連載小説
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4-2
「もし。そこの方」

 夏の日の夕暮れ。家に帰ろうと田畑に囲まれた道を歩いていると、不意に声をかけられた。声に気づいて足を止め、そちらへ目を向けると、そこに一人の女性が立っていた。
 背の高い女性だった。顔立ちの整った大人の女性である。そして背丈や顔と同じくらいに、特徴的な服装をしていた。
 袖の長い厚手の上衣に、足首まで隠すロングスカート。露出とは無縁の「お堅い」衣装だ。ご丁寧に白い手袋まではめている。
 その格好を何と呼ぶのかは知らなかったが、少なくとも今のような真夏日に着る代物ではないことは分かる。完全武装にも程がある。暑くはないのだろうか。
 そう他人事のように考えていると、件の「暑苦しい」女性が再び声をかけてきた。
 
「もしよければ、道を教えていただきたいのですが。ここに来るのは初めてでして、どこをどう行けばいいのかまったくわからないのです……」

 たおやかな口調で、申し訳なさそうに言ってくる。こちらが恐縮してしまうほどの物腰の低さである。実際、彼はそれを聞いて委縮してしまった。相手が見知らぬ人間だったのも、彼の及び腰に拍車をかけた。
 
「いやあの、えっと……」

 だが彼は、そこで逃げ出すような軟弱者ではなかった。困っている人は放っておけない。彼は勇気を出して、初対面の大人の女性に声を返した。
 
「ど、どこに、行きたいんですか?」

 緊張からか、歯切れの悪い言葉になってしまった。しかしこの時彼の心は、自分から一歩を踏み出した達成感でいっぱいだった。僕はやったんだ。一度出来た実績が彼を勇敢にさせた。
 
「あなたはこれから、その、どこに行こうとしてるんですか?」
「あ、はい」

 再度問う。先方からレスポンスを得た女性もすぐ反応し、彼に言葉を返す。
 
「この近くに――」

 女性が求めたのは、この村にある村役場への行き方だった。小さな木造の建物で、大事な会議は大抵ここで開かれる。その一方で、大事な時以外は一般開放され、ご婦人たちの井戸端会議場兼子供達の遊び場と化していた。田舎特有の「緩い」公的施設である。
 それを聞いた少年は安堵した。そこはここから近く、何度か遊びに行ったことがあるから案内も出来る。最後までこの人の役に立てそうだと、故に彼は自然と微笑んだのであった。
 
「そこなら知ってます。案内出来ます」

 少年が瞳を輝かせ、得意げに答える。自分に任せろと言わんばかりの熱意に、聞き手の女性は思わず一歩身を引いてしまった。
 しかし女性はすぐに気を取り直した。姿勢を正し、少年に真っ向向き合い、彼に声をかけた。
 
「それでは、今からそこまで案内していただけないでしょうか?」
「はい!」

 女性からの求めに、少年が元気よく頷く。続いて少年が手を差し出し、女性がその手を優しく取る。
 場所によっては事案発生と取られても已む無しな状況である。しかし幸運にも――あるいは不運にも、ここは人気の少ない田舎の農村。それを目撃した者は一人もいなかった。
 
「ちゃんと僕についてきてくださいね!」
「はい。わかりました。よろしくお願いいたします」

 少年が前を行き、後ろから女性がついていく。堅く手を握りあい、揃って笑顔を浮かべながら、夕暮れに染まる道を行進する。
 傍目から見たそれは、非常に仲の良い姉弟のようであった。
 
