Duel.4「おい、デュエルしろよ」
入浴中のところを儀式によって誘拐、もとい召喚されてきた龍は、その後のマッドハッターからの協力要請を二つ返事で承諾した。マッドハッターから貰った服を着て風呂から出た彼女曰く、「不思議の国なら仕方ないですね」とのことである。相変わらずの理屈であったが、サイスはもう突っ込まなかった。彼は既にその展開に慣れてしまっていたからだ。
しかしそんな彼にも、この時慣れなかったことが一つあった。それはマッドハッターのアンからの要請を受け入れた龍の態度だった。首を縦に振った龍はこの時、額に青筋を浮かべていた。浮かべた笑顔からも殺気を滴らせていた。
龍は明らかに「キレて」いた。全身から殺意を漲らせる龍を前にして、サイス――と彼の周りにいた魔物娘は等しく冷や汗を流した。そしてそれをサイスが指摘するよりも早く、龍は怒りのままに行動に移った。
「それはそうとマッドハッターさん。少しそこに正座していただけないでしょうか?」
「えっ? それはいったいどういう意味で……」
「いいから」
「あ、はい」
有無を言わせぬ龍の命令に、マッドハッターが素直に従う。彼女も彼女で顔面蒼白だった。楽天家で快楽主義者のアンはここに来て初めて、自分が正しい意味での龍の逆鱗に触れてしまったことを理解した。
もう手遅れだった。
「私は別に、あなたの発案したゲームそのものを否定するつもりはありません。ですが該当する魔物娘を無差別に、手当たり次第に呼び出していく今のスタイルは、決して褒められたものではありません。自分達の遊びのためだけに、相手の都合を無視して無理矢理ここに呼びだすなど言語道断です」
「はい。まったくごもっともです」
「私のように入浴中だったり、食事中だったり、愛する者との逢瀬を重ねていたりする者を無責任にここに呼びだしたりして、その後の責任をどう取るおつもりなのですか? いくら不思議の国のことと言っても、限度があります。他の魔物娘に協力を要請するのであれば、あなた方ももう少し他の世界の方々の事情を考慮する必要があるのです。私の言いたいことが何かわかりますか?」
「はい。よくわかります。まったく私が軽率でした。これからはもっと慎重に呼び出す人を選びたいと思います。本当に申し訳ありませんでした……」
怒りのままに龍が説教をぶちまけ、それに対してマッドハッターがひたすら頭を下げて謝り倒す。マッドハッターの性質を知っている者――特に観衆として集まっていた不思議の国の住人達からすれば、それは一種異様な姿だった。しかし実際のところ龍の怒りは全くの正論であり、賢いアンもそれを理解していたので、彼女はただそれを受け入れるしかなかったのだ。
また一方で、その龍の説法はサイスが懸念していたことを的確に言い表してもいた。なのでサイスは自分に代わってそれをアンにぶつける龍を見て、溜飲が下がる思いを味わってもいた。ざまあみろと思わないところが無いわけでも無かった。
「あの人、ちょっと怖い……」
「やっぱドラゴン属って怒らせたらまずいんだな」
「敵には回したくないな」
真顔のまま全身から怒りのオーラを放ち、滔々と語り掛ける龍の姿は凄まじく恐ろしいものであったので、手放しで喜ぶことは出来なかったが。サイスは周りの魔物娘共々、戦々恐々としながらその説教を見つめるだけだった。
「……ですがまあ、過ぎてしまったことは仕方ありません。今回は私もちゃんと協力しますから、次からは気を付けるのですよ?」
「はい! 肝に銘じておきます! 本当にありがとうございますっ!」
しかし龍は慈悲深かった。彼女は怒るだけで終わらず、アンの仕組んだゲームに最後までつき合う姿勢を見せた。これにはアンも内心大喜びで、彼女の懐の深さにいたく感激した。
サイスは逆に困惑した。
「あれだけ怒っておいて、ゲームにはちゃっかり参加するのかよ」
「それはそれ、これはこれです。私が怒ったのは、あくまでマッドハッターさんの姿勢です。このゲームそのものを否定したわけではありません」
澄まし顔で龍が言い返す。確かに彼女はこのゲームを否定してはいなかった。前に自らそう告げている。
「それにこんな楽しそうなゲーム、参加しない道理はありませんからね」
続けて龍が笑みを浮かべて言い放つ。心の底から楽しそうな笑顔を見せる彼女からは、既に怒りや殺意といった負の念はすっかり消えて無くなっていた。切り替えの早い御仁である。
まあ、終わったことをあれこれ悩み続けられるよりはずっとマシであるが。
「なんと言うか、あっさりしてますねあの人」
