第五話(前編)
一か月。
博人が祖母の家に来て一か月が過ぎた。
長くもあり、短くもあり。どう体感したかは、当人のみの知る所である。ともかく博人はここで、起伏のない静穏な一か月を過ごした。
何もせず、ただぼうっと一日を生きる。それを三十余日、延々と続ける。時間の無駄と言えばそうかもしれない。他にもっと出来ることがあるだろう。正常な人間の大半はそう思うかもしれない。
だが博人は違った。博人にとっては、「何もしない」ということが何より必要なことだった。全てを忘れ、静けさと優しさに頭まで浸かる。それ以外に再生の途は無かった。急かすのも囃すのもいけない。誰がなんと言おうと、それは紛れもない事実だった。
「ねえ、マギウスさん」
「はい、なんでございましょうか」
そうして一か月が過ぎた。願い通り、博人の魂は再生を始めた。平時の域にはまだ到達していなかったが、彼の心は少しずつ快方に向かっていった。身に纏っていた陰はほんの僅か消失し、頬が緩む程度ではあるが笑みを浮かべることも多くなってきた。
良い傾向である。
「その、膝……ありがとうございます」
「いいのですよ。私もヒロト様に膝枕をしてさしあげるのは、とても好きですから」
そして博人の回復に一人のキキーモラが深く関わっていたことも、また確固たる事実だった。
扇風機の羽が回る音。蝉の鳴き声。女性の穏やかな息遣い。ここに来て、どれだけこれらの音を聞いただろう。
今日もマギウスの膝に頭を載せながら、博人はそんなことを考えた。彼が自分と祖母とマギウス以外のモノに目を向けるのは、これが初めてであった。静養開始から一か月。彼はようやく外の世界に意識を向け始めたのである。
「マギウスさん」
「はい、なんでしょうか?」
そんな折、博人が顔を動かしながらキキーモラの名を呼ぶ。彼がマギウスを名前で呼ぶようになったのはごく最近のことであり、これもまた前進の証であった。
しかしマギウスは大人だった。可愛い彼がようやく自分の名を呼んでくれたことに狂喜乱舞したりはせず――心の中では喜びで飛び跳ねていたが――表向きは完全に平静を装った。
優しくて頼りになる大人のお姉さん。マギウスは自ら設定した己のキャラクターを、徹底して守り続けた。それは「自分の方が大人なんだから、しっかりこの子を支えてあげなくては」という理屈から来る、子供っぽい意地だった。
「どうかなさいましたか、ヒロト様?」
見上げてくる博人を正面から見つめ返し、優しく微笑みながらそっと続きを促す。表情は崩れてない。大丈夫。心の内はまだ漏れてない。
そんなマギウスの不断の努力を、博人は知らなかった。気づいてもいなかった。当然である。彼はただ、マギウスの厚意に甘えるだけだった。
それでいい。今の博人がするべきは、まさに「それ」だ。それを咎めるのはお門違いだ。
「ちょっとマギウスさんにお願いがあるんですけど……」
博人が言い返す。お願いとは何か。マギウスが問い返す。
膝の上で小さく頷き、博人が口を開く。
「マギウスさん、時々買い出しに行ってますよね」
「ええ。いつもはお祖母様がお買い物をされるのですが、たまに私がお祖母様に代わって買い物をしております」
博人の祖母はまだまだ健康体だ。自分の足で店に赴き、生活必需品や食料品を調達するくらい朝飯前である。しかしそれでも老体であることに変わりは無いため、時折マギウスが祖母に代わって買い出しを行っていた。なお祖母はそれに関して「余計なお節介」とゲラゲラ笑っていた。
寝たきりや介護とは無縁の御仁である。
「それがどうかしたのでしょうか?」
閑話休題。マギウスが尋ねる。しかし博人はすぐに答えず、代わりにバツが悪そうに目を逸らす。
マギウスが小首を傾げる。数瞬後、博人が視線をマギウスに戻して口を開く。
「そ、その、買い物のことなんだけど」
