第八話(前編)
滅びは静かに、そして粛々と進んだ。
城下町は完全に汚染され、闇色の瘴気漂う街路のあちこちで人と魔が愛を交わし合っていた。街路だけでなく、城下町に存在するあらゆる家屋の中から、幸せに満ちた喘ぎ声が漏れ聞こえてきていた。魔物に「貢ぎ物」を贈る裏で、魔物との徹底抗戦を掲げてきたこの国は、その魔物が示す愛と悦びに対して簡単に膝を屈した。これらは魔物達がこの国に侵攻を初めてから、僅か二分後の光景であった。
軍も自警団も、その侵略行為に対しては全くの無力であった。彼らが気づいた時には、既に街には淫靡な魔力が充満しており、敵襲を察知した時には手遅れだった。そもそも敵方の魔物達が特注の札で魔力を遮断し、人間に変装して城下町に忍び込できたのを看破出来なかった時点で、この国の命運は決していた。
どれだけ堅固な要塞でも、内側から崩されれば途端に脆くなるものだ。
「簡単に堕ちるものなのですね」
そうして街路の至る所で繰り広げられる大乱交大会を見つめながら、ミラ・ラ・シューイット――侵略部隊の指揮を任された若きレッサーサキュバス――は、どこか呆れたようにそう言い放った。かつて自分が仕えた国、そして数日前に自分達を切り捨てた国が、今こうして堕落に沈もうとしている。その崩壊と変革の境目を前にして、しかしミラはその心に痛みや迷いを覚えることはなかった。
かつてあった愛国心や忠誠心は、今はもう影も形も無い。この国に未練は無く、自分達を貶めた者共への恨みも無い。この侵攻にしたところで、己の主である女王から「攻めてきてほしい」と言われたから、それに従っただけにすぎない。
己の仕えた国を己の手で滅ぼす。仮面のサキュバスに、そのことに対する罪悪感は無かった。
「まあいい。早く済ませましょう。王城はあちらです。どの人間を愛そうが自由ですが、絶対に殺さぬように。いいですね?」
気持ちを切り替え、まだ理性を保っていた――まだ運命の男性に巡り合えていなかった――サキュバス達に向けて指示を出す。そして隊長の命令を聞いたサキュバス達は揃って目の色を変え、一斉に地面を蹴って城下町の中心、一際高くそびえる王城めがけて飛び立っていく。そのサキュバス達が目指す灰色の城には城下町と同種の瘴気が纏わりついており、今現在城内がどうなっているのか、ミラには凡その察しがついた。
恐らくまともな状態にはないだろう。王も大臣も全滅だ。そう頭の中で考えていると、不意に自分の手を誰かに引っ張られるような感覚を覚えた。
「……はいはい、わかっていますよ」
それによって意識を取り戻し、次いで引っ張られる方へ視線を向けながら、ミラは苦笑した。そこには自分の隣に立ち、自分の手をぎゅっと握りしめる一人の少年がいた。彼は両目を潤ませ、何かを欲しがるようにミラの顔を見上げていた。
クラン・ブレイス。この国の王子。そして自分と同じく国に売られた存在であり、今は自分の夫。自分がこの世で唯一愛する男性。ミラはその幼い王子の顔を見つめ、優しく微笑んだ。
「もう、我慢できないのですよね?」
本人としては優しく微笑んだつもりではあったが、クランにそう告げたミラの顔は酷く淫らだった。額は汗ばみ、頬は赤く染まり、口の端からは我慢しきれないかのように涎が漏れ出ていた。仮面の奥に隠された赤い瞳はギラギラと輝き、鼻息は荒く、眼前の獲物を前に舌なめずりすらする始末であった。自分を取り繕う余裕もなかった。
そしてクランもまた、そうやって自分の欲求をストレートに見せるミラを好ましく感じていた。ミラが自分で欲情してくれている。それが何より嬉しかった。
「僕、もう……」
だからクランも、自分の気持ちを隠すことはしなかった。そしてミラも、彼の気持ちを即座に汲んだ。
「わかりました。ではどうしましょうか。外でしますか? それとも中で?」
ミラからの問いに対し、クランは無言で前方の一点を指差した。そこには一軒の宿屋があり、案の定と言うべきか、開け放たれた二階の窓からドス黒い魔力が溢れ出していた。
「先客がいるようですが」
粘り気を持った泥水のように、外壁に沿ってずり落ちてくる魔力の塊を見つめながら、ミラがクランに確認を取る。クランは笑みを浮かべてミラの手を握り、彼女をそこへ引っ張りながらそれに答えた。
「だったら、見せつけてやればいいんだよ」
「クラン様、それは」
「僕もう我慢出来ないんだ。お城でやった分じゃ満足出来ないんだ」
前に進みながら、クランが訴える。彼の言葉通り、二人はここに来る前に嫌と言う程まぐわっていたのであった。
