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第六話(後編)
「はあ……」

 またため息が出る。これで何度目だろう。マギウスは虚ろな目でそう考えた。
 時刻は午後五時。包丁を持った手は一分前から止まったままだ。そろそろ博人が帰ってくる頃合いだというのに、調理は一向に進まない。まな板の上に載せられた鰯が、恨めしそうにこちらを睨みつけてくる。
 鱗は取った。腹は裂いた。そこから先に進まない。内臓も血も中に詰まっている。
 生殺しだ。いっそ楽にしてくれ。
 楽にしてほしいのはこちらの方だ。
 
「ああ……」

 またため息が出る。これで何度目だろう。マギウスは虚ろな目で考えた。
 博人はちゃんと出来ているだろうか。ひどい目に遭ったりしていないだろうか。面倒な客に絡まれていないだろうか。
 気になる。やはり従者として傍にいるべきだった。気になって気になって仕事も手がつかない。
 マギウスは完全に上の空になっていた。頭の中にあった献立表は完全に吹っ飛び、博人だけが渦巻いている。
 思考が停止する。肉体も動作しなくなる。重傷だ。博人がシバの店に働きに出てからというもの、マギウスはずっとこの調子だった。
 
「はいはい。ぼーっとしてないで手を動かす。そろそろ博人が帰ってくるんだよ?」

 そこに祖母がやってきて、抜け殻のマギウスに発破をかける。祖母の言葉でマギウスが我に返り、慌てて作業に意識を向け直す。この流れもまた、博人が仕事に行ってからの定番となった。もっとも祖母はマギウスが動けなくなる理由を知っていたので、彼女を強く咎める気は無かった。
 一応注意はするが。
 
「あの子なら心配いらないって。シバちゃんなら大丈夫。絶対悪いようにはしないから」
「はい……」

 祖母の言葉にマギウスが答える。声は出るが、そこに魂は宿っていない。今日のマギウスは、まだ「向こう側」にいた。
 仕方のない子だ。祖母がため息をつく。当然祖母のそれはマギウスのものと種類が違う。その後祖母が一旦口を閉ざし、間を置いて口を開く。
 
「好きな人のことは、ちゃんと信じてあげなくちゃ駄目よ」

 刹那、マギウスの脳天に雷が落ちる。視界が一瞬でクリアになり、意識が力任せに「こちら側」へ引き戻される。そうして元いた場所へ帰って来たマギウスが、即座に祖母へ視線を向ける。
 
「な、な、なにを……!?」

 そのままマギウスが言葉にならない言葉を放つ。彼女の言語野は正常だ。祖母の奇襲攻撃に思考が追いついていないだけだった。それだけマギウスは混乱していた。
 そこに祖母が追い打ちをかける。
 
「認めちゃいなさいよ。好きなんでしょう? あの子のことが」
「あ、あう……」

 思考が追いつく。しかし今度は、申し訳なさから本音を出せずにいた。キキーモラは「主」に忠誠を尽くす魔物娘。自分から気持ちを吐露するなど、畏れ多いことこの上ない。
 そんな葛藤などお構いなしに、祖母がマギウスに畳みかける。
 
「私は賛成よ。あなたなら博人のこと、ちゃんと支えてくれるってわかるから。それに多分、あの子の方もあなたのこと好きなんじゃないかしら」
「あ、いや、そんなことは……」

 ありえない。マギウスは否定しきれなかった。正直に言うと、否定したくなかった。自分が博人に惹かれているのは事実だったからだ。そして博人もまた、自分を好いてくれているかもしれない。祖母の推測はマギウスにとって大きな喜びだった。
 しかし彼女はそれを表には出さなかった。己を出さず、どこまでも平静を保たんとする。従僕の鑑である――あからさまに動揺していたので本心は筒抜けであったが。
 
「駄目よ、気取っちゃ。こういう時は素直になるべきよ」

 案の定、祖母には気づかれていた。そして祖母はこの期に及んで心を偽ろうとするマギウスに、真面目な顔で助言を贈った。
 そんなことくらいわかってる。マギウスは即座にそう思った。思うだけで口にはしなかったが。
 
「勇気出して。あなたなら出来るわ」

 祖母が告げる。マギウスの顔は暗いままだ。祖母は小さく笑って、マギウスの肩に静かに手を置く。
 
「悩みなさい。悩むのもまた恋よ」

 まさか人間に説教されるとは思わなかった。マギウスは心の片隅で驚いた。しかし祖母の言葉は、間違いなくマギウスの心に響いた。経験者の言葉には耳を傾けるものである。

「……私に出来るでしょうか」
「気負わなくていいわ。いつも通り、あの子を支えてあげればいいのよ」

 恐る恐る問いかけるマギウスに、祖母が答える。いつも通り。本当にそれだけでいいのだろうか。
 
「いいのよ。博人が好きになったのは、いつものあなたなんだから」

 悩むマギウスの背を祖母が押す。なんと心強いことか。
 祖母の眼差しを受けながら、マギウスは小さく頷いたのだった。
 
 
 
 
 いつも通りにいればいい。マギウスは祖母の教えを実践した。変に気負わず、無駄に硬くならず、自然体でいる。要領の良いキキーモラはすぐにその極意を会得した――斯様なスキルを特別習得せねばならないほどに、今の彼女は崖っぷちにいたとも言えた。
 黙りなさい。私は正常です。
 
