第六話(前編)
結論を先に言うと、博人はシバの提案を受け入れた。
「やってくれるかい? そりゃありがたい」
「ヒロト様!?」
博人の肯定を聞いたシバは嬉しそうに頷き、マギウスは目に見えて動揺した。しかしキキーモラはそこですぐに己を律し、息を整え気持ちを落ち着かせてから、改めて博人に伺った。
「……本当に、よろしいのですか?」
「は、はい」
「本当の本当に、ここで働くおつもりなのですね?」
「はい……っ」
博人の言葉は声量こそ小さかったが、迷いが無かった。彼の意志は固かった。克己心と庇護心に挟まれ、ジレンマに曝されたマギウスが渋面を浮かべる。
シバが口を開いたのは、その時だった。
「そんなにやる気があるんなら、こっちとしても雇わないわけにはいかないね。でも流石に、明日からすぐ働けとは言わないよ。まずは親御さんに報告して、それから改めてうちにおいで」
シバの言葉は優しかった。博人は小さく頷き、マギウスの困惑は晴れなかった。
するとシバが、隣で燻るマギウスに発破をかけた。
「ほらほら、あんたもそんな顔しないの。坊ちゃんが決めたことを、あなたが応援しないでどうするんだい」
「それは……」
わかっている。それくらい十分わかっている。博人を守る。博人を支える。それこそが従僕としての自分の責務だ。そんなことは百も承知だ。
「わかっていますとも……」
なのに。だと言うのに。この胸のざわめきはなんだろう。自分の手元から博人が離れていく感覚に、マギウスはただならぬ焦燥と恐怖を覚えた。
博人はそれに気づかなかった。シバはそれに気づき、小さくため息をついた。
なぜここでため息をつくのか。博人はシバの行為の意味を悟れなかった。もしかしたら自分は何かまずいことをしたのだろうか。博人は途端に不安になった。
「ああ、違うよ。坊ちゃんは悪くないよ。あんたのせいじゃないんだ」
即座にシバがフォローに入る。この刑部狸は他人の感情の動きに敏感だった。それでいて気配りも出来た。嫁にするなら今の内である。
「とにかく、今日はもう帰りな。それからまず親御さんに報告して、その後改めてうちに来なさい」
シバが続けて言う。博人が再び頷く。マギウスも遅れて頷いたが、その顔は晴れなかった。
「へえ。いいじゃない。やってみてごらんよ」
数時間後。家に戻った博人とマギウスは早速祖母にその話をした。祖母は即座にそれに賛成した。
博人の顔が晴れやかになり、マギウスの顔が曇る。二人の表情を交互に見ながら祖母が続ける。
「いつかは自分の足で立たなきゃいけない日が来るんだ。今の内にそれに慣れておくのもいいんじゃないかい」
あっさり肯定する。祖母の言動には迷いが無い。彼女は本気で博人の選択を歓迎していた。
そんなのは嫌だ。マギウスは反射的に――本能が理性を振り切って――反論した。
「ですがお祖母様、今それをする必要はないのではありませんか? まだヒロト様は」
「シバちゃんの所に行くんでしょ? なら問題ないわよ。他の場所なら流石に待ってほしいけど、あの人のところなら安心できるわ」
マギウスの反論を遮って祖母が言う。祖母は件の刑部狸をいたく信頼していた。二人は顔馴染みであり、博人やマギウスがここに来る前から友人同士であったのだが、博人たちがそれを知るのは当分先のことである。
話を戻す。祖母が博人の方を向き、再び彼の肩を押す。
「行っておいで。何事も経験だよ」
それが決め手になった。許しを得た博人は大きく頷き、マギウスはもうこの状況をひっくり返すことは出来ないと悟った。
博人がシバの元で働き始めたのは、それから二日経ってからのことだった。
祖母の言う通り、シバは博人の動かし方をよく心得ていた。彼女はピークタイム時に呼びつけていきなり接客をさせたりはせず、まず人気の少ない時間帯に呼んで品の陳列から始めさせた――現実でも新人には大体そう言った仕事からやらせるのだが、ここではその件には触れないでおく。
