3
件の膝枕から四日経った。
あれ以来、博人とマギウスの関係はほんの少し変化した。
「ヒロト様、まだ眠られないのですか?」
「はい……」
縁側でぼうっとする博人に、マギウスが声をかける。彼は未だに夜を寝て過ごすことが出来なかった。静寂の中で目を閉じると、途端にかつての苦い日々が脳裏に浮かび上がるのだ。おかげで一睡も出来ず、夜は博人にとって辛い時間となった。ここは以前と同じだった。
変わったのはこの後だった。
「それでは、今お休みしてしまいましょう。私がお傍にいて差し上げますからね」
「は、はい」
隣に立つマギウスが提案し、博人が躊躇いがちに頷く。それからマギウスが部屋の奥に引っ込み、可愛らしく「よいしょ」と言いながら正座する。
博人が自分から首を動かし、背後を肩越しに見る。清楚なゴシック調のメイド服を着た魔物娘が恭しく正座し、こちらをじっと見つめながら微笑んでくる。
「さあヒロト様。こちらへ」
「……」
キキーモラが微笑し、呼びかける。博人が立ち上がり、誘蛾灯に誘われる羽虫のように、フラフラとそこへ引き寄せられていく。
マギウスの前に博人が立つ。そこから彼女の隣に移り、腰を降ろす。
二人が横並びになる。マギウスが自分の膝をスカート越しにぽんぽんと叩く。
博人が遠慮がちに、そこに頭を載せる。
「はい。よくできました」
自分の膝に頭を載せた博人に、マギウスが優しく声をかける。同時に手で頭を撫で、肌越しに互いの体温を交わし合う。
それが博人の緊張を解き、彼の体から力を抜かせていく。
「いい子、いい子。怖くない、怖くない」
これが変化だった。博人は夜眠る代わりに午後眠るようになった。それも決まってマギウスの膝枕で。彼女の膝に頭を載せ、その頭を彼女に撫でてもらって、博人はようやく安眠出来るようになったのだ。
「そうです。そのまま。力を抜いて。ヒロト様、どうぞお眠りを」
細い指が額をさする。手首から生え伸びた羽が前髪を揺らす。優しい声が脳を弛緩させる。
彼女の全てが博人を癒していく。
博人はその安らぎに抗えなかった。
「すいません……もう……」
すぐに眠気がやってくる。今までずっと起きっぱなしだったので、身体は既に限界だった。
博人が正直にそれを告げる。マギウスは嫌な顔一つせず、にっこり笑ってそれを受け止める。
「はい。お眠りください。ヒロト様は私がお守りいたします」
どこまでも甘く優しい声。博人の意識に、それに依存することへの罪悪感は微塵も無かった。
今はとにかく、この優しさに縋りたい。自分を無条件で愛してくれるこの人に、身も心も傾けたい。
精神も限界だった。
「……」
この日博人は、一分足らずで「落ちた」。最初の膝枕以来、彼は連続で記録を更新していた。初めて会うはずのキキーモラが、マギウスの存在が、彼の精神に安らぎをもたらしていた。
なぜこの人と一緒にいると、自分はこんなに落ち着くのだろうか。博人の心は、それに対する答えをまだ見つけられずにいた。
「ここにいれば大丈夫ですからね」
博人が完全に眠りに落ちてから数分後。健やかに眠る博人を見下ろしながら、マギウスがそっと囁く。
「ヒロト様は、私がお支えしますから」
安眠を妨げないよう、小声で決意を語る。博人はそれに気づかず、マギウスの目線の下で眠り続けた。
無垢な子供のように。母親の胸で眠る子供のように。
「……」
子守歌でも歌ってあげようか。母性をくすぐられたマギウスが、ふとそんなことを考える。そして自分は彼の母親ではないとすぐに我に返り、お馬鹿なことを考えた自分を自嘲するように笑いながら博人に言った。
「あなたが可愛いのがいけないんですからね」
その困惑混じりの言葉には、堅苦しい忠誠とは全く別の感情が満ちていた。
弟を気に掛ける姉のように。息子を慈しむ母親のように。博人を見つめるマギウスの瞳には、純粋な信頼と親愛だけがあった。