「そういえば、まだ名前を名乗っておりませんでした」

 そんな折、後ろの姉が思い出したように口を開く。弟が反応し、しかし歩みは止めぬまま、後方の彼女に声を返す。
 
「名前ですか?」
「はい。ここまでしていただいたのに、名前も言わずに別れるのは無作法でございますから」

 お堅い言葉遣いで女性が答える。初めて聞いた理屈に、少年は「そういうものなのか」と感心する。
 その最中、続けざまに女性が言った。
 
「私の名前は――」




「名前」
「ん?」

 唐突に出た博人の呟きに、同じ部屋にいた祖母が反応する。時刻は午前十時。家事がひと段落し、祖母が博人のいた部屋にやってきて寛いでいた時のことである。
 
「あの人のこと、まだ名前で呼んだことない」

 博人が懸念を口にする。「あの人」が誰を指しているのか、祖母はすぐに理解した。
 
「呼べばいいじゃない」

 そしてさらりと言い返す。博人は即答せず、畳の網目を数えながらやがて答える。
 
「うん……」

 イエスでもノーでも無い、曖昧な返事。今の博人にはそれが精一杯だった。そもそも今の彼の悩み自体が、常人からすれば取るに足らないものであった。
 祖母はそうは思わなかった。彼女は博人の側に立って考え、それが彼にとって至難だが大事な一歩であることを把握していた。
 
「いつもお世話になってるんでしょ?」

 それとなく指摘する。博人の口から小さな呻き声が出る。図星を突かれて逡巡していた。祖母はなんでもお見通しだった。
 祖母が続ける。
 
「無理する必要はないけど、それくらいやってもバチは当たらないんじゃないかい?」

 優しく、そっと、丁寧に。「そうしろ」と命じるのではなく、「そうするべきではないか」と提案する。
 決定権を剥奪してはいけない。決めるのは博人だ。
 
「……」
 
 当の博人はまたも即答を控えた。畳の目に意識を傾け、たっぷり数秒間を置いてからようやく声を捻り出す。
 
「うん」

 先と同じ曖昧な言葉。肯定とも否定とも取れる煮え切らない返答。祖母は怒るでも呆れるでもなく、ただ笑って言った。
 
「焦るんじゃないよ」

 ペースを決めるのは博人だ。祖母は彼の扱い方をよく心得ていた。博人はここに心を休めに来たのだ。
 博人は沈黙を貫いた。視線は畳に向けられていたが、意識は頭の奥に引っ込んでいた。彼の意識は今、頭の奥で葛藤に苛まれていた。
 あの人にお礼が言いたい。でも自分から誰かに話しかけるのが怖い。ジレンマだ。そしてそんな相克を、博人は祖母に知られたくなかった。深い意味はない。なんとなく恥ずかしかったからだ。
 つまらない意地が彼を寡黙にさせていた。しかし祖母は祖母で、何故彼が眉間に皺を寄せて無言で畳を凝視しているのか、バッチリ把握していた。
 理屈ではない。可愛い孫のことは、大体わかるものなのだ。
 
「ゆっくり、ゆっくりとね」

 その上で、祖母はそれを指摘したりはしなかった。祖母は徹頭徹尾、博人の心情を汲んで行動しようと心に決めていた。親しき中にも礼儀あり、人の心の中――特に今の博人の中に無許可で入り込むのは、完全に失礼な行いである。
 祖母は出来た人間だった。しかし今の博人に、それを知るだけの心の余裕は無かった。
 
「うん……」

 彼はまだ重病人だった。
 
 
 
 
 その日の午後。博人はいつもの部屋で、いつものことをしていた。マギウスも嫌な顔一つせず、彼に己の膝を貸し与えていた。
 しかし今日はいつもと様子が違った。具体的には、いつまで経っても博人が寝ようとしなかった。膝枕のお世話になってから今に至るまでの間、博人はしっかりと両目を開け、上にあるマギウスの顔をじっと見つめていたのである。
 
「あの、どうかなさいましたか?」

 いつもと違う博人の姿を前に、マギウスが不安混じりに声をかける。博人は何も言わず、ただマギウスを見つめるだけだった。喜怒哀楽の抜け落ちた能面のような顔で、献身的な魔物娘をただ見つめるだけだった。
 
「困りましたわ……」

 博人の視線を真下から受けつつ、マギウスが呟く。彼が何を求めているのか全くわからない。手の打ちようがない。受け身にならざるを得ない今の状況に、マギウスは歯痒さを覚えた。
 だが幸いにも、事態は向こうから動いてくれた。
 