ミラが堕ちてから今日で一週間経つ。その一週間を、クランとミラはベッドの上で過ごした。シーツがぐしょぐしょになり、床まで水気を含んで湿りだしてもなお、彼らは愛を交わすことを止めなかった。睡眠も食事も取らず、ただ貪欲に肉のみを貪った。なおこの一週間――百六十七時間ぶっ通しのセックス祭りを通して、ミラは完全なサキュバスに、クランはインキュバスに変貌した。
そして百六十七時間後、彼らはようやく腰の動きを止めた。精根吐き出し尽くしたクランは物惜しそうに肉棒を引き抜き、二人は全身体液まみれになりながら、仲良くベッドの上に寝転んだ。そうして彼らが快楽の余韻に身を任せている横で、ヴァイスの攻撃計画が実行に移されたのであった。
「あなた達はそのままでいいわ。こっちのことは私達で済ませておくから。もっともっと愛し合って、今までの分を穴埋めしておきなさいな」
ヴァイスはその作戦に、クランとミラを編入させないつもりでいた。優先すべきは侵略よりも愛。それが彼女の考えであった。
しかしその彼女の想いを汲んだうえで、ミラとクランはそれをやんわり拒絶した。
「いえ、私達も行かせてください」
セックスに一区切りつけ、息を整えた二人が、揃って自室に入ってきたヴァイスにそう言ってのける。当然ヴァイスは驚いた。その後すぐに「二人の恋路に水を差すつもりはない」とも付け加えた。
それでも二人は引き下がらなかった。
「僕達が元の関係に戻れたのは、全部ヴァイス様のおかげなんです」
「どうかお願いします。私達に恩返しをさせてください」
そう言い切る王子と騎士の意志は、鋼のように硬かった。一方のヴァイスは、そんな二人の不動の決意に若干気圧されたが、すぐに格好を正して彼らに言った。
「……わかったわ。そこまでいうなら、私もこれ以上引き留めはしない。あなた達の力、私に貸してちょうだい」
ヴァイスはどこまでも彼らの意志を尊重した。そしてここでもまた、彼女は王子と騎士の自由に任せた。許可を得たクランとミラが、その顔に喜びの色を見せたのは言うまでもない。
こうして、王子と騎士はかつての故郷へ戻ってきた。しかし人間に変装し故郷の土を踏んだ彼らの心に、懐かしさや嬉しさと言った念は何一つ湧いてこなかった。
自分達を蔑み、切り捨てたこの国に、なぜ心を寄せる必要があるというのか。
そうして故郷に舞い戻り、命令通り作戦を遂行した二人であったが、やはり性欲には勝てなかった。ヴァイスから請われたことを全て済ませ、ひと段落したところで、またムラムラとした気持ちが心の奥から這い上がってきたのである。
「ねえ、しよう?」
クランが上目遣いでミラに請う。仮面のサキュバスは一つため息をつくと、自分からクランの元に近づき頭を撫でながら彼に答えた。
「ええ。するとしましょう」
ミラの答えを聞いたクランの顔が、ぱあっと明るくなる。次いで彼の頬が赤くなり、またこれから起こることを予期したミラも同様に、その頬を朱に染める。
「続きをするとしましょう。二人だけで」
「うん……♪」
自分達からヴァイスに付き従っておいて、その途中で自分の都合で抜けると言うのも、中々に勝手な振舞いである。しかしそれでも、彼らはそうせずにはいられなかった。愛する者と精を酌み交わすことは、誰にも邪魔することは出来ないのだ。
万一怒られたら、その時はその時だ。再び燃え上がり始めた肉欲に支配されたミラとクランは、そう開き直って二人仲良く街路を進み、目当ての宿屋へ歩き始めた。道に溢れる魔力もまた、そんな彼らの性欲を否が応でも増大させた。
もう誰にも止められなかった。
愛欲に目覚めたクランとミラが職務放棄して宿屋に向かったのと同じ頃、ヴァイスとその「両腕」は王城への進入を果たしていた。と言っても、彼女達がそこ――大広間に足を踏み入れた時には、城内は既に壊滅状態であった。
「みんな素直になっているみたいね。感心感心」
城に常駐している衛兵。王族の保護を優先して城に踏み込んだ兵士達。そしてこの城内で生活している王族と使用人。その全てが魔力に中てられ、真面目な面の皮を脱ぎ捨てて肉欲に耽っていた。広間、通路、部屋。どこを見ても人間がおり、魔物娘がいた。そしてその全員が、狂ったように互いの性器を打ちつけあっていた。どこに行っても喘ぎ声と魔力で満ち満ちており、人間目線で安全な場所はどこにもなかった。
まさに城そのものが、一個の楽園と化していた。人間と魔物娘は種族の垣根を越え、愛と喜びを共有していた。まさに魔物娘の理想とする世界が、そこに広がっていた。
「これでもう終わりかしら」
「それがそうもいかんようじゃ。どうやら玉座の間だけは、まだ魔力の影響を受けておらんようじゃの」
そんな光景を前にしてヴァイスが満足気に呟くと、彼女の横にいたバフォメットのレモンがそれをやんわり否定する。それを聞いたヴァイスと、反対側にいたデュラハンのグレイが、同時にレモンに注目する。
