連載小説
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平和と、強さと、優しさと(前編)
『我ら、戦を望まず。

 武力によって他国を侵略、征服する意思を持たず。
 また、そのための装備を持たず。
 永遠にこれを放棄するものなり。

 されど、我らの胸には、この国土、国民を守り、愛す心あり。
 不当なる要求、侵略、征服の企てと行動に対しては、武力を持って正当に応ずるものなり。
 我ら、自衛のための意志と力を認め、これを保持するものなり。

 加えて、我らは朋友、同盟国との絆を重んずるものなり。
 彼らが侵略者と戦い、国を守り、血を流す時は、我らもその苦しみを同じにせん。
 我ら、友の苦境に己の力を貸す者なり。
 また、友が正しき道を外れた時は、明確なる意志と態度にて、その誤りを正すものなり』

 
 親魔物国家である、我が国の憲法。その“戦と武力の条”の文言です。

 侵略のための意志と力は持たない。
 けれども、正当な自衛権と同盟国の窮地を救うための力は、きちんと保持する。
 何故ならば、私たちにはこの国を愛し、この国に暮らす人々を守りたいという、強い思いがあるのだから……。

 この簡潔で自然な条文を表すように、我が国には陸・海・空・魔術という、四つの騎士団が存在しています。
 本章では、この国の平和と安全、そして未来の為に努力する騎士団員の方々に焦点を合わせてみました。

 存在することは、知っている。だけど、その詳細は知らない。
 そんな近くて遠い存在である彼ら、彼女らの声と歩みに、意識を向けていただければ幸いです……。



 《 空の騎士団所属 : 幼馴染の竜騎士とワイバーンの話  》

【各機、射出番号確認しろ! 整備員は、退避急げ! 射出、一分前!】

 装備品の最終確認を済ませた整備員が、これから出撃する『二人』を見上げる。

 深い緑に輝く、飛竜の鱗。
 静かな銀の光を放つ、竜騎士の鎧。
 そして、二人をつなぐ、使い込まれた焦げ茶の手綱。

 それぞれが放つ荘厳な美しさに心を震わせながら、整備員は小さく敬礼し、叫んだ。

「装備、全て問題なし! ご武運を!」

 その言葉を受けた竜騎士が、相棒の上から軽く手を上げて応える。

「おうっ、任されて!」

 それに続くように、巨大な飛竜が『グルル……』と喉を鳴らす。

「じゃあ、行ってみようか。射出魔法陣、その中央へ進め」

 整備員の退避を確認した後、竜騎士が穏やかに告げる。
 飛竜は何も言わず、ただ重い足音だけを残しながら、その指示に従う。

【一番機、状況知らせ】

 魔法拡声器から響く声に、竜騎士が左腕を上げる。

【了解。状況良し。一番機、射出五秒前、四、三……】

 飛竜が翼を広げ、グっと姿勢を低くする。
 その動きに合わせて竜騎士も体勢を整え、両手で手綱を握りしめる。

【二、一……】

 魔法陣がキンキンと高音を響かせながら、青紫色に輝く。
 美しさと禍々しさを併せ持った紋様が、飛竜と竜騎士を包み込む。
 しかし、『二人』の意識と視線は、ただ前へ。
 開け放たれたゲートの向こう。そこに広がる、青空へ。

【射出!!】

 怒鳴るような号令。
 次の瞬間、飛竜と竜騎士は旋風よりも速く、鋭く、撃ち出される。
 塵や埃が舞い上がり、大砲の一斉発射にも負けない轟音が周囲の空間を震わせる。

 だが、飛び出した彼らにそんなものは関係ない。
 竜騎士は歯を食いしばり、自分の体重の何倍もの衝撃を受け止める。
 一方、飛竜は『ガアァァァァっ!』と雄叫びを轟かせ、ただひたすらに上空へと突き進む。

(こっちは毎度毎度 必死だってのに、ご機嫌だなぁ)

 竜騎士は……彼は、知っている。
 相棒である飛竜の……いや、妻である彼女が発する、どこか楽しげなその声の意味を。
 彼女は、こう言っているのだ。

「やっぱり、これ最高! おへその辺りがキュンキュンしちゃうね!」

 竜騎士専用の特殊な兜の下で、彼は苦笑いする。
 何時まで経っても、自分はこの子には敵わないんだなぁ、と思いながら。


「子供の頃の俺たち、ですか? う〜ん……典型的な田舎のガキンチョって感じですかね。俺も彼女も、朝から晩までワーワーギャーギャー言いながら走り回ってましたよ」

 騎士団基地の会議室。
 竜騎士用の鎧ではなく、空の騎士団の制服に身を包んだ彼が、照れくさそうに言う。
 その横で、同じように巨大な飛竜の姿ではなく、八重歯が印象的な可愛い乙女のそれになった彼女が、クスクスと笑う。

「私たちが生まれ育った村は、山岳地帯の谷間にあってね。本当に小さな村で、他に同じ年頃の子供も居なくて……必然的に、私と彼はず〜っと一緒に遊び回ってたってワケ」

 彼女の言葉に、彼は「そうそう」と頷いた。

 農業と林業を営む、山の谷間の小さな村。
 いや、これでは少し言葉が足りないかも知れない。
 彼らの故郷は“とあるワイバーンが住んでいる、農業と林業を営む、山の谷間の小さな村”なのだ。

「彼女のお母さんは、村の守り神的な存在です。と言っても、みんなから恐れられている訳ではなく、偉そうに君臨している訳でもなく。誰に対しても分け隔てなく気さくに接してくれる、素敵な方なんですよ。俺のことも、昔から実の息子のように可愛がってくださいました」

 そんな風に義母を語る彼は、どこか嬉しそうだ。
 そして、母を讃えられた彼女は、鼻高々のご様子。

「当然! 母様は父様と共に、数多の空で凄まじい戦果を残した伝説のワイバーンなんだから!」
「『強き者は常に心優しく、穏やかであれ』。その言葉は、俺と彼女の座右の銘になっています」