「どうして」

 唐突に博人が口を開く。即座にマギウスが反応し、首を動かして視線を下げる。
 二人の目線が絡み合う。一瞬言葉を詰まらせた後、博人が発言を再開させる。
 
「どうしてここまでしてくれるんですか?」

 かすれた声で問う。本当に言いたかったことは「これ」では無かったのだが、これもこれで聞きたいとは思っていた。だから博人は呼びかけの順番が前後したことに関して、後悔はしていなかった。
 対してマギウスは、平時と変わらず落ち着いた姿を保っていた。心の奥ではほんの少し落胆もしていたのだが、それを顔に出すことはしなかった。
 
「気になりますか?」

 マギウスが優しく尋ねる。覚えていないのか、とは聞かない。相手を責めるような言い方は、ここでは愚策である。
 素直に博人が頷く。それを見たマギウスが「わかりました」と応答する。
 
「実は私達、ずっと前にここで会っているのですよ。この村で」
「えっ」

 博人の目が点になる。本当に覚えていないのか。マギウスの心に一抹の悲しみが芽生える。
 すぐにそれを振り切って、マギウスが説明を再開する。
 
「お恥ずかしい話なのですが、その時私は、初めてこちら側に来たものでして。ハッキリ言うと、道に迷ってしまったのです。そうして慣れない場所でどうしていいか途方に暮れていた所で、偶然あなたと出会ったのです」

 十年以上前のことである、とマギウスが付け加える。そんな前のことなど全然覚えていない。博人は「作り話ではないのか」と疑う一方、どこか申し訳ない気持ちになった。
 マギウスが続ける。
 
「そこで私はあなたに道案内をお願いして、あなたはそれに快く応じてくださいました。そして私はあなたの案内で、問題なく目的地に辿り着くことが出来たのです」
「それで? その後は?」
「おしまいでございます」

 博人の催促を、マギウスが容赦なく切って捨てる。またも博人の目が点になる。
 小さく笑ってマギウスが続ける。
 
「その日の逢瀬は、本当にそれでおしまいです。案内をしていただいて、それで終了。いかがわしいことは一つも致しておりません」

 マギウスによれば、その時のそれは他愛無い小旅行であったとのことだった。普段いる世界とは違う世界の景色が見てみたくなって、ついふらっと「こちら側」にやってきたという話である。滞在期間もほんの数日、文字通りの小旅行であった。
 
「あの時あの場所でヒロト様と出会ったのは、全くの偶然。当初の予定にない、イレギュラーなイベントでした。ですがヒロト様との出会いが、あの旅の中で一番の思い出となっているのです」

 なんて素敵な方なんだろう。このような方にこそ、己の忠誠を捧げたい。見ず知らずの自分に親切にしてくれた博人に、マギウスは大いに感激した。年齢や社会的立場など関係ない。この魔物娘は、博人という「個人」に感激したのだ。
 
「向こう側に帰った後も、何度もあなたにお会いしたいと思いました。従者としてあなたに仕えたいとも考えました。ですが折悪く、私の住んでいた町でトラブルが起きてしまったのです。言い訳がましく聞こえるかもしれませんが、本当のことなんです」

 そう前置きしてから、マギウスが「トラブル」の内訳を説明し始めた。彼女が帰郷した直後、彼女の住む町――人と魔が手を取り合って暮らす平和な町に「教団」と呼ばれる者達が来たのだ。そこまで言ってから、「教団とは魔物娘を排斥しようと目論む過激な集団である」と、マギウスは付け加えるように博人に説明した。
 知る者が聞けば非常に簡潔な説明である。しかし的確ではあったので、なんら問題は無かった。博人もそれで納得し、注釈を入れ終えたマギウスが話を続けた。
 
「教団の攻撃は激しく、長期に渡って行われました。私や他の住民は、それの対応に手一杯でした」

 教団の干渉は何年も続いた。最終的に退けることには成功したが、町は大損害を被った。立ち直り、元の姿に復興するのに、さらに幾年もの時間を要した。
 マギウスはその復興作業に最後まで従事した。一人の住人として放っておけなかったのだ。おかげで博人のいる世界、博人と出会った場所に再び赴くことは、長い間叶わなかった。
 全てはタイミングの問題だった。
 
