第三話(前編)
朝食を済ませ、アオの手によって食器を片づけられた後、二人は真っ先にその問題にぶち当たった。
「……暇だね」
「ええ……」
本当にすることが無かったのである。退屈に殺されるとはまさにこのことだ。それどころか時間を無駄に使い潰しているような気がして、申し訳なさで心が押し潰されそうになる。
二人並んで椅子に座り、そこで所在なさげに体を動かしたり、ちらと時計を見たりする。二人はこれまで王と臣下の関係を徹底して通してきたので、今になってフランクな雑談に興じることも出来なかった。
気まずい事この上なかった。
「どうしようか?」
「どうしようもありませんね。こんな場所で剣を振るうわけにもいきませんし」
これならまだ、捕虜として強制労働なりさせられた方がマシである。それが二人の共通認識であった。
なお二人の頭には、部屋の外に出るという選択肢は最初から無かった。不用意に外に出て魔物連中に目を着けられたら、何をされるかわかったものではない。いくら暇だからと言って、自殺願望を発露する気はさらさらなかった。
暇なことには変わりないが。
「あらやっぱり。二人してここに閉じこもっていたのね」
ドアを開けてヴァイスがひょっこり現れたのは、そうして彼らが退屈を感じ始めて三十分経った頃のことだった。突然の訪問者にクランは曲がり切った背筋を反射的に伸ばし、ミラはドアが開き始めた時には、既に腰に提げていた剣に手を掛けていた。
「安心しなさいって。王子様を食べに来たわけじゃないんだから」
ヴァイスもまた、入室と同時にこちらに敵意を放つミラの気配に気づいていた。彼女はお構いなしに室内へ進入し、同時にやんわりした口調で自分にその気がないことを告げた。
それでもミラは警戒を続けた。魔物の甘言には耳を貸さない、鋼の意思の体現だった。しかし直後に隣にいたクランの「大丈夫だよ」という声を受け、そこで彼女はようやく剣から手を離した。
「ありがとね、王子様」
張り詰めた空気が急速に和らいでいくのを肌で感じ、ヴァイスがクランに向かって礼を述べる。ついでに茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせる。
直後、クランの顔が茹蛸のように赤くなる。幼い王子の新鮮な反応を見たヴァイスが愉快そうに笑みをこぼす。ミラが面白くなさそうに顔をしかめる。
「それで、今日は何の用でここへ?」
腕を組んだミラが話題を切り出す。言葉の端々から棘が見え隠れしていた。ヴァイスはそれを無視して空席の一つに腰を降ろし、座ると同時にキッチンに向かって右手を軽く振りつつ、ミラの方を向いてそれに答えた。
「いやなに、二人とも何をしていいかわからなくて、難儀してるんじゃないかなって思ってね。ちょっと様子を見に来たのよ」
キッチンから三枚のソーサーと三つのカップが飛んで来る。最初にソーサーがそれぞれの手元に着地し、その上にカップが小さく音を立てて降り立つ。カップの中は黄金色の液体で満たされており、僅かに湯気が立ち上っていた。
紅茶。ストレートティーだろうか。色と立ち上る風味から、クランはそう推理した。魔物の供した飲み物に軽々しく口をつけることは躊躇われたが。
「案の定、って感じね」
一方で自分のカップを手に取り、平然と中の液体に口をつけながら、ヴァイスがぽつりと言葉を漏らした。図星だった。二人は気まずくなって、無意識のうちに視線をカップに降ろした。
「それでなんだというのだ? 冷やかしに来たのか?」
すぐに視線を元に戻して、ミラが食い下がる。ヴァイスはカップを元に戻し、笑みを浮かべてそれに答えた。
「違うわよ。暇で死にそうなあなた達のために、ちょっと提案をしに来たのよ」
「提案?」
クランが食いつく。視線をそちらに移してヴァイスが頷く。
「何をさせるつもりなんですか?」
続けてクランが問う。微笑んだままヴァイスが答える。
「ちょっと二人に仕事をしてもらおうと思ってね」
ミラは城内の雑務の手伝い。クランは魔物の歴史の勉強。
それがヴァイスの提示した、二人への「仕事」の内訳だった。
「勉強を仕事と言うのか?」