 かつて、一組の飛竜と竜騎士がいた。
 彼らは多くの名竜騎士を輩出した国に生を受け、幼き日に出会い、共に空を駆ける道を選んだ。

 厳しい修練の末に完成させた戦いの形は、壮麗にして苛烈。
 味方には大いなる希望を。敵には圧倒的な絶望を。
 纏っていた戦装束の色から“緑星”の異名を取り、人々の畏怖と敬意の間を飛び続けた英雄……。
 それが、彼女の両親なのである。

 では、お二人が現在の道に進まれたのも、ご両親の背中を追いかけるような気持ちで……?
 そんな風に水を向けると、彼は何とも言えない表情でポリポリと頭をかいた。

「いや……そんなカッコ良い感じではなかったですね。お義父さんもお義母さんも凄すぎて、俺なんかが真似できるような方ではないですから」

 自信無さげに呟く彼の脇腹を翼でグリグリと押しながら、彼女が続ける。

「私が引っ張ったのよ。小さい頃から『一緒に騎士団に入ろうね! 私の背中に乗せてあげるからね!』って言ってたのに、いつまでもグジグジしてるから。だから、私がお尻を叩いて猛勉強させて、さっさと二人分の願書を取り寄せて、書き上げて、問答無用に送っちゃったの」
「……という感じです。はい」

 ジト〜っと睨む彼女の瞳から逃れるように、彼は小さく背中を丸めて頷いた。


 空の騎士団は、他の三団と比べて少々特殊な組織である。

 至極当然の話であるが、人間は空を飛ぶことが出来ない。
 確かに、飛行魔術という手段も存在するが、誰もが簡単にそれを使える訳ではない。
 また、いくら親魔物国家とはいえ、騎士団の運営をハーピーなどの魔物たちに任せ切ってしまうことも出来ない。

 ならば、どうするか?

【古来より竜騎士の育成と多角的な運用を行なっている親魔物国家と提携し、人材の育成にあたるべし。また、それに対する感謝の気持ちとして、我らが持つ多様な魔術兵装の技術を先方へ提供するべし】

 空の騎士団誕生への第一歩は、こうして踏み出されたのである。


 十五歳の春。
 彼女が振るった愛の鞭のおかげか、二人は騎士団士官学校の竜騎士養成科へ合格を果たした。

「最初の半年間は、他の科のみんなと一緒に教養課程の勉強。で、それが終了した後に、竜騎士先進国へ移動しての本格的な訓練開始……だったんだけど、ねぇ」

 眉間に皺を寄せ、「う〜ん」と唸るような表情で彼女が言った。
 彼は、そんな彼女を優しい瞳で見守っている。
 しばしの沈黙の後、彼女が口を開いた。

「私は、ワイバーンなのよ。それも、父様と母様の血を受け継いだ、それなり以上の才能に恵まれたワイバーンなのよ……と、思っていたの。あの土地で、訓練が始まるまでは、ね」

 そこまで語った所で、彼女は口を閉ざしてしまった。

 今の言葉は、どういう意味なのだろう。
 ようやく始まった訓練の中で、彼女に何があったのだろう。
 こちらの疑問に満ちた視線を受け止めた彼が、落ち着いた口調で説明してくれた。

「例えば、喧嘩自慢の青年が居たとしましょう。地元では負け知らずで、無敵の存在。己の度胸と身体能力に絶対的な自信を持ち、騎士団の猛者とだって互角以上に渡り合えると思っている……そんな青年です」

 彼がそこまで言った所で、彼女がフゥと大きなため息を付いた。
 納得し難い理由で怒られた子供のような、微妙な表情を浮かべている。
 彼は、そんな彼女に微笑んだ後、再び語りはじめた。

「けど、当然のことながら、街の喧嘩と戦の作法は異なります。腕っ節自慢のお兄ちゃんがいくらイキがった所で、玄人には敵いません。それでも無理をして飛び掛かれば、手足を折られ、鼻を潰され、目をえぐられるでしょう。当然、心も砕かれてしまうはずです」

 ゆっくりと、話の流れが見えてきた。
 尊敬する両親から確かな力と才能を受け継ぎ、愛する幼馴染と共に意気揚々と未来への階段に足をかけたワイバーンの乙女。
 自分たちはその階段を素晴らしい速さで駆け上がり、両親に勝るとも劣らぬ空の覇者になるはずだったのに……。

「もうね、コテンパンよ。教官のワイバーンはもちろん、上級生にも撃墜されるし、同級生にも振り回されるし。自分が空で何をすれば良いのかわからなくなるなんて、全くの想定外だったわ」

 大きな爪で軽くこめかみを揉みながら、彼女が悩むように言った。

「ちょっと気に入らない所もあるけど、まぁだいたい彼の例え話の通りだったの。私はみっともない喧嘩自慢のお姉ちゃんだったって、嫌というほど思い知らされちゃったのよね」

 ワイバーンの速さと力に、人間の技と知恵を掛け合わせる。
 大地を離れ、三百六十度の立体世界を縦横無尽に飛翔する最強の存在。
 人馬一体ならぬ、人竜一体の煌めき。
 それこそが、竜騎士である。
 しかし……。

「今思えば、あまりにも浅はかだっし、世間知らずだったわ。田舎者丸出しと笑われても、反論できなかったわね。本当、私は惣菜屋でお昼ごはんを買って来るのと同じくらいの簡単さで、完璧な飛竜になれると思ってたのよ。いや、まったく、お恥ずかしい限りだわ」

 全く予期していなかった、恐ろしく強固で高い、現実という名の壁。
 その壁の前で、自分はただ呆然と佇むことしかできない。
 紛れもなく、それは彼女が生まれて初めて味わう、大きな絶望感だった。


 竜騎士と飛竜が一体となり、より的確な連携を行うためには、一秒でも多くの時間を共に過ごすことが良いとされる。
 そのため、二人は寄宿舎の同じ部屋で寝起きし、トイレや単独訓練以外の時間は常に行動を共にしていた。

 それゆえに、彼には彼女の焦りと絶望が手に取るように確認できた。

「表面上は、いつも通りなんです。俺に対しては程良く強気で、強引で、弱音を吐かない。心が揺らいでる所なんて、絶対に見せない。でもね……俺たちは、物心ついた時からずっと一緒にいるんですよ。だから、彼女の心の動きに気が付かない訳がないんです」