若干早口になる。落ち着け。言葉を吐いてから一拍遅れて理性が警告する。
すぐにそれに従う。咳払いし、呼吸を整える。また目を逸らし、すぐマギウスを見る。
再度博人が声を出す。
「今度、俺も一緒に、行ってもいいですか?」
「え」
「マギウスさんと、一緒に買い物を……お手伝いしたいんです」
マギウスは、ポーカーフェイスを取り繕うので精一杯だった。
翌日。午後四時。
陽が傾き始めて暑さが薄れた頃合いを見計らって、博人とマギウスは外に出た。外はまだまだ蒸し暑かったが、昼頃よりはずっとマシである。
「ヒロト様、大丈夫ですか?」
「は、はい。平気です」
帽子を被り、首にタオルを掛け、しっかりと手を繋ぎながら、二人横並びになって道を進む。彼らは前日の博人のお願いを叶えるため、こうして仲良く外出をしていたのであった。
博人が外に出るのは、ここに来てからこれが初めてである。マギウスは色々な意味で心配だった。
「本当に大丈夫でございますか? もし胸が苦しくなったり、辛くなったりした時は、遠慮しないで私に申してくださいね?」
「あっ、はいっ。ありがとうございます。本当に大丈夫です」
不安そうにマギウスが声をかける。どこまでも親身になってくれるマギウスに困惑しながら、博人が感謝の言葉を返す。それでもマギウスの顔は晴れず、不安を拭えない彼女は声をかける代わりに、以降何度も彼の表情をチラチラ窺い続けた。
まだ目的地へ至る道程の三分の一しか踏破していない。だと言うのに、この心配のされようである。不規則にキキーモラの視線を浴びる羽目になった博人は恥ずかしいような、くすぐったいような、複雑な気持ちになった。
そもそも手を繋ごうと提案したのもマギウスである。帽子とタオルを装備しようと言ったのも彼女だし、彼女が袈裟懸けしているミニバッグには水の入ったペットボトルが何本も収められていた。用心深いにも程がある。
「例え慣れ親しんだ道であろうとも、何が起きるかわかりません。備えはしっかりとするべきです」
「は、はい」
博人の心の中を読んだかのように、唐突にマギウスが注意を促す。不意打ちを食らった博人は頷くことしか出来ない。博人の手と繋がれたマギウスの手に力がこもる。どこまで用心するつもりなのだろうか。
「ご安心くださいヒロト様。ヒロト様のことは、私が命に代えてもお守りいたします」
「はあ……」
大袈裟だ。マギウスの大言を聞いた博人は気の抜けた返事しか出来なかった。だが同時に博人は、熱を入れるマギウスの姿に安堵を覚えてもいた。誰かに心配される、誰かに守ってもらえるというのは、とても嬉しいことだ。博人はマギウスの献身を素直に受け入れ、その心を暖かさで満たしていった。
でも、それだけじゃ駄目だ。だからこそ。
「さあ、参りましょう。道のりは長くはありませんが、それなりに歩きますからね」
そこでマギウスの言葉が割って入る。博人の思考が中断される。しかし博人はそれをプラスに考えた。思考を自ら打ち切り、再び道を歩くことに集中する。好都合だ。
好都合と言えば、マギウスが自分の「お願い」に関して問い質そうとしてこないのも、また同じだった。今日の早朝にその話を聞かされた祖母も、何故そんなことをするのかと聞いてきたりはしなかった。祖母はただマギウスに向かって「この子を頼むよ」と言っただけだ。
両人ともに追及をしてこない。それがとてもありがたい。正直言って、博人はその理由をマギウス達に打ち明けたくはなかったのだった。
「喉は渇いていませんか? 水はたくさんありますから、遠慮してはいけませんよ?」
またマギウスが思考を中断させてくる。迷惑とは思わない。逆にその優しさが嬉しい。
「ありがとうございます。本当に欲しくなったら、その時言いますから」
「絶対ですよ? 我慢してはいけませんからね?」