「マギウスさん、ただいま」
「おかえりなさいませ、ヒロト様」
「……? マギウスさん、その、平気? いつもより硬い感じがするけど……」
「なんのことやら。全然平気でございます。マギウスはいつでも、あなたのマギウスでございますよ」
「?」
 
 いつも通り。いつも通りに。
 仕事を終えた博人が帰ってきて、三人で夕食を取る段階になって以降も、マギウスはそれを徹底した。自分を「いつもの自分」という型に嵌め、いつも通りのアクションを行う。慣れてしまえば簡単である。
 
「何かあったの? マギウスさん、ちょっと震えてるけど……」
「なんでもないよ。なんでもない。それより魚食べなって」

 反対側に座った博人が、隣に座る祖母に何事か尋ねている。尋ねられた祖母が笑いを噛み殺すように答えながら、博人に食事を勧める。何故そのようなことをするのか。自分は何もおかしなことはしてないのに。マギウスは本気で思った。
 ほら、お箸だってちゃんと持てているし、自分の分の焼き魚だってちゃんと解せている。何も問題は無い。
 
「醤油かけすぎ……」
「大根おろしにかけてるからね。あれくらいでいいんだよ」

 顔をしかめる博人に、祖母が笑顔で声をかける。そうだ。自分は今大根おろしに醤油をかけている。だからこれくらいで問題ないのだ。
 自分は今大根おろしに醤油をかけていたのか。右手にお箸を持って、左手に醤油瓶を持って、大根おろしに醤油をかけていたのか。言われて初めて気づいた。
 私はまともだ。
 
「本当に大丈夫?」
「いいのいいの。博人が気にすることじゃないよ」
「でも……」
「マギウスなら大丈夫。あんたもあの子のこと、ちゃんと信じてやんなさいな」

 祖母が微笑みを湛えながら告げる。そう言われた博人が、途端に顔を真っ赤にして俯く。
 なんと可愛らしい。あのような初心な反応を見せられると、もう愛しくて愛しくてたまらなくなる。もっともっと真心こめてご奉仕して差し上げたいと、キキーモラの本能が声高に主張する。
 おっと、いけない。平常心平常心。いつもの自分に戻らなければ。
 
「マギウスも、あんまり博人を困らせるんじゃないよ」
 
 マギウスの精神はグラつきまくっていた。祖母はその様が可笑しくてたまらなかった。笑顔で博人に話しかけていたのも、実際は笑いをこらえるので精一杯だったからだ。
 博人はそれに気づかなかった。彼はまだそこまで敏感にはなれなかった。
 マギウスはそれに気づかなかった。博人相手に外面を取り繕うのに夢中で、そこまで敏感になれなかった。
 
「何を仰られているのかわかりません。私はいつもの私でございますよ?」
「はあ……」

 マギウスの演技と鈍感は、夕食が終わった後も続いた。
 
 
 
 
 夕食後。マギウスと博人で食器を片づけ、祖母が風呂を沸かしに向かう。分担作業である。
 マギウスはこの時も「例の調子」だった。
 
「……マギウスさん、何か困ってたりするんですか?」
「とんでもございません。私はいつもの通りでございます。ヒロト様が気に病むことではありませんわ」
「うん……?」

 何か違う。言葉遣いがおかしい。博人がようやく違和感に気づく。しかし何が彼女をそうさせたかまでは、流石に察することが出来なかった。
 彼はまだ子供である。それ以上を求めるのは酷だ。
 マギウスの方が大人げないのだ。
 
「それより、はやく片づけを済ませてしまいましょう。のんびりしていると、お祖母様にまたお小言を言われてしまいます」

 そんなこと我関せずとばかりに、マギウスが博人に発破をかける。博人も戸惑いながらそれを受け入れ、二人は暫し食器洗いに集中した。
 水の流れる音と、食器の擦れる音だけが辺りに響く。心地の良い静寂が二人を包む。博人もマギウスも表情を緩め、二人きりで共同作業に勤しんでいく。
 ことここに至って、マギウスはようやく「素」を出した。
 
「――これで終わりですね」
「そうでございますね」

 それもすぐに終わる。皿洗いが終了すると同時に、マギウスが再び皮を被る。博人も勘づき、改めて違和感を覚える。もったいないことこの上ない。
 
「と、ところでマギウスさん」

 博人が口を開いたのはその時だった。手を拭い終えたマギウスがそれに反応し、取り繕った顔で博人の方を見る。
 二人の視線が重なる。一瞬、マギウスの心に罪悪感が芽生える。博人が知らずに声をかける。
 
「ちょっと、お願いがあるんですけど」
「? なんでございましょう?」

 博人の言葉にマギウスが返す。博人は即答せず、口を閉ざしたまま逡巡するように視線を四方へ泳がせる。
 何かあったのだろうか。マギウスが心配そうに見つめる。やがてそんなマギウスへ目線を戻しつつ、博人が意を決して話を切り出す。
 
「こ、こ、今度でいいので……もしよかったら……」
「はい……?」

 今度でよかったら? マギウスが心の中で呟く。
 博人が言う。
 
「ぼ、僕と、一緒に散歩……しませんか?」
「は」
「さ、おさんぽ、を……」

 消え入りそうな声で博人が言う。機嫌を窺うように、上目遣いでマギウスを見つめる。
 
 
 
 
 刹那。マギウスの仮面が粉々に砕け散り、茹蛸のように赤く煮立った素顔が露わになった。
18/09/14 19:54更新 / 黒尻尾
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