 彼女がそうであったように、彼もまた日々の訓練の厳しさに衝撃を受けていた。
 だが、彼と彼女の間には、決定的な違いがあった。

「俺は、『毎日の訓練が厳しくて当たり前。自分の才能の無さに悲しくなって当たり前。どんなに先が見えなくても、コツコツやるしかなくて当たり前』だと思っていたんです。もともと、山奥の村から彼女に引っ張って来られた身ですからね。辛抱と根性でやるしかねぇよな、と」

 彼は、自分には何も無いということを理解していた。
 家柄、頭脳、運動能力……その他諸々、特別なものは何も持っていない。
 だから、学科でチンプンカンプンの状態に陥って当たり前。
 飛行技術・剣術・体術の訓練で、ボコボコにされて当たり前。

「よく同級生に言われましたよ。『何かお前、お爺さんぽいな』って。いつも深夜まで勉強してたから、目はショボショボ。色々な訓練でボコボコにされてたから、体中に湿布と軟膏を貼りまくりの塗りまくり。その総合評価が、『お爺さんぽい』ってことだったんですね」

 そう言って「たはは……」と笑う彼に、少し意地悪な質問をぶつけてみた。
 辛抱と根性には、限界があるでしょう? 退学して故郷へ戻りたいと思ったのでは?

「いいえ、それは全く思いませんでした」

 即答だった。


 彼には、素晴らしい三つの長所があった。

 第一に、【一度やると決めたことは、最後まできちんとやり抜く心】を持っていたこと。
 これは、農家として日々黙々と働き、どんな自然現象にも逃げずに立ち向かう両親の背中から学んだ信念だと、彼は言った。
 いかなる物事も、基本的には自分の思い通りにならぬもの。
 だからこそ、逃げてはいけない。考えることを止めてはいけない。
 彼は、両親からそう言い聞かされて育ったのだ。

 第二に、【自分の力不足を素直に認める心】を持っていたこと。
 学科でも、肉体を駆使する訓練でも、彼は自分の得手不得手を率直に認めた。
 そしてその上で、「わかるようになりたい。出来るようになりたい」と努力した。
 教官に補修や特訓を依頼することはもちろん、上級生や同級生にも、素直に頭を下げて教えを請うた。

 そして第三に、【いついかなる時も、パートナーである彼女を信じ続ける心】を持っていたこと。
 物心ついた時から自分に真っ直ぐな好意を示し、手をつないで引っ張ってくれた彼女。
 彼女がいなければ、優柔不断な自分はいつまでも故郷の村でくすぶっていたかも知れない。

 自分の過去・現在・未来は、彼女と共にある。
 今、この訓練の日々の中で、彼女は大きな壁にぶつかっている。
 心も体も傷だらけになり、己のあり方そのものに疑問を抱いてしまっている。

 そんな彼女に、自分は何ができるのだろう。
 一体何をするべきなのだろう。

 優しい言葉をかけるのか。
 いや、薄っぺらい同情や励ましの言葉は、余計に彼女を傷つけてしまう。
 いつも以上に肌を重ね、自分の精を注いであげれば良いのか。
 いや、それは単なる現実逃避につながってしまう。愛と情けは、別種のものであるはずだ。

 彼は考えて、考えて、考えて……結論に至った。

 特別なことは、何もしない。
 ただひたすらに、努力を続けている自分の姿を見てもらおう。
 一番近い所で、格好良いところも、無様な姿も、その全てを見てもらおう。

 自分と彼女は、一心同体。一蓮托生。
 自分は彼女の恋人であり、相棒である者。
 複数の意味で、“主人”と呼ばれる存在になるべき者。
 彼女の苦しみの一つや二つ、自分が理解して、包み込んで、道を示してやろうじゃないか。
 自分と彼女は、二人で一人。きっと大丈夫。

 だから、愛する君よ。うつむかないで、俺の背中を見ていて欲しい……。


「うちの旦那さんは、ズルいよねぇ」

 彼が当時の気持ちを語ってくれた後で、彼女がポツリと言った。

「普段はお人好しで、優柔不断で、頼りなくて……でも、イザとなったら私よりもずっと強いんだもん。ヘロヘロになっても諦めないし、ボロボロにされても倒れないし。そんな姿を見せられたらさ、『悩んでる場合じゃない! 私もやらなきゃ! 私は彼の恋人なんだから! 最高のパートナーなんだから!』って思うよね。あそこで心が砕けちゃったら、ワイバーンの名折れだもん」

 それを聞いた彼は「あはは」と楽しそうに笑った後、イタズラっぽくこう訊ねた。

「あの頃の俺、ちょっとカッコ良かったでしょ?」
「……まぁね。天地がひっくり返っても、この人のためのメスでありたいって思っちゃった」

 予想外の大胆な言葉に、彼がキョトンとした表情を浮かべる。
 そして二人は、一瞬の間 見つめ合い……「アハハハっ!」と仰け反って笑い合った。


 当時の二人を指導した竜騎士の教官は、取材に対してこんな風に答えてくれた。

『何をやらせても赤点ギリギリの竜騎士候補生と、空回りし続ける飛竜候補生。
 正直、このコンビはモノにならないと思いました。

 けれども……一年後には、そんな自分の判断を恥じましたね。
 ある意味において、彼らは究極の強さを持っていたんです。
 己の弱さを認め、受け入れ、その上で前進しようとする心。
 天賦の才を持たない者が努力で至れる領域には限界があると知りつつも、それでもなお諦めない心。
 あの二人は、それを持っていたんですね。

 私の経験上、そういう奴は他の誰よりも伸びるし、強くなるんですよ。
 実際、彼らは記録的な成長曲線を描いて大きくなっていきました。
 模擬戦闘の開始六秒で撃墜されていた二人が、最後には私と妻を叩き落としましたからね。