再び意識を切り替え、微笑を湛えつつマギウスに言う。マギウスが真剣な表情で言葉を投げ返し、それがまた博人の心を暖かくしていく。
マギウスと出会えて、本当に良かった。博人は心の底からそう思った。
そうこうしている間に、二人は目的の場所に辿り着いた。そこは大きな木造家屋で、二階建ての古ぼけた家だった。上部に据えられた看板には「狸商店」と太字で書かれ、出入口前にも同じ文字の書かれた立て看板があった。
「ここが?」
「はい」
看板を見上げながら、博人が確認を取る。マギウスが頷き、博人の手を取って店の中へ入っていく。内外を隔てる戸や自動ドアの類は無く、完全に開けっ放しとなっていた。マギウスはそこを平然と跨ぎ、店内へ進入した。
続けて博人も中に入る。店内の情景が視界に入る。それを見た博人は自然と驚嘆の声を上げた。
「すごい……」
店の中には、ありとあらゆる物が陳列されていた。それこそ文字通り「なんでも」――家具類、家事用品、食器類、家電類、生鮮食品、とにかく生活に必要な物が、広いスペースの中に規則正しく陳列されていた。その物量たるや、見ているだけで少しばかり息苦しさを感じる程である。
無い物は無い。ここはその文言を、まさに力ずくで叶えた場所だった。
「デパートを圧縮したみたいだ」
感想が自然と口から出る。博人は目の前の光景に圧倒されていた。マギウスもそれに頷き、「まさにその通りの場所です」と同意した。
「客が欲しいと思ったものを置く。それがここの店主の考えでございますから」
続けてマギウスがそう告げる。博人は「だからぎちぎちに詰め込んだのか」と納得し、それにしてもやりすぎだと思わずにはいられなかった。欲張りすぎである。
「おや、お客さんかい。いらっしゃい」
店の奥から声が聞こえてきたのは、まさにその時だった。博人が驚き気味に、マギウスが微笑みながら同時に同じ方向を見つめる。白物家電コーナーの奥、そこにはまた別の「何か」が、じっとこちらを見つめながら立っていた。
「誰かと思ったらマギウスじゃないか。ゆっくり見ていっておくれ」
「それ」が楽しげに言いながら、ゆっくりこちらへ歩いてくる。博人は咄嗟に身を強張らせ、それをマギウスが彼の手を握ることで安心させる。やがて「それ」が二人の目の前で立ち止まり、博人はここでようやく先方の身体的特徴に気が付いた。
端的に言うと、「それ」は人間ではなかった。
「魔物……?」
頭から生えた耳。頭頂部に乗せた葉っぱ。背後で揺れる尻尾。どれも本物にしか見えない。どう見ても人間ではない。辛うじて女性であることはわかる。
故に自然と声が漏れる。そして博人の呟きに人外の女性が反応する。
「おやマギウス、こちらの坊ちゃんは?」
女性は博人を一瞥した後、馴染みの客に回答を求めた。マギウスも頷き、博人のことを簡潔に説明した。
「ああ。この子が例の」
説明を聞いた後、人外の女性が得心したように破顔する。そして再び視線を博人に向け、自分から中腰の姿勢になって博人と同じ目線に立つ。
「君が博人君か。私は刑部狸のシバ。漢字で書くと芝生のシバだ。この店の店主をやってる。よろしくね」
女性――刑部狸のシバがそう言って手を差し出す。博人はすぐに動かず、お伺いを立てるようにマギウスを見る。
マギウスがにこやかに首を横に振る。それを見た博人も覚悟を決め、おずおずと右手を伸ばす。
「ひ、博人です。よろしくお願いします……」
怯えた気配を隠しきれないまま、博人がシバの手を握る。手を通して体が震えているのが丸わかりである。しかしシバはそれに関しては何も言わず、ただ博人の手を握り返して穏やかに言った。
「はい、よろしく。まあ何もない田舎だけど、ゆっくりしていきなさいな」
ここでそんなこと言われても、説得力が無かった。
博人が祖母の家に来て一か月が過ぎた。
