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結婚する際の心構えは、どんなものでしたか? |
《 結婚する際の心構えは、どんなものでしたか? 〜 アカオニのハルナさんの場合 》
ん〜、そうさねぇ。 人間と結婚するにあたっての心構え、ねぇ……。 こういう言い方をしちまうと、身も蓋もなくなっちまうんだろうけど……。 結局、【自分と旦那は、別々の存在であること】を自覚するって話に尽きるんじゃねぇのかい? ん? ふむふむ……確かに、ずいぶんと冷たい物言いに響くわなぁ。 言ってるアタイ自身が、こりゃ誤解されちまいそうだなぁって思ってるくらいなんだから。 でもね、こいつにはそれなりの訳ってもんがあんのさ……。 まず、アタイ自身の事について話そうか。 見ての通り、アタイはアカオニだ。 本来なら、この国にはいない種類の魔物だね。 アタイ達アカオニの故郷は、ここから遠く遠く離れたジパング……そう、どこかの旅人が『黄金の国』なんて呼んでるらしい、そのジパングさ。 こっちじゃ珍しいもの扱いをされる事もあるんだけど、ジパングじゃそれなりに敬われてるんだよ、アタイ達は。 地方によっちゃ、神様と同じように祀られてたりするくらいなんだから。 ……む? 何だい、その顔は。 信じられないって面してるよ? アタイの説明に、何か文句でもあんのかい? ふっ……アハハハハ! 悪い悪い、冗談さぁね。すまないね。 でも、アタイの言葉に嘘は無いよ。 アカオニが嫌うものって、知ってるかい? 例えばそれは、炒った豆、柊の枝に挿した焼き鰯の頭、菖蒲……そして、つまらない嘘さ。 アタイ達は、酒や正直者が大好きだ。 そして反対に、小ざかしい嘘や謀が大嫌いなんだよ。 だから、アカオニは嘘をつかない。信じてくれて良いよ。 ちなみに……弱点は他にもチラホラあるんだけど、その辺は『嘘』じゃなく『内緒』って事で頼むよ。 さて、ちょいと話を戻そうか。 人間の中には、物好きと呼ばれる奴や、無謀な冒険を好む奴なんかがいるだろう? 実はそういう手合いは、アタイ達アカオニの中にもちょこちょこいてね。 よせば良いのに色んな事に興味を持った挙句、住み慣れた里から飛び出しちまったりする訳さ。 そこで、さ。 そんな冒険好きの人間と、物好きなアカオニが出会っちまったら……どうなるかね? アタイの親父とお袋は、そんな二人だったんだ。 親父は、この国生まれの冒険家。 お袋は、ジパング生まれのアカオニさん。 当時十七の親父は周りの反対を押し切って、両親にも勘当されて、それでも懲りずにジパングを目指したんだ。まったく、馬鹿だよねぇ。 で、六年の苦難の末についにジパングにたどり着き、あっちこっちとうろつき回っている中で、お袋と出会ったんだとよ。 親父が言うには、山奥で酒樽を頭からかぶって寝てたらしいんだな。お袋は。 で、「ほほぉ、これがアカオニかぁ」なんて言いながら観察してたら、唐突に目を覚ましたお袋に見つかって、そのまま押し倒されてご結婚、さ。 な? すっげぇ頭の悪ぃ話だろ? 真似すんなよ? で、順番も何もメチャクチャだけど、親父とお袋は色んな事について語り合って、お互いを理解し合っていったらしいんだ。 そして、お袋は……これまたよせば良いのに、決断しちまったんだねぇ。 「聞けば聞くほど、あんたの話は面白い。あんた自身も、面白い。気に入った! アタシは、あんたと一緒にどこまでも旅をするよ! 海でも山でも、越えて行ってやろうじゃないのさっ!!」 そんな調子で、アカオニさんお一方、ジパングより輸出決定〜……さ。 最初、親父は冗談だと思ってたらしいんだけどね。 でも、さっさと旅の支度を整えて、知り合いのジョロウグモや稲荷に挨拶をしている姿を見ているうちに、「あぁ、これは本気なんだな」と実感したんだとよ。まったく、遅いっての。 まぁとにかく、そんなこんなの末に親父は来た道を戻り始めたんだ。隣に、物好きのアカオニを連れてな。 