「俺は好きだぞ。ああやってすっぱり気持ちを切り替えられるタイプはな」
人生は楽しんだもの勝ちである。常々そう考えていたサイスにとって、目の前の龍はとても眩しく見えたのだった。
そういうわけで、デュエル再開である。龍の怒りに曝され冷え切っていた場の空気も次第に熱を取り戻していき、活気と歓声が息を吹き返していく。
その中でアンが声を張り上げる。彼女も彼女で、元の勢いを完全に取り戻していた。
「私はこのターン、儀式召喚で龍を呼び出しました。そしてそれに合わせて、伏せカードを使用します!」
リバースカードオープン! アンが高らかに宣言する。それと同時に伏せられていたカードの一枚が起き上がり、その正体を露わにする。
「罠カード、『龍の逆鱗』を発動! 自分の場に水属性の儀式モンスターが召喚された時にそのカードを選択し、選択したモンスターはこのターン二回まで攻撃が可能になる!」
「はあ!?」
「インチキだインチキ!」
思わずサイスが声を上げる。マーシャークもそこに同調する。
一方のアンはそんな物言いに対し「儀式召喚は基本的にアド損だからこれくらいは許されるんです!」と大声で反論する。その後アンは一度咳払いをした後、さらに説明を続ける。
「こちらの龍の攻撃力は2800。対してそちらのモンスターの攻撃力はそれぞれ2400と1600。これがどういうことかお分かりですね」
「……俺のフィールドが全滅するってことか」
状況とアンの言い分を理解したサイスが苦々しく呟く。フィールドにいたマーシャークとジャイアントアントも揃って息をのむ。
龍もまたこれからアンが何をしようとしているかを理解し、静かに構えを取る。
一瞬の静寂。アンが攻撃宣言をする。
「その通り! では私の攻撃! 龍でマーシャークとジャイアントアントを破壊します!」
「お任せを!」
アンの宣言に龍が快く応じる。そして龍はその場で両手を天高く掲げ、眼光鋭くサイス達を見据えながら何事か呟き始める。
「あめつちのみたまよわれのこえにこたえたまえわれにおちからをかしたまえわれらのてきをはらわせたまえ」
龍の両手の間に青い球体が出現する。さらに龍の呟きに応えるように、その青い球体は周りの空気を吸い込んで肥大化を始めていく。
「にぎみたまあらみたまさきみたまくしみたまわれにちからをかしたまえわれのこころにこたえたまえ」
「おい、なんかやばくないか」
サイスの額から冷や汗が流れ落ちる。青い球体がどんどん大きさを増していく。球の中で青が渦を巻き始め、漏れ出した魔力が波動となって周囲にいる者の服と髪をたなびかせる。
やがて球体が真下の龍よりも大きくなる。龍は構わず呪文を唱え続け、球体の巨大化が続いていく。攻撃をする以上、龍は徹底的にやるつもりでいた。
「ひっ、ひいい!」
「おたすけー!」
ギャラリーの何人かが恐れをなし、その場を離れて逃げ出していく。魔力の波動は既に強風と化し、辺りの物を手当たり次第に吹き飛ばさんと猛威を振るう。サイス達は生きた心地がしなかった。
「あれが攻撃ですか」
「やりすぎだよ」
「龍さん、もしかしてまだ怒ってるんでしょうか……?」
間近にいたアンはそんな龍の「本気」を感じ取り、顔から血の気を引かせていく。墓地で待機していたマンティスも同様に呆然とした表情を浮かべ、準備を進める龍の姿を絶望の眼差しで見つめる。
龍の呼び出したそれがどれほどの破壊力を生み出すのか、考えたくも無かった。
「なんだ! 何があった! この異常な魔力はなんなんだ!」
やがてギャラリーの方から力強い声が聞こえてくる。それはトランパートの一団であり、その中でも上位に位置する「絵札」の戦士達であった。不思議の国のある地点で破滅的な魔力の奔流が出現したことを感じ取った彼女達は、こうしてその魔力の発生地点に急行してきたのである。
そして今、己の目で爆心地を垣間見たトランパート達は、一瞬肝を冷やした。なぜ日本に棲息しているはずの龍がこんなところで本気を出しているのだと、唖然としたりもした。しかし彼女達はすぐに正気を取り戻し、自分達が何をすべきかを悟った。
「こらー! そこの龍! 直ちに詠唱を止めなさい!」
ハートのジャックが声をかける。龍は詠唱に夢中で気づいていない。
「駄目だ、聞こえてないみたいだ」
「こうなったら力づくで中断させるしかありませんね……!」
それを見たスペードのクイーンとクローバーのジャックが揃って言い放つ。残りの面々がそれを首肯する。
彼女達の眼前で龍が叫ぶ。
「さあ、消し飛んでしまいなさい! 必殺、怒龍爆砕撃――」