長くもあり、短くもあり。どう体感したかは、当人のみの知る所である。ともかく博人はここで、起伏のない静穏な一か月を過ごした。
何もせず、ただぼうっと一日を生きる。それを三十余日、延々と続ける。時間の無駄と言えばそうかもしれない。他にもっと出来ることがあるだろう。正常な人間の大半はそう思うかもしれない。
だが博人は違った。博人にとっては、「何もしない」ということが何より必要なことだった。全てを忘れ、静けさと優しさに頭まで浸かる。それ以外に再生の途は無かった。急かすのも囃すのもいけない。誰がなんと言おうと、それは紛れもない事実だった。
「ねえ、マギウスさん」
「はい、なんでございましょうか」
そうして一か月が過ぎた。願い通り、博人の魂は再生を始めた。平時の域にはまだ到達していなかったが、彼の心は少しずつ快方に向かっていった。身に纏っていた陰はほんの僅か消失し、頬が緩む程度ではあるが笑みを浮かべることも多くなってきた。
良い傾向である。
「その、膝……ありがとうございます」
「いいのですよ。私もヒロト様に膝枕をしてさしあげるのは、とても好きですから」
そして博人の回復に一人のキキーモラが深く関わっていたことも、また確固たる事実だった。
扇風機の羽が回る音。蝉の鳴き声。女性の穏やかな息遣い。ここに来て、どれだけこれらの音を聞いただろう。
今日もマギウスの膝に頭を載せながら、博人はそんなことを考えた。彼が自分と祖母とマギウス以外のモノに目を向けるのは、これが初めてであった。静養開始から一か月。彼はようやく外の世界に意識を向け始めたのである。
「マギウスさん」
「はい、なんでしょうか?」
そんな折、博人が顔を動かしながらキキーモラの名を呼ぶ。彼がマギウスを名前で呼ぶようになったのはごく最近のことであり、これもまた前進の証であった。
しかしマギウスは大人だった。可愛い彼がようやく自分の名を呼んでくれたことに狂喜乱舞したりはせず――心の中では喜びで飛び跳ねていたが――表向きは完全に平静を装った。
優しくて頼りになる大人のお姉さん。マギウスは自ら設定した己のキャラクターを、徹底して守り続けた。それは「自分の方が大人なんだから、しっかりこの子を支えてあげなくては」という理屈から来る、子供っぽい意地だった。
「どうかなさいましたか、ヒロト様?」
見上げてくる博人を正面から見つめ返し、優しく微笑みながらそっと続きを促す。表情は崩れてない。大丈夫。心の内はまだ漏れてない。
そんなマギウスの不断の努力を、博人は知らなかった。気づいてもいなかった。当然である。彼はただ、マギウスの厚意に甘えるだけだった。
それでいい。今の博人がするべきは、まさに「それ」だ。それを咎めるのはお門違いだ。
「ちょっとマギウスさんにお願いがあるんですけど……」
博人が言い返す。お願いとは何か。マギウスが問い返す。
膝の上で小さく頷き、博人が口を開く。
「マギウスさん、時々買い出しに行ってますよね」
「ええ。いつもはお祖母様がお買い物をされるのですが、たまに私がお祖母様に代わって買い物をしております」
博人の祖母はまだまだ健康体だ。自分の足で店に赴き、生活必需品や食料品を調達するくらい朝飯前である。しかしそれでも老体であることに変わりは無いため、時折マギウスが祖母に代わって買い出しを行っていた。なお祖母はそれに関して「余計なお節介」とゲラゲラ笑っていた。
寝たきりや介護とは無縁の御仁である。
「それがどうかしたのでしょうか?」
閑話休題。マギウスが尋ねる。しかし博人はすぐに答えず、代わりにバツが悪そうに目を逸らす。
マギウスが小首を傾げる。数瞬後、博人が視線をマギウスに戻して口を開く。
「そ、その、買い物のことなんだけど」
若干早口になる。落ち着け。言葉を吐いてから一拍遅れて理性が警告する。