 四年間の訓練を終えた時、彼らが卒業生総代を務めることになろうとは……。
 あれほど嬉しい予想外は、私の指導人生において他にありませんね』

 同じく、二人を指導したワイバーンである飛竜の教官は、こう答えてくれた。

『ドラゴン程ではないものの、我々ワイバーンには、意固地で強気すぎる所があるのです。
 入学直後の彼女は、その未熟な精神状態と力任せの飛行スタイルが掛け合わさって、それはそれは、酷い有様でした。

 聞けば、彼女のご両親はあの有名な竜騎士と飛竜殿であるとのこと。
 「あなた方は、なにゆえ我が子に飛行の手ほどきをしなかったのですか?」と訊いてみたい……当時は、そんな風に思ったものです。

 しかし、彼女のご両親は全てを理解した上で、何も仰らなかったのでしょうね。
 心身両面の未熟さも、挫折を知らぬ甘さも、そこから立ち上がることの重要性も、ご両親は彼女自身が学び、克服していかねばならないと分かっておられたのでしょう。

 加えて、パートナーである彼の存在……。
 潮の満引きに月の存在が欠かせぬように、彼女が彼女として成長していくためには、彼の存在が絶対的に必要だったのです。

 彼は、色々な意味で不器用な人間です。
 正直に申せば、彼より優れた才覚の持ち主など、たくさんいます。
 ただ……彼ほど彼女の心を見つめ、愛し、寄り添うことが出来る人間はいません。

 私と夫がそうであるように、彼女と彼もまた、一対の翼のような存在なのでしょう。
 ですから、一人のワイバーンとして断言いたします。
 二人は今よりもっと強くなりますし、もっと幸せになりますよ、と!』


 騎士団士官学校を卒業して八年。
 現在二人は、我が国のとある山に穿たれた空の騎士団の基地に勤務している。

 軍事的事象はもちろん、山・海・川などでの人命救助任務にも、その力を大いに発揮している。
 また、各種の状況を想定した厳しい訓練にも、日々取り組んている。

 防衛機密に該当するため、その詳細を記すことは出来ないが、【対地戦闘用 爆撃装備】に身を包んだ二人の威容は、まさに『空を往く要塞』のようだった。

 彼が言う。

「強い嵐が来ても、しっかりとした家の中であれば、家族団欒の時間を過ごすことができます。俺たち騎士団は、いつもそんな家の壁であり、屋根でありたいと思いながら、日々の任務に臨んでいるんです。普段は、その存在を気にしない。でも、それは確かに存在する。俺も彼女も、国民の皆さんにとって、そんな存在でありたいと考えています」

 続けて、彼女が言う。

「え〜っと、私は……早く産休に入りたいです」

 その言葉に、彼が豪快にずっこける。
 そして、「えぇ〜!? 俺、今ものすごく良いこと言ったのにぃ!?」と大困惑。
 彼女はそんな彼に無邪気な笑顔を向け、「ごめんごめん」と翼を動かした。

「いやまぁ、私は魔物だから。愛する夫の子供を宿したいというのも、偽らざる本音なのね。で、真剣な話……彼の意見に、私も全面的に同意かな。真昼のランプのように、普段は誰も気づかない。だけど、何か事が起こった時には、その灯りがみんなを救う。私は、そういう優しさの象徴になりたいなって思うの。そのために、このワイバーンの力を使えたなら、とっても幸せだよね!」

 『強き者は常に心優しく、穏やかであれ』

 彼女の両親は戦乱の空を飛び、平和の訪れと共に地上へと舞い降りた。
 そして今、二人の子供たちがその言葉を胸に、平和の空を飛ぶ。
 大きな困難から、人々を救うために。
 両親を含めた多くの人々が作り上げた、この平和を維持するために。

 たくましき飛竜と竜騎士は、一夜にして現れるものではない。
 そこには、人間と魔物の絆が、努力が、苦悩があるのだ。

 今日も、我が国のどこかの空で、彼女の雄叫びが響く。
 「やっぱり、平和が一番だよね! みんな、今日も元気でね!」という願いと共に。



 《 陸の騎士団所属 : 盾の力の騎士と五尾の稲荷の話  》

 四歳上の兄が、両親の後を継いで農家になることを決めた。
 二歳下の妹は、優しい従姉妹に憧れ、看護師になるという夢を抱いている。

 さて、僕はどうしようかな。
 十四歳になったばかりの頃、彼は自身の将来について、しっかりと考える必要に迫られた。

 どこの家でも……という訳ではないが、『農家の次男』は時として微妙な立場に立たされる。
 家業は兄が継ぎ、弟妹たちはのびのびと将来の夢や目標を描いていく。
 次男はそうした存在に挟まれ、どの方向に進めば良いのか、あれこれと悩んでしまうのだ。

 しかし、そうした状況にあっても、彼は落ち着いていた。
 また、生来の優しさが、きちんと正しく作用した。

「やっぱり両親を安心させてあげたいし、将来的には、楽な老後を送らせてあげたい。そのためにも、きちんと手に職をつけよう。丁寧な職業訓練を行なっていて、なおかつ学費の安い学校を探すことが、はじめの第一歩だな。でも……そんな都合の良い学校なんて、本当にあるのかなぁ、と。当時の僕は、そんなことを考えていました」

 陸の騎士団の制服に身を包み、二十五歳になった彼が言う。
 我が国の中部に位置する、陸の騎士団の基地。
 その敷地内にある品の良いカフェで、彼の言葉に耳を傾ける。

「自分の考えを通っていた村の分校の先生に伝えたところ、『それなら、目指すは【騎士団職業訓練・工科学校】だね』と。合格までの道のりは険しいけれど、入学出来たら将来安泰だよ……そんな風に説明していただいて、僕の心は決まったんです」

 当時の心境を思い出したのか、彼の表情がキュっと引き締まる。
 その傍らで、彼の妻である五尾の稲荷が、ゆったりと優しく微笑んだ。


 騎士団職業訓練・工科学校。

 国内における各種産業の向上、また騎士団の防衛能力や災害対応能力など、将来に渡っての大切な力を伸ばすこと目的に、“一般教育・職業訓練教育・工科教育の三位一体教育”を行なっている学校である。

 その名が示す通り、我が国の騎士団によって運営され、学費や寄宿費は格安。
 加えて、卒業後の就職先にも困らないという、正に彼が望んだ理想の学校である。

 ただし……そうした魅力的な学校であるため、入試の難易度や倍率は他の学校の数倍に及ぶ。
 優れた騎士や将来の幹部候補生を養成する【騎士団士官学校】との住み分けが出来ているとはいえ、合格するためには全国の秀才たちを押しのけて行かなければいけない。

 得意科目、不得意科目、特に無し。
 これまでの成績、ごくごく平均的。
 ……そんな自分に、合格の可能性なんてあるのかな?