「ヒロ君。今だけは、せめて良い夢を」
何も知らない博人は、そのまま眠り続けるだけだった。
こうして博人の午睡は定例行事となった。いつも決まった時間に、決まった場所で、博人はマギウスの膝の上で眠るようになったのである。
細かい打ち合わせや予定のすり合わせはしなかった。最初に博人がマギウスの膝上で眠った際の場所と時間が、そのまま二人の集合地点となっただけである。
「ヒロト様。お待たせいたしました。それでは参りましょう」
「あっ、はい」
そうするよう強制されたわけでもないし、習慣づけるよう命令されたわけでもない。しかしマギウスは毎日律儀に「その時間」に「その部屋」へ向かい、縁側に座る博人へ自分から声をかけていくのであった。博人の方も特にそれを拒んだりはせず、むしろ彼もまた毎日律儀に「その時間」に「そこ」へ腰かけていた。
それは明文化された規則ではなく、暗黙の了解に過ぎなかった。だが二人は――特にマギウスは、この午後の邂逅を楽しみにしていた。
「いつもすいません。こんなこと」
「いいのですよ。ヒロト様が心配する必要はありません。さあ、いつものようにお体を休めてください」
遠慮がちに小さい声で謝る博人に、マギウスがニコニコ笑って答える。マギウスは本当に博人の面倒を見るのを楽しみにしていたのだが、残念ながら若い博人の心はまだそこまで鋭敏では無かった。
マギウスは信用しきれない。彼の心にはまだモヤモヤが残っていた。しかしここまでしてくれているのは事実なので、それを指摘するのは気が引けた。だから博人は相手の言葉を鵜呑みにせず、本心を露わにすることもせずに、ただマギウスの好意に甘えるだけだった。
「……」
相手の心が分からない。本当は自分をどう見ているのか分からない。知るのが怖い。刺激したくない。
博人はマギウスに感謝はしていた。していたが、そこから先に踏み込むことは出来なかった。だから彼はマギウスとは何も喋らず、ただその膝を借りるだけだった。
一方のマギウスは、博人の葛藤には気づいていた。しかし自分からそれを切り出すことは絶対にしなかった。それが今の彼の精神にとってよろしいものではないことを、マギウスはちゃんと理解していた。
していたが、それでも一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
「信じていただけないというのは、やるせないものですね……」
彼の境遇を思えば、彼が疑心暗鬼に陥るのも無理からぬことである。それでもマギウスは、もっと博人に自分を信じてほしいと願っていた。
無理強いすることではないのはわかっている。だからこそ、余計に胸が絞めつけられる。いったい何をどうすれば、ここまで人を信じることを恐れてしまうようになるのだろう。想像するだけで恐ろしく、また哀しくもなってくる。
いったいどうすれば。穏やかな博人の寝顔を見ながら、マギウスが悩んでいたその時だった。
「マギちゃん、いつもすまないね」
いつの間にか近くまで来ていた博人の祖母が、マギウスにそう優しく声をかける。驚きそちらを見るマギウスに、続けて祖母が言う。
「手こずってるみたいだね。うちの孫が世話をかけるねえ」
「いえ、そんな」
好きでやってることですから。祖母の問いかけにマギウスが答える。本心からの言葉である。
祖母もそれは気づいていた。だからこそ、祖母は博人の世話を全てマギウスに任せていた。
「そんなマギちゃんに、ひとついいこと教えてあげる。うちの博人と仲良くなれるとっておきの方法をね」
かといって、丸投げしてそれで済ませるつもりもなかった。祖母も祖母で、助け舟は出せる限り出してあげようと考えていた。博人のために骨を折ってくれるマギウスの、せめてものフォローである。
「いいんですか?」
祖母からの申し出を受け、マギウスが目を丸くする。お節介だったかな? 控え目な反応をするマギウスに対し、祖母が申し訳なさそうに返す。
