何をしに来たのかしら。たくさん、町の人たちが来ているみたいだけど」 視線を集まっている人々に投げかける。 誰も微動だにしていない。 居並ぶ顔の中に、私の元同僚の看板娘もいた。 「あ、あの、あの、さ」 「ええ、大丈夫よ。私はいつまでも待つから」 何なら朝まで。 そう付けたそうかと思うくらい、私は奇妙な落ち着きを保っていた。 「あ、そうだ、えっと、〜〜〜〜、あ、っとな」 何度も言いよどみ、逡巡するチェイル。 そして意を決してポケットに手を入れて何かを突き出してきた。 銀のナイフなら握りつぶそうと思って、突き出されたそれを見る。 松明の明かりに照らされたソレはキラキラと輝いているけれど、銀ではない。 金属ではあるけれど銀ではないそれは、新品の鍵の様に見えた。 「これは?」 意表を付かれた私は、ついその鍵に顔を近づける。 ワケがわからない。 この鍵は何の鍵なのだろう。 「う、うそつきめ! お、おまえ、おまえをこれから連行する! おとなしく、ついてこい!」 「それとこの鍵が何のつながりがあるの?」 突付いてみても金属の堅い質感が返って来るだけで、魔術的な仕掛けもない。 質問を重ねようとチェイルを見ると、チェイルの顔は真っ赤になっていた。 「こ、これはお前の牢獄の鍵だ! これからお前を牢獄に連れて行くんだよ!」 「牢屋の鍵は見た事あるわ。これは家の鍵でしょ。しかも多分、新築の」 ワケがわからない。 「あと。どうして顔を赤くしているのよ」 「っっっっ!!」 私に指摘されて慌てて顔を手で押さえるチェイル。 片方の手は鍵を突き出したまま。 つまり持っていた松明から手を離して顔を抑えている。 当然の理屈として松明は地面に落ち、運悪く火のついた部分がチェイルの足に当たる。 「うわっ、あつっ!」 慌てて飛びのきついた火を手で払う。 幸い、服についた火は直ぐに消えた。 「何しているのよあんた」 「あ〜〜、ちくしょう! とにかくお前を連行するからついてこい!」 「なんで?」 「うそつきのお前を閉じ込める為だよ!」 一度大きな失敗をしでかしたからか、チェイルはどもる事もなく怒鳴り続ける。 「説明がたりないわ。わけがわからない」 「あ〜〜〜、もう! うそつきのお前を捕まえて閉じ込めるって事で町の皆が協力してお前を閉じ込める為のでっかい家を建てたんだよ! で、お前を閉じ込めて監視するカンスとして俺が適任だって言うんで俺が鍵を持っているんだよ!」 「『カンス』じゃなくて『看守』でしょ」 突っ込みを入れてから、あれ?と奇妙な事に気づく。 「牢屋じゃなくて、家?」 「そうだよ! ほら、とっとと行くぞ!」 顔を真っ赤にしたチェイルが私の手を引く。 歩く先にいた人達は笑いながら、あるいは拍手をしている。 人垣が割れて、二人分の幅を持った道が作られた。 一人、状況に取り残された私は、助けを求めるように家族を振り向く。 私の家族は並んで立ったまま、笑って私に手を振っている。 バルパも、母様も。 この時になってようやく、私は気づいた。 母様もバルパも、こうなることを知っていたのだ。 バルパの必死の問いかけも、「後悔する」と言った理由も全てが繋がった。 後で覚えておきなさいよ。 声を出さずに私の大事な使用人に文句を言うと、彼女は控えめに笑って、はいと頷いた。 「それで、何時まで私はその牢獄ってやつにいなきゃいけないのよ」 「ずっとだ、ずっとだよ!」 「ずっとっていつまで」 「おれが死ぬまでずっとだ! だからこの鍵はお前が持っとけ!」 「ワケわからない。看守が囚人に牢屋の鍵を渡すなんて」 「町は忙しくって人手不足なんだよ! だからお前は囚人兼看守だ!」 「看守が二人? おまけに囚人が看守って。チェイル、あなた頭は大丈夫?」 「うるせぇ! いいから行くぞ!」 周りが囃し立てる中、私とチェイルは「看守が二人の家」という奇妙な牢屋へと歩いていく。 奇妙な居心地のよさと高揚感で、気づけば私は笑っていた。 「それにしても一つの牢獄を二人の看守で管理するなんて。まるで夫婦か恋人よね」 「げふっ、けほっ、けほ」 「チェイル。あなた、本当に大丈夫なの?」 大きくむせたチェイルと一際大きな笑い声が巻き起こった。 |
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「えーっと、拝啓、色欲バカ姉上。今日もまた空中変態はやめて欲しいです。次見かけたら銀の矢で打ち落とすのでそのつもりで居て下さい。なにこれ」
「ルリルファーシアお嬢様からの手紙です」 「まったく。誰があの「捕り物騒動」を仕立て上げたってわかってんのかしらねぇ」 「奥様と私とアンデリス色欲お嬢様と旦那様と、あと」 「あー、わかったわかった。みんなでやったっていうんでしょ。あれ、いま何か失礼な物言いが混ざっていなかった?」 「気のせいでしょう。それより今日も別宅へ行かれるのですか?」 「ええ。町の人たちも気に入っているみたいなのよ」 「……」 「あれ、いまの伝書鳩? 妹に何を連絡したの?」 「今日は雨が降りそうなのでお気をつけ下さい、と」 「あはは。それって血の雨?」 「さぁ、どうでしょう」 ----作者より ヴァンパイアは孤高の種族なので、人間とは仲良くしないのです(キリッ だからルルお嬢様、その怖い顔はやめてください、というか手に持っているそれは斧ですか? 「なによこれ。私が間抜けに思われるじゃない。訂正しなさい」 あの、斧の柄が握りつぶされているんですけど。 「心配しなさい。これが10秒後の貴方の姿よ」 ひ、や、やめ、ぎゃ〜〜〜(’’ ---その後、作者の姿を見た物はいなかった 11/10/01 18:16 るーじ |