 心の中に大きな不安を抱きつつも、真面目な彼はコツコツと努力を重ねていった。
 家族や分校の教師たちも、そんな彼への協力を惜しまなかった。
 合格へ近道なし。丁寧に、黙々と頑張るべし。皆、その真理を理解していた。
 
 そして、春夏秋冬が通り過ぎ、十五歳の春が来て……。

「ジパングでは、難関を突破した時、支援した下さった皆さんへこんな文を送るのですよ」

 ジパングにルーツを持つ彼の妻が、優しい声で教えてくれた。
 『 サクラサク 』
 彼は見事に、騎士団職業訓練・工科学校への合格を果たしたのだった。


「まぁ、結論から言うとじゃな……お前さんの騎士団職業訓練・工科学校への合格は、取り消しとなったと。まぁ、そういうことなんじゃよ」

 その言葉を聞いた瞬間、彼は白目をむいて卒倒しそうになった。

 入学式から、まだほんの二週間。
 喧嘩騒ぎを起こした訳でも、学校の備品を盗み出した訳でもない。
 反魔物国家の工作員に間違われるような言動を取った覚えはないし、中庭にある初代学長の像にイタズラをした記憶もない。

 いや、そもそも……今こうして、校長室に呼び出されていること自体がわからない。

 事の起こりは、昼休み。
 級友たちと共に、食堂へ向かおうとした時のこと。
 担任の教官に呼び止められ、「大至急、校長室へ行くように」と命じられた。
 
 一体何事かと不安な気持ちを抱きつつ、校長室のドアをノックすると、そこには緊張した面持ちの校長と、生まれて初めて間近に見るバフォメット、そして三尾の稲荷の姿があった。

 予期せぬ顔ぶれを前に、彼の不安は混乱へと変わっていく。
 校長に促されるまま、来賓用のソファ、その下座に座る。
 そして、上座に腰を下ろしていたバフォメットが、開口一番……彼の合格取り消しを宣言したのだ。

 背後から全力で殴られたような衝撃。
 頭の中が真っ白になり、酸っぱい唾が胃からせり上がって来る。
 一から十まで、全ての物事が理解できない。
 真っ青な顔で「あ、う……え……?」と唸る彼を見て、稲荷が心配そうに言った。

「だ、大丈夫ですか……!? シェルム様、いくらなんでも説明が大雑把過ぎます。それでは、誰だって混乱してしまいますわ」
「ん? あぁ、それもそうかの。いや、すまんすまん。めずらしい人間に会えたもので、ちょっと楽しゅうなってしもうての」

 そう言って、シェルム様と呼ばれたバフォメットは愉快そうに笑った。
 だが、すぐに笑っているのが自分だけだと気づき、コホンとわざとらしい咳払いを一つ。

「ぬ、では改めて。お前さんは本日この時刻より、陸の騎士団の所属となる。正しくは、“陸の騎士団 防御技術研究所 特別研究生”となるのじゃ。階級的には、下士官中の最上級である曹長じゃな。衣食住の世話に加えて月々の給料も出るから、その辺のことは安心せい」

 状況が全く改善しない。
 相変わらず、“何がどうなっているのか?”がわからない。
 彼は助けを求めるような気持ちで体を捻り、自分の斜め後ろに立っている校長を見上げた。

「うむ……入学式の翌日に受けた身体検査と、魔術属性検査のことを覚えているかね?」

 立派な口ひげを僅かに揺らしながら、校長が問いかける。
 彼は体を捻ったまま、その言葉に小さく頷いた。

 身体検査は、身長・体重・座高・握力・垂直跳び……など、各種の数値を測定していく、ごく一般的な内容のものだった。

 一方、魔術属性検査は、この学校ならではのものといえるのかも知れない。

 職業訓練や工科教育を行う上で最も効率が良いのは、学ぶ本人の適正に応じた事柄に取り組むことである。
 例えば、火の属性を持っている生徒であれば、鍛冶など火を用いる職業に。土の属性を持っている生徒であれば、農業や植物研究など、土と縁が深い職業に……という具合に、生徒の将来と指導方法を考える一つの資料作りとして実施されている。

 彼は、その検査において、土の属性を持っていることが判明した。
 代々農業を営んでいる家に生まれたのだから、至極当然の結果である。
 けれども……そこで、彼はふと気がついた。

 どうして自分は、あの検査を三度も受けたのだろう。

 一度目は、同級生のみんなと共に。
 二度目は、その四日後に保健室で。
 三度目は、さらにその五日後に、魔術の騎士団から来たという白衣の男性に見守られながら。

 考えられる原因は、あれしかない。
 でも、だからといって、それが一体……?

 体勢を戻した彼は、すがるような瞳でシェルムと視線を合わせた。
 シェルムは、「うむ」と声を発しながら頷き、言った。

「にわかには信じられんと思うが、お前さんには桁外れの力があるんじゃよ。人間を、魔物を、この国を、全てを守る力がな。今日、こうして顔を合わせて確信した。お前さんの内側に眠る『盾の魔力』は、どうやら本物であるようじゃ」

 彼の人生は、全く予期せぬ方向へと転がり始めた。


 一度目の検査では、“詳細不明なれど、特殊属性・能力あり”という結果が出た。
 そのため、二度目はより精密な検査機器を用いることになった。

 二度目の検査では、“数値測定不能なれど、防御系魔術属性あり”という結果が出た。
 そのため、三度目は魔術の騎士団から更に精密な検査機器と技師が派遣されることになった。