「これはここで、これはあっち。わからなくなったら地図を見て確認するんだよ」
「はいっ」
午後二時。商品移動用の大きなカゴと店内の見取り図を渡しつつ、シバが博人に指示を出す。カゴの中には多種多様な品々が規則正しく詰め込まれており、それらを決められた場所に置いていくのが博人の最初の仕事だった。
博人はその仕事を忠実にこなした。まだまだ手慣れておらず、動きもぎこちなかったが、それでも彼は自分の仕事を最後までやりきった。そして最後の一つを棚に置いた後、博人は次の指示を受けるために空のカゴを押してシバの元へ向かった。
「おお、終わったかい。よくやったね坊ちゃん。お疲れ様」
戻って来た博人に、シバが労いの言葉をかける。この時シバが博人にそれを頼んでから、優に二十分は過ぎていた。
シバはそれを責めなかった。この時博人に任せたのは、自分がやれば四、五分程度で終わる程度の作業である。だが彼女はそれを理由にして、博人の時間超過を指摘するつもりは毛頭なかった。
「全部所定の位置につけてくれたんだね? 本当に助かるよ。ありがとうね」
博人は素人だ。ここに来たばかりの新人だ。そんな彼をベテランの自分と同じ土俵の上に立たせて比較するのは、アンフェアの極みと言わざるを得ない。シバはそのことをよく理解していた。
今重要視するべきは、博人がきちんと仕事をこなしたことだ。彼の真面目さを尊重し、職務を完遂したことを褒めることだ。金の動かし方しか知らないようでは、一流の商人には決してなれないのだ。
「じゃあ次はこれをやってもらおうかね。さっきよりちょっと多いけど、やってくれるかい?」
「はい!」
「うん。いい返事だ。これなら任せられる。さあ行っておいで坊ちゃん!」
褒めて伸ばす。それがシバの方針だった。実際博人はよく頑張っている。自分が出来ることをしっかりこなしている。そこを褒めないでどうしろと言うのか。
次のタスクも、博人は全てこなして戻ってきた。今回も仕事を任せてから二十分程経過している。空のカゴを押して戻って来た博人の顔は達成感に満ちていた。
「お見事! 坊ちゃんに任せて正解だったよ!」
シバは真っ先に褒めた。時間制限をつけた覚えは無いし、何より彼はやりきったのだ。叱るのはお門違いだ。彼女はまず博人の努力を認めた。
そして実際、博人は彼女の称賛のおかげで、伸び伸びと仕事が出来ていた。褒められて喜ばぬ者はいない。自分の頑張りを認められるのは何よりの幸せである。博人のシバへの好感度はうなぎ登りだった。
「シバさん、次は何をすればいいですか?」
「そうだねえ、坊ちゃんには次はね……」
仕事を始めて三日経つ頃には、博人はすっかりここで働くことに慣れていた。シバと一緒に仕事が出来て良かったと心から思えるようになった。
一方のシバも、自分から手伝いを申し出る博人に強い好感を抱いていた。老人と観光目的の魔物娘しか来ない辺鄙な場所に、ここまでハキハキと動いてくれる若い子が来てくれた。奇跡だ。
故に刑部狸がこの真面目でまっすぐな青年に多大な信頼を寄せるようになるのは、ある意味当然の帰結であった。――もっとも、これはシバと博人がそれぞれ「使用者と労働者の適切な関係」を保った結果でもあり、特別なことは何もしていなかったりする。青年と刑部狸の親密化に魔力が関わっていると推測するのはナンセンスである。
話を戻す。
「それじゃあ坊ちゃん、ここら辺でぼちぼちお昼にしようか」
「はい、わかりました」
労働開始から一週間で、二人は完全に気の置けない仲になった。両者の間に恋愛感情はなく、ただ純粋な友愛と信頼だけがあった。淫らとは無縁の固い絆である。
魔物娘と人間でも、こんな関係が作れるのか。「魔物娘」がどのような存在か理解していた博人は、シバと仲良くなることに嬉しさを感じる一方、今の状況に少しばかり驚いてもいた。そして未だシバに襲われずに済んでいる現状に、彼は安堵してもいた。