「そうなの?」
「うむ。部屋の周りに特別頑丈な結界を張っておる。おかげであそこだけは、今でも清浄な状態を保っておるわ」
二人の視線を受け、レモンが苦々しげに言い放つ。それを聞いたヴァイスが率先して前を行き、嬌声と魔力の渦巻く中を平然と進んで玉座の間に続く扉の前で立ち止まる。
「ふん!」
そして扉を蹴り飛ばす。サキュバス渾身のヤクザキックが、木製の大扉に直撃する。強固な結界に守られていたその扉は、サキュバスのその一撃に対していとも容易く白旗を挙げた。
派手な音を立てて扉が粉砕され、破片が内側に向かって飛び散っていく。どうやら魔術的な防御にかまけるあまり、物理的な防御力は考慮されていなかったようだ。人間ピンチに陥ると、大抵は視野狭窄に陥るものである。
「こういうのはアナログが一番よ」
「やれやれ」
最後の扉を蹴り倒したヴァイスが鼻で笑い、それを見たグレイが呆れたように肩を落とす。一方その扉の奥、玉座の間で震えて固まっていた者達は、その最後の防壁が呆気なく崩れたのを見て顔に絶望の色を貼りつけた。
そこにいたのは、見るからにお高い地位にいるような連中ばかりだった。誰も彼もが無駄に豪奢な服を身に纏い、指や首に宝石を身に着け、一様に肥え太っていた。まさに贅沢が人の形を取ったような、見ていて苛立ちすら覚えるほどのブルジョアの集まりであった。
「これで最後?」
「ここでしまいじゃ」
ヴァイスの問いにレモンが答える。続けてレモンが「他の場所は全部堕ちておるのう」と付け加える。どうやら本当に、「清浄」なのはここだけのようだ。彼女が言うのなら間違いない。
そう確信したヴァイスは、奥で身を寄せ合うブルジョアたちに向かって歩を進めていった。一歩前に出る度に、逃げ延びた王族達が一斉に震え上がる。サディスティックな趣味嗜好を持ってないヴァイスは、それに対して何の感慨も抱かなかった。むしろ鬱陶しいとさえ感じた。
サキュバスがペースを速める。慌ててデュラハンとバフォメットが後を追う。王族達はもはやそこから動くことも出来ない。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだ。
「さて、もう観念なさい」
あっという間にヴァイスが最後の王族達の下に到達する。やや遅れてレモンとグレイがヴァイスに追いつき、さらにニンゲンの匂いを嗅ぎつけた「未婚」のサキュバス達が次々と玉座の間に侵入してくる。ついでとばかりに外に充満していた魔力もまた、地面を這って容赦なく玉座の間に入り込んでくる。
ギラギラに飾り立てた王族の一人が、その光景を見てガクリと床に膝をついて崩れ落ちる。それに呼応するように、周りの者達も次々とその場にへたり込んでいく。命乞いをする者は一人もいなかった。
刹那、ヴァイスが片手を顔の高さまで持ち上げる。続けて人差し指だけを伸ばし、手首のみを使って手を回転させる。それを見た平サキュバス達は無言で、且つスムーズな動きで、玉座の間の隅へと消えていった。
許可を出すまで襲うな。ヴァイスの意思は全てのサキュバスに等しく伝わっていた。
「随分とあっさりじゃのう」
「下手に抵抗されるよりマシだ」
そうして全てのサキュバスが気配を消した後、ヴァイスの後ろでレモンとグレイが言葉を交わした。デュラハンの言う通り、素直に陥落してくれた方がずっと楽だ。
そうヴァイスが思った直後、へたり込んだ王族の一人がおもむろに口を開いた。
「せめて――」
「ん?」
耳聡くヴァイスが反応する。心の折れた王族達の片隅、比較的ふくよかな体型をした妙齢の女性が、わなわなと唇を震わせてこちらを見つめていた。
背後の二人もそれに気づく。なおも唇を震わせながら、その女性が言葉を続ける。
「せめて、最後にあの子に会わせてください。そちらに送られた、我が国の王子にです」
か細く、しかしハッキリと己の願いを言葉に託す。
「堕ちる前に、あの子の無事を確認させてください。無事なら、あの子と話をさせてください。後はどうなっても構いません。お願いします――!」
涙混じりの悲痛な訴えだった。それは確かにヴァイスの耳に伝わった。
「……あなたもしかして、ここの女王様かしら?」
確認を取るようにヴァイスが尋ねる。口を開いた女性は俯き、何も答えなかった。
ただ、その体は小刻みに震えていた。その全身で示す動揺が、何よりの答えだった。
「今更会わせろだと?」
「自分から捨てておいて――」
即座にグレイとレモンが反応する。二人は明らかに激昂していた。
それを片手で制止しつつ、再度ヴァイスが尋ねる。