「かかれーっ!」
龍が意気揚々と技名を叫んだ直後、その彼女に向かってトランパートが一斉に跳びかかる。唐突に横から体当たりを食らい、龍がバランスを崩す。
そこでようやく、龍がトランパート達の存在に気づく。しかし気づいた時点で手遅れだった。
「このっ! 大人しくしなさい!」
「こんなアホみたいに魔力集めて! 何する気だったんですか!」
「ちょ、ちょっとやめてください! これからいいところだったんですよ!」
「やかましい! あんたやりすぎなんだよ!」
反論にも耳を貸さず、数に任せて龍を組み伏せていく。龍も抵抗しようとするが、トランパートの連携プレーになす術もない。
結局、龍はそのままお縄となった。本日二度目のデュエル中断である。
龍はその後トランパート達によってしょっぴかれ、ハートの女王の元へ連行された。何を思ったのかマッドハッターのアンもそれに同行し、サイス達は待ちぼうけを食う形になった。
「こんなグダグダしたカードゲームは初めてだな」
「普通にカードゲームした方が絶対楽しめますよね」
再度の中断を受け、サイスとエンジェルが言葉を交わす。しかしサイス達は、そのまま長時間待機するようなことにはならなかった。龍達が空間転移用のポータルを通して何処かへと消え去った僅か二分後に、また同じポータルを通ってこの場所に戻ってきたからだ。それも一人残らず、しっかり正気を保ったまま。
「女王様に私の方から説明をしたのですよ。今こういうゲームをしていて、そこでこちらの龍が張り切り過ぎただけだとね」
あまりに早い帰還を訝しむサイスに対して、アンがそう説明した。それからアンは、今アン達のやっているゲームにハートの女王が興味を見せたこと、そしてゲームの続行を女王直々に許可したことをサイス達に告げた。
面白い見世物が続くことを知った観衆は大喜びした。逃げ出した者達もちゃっかり帰ってきており、彼らもまた喜びに手を叩いていた。その一方で我を忘れ、本気で攻撃しようとしていた龍は、己を取り戻すと同時にすっかり意気消沈していた。
「まあまあ。誰にでも失敗はありますから。そんなに気落ちしないでくださいよ」
「私も同じミスしたし。おあいこ」
「は、はい……」
その龍にアンとマンティスがフォローを入れる。それが効いたのか、龍は気持ちを切り替え、前向きな心でフィールドに戻っていった。なお彼女を拘束していたトランパート達は元いた場所には帰らず、そのままギャラリーに混じってデュエルの観戦を始めた。
「では、改めて。デュエル続行です。龍さん、攻撃お願いします」
「わかりました」
再度の攻撃宣言に龍が頷く。今度は彼女は魔力を使おうとはせず、低空を浮遊しながらジャイアントアントとマーシャークの元へ進んでいった。
やがて龍が二人の元に辿り着く。そしてそこで龍は右手を振り上げ、最初にマーシャークの頭にチョップを仕掛ける。
「え、えいっ」
ぽすっ、と軽い音を立てながら、龍の手刀がマーシャークの頭頂部と接触する。そうして力ないチョップを当てた後、続けて龍はジャイアントアントに狙いを定める。
「とりゃーっ」
全く覇気の無い雄叫びと共に、龍の手刀がジャイアントアントの頭を捉える。こちらの空気の抜けるような、間抜けな音が響いた。龍からの攻撃を食らった二人は少しキョトンとした後、すぐに自分達がこの後取るべき行動が何なのかを理解する。サイスも同じタイミングでそれを察する。
「水槽は私が運びますんで、サイス様はそこで待っていてください」
さらにそれを察したジャイアントアントが、先手を取るようにサイスに告げる。そのまま彼女は台車のロックを外し、マーシャークの入った水槽を台車ごと墓地へ運んでいく。そうしてマーシャークを墓地まで運び終えた後、ジャイアントアントもまたそこに腰を落ち着ける。
モンスター二人が仲良く墓地行きになった後、ようやくサイスのライフポイントが動き出す。細長い液晶に表示された数字が勢いよく減っていき、2200で停止する。手痛いダメージを食ってしまった。それを見たサイスが思わず顔をしかめる。
そこに追い打ちをかけるようにアンが声を張り上げる。
「申し訳ありませんが、まだ私のターンは終了していませんよ。二枚目のリバースカード!」
その宣言と同時に、もう一枚の伏せカードがゆっくりと起き上がる。今度も赤い色のカードだった。イラスト部分には黒い蛇型の魔物娘が、カードを持った男を縛り上げている様が描かれていた。