行きは六年かかったけど、帰りはコツを掴んだのか何なのか、半分の三年で戻って来た。 そして、生活が落ち着くのと同時に、お袋の腹には新たな命が宿った……そう、それがアタイ。 この国生まれのこの国育ち、アカオニのハルナさん誕生って訳さ。 あとまぁ、これは余談なんだけども……。 帰りの道中は、親父がお袋のすごさを知る旅になったらしいよ。 そりゃあ、ねぇ。 例えば、盗賊団が出ると聞けば暇つぶしに壊滅させて、横暴な貴族がいると知れば殴りこんで改心させて、食い物に困ったら「刺身だ刺身!」とか言いながら生の魚をバリバリ食って……。 三年間みっしりとそんな姿を見ていれば、普通の感性じゃない親父だって「こりゃ参った」と思うだろうさ。 何せ、実の娘であるアタイだって、未だに圧倒される事があるんだから。 え? 今、ご両親はどちらにって? 北限の国へ、冬山登山に行ってるよ。 そう、数々の冒険家を死に追いやって、『魔の山』と名高いその場所さ。 ん? 心配じゃないんですかって? あぁあぁ、心配なんてするもんかね。あの二人は大砲で撃たれたって死にゃしないよ。 それに、ジパングには【便りが無いのは良い便り】って……あれ? 【便りが無いのは元気の印】だったかな? え〜っと……とにかく、そういう言葉があるのさ。だから、心配なんてしてないよ。 もしも死んだなら、死んだって内容の通知でも届くだろうしね。 放っときゃいいのさ。うん。 あぁでも、そんな両親に感謝する事があるとするなら……この場所に家を構えてくれた事かな。 どうだい? 良い所だろう、この草原は。 川があって、山もあって、見渡す限りの緑の絨毯。 お袋が言うには、「それに加えて、ここはジパングみたいな四季を感じられる!」らしいんだ。 何せアタイはこの国生まれだから、ジパングの四季ってもんがイマイチわかんねぇんだけどさ。 でも、一年の中で季節の移り変わりを感じられるのは、確かに良いもんだと思うよ。 それに、草原のはずれのこの場所は、小さな魔物集落でもあるからね。 おまけに少し歩けば、人間達が暮らす村もある。 さらに、お互いがいがみ合う事もなく、平和に協力し合って暮らしてる……な、最高だろ? この国は昔から魔物と良い関係を築き続けて来たらしいけど、その中でも特にここは非の打ち所が無い。 他所の人間がどう言うかは知らないけど、少なくともアタイはそう思ってるよ。 あぁ、そうそう。 この集落出身のワーラビットが、ここから馬で二日ほどの街で働いてるよ。 アタイの幼馴染なんだけどね。お菓子と料理が大好きな、気の良い奴さ。 後でそいつの名前やら店の場所やらを教えてあげるから、取材に行ってみたらどうだい? で……これでだいたい、アタイの出生の謎は話したかな? それじゃあ次は、アタイの旦那について話そうか。 アタイの旦那は、薬学と植物学を修めた研究者兼薬屋さ。 今この時間も、草原や水辺を歩き回って、色んな観察や採集なんかをしてんじゃないかな。 ん? 出会いのきっかけかい? まぁ、【雨季】なんて言葉を使うほど大げさなもんじゃないんだが、この草原には馬鹿みたいに雨が降る時期があってね。豪快にドサ〜っと降って、ピタっと止んで……を繰り返すのさ。 で、旦那はそれを知らずにこの草原へやって来て、見事に濡れ鼠になっちまったんだ。 「……すいませぇ〜ん。雨宿りをさせていただけないでしょうかぁ〜」 それが、アタイが初めて聞いた旦那の言葉さ。 本当、捨てられた子猫の鳴き声みたいな、何とも哀れな調子だったよ。 んで、「おやおや誰だい?」と思いながら玄関を開けてやったら、あの野郎、「ヒっ!?」なんてわかりやすく驚いて飛び上がりやがってねぇ。 「あ〜ん? 何だい何だい。人の顔見て恐れおののくたぁ、無礼な奴だね」 「う、あ、いえ、その……ごめんなさい。ちょっと、予想外の方が出て来られたもので」 「ふっ、正直な答えだ。