「そんなに会いたいのかしら?」
そのサキュバスからの問いに、件の女性はすぐに首を縦に振った。直後、周りにいた王族達も一斉に首を縦に振る。
「わ、私も、あの子と会いたいですぞ!」
「私は彼の兄だ! 親族として会う権利くらいあるはずだ!」
「お願いだ! クランと話をさせてくれ!」
そして一斉に喚き始める。もしやここにいる連中は、全員クランの家族なのか? ヴァイスはふと、そんなことを考えた。さらにこの聡いサキュバスは、何故彼らがこうも必死にクランとの面会を望むのかを思案した。彼らが全員クランの親族であるとして、彼らはクランに何を求めるのか――。
「……ああ」
数秒後、すぐに一つの予想が頭の中で導き出される。凄まじく胸糞悪い、悪趣味な予想だ。ヴァイスは真っ先にこんな推測を打ち立てた自分自身に、ほんの僅か嫌悪を抱いたほどだった。
まあその結論に至ろうが至るまいが、ヴァイスの肚は既に決まっていたのだが。
「駄目よ」
事情がなんであれ、会わせる気はさらさら無かった。特に今、こいつらとクランを引き合わせるなど言語道断だ。ヴァイスの信念は固かった。
無論王族達は、先方の事情などまるで知らない。しかし、ただ「会えない」という事実だけでも、絶望するのに十分だった。
彼らの顔から血の気が失せていく。
「な、なぜですか? 何故いけないのですか!」
そして案の定、最初に口を開いた女性が答えを求めてくる。残りの連中もそれに便乗するように、口々に回答を要求してくる。
意地でも最後の望みにしがみつこうと必死だった。そんな彼らの大合唱に若干うんざりしながら、ヴァイスは彼らを見下ろしつつそれに答えた。
「クラン王子は今悪魔とセックスしてるから」
「は?」
予想外の答え。それまで好き勝手騒いでいた王族達が瞬時に黙り込む。
対してヴァイスは小さくため息をつき、しかしどこか嬉しそうに口角を緩めながら言葉を続ける。
「ほんと、性欲は人一倍強いんだから。でもこれくらいがっついてくれたほうが、魔物娘としても相手のしがいがあるってものよね♪」
王族達は開いた口が塞がらなかった。目の前の悪魔が何を言っているのか理解できなかったのが理由だった。
しかしヴァイスは別に嘘をついているつもりもなければ、誤魔化しているわけでもなかった。彼女は本当に、クランとミラが作戦そっちのけでセックスを始めたことを察知していた。そして実際、二人はこの時近くの宿屋で戦闘再開していた。
「まあそういうわけだから、あなた達の要求は受け付けません。そもそもどうして敵のお願いを律儀に聞いてあげなきゃいけないのかしら?」
ヴァイスが無慈悲に言い放つ。未だに要領を得ない人間達に、詳しく補足説明することもしなかった――そんな義理は毛頭ない。そしてヴァイスは軽く手を振りながら踵を返し、自分が粉砕した玉座の間の入口まで歩いて帰り始めた。
それに付き従うように、レモンとグレイが何も言わずに身を翻す。さらにヴァイスのハンドサインに応えるように、それまで玉座の間の隅っこで目立たないようにしていたサキュバス達が、待ってましたと言わんばかりに次々姿を現していく。
王の許可は得られた。もう遠慮することはない。愛に飢えたサキュバス達の目は、一様にギラついていた。
「ま、まって」
それでも王族、特に例の女性は諦めようとしなかった。それまで以上に弱弱しい声で、ヴァイスを引き留めようと食い下がる。
幸運なことに、ヴァイスはそこで脚を止めた。同時にレモンとグレイも立ち止まり、じりじりと距離を詰めていた他のサキュバス達も動きを止める。
「……」
全員がヴァイスに注目する。やがて背中を向けたまま、ヴァイスが王族達に言い放つ。
「クランは、お前達の道具じゃない」
冷たく、鋭い一声だった。感情を押し殺して放たれた冷たい声は、しかし隠しきれないほどの怒りで震えていた。
その顔は誰にも伺えない。
同じトーンのままサキュバスが畳みかける。
「あの子に頼み込んで身の安全を確保しようなんて考えは捨てることね」
直後、王族達の中から短い悲鳴が上がった。
息をのむ音も聞こえた。見苦しい呻き声が聞こえてきた。
確定だ。予想が当たった。
「……ゴミ共め」
ヴァイスが吐き捨てる。改めて手を振り、再び歩き始める。
命乞いの叫びが届いてくる。どうでもいい。歩きながらヴァイスは、心の中でただクラン達の幸せだけを祈った。祈らずにはいられなかった。
もうお前達は自由だ。自由になっていいのだ。消耗品ではなくなったんだ。
背後から聞こえてくる翼のはためく音と嬌声混じりの悲鳴を聞き流しながら、ヴァイスはただそれだけを思った。