「罠カード、『堕落蛇の誘い』を発動! このカードが発動に成功した時、互いのプレイヤーは持っている手札をすべて捨て、その後カードを二枚ドローする! そしてその後、自分フィールド上にこのカードを通常モンスターカード『アポピス』として、攻撃表示で特殊召喚する!」
アンがそこで説明を終える。直後、そのカードの前に光の柱が出現する。例によって柱は四散し、中からイラストにあった通りの姿をした魔物娘が出現する。
「……ふうむ、このわらわを術で呼び出すとは、いったいどこの命知らずじゃ?」
全身を黒ずんだ青で塗り固められた、蛇型の魔物娘。その目は金色に光り輝き、油断ならない眼光を放っていた。全身からも漆黒の魔力をオーラのように漲らせ、空気がまたしても――もういい加減にしてほしいものである――緊張で張り詰めていく。
そんな異様な気配を放つ魔物娘に向かって、アンが平然と声をかける。
「私があなたを呼んだのですよ、アポピス様」
「そなたが? ほう、魔物娘がわらわを呼んだと申すか」
召喚主がマッドハッターであることを知ったアポピスは、愉快そうに口の端を吊り上げた。そんなアポピスに、アンが事情を手短に説明する。
数分後、状況を理解したアポピスはとても楽しそうに高笑いした。
「アハハハハッ! 愉快愉快! なんともまあ面白そうなことをしておるのう!」
「面白そうでしょう? これ考えたのは私なのですが、我ながら上手く出来ていると思っているんですよ」
「うむ、うむ。まっこと面白き遊戯であると思うぞ。そなた、遊戯を作り出す素質があるのではないか?」
このアポピスはマッドハッターの遊び人な性質についてあまり詳しくなかった。しかしアンはそんなアポピスの言葉を、ただ微笑んで受け流した。遊び以外の面において、彼女は大人の女性だった。自分の考案したゲームを褒められて純粋に嬉しかった部分もあったのだが。
閑話休題。アンが話を続ける。
「そういうわけですので、あなたに色々と協力していただきたいのですが」
「構わんぞ。なんでもやってみせよう。最近することもなく、長いこと刺激に飢えておったのでな。退屈しのぎには丁度よいわ」
「そうですか。快諾していただき本当にありがとうございます。では早速……」
了承を得たアンは、次にアポピスにこの後の段取りを説明し始める。それを聞いて自分の立ち位置を知ったアポピスは、この後自分のするべきことを即座に飲み込んだ。
「心得た。このアポピス、見事そなたの要求に応えてみせようぞ」
「本当にありがとうございます。それではお願いしますね」
「うむ」
交渉終了。アポピスがアンから視線を離し、身を翻してサイス達と相対する。堕落の蛇からの視線を受け、サイス達が思わず身構える。
獲物を見定めたアポピスが嗜虐的な笑みを浮かべ、舌なめずりをする。そしてサイスをまっすぐ見据え、高らかに声を上げる。
「さあ人間よ、行くぞ! 我が効果を見るがよい!」
そう叫んだ直後、アポピスが両手を水平に伸ばす。金色の瞳が一層強く輝き、全身に纏う魔力が濃さを増す。
「聞け! 我はアポピス! 我が力にて、そなたらを堕落の底へと導いてくれようぞ!」
刮目して見よ! 漆黒の蛇が叫ぶ。
次の瞬間、アポピスの全身から魔力が噴き出していく。手で掴めそうな程に圧倒的な密度を持った暗黒の魔力が、アポピスを通して草原地帯を満たしていく。
「ちょっ、何してるんですかあなた!」
「カードの効果を表現しているに決まっておろう。マッドハッターよ、そなたは黙って見ているがよい」
「いや、限度ってものがですね……」
「まだまだ行くぞ! わらわの力はこんなものではないぞ!」
アポピスがますますハッスルする。黒の奔流がさらに勢いを増す。あれに触れたら何が起きるかわからないが、少なくともロクなことにはならないだろう。
そんな不気味な黒の渦が、不思議の国を容赦なく塗り潰さんと無差別に広がっていく。
「あっ、やばい」
この後の展開を予想し、サイスが顔を青くする。ジャイアントアント達も同じように血の気を引いて行く。
そんな彼らに魔力の奔流が迫る。
「危ない! 下がって!」
しかしそれがサイスと接触する直前、彼と魔力の間に絵札のトランパートが割って入る。乱入したトランパートはその場で障壁を張り、迫る魔力を左右に受け流していく。
障壁の中には墓地スペースも含まれていた。おかげでサイスの召喚した魔物娘達もアポピスの魔力から逃れることが出来ていた。生きた心地はしなかったが。
「すまん、助かった」
「礼には及びません。何があってもデュエルを中断させるなという女王様のお達しですので」
「助けられたのは事実だ。悪いな」
