読切小説
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とらとめしや
 その小さな定食屋は、都市部から離れた郊外の田舎町にぽつんと建っていた。そこは親子代々引き継がれてきた老舗の定食屋であり、世代を経て存在するそれは寂れてきてはいるものの、それでもなお色褪せることのない存在感を放っていた。
 そして現在、件の店は三代目店主――初代店主の孫にあたる青年によって切り盛りされていた。祖父は引退し、父は青年の指導兼裏方仕事に回っていた。ここは既に青年の店であった。
 なお外では魔物娘と呼ばれる存在が「こちら側の世界」に流入し、元いた人類との共存関係を築き始めていた。時の波は容赦なく流れていたが、それでもこの店のスタンスは微塵も揺るがなかった。
 
「店主よ、今日も来たぞ」
「はいいらっしゃい! いつもの席かい?」
「うむ。いつもの席に座らせてもらおう」
 
 例えそれが誰であろうと、のれんをくぐって来た者は全て客。それが親子代々受け継がれてきた、店の鉄則である。当然それは人間だけでなく、魔物娘にも当てはまった。
 
「しかし、今更だが君の所も酔狂だな。飢えた虎に食べ物を恵むとは」
「それがウチの掟みたいなものですからね」
「掟を守るのも構わんが、程々にな? もしかしたら味をしめた虎が、君の方を餌にしてしまうかもしれんぞ?」
「ウチのご飯でそうなったんなら、むしろ本望ですよ」
 
 こちら側の人間の中には、人間と魔物娘が並んで食事をすることに抵抗を抱く者もまだまだいた。しかしここでは、人と魔の間に境は無い。それが腹を空かせているのなら、分け隔てなく食を与える。
 それがこの店のルールだ。
 
「それでトラさん、今日は何食べます?」
「そうだな……せっかくだから今日は、肉が食べたいな。肉の料理をくれ」
「かしこまりました」

 故にこの店に魔物娘の常連がいることについても、誰も疑問を差し挟むことはなかった。店員だけでなくここに通う他の客達も、その存在を当たり前のように受け入れていた。
 その常連客の名はシャオ。この町に住む、人虎と呼ばれる種族の魔物娘である。隣人や店の関係者――主に店主の青年からは、種族名を取って「トラさん」と呼ばれていた。
 
 
 
 
 トラさんことシャオがこの町に来たのは、つい数か月前のことだった。魔物娘達の本来住んでいた世界からこちらに来た理由としては、彼女は「暇潰し」と語っている。この町に流れ着いたのも単なる偶然であり、特にここでなければならないという必然性は皆無だった。
 そうして流れるままにやって来た人虎であったが、田舎町の住人達はそんな彼女を受け入れた。魔物娘達と接触してから今日まで、町の住人――もっと言えばこの世界に生きる全人類――は彼女達のもたらす恩恵に大いに助けられてきた。だから彼女達を邪険に扱う必要はないどころか、逆に粗末な対応をするのは失礼とさえ思われていた。
 そんな訳で、シャオは何の障害も無く町の住人として認められた。そして今現在、彼女は町中に道場を開き、そこで主に護身術を中心に指導を行っていた。人虎の指導は中々に的確で、それがまた彼女の評判を高めていた。
 
「どんな肉がいいですかね。魔界産の肉もいくつか仕入れて来てるんですけど」
「特に指定はしないよ。君がこれだと思うものを使ってくれ。期待しているぞ」
「プレッシャーかけるのやめてくださいよ」
「何を言う。私は君の腕を認めているからこう注文しているんだ。よろしく頼むよ」

 そして一日の指導を終えたシャオは、決まってこの定食屋に足を運んでいた。ここは彼女がこの町に来て最初に訪ねた店であり、以来シャオはここのお得意様となっていた。
 三代目店主の青年と知り合ったのもその時だった。以来、二人は顔馴染みの関係となっていた。軽口の応酬もスキンシップの内である。周りで食事を取っていた客も、それを聞いて眉を顰めることはしなかった。
 
「じゃあ今日は……豚肉使おうかな」

 そう言って、青年が厨房の奥に引っ込んでいく。それから間もなく、奥の方から肉を焼く音、何かをかき混ぜる音、鍋を振り回す音が続けざまに聞こえてくる。それと共に食欲をそそる香ばしい匂いが漂い始め、否が応でも空きっ腹をざわつかせていく。
 