城下町は完全に汚染され、闇色の瘴気漂う街路のあちこちで人と魔が愛を交わし合っていた。街路だけでなく、城下町に存在するあらゆる家屋の中から、幸せに満ちた喘ぎ声が漏れ聞こえてきていた。魔物に「貢ぎ物」を贈る裏で、魔物との徹底抗戦を掲げてきたこの国は、その魔物が示す愛と悦びに対して簡単に膝を屈した。これらは魔物達がこの国に侵攻を初めてから、僅か二分後の光景であった。
軍も自警団も、その侵略行為に対しては全くの無力であった。彼らが気づいた時には、既に街には淫靡な魔力が充満しており、敵襲を察知した時には手遅れだった。そもそも敵方の魔物達が特注の札で魔力を遮断し、人間に変装して城下町に忍び込できたのを看破出来なかった時点で、この国の命運は決していた。
どれだけ堅固な要塞でも、内側から崩されれば途端に脆くなるものだ。
「簡単に堕ちるものなのですね」
そうして街路の至る所で繰り広げられる大乱交大会を見つめながら、ミラ・ラ・シューイット――侵略部隊の指揮を任された若きレッサーサキュバス――は、どこか呆れたようにそう言い放った。かつて自分が仕えた国、そして数日前に自分達を切り捨てた国が、今こうして堕落に沈もうとしている。その崩壊と変革の境目を前にして、しかしミラはその心に痛みや迷いを覚えることはなかった。
かつてあった愛国心や忠誠心は、今はもう影も形も無い。この国に未練は無く、自分達を貶めた者共への恨みも無い。この侵攻にしたところで、己の主である女王から「攻めてきてほしい」と言われたから、それに従っただけにすぎない。
己の仕えた国を己の手で滅ぼす。仮面のサキュバスに、そのことに対する罪悪感は無かった。
「まあいい。早く済ませましょう。王城はあちらです。どの人間を愛そうが自由ですが、絶対に殺さぬように。いいですね?」
気持ちを切り替え、まだ理性を保っていた――まだ運命の男性に巡り合えていなかった――サキュバス達に向けて指示を出す。そして隊長の命令を聞いたサキュバス達は揃って目の色を変え、一斉に地面を蹴って城下町の中心、一際高くそびえる王城めがけて飛び立っていく。そのサキュバス達が目指す灰色の城には城下町と同種の瘴気が纏わりついており、今現在城内がどうなっているのか、ミラには凡その察しがついた。
恐らくまともな状態にはないだろう。王も大臣も全滅だ。そう頭の中で考えていると、不意に自分の手を誰かに引っ張られるような感覚を覚えた。
「……はいはい、わかっていますよ」
それによって意識を取り戻し、次いで引っ張られる方へ視線を向けながら、ミラは苦笑した。そこには自分の隣に立ち、自分の手をぎゅっと握りしめる一人の少年がいた。彼は両目を潤ませ、何かを欲しがるようにミラの顔を見上げていた。
クラン・ブレイス。この国の王子。そして自分と同じく国に売られた存在であり、今は自分の夫。自分がこの世で唯一愛する男性。ミラはその幼い王子の顔を見つめ、優しく微笑んだ。
「もう、我慢できないのですよね?」
本人としては優しく微笑んだつもりではあったが、クランにそう告げたミラの顔は酷く淫らだった。額は汗ばみ、頬は赤く染まり、口の端からは我慢しきれないかのように涎が漏れ出ていた。仮面の奥に隠された赤い瞳はギラギラと輝き、鼻息は荒く、眼前の獲物を前に舌なめずりすらする始末であった。自分を取り繕う余裕もなかった。
そしてクランもまた、そうやって自分の欲求をストレートに見せるミラを好ましく感じていた。ミラが自分で欲情してくれている。それが何より嬉しかった。
「僕、もう……」
だからクランも、自分の気持ちを隠すことはしなかった。そしてミラも、彼の気持ちを即座に汲んだ。
「わかりました。ではどうしましょうか。外でしますか? それとも中で?」
ミラからの問いに対し、クランは無言で前方の一点を指差した。そこには一軒の宿屋があり、案の定と言うべきか、開け放たれた二階の窓からドス黒い魔力が溢れ出していた。
「先客がいるようですが」
粘り気を持った泥水のように、外壁に沿ってずり落ちてくる魔力の塊を見つめながら、ミラがクランに確認を取る。クランは笑みを浮かべてミラの手を握り、彼女をそこへ引っ張りながらそれに答えた。
「だったら、見せつけてやればいいんだよ」
「クラン様、それは」
「僕もう我慢出来ないんだ。お城でやった分じゃ満足出来ないんだ」
前に進みながら、クランが訴える。彼の言葉通り、二人はここに来る前に嫌と言う程まぐわっていたのであった。
ミラが堕ちてから今日で一週間経つ。その一週間を、クランとミラはベッドの上で過ごした。シーツがぐしょぐしょになり、床まで水気を含んで湿りだしてもなお、彼らは愛を交わすことを止めなかった。睡眠も食事も取らず、ただ貪欲に肉のみを貪った。なおこの一週間――百六十七時間ぶっ通しのセックス祭りを通して、ミラは完全なサキュバスに、クランはインキュバスに変貌した。