「どうしてなのかな……」
しかし気になるのもまた事実。知らないことを知りたいと思うのは人のサガだ。止められるものではない。
当然博人も、己の欲求は止められなかった。
「ねえ、シバさん。聞きたいことがあるんですけど」
シバの店に来て一週間が過ぎた頃、博人はかねてより疑問に思っていたことをストレートにシバにぶつけた。婉曲したり、遠回しに聞いたりすることは出来なかった。
精神的な問題ではない。元々彼はそこまで器用な人間ではなかった。
「なんでここまで良くしてくれるのかって?」
昼食時。スタッフルームに向かおうとした矢先に博人から問われたシバは、すぐにそれに答えることはしなかった。ただ彼を見て、悪戯っぽくニヤニヤ笑うだけだった。
どうして回答しないのか。博人はほんの少し不安になった。そうして彼が不安になったところで、ようやくシバが彼に言った。
「まあ確かに、魔物娘が年頃の男の子に何のアプローチもかけないのは変だわねえ」
勿体ぶった言い回しだった。博人は早く結論が聞きたかった。
しかしシバは彼の無言の要求を無視した。どこまでも自分のペースで話を進めた。
「実際坊ちゃんは若いし真面目だし、性格も良くて紳士的だし。これ以上ないほどの優良物件だ」
シバの目が怪しく光る。
博人の背筋に悪寒が走る。
「本当言うと、今すぐ押し倒して食べちゃいたいくらいなんだよねえ」
強調するでもなく、驚かすでもなく。ただ淡々と言葉を述べる。それが逆に恐ろしかった。博人はここで初めて、自分が魔物娘の目の前にいることを自覚した。
自覚した次の瞬間、その剣呑な雰囲気をシバが自分から吹き飛ばした。
「……なんてね! 冗談だよ! いや食べたいのは本当だけど!」
大口を開けて盛大に笑い飛ばし、博人の肩をバシバシ叩く。後半に不穏な言葉が飛び出したが、シバは間髪入れずにその部分も自分から否定していった。
「大丈夫。襲ったりしないよ。確かに私は魔物娘だけど、坊ちゃんの気持ちを踏みにじったりはしない。本当さ」
その言葉はこれまで聞いたものの中で最も優しく、穏やかなものだった。それは博人の心に確かに安堵を覚えさせたが、同時に新たな疑問も抱かせた。
坊ちゃんの気持ち? 何を言っているのだろう。
「僕の気持ちって、どういうことですか?」
すぐに博人が問う。問わずにはいられない。
直後、シバの顔から笑みが消える。
「君が一番よくわかっているはずだ」
シバが言う。冷静に、冷徹に、突き放すように投げかける。
問われた博人は言葉に詰まった。目を見開き、何も言わずにシバを見返す。
「もう気づいているはず」
「……」
シバが追及する。図星だ。博人はとっくに、己の本心に気づいている。
だが言えない。恥ずかしくて言えたものではない。いくらシバでも、これは言えない。だから博人は沈黙した。額から嫌な汗を流し、博人はただ気まずい顔をした。
とにかく気まずかった。
「……」
暫し静寂に包まれる。重苦しい空気が場を飲み込む。博人は自分の心臓が締め上げられるような気分を味わった。誰かこの悪夢を終わらせてくれと、心から願った。
願いが通じた。痛ましい静寂が終わる時が来た。沈黙を貫く博人に根負けしたのか、おもむろにシバが口を開いた。
だが願いの成就には痛みが伴った。
「好きなんだろ? マギウスのことが」
博人は答えなかった。だが一瞬で驚愕に染まったその顔が、それが答えであると何より雄弁に語っていた。
大正解である。心の中を見透かされたようで、博人は薄ら寒さすら覚えた。
「なんでわかったんだって顔してるね」
脂汗を流しながら驚く博人にシバが言う。博人が驚きを貼りつけたまま首を縦に振り、それを見たシバが笑って答える。
「わかって当然さ。あれだけくっついてる様見せられちゃあね」
ぐうの音も出なかった。確かに二人でここに来る時は、いつも互いにぴったりくっついていた。仲の良い姉弟か、それ以上の関係に見えてもおかしくはない。