「はい、おまち」

 数分後、青年がお盆を持ってシャオの元にやって来た。シャオに出す料理に限っては――なぜかは不明だが――決まって青年が出すことになっていた。シャオもそれを当たり前のこととして受け入れ、疑問を抱くことはなかった。
 
「今日はシンプルに、野菜炒めで行ってみた。ご飯と味噌汁、漬物付きの定食スタイルだな」

 お盆の上に並んだ料理を見下ろしながら、青年が言葉を紡ぐ。そしてそのまま、お盆をシャオの前に置く。
 中央に野菜炒めを盛り付けた楕円の皿。左に白飯入りの茶碗。右に味噌汁の注がれた器。右上に漬物の入った小皿。どれもこれといって特徴のない、簡素な仕上がりの定食である。
 しかしそれがいい。このシンプルさをこそ、シャオは好ましく思っていた。
 
「うん、やはりこれがいい。こうでなくてはな」

 満面の笑みを浮かべながら、シャオがうんうんと頷く。それを横で見ていた青年もまた、自然と笑顔になる。
 
「ちゃんとお箸を使って食べてくださいね」
「わかっている。今の私は昔の私とは違うのだ」

 そのままさりげなく釘を差す。青年はこの人虎が初めて店に来た時、出された料理を素手で掴んで食べようとしていたのを思い出していた。
 
「それから、野菜も食べてくださいよ。お肉ばっかじゃバランス悪いですから」
「いちいちうるさい奴だな。ちゃんと食べるから安心しろ」

 しつこく青年が注意する。かつてシャオがあからさまに野菜を避けて、肉だけを食べようとしていた頃のことを思い出していたのだ。どれもこれもいい思い出だ。
 一方のシャオはそんな青年に対し、親の小言に辟易する子供のように顔をしかめ、あっちいけとばかりに手を払う仕草を取る。それを見た青年もようやく観念したのか、小さく笑いながらその場から立ち去っていった。
 
「まったく、注文の多い奴だ」

 そして青年がいなくなった後、シャオは肩を落としながら盆の手前にあった箸を手に取った。しかし彼女の顔は穏やかで、どこか嬉しげでもあった。
 
 
 
 
 それからも、シャオは毎日のようにこの店に通い続けた。今までと同じである。そして店側もそれを拒絶せず、シャオに得意の料理を振る舞い続けた。これもいつも通り。
 またシャオはそこで食事を取るだけでなく、店主の青年を相手に他愛無い世間話をすることもあった。これもいつものことであった。
 
「実はな、今日は少し話があるのだ。聞いてくれないか」
「話ですか? 構いませんけど、どんな話です?」
 
 店自体が小さく、目の回るような忙しさになることも殆ど無いので、青年もシャオとの雑談に毎回付き合っていた。なお他に注文が入っていた時は、父が代わって調理していた。
 なお店主が仕事を投げ出して客と話し込むことに対して、誰もそれを咎めようとはしなかった。むしろその場の全員が微笑ましげに、その光景を見守っていた。魔物娘が人間社会に入り込んでからというもの、社会の空気そのものが弛緩し始めてきていた。
 閑話休題。この日もまた客入りが緩かったので、青年とシャオはいつものように雑談に興じていた。
 
「格闘技大会?」
「うむ。人間と魔物娘の融和を目的として、都心の方で異種格闘技大会が開かれるようなんだ」

 今日の話の中心は、シャオが言った格闘大会であった。青年は当然それに食いつき、シャオもまた箸を止めて話を続けた。
 ちなみにこの時彼女が食べていたのは、辛みの強い麻婆豆腐であった。この店ではよほど無茶なものでも無い限り、ある程度の料理は作って提供することが出来た。それもまた、この小さな定食屋の強みの一つであった。
 そして麻婆特有のピリリとした辛みを舌に感じながら、シャオが青年に話を続けた。
 
「私もそれに出ようと思っている」
「トラさん、それ本当ですか?」
「当然だ。これほど胸の躍る祭りなど、そうはあるまい。今参加せずしてどうすると言うのだ」

 そう答えるシャオの両目は、ギラギラと輝いていた。そこには闘志に燃える格闘家の気配と、血に飢えた猛獣の気配が同居していた。
 それは恐ろしくも雄々しい、見る者の魂さえ奮わせる凄絶なものだった。青年がその熱気に中てられ、興奮状態に入ったのは言うまでもない。
 
「凄いですね! それなら俺も応援しますよ!」
「君が応援してくれるのか? それは心強いな。君がいてくれるなら百人力だ」

 熱のこもった青年の言葉に対し、シャオが嬉しそうに反応する。この時周りで食べていた客が呆れたようにため息をついたが、二人ともそれには気づかなかった。
 二人の惚気話はまだ続いた。
 