サイスの言葉を受けてそのトランパート、クローバーのジャックが「ありがとうございます」と微笑んでみせる。なおギャラリーの前にも複数人のトランパートが立ち、一斉に障壁を展開してアポピスの放つ魔力を防いでいた。アンの側にもトランパートが向かい、同じようにアポピスのそれを真っ向から防いで見せていた。
彼女達のおかげで、被害を被った者は皆無だった。しかし実害が出てないだけで、問題は解決していない。
「このままじゃここが別の魔界に上書きされる!」
「奴を止めるぞ! 急げ!」
そのことはトランパート達も重々承知しているようだった。障壁を張っていない面々が一か所に固まり、アポピスの垂れ流す魔力を防ぎながら彼女の元へ駆けよっていく。そしてご満悦の顔で「効果の発動」を続けるアポピスに全員でぶつかり、数に任せてそのドス黒い蛇を抑えつける。
「なっ、貴様ら! 止めんか! デュエルに水を差すつもりか!」
「水差してるのはどっちよ!」
「手を縛れ! 早くこれ止めるんだ!」
「ええい! いい加減にせぬか! わらわはあくまでカードの効果をだな……!」
「加減しなさいって言ってんのよ!」
トランパート達が大挙してアポピスに覆い被さり、邪悪な魔物娘を力任せに無力化していく。その姿は機動隊員が凶器を振り回す暴漢を取り押さえる様に似ていた。
「カードゲームでリアルファイトが始まるなんて凄いな」
「普通じゃねえよな」
「まあ、不思議の国ですから」
それを見て呆れた声を出すサイスとマーシャークに、障壁を張っていたトランパートが苦笑いを浮かべつつ答える。
「不思議の国」って本当に便利な言葉だよな。クローバーのジャックの台詞を聞いたサイスは、そう思わずにはいられなかった。
「離せ! はなせぇー! まだ効果は終わっておらぬのだぞぉぉぉ!」
やがて草原地帯を覆う黒い魔力が薄れていく。そうしてバトルフィールドが元の穏やかな景色を取り戻す中で、アポピスの悲痛な叫びが虚しく響き渡る。
これも不思議の国のなせるわざか。それを聞いたサイスは即座にそう考えた。
自分もまた「不思議の国」に毒され始めていることを、彼は少なからず自覚していた。
しかしそんな彼にも、この時慣れなかったことが一つあった。それはマッドハッターのアンからの要請を受け入れた龍の態度だった。首を縦に振った龍はこの時、額に青筋を浮かべていた。浮かべた笑顔からも殺気を滴らせていた。
龍は明らかに「キレて」いた。全身から殺意を漲らせる龍を前にして、サイス――と彼の周りにいた魔物娘は等しく冷や汗を流した。そしてそれをサイスが指摘するよりも早く、龍は怒りのままに行動に移った。
「それはそうとマッドハッターさん。少しそこに正座していただけないでしょうか?」
「えっ? それはいったいどういう意味で……」
「いいから」
「あ、はい」
有無を言わせぬ龍の命令に、マッドハッターが素直に従う。彼女も彼女で顔面蒼白だった。楽天家で快楽主義者のアンはここに来て初めて、自分が正しい意味での龍の逆鱗に触れてしまったことを理解した。
もう手遅れだった。
「私は別に、あなたの発案したゲームそのものを否定するつもりはありません。ですが該当する魔物娘を無差別に、手当たり次第に呼び出していく今のスタイルは、決して褒められたものではありません。自分達の遊びのためだけに、相手の都合を無視して無理矢理ここに呼びだすなど言語道断です」
「はい。まったくごもっともです」
「私のように入浴中だったり、食事中だったり、愛する者との逢瀬を重ねていたりする者を無責任にここに呼びだしたりして、その後の責任をどう取るおつもりなのですか? いくら不思議の国のことと言っても、限度があります。他の魔物娘に協力を要請するのであれば、あなた方ももう少し他の世界の方々の事情を考慮する必要があるのです。私の言いたいことが何かわかりますか?」
「はい。よくわかります。まったく私が軽率でした。これからはもっと慎重に呼び出す人を選びたいと思います。本当に申し訳ありませんでした……」
怒りのままに龍が説教をぶちまけ、それに対してマッドハッターがひたすら頭を下げて謝り倒す。マッドハッターの性質を知っている者――特に観衆として集まっていた不思議の国の住人達からすれば、それは一種異様な姿だった。しかし実際のところ龍の怒りは全くの正論であり、賢いアンもそれを理解していたので、彼女はただそれを受け入れるしかなかったのだ。
また一方で、その龍の説法はサイスが懸念していたことを的確に言い表してもいた。なのでサイスは自分に代わってそれをアンにぶつける龍を見て、溜飲が下がる思いを味わってもいた。ざまあみろと思わないところが無いわけでも無かった。