「姉弟同然の関係、とは思わなかったねえ。あの甘酸っぱい雰囲気。あれは恋をしている子にしか出せない空気だ」
向こうから補足を入れてくれた。ありがたい。博人としてはありがたくない。逃げ場を向こうから潰されてしまった。
もう観念するしかない。
「どうなんだい。好きなのかい?」
「……はい」
シバからの催促。消え入りそうな声で博人が肯定する。シバは何も言わない。
またも沈黙に包まれる。博人の視線が下がり、腹がキリキリ痛みだす。
その内シバが動き出す。ゆっくり右手を持ち上げ、博人の肩に置く。
肩に暖かく柔らかい感触。唐突にそれを感じた博人が一瞬ビクリとなり、恐る恐る顔を上げてシバを見つめる。
「素敵じゃないか」
彼の視界に入った刑部狸は、満面の笑みを浮かべていた。
場所を休憩室に移した後、博人は抱えていたものを全て吐き出した。具体的に言えば、マギウスに関すること全部である。
「いつ好きになったかはわからないんです。でも気がついたら好きになってて……」
シバは博人の言葉に耳を傾けた。博人の言い分は今一つ具体性に欠けるものだったが、シバは文句ひとつ言わずにそれらを聞き続けた。
暖めた弁当――マギウスが二人分作ったものであり、彼女はそれを初日から博人に渡していた――を電子レンジに放置したまま、二人の会話は続いた。
「自分の気持ちが好きってわかったのは、結構前のことです。でもマギウスさんに告白する勇気はなくて、誰かに相談する勇気もなくて……」
「一人でずっと引きずってたってわけか」
「はい……」
弱弱しく博人が頷く。彼の話はそこで終わりだった。そして最後まで話を聞いたシバは、すぐにはリアクションを示さなかった。
「――大丈夫。自信を持ちな」
やがてシバが動く。いつぞやと同じように片手を持ち上げ、今度は博人の頭をぽんと掴む。
「うちでこんなに頑張れてるんだ。告白も絶対上手く行く」
頭を力強く撫で回しながら、シバが博人に告げる。彼女は本気でそう思っていた。
博人はそうは思っていなかった。自分なんぞにそんな大それたこと出来るはずが無い。彼はまだ後ろ向きな感情を引きずっていた。ここに来た経緯を考えれば当然の思考である。
「それとも、やっぱりまだキツいかい?」
シバもそこは理解していた。だから持論のゴリ押しはしなかった。常に一歩退いて、博人の心の在り方を優先した。シバはどこまでもお節介焼きだった。
そんなお節介焼きな刑部狸からの問いかけに、博人は素直に首肯した。根性無しと思われようが構わない。辛いものは辛いのだ。もっともシバの方は、こうして本音をぶつけてくるのは信頼の裏返しであると思っていた――そしてそれは的を射ていた――ので、彼を根性が無いと批判する気は無かったのだが。
「よし! じゃあそんな迷える坊ちゃんに、私から一つアイデアを授けよう」
だからシバは、批判する代わりに彼の背中を押すことにした。前途ある若者の青春を華やかなものにしてあげたい。そんな老婆心が発動したのである。
「それって、つまり、なんなんですか?」
「それはね……」
博人が食いつく。シバがニヤニヤ笑いながら、博人の耳元に顔を近づける。そこでぼそぼそと、シバが何事か呟く。
数秒後、博人の顔が真っ赤になる。素早くシバから顔を離し、大きく見開いた目でシバを見据える。
「えっ、えっ、えっ……!?」
驚愕が彼の思考を阻害していた。まともに言葉も発せなかった。
そうやってあからさまに動揺する博人の姿を見つめ返しながら、シバが彼に静かに言った。
「大丈夫。出来るさ。勇気を出すんだ」
博人ならやれる。シバは本気でそう思っていた。彼女は両目に力を込め、じっと彼を凝視した。有無を言わせぬ眼力だった。
「やれる。坊ちゃんはやれる。いいね?」
シバが念を押す。なし崩しに博人が頷く。
彼は押しに弱かった。
「やってくれるかい? そりゃありがたい」