「そうだよねえ……婆さんのアドバイスはもう時代遅れだよねえ……」
遠くを見つめながら、もの悲しげにしみじみ呟く。
直後、慌ててマギウスが言い直す。
「そ、そんなことは! 全然ありがたいです!」
「そうかい、そうかい。やっぱりそうだよね」
前言撤回するマギウスに祖母が笑って答える。そこにそれまで見せていた寂しさは無く、予めその反応を予期していたかのような変わり身の早さであった。完全に掌の上である。
マギウスもそれに気づいていた。しかし彼女は怒る代わりに「この人には敵わないな」と肩を竦めた。祖母とは長い付き合いになるが、何度顔を合わせてもこの人には勝てる気がしない。
「じゃあ早速、とっておきの方法を教えてあげるよ。今日の夜にでも試してごらん」
諦めるように体の力を抜くマギウスに祖母が言い放つ。再び顔を上げ、こちらを見るキキーモラに、老婆が活力に満ちた笑みを浮かべて言い放つ。
「それはね……」
声を潜めて祖母が秘策を授ける。
数秒後、マギウスが呆気に取られた表情を見せる。それを見た祖母が、悪戯っ子のようにケタケタ笑う。
マギウスは最後まで祖母の掌の上にあった。
その日の夜。博人は自分に宛がわれた部屋で、敷かれた布団の上に座っていた。例によって眠ることが出来なかった。毛布を被って横になるのも嫌だった。とにかく起きていたかったのだ。
博人にとって、夜はまだ敵であった。思考もまた悪であった。扇風機の出力を全開にし、その羽の生み出す音をただぼうっと聞いていた。
「ヒロト様」
そんな時、部屋の外からマギウスの声が聞こえてきた。閉じ切られた襖越しに聞こえるその言葉に、博人は咄嗟に反応してしまった。
「はい、なんでしょうか?」
「ああよかった。まだ起きていらしたんですね」
安心したようなマギウスの声。博人は違和感を覚えた。枕の上にある時計は深夜一時を指している。普通だったら安堵するより前に、この時間まで起きていたことを咎めるはずだ。普段のマギウスなら絶対そうする。
大してつき合いは長くないのに、博人はそう確信していた。あの人――正確には人ではないが――は不真面目な人ではない。博人は心の中で、マギウスをそう評価していた。
「いきなりで恐縮なのですが、そちらのお部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
そのマギウスが、襖越しにそんなことを言ってくる。博人はまたしても驚いた。ここまで積極的だとは思わなかったからだ。それとも、ただ自分が勘違いしていただけなのだろうか?
だが幸か不幸か、ここで博人の「癖」が出た。病院送りになってから発現した、「何も考えず反射的に肯定する」という癖だ。
「あ、はい。いいですよ」
下手に拒絶して、色々な意味で相手を刺激したくない。とりあえず相手に合わせて、なあなあで済ませたい。
誰とも深く関わりたくない。自分を曝け出して、弱みを握られたくない。そう言ったネガティブな感情から来る、後ろ向きの処世術である。
「本当にいいんですか?」
「はい」
「いいんですね?」
「はい」
遠慮がちに何度も尋ねるマギウスに、博人が同じトーンで繰り返し首肯する。それは博人の頭の中で、酷く空虚に響いた。きっとマギウスもそう思っているに違いない。
確信する博人の目の前で、襖がゆっくり開いていく。半分ほど開いたところで、ちょこんと正座するマギウスの姿が見えた。
いつものメイド服ではない、簡素な水色の寝間着に身を包んだキキーモラがそこにいた。
「お、お邪魔します……」
控え目に言いながら、マギウスが部屋の中に入る。後ろ手で襖を閉じ、ゆっくり博人の元へ歩いていく。
何をしに来たんだろう。ここに来てようやく、博人がそんなことを考える。そうして訝しむ博人に、マギウスが伏し目がちに声をかける。