すぐにそれに従う。咳払いし、呼吸を整える。また目を逸らし、すぐマギウスを見る。
再度博人が声を出す。
「今度、俺も一緒に、行ってもいいですか?」
「え」
「マギウスさんと、一緒に買い物を……お手伝いしたいんです」
マギウスは、ポーカーフェイスを取り繕うので精一杯だった。
翌日。午後四時。
陽が傾き始めて暑さが薄れた頃合いを見計らって、博人とマギウスは外に出た。外はまだまだ蒸し暑かったが、昼頃よりはずっとマシである。
「ヒロト様、大丈夫ですか?」
「は、はい。平気です」
帽子を被り、首にタオルを掛け、しっかりと手を繋ぎながら、二人横並びになって道を進む。彼らは前日の博人のお願いを叶えるため、こうして仲良く外出をしていたのであった。
博人が外に出るのは、ここに来てからこれが初めてである。マギウスは色々な意味で心配だった。
「本当に大丈夫でございますか? もし胸が苦しくなったり、辛くなったりした時は、遠慮しないで私に申してくださいね?」
「あっ、はいっ。ありがとうございます。本当に大丈夫です」
不安そうにマギウスが声をかける。どこまでも親身になってくれるマギウスに困惑しながら、博人が感謝の言葉を返す。それでもマギウスの顔は晴れず、不安を拭えない彼女は声をかける代わりに、以降何度も彼の表情をチラチラ窺い続けた。
まだ目的地へ至る道程の三分の一しか踏破していない。だと言うのに、この心配のされようである。不規則にキキーモラの視線を浴びる羽目になった博人は恥ずかしいような、くすぐったいような、複雑な気持ちになった。
そもそも手を繋ごうと提案したのもマギウスである。帽子とタオルを装備しようと言ったのも彼女だし、彼女が袈裟懸けしているミニバッグには水の入ったペットボトルが何本も収められていた。用心深いにも程がある。
「例え慣れ親しんだ道であろうとも、何が起きるかわかりません。備えはしっかりとするべきです」
「は、はい」
博人の心の中を読んだかのように、唐突にマギウスが注意を促す。不意打ちを食らった博人は頷くことしか出来ない。博人の手と繋がれたマギウスの手に力がこもる。どこまで用心するつもりなのだろうか。
「ご安心くださいヒロト様。ヒロト様のことは、私が命に代えてもお守りいたします」
「はあ……」
大袈裟だ。マギウスの大言を聞いた博人は気の抜けた返事しか出来なかった。だが同時に博人は、熱を入れるマギウスの姿に安堵を覚えてもいた。誰かに心配される、誰かに守ってもらえるというのは、とても嬉しいことだ。博人はマギウスの献身を素直に受け入れ、その心を暖かさで満たしていった。
でも、それだけじゃ駄目だ。だからこそ。
「さあ、参りましょう。道のりは長くはありませんが、それなりに歩きますからね」
そこでマギウスの言葉が割って入る。博人の思考が中断される。しかし博人はそれをプラスに考えた。思考を自ら打ち切り、再び道を歩くことに集中する。好都合だ。
好都合と言えば、マギウスが自分の「お願い」に関して問い質そうとしてこないのも、また同じだった。今日の早朝にその話を聞かされた祖母も、何故そんなことをするのかと聞いてきたりはしなかった。祖母はただマギウスに向かって「この子を頼むよ」と言っただけだ。
両人ともに追及をしてこない。それがとてもありがたい。正直言って、博人はその理由をマギウス達に打ち明けたくはなかったのだった。
「喉は渇いていませんか? 水はたくさんありますから、遠慮してはいけませんよ?」
またマギウスが思考を中断させてくる。迷惑とは思わない。逆にその優しさが嬉しい。
「ありがとうございます。本当に欲しくなったら、その時言いますから」
「絶対ですよ? 我慢してはいけませんからね?」
再び意識を切り替え、微笑を湛えつつマギウスに言う。マギウスが真剣な表情で言葉を投げ返し、それがまた博人の心を暖かくしていく。