「それはいつ始まるんですか?」
「二日後だ。なに、君はいつも通り、私に美味い料理を出してくれればそれでいい。私が頑張れているのは、君がいてくれるからでもあるんだからな」
「そう言ってもらえると、俺としても凄い嬉しいです。じゃあいつも通り、腕を振るって美味い料理を提供しますね」
「そうしてくれるとありがたい。頼むよ」

 青年とシャオが互いの目を見つめ合う。そこには確固たる友情があった。
 遠くからそれを見ていた父は、どこか喜ばしげにその光景を見守っていた。
 
 
 
 
 二日後、シャオの言う通り格闘大会が都心の方で開催された。大会はまず最初に予選を行い、そこを勝ち抜いた者が本戦トーナメントに進む段取りになっていた。開催期間は全部で一週間。決勝戦は最終日に行われる予定である。
 シャオはそれに参戦し、当たり前のように予選突破した。青年は本音を言えば観戦したかったが、仕事があるのでそちらを優先することにした。シャオからもそうした方がいいと勧められた。
 なおこの店にテレビは無かった。青年はここに来て初めて、自分の店にテレビが無いことを呪った。
 
「君には君のすべきことがあるはずだ。それを蔑ろにしてはいけない」
「……うん、確かにそうですよね。じゃあ申し訳ないですけど、直接応援には行けないってことで」
「構わないよ。私が勝って、ここに来ればいい話なのだからな」

 大会前日、二人はそんな話をしていた。そしてその話の通り、青年は予選期間中も仕事に集中し、シャオはそんな彼の下へ毎日通い続けた。
 手土産は当然、勝利の二文字である。
 
「聞いてくれ! 予選突破したぞ! これで明日からの本戦に出場できる!」

 そして予選最終日。シャオはいつものように青年の店に向かい、そこで彼に勝利の報告をした。店番をしていた青年と、その時食事していた客は揃って彼女の言葉を聞き、すぐにそれを祝福した。彼女が負けるとは誰も思っていなかったが、やはり実際にそれを聞くと嬉しいものである。
 
「本当ですか!? 凄いじゃないですか!」
「なあに、これくらい私にかかれば朝飯前だ。本戦もこの調子で勝ち抜いていくから、君も吉報を待っていてくれよ」

 自分のことのように喜ぶ青年に対して上機嫌に返しながら、シャオが「いつもの席」に腰かける。それから青年がシャオの元に近づき、今日の注文を彼女に尋ねる。
 
「さて、今日は何にしましょうか?」
「そうだな。景気づけにガツンとしたものを頼む。肉が食べたいな」
「わかりました。肉の料理ですね」
「ああ、肉だ。よろしく頼む」

 シャオの注文を聞いた青年が、軽やかな足取りで厨房へ向かっていく。それから十分経った後、おぼんを持った青年がシャオの下へ戻ってきた。
 
「はい、おまちどうさま。かつ丼でございます」
「かつ丼?」

 青年の言葉にシャオが返し、次いで自分の前に置かれたおぼんの上のどんぶりに目を向ける。どんぶりには蓋がされており、彼女の眼前で青年がその蓋を開けてみせる。
 直後、どんぶりの中から白い湯気が食欲をそそる風味と共に開け放たれる。湯気に絡んだ旨味がシャオの鼻をくすぐり、試合帰りで空っぽになっていた胃袋をこれでもかと刺激する。脳味噌が声高にカロリーを要求し、全身を痛いほどの飢餓感が襲い、喉の奥から涎がせり上がっていく。
 
「美味そうだ……!」

 やがて湯気が晴れ、どんぶりの中身が露わになる。黄金色の黄身に閉じ込められた肉汁たっぷりのとんかつが姿を見せ、それがさらにシャオの腹の虫をざわめかせる。
 シャオは己の欲求に逆らわなかった。口元を拭って涎を拭き取りながら、青年の方を向いて期待に満ちた顔で彼に問う。
 
「も、もう食べていいか? 食べていいよな?」
「もちろん。どうぞ召し上がってください」

 青年がにこやかに答える。自分の料理でここまで反応してくれるのは非常に嬉しい。
 そんなことを考える青年の横で、シャオは脇目も振らずに丼を手に取った。箸を利き手で持ち、力任せに中身を口の中にかきこんでいく。
 その様はまさに飢虎、もしくは餓狼と言うべき壮絶なものだった。周りの視線などお構いなしに、ただ己の欲を満たさんと一心不乱に食を進める。しかしそのある種凄惨な光景を前にして、青年はなお嬉しげに笑みを浮かべていた。
 