そして百六十七時間後、彼らはようやく腰の動きを止めた。精根吐き出し尽くしたクランは物惜しそうに肉棒を引き抜き、二人は全身体液まみれになりながら、仲良くベッドの上に寝転んだ。そうして彼らが快楽の余韻に身を任せている横で、ヴァイスの攻撃計画が実行に移されたのであった。
「あなた達はそのままでいいわ。こっちのことは私達で済ませておくから。もっともっと愛し合って、今までの分を穴埋めしておきなさいな」
ヴァイスはその作戦に、クランとミラを編入させないつもりでいた。優先すべきは侵略よりも愛。それが彼女の考えであった。
しかしその彼女の想いを汲んだうえで、ミラとクランはそれをやんわり拒絶した。
「いえ、私達も行かせてください」
セックスに一区切りつけ、息を整えた二人が、揃って自室に入ってきたヴァイスにそう言ってのける。当然ヴァイスは驚いた。その後すぐに「二人の恋路に水を差すつもりはない」とも付け加えた。
それでも二人は引き下がらなかった。
「僕達が元の関係に戻れたのは、全部ヴァイス様のおかげなんです」
「どうかお願いします。私達に恩返しをさせてください」
そう言い切る王子と騎士の意志は、鋼のように硬かった。一方のヴァイスは、そんな二人の不動の決意に若干気圧されたが、すぐに格好を正して彼らに言った。
「……わかったわ。そこまでいうなら、私もこれ以上引き留めはしない。あなた達の力、私に貸してちょうだい」
ヴァイスはどこまでも彼らの意志を尊重した。そしてここでもまた、彼女は王子と騎士の自由に任せた。許可を得たクランとミラが、その顔に喜びの色を見せたのは言うまでもない。
こうして、王子と騎士はかつての故郷へ戻ってきた。しかし人間に変装し故郷の土を踏んだ彼らの心に、懐かしさや嬉しさと言った念は何一つ湧いてこなかった。
自分達を蔑み、切り捨てたこの国に、なぜ心を寄せる必要があるというのか。
そうして故郷に舞い戻り、命令通り作戦を遂行した二人であったが、やはり性欲には勝てなかった。ヴァイスから請われたことを全て済ませ、ひと段落したところで、またムラムラとした気持ちが心の奥から這い上がってきたのである。
「ねえ、しよう?」
クランが上目遣いでミラに請う。仮面のサキュバスは一つため息をつくと、自分からクランの元に近づき頭を撫でながら彼に答えた。
「ええ。するとしましょう」
ミラの答えを聞いたクランの顔が、ぱあっと明るくなる。次いで彼の頬が赤くなり、またこれから起こることを予期したミラも同様に、その頬を朱に染める。
「続きをするとしましょう。二人だけで」
「うん……♪」
自分達からヴァイスに付き従っておいて、その途中で自分の都合で抜けると言うのも、中々に勝手な振舞いである。しかしそれでも、彼らはそうせずにはいられなかった。愛する者と精を酌み交わすことは、誰にも邪魔することは出来ないのだ。
万一怒られたら、その時はその時だ。再び燃え上がり始めた肉欲に支配されたミラとクランは、そう開き直って二人仲良く街路を進み、目当ての宿屋へ歩き始めた。道に溢れる魔力もまた、そんな彼らの性欲を否が応でも増大させた。
もう誰にも止められなかった。
愛欲に目覚めたクランとミラが職務放棄して宿屋に向かったのと同じ頃、ヴァイスとその「両腕」は王城への進入を果たしていた。と言っても、彼女達がそこ――大広間に足を踏み入れた時には、城内は既に壊滅状態であった。
「みんな素直になっているみたいね。感心感心」
城に常駐している衛兵。王族の保護を優先して城に踏み込んだ兵士達。そしてこの城内で生活している王族と使用人。その全てが魔力に中てられ、真面目な面の皮を脱ぎ捨てて肉欲に耽っていた。広間、通路、部屋。どこを見ても人間がおり、魔物娘がいた。そしてその全員が、狂ったように互いの性器を打ちつけあっていた。どこに行っても喘ぎ声と魔力で満ち満ちており、人間目線で安全な場所はどこにもなかった。
まさに城そのものが、一個の楽園と化していた。人間と魔物娘は種族の垣根を越え、愛と喜びを共有していた。まさに魔物娘の理想とする世界が、そこに広がっていた。
「これでもう終わりかしら」
「それがそうもいかんようじゃ。どうやら玉座の間だけは、まだ魔力の影響を受けておらんようじゃの」
そんな光景を前にしてヴァイスが満足気に呟くと、彼女の横にいたバフォメットのレモンがそれをやんわり否定する。それを聞いたヴァイスと、反対側にいたデュラハンのグレイが、同時にレモンに注目する。
「そうなの?」