旅の人かい? ずぶ濡れだねぇ」 「あ、はい……それで、その……雨宿りをさせていただきたくて……」 もうちょっとからかってやろうかな、とも思ったんだけど、本当にずぶ濡れで唇も紫になってたからね。 これ以上はさすがに可哀想かと思って、家の中に入れてやったんだ。 そして、親父の服と下着を渡して、脱いだ服を家の中の物干し縄に引っ掛けて、ついでだから熱いお茶も淹れてやってね。至れり尽くせりだよ、まったく。 とにかく、そうして落ち着いた後は、激しい雨音を聞きながら自己紹介の時間さ。 そこでわかった事は、旦那が首都近郊の生まれだということ。 アカデミーを卒業して、付属の研究所に勤めていたけど、植物や薬の力をもっと多くの人に広めたいと思って退職したこと。 そんな決意と共に国中を歩き回り、最後にこの草原へやって来たこと。 そうして、人間の村のみんなと触れ合い、草原の珍しい植物に関心しながら歩いていたら、この大雨に襲われて大変な状態に陥ったこと。 「ふ〜ん。でもさ、村のみんなも『この時期には雨が降りますよ』って言ってただろう?」 「あぁ、はい……だから、雨具も用意してたんですけど、ここまでの雨と風だとは思ってなくて」 「おいおい。植物の学問を修めたんなら、そいつらが育つ土地の特徴も覚えときなよ」 「はい……まったくもって、返す言葉もありません。はい」 別に責めてたつもりは無いんだけど、旦那はどんどん小さくなっていっちゃってね。 親に叱られた子供みたいなその姿が、何故だか妙に可愛らしく見えたもんさ。 え? その時、アタイの両親はどうしてたのかって? さっき言ったワーラビットがいる街へ、食道楽の小旅行に行ってたよ。 冬山登山から食いしん坊旅行まで、本当に何でもありなんだ、あの二人は。 ……って、話の中心が親になっちまうよ。 まぁ、そんな出来事があって、アタイと旦那は知り合ったのさ。 ちなみにその日は、一晩泊めてやったよ……と言っても、別に変な事はしてないよ? 軽くアタイの晩酌に付き合わせて、半時足らずで酔い潰しちまったくらいのもんさ。 うちの旦那は性根は良いが、酒に弱いのがつまらないんだよなぁ。 んでその後、旦那はこの草原をえらく気に入ってね。 「植物学的にも、薬学的にも、この草原は素晴らしいですよ。観察と研究、それぞれの材料の宝庫です。う〜ん、この集落か村かに家でも建てようかな……残ってる退職金と貯金を全部使えば、何とかなるかも」 なんて、腕組みしながら唸ってたもんだから、アタイは何気なく、 「だったら、うちを拠点にすりゃ良いよ。鉄砲玉みたいな親だからいっつも留守だし、アタイ一人じゃこの家を持て余しちまうしね」 って言ったのさ。 そしたら、常日頃はポワ〜ンとしてる旦那がアタイの手をギュッと握って、 「本当ですかっ!? 是非是非、お願いします!」 ……と来たもんだ。 まったく、人間て奴は自分の好きなものが懸かると豹変するもんだねぇ。 正直、あの時はちょいと色んな意味で驚いちまったよ。 まぁまぁ、そうして話が決まれば、あとは早いもんさ。 単なる物置と化してた親父の部屋を掃除して、旦那の部屋兼研究室に大改造だ。 「遠慮気兼ねなく自由に使ってくれて構わねぇが……爆発するような実験は勘弁だぞ?」 「ははは、それは大丈夫です。ガスや爆弾を作るつもりはありませんから」 「フフっ、そうかい。なら安心だ。けど、一つ注意させてもらっても良いかい?」 「はい、何でしょう?」 そう言って小首をかしげる旦那の鼻先に、アタイはズイと右手の人差し指を突きつけた。 「その言葉遣いさ。アタイは、敬語って奴がどうにも苦手でね。長い事聞いてると、ケツの穴がムズムズしちまうんだ。今後、アタイには敬語禁止……わかったかい?」 すると旦那はキョトンと目を丸くしてからニッコリ笑って、 「なるほど、了解です……じゃなくて、だ。うん。わかったよ。ありがとう」 その顔を見て……アタイはちょっと、グッと来ちまったんだなぁ。 今思えばあの辺りから、アタイは旦那にホの字になり始めてたのかも知れないねぇ。 