「あの、ヒロト様。今日はその、お願いがあってまいりました」
「は、はい」
「その……」
マギウスが言葉を詰まらせる。博人がそこに注目する。
数瞬後、マギウスが口を開く。
「その、今日は――」
数分後、二人は布団の中にいた。
博人のために敷かれた布団の中に、二人仲良く身を寄せ合って入り込んでいた。
「さすがに少し、狭いですね……」
「はい……」
困ったようにマギウスがこぼす。博人も同じく、困惑して相槌を打つ。本質は変わらない。
緊張はしていた。大人の女性と一緒に寝るなど人生初めての体験だ。しかし今は諸手を挙げて喜べる精神状態ではない。何故こんなことをしたのか。心の平衡を乱す真似をしたマギウスに、博人はどうしてもそれを聞きたかった。
「もうちょっとそちらに行かせていただきますね」
しかしいざ聞こうとしたところで、マギウスの先制を許す。そう言いながらキキーモラが博人の側に詰め寄り、二人の体がさらに密着する。
他人の体温を直に感じる。プライベートスペースに土足で入り込んでくる。歓喜や至福よりも迷惑が頭の中を占める。博人はもう冷静ではいられなかった。
「なんでこんなことを?」
ついに博人が問う。至近距離で相手の顔を見ながら、博人がマギウスに尋ねる。
問われたマギウスは、一瞬言葉を失った。何も言えず、ただじっと博人を見つめ返した。
「……」
暫しの沈黙。静寂が部屋を包む。扇風機の音しか聞こえない。
沈黙のまま、マギウスが動く。静寂を破ることなく、両手を博人の背中に回す。
無言で引き寄せられる。思わず博人が声を漏らす。
「えっ」
マギウスは止まらない。魔物娘が人間を抱き締め、二人の体が正面から密着する。人間の顔が、そこそこふくよかなキキーモラの谷間に埋もれる。
「え」
博人が絶句する。扇風機の音が消える。二人分の心臓の鼓動だけが、五月蝿いほどに頭に響く。
「……」
遅れてマギウスの体温を全身で感じる。マギウスの匂いが鼻をくすぐる。甘く柔らかい、ほのかな香りが、博人の鼻腔をくすぐっていく。
もはや何も言えない。五感をマギウスに包まれ、博人は言葉を出せなかった。
「私は、ヒロト様の味方でございます」
そこにマギウスの声がかかる。
背中を抱く腕に力を込め、博人の耳元で静かに呟く。
「ヒロト様がまだ私を信じ切れていないことは、承知しております。それでもどうか、これだけは信じていただきたいのです」
二人の体がさらに密着する。博人はそれを拒絶しなかった。体の力を抜き、耳を澄まし、マギウスの告白に聞き入る。
少年の耳元でマギウスが続ける。
「私はヒロト様の味方です。いつでも、どこでも、私はヒロト様をお支えし、お守りいたします」
騎士が王に忠誠を誓うように。確固たる決意を滲ませる口調で、マギウスが博人に宣誓する。
「夜が怖いのならば、お傍におりましょう。一人で眠れないのならば、共に夜を過ごしましょう。あなたが大丈夫になれるまで、こうしていつまでもご一緒しましょう」
信じて。それだけを口にする。
マギウスはそれ以上何も言わなかった。
博人は混乱した。戸惑いと嬉しさと感動が、全て等しく胸の奥からこみ上げてきた。なぜそこで泣きたくなったのか、博人は理解できなかった。
「どうして」
それで精一杯だった。キキーモラの胸に顔を埋め、そう呟くだけだった。
マギウスはすぐに答えなかった。代わりに背中を抱く腕を動かし、その両手を彼の後頭部に添えた。
「あなたは大切な人だから」
後頭部を撫でながらマギウスが告げる。博人の涙腺が激しく揺さぶられる。
直後、己の意識が遠のいていくのを博人は感じた。
「あ――?」
おかしい。今まで眠たいと思ったことは無いのに。疑問に思う暇もなく、博人の心身を睡魔が襲う。彼はそれに抗えなかった。
恐怖はない。戦慄もない。闇と悪夢に震え上がることもない。訪れるのは安らかな眠気だけ。
どうして?
この人がいるから?