「うむ。部屋の周りに特別頑丈な結界を張っておる。おかげであそこだけは、今でも清浄な状態を保っておるわ」
二人の視線を受け、レモンが苦々しげに言い放つ。それを聞いたヴァイスが率先して前を行き、嬌声と魔力の渦巻く中を平然と進んで玉座の間に続く扉の前で立ち止まる。
「ふん!」
そして扉を蹴り飛ばす。サキュバス渾身のヤクザキックが、木製の大扉に直撃する。強固な結界に守られていたその扉は、サキュバスのその一撃に対していとも容易く白旗を挙げた。
派手な音を立てて扉が粉砕され、破片が内側に向かって飛び散っていく。どうやら魔術的な防御にかまけるあまり、物理的な防御力は考慮されていなかったようだ。人間ピンチに陥ると、大抵は視野狭窄に陥るものである。
「こういうのはアナログが一番よ」
「やれやれ」
最後の扉を蹴り倒したヴァイスが鼻で笑い、それを見たグレイが呆れたように肩を落とす。一方その扉の奥、玉座の間で震えて固まっていた者達は、その最後の防壁が呆気なく崩れたのを見て顔に絶望の色を貼りつけた。
そこにいたのは、見るからにお高い地位にいるような連中ばかりだった。誰も彼もが無駄に豪奢な服を身に纏い、指や首に宝石を身に着け、一様に肥え太っていた。まさに贅沢が人の形を取ったような、見ていて苛立ちすら覚えるほどのブルジョアの集まりであった。
「これで最後?」
「ここでしまいじゃ」
ヴァイスの問いにレモンが答える。続けてレモンが「他の場所は全部堕ちておるのう」と付け加える。どうやら本当に、「清浄」なのはここだけのようだ。彼女が言うのなら間違いない。
そう確信したヴァイスは、奥で身を寄せ合うブルジョアたちに向かって歩を進めていった。一歩前に出る度に、逃げ延びた王族達が一斉に震え上がる。サディスティックな趣味嗜好を持ってないヴァイスは、それに対して何の感慨も抱かなかった。むしろ鬱陶しいとさえ感じた。
サキュバスがペースを速める。慌ててデュラハンとバフォメットが後を追う。王族達はもはやそこから動くことも出来ない。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことだ。
「さて、もう観念なさい」
あっという間にヴァイスが最後の王族達の下に到達する。やや遅れてレモンとグレイがヴァイスに追いつき、さらにニンゲンの匂いを嗅ぎつけた「未婚」のサキュバス達が次々と玉座の間に侵入してくる。ついでとばかりに外に充満していた魔力もまた、地面を這って容赦なく玉座の間に入り込んでくる。
ギラギラに飾り立てた王族の一人が、その光景を見てガクリと床に膝をついて崩れ落ちる。それに呼応するように、周りの者達も次々とその場にへたり込んでいく。命乞いをする者は一人もいなかった。
刹那、ヴァイスが片手を顔の高さまで持ち上げる。続けて人差し指だけを伸ばし、手首のみを使って手を回転させる。それを見た平サキュバス達は無言で、且つスムーズな動きで、玉座の間の隅へと消えていった。
許可を出すまで襲うな。ヴァイスの意思は全てのサキュバスに等しく伝わっていた。
「随分とあっさりじゃのう」
「下手に抵抗されるよりマシだ」
そうして全てのサキュバスが気配を消した後、ヴァイスの後ろでレモンとグレイが言葉を交わした。デュラハンの言う通り、素直に陥落してくれた方がずっと楽だ。
そうヴァイスが思った直後、へたり込んだ王族の一人がおもむろに口を開いた。
「せめて――」
「ん?」
耳聡くヴァイスが反応する。心の折れた王族達の片隅、比較的ふくよかな体型をした妙齢の女性が、わなわなと唇を震わせてこちらを見つめていた。
背後の二人もそれに気づく。なおも唇を震わせながら、その女性が言葉を続ける。
「せめて、最後にあの子に会わせてください。そちらに送られた、我が国の王子にです」
か細く、しかしハッキリと己の願いを言葉に託す。
「堕ちる前に、あの子の無事を確認させてください。無事なら、あの子と話をさせてください。後はどうなっても構いません。お願いします――!」
涙混じりの悲痛な訴えだった。それは確かにヴァイスの耳に伝わった。
「……あなたもしかして、ここの女王様かしら?」
確認を取るようにヴァイスが尋ねる。口を開いた女性は俯き、何も答えなかった。
ただ、その体は小刻みに震えていた。その全身で示す動揺が、何よりの答えだった。
「今更会わせろだと?」
「自分から捨てておいて――」
即座にグレイとレモンが反応する。二人は明らかに激昂していた。
それを片手で制止しつつ、再度ヴァイスが尋ねる。
「そんなに会いたいのかしら?」
そのサキュバスからの問いに、件の女性はすぐに首を縦に振った。直後、周りにいた王族達も一斉に首を縦に振る。