旅から帰って来て、またすぐに出発する間際のお袋とも、 「お前も良い顔をするようになったじゃないか。そうかいそうかい。ようやく恋を知り、男を連れ込む歳になったのかねぇ。アタシゃ早く孫ってモンを抱いてみたいんだ。だから、気合い入れて頑張んな!」 「うるせぇっ! さっさと行きやがれっ!」 とか何とか、そんなやりとりをした記憶があるよ。 なぁ……いきなり変な事を訊いて悪いんだけど、あんたには【絶対に触れられたくないこと】ってあるかい? ふふ、まぁこんな訊き方をされても、答えようが無いわな。 そもそも【絶対に触れられたくない】んだから、答えて突破口を見つけられても困る訳だ。 だったら、どうするか? どうなるか? 常日頃の人付き合いや会話の中で、ゆっくりと、周到に、【絶対に触れられたくないこと】への道を塞いだり、知らん振りをしたり……そんな癖をつけるようになるだろうな。 それはズル賢さの類じゃなくて、一つの防御方法であり、独自の処世術みたいなもんだ。 心の古傷が痛まないように、血を噴き出さないように、しっかりと注意する。 もしも相手が踏み込んで来そうになったら、柳のようにスルリと逃げる。 例えその相手が、自分にとって恩義や好意がある相手であっても、な。 アタイは、アカオニだ。見ての通りの、アカオニだ。 そして同時に、アタイは女でもある。当時は未婚の、必要以上に健康な女さ。 そんな女が、歳の近い健康な男と一緒にいて、しかもそいつの事を憎からず思っている。 男の方も朗らかに、腹を割った言葉のやり取りに応じてくれている。 普通なら……まぁ、それなりに艶っぽい展開が生まれる率が高いだろうな。 お互いに未婚。お互いに健康。お互いにちょいと気になる。 人と魔物の違いはあれど、どうしようもない程の障壁ではなさそうな気配。 でも……旦那は、まるで柳のようだったんだよ。 話し合う、笑い合う、酒を酌み交わし合う。 お互いを理解し合い、一緒にいる時間が心地好い。 だけど、自分の心の最後の一歩、アタイの言葉の最後の一振り……それを絶対に許さないんだ。 それは、露骨な拒絶じゃなかった。明確な言葉や動きじゃなかった。 けどね、確かにわかるんだよ。 あぁ、こいつは何かを心の中に持ってるんだな。アタイに限らず、誰かに触れられなくない何かを抱えてるんだな……ってね。 アタイは、自他共に認めるガサツな女さ。 それがアタイのサガなのか、アカオニゆえの事なのかは知らねぇけど、とにかくそんな女なのさ。 でも、そんな女らしくない女のアタイでも、ピンと来る時ゃ来るんだよ。 旦那がうちに出入りするようになって半年。 アタイは、覚悟を決めたんだ。 迷ったよ。怖かったよ。躊躇ったよ。 でも、決めたんだ。 アタイは、この男の心に踏み込むぞ……とね。 さぁて、それじゃあ、大事な話をしようか。 アタイが旦那に好いているという自分の思いを告げ、それに応えた旦那が話してくれた、とても大事な話をね。 旦那には、五年付き合い、共に暮らし、将来を語り合った女がいたんだ。 アカデミーに入って間もなくに知り合った女だったそうだよ。 二人はすぐに打ち解けあい、惹かれ合い、心と体を重ねるようになった。 大小色々な衝突を経験しても、何とかそれを乗り越えながら絆を深めていった。 二人で色んな事を分け合い、色んな事を伝え合い、色んな事を確かめ合う。 ちょいとヤケちまうけど、旦那にとってその時間は、今もこれからも変わらぬ輝いた時間として、心の中に残り続けていくんだろうね。 けれど……そんな二人にも、とうとう気持ちがつながらなくなる時がやって来た。 気持ちのすれ違い、お互いに進みたい人生の溝、相手に届かない言葉の山。 色恋ごとに疎いアタイでも、その場の辛い空気は想像できる。 部屋を出て行く彼女の背中を、旦那はどんな気持ちで見送ったのかね……。 ……と、ここで話が終わっていれば、きっと旦那は幸せだったんだ。 時間の流れと共に、その心の痛みを人生の糧にも出来ただろうさ。 