「あの人、ちょっと怖い……」
「やっぱドラゴン属って怒らせたらまずいんだな」
「敵には回したくないな」
真顔のまま全身から怒りのオーラを放ち、滔々と語り掛ける龍の姿は凄まじく恐ろしいものであったので、手放しで喜ぶことは出来なかったが。サイスは周りの魔物娘共々、戦々恐々としながらその説教を見つめるだけだった。
「……ですがまあ、過ぎてしまったことは仕方ありません。今回は私もちゃんと協力しますから、次からは気を付けるのですよ?」
「はい! 肝に銘じておきます! 本当にありがとうございますっ!」
しかし龍は慈悲深かった。彼女は怒るだけで終わらず、アンの仕組んだゲームに最後までつき合う姿勢を見せた。これにはアンも内心大喜びで、彼女の懐の深さにいたく感激した。
サイスは逆に困惑した。
「あれだけ怒っておいて、ゲームにはちゃっかり参加するのかよ」
「それはそれ、これはこれです。私が怒ったのは、あくまでマッドハッターさんの姿勢です。このゲームそのものを否定したわけではありません」
澄まし顔で龍が言い返す。確かに彼女はこのゲームを否定してはいなかった。前に自らそう告げている。
「それにこんな楽しそうなゲーム、参加しない道理はありませんからね」
続けて龍が笑みを浮かべて言い放つ。心の底から楽しそうな笑顔を見せる彼女からは、既に怒りや殺意といった負の念はすっかり消えて無くなっていた。切り替えの早い御仁である。
まあ、終わったことをあれこれ悩み続けられるよりはずっとマシであるが。
「なんと言うか、あっさりしてますねあの人」
「俺は好きだぞ。ああやってすっぱり気持ちを切り替えられるタイプはな」
人生は楽しんだもの勝ちである。常々そう考えていたサイスにとって、目の前の龍はとても眩しく見えたのだった。
そういうわけで、デュエル再開である。龍の怒りに曝され冷え切っていた場の空気も次第に熱を取り戻していき、活気と歓声が息を吹き返していく。
その中でアンが声を張り上げる。彼女も彼女で、元の勢いを完全に取り戻していた。
「私はこのターン、儀式召喚で龍を呼び出しました。そしてそれに合わせて、伏せカードを使用します!」
リバースカードオープン! アンが高らかに宣言する。それと同時に伏せられていたカードの一枚が起き上がり、その正体を露わにする。
「罠カード、『龍の逆鱗』を発動! 自分の場に水属性の儀式モンスターが召喚された時にそのカードを選択し、選択したモンスターはこのターン二回まで攻撃が可能になる!」
「はあ!?」
「インチキだインチキ!」
思わずサイスが声を上げる。マーシャークもそこに同調する。
一方のアンはそんな物言いに対し「儀式召喚は基本的にアド損だからこれくらいは許されるんです!」と大声で反論する。その後アンは一度咳払いをした後、さらに説明を続ける。
「こちらの龍の攻撃力は2800。対してそちらのモンスターの攻撃力はそれぞれ2400と1600。これがどういうことかお分かりですね」
「……俺のフィールドが全滅するってことか」
状況とアンの言い分を理解したサイスが苦々しく呟く。フィールドにいたマーシャークとジャイアントアントも揃って息をのむ。
龍もまたこれからアンが何をしようとしているかを理解し、静かに構えを取る。
一瞬の静寂。アンが攻撃宣言をする。
「その通り! では私の攻撃! 龍でマーシャークとジャイアントアントを破壊します!」
「お任せを!」
アンの宣言に龍が快く応じる。そして龍はその場で両手を天高く掲げ、眼光鋭くサイス達を見据えながら何事か呟き始める。
「あめつちのみたまよわれのこえにこたえたまえわれにおちからをかしたまえわれらのてきをはらわせたまえ」
龍の両手の間に青い球体が出現する。さらに龍の呟きに応えるように、その青い球体は周りの空気を吸い込んで肥大化を始めていく。
「にぎみたまあらみたまさきみたまくしみたまわれにちからをかしたまえわれのこころにこたえたまえ」
「おい、なんかやばくないか」
サイスの額から冷や汗が流れ落ちる。青い球体がどんどん大きさを増していく。球の中で青が渦を巻き始め、漏れ出した魔力が波動となって周囲にいる者の服と髪をたなびかせる。
やがて球体が真下の龍よりも大きくなる。龍は構わず呪文を唱え続け、球体の巨大化が続いていく。攻撃をする以上、龍は徹底的にやるつもりでいた。
「ひっ、ひいい!」
「おたすけー!」