「異種族の内情を知り、誤解を解き、相互理解を深める。これもまた王の仕事。人の上に立つ者が果たすべき義務であるはずよ」
ミラからの問いに対して、ヴァイスはそう事もなげに言ってのけた。ぐうの音も出ない正論だったので、二人はそれ以上言い返すことはしなかった。
そして人間二人が口を噤んだのをいいことに、ヴァイスは自分のペースでどんどん話を進めていった。
「そういうわけだから、今日からさっそく仕事をしてもらうわ。お昼まではゆっくりしてもらって、昼食を取った後で働いてもらおうかしら。もちろん他の魔物娘達と一緒に仕事してもらうわけなんだけど、そこは誘惑しないようにちゃんと言い聞かせておくから安心して」
そこまで言ってヴァイスが指を鳴らし、虚空からメモ用紙二枚とペンを出現させる。それらがテーブルに落ちた後、ヴァイスがペンを手に取り、メモ用紙に集合場所と時刻を書き込んでいく。
「じゃあここに集まってちょうだいね。遅刻しちゃ駄目よ?」
必要事項を記入した後、ヴァイスがそのメモ用紙をそれぞれクランとミラに手渡す。二人が受け取ったそこには、同じ集合時刻と異なる集合場所が記載されていた。ご丁寧に、メモ用紙の下部には城内の簡単な見取り図まで描かれていた。
ミラとクランの視線は、自然とそこに釘付けになった。
「そういうことだから、よろしく〜♪」
そこにヴァイスの声がかかる。二人が同時に視線をヴァイスに戻すと、彼女は既に席を立ち、ドアの所まで進んでいた。サキュバスの主はそのまま相手の言葉も聞かずにドアを開け、優雅な足取りで外へと出て行ってしまった。
質問も反論も許さない、一方的な要求だった。思い返すと、自分達の都合は悉く無視されていることに気づく。クランとミラは唖然とするしかなかった。
「どうしよう……」
「受け入れるしかないでしょう……」
今度はクランが困惑し、ミラが腹を括る番だった。そしてクランもまた護衛騎士の言に頷き、覚悟を決めることにした。
それから数時間後、二人は部屋で昼食を取った。運んできたのは朝と同じくアオだった。ふわふわ卵のオムライスはまさに絶品だった。
そうして腹ごなしを終えた後、二人は行動に移った。離れ離れになるのは心細かったが、先方の指示を無碍にするわけにもいかない。
「気をつけてね、ミラ」
「クラン様も、常々油断なさらぬように」
「わかってる。気を引き締めて臨むよ」
自分達の立場を再確認した二人は軽くハグをし、生きて再会できるよう神に祈った。数秒後、二人は名残惜しむように体を離し、それぞれ指定された場所に向かった。
クランは図書室。ミラは一階の広間。そこが彼らに割り当てられた仕事場所であった。ついでに言うと、ミラの持つメモ用紙には「武器は持たず、丸腰で来ること」と明記されていた。
ここまで来たら、従うよりあるまい。彼女は観念して剣を部屋に置いたまま、指示された場所へ向かった。
「お待ちしていました。それではさっそく、こちらに着替えていただきます」
集合場所に指定されていた広間には、既に四人のサキュバスが集まっていた。そしてその中の一人、一番背の高いサキュバスが最後に合流してきたミラに対し、手に持っていたそれを彼女に差し出してきた。
それは綺麗に折り畳まれたメイド服だった。白と黒を基調にした、露出皆無のロングスカートタイプ。ご丁寧に手袋とカチューシャも付属していた。
「あなたにはこれから私達と一緒に、城内の清掃をしていただきます。まあ廊下の埃を掃いたり、窓を拭いたりといった基本的なことですね」
背の高いサキュバスが、これからすべきことを簡潔に説明してくる。なるほど、それなら自分でも出来そうだ。無理難題を押し付けられるのだろうと気を張っていたミラは、ほんの少し肩の力を抜いた――魔物の前で油断しきった姿を見せるのは、まだ抵抗があった。
メイド服を着ること自体には抵抗は無かった。服を受け取ったミラがサキュバスに質問する。
「わかった。どこで着替えればいい?」
「一応更衣室もありますが……」
「それならそこで着替えたい。場所を教えてくれ」
「ここで脱いだほうが速いですよ?」
背の高いサキュバスが平然と言ってのける。周りのサキュバスもそれを期待するような眼差しを向けてくる。
その内の一人が目を輝かせて口を開く。