思考が途切れる。
「ん……」
緊張の糸が切れる。博人が完全に沈黙する。後には寝息だけが残り、扇風機の羽音が再び部屋を包む。
暫く後、マギウスがほんの僅か体を離す。穏やかな表情で眠る博人の姿を確認し、ほっと安堵のため息を漏らす。
「おやすみなさいませ、愛しい人」
そして独り呟く。誰に言うでもなく、ただ静かに言葉を零す。
その言葉を聞いた者は、ここには誰もいなかった。
あれ以来、博人とマギウスの関係はほんの少し変化した。
「ヒロト様、まだ眠られないのですか?」
「はい……」
縁側でぼうっとする博人に、マギウスが声をかける。彼は未だに夜を寝て過ごすことが出来なかった。静寂の中で目を閉じると、途端にかつての苦い日々が脳裏に浮かび上がるのだ。おかげで一睡も出来ず、夜は博人にとって辛い時間となった。ここは以前と同じだった。
変わったのはこの後だった。
「それでは、今お休みしてしまいましょう。私がお傍にいて差し上げますからね」
「は、はい」
隣に立つマギウスが提案し、博人が躊躇いがちに頷く。それからマギウスが部屋の奥に引っ込み、可愛らしく「よいしょ」と言いながら正座する。
博人が自分から首を動かし、背後を肩越しに見る。清楚なゴシック調のメイド服を着た魔物娘が恭しく正座し、こちらをじっと見つめながら微笑んでくる。
「さあヒロト様。こちらへ」
「……」
キキーモラが微笑し、呼びかける。博人が立ち上がり、誘蛾灯に誘われる羽虫のように、フラフラとそこへ引き寄せられていく。
マギウスの前に博人が立つ。そこから彼女の隣に移り、腰を降ろす。
二人が横並びになる。マギウスが自分の膝をスカート越しにぽんぽんと叩く。
博人が遠慮がちに、そこに頭を載せる。
「はい。よくできました」
自分の膝に頭を載せた博人に、マギウスが優しく声をかける。同時に手で頭を撫で、肌越しに互いの体温を交わし合う。
それが博人の緊張を解き、彼の体から力を抜かせていく。
「いい子、いい子。怖くない、怖くない」
これが変化だった。博人は夜眠る代わりに午後眠るようになった。それも決まってマギウスの膝枕で。彼女の膝に頭を載せ、その頭を彼女に撫でてもらって、博人はようやく安眠出来るようになったのだ。
「そうです。そのまま。力を抜いて。ヒロト様、どうぞお眠りを」
細い指が額をさする。手首から生え伸びた羽が前髪を揺らす。優しい声が脳を弛緩させる。
彼女の全てが博人を癒していく。
博人はその安らぎに抗えなかった。
「すいません……もう……」
すぐに眠気がやってくる。今までずっと起きっぱなしだったので、身体は既に限界だった。
博人が正直にそれを告げる。マギウスは嫌な顔一つせず、にっこり笑ってそれを受け止める。
「はい。お眠りください。ヒロト様は私がお守りいたします」
どこまでも甘く優しい声。博人の意識に、それに依存することへの罪悪感は微塵も無かった。
今はとにかく、この優しさに縋りたい。自分を無条件で愛してくれるこの人に、身も心も傾けたい。
精神も限界だった。
「……」
この日博人は、一分足らずで「落ちた」。最初の膝枕以来、彼は連続で記録を更新していた。初めて会うはずのキキーモラが、マギウスの存在が、彼の精神に安らぎをもたらしていた。
なぜこの人と一緒にいると、自分はこんなに落ち着くのだろうか。博人の心は、それに対する答えをまだ見つけられずにいた。
「ここにいれば大丈夫ですからね」
博人が完全に眠りに落ちてから数分後。健やかに眠る博人を見下ろしながら、マギウスがそっと囁く。
「ヒロト様は、私がお支えしますから」
安眠を妨げないよう、小声で決意を語る。博人はそれに気づかず、マギウスの目線の下で眠り続けた。
無垢な子供のように。母親の胸で眠る子供のように。
「……」
子守歌でも歌ってあげようか。母性をくすぐられたマギウスが、ふとそんなことを考える。そして自分は彼の母親ではないとすぐに我に返り、お馬鹿なことを考えた自分を自嘲するように笑いながら博人に言った。
「あなたが可愛いのがいけないんですからね」
その困惑混じりの言葉には、堅苦しい忠誠とは全く別の感情が満ちていた。