「美味しいですか?」

 一瞬で丼の半分を食い尽くしたシャオに、青年が声をかける。まだ咀嚼していた人虎はその問いかけに対し、口をもごもご動かしたまま首を縦に振って答えた。
 
「よかった……!」

 それを見た青年は、見るからに肩の力を抜いて安堵の表情を浮かべた。そこには自分の料理が受け入れられたことへの喜びも含まれていた。その一方で、シャオはそんな青年の安堵などどこ吹く風と言わんばかりに、なおも一心不乱にどんぶりの中身を口内にかきこんでいった。
 
「ごちそうさまでした!」

 結局、シャオはものの数分でかつ丼を完食した。どんぶりの中には米粒一つ残っておらず、見ている方も気持ちよくなる程の食べっぷりだった。
 実際青年も、それを見ていっそう胸の中に喜びを抱いた。
 
「いつも残さず食べてくれてありがとうございます」

 自然と顔に笑みが溢れ、開いた口から言葉が漏れてくる。料理人としてこれほど嬉しいものはない。感無量の極みである。
 そうしてどんぶりと蓋を手元に引き寄せ、おぼんの上に戻す青年に対し、シャオもまた満面の笑みで言葉を返した。
 
「いや、礼を言うのはこちらの方だ。いつも美味い食事を出してくれて、本当にありがとうよ」
「そんな、お礼を言われるほどのことはしてませんよ。これが仕事ですから」
「だが君の料理に助けられているのは事実だ。私が毎日頑張れているのは、君が毎日美味い料理を出してくれてるからなんだ。本当に君には感謝している」

 満腹になったことで獣性が鎮まり、瞳に人間性を取り戻したシャオが、穏やかな笑みを湛えて青年に告げる。正面からそんなことを言われた青年は、思わず作業の手を止め、顔を真っ赤にして目を逸らすことしか出来なかった。
 そんな青年の心の機微に気づかない――人虎自体が戦闘民族故、致し方ないところではある――シャオは、恥じらう彼に攻撃を続けた。
 
「今やってる格闘大会にしたってそうだ。私がこれまで勝ち進んでこれたのは、君がこうして美味い料理を作ってくれるからなんだ。何故かはわからないんだが、君の料理を食べると、いつもより力が出るんだ。他のところで食事をしても同じことは起きない。なんでだろうな」
「それは……」
「まあいい。とにかく私が言いたいのは、私は君に感謝している、ということだ。本当だぞ?」

 答えようとする青年の言葉をぶった切って、シャオが一方的に話を纏める。良くも悪くも大雑把な女性だった。
 しかし当の青年は、そうして話の腰を折られたことに対して不満を持ったりはしなかった。彼は彼で人を恨めない、大らかな性格の持ち主だった。
 
「ま、まあ、トラさんが喜んでくださるなら、俺はそれで満足です。腕の振るいがいがあるってものですよ」
「うむ。私は君の料理を食べれて満足だ。君の料理さえ食べられるなら、私は誰が相手でも負ける気がしないだろうな」

 青年の言葉にそう返し、シャオが楽しそうに笑い声をあげる。青年はそんなシャオの自分への評価に対して歓喜と羞恥を覚えつつ、その後心の中に湧き上がった感情を言葉にしてシャオに言い放った。
 
「でもトラさん、無理だけはしないでくださいね。俺、トラさんにはいつも健康でいてほしいんです。無茶して突っ込んで大怪我したりとかは、絶対にやめてください」
「む」

 それは青年の、心からの願いだった。しかしそれを聞いたシャオは顔から笑みを消し、真剣な面持ちで青年に答えた。
 
「……すまないが、それは約束できない。格闘家たるもの、生傷はつきものなのだ。いつも五体満足で勝てるなどという保証はどこにもない」
「それでも……!」
「なあに、安心しろ。私はそんなドジは踏まんよ。そりゃまあ小さい怪我はするだろうが、病院送りになるような大怪我はしない。約束だ」

 青年の訴えを、シャオは一笑に付した。そこまで言って、再び愉快そうに笑い始めた。
 それを聞いた青年は納得いかない顔をした。しかしシャオの頑固さは長年の付き合いから知っていたので、やがて諦めたように肩の力を抜いてため息をついた。
 