「大丈夫。恥ずかしいのは最初だけです」
「絶対嫌だからな!?」
大人しく更衣室の場所を教えてもらうことにした。
着替えは数分で終わった。しかし何のイベントもなく穏便に済んだことに対して、ミラの仕事仲間は不満たらたらだった。
「魔物の情緒がわからない人なんですね」
「わかりたくもない」
ミラはそれを努めて無視した。何故魔物の前で、しかも昼過ぎからストリップショーをしなければならないのか。ミラは魔物娘の思考が理解できなかった。
しかし連中の考えは読めなかったが、その後聞かされた作業工程は理解できた。ミラは自分と同じ格好をしたサキュバスとペアを組み、一階東通路の清掃を担当することになった。残りの面々はそれぞれ違う場所を担当し、一時間後に作業を済ませて広間に集まる算段になっていた。
そしてミラは、そんな自分に割り当てられた仕事に対して手を抜くことは考えなかった。自分の不手際でクランにあらぬ被害が及ぶようなことは、断じて阻止せねばならなかったからだ。
「すげー。騎士様、気合入りまくりっすねー」
そうしてエンジンのかかったミラの獅子奮迅の働きによって、清掃作業はほんの二十分で完了した。コンビを組んだサキュバスも決してサボっていた訳ではなかったが、それ以上にミラの手際が良過ぎたのであった。
「随分手慣れてる感じするっすねー。騎士様って、前にもこういうことやってたりするんですか?」
適切にして迅速。埃一つ残さない完璧な仕事ぶりを目の当たりにした相棒サキュバスが、驚嘆しきりにミラに話しかける。その時ミラは彼女の横で腰を下ろし、窓拭き用の雑巾を絞っていたところであった。そしてミラはサキュバスからの問いかけに気づくや否や、手を止めて彼女を見上げつつそれに答えた。
「まあ、色々とな。ここに来る前、城で生活していた時は、私がクラン様……王子の世話を一身に引き受けていたのだ」
「炊事とか洗濯とか、部屋の掃除とかっすか?」
褐色の肌を持ち、くせっ毛だらけの銀色のショートヘアを備えたそのサキュバスが、興味津々と言った体でミラに問いかける。絞った雑巾をバケツに戻し、その場で立ち上がってから、ミラが口を開く。
「そうだ。全て私がやっていた」
「全部ぅ? 護衛騎士が? それっておかしくないっすか? お世話担当のお付きの人とか、いなかったんすか?」
銀髪のサキュバスがまくしたてる。馴れ馴れしい態度だったが、ミラはそれで気分を害することは無かった。
代わりに気まずい顔を見せながら言葉を濁す。そこには棘も毒も無く、ただ本心を語る勇気がない事への申し訳なさのみがあった。
「……そこはまあ、色々と複雑なんだ。とにかく私が、今まで王子のお世話を全て行っていたんだ」
「なんでそんなことする必要があるんすか?」
「だからその辺りの話は複雑なんだ。話すと長くなるし、聞いてて面白いものでもない。時間の無駄だ」
「集合まで四十分もあるんすよ〜? ちょっとくらいいいじゃないっすか〜」
だがそれで折れるサキュバスではなかった。ミラの腕に抱きつき、癖毛を肩に擦りつけ、甘えるように声を出す。それは誘惑者が取る態度ではなく、駄々をこねる子供そのものだった。彼女は純粋な好奇心から、このような行動に出ていた。
そしてそんな反応をされたミラもまた、嫌な気分はしなかった。
「駄目なものは駄目だ。プライベートな話を、こんなところでするわけにはいかない」
「ケチー! 頭でっかちー!」
「ケチで結構。どれだけねだっても嫌だからな」
「ぶー!」
「鳴いても駄目」
「豚じゃねえっすー!」
「お前しつこいぞ。いい加減にしないか」
むしろミラはこのやり取りを――鬱陶しいサキュバスとの面倒くさい事この上ない会話を、楽しいとすら感じていた。それは彼女が護衛騎士となって以来、久しぶりに抱く感情であった。
打算も疑心もない、純粋な心のぶつけ合い。それがミラには楽しくて仕方なかった。サキュバスが膨らませた頬を何も考えず指でつついてしまう程に、ミラは気を抜ききってしまっていた。
17/07/10 20:14更新 / 黒尻尾
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