弟を気に掛ける姉のように。息子を慈しむ母親のように。博人を見つめるマギウスの瞳には、純粋な信頼と親愛だけがあった。
「ヒロ君。今だけは、せめて良い夢を」
何も知らない博人は、そのまま眠り続けるだけだった。
こうして博人の午睡は定例行事となった。いつも決まった時間に、決まった場所で、博人はマギウスの膝の上で眠るようになったのである。
細かい打ち合わせや予定のすり合わせはしなかった。最初に博人がマギウスの膝上で眠った際の場所と時間が、そのまま二人の集合地点となっただけである。
「ヒロト様。お待たせいたしました。それでは参りましょう」
「あっ、はい」
そうするよう強制されたわけでもないし、習慣づけるよう命令されたわけでもない。しかしマギウスは毎日律儀に「その時間」に「その部屋」へ向かい、縁側に座る博人へ自分から声をかけていくのであった。博人の方も特にそれを拒んだりはせず、むしろ彼もまた毎日律儀に「その時間」に「そこ」へ腰かけていた。
それは明文化された規則ではなく、暗黙の了解に過ぎなかった。だが二人は――特にマギウスは、この午後の邂逅を楽しみにしていた。
「いつもすいません。こんなこと」
「いいのですよ。ヒロト様が心配する必要はありません。さあ、いつものようにお体を休めてください」
遠慮がちに小さい声で謝る博人に、マギウスがニコニコ笑って答える。マギウスは本当に博人の面倒を見るのを楽しみにしていたのだが、残念ながら若い博人の心はまだそこまで鋭敏では無かった。
マギウスは信用しきれない。彼の心にはまだモヤモヤが残っていた。しかしここまでしてくれているのは事実なので、それを指摘するのは気が引けた。だから博人は相手の言葉を鵜呑みにせず、本心を露わにすることもせずに、ただマギウスの好意に甘えるだけだった。
「……」
相手の心が分からない。本当は自分をどう見ているのか分からない。知るのが怖い。刺激したくない。
博人はマギウスに感謝はしていた。していたが、そこから先に踏み込むことは出来なかった。だから彼はマギウスとは何も喋らず、ただその膝を借りるだけだった。
一方のマギウスは、博人の葛藤には気づいていた。しかし自分からそれを切り出すことは絶対にしなかった。それが今の彼の精神にとってよろしいものではないことを、マギウスはちゃんと理解していた。
していたが、それでも一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
「信じていただけないというのは、やるせないものですね……」
彼の境遇を思えば、彼が疑心暗鬼に陥るのも無理からぬことである。それでもマギウスは、もっと博人に自分を信じてほしいと願っていた。
無理強いすることではないのはわかっている。だからこそ、余計に胸が絞めつけられる。いったい何をどうすれば、ここまで人を信じることを恐れてしまうようになるのだろう。想像するだけで恐ろしく、また哀しくもなってくる。
いったいどうすれば。穏やかな博人の寝顔を見ながら、マギウスが悩んでいたその時だった。
「マギちゃん、いつもすまないね」
いつの間にか近くまで来ていた博人の祖母が、マギウスにそう優しく声をかける。驚きそちらを見るマギウスに、続けて祖母が言う。
「手こずってるみたいだね。うちの孫が世話をかけるねえ」
「いえ、そんな」
好きでやってることですから。祖母の問いかけにマギウスが答える。本心からの言葉である。
祖母もそれは気づいていた。だからこそ、祖母は博人の世話を全てマギウスに任せていた。
「そんなマギちゃんに、ひとついいこと教えてあげる。うちの博人と仲良くなれるとっておきの方法をね」
かといって、丸投げしてそれで済ませるつもりもなかった。祖母も祖母で、助け舟は出せる限り出してあげようと考えていた。博人のために骨を折ってくれるマギウスの、せめてものフォローである。
「いいんですか?」
祖母からの申し出を受け、マギウスが目を丸くする。お節介だったかな? 控え目な反応をするマギウスに対し、祖母が申し訳なさそうに返す。