マギウスと出会えて、本当に良かった。博人は心の底からそう思った。
そうこうしている間に、二人は目的の場所に辿り着いた。そこは大きな木造家屋で、二階建ての古ぼけた家だった。上部に据えられた看板には「狸商店」と太字で書かれ、出入口前にも同じ文字の書かれた立て看板があった。
「ここが?」
「はい」
看板を見上げながら、博人が確認を取る。マギウスが頷き、博人の手を取って店の中へ入っていく。内外を隔てる戸や自動ドアの類は無く、完全に開けっ放しとなっていた。マギウスはそこを平然と跨ぎ、店内へ進入した。
続けて博人も中に入る。店内の情景が視界に入る。それを見た博人は自然と驚嘆の声を上げた。
「すごい……」
店の中には、ありとあらゆる物が陳列されていた。それこそ文字通り「なんでも」――家具類、家事用品、食器類、家電類、生鮮食品、とにかく生活に必要な物が、広いスペースの中に規則正しく陳列されていた。その物量たるや、見ているだけで少しばかり息苦しさを感じる程である。
無い物は無い。ここはその文言を、まさに力ずくで叶えた場所だった。
「デパートを圧縮したみたいだ」
感想が自然と口から出る。博人は目の前の光景に圧倒されていた。マギウスもそれに頷き、「まさにその通りの場所です」と同意した。
「客が欲しいと思ったものを置く。それがここの店主の考えでございますから」
続けてマギウスがそう告げる。博人は「だからぎちぎちに詰め込んだのか」と納得し、それにしてもやりすぎだと思わずにはいられなかった。欲張りすぎである。
「おや、お客さんかい。いらっしゃい」
店の奥から声が聞こえてきたのは、まさにその時だった。博人が驚き気味に、マギウスが微笑みながら同時に同じ方向を見つめる。白物家電コーナーの奥、そこにはまた別の「何か」が、じっとこちらを見つめながら立っていた。
「誰かと思ったらマギウスじゃないか。ゆっくり見ていっておくれ」
「それ」が楽しげに言いながら、ゆっくりこちらへ歩いてくる。博人は咄嗟に身を強張らせ、それをマギウスが彼の手を握ることで安心させる。やがて「それ」が二人の目の前で立ち止まり、博人はここでようやく先方の身体的特徴に気が付いた。
端的に言うと、「それ」は人間ではなかった。
「魔物……?」
頭から生えた耳。頭頂部に乗せた葉っぱ。背後で揺れる尻尾。どれも本物にしか見えない。どう見ても人間ではない。辛うじて女性であることはわかる。
故に自然と声が漏れる。そして博人の呟きに人外の女性が反応する。
「おやマギウス、こちらの坊ちゃんは?」
女性は博人を一瞥した後、馴染みの客に回答を求めた。マギウスも頷き、博人のことを簡潔に説明した。
「ああ。この子が例の」
説明を聞いた後、人外の女性が得心したように破顔する。そして再び視線を博人に向け、自分から中腰の姿勢になって博人と同じ目線に立つ。
「君が博人君か。私は刑部狸のシバ。漢字で書くと芝生のシバだ。この店の店主をやってる。よろしくね」
女性――刑部狸のシバがそう言って手を差し出す。博人はすぐに動かず、お伺いを立てるようにマギウスを見る。
マギウスがにこやかに首を横に振る。それを見た博人も覚悟を決め、おずおずと右手を伸ばす。
「ひ、博人です。よろしくお願いします……」
怯えた気配を隠しきれないまま、博人がシバの手を握る。手を通して体が震えているのが丸わかりである。しかしシバはそれに関しては何も言わず、ただ博人の手を握り返して穏やかに言った。
「はい、よろしく。まあ何もない田舎だけど、ゆっくりしていきなさいな」
ここでそんなこと言われても、説得力が無かった。
18/08/12 19:41更新 / 黒尻尾
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