「ヒロト様!?」
博人の肯定を聞いたシバは嬉しそうに頷き、マギウスは目に見えて動揺した。しかしキキーモラはそこですぐに己を律し、息を整え気持ちを落ち着かせてから、改めて博人に伺った。
「……本当に、よろしいのですか?」
「は、はい」
「本当の本当に、ここで働くおつもりなのですね?」
「はい……っ」
博人の言葉は声量こそ小さかったが、迷いが無かった。彼の意志は固かった。克己心と庇護心に挟まれ、ジレンマに曝されたマギウスが渋面を浮かべる。
シバが口を開いたのは、その時だった。
「そんなにやる気があるんなら、こっちとしても雇わないわけにはいかないね。でも流石に、明日からすぐ働けとは言わないよ。まずは親御さんに報告して、それから改めてうちにおいで」
シバの言葉は優しかった。博人は小さく頷き、マギウスの困惑は晴れなかった。
するとシバが、隣で燻るマギウスに発破をかけた。
「ほらほら、あんたもそんな顔しないの。坊ちゃんが決めたことを、あなたが応援しないでどうするんだい」
「それは……」
わかっている。それくらい十分わかっている。博人を守る。博人を支える。それこそが従僕としての自分の責務だ。そんなことは百も承知だ。
「わかっていますとも……」
なのに。だと言うのに。この胸のざわめきはなんだろう。自分の手元から博人が離れていく感覚に、マギウスはただならぬ焦燥と恐怖を覚えた。
博人はそれに気づかなかった。シバはそれに気づき、小さくため息をついた。
なぜここでため息をつくのか。博人はシバの行為の意味を悟れなかった。もしかしたら自分は何かまずいことをしたのだろうか。博人は途端に不安になった。
「ああ、違うよ。坊ちゃんは悪くないよ。あんたのせいじゃないんだ」
即座にシバがフォローに入る。この刑部狸は他人の感情の動きに敏感だった。それでいて気配りも出来た。嫁にするなら今の内である。
「とにかく、今日はもう帰りな。それからまず親御さんに報告して、その後改めてうちに来なさい」
シバが続けて言う。博人が再び頷く。マギウスも遅れて頷いたが、その顔は晴れなかった。
「へえ。いいじゃない。やってみてごらんよ」
数時間後。家に戻った博人とマギウスは早速祖母にその話をした。祖母は即座にそれに賛成した。
博人の顔が晴れやかになり、マギウスの顔が曇る。二人の表情を交互に見ながら祖母が続ける。
「いつかは自分の足で立たなきゃいけない日が来るんだ。今の内にそれに慣れておくのもいいんじゃないかい」
あっさり肯定する。祖母の言動には迷いが無い。彼女は本気で博人の選択を歓迎していた。
そんなのは嫌だ。マギウスは反射的に――本能が理性を振り切って――反論した。
「ですがお祖母様、今それをする必要はないのではありませんか? まだヒロト様は」
「シバちゃんの所に行くんでしょ? なら問題ないわよ。他の場所なら流石に待ってほしいけど、あの人のところなら安心できるわ」
マギウスの反論を遮って祖母が言う。祖母は件の刑部狸をいたく信頼していた。二人は顔馴染みであり、博人やマギウスがここに来る前から友人同士であったのだが、博人たちがそれを知るのは当分先のことである。
話を戻す。祖母が博人の方を向き、再び彼の肩を押す。
「行っておいで。何事も経験だよ」
それが決め手になった。許しを得た博人は大きく頷き、マギウスはもうこの状況をひっくり返すことは出来ないと悟った。
博人がシバの元で働き始めたのは、それから二日経ってからのことだった。
祖母の言う通り、シバは博人の動かし方をよく心得ていた。彼女はピークタイム時に呼びつけていきなり接客をさせたりはせず、まず人気の少ない時間帯に呼んで品の陳列から始めさせた――現実でも新人には大体そう言った仕事からやらせるのだが、ここではその件には触れないでおく。
「これはここで、これはあっち。わからなくなったら地図を見て確認するんだよ」
「はいっ」