別れの時から半年ほどが経った頃、旦那のもとに一通の手紙が届いた。 差出人は、彼女さ。 静かに封を開けた旦那は、そこに綴られた言葉にため息を漏らした。 子供が出来たと。 私の腹の中にいる子は、あなたの子だと。 だから、責任を取ってくれと。 物事には、【禁じ手】と呼ばれるものがある。 絶対にそれをやっては、言っては、使っては、お仕舞いだ……というものがある。 確かに、人間の女は非力な存在さ。時に、可哀想な存在にも成り得るんだろうさ。 でもね、そんな人間の女にも、やっぱり禁じ手ってもんはあるんだよ。 越えちゃいけない一線ってもんは、あるんだよ。 【友人知人】って奴は、時にありがたく、時に恐ろしい存在なのかも知れないね。 【偶然の目撃】って奴は、時に事実を明らかにし、時に心をえぐる瞬間なのかも知れないね。 「なぁ、お前はあの子と付き合ってるんだよな? 知らない男と仲良さそうに歩いてたけど……あれ、お前も知ってる奴なのか?」 「君と彼女が付き合っている間は、見間違いかも知れないから黙っておこうと思ってたんだ。でも、やっぱりそうだったのかな。君は彼女に、二股をかけられてたんじゃないのか?」 「まぁ、呑めよ。女なんて星の数ほどいるさ。もう向こうは別の男を見つけたみたいだし、お前も負けてる場合じゃないだろう? な? アッハッハっ!」 彼女は、知らないと思ってたんだろうな。 旦那は、色んな事を知ってしまっていたんだろうな。 最初は、「まさか」と思ったそうさ。 人の話を聞いても、「そんなはずはない」と首を振ったそうさ。 そして自分自身の目で見ても、「何かの間違いだろう」と念じたそうさ。 でも、事実は最悪の形で旦那の眼前にやって来た。 半年振りに再会した部屋で、旦那は声を荒らげる事もなく、取り乱す事もなく、彼女の言い分の疑問点や矛盾点を指摘していった。 最初は二言三言と反論していた彼女もやがて押し黙り、最後にはポロポロと涙を流し始めた。 「落ち着いて。僕は決して、君を責めたりはしない。だから、教えて欲しいんだ」 旦那は、その問いかけが自分達の五年間を完全に破壊する事になるとわかっていながら、全ての決着をつけるために訊いたらしい。 「君は、僕と一緒にいた時から、別の誰かを好きになっていたんだね。そして、今のその人との関係を壊したくないから、罪を僕に背負って欲しいから、あんな手紙を書いたんだね」 彼女は、涙を拭いながら、旦那と視線を合わせる事無く、小さく頷いたんだ。 ふぅ〜……やれやれ。 オニには辛い、重いだけで面白くもなんとも無い話、さ。 悪いけど、ちょいと酒を呑んでもいいかい? なぁに、軽い奴さ。 あんたも一杯いくかい……そうかい。 夜道で賊に襲われた人間は、一生暗闇を恐怖するようになるだろ? 大切な金を盗まれた人間は、一生泥棒を憎むようになるだろ? ならば、心底好いていた相手に裏切られた人間ってのは、一体どうなっちまうのかね? 達観する。正解だろうな。 どれほど長い時間を共に過ごしても、どれほど多くの言葉を交わしても、結局相手と自分は別々の存在。交わらない存在。 怯え続ける。それも、正解だろうな。 良い奴と出会った、素敵な人と巡り会った……だけど、この人は一体いつまで自分のそばにいてくれるんだろう? 今、腹の中に、どんな本音を持っているんだろう? 「僕は、彼女を非難しようとは思わないんだ。僕にだって、自覚のある無しに関わらず悪い所はたくさんあったはずだから。彼女を傷つけた所もあるはずだから。『二人でいる』という事は、必ずそれぞれに何かがあるという事なんだよ。そこに必然はあっても、偶然は無いんだ」 そんな風に語る旦那を見て、アタイは戸惑ったよ。 そして、旦那の事を遠くに感じたよ。 実際は、今こうしてあんたと話している、まさにこのテーブルと椅子の場所、距離だったんだ。 でも、お互いの心の距離は、千里よりもなお遠くに感じたね。 それは、経験した心の痛みの差なのか、それとも旦那が自分の意思で作り出した距離なのか。 