「……わかりました。もうこれ以上は言いません。でも本当に、気を付けてくださいね?」
「わかっている。君を心配させないよう、私も出来るだけ無傷で勝つことを約束しよう。絶対だ」

 その後諦めきれずに釘を刺す青年に、シャオが大楊に笑いながら言い返す。彼の言葉を本気で受け取ってはいないようだった。
 青年はそれを指摘したりはしなかった。してどうなるものでも無かったからだ。
 しかしそれでも、青年はシャオの無事を祈らずにはいられなかった。
 
 
 
 
 その後もシャオは勝ち続けた。本戦を順調に突破し、とうとう決勝戦まで駒を進めることになった。
 そして決勝戦の前日。その日の試合を終えたシャオはいつものように、青年の店に足を運んでいた。しかしのれんをくぐり、いつもの席に着いた彼女の様子は、普段のそれとはまるで異なっていた。
 
「はあ……」

 覇気が無かった。明らかに元気が無くなっていた。
 背筋は曲がり、肩は丸まり、視線は下を向いてテーブルを見つめていた。木製のテーブルの木目をなぞるその眼差しは、半死人のように濁っていた。
 異常事態である。それは誰の目にも明らかだった。
 
「ど、どうしましたか?」

 注文を聞きに来た青年も、周りと同じくシャオの異変を察し、心中を不安でいっぱいにしていった。そうして不安を抱きながら恐る恐るシャオの顔を覗き込もうとすると、そこで顔を上げたシャオと目が合ってしまった。
 
「ああ、君か」

 シャオが力なく呟く。元気とは無縁の声だった。
 青年はますます不安になった。いったい何があったのか? 彼は気になって仕方なかった。
 
「あの、どうしたんですか? 何かあったんですか?」

 目を合わせたまま、疑念のままに青年が問いかける。それを聞いたシャオは背骨を伸ばして上体を起こし、しかし顔は暗いまま青年の問いに答えた。
 
「いや、大したことじゃないんだ。本当に大丈夫だから」
「そんな顔で大丈夫って言われても納得出来ませんよ。どうかしたんですか? 俺で良かったら相談に乗りますよ?」

 まさか負けたんですか? そこまで言ったところで、思い出したように青年が尋ねる。
 直後、シャオは力強く首を横に振りながら「勝ったに決まっただろう!」と力強く言い返した。これで青年達はシャオが決勝戦に到達したことを知ったのだが、そもそもの疑問はまだ解決してなかった。
 
「じゃあどうしてなんですか」
「うっ」

 青年のまっすぐな視線が突き刺さる。その純真な眼差しに、シャオは思わず言葉を詰まらせた。それだけ彼の顔は大真面目であり、シャオの心は隠し事をしていることへの後ろめたさで満ちていた。
 
「……わかった。話すよ」

 そしてすぐにシャオは折れた。彼女は常に正面からぶつかるタイプであり、故に細かな駆け引きは苦手だった。良くも悪くも正直な女性だったのだ。
 
「その、これなんだが」

 そんなシャオが右手を持ち上げ、自分の額を指差した。青年が視線を上げてそちらを見ると、そこには白い包帯があった。汚れ一つない清潔な包帯が、シャオの額まわりにぐるぐると巻き付けられていたのだ。
 
「包帯? ケガしたんですか?」

 青年が尋ねる。シャオが無言で頷く。
 再び青年が問いかける。
 
「それがどうかしたんですか?」
「いや、その、約束がな」

 歯切れ悪い調子でシャオが答える。言っていることの意味がわからず、青年が首を傾げると、それを見たシャオが再度口を開く。
 
「ほら、前に君と約束しただろう。怪我をせずに勝ち続けると」
「……ああ」

 一拍遅れて、青年が以前に交わした約束を思い出す。その横でシャオが言葉を続ける。
 
「私は怪我をせずに勝ち続けると約束した。しかし見ての通り、今日私は怪我をしてしまった。流血沙汰さ。君との約束を違えてしまったんだ」

 重々しい口調でシャオが言った。もっとも流血沙汰と言っても、実際は額が軽くすりむけ、傷口から血が滲む程度のものであったのだが。
 しかしシャオはそこを強調することはなかった。彼女にとって怪我の程度はどうでもよく、怪我をしたこと自体が問題であったのだ。
 