午後二時。商品移動用の大きなカゴと店内の見取り図を渡しつつ、シバが博人に指示を出す。カゴの中には多種多様な品々が規則正しく詰め込まれており、それらを決められた場所に置いていくのが博人の最初の仕事だった。
博人はその仕事を忠実にこなした。まだまだ手慣れておらず、動きもぎこちなかったが、それでも彼は自分の仕事を最後までやりきった。そして最後の一つを棚に置いた後、博人は次の指示を受けるために空のカゴを押してシバの元へ向かった。
「おお、終わったかい。よくやったね坊ちゃん。お疲れ様」
戻って来た博人に、シバが労いの言葉をかける。この時シバが博人にそれを頼んでから、優に二十分は過ぎていた。
シバはそれを責めなかった。この時博人に任せたのは、自分がやれば四、五分程度で終わる程度の作業である。だが彼女はそれを理由にして、博人の時間超過を指摘するつもりは毛頭なかった。
「全部所定の位置につけてくれたんだね? 本当に助かるよ。ありがとうね」
博人は素人だ。ここに来たばかりの新人だ。そんな彼をベテランの自分と同じ土俵の上に立たせて比較するのは、アンフェアの極みと言わざるを得ない。シバはそのことをよく理解していた。
今重要視するべきは、博人がきちんと仕事をこなしたことだ。彼の真面目さを尊重し、職務を完遂したことを褒めることだ。金の動かし方しか知らないようでは、一流の商人には決してなれないのだ。
「じゃあ次はこれをやってもらおうかね。さっきよりちょっと多いけど、やってくれるかい?」
「はい!」
「うん。いい返事だ。これなら任せられる。さあ行っておいで坊ちゃん!」
褒めて伸ばす。それがシバの方針だった。実際博人はよく頑張っている。自分が出来ることをしっかりこなしている。そこを褒めないでどうしろと言うのか。
次のタスクも、博人は全てこなして戻ってきた。今回も仕事を任せてから二十分程経過している。空のカゴを押して戻って来た博人の顔は達成感に満ちていた。
「お見事! 坊ちゃんに任せて正解だったよ!」
シバは真っ先に褒めた。時間制限をつけた覚えは無いし、何より彼はやりきったのだ。叱るのはお門違いだ。彼女はまず博人の努力を認めた。
そして実際、博人は彼女の称賛のおかげで、伸び伸びと仕事が出来ていた。褒められて喜ばぬ者はいない。自分の頑張りを認められるのは何よりの幸せである。博人のシバへの好感度はうなぎ登りだった。
「シバさん、次は何をすればいいですか?」
「そうだねえ、坊ちゃんには次はね……」
仕事を始めて三日経つ頃には、博人はすっかりここで働くことに慣れていた。シバと一緒に仕事が出来て良かったと心から思えるようになった。
一方のシバも、自分から手伝いを申し出る博人に強い好感を抱いていた。老人と観光目的の魔物娘しか来ない辺鄙な場所に、ここまでハキハキと動いてくれる若い子が来てくれた。奇跡だ。
故に刑部狸がこの真面目でまっすぐな青年に多大な信頼を寄せるようになるのは、ある意味当然の帰結であった。――もっとも、これはシバと博人がそれぞれ「使用者と労働者の適切な関係」を保った結果でもあり、特別なことは何もしていなかったりする。青年と刑部狸の親密化に魔力が関わっていると推測するのはナンセンスである。
話を戻す。
「それじゃあ坊ちゃん、ここら辺でぼちぼちお昼にしようか」
「はい、わかりました」
労働開始から一週間で、二人は完全に気の置けない仲になった。両者の間に恋愛感情はなく、ただ純粋な友愛と信頼だけがあった。淫らとは無縁の固い絆である。
魔物娘と人間でも、こんな関係が作れるのか。「魔物娘」がどのような存在か理解していた博人は、シバと仲良くなることに嬉しさを感じる一方、今の状況に少しばかり驚いてもいた。そして未だシバに襲われずに済んでいる現状に、彼は安堵してもいた。
「どうしてなのかな……」
しかし気になるのもまた事実。知らないことを知りたいと思うのは人のサガだ。止められるものではない。