アタイには、正直何もわからなかったよ。 でも、それでもやっぱりアタイは、旦那の事を憎からず……いいや、好いてたんだなぁ。 そして、やっぱりアタイは、何処までも馬鹿でガサツなアカオニだったんだなぁ。 すっかり冷めた茶を飲んでた旦那を置き去りにして、アタイは一人でズンズンと台所へ向ったんだ。 そうして、戸棚の奥から、一本の酒瓶を取り出した。 キツイ酒さ。 とびっきりに、キツイ酒さ。 あんた達人間が呑んだなら、たった一口でも死の淵にまで行っちまう程のやつだ。 アタイはそれをガッと掴んで、喉を鳴らしてゴクゴク呑んだ。 いやぁ、効いたねぇ、回ったねぇ。 鉄槌でガチ〜ンとぶん殴られたくらいの衝撃だったよ。 口元をグイと乱暴に拭って、アタイは再びこの椅子に座った。 そして、突然の行動に目を白黒させてた旦那に向って言ったんだ。 「オニは嘘をつかない。それはあんたも知ってるね?」 「え、あ、う……うん。知ってるよ。ハルナとお母さんを見てたら、よくわかった」 「おう、上等だ」 アタイはニッと笑って、腕を組みながら告げたよ。 「あんたが負った心の痛み、それをアタイは全部正確にゃ理解できない。『できる』なんて言ったら、そいつはとんでもない大嘘だ。あんたに対する侮辱だ」 「う、うん……」 「だが、あんたが苦しんだ事と、今も苦しんでる事は理解できた。底無し沼みたいな気持ちの中で、言葉にしがたい感覚に包まれてる事もわかった」 旦那は、黙って頷いてたね。 「ところで、あんたから見たアタイって……どうだい? そこそこ良い女に見えてるかい?」 「……は?」 「おいおい、間の抜けた声を出すんじゃないよ。もう一度だ。どうだい? アタイは、あんたから見て良い女かい?」 『いきなりそんな事を訊かれても』って顔全体に書いてあるような様子で、旦那は目を泳がせてたよ。 だけどそれでも、ゆっくりとこう答えてくれたんだ。 「え〜っと……うん。酒に強過ぎるし、力もあり過ぎるし、声もでかいし言葉遣いも荒いけど、ハルナは明るくて心根の暖かい、素敵な女性だと思うよ」 アタイは、その言葉を大笑いしながら受け取ったよ。 「結構、結構! 正直で何より! で、どうだい?」 「……何が?」 「アタイを嫁にする気は、あるかい?」 「ハルナ……」 アタイがそう言うと、旦那は途端に困ったような顔になったよ。 だけど、アタイは全く焦らずにこう声をかけたんだ。 「アタイは、あんたを好いてるよ。で、アタイの自惚れでなけりゃ、あんたもアタイをそこそこ気に入ってくれてる。どうだい? 今ならこんな正直な女房と一緒に、この家と抜群の環境もついて来るよ? 絶好機じゃないかね?」 そこで、旦那は黙り込んじまった。 アタイも、何も言わなかった。 だって、アタイは旦那とって恐ろしい決断を求めたんだからね。 そして同時に、旦那の心の傷を知ったうえで、その場所に旗を立てたんだからね。 そうして五分ほどの時間が流れてから、アタイは静かに口を開いたんだ。 「夫婦になるって事は、奇麗事だけじゃ済まないね。違う考え、違う存在の二人が、それでも一緒に生きて行こうって腹を括るんだ。砂浜の粒よりもたくさんの『もしも』や『どうしよう』が待ってるだろうさ」 旦那は、何も言わなかったよ。 「ましてや、あんたは一度死ぬほど辛い思いをした。今も続くその痛み、苦しさ、恐ろしさは、たぶん半端なもんじゃないんだろうね……」 そこまで言って、あたいは旦那の手から僅かに茶の残ったカップを奪って、残りを全部飲み干したんだ。 喉がカラカラでね。いやぁ、情けない話だけど、実はアタイも密かにビビってたのさ。 「アタイは、神様じゃない。だから、未来の事はわからない。アタイは、魔法使いじゃない。だから、あんたの心の全てを理解して読み切る事は出来ない。でも、同時にね……」 アタイは、旦那の瞳を見つめたんだ。 そして旦那も、じっとアタイの瞳を見つめ返してくれたんだ。 「アタイは、あんたを好いてる女だ。だから、あんたのそばにいたい。