「そんなわけで、君に会わせる顔がないと思ってな。しかしこのまま逃げてしまうというのも、私のプライドが許さなかったのだ」
「だから、暗い顔してここまで来たってことですか?」
「そうだ。普通ならこれくらいの傷で落ち込んだりはしない。なのに今日は君との約束を思い出して、辛い気持ちになってしまうんだ」

 何故そうなるのか、シャオは理解出来ないようだった。彼女の顔は今も暗いままだった。
 しかしそれを聞いた青年は、シャオの隣で大きくため息をついた。その顔は安堵に満ちており、シャオの面持ちとはまさに対照的だった。
 
「なんだその反応は?」

 面白くなさそうにシャオが詰問する。慌てて姿勢を正しながら、青年がシャオに弁解する。
 
「いやその、安心したんです。もっと深刻なことになってるんじゃないかと思ってましたから」

 結局のところシャオは、青年との約束を破ったことに関して気に病んでいたのである。それに気づいた青年は、一転して晴れ晴れした気持ちになった。シャオの身に致命的な事態が起こっている訳ではないとわかったからだ。
 
「ああよかった。トラさんは無事なんですね。よかった!」
「しかし、私は君との約束を」
「トラさんが無事なら、それでいいですよ。俺は気にしてません」
 
 爽やかな顔で青年が言い切る。シャオは一瞬呆気に取られた後、すぐに深刻な顔に戻って青年に問うた。
 
「本当に、気にしてないのか? 私は約束を破ってしまった。君を不安にさせるようなことをしてしまったんだぞ」
「気にしてませんよ。包帯にはちょっとびっくりしたけど、トラさんが平気なら、俺はそれだけで満足なんです」

 さ、それよりお腹へったでしょう? 気を取り直して青年が注文の催促をする。話を無理矢理中断させられたシャオは一瞬面食らったが、やがて観念したように表情筋をほぐし、小さく息を吐いた。
 
「君は優しいんだな」
「そんなことないですよ」

 柔らかな声でシャオが呟き、青年が謙遜気味に返す。シャオは静かに首を横に振り、憑き物が落ちたような穏やかな顔で言葉を続けた。

「いや、君は優しい男だ。私にはもったいないくらいにな」
「そんな! トラさんの方こそ素敵です! 俺よりずっと格好いいし、立派だし!」
「私は君が思っているほど立派ではない。戦うことしか出来ない、野蛮な魔物だ。そんな私より、料理で誰かを幸せに出来る君の方が、ずっと素敵だ」
「そんなことありません! トラさんも立派です! 俺が保証しますから、もっと自信もってください!」

 そこまで言って、青年がハッと口を噤む。しかし時すでに遅し。周りにいた客達は二人のやり取りをばっちり聞いており、その全員がごちそうさまと言わんばかりの生暖かい眼差しを向けていた――人数が少なく、顔馴染みが多かったのが救いではあった。
 
「……ッ」

 それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。青年はその顔を一気に茹蛸のように真っ赤にした。シャオもまたほんの少し頬を赤らめたが、持ち前の精神力でその感情をそれ以上表に出すことはしなかった。
 
「そんなことより、早く注文したいんだが! 腹が減って仕方ないんだが!」
「そ、そうですね! そうしましょう! 何食べますか!?」

 二人揃って必要以上に大声を出してやり取りを交わす。ヤケクソなのは目に見えていた。
 しかし沸騰した頭で、冷静に今日食べたいものを考えることは不可能だった。
 
「じゃあ、カレー! カレーで頼む!」
 
 なので結局、シャオはその場で適当に思いついた単語を吐き出すことになった。青年もまた投げ遣りな返答をし、逃げるように厨房に向かった。
 数分後、シャオの元にカレーライスが出された。ほかほかの白米の上に焦げ茶色のルーがかけられた、いたってシンプルなカレーライス。カレーの盛り付けられた皿を持つ青年の手は見るからに震えていた。
 一方のシャオも、そうして出されたカレーライスをゆっくり味わうことは出来なかった。風味を楽しむ余裕も、香辛料の香りを感じる余裕もなかった。心音は未だに鳴り止まず、口の中に入れたカレーは全く味がしなかった。
 
「これが……君の味なんだな……」

 その代わり、舌の上では全く別の味が広がっていた。
 それは今まで自覚したことのない、熱く甘い味だった。
 
 
 
 
 その翌日、シャオは大会で優勝した。僅差であったが、最後に立っていたのは彼女だった。
 最後の戦いに勝利した後、シャオは表彰台に立った。そこで今大会の実行委員長からお褒めの言葉をいただき、トロフィーを受け取った。賞金も後日贈られるとのことだった。
 たくさんのカメラと観客、他の選手達に囲まれ、一斉にカメラのシャッターを切る音と健闘を讃える言葉が投げかけられる。誰も彼もが笑顔を浮かべ、シャオの勝利を祝福している。
 