当然博人も、己の欲求は止められなかった。
「ねえ、シバさん。聞きたいことがあるんですけど」
シバの店に来て一週間が過ぎた頃、博人はかねてより疑問に思っていたことをストレートにシバにぶつけた。婉曲したり、遠回しに聞いたりすることは出来なかった。
精神的な問題ではない。元々彼はそこまで器用な人間ではなかった。
「なんでここまで良くしてくれるのかって?」
昼食時。スタッフルームに向かおうとした矢先に博人から問われたシバは、すぐにそれに答えることはしなかった。ただ彼を見て、悪戯っぽくニヤニヤ笑うだけだった。
どうして回答しないのか。博人はほんの少し不安になった。そうして彼が不安になったところで、ようやくシバが彼に言った。
「まあ確かに、魔物娘が年頃の男の子に何のアプローチもかけないのは変だわねえ」
勿体ぶった言い回しだった。博人は早く結論が聞きたかった。
しかしシバは彼の無言の要求を無視した。どこまでも自分のペースで話を進めた。
「実際坊ちゃんは若いし真面目だし、性格も良くて紳士的だし。これ以上ないほどの優良物件だ」
シバの目が怪しく光る。
博人の背筋に悪寒が走る。
「本当言うと、今すぐ押し倒して食べちゃいたいくらいなんだよねえ」
強調するでもなく、驚かすでもなく。ただ淡々と言葉を述べる。それが逆に恐ろしかった。博人はここで初めて、自分が魔物娘の目の前にいることを自覚した。
自覚した次の瞬間、その剣呑な雰囲気をシバが自分から吹き飛ばした。
「……なんてね! 冗談だよ! いや食べたいのは本当だけど!」
大口を開けて盛大に笑い飛ばし、博人の肩をバシバシ叩く。後半に不穏な言葉が飛び出したが、シバは間髪入れずにその部分も自分から否定していった。
「大丈夫。襲ったりしないよ。確かに私は魔物娘だけど、坊ちゃんの気持ちを踏みにじったりはしない。本当さ」
その言葉はこれまで聞いたものの中で最も優しく、穏やかなものだった。それは博人の心に確かに安堵を覚えさせたが、同時に新たな疑問も抱かせた。
坊ちゃんの気持ち? 何を言っているのだろう。
「僕の気持ちって、どういうことですか?」
すぐに博人が問う。問わずにはいられない。
直後、シバの顔から笑みが消える。
「君が一番よくわかっているはずだ」
シバが言う。冷静に、冷徹に、突き放すように投げかける。
問われた博人は言葉に詰まった。目を見開き、何も言わずにシバを見返す。
「もう気づいているはず」
「……」
シバが追及する。図星だ。博人はとっくに、己の本心に気づいている。
だが言えない。恥ずかしくて言えたものではない。いくらシバでも、これは言えない。だから博人は沈黙した。額から嫌な汗を流し、博人はただ気まずい顔をした。
とにかく気まずかった。
「……」
暫し静寂に包まれる。重苦しい空気が場を飲み込む。博人は自分の心臓が締め上げられるような気分を味わった。誰かこの悪夢を終わらせてくれと、心から願った。
願いが通じた。痛ましい静寂が終わる時が来た。沈黙を貫く博人に根負けしたのか、おもむろにシバが口を開いた。
だが願いの成就には痛みが伴った。
「好きなんだろ? マギウスのことが」
博人は答えなかった。だが一瞬で驚愕に染まったその顔が、それが答えであると何より雄弁に語っていた。
大正解である。心の中を見透かされたようで、博人は薄ら寒さすら覚えた。
「なんでわかったんだって顔してるね」
脂汗を流しながら驚く博人にシバが言う。博人が驚きを貼りつけたまま首を縦に振り、それを見たシバが笑って答える。
「わかって当然さ。あれだけくっついてる様見せられちゃあね」
ぐうの音も出なかった。確かに二人でここに来る時は、いつも互いにぴったりくっついていた。仲の良い姉弟か、それ以上の関係に見えてもおかしくはない。
「姉弟同然の関係、とは思わなかったねえ。あの甘酸っぱい雰囲気。あれは恋をしている子にしか出せない空気だ」