「完全に立ち直ることが出来たのは、つい最近のことです。だからこそ、私もこうして『こちら側』に来られたのですよ」

 博人の顔を見下ろしながらマギウスが語る。彼女は微笑んでいたが、そこには一抹の悲しさや寂しさも混じっていた。
 念願叶って再会できたのに、どうして悲しげなのか。博人は疑問に思った。そして彼はすぐにそれを問うた。
 
「あなたです」

 マギウスが答える。博人の頬に手を添え、キキーモラが物悲しい口調で続ける。
 
「やっと会えたあなたが、このような目に遭っていたからです」
「――ああ」

 理解した。博人は悲しい気持ちになった。
 マギウスがここまで献身的になってくれる理由も。
 博人の両目が滲む。その涙をマギウスの指が拭う。
 
「落ち着いて」

 マギウスが優しく告げる。無理だ。
 感情が溢れ出す。胸が苦しくなる。喉が熱くなり、嗚咽が漏れる。
 
「あなたは悪くありません」

 キキーモラが諭す。胸を何度も上下させ、博人が何度も頷く。
 
「またあなたに会えて、私は幸せでございます」

 焼け石に水。それでも言わずにはいられない。マギウスはそんな思いから、彼に言葉を投げ続けた。そして実際、それは博人にとって大きな助けとなった。
 マギウスの言葉が胸に染み込んでいく。心の溝をマギウスが埋めていく。痛みと悲しみが和らぎ、体の芯から暖かくなっていく。
 
「あ……」
 
 お礼が言いたい。自分を助けてくれるマギウスに感謝の気持ちを伝えたい。でも頭が回らない。なんと言えばいいのか、全くわからない。
 でも何か言わないと。ちゃんと自分の気持ちを伝えないと。一歩前へ。踏み出せ。本能が思考の尻を叩く。
 さあ言え。今こそ言え。お前が本当に言いたかったことを言え。
 
 
 
 
「マギウス」

 口が開く。唐突にキキーモラの名を呼ぶ。
 
「――さん」
 
 思い出したように敬称をつける。マギウスの動きが止まる。手を頬に添えたまま、相手の顔をじっと見つめて硬直する。
 博人がその顔を見つめ返す。恐怖は無かった。最初の一歩は踏み出せた。あとはもう心のままに。
 
「いつも、その……ありがとうございます……」

 博人が続けて言う。言ってやったという達成感はなかった。ただ暖かさと気恥ずかしさだけがそこにあった。
 そして数秒後、博人の顔が真っ赤になる。マギウスの顔も真っ赤になる。前者は羞恥からくる紅潮だが、後者は違った。
 
「……」

 マギウスが口を開け、何事か言う。博人の耳はそれを拾えなかった。それだけ小さな呟きだった。
 直後、博人の顔に水滴が落ちる。そこでようやく博人が気づく。
 マギウスが泣いている。
 
「……っ」

 下唇を噛み、眉間に皺を寄せ、両の瞳からぽろぽろ涙を流す。泣くまいと歯を食いしばってはいたが、溢れるそれは止められなかった。
 眉に。鼻に。頬に。唇に。魔物娘の涙が止め処なく落ちる。博人の手が自然と動き、震えるマギウスの顔をそっと撫でる。
 
「いいえ」

 キキーモラが言う。鼻をすすりつつ、頬に添えられた博人の手に、自分の手を重ねる。
 涙で顔をくしゃくしゃにしながら、それでも笑ってマギウスが答える。
 
「どういたしまして」

 マギウスは、どこまでもたおやかな女性だった。




 一瞬。目の前の女の人が輝いて見えた。初めてこの人をちゃんと見たような、そんな感じがした。
 それと同時に、博人は息をのんだ。何故かわからないが、全身の体温が一気に上がった。
 綺麗で、献身的で、奥ゆかしくて、優しくて。
 どうしてこの人はこんなに美しいんだろう。
 
「どうして――?」
 
 この時感じた胸の高鳴りを、博人は生涯忘れなかった。
18/07/29 20:04更新 / 黒尻尾
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