「……」

 その時自分は何をしたのか、シャオは覚えていなかった。二言三言お礼の言葉を述べた気もするが、全く覚えていない。完全に上の空だった。
 委員長の賛辞も、選手たちの称賛の声も、何一つ頭の中に入らなかった。優勝したことへの達成感や充足感も湧いてこなかった。カメラのフラッシュも周りの人間も記憶に焼きつくことは無く、それらはただの背景、雑音となり果てていた。
 代わりに彼女の脳内にあったのは、たった一つの感情だった。
 
「彼は今どうしてるのだろう……」

 馴染みの定食屋の店主。いつも顔を合わせている青年。
 彼の顔ばかりが脳裏に浮かんで来る。試合中も彼の姿がフラッシュバックのように脳内を駆け巡り、対戦相手の顔すらまともに覚えていない始末だった。
 しかしそれは、彼女にとってマイナスとはならなかった。それどころか青年の姿を思い浮かべる度に、身体の底から力が湧き上がってきたのだった。
 あの男を失望させるわけにはいかない。何故かはわからないが、シャオはそう思わずにはいられなかった。
 
「いや」

 シャオは当に気づいていた。なぜ自分がそこまであの青年に固執するのか。本当は既にわかっていた。わかっていながら、人虎として生まれ持った気高い心が、それを認めることを頑なに拒んでいた。
 
「……そろそろ、潮時かもしれんな」

 だが今は違う。今こそ自分に素直になるべきだ。心の中の自分自身がそう叫ぶ。心の壁がひとりでに崩れていく。
 青年の姿が脳裏によぎる。その度に体が熱くなり、心臓の鼓動が速まる。もう我慢できない。早く奴に会いたい。
 
「ああ、早く終わってくれ」

 そして火照った体を持て余しながら、なおも鳴り止まない周囲の雑音に辟易するように、シャオはそう呟いたのだった。
 
 
 
 
 一時間後、シャオはようやく解放された。
 解き放たれるや否や、シャオは一直線に青年の下へ走った。そして自己ベストの記録を叩き出しながら、彼女は光の如き速さで目的に店に到着した。
 
「し、失礼するっ」

 仰々しく戸を開けながら、シャオが店の中に入る。全力疾走による体力の消耗は微々たるものだったが、それでも彼女は全身汗だくとなっていた。当然会場から直接ここまで来たので、手にはトロフィーを持ったままである。
 
「あっ、いらっしゃい!」

 すぐに青年が反応する。そして青年はシャオの持っているトロフィーに気づき、すぐにそれの意味を察する。
 
「もしかして、優勝したんですか?」
「あ? ああ。そうだ、優勝だ。私は勝ったんだぞ」

 自分に言い聞かせるようにシャオが答える。まるで実感が湧かなかった。そんなことより優先すべきことがある。
 一方で彼女がそう言った瞬間、堰を切ったように店内がやかましくなった。皆が自分を祝福してくれている。シャオはそれに心動かされることはなかった。
 周りから飛んで来る称賛の声を無視して、いつもの席に座る。邪魔にならない位置にトロフィーを置き、青年を待つ。
 
「おめでとうございます。やりましたね!」

 水の入ったグラスを置きながら、青年がにこやかに声をかける。他の雑音と違って、彼の声だけはやけにクリアに聞こえた。青年の一言一句が脳に焼き付き、記憶に刻み込まれていく。
 
「少し危ないとは思ったが、なんとか勝てたよ。ギリギリの勝利だった」
「でも勝ったんですよね! 凄いですよ! さすがはトラさんだ!」

 軽く水を口につけながら、シャオが青年に答える。青年はそれを聞いて自分のことのように喜びを露わにし、その後安心した表情に変わって口を開いた。
 
「それと、安心しました。トラさんが無事に帰って来てくれて、本当に良かったです」

 心の底から彼女の無事を嬉しく思う、青年の優しさが滲み出た言葉だった。それを聞いたシャオの心臓が大きく飛び跳ねる。
 もうここまで来たら、自分を偽るような真似はしない。プライドの蕩けた人虎は、己の欲望にどこまでも素直になった。
 