 そうして、三度目の検査。
 その結果を精査した技師は我が目を疑い、次に機器の故障を疑った。
 技師は、こんな風に説明してくれた。

『彼が持っていたのは、盾の魔力。
 それも、複数のドラゴンによる全力攻撃をも防ぎ切るような、全く桁違い、別世界の魔力です。

 そうですね……例えば、同じ魔力に関して、新米魔術師のそれを十としましょう。
 次に、中堅魔術師が百、熟練魔術師を千だとすれば、彼の魔力は数万を超える領域にあったのです。

 これは、常識的に考えて全くありえない話です。
 魔術師の家系に生まれた訳でも、インキュバスとなった訳でも、複数の精霊やダークマターさんと融合を果たした訳でもない。
 そんな人間が、これ程の魔力を内に秘め、何も気づかないまま生きて来た……いや、繰り返しになりますが、全くありえない話です。

 けれども、現実の存在として、彼は生きている。
 そこで我々は、彼に関するデータと検査結果を【魔術の騎士団 魔術兵装開発:特別顧問】であるバフォメット……シェルムさんへ送り、今後の対応についての助言を求めたのです』


 そうして、助言を求められ、実際に彼と顔を合わせてみようと考えたバフォメット:シェルムさんはこう語る。

『いくらなんでも、そんな奴は居らんじゃろう……と、思うたな。最初は。

 じゃが、検査を実施した際の状況や機器の確認、詳細な分析結果などへ目を通すうちに、「ありゃまぁ、これは本物かも知れんぞ」、と。
 そして、実際に奴と顔を合わせ、その内側に流れる魔力を感じ取った瞬間、「これはまいった、本物じゃ」と確信したんじゃ。

 魔術の世界において、一つの能力に特化している輩というのは、めずらしい存在ではない。
 とは言え……奴ほど極端でデタラメな特化タイプは、流石のワシでも見たことがない。
 あれはもう、神の戯れとか、悪魔の思いつきとか、そういう類の突然変異じゃよ。
 悪趣味な魔術協会のある国ならば、封印指定の後、生きたまま薬品漬けだったじゃろうな。

 種別は、盾の魔力。有効範囲は、蹴球場一面分。色彩特徴は、無色透明。
 例えば、空からドラゴンが火を噴き、陸から龍が激流を放ち、地下からワームが飛び出して来ても、奴が魔力を発動すれば、その範囲内は絶対的に安全なんじゃ。
 いかなる力を持ってしても、かすり傷ひとつ付けられん。

 な? 子供が考えるお伽噺の英雄のような力じゃろう?
 しかし……この世界というモノは、なかなかに上手く出来ておるようでな。

 ジパングには、「天は二物を与えず」という言葉がある。
 “天は、一人の人間にそれほど多くの長所を与えることはしない”ってな意味の言葉なんじゃが、奴もまたその例外ではなくての。

 つまり……奴には、盾の魔力しか無いんじゃよ。
 その他の魔術的な能力は、清々しいまでにゼロなんじゃ。
 小指の先ほどの火を出すことも、小さな切り傷を治すことも出来ん。
 あと、剣術や格闘術などの能力もからっきしでの。そっち方面もゼロなんじゃ。

 さらに、奴の肉体は魔術の行使に不向きなタイプでの。
 魔力の全力行使は、一日一度のみ。それも、十分程度しか出来ん。
 有効範囲を狭めて自分一人を守るような形にしても、一時間経てば完全に魔力切れじゃ。
 それ以上に無理をして行使すれば、一時的に視力や聴力を失った上に失神してしまうし、最終的には命の火が消えてしまう。

 【粗末な紙の杯に、極上の美酒を注いでいるような状態】
 少々無慈悲な表現かも知れんが、奴と奴の魔力はそういう関係なんじゃ。

 とは言え……奴ほどの逸材を放置するのは愚かなことよ。
 そこで、ワシはこう考えた。

 一つ、奴を要人警護任務や紛争地域に出向くことが多い、陸の騎士団の所属とする。
 二つ、陸の騎士団の防御技術研究所にて、奴の魔力の有効活用法を考えさせる。
 三つ、奴に魔力の制御を教えられる魔物を付き添わせ、公私両面のパートナーとさせる。

 我ながら、なかなかに良い策であったと思う。
 ワシが部下として迎え入れ、何もかも全てを教えてしまうよりも、あれこれと迷いながら勉強させる方が、色々な意味で奴のためになるじゃろうからな。

 それに……奴も、素敵なカミさんと出会えて幸せであろう?
 何せ、奴と彼女を引き合わせたのも、結婚式の仲人を務めたのも、このワシなんじゃからな。
 カッカッカ!』


「……そんなことを仰ってましたか」

 二人の恩人であるシェルムさんの言葉を伝えると、彼は苦笑いと気恥ずかしさが入り混じったような表情を浮かべた。

「でも、実際にシェルム様の仰る通りなんです。当時の僕は、魔術の基礎の基礎すら知らないような状態でしたから。シェルム様の差配と彼女の存在がなければ、本当にどうなっていたことか。想像するだけで、ゾっとしますね」

 そう言って彼は、傍らに座る妻へ視線を向けた。
 彼の妻……現在は五尾の稲荷となった彼女が、優しく微笑みながら口を開く。

「私を含め、稲荷という種族には、己の魔力をきちんと制御する力が備わっております。当時の私はその力を求められ、魔術の騎士団、その魔術兵装の開発部門で働いておりました。ですから、同部門の特別顧問であるシェルム様は、私にとって上司にあたるお方だったのです」

 彼にとって衝撃の日となる前日。
 彼女もまた、いつもの仕事場で、シェルムさんから唐突な説明を受けていた。

『明日、騎士団職業訓練・工科学校へ向かう。お主もついて参れ。何やら、面白そうな人間が現れたようでのぉ。事と次第によっては……そいつが、お主の夫となるやも知れんぞ?』

 すっかりぬるくなってしまったお茶を一口飲んでから、彼女が続ける。

「彼には、日々傍らに寄り添い、魔力の制御を教える存在が必要でした。そして、魔物である私には、全身全霊を込めて愛し、生涯を共に歩む殿方が必要でした。今思えば、シェルム様は全てを見越しておられたのでしょうね。私たちが、公私両面において、最高の組み合わせであることを」