「そうだよねえ……婆さんのアドバイスはもう時代遅れだよねえ……」
遠くを見つめながら、もの悲しげにしみじみ呟く。
直後、慌ててマギウスが言い直す。
「そ、そんなことは! 全然ありがたいです!」
「そうかい、そうかい。やっぱりそうだよね」
前言撤回するマギウスに祖母が笑って答える。そこにそれまで見せていた寂しさは無く、予めその反応を予期していたかのような変わり身の早さであった。完全に掌の上である。
マギウスもそれに気づいていた。しかし彼女は怒る代わりに「この人には敵わないな」と肩を竦めた。祖母とは長い付き合いになるが、何度顔を合わせてもこの人には勝てる気がしない。
「じゃあ早速、とっておきの方法を教えてあげるよ。今日の夜にでも試してごらん」
諦めるように体の力を抜くマギウスに祖母が言い放つ。再び顔を上げ、こちらを見るキキーモラに、老婆が活力に満ちた笑みを浮かべて言い放つ。
「それはね……」
声を潜めて祖母が秘策を授ける。
数秒後、マギウスが呆気に取られた表情を見せる。それを見た祖母が、悪戯っ子のようにケタケタ笑う。
マギウスは最後まで祖母の掌の上にあった。
その日の夜。博人は自分に宛がわれた部屋で、敷かれた布団の上に座っていた。例によって眠ることが出来なかった。毛布を被って横になるのも嫌だった。とにかく起きていたかったのだ。
博人にとって、夜はまだ敵であった。思考もまた悪であった。扇風機の出力を全開にし、その羽の生み出す音をただぼうっと聞いていた。
「ヒロト様」
そんな時、部屋の外からマギウスの声が聞こえてきた。閉じ切られた襖越しに聞こえるその言葉に、博人は咄嗟に反応してしまった。
「はい、なんでしょうか?」
「ああよかった。まだ起きていらしたんですね」
安心したようなマギウスの声。博人は違和感を覚えた。枕の上にある時計は深夜一時を指している。普通だったら安堵するより前に、この時間まで起きていたことを咎めるはずだ。普段のマギウスなら絶対そうする。
大してつき合いは長くないのに、博人はそう確信していた。あの人――正確には人ではないが――は不真面目な人ではない。博人は心の中で、マギウスをそう評価していた。
「いきなりで恐縮なのですが、そちらのお部屋にお邪魔してもよろしいでしょうか?」
そのマギウスが、襖越しにそんなことを言ってくる。博人はまたしても驚いた。ここまで積極的だとは思わなかったからだ。それとも、ただ自分が勘違いしていただけなのだろうか?
だが幸か不幸か、ここで博人の「癖」が出た。病院送りになってから発現した、「何も考えず反射的に肯定する」という癖だ。
「あ、はい。いいですよ」
下手に拒絶して、色々な意味で相手を刺激したくない。とりあえず相手に合わせて、なあなあで済ませたい。
誰とも深く関わりたくない。自分を曝け出して、弱みを握られたくない。そう言ったネガティブな感情から来る、後ろ向きの処世術である。
「本当にいいんですか?」
「はい」
「いいんですね?」
「はい」
遠慮がちに何度も尋ねるマギウスに、博人が同じトーンで繰り返し首肯する。それは博人の頭の中で、酷く空虚に響いた。きっとマギウスもそう思っているに違いない。
確信する博人の目の前で、襖がゆっくり開いていく。半分ほど開いたところで、ちょこんと正座するマギウスの姿が見えた。
いつものメイド服ではない、簡素な水色の寝間着に身を包んだキキーモラがそこにいた。
「お、お邪魔します……」
控え目に言いながら、マギウスが部屋の中に入る。後ろ手で襖を閉じ、ゆっくり博人の元へ歩いていく。
何をしに来たんだろう。ここに来てようやく、博人がそんなことを考える。そうして訝しむ博人に、マギウスが伏し目がちに声をかける。
「あの、ヒロト様。今日はその、お願いがあってまいりました」
「は、はい」
「その……」
マギウスが言葉を詰まらせる。博人がそこに注目する。
数瞬後、マギウスが口を開く。
「その、今日は――」
数分後、二人は布団の中にいた。
博人のために敷かれた布団の中に、二人仲良く身を寄せ合って入り込んでいた。
「さすがに少し、狭いですね……」