あんたの弱い部分も包んでやりたい。アタイは、アカオニだ。だから、この魂と存在の全てにかけて、嘘をつかない。あんたのためなら、この角を差し出したって惜しくはないよ」 「ハルナ……僕は、僕は……」 見つめていた旦那の瞳から、涙のすじが一つ、二つ……。 アタイは何も言わず椅子から立って、旦那をこの胸に抱きしめたよ。 旦那は、そのままわんわんと子供みたいに泣いてた。暖かい涙だったね。 実はその時、アタイも泣いてたんだ。 ジパングには、【鬼の目にも涙】なんて言葉があってね。 『慈悲の無い奴でも、時にはそんな心を起こして涙を流す』って意味の言葉さ。 まったく、失礼な物言いもあったもんさね。 アタイだって、アカオニだって、本当に心が動いた時には涙を流すんだよ。 ただただ正直に、あるがままにね。 うぅ〜ん……すまないんたけど、もうちょっと強い酒を呑んでもいいかい? いやぁ、今さらながらにこっ恥ずかしくなっちまってね。いやはや。 やっぱりアタイにゃ、色恋ごとの説明なんて向いてないさね。 ましてそれが、自分と旦那の真実ならばなおさらさ。 ふぅ。ため息が出ちまうよ。 ん? その後のアタイと旦那かい? そっと旦那と口づけを交わして、一年半後に結婚したよ。 それだけの時間が、アタイと旦那には必要だったんだ。 ちなみに結婚式は、集落と村のみんなが手作りで執り行ってくれてね。 肩肘張ったところの無い、本当に最高の式だったよ! え? あぁ、そうさ。もちろん、うちのデタラメな両親も出席してたよ。 「馬子にも衣装、アカオニにも角隠しってかい?」 「なんだそりゃ。一人娘の晴れの日にくらい、気の利いた事を言ってくれよ」 「アッハッハ! そりゃ難しいねぇ。だってアタシゃ、お前の母親だよ?」 「……だな。期待したアタイが馬鹿だったよ」 なんて言ってたくせに、式が始まる直前にこんな事を言いやがるんだ。 「ハルナ、ありがとうよ。アタシとあの人の間に生まれて来てくれて。お前の喜びは、アタシ達の喜びさ。お前の悲しみは、アタシ達の悲しみさ。ハルナ、ありがとうよ。大切な事を、お前からたくさん教わったよ」 「お袋……」 「さぁ、結婚式の始まりだ! 気合を入れなよ、花嫁さんっ!」 で、アタイの背中を平手でバシ〜ン、さ。 手加減無しにぶっ叩くもんだから、息が詰まるかと思ったよ。 けどまぁ……親の存在ってのは、ありがたいもんだね。 ちょっと感謝して、これからは親孝行しても良いかなって思っちまったよ。うん。 さぁて、すっかり長話になっちまったねぇ。 もう今日は泊まっていくんだろ? 外も夕暮れ時になってるし。 ぼちぼち旦那も帰って来るだろうから、奴さんからも色々と訊いてみなよ。 あぁあぁ、そんな遠慮なんて要らないよ。金なんてもっと要らないよ。 オニは嘘が嫌いだけど、堅苦しい礼儀やら何やらも苦手なのさ。 ただ、どうしても何かしたいってんなら……アタイの晩酌に付き合ってもらおうかね。 フフフフフ、オニと酒を酌み交わす事の恐ろしさを体験取材さね。 おぅおぅ、今さら後ずさりしても遅いよ? だってあんたは、ついさっき「そんなお心遣いをただで頂く訳には」って言ったろ? オニに嘘をつくと、色々と酷い事になるんだから……潔くあきらめな。 なぁに、別に獲って喰おうって訳じゃないさ。 生き地獄は見るかも知れないけれども、ねぇ……? プッ……あははははっ! 悪い悪い、冗談さね。あんたは反応が良いから、からかい甲斐があるよ。 遠慮せずに座ってな……ほら、帰って来る旦那の足音が聞こえてきたよ。 |
「私って、天然だから〜」という人は、密かに計算高い。
「私って、毒舌家だからね」という人は、単に口が悪い人。 「私って、サバサバしてるから」という人は、妙に諦めが早いだけ。 ……などと感じてしまう事って、しばしばありますよね。 例えば本当に気風が良い人は、自分自身をそうだと思ってなかったり。 あるがままに自分を知るって、なかなか難しい事ですね……。 10/03/27 11:07 蓮華 |