 パズルのピースが正しく噛み合うように、二人はごく自然に寄り添い合った。
 それは正にシェルムさんが思い描いた通りの形……いや、それ以上の意味を持つものだったのかも知れない。


 魔術と全く縁の無かった人間が、基礎からそれを学び、行使・発動する術を身につける。

 「一度も泳いだ経験の無い方を、大海原の真ん中に放り出すよりも大変なことです」という彼女の言葉は、決して大袈裟なものではないだろう。

 一介の学生の立場から、陸の騎士団の曹長へ。
 職業訓練用の勉強から、専門的かつ複雑な魔術の講義へ。
 田畑に種を蒔き、鍬を振るって観察する日常から、魔法陣の中に座らされ、飛来する鉄球を防いで落とす非日常へ。

 学んでも学んでも、終わらない。
 魔力を練っても練っても、褒められない。
 自分は、ここで何をしているのだろう。
 自分に特別な力があるなんて、そんなのは質の悪い冗談に違いない。
 元の学校へ戻りたい。いや、いっそのこと全てを投げ出して、故郷へ帰りたい。
 もうイヤだ。もういいや。もう勘弁してよ。もう苦しいよ。
 夜の闇に紛れて、この宿舎からこっそり抜け出して、馬車の停留所へ急ごう。
 大丈夫。きっと、みんなわかってくれる。だから、もう逃げ出してしまおう……。

 「陸の騎士団へ移籍して……三ヶ月目くらいが、一番辛かったですね」と、彼が当時の心境を語る。

「例えば、その力を獲得するために、血の滲むような努力を重ねて来たとか。あるいは、熱い志を持って、研鑽の道に飛び込んだとか。そういう、己の心を支える“過程や理由”があったなら、難しい訓練にも耐えられたと思うんです。でも、僕の場合は『ある日突然に』ですからね」

 何の前触れもなく出現した大きな渦に巻き込まれ、自分が自分でなくなっていくような感覚に襲われる日々。
 魔術の訓練と学習によるものだけではなく、あまりにも劇的すぎる立場と環境の変化が、彼の心身を擦り減らしていった。
 今にも自分の心が折れそうな、『ミシミシ』という不安定な音を、彼は確かに聞いたと言う。

 もしも……ここで彼が一人ぼっちであったならば、そのまま心がへし折れる音を聞くことになったのかも知れない。
 だが、彼は一人ではなかった。孤独ではなかった。

「彼が愚痴をこぼす時は、その全てを受け止める。彼が涙する時は、そっと背中を撫で続ける。彼が魔術に悩む時は、その手を包み、正しい方法を伝える。そして、毎日彼のために美味しい食事を作り、衣服を洗濯し、部屋を掃除し、夜はしっかりと抱きしめる。私のしたことは、ただそれだけでございます」

 奥ゆかしさの中にある、凛とした佇まい。
 献身的でありながらも決して依存せず、最も適切な距離で寄り添うあたたかさ。
 そう、彼の傍らには、寝食を共にする、心優しく聡明な彼女がいたのである。

「彼の苦しみ、辛さは、私にもよく理解出来ました。本来ならば、彼を守るため、訓練と学習の一時中断を申し込むべきだったのかも知れません。ですが、私は敢えてそうした行動を控えました」

 ぴんと背筋を伸ばし、美しい姿勢を保ったまま、彼女は言葉を続ける。
 その傍らでは、彼が少しうつむきがちに、けれども柔らかな微笑みを浮かべている。

「『夫を立てる』ということ……その解釈は、様々であると存じます。その中において、あの時の私は、苦しみ、もがく彼を支え、その成長を信じて愛し続けることこそが『夫を立てる』最善の道であると信じておりました」

 直線的に夫への愛を叫び、二人の関係だけを守るような姿勢ではなく、最愛の人とその未来を信じて包み込もうとする心のかたち。
 それは、ジパングにルーツを持つ、稲荷という思慮深い魔物ならではの想いだった。

「僕があの毎日から逃げ出さなかったのは、彼女が居てくれたからです。彼女が、僕の悩みや苦しみにそっと手を添えてくれたからこそ、今この時があるんです。こんな頼りなくて、何の取り柄もない男に、彼女は大きな愛を示してくれたんです」
「いいえ……あなたは、私の自慢の旦那様ですわ。あの日、シェルム様があなたの力を見抜いたように、私もまた、あなたに愛を捧げたいと思ったのですから」

 そうして二人は見つめ合い、フフフと可愛く笑い合った。


 ……この取材中、彼がトイレに立った際、彼女に向かってこんな質問をぶつけてみた。
 彼の何処に惹かれたのですか? いつ、彼との結婚を決意したのですか?

 彼女は、ポっと頬を赤らめ、キモノの袖で口元を隠しながら答えた。

「あの日、出逢った瞬間です。彼は気がついていませんでしたが、あの時、私の尻尾はパンパンに膨らんでおりました。後日、それをシェルム様に からかわれてしまって、大変でしたわ。『お主の尻尾を見る限り、満更でもないようじゃな。よしよし、仲人は任せておけ!』と」

 当時を振り返る彼女の表情。
 そこには、素敵な恋を語る乙女の輝きがあった。

 そして、彼にもまた、同じ状況で同じ質問をぶつけてみた。
 彼女の何処に惹かれたのですか? いつ、彼女との結婚を決意したのですか?