ギャラリーの何人かが恐れをなし、その場を離れて逃げ出していく。魔力の波動は既に強風と化し、辺りの物を手当たり次第に吹き飛ばさんと猛威を振るう。サイス達は生きた心地がしなかった。
「あれが攻撃ですか」
「やりすぎだよ」
「龍さん、もしかしてまだ怒ってるんでしょうか……?」
間近にいたアンはそんな龍の「本気」を感じ取り、顔から血の気を引かせていく。墓地で待機していたマンティスも同様に呆然とした表情を浮かべ、準備を進める龍の姿を絶望の眼差しで見つめる。
龍の呼び出したそれがどれほどの破壊力を生み出すのか、考えたくも無かった。
「なんだ! 何があった! この異常な魔力はなんなんだ!」
やがてギャラリーの方から力強い声が聞こえてくる。それはトランパートの一団であり、その中でも上位に位置する「絵札」の戦士達であった。不思議の国のある地点で破滅的な魔力の奔流が出現したことを感じ取った彼女達は、こうしてその魔力の発生地点に急行してきたのである。
そして今、己の目で爆心地を垣間見たトランパート達は、一瞬肝を冷やした。なぜ日本に棲息しているはずの龍がこんなところで本気を出しているのだと、唖然としたりもした。しかし彼女達はすぐに正気を取り戻し、自分達が何をすべきかを悟った。
「こらー! そこの龍! 直ちに詠唱を止めなさい!」
ハートのジャックが声をかける。龍は詠唱に夢中で気づいていない。
「駄目だ、聞こえてないみたいだ」
「こうなったら力づくで中断させるしかありませんね……!」
それを見たスペードのクイーンとクローバーのジャックが揃って言い放つ。残りの面々がそれを首肯する。
彼女達の眼前で龍が叫ぶ。
「さあ、消し飛んでしまいなさい! 必殺、怒龍爆砕撃――」
「かかれーっ!」
龍が意気揚々と技名を叫んだ直後、その彼女に向かってトランパートが一斉に跳びかかる。唐突に横から体当たりを食らい、龍がバランスを崩す。
そこでようやく、龍がトランパート達の存在に気づく。しかし気づいた時点で手遅れだった。
「このっ! 大人しくしなさい!」
「こんなアホみたいに魔力集めて! 何する気だったんですか!」
「ちょ、ちょっとやめてください! これからいいところだったんですよ!」
「やかましい! あんたやりすぎなんだよ!」
反論にも耳を貸さず、数に任せて龍を組み伏せていく。龍も抵抗しようとするが、トランパートの連携プレーになす術もない。
結局、龍はそのままお縄となった。本日二度目のデュエル中断である。
龍はその後トランパート達によってしょっぴかれ、ハートの女王の元へ連行された。何を思ったのかマッドハッターのアンもそれに同行し、サイス達は待ちぼうけを食う形になった。
「こんなグダグダしたカードゲームは初めてだな」
「普通にカードゲームした方が絶対楽しめますよね」
再度の中断を受け、サイスとエンジェルが言葉を交わす。しかしサイス達は、そのまま長時間待機するようなことにはならなかった。龍達が空間転移用のポータルを通して何処かへと消え去った僅か二分後に、また同じポータルを通ってこの場所に戻ってきたからだ。それも一人残らず、しっかり正気を保ったまま。
「女王様に私の方から説明をしたのですよ。今こういうゲームをしていて、そこでこちらの龍が張り切り過ぎただけだとね」
あまりに早い帰還を訝しむサイスに対して、アンがそう説明した。それからアンは、今アン達のやっているゲームにハートの女王が興味を見せたこと、そしてゲームの続行を女王直々に許可したことをサイス達に告げた。
面白い見世物が続くことを知った観衆は大喜びした。逃げ出した者達もちゃっかり帰ってきており、彼らもまた喜びに手を叩いていた。その一方で我を忘れ、本気で攻撃しようとしていた龍は、己を取り戻すと同時にすっかり意気消沈していた。
「まあまあ。誰にでも失敗はありますから。そんなに気落ちしないでくださいよ」
「私も同じミスしたし。おあいこ」
「は、はい……」
その龍にアンとマンティスがフォローを入れる。それが効いたのか、龍は気持ちを切り替え、前向きな心でフィールドに戻っていった。なお彼女を拘束していたトランパート達は元いた場所には帰らず、そのままギャラリーに混じってデュエルの観戦を始めた。
「では、改めて。デュエル続行です。龍さん、攻撃お願いします」
「わかりました」
再度の攻撃宣言に龍が頷く。今度は彼女は魔力を使おうとはせず、低空を浮遊しながらジャイアントアントとマーシャークの元へ進んでいった。
やがて龍が二人の元に辿り着く。そしてそこで龍は右手を振り上げ、最初にマーシャークの頭にチョップを仕掛ける。