「わ、私も、あの子と会いたいですぞ!」
「私は彼の兄だ! 親族として会う権利くらいあるはずだ!」
「お願いだ! クランと話をさせてくれ!」
そして一斉に喚き始める。もしやここにいる連中は、全員クランの家族なのか? ヴァイスはふと、そんなことを考えた。さらにこの聡いサキュバスは、何故彼らがこうも必死にクランとの面会を望むのかを思案した。彼らが全員クランの親族であるとして、彼らはクランに何を求めるのか――。
「……ああ」
数秒後、すぐに一つの予想が頭の中で導き出される。凄まじく胸糞悪い、悪趣味な予想だ。ヴァイスは真っ先にこんな推測を打ち立てた自分自身に、ほんの僅か嫌悪を抱いたほどだった。
まあその結論に至ろうが至るまいが、ヴァイスの肚は既に決まっていたのだが。
「駄目よ」
事情がなんであれ、会わせる気はさらさら無かった。特に今、こいつらとクランを引き合わせるなど言語道断だ。ヴァイスの信念は固かった。
無論王族達は、先方の事情などまるで知らない。しかし、ただ「会えない」という事実だけでも、絶望するのに十分だった。
彼らの顔から血の気が失せていく。
「な、なぜですか? 何故いけないのですか!」
そして案の定、最初に口を開いた女性が答えを求めてくる。残りの連中もそれに便乗するように、口々に回答を要求してくる。
意地でも最後の望みにしがみつこうと必死だった。そんな彼らの大合唱に若干うんざりしながら、ヴァイスは彼らを見下ろしつつそれに答えた。
「クラン王子は今悪魔とセックスしてるから」
「は?」
予想外の答え。それまで好き勝手騒いでいた王族達が瞬時に黙り込む。
対してヴァイスは小さくため息をつき、しかしどこか嬉しそうに口角を緩めながら言葉を続ける。
「ほんと、性欲は人一倍強いんだから。でもこれくらいがっついてくれたほうが、魔物娘としても相手のしがいがあるってものよね♪」
王族達は開いた口が塞がらなかった。目の前の悪魔が何を言っているのか理解できなかったのが理由だった。
しかしヴァイスは別に嘘をついているつもりもなければ、誤魔化しているわけでもなかった。彼女は本当に、クランとミラが作戦そっちのけでセックスを始めたことを察知していた。そして実際、二人はこの時近くの宿屋で戦闘再開していた。
「まあそういうわけだから、あなた達の要求は受け付けません。そもそもどうして敵のお願いを律儀に聞いてあげなきゃいけないのかしら?」
ヴァイスが無慈悲に言い放つ。未だに要領を得ない人間達に、詳しく補足説明することもしなかった――そんな義理は毛頭ない。そしてヴァイスは軽く手を振りながら踵を返し、自分が粉砕した玉座の間の入口まで歩いて帰り始めた。
それに付き従うように、レモンとグレイが何も言わずに身を翻す。さらにヴァイスのハンドサインに応えるように、それまで玉座の間の隅っこで目立たないようにしていたサキュバス達が、待ってましたと言わんばかりに次々姿を現していく。
王の許可は得られた。もう遠慮することはない。愛に飢えたサキュバス達の目は、一様にギラついていた。
「ま、まって」
それでも王族、特に例の女性は諦めようとしなかった。それまで以上に弱弱しい声で、ヴァイスを引き留めようと食い下がる。
幸運なことに、ヴァイスはそこで脚を止めた。同時にレモンとグレイも立ち止まり、じりじりと距離を詰めていた他のサキュバス達も動きを止める。
「……」
全員がヴァイスに注目する。やがて背中を向けたまま、ヴァイスが王族達に言い放つ。
「クランは、お前達の道具じゃない」
冷たく、鋭い一声だった。感情を押し殺して放たれた冷たい声は、しかし隠しきれないほどの怒りで震えていた。
その顔は誰にも伺えない。
同じトーンのままサキュバスが畳みかける。
「あの子に頼み込んで身の安全を確保しようなんて考えは捨てることね」
直後、王族達の中から短い悲鳴が上がった。
息をのむ音も聞こえた。見苦しい呻き声が聞こえてきた。
確定だ。予想が当たった。
「……ゴミ共め」
ヴァイスが吐き捨てる。改めて手を振り、再び歩き始める。
命乞いの叫びが届いてくる。どうでもいい。歩きながらヴァイスは、心の中でただクラン達の幸せだけを祈った。祈らずにはいられなかった。
もうお前達は自由だ。自由になっていいのだ。消耗品ではなくなったんだ。
背後から聞こえてくる翼のはためく音と嬌声混じりの悲鳴を聞き流しながら、ヴァイスはただそれだけを思った。
17/08/20 23:59更新 / 黒尻尾
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