 彼は、困ったような顔で「あはは……」と笑ってから、少し恥ずかしそうに答えた。

「元の学校の宿舎から騎士団の宿舎へ引っ越す時、彼女が手伝いに来てくれたんです。その時、改めて彼女の姿を見て……あぁ、何て綺麗な子なんだろう、と。シェルム様から『寝食を共にするように』と言われた時は驚きましたけど、ここだけの話、心の中では喜んでいた部分もありましたね」

 当時を振り返る彼の表情。
 そこには、苦しくも思い出深い青春時代を語る、穏やかな男の光があった。


 現在、二人は“陸の騎士団 要人警護部”に所属している。
 その名が示す通り、国内外の要人・来賓を守ることを主な任務とする部隊である。

 部隊長は、彼の存在についてこう語る。

『ただそこに居るだけで、巨大な抑止力を発生させる存在。それが、彼なのです。

 時間制限があるとはいえ、彼が持つ盾の魔力は、あらゆる攻撃を無効化します。
 ゆえに、親魔物国家の転覆や分裂を狙う、一部の過激な反魔物国家たちも、安易な行動を起こすことが出来ないのです。

 公の場所において、要人・来賓の背後には、いつも影のように私たちが付き添っています。
 私たちは常に厳しい訓練と学習を積み重ね、警護の専門家としての仕事を重ねています。
 しかし、大規模な演説や式典を執り行う際には、どうしても隙や綻びが出来てしまう……そんな時に力を発揮するのが、彼の持つ盾の魔力であり、存在そのものなのです。

 例えば、壇上に大臣が立ち、大観衆に向けて演説を始めたとしましょう。
 背後は私たちが固めますが、前面は無防備な状態となります。
 もしも、その瞬間を恐ろしい暗殺者や特殊部隊員が狙っていたとしたら……?

 けれども、心配はご無用。そこで、彼が活躍するのです。
 演説の間、彼が盾の魔力を発動させ、大臣を守ります。
 ある時は、己と大臣のみを包むように。
 またある時は、壇上とその周囲全ての空間を密封するように。

 彼の魔力は、無色透明。
 それでいて、何かしらの攻撃を受ければ、その部分が池に広がる波紋のように波打ちます。
 守る側にとってはこれ以上ないほど頼もしく、攻める側にとってはいつ、どのような形で発動しているのかわからない。
 安易な攻撃はただ己の姿を晒し、“卑劣な企みが実行された”という事実を残すのみ。
 もちろん、そうした下手人をみすみす取り逃がしたり、仕掛け爆弾を見落としたりするほど、私たちは軟弱な組織ではありません。

 こうした理由を含めた様々な要素や戦術から、「彼はただそこに居るだけで、巨大な抑止力を発生させる存在」と言うことが出来るのです』


 与えられる任務の重要性と機密性の高さ故、本章においても、二人の外見や身体的特徴に関する記述は、出来うる限り少ないものに留めている。

 どれほど大変な任務を、どれほど数多くこなしたとしても、彼に称賛の拍手が向けられることは永遠に無いのかも知れない。
 また、ひとたび紛争や戦争が勃発すれば、最も危険な最前線でその力を振るうことになるだろう。

 本当に、大変な役割ですね。
 こちらのつぶやきに、彼は「いや、まったくです」と笑った。
 しかし、すぐに表情を引き締め、落ち着いた口調でこう伝えてくれた。

「自分のような人間に、どうしてこんな規格外の魔力が備わっているのか。その答えは、今でもよくわかりません。もしかすると、一生をかけても、理解出来ない類のものなのかも知れません。でも……最近の僕は、それでも良いんじゃないかな、と思うようになっているんです」

 彼の横顔を、彼女が静かに見つめている。

「最初は悩み、苦しみ、迷いました。でも、彼女に支えられ、多くの仲間に励まされ、一つ一つの任務と向き合う内に、『こうして誰かを守り、共に笑うことが、自分の人生のテーマなのかも知れない』と、そう感じるようになりました。より幸せな明日のために、ある人は鍬を振るい、ある人はパンを焼き、ある人は剣を握る。そして自分の場合は、この魔力をきちんと正しく行使する」

 そこで、彼は一度言葉を切った。
 テーブルの上で組まれている彼の手に、そっと彼女が細い指を絡める。

「尊き平和と幸せへ近道なし。丁寧に、黙々と頑張るべし。騎士団職業訓練・工科学校への合格を目指して頑張っていた頃の気持ちに、今はどんどん戻っている感じですね。これまで色々ありましたし、きっとこれからも色々あると思いますが……僕なら、いいえ、僕と彼女なら、きっと大丈夫です。人生、何事も経験と勉強ですから」

 農家に生まれたごくごく普通の少年は、ある日突然 予想外の渦に飲み込まれ、苦しみと混乱の中でもがくことになった。
 心身を極限まですり減らし、もう駄目だと膝を屈しかけた時……彼を包み、労り、信じ続けてくれたのは、柔らかな尾と可愛い耳を持つ稲荷の乙女。
 彼女の献身と克己の心が彼を支え、渦から浮上するための道を示した。

 二人が歩んで来た道は、決して簡単なものではなかっただろう。
 時には、共に泣き濡れるような夜もあったかも知れない。
 何度も熱せられ、何度も叩かれ、極限の硬度を手に入れる鋼のように、数多の試練が二人の絆を揺るぎないものに変えていったのだ。

 やがて、三尾の乙女は五尾の美しき稲荷となり、頼りなさ気な少年は国を守る立派な騎士団員となった。


 最後の質問として……二人に、問いを投げかける。
 十年後、どんな自分でありたいですか?

 彼女が答える。

「彼と共に。私の想いは、ただそれだけでございます」

 彼が答える。

「今以上に、立派な盾の男になりたいですね。仕事はもちろん……彼女と、まだ見ぬ娘の幸せも守れるような、そんな男に」

 彼の言葉に、彼女が「まぁ!」と感激する。
 そんな彼女に、彼は茶目っ気あるウインクで応じた。

 盾は、静かに輝く。
 過去の苦闘も、未来への希望も、すべてを等しく受け止めながら。
13/05/15 23:58更新 / 蓮華
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■作者メッセージ
大変長らくお待たせいたしました。

皆様に忘れられた頃に投稿する奴、蓮華でございます。

このペースで行くと、完結までに一年半くらい
かかりそうな感じですね……申し訳ございません。


さてさて、ようやくのお話と第四章のQ&Aです。

「飛竜の姿になったワイバーンさんが、胴体や翼の下に
 ミサイル的なものを装備して飛んで来たら、死ぬほど怖いだろうなぁ」

……という妄想が、今回のお話のスタートでした。

なお、後編はシェルムさんが開発した兵器やら薬品やらが登場する予定です。
もちろん、魔物さんが開発する兵器ですから、非殺傷タイプです。安全第一。


では引き続き、軽めなエロスに味付けした第四章のQ&Aをお楽しみください。

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