「え、えいっ」
ぽすっ、と軽い音を立てながら、龍の手刀がマーシャークの頭頂部と接触する。そうして力ないチョップを当てた後、続けて龍はジャイアントアントに狙いを定める。
「とりゃーっ」
全く覇気の無い雄叫びと共に、龍の手刀がジャイアントアントの頭を捉える。こちらの空気の抜けるような、間抜けな音が響いた。龍からの攻撃を食らった二人は少しキョトンとした後、すぐに自分達がこの後取るべき行動が何なのかを理解する。サイスも同じタイミングでそれを察する。
「水槽は私が運びますんで、サイス様はそこで待っていてください」
さらにそれを察したジャイアントアントが、先手を取るようにサイスに告げる。そのまま彼女は台車のロックを外し、マーシャークの入った水槽を台車ごと墓地へ運んでいく。そうしてマーシャークを墓地まで運び終えた後、ジャイアントアントもまたそこに腰を落ち着ける。
モンスター二人が仲良く墓地行きになった後、ようやくサイスのライフポイントが動き出す。細長い液晶に表示された数字が勢いよく減っていき、2200で停止する。手痛いダメージを食ってしまった。それを見たサイスが思わず顔をしかめる。
そこに追い打ちをかけるようにアンが声を張り上げる。
「申し訳ありませんが、まだ私のターンは終了していませんよ。二枚目のリバースカード!」
その宣言と同時に、もう一枚の伏せカードがゆっくりと起き上がる。今度も赤い色のカードだった。イラスト部分には黒い蛇型の魔物娘が、カードを持った男を縛り上げている様が描かれていた。
「罠カード、『堕落蛇の誘い』を発動! このカードが発動に成功した時、互いのプレイヤーは持っている手札をすべて捨て、その後カードを二枚ドローする! そしてその後、自分フィールド上にこのカードを通常モンスターカード『アポピス』として、攻撃表示で特殊召喚する!」
アンがそこで説明を終える。直後、そのカードの前に光の柱が出現する。例によって柱は四散し、中からイラストにあった通りの姿をした魔物娘が出現する。
「……ふうむ、このわらわを術で呼び出すとは、いったいどこの命知らずじゃ?」
全身を黒ずんだ青で塗り固められた、蛇型の魔物娘。その目は金色に光り輝き、油断ならない眼光を放っていた。全身からも漆黒の魔力をオーラのように漲らせ、空気がまたしても――もういい加減にしてほしいものである――緊張で張り詰めていく。
そんな異様な気配を放つ魔物娘に向かって、アンが平然と声をかける。
「私があなたを呼んだのですよ、アポピス様」
「そなたが? ほう、魔物娘がわらわを呼んだと申すか」
召喚主がマッドハッターであることを知ったアポピスは、愉快そうに口の端を吊り上げた。そんなアポピスに、アンが事情を手短に説明する。
数分後、状況を理解したアポピスはとても楽しそうに高笑いした。
「アハハハハッ! 愉快愉快! なんともまあ面白そうなことをしておるのう!」
「面白そうでしょう? これ考えたのは私なのですが、我ながら上手く出来ていると思っているんですよ」
「うむ、うむ。まっこと面白き遊戯であると思うぞ。そなた、遊戯を作り出す素質があるのではないか?」
このアポピスはマッドハッターの遊び人な性質についてあまり詳しくなかった。しかしアンはそんなアポピスの言葉を、ただ微笑んで受け流した。遊び以外の面において、彼女は大人の女性だった。自分の考案したゲームを褒められて純粋に嬉しかった部分もあったのだが。
閑話休題。アンが話を続ける。
「そういうわけですので、あなたに色々と協力していただきたいのですが」
「構わんぞ。なんでもやってみせよう。最近することもなく、長いこと刺激に飢えておったのでな。退屈しのぎには丁度よいわ」
「そうですか。快諾していただき本当にありがとうございます。では早速……」
了承を得たアンは、次にアポピスにこの後の段取りを説明し始める。それを聞いて自分の立ち位置を知ったアポピスは、この後自分のするべきことを即座に飲み込んだ。
「心得た。このアポピス、見事そなたの要求に応えてみせようぞ」
「本当にありがとうございます。それではお願いしますね」
「うむ」
交渉終了。アポピスがアンから視線を離し、身を翻してサイス達と相対する。堕落の蛇からの視線を受け、サイス達が思わず身構える。
獲物を見定めたアポピスが嗜虐的な笑みを浮かべ、舌なめずりをする。そしてサイスをまっすぐ見据え、高らかに声を上げる。
「さあ人間よ、行くぞ! 我が効果を見るがよい!」
そう叫んだ直後、アポピスが両手を水平に伸ばす。金色