向こうから補足を入れてくれた。ありがたい。博人としてはありがたくない。逃げ場を向こうから潰されてしまった。
もう観念するしかない。
「どうなんだい。好きなのかい?」
「……はい」
シバからの催促。消え入りそうな声で博人が肯定する。シバは何も言わない。
またも沈黙に包まれる。博人の視線が下がり、腹がキリキリ痛みだす。
その内シバが動き出す。ゆっくり右手を持ち上げ、博人の肩に置く。
肩に暖かく柔らかい感触。唐突にそれを感じた博人が一瞬ビクリとなり、恐る恐る顔を上げてシバを見つめる。
「素敵じゃないか」
彼の視界に入った刑部狸は、満面の笑みを浮かべていた。
場所を休憩室に移した後、博人は抱えていたものを全て吐き出した。具体的に言えば、マギウスに関すること全部である。
「いつ好きになったかはわからないんです。でも気がついたら好きになってて……」
シバは博人の言葉に耳を傾けた。博人の言い分は今一つ具体性に欠けるものだったが、シバは文句ひとつ言わずにそれらを聞き続けた。
暖めた弁当――マギウスが二人分作ったものであり、彼女はそれを初日から博人に渡していた――を電子レンジに放置したまま、二人の会話は続いた。
「自分の気持ちが好きってわかったのは、結構前のことです。でもマギウスさんに告白する勇気はなくて、誰かに相談する勇気もなくて……」
「一人でずっと引きずってたってわけか」
「はい……」
弱弱しく博人が頷く。彼の話はそこで終わりだった。そして最後まで話を聞いたシバは、すぐにはリアクションを示さなかった。
「――大丈夫。自信を持ちな」
やがてシバが動く。いつぞやと同じように片手を持ち上げ、今度は博人の頭をぽんと掴む。
「うちでこんなに頑張れてるんだ。告白も絶対上手く行く」
頭を力強く撫で回しながら、シバが博人に告げる。彼女は本気でそう思っていた。
博人はそうは思っていなかった。自分なんぞにそんな大それたこと出来るはずが無い。彼はまだ後ろ向きな感情を引きずっていた。ここに来た経緯を考えれば当然の思考である。
「それとも、やっぱりまだキツいかい?」
シバもそこは理解していた。だから持論のゴリ押しはしなかった。常に一歩退いて、博人の心の在り方を優先した。シバはどこまでもお節介焼きだった。
そんなお節介焼きな刑部狸からの問いかけに、博人は素直に首肯した。根性無しと思われようが構わない。辛いものは辛いのだ。もっともシバの方は、こうして本音をぶつけてくるのは信頼の裏返しであると思っていた――そしてそれは的を射ていた――ので、彼を根性が無いと批判する気は無かったのだが。
「よし! じゃあそんな迷える坊ちゃんに、私から一つアイデアを授けよう」
だからシバは、批判する代わりに彼の背中を押すことにした。前途ある若者の青春を華やかなものにしてあげたい。そんな老婆心が発動したのである。
「それって、つまり、なんなんですか?」
「それはね……」
博人が食いつく。シバがニヤニヤ笑いながら、博人の耳元に顔を近づける。そこでぼそぼそと、シバが何事か呟く。
数秒後、博人の顔が真っ赤になる。素早くシバから顔を離し、大きく見開いた目でシバを見据える。
「えっ、えっ、えっ……!?」
驚愕が彼の思考を阻害していた。まともに言葉も発せなかった。
そうやってあからさまに動揺する博人の姿を見つめ返しながら、シバが彼に静かに言った。
「大丈夫。出来るさ。勇気を出すんだ」
博人ならやれる。シバは本気でそう思っていた。彼女は両目に力を込め、じっと彼を凝視した。有無を言わせぬ眼力だった。
「やれる。坊ちゃんはやれる。いいね?」
シバが念を押す。なし崩しに博人が頷く。
彼は押しに弱かった。
18/09/02 20:34更新 / 黒尻尾
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