「はい……」
困ったようにマギウスがこぼす。博人も同じく、困惑して相槌を打つ。本質は変わらない。
緊張はしていた。大人の女性と一緒に寝るなど人生初めての体験だ。しかし今は諸手を挙げて喜べる精神状態ではない。何故こんなことをしたのか。心の平衡を乱す真似をしたマギウスに、博人はどうしてもそれを聞きたかった。
「もうちょっとそちらに行かせていただきますね」
しかしいざ聞こうとしたところで、マギウスの先制を許す。そう言いながらキキーモラが博人の側に詰め寄り、二人の体がさらに密着する。
他人の体温を直に感じる。プライベートスペースに土足で入り込んでくる。歓喜や至福よりも迷惑が頭の中を占める。博人はもう冷静ではいられなかった。
「なんでこんなことを?」
ついに博人が問う。至近距離で相手の顔を見ながら、博人がマギウスに尋ねる。
問われたマギウスは、一瞬言葉を失った。何も言えず、ただじっと博人を見つめ返した。
「……」
暫しの沈黙。静寂が部屋を包む。扇風機の音しか聞こえない。
沈黙のまま、マギウスが動く。静寂を破ることなく、両手を博人の背中に回す。
無言で引き寄せられる。思わず博人が声を漏らす。
「えっ」
マギウスは止まらない。魔物娘が人間を抱き締め、二人の体が正面から密着する。人間の顔が、そこそこふくよかなキキーモラの谷間に埋もれる。
「え」
博人が絶句する。扇風機の音が消える。二人分の心臓の鼓動だけが、五月蝿いほどに頭に響く。
「……」
遅れてマギウスの体温を全身で感じる。マギウスの匂いが鼻をくすぐる。甘く柔らかい、ほのかな香りが、博人の鼻腔をくすぐっていく。
もはや何も言えない。五感をマギウスに包まれ、博人は言葉を出せなかった。
「私は、ヒロト様の味方でございます」
そこにマギウスの声がかかる。
背中を抱く腕に力を込め、博人の耳元で静かに呟く。
「ヒロト様がまだ私を信じ切れていないことは、承知しております。それでもどうか、これだけは信じていただきたいのです」
二人の体がさらに密着する。博人はそれを拒絶しなかった。体の力を抜き、耳を澄まし、マギウスの告白に聞き入る。
少年の耳元でマギウスが続ける。
「私はヒロト様の味方です。いつでも、どこでも、私はヒロト様をお支えし、お守りいたします」
騎士が王に忠誠を誓うように。確固たる決意を滲ませる口調で、マギウスが博人に宣誓する。
「夜が怖いのならば、お傍におりましょう。一人で眠れないのならば、共に夜を過ごしましょう。あなたが大丈夫になれるまで、こうしていつまでもご一緒しましょう」
信じて。それだけを口にする。
マギウスはそれ以上何も言わなかった。
博人は混乱した。戸惑いと嬉しさと感動が、全て等しく胸の奥からこみ上げてきた。なぜそこで泣きたくなったのか、博人は理解できなかった。
「どうして」
それで精一杯だった。キキーモラの胸に顔を埋め、そう呟くだけだった。
マギウスはすぐに答えなかった。代わりに背中を抱く腕を動かし、その両手を彼の後頭部に添えた。
「あなたは大切な人だから」
後頭部を撫でながらマギウスが告げる。博人の涙腺が激しく揺さぶられる。
直後、己の意識が遠のいていくのを博人は感じた。
「あ――?」
おかしい。今まで眠たいと思ったことは無いのに。疑問に思う暇もなく、博人の心身を睡魔が襲う。彼はそれに抗えなかった。
恐怖はない。戦慄もない。闇と悪夢に震え上がることもない。訪れるのは安らかな眠気だけ。
どうして?
この人がいるから?
思考が途切れる。
「ん……」
緊張の糸が切れる。博人が完全に沈黙する。後には寝息だけが残り、扇風機の羽音が再び部屋を包む。
暫く後、マギウスがほんの僅か体を離す。穏やかな表情で眠る博人の姿を確認し、ほっと安堵のため息を漏らす。
「おやすみなさいませ、愛しい人」
そして独り呟く。誰に言うでもなく、ただ静かに言葉を零す。
その言葉を聞いた者は、ここには誰もいなかった。
18/07/05 19:00更新 / 黒尻尾
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