「ところで、今日の注文なんだが。せっかく優勝したんだし、ちょっと変わったものが食べたいんだ。いいかな?」

 シャオが青年に声をかける。何もしらない青年は二つ返事でそれを了承した。
 
「もちろん構いませんよ。せっかくですから、何か豪華なものでも作りましょうか」
「そうだな。せっかくの記念日なんだから、私も特別な料理が食べたいな」
「わかりました。それじゃあ腕によりをかけて美味しいもの作りますね!」

 気合に満ちた顔で青年が告げる。そしてシャオに背を向け、意気揚々と厨房に引っ込もうとする。
 
「ああ、待ってくれ」

 そこをシャオが呼び止める。青年は素直に脚を止め、シャオの方へ向き直る。
 
「どうかしましたか?」
「う、うん。料理なんだが、ちょっとリクエストしたいと思ってな」
「そうなんですか? わかりました。何が食べたいですか?」

 シャオの言葉を聞いた青年が、無防備なまま彼女に近づく。同じタイミングでシャオが席を立ち、頬を紅く染めながら青年の方へ向き直る。
 どうしたんだろう。青年はシャオの意図に気づかなかった。気づかないまま、虎の前まで歩み寄る。
 やがて二人が至近距離で向かい合う。二人の視線が交錯する。
 次の瞬間、シャオが右手を伸ばして青年の腰に添える。
 
「え?」

 青年が素っ頓狂な声を上げる。シャオが右手に力を込め、青年を力任せに自分の元に引き寄せる。
 
「ん」

 互いの体が正面から触れ合う。
 そのままシャオが顔を近づけ、青年の唇を奪う。
 
「――!?」

 一拍遅れて状況を理解した青年が目を白黒させる。シャオは何も言わず、ただ目を閉じて唇の感触を愛でる。
 柔らかい。甘い。熱い。今まで食べてきたどんな料理より美味で、愛おしい。
 
「ん……」
 
 舌を絡めずに唇のみを重ねる、愛を告げるだけのキス。それを見た周りの客が一斉に黙り込む。
 青天の霹靂。シャオ以外の全員が脳天に不意打ちを食らい、何も言えぬまま唖然とした。
 
「……ぷはっ」

 それから数十秒して、ようやくシャオが唇を離す。人虎から解放された青年は、しかし何も出来ずにその場に棒立ちになる。
 
「あ、えっ……?」

 何が起こったか確かめるように、青年が自分の唇に指を当てる。次いで唇から指を離し、顔を真っ赤にしたまま呆然とシャオを見る。
 
「……」

 そこに見えるシャオの顔もまた、燃えるように真っ赤になっていた。眉根は垂れ下がり、目に力も宿っておらず、ただ不安げにこちらを見つめて来ていた。
 羞恥に燃える一人の乙女、恋を知った女が、恋を寄せる男と相対していた。
 
「リクエストは、君だ」

 息を整えながら、シャオが告げる。
 
「君がほしい」

 場が静まる。青年が目をぱちぱちさせる。シャオはまっすぐ青年を見たまま微動だにしない。
 
「……デザートとして?」

 やがて冗談めかしたように青年が尋ねる。口の中はカラカラだった。
 それに対し、真面目くさった表情でシャオが答える。
 
「メインディッシュだ」

 そしてそのまま、再びシャオが青年を抱き締める。青年は為すがまま、それを受け入れるしかなかった。
 互いの心臓の鼓動が聞こえてくる。爆発しそうなほどに脈打つそれが、二人の耳を揺らしてくる。
 
「私をこんな風にしてしまったのは君だ。君が優しくするから、私は自分の気持ちに気づいてしまったんだ」

 耳元でシャオが囁く。青年はその場で生唾を飲み込み、ゆっくり首を動かしてシャオの瞳を見つめる。
 
「俺が?」
「そうだ。君のせいだ」

 慈愛の女神が顕現したかのような穏やかな微笑を湛えながら、シャオが青年に言い放つ。
 
「責任を取ってくれないか?」

 そして再び、互いに影が重なる。二人の熱が絡み合い、一つになって甘く蕩け合う。
 存分に熱を交わした後、二人の唇が離れていく。名残惜しそうに涎が糸を引き、二人が共に蕩けた顔で相手を見つめ合う。
 
「嫌と言っても無理だからな」

 シャオが口を開く。愛の味を知った肉食獣が、哀れな雄に無慈悲な宣言を下す。

「君はもう、私の獲物だ……♪」




 小さな田舎町に一組の夫婦が誕生するのは、その一か月後のことである。
17/09/25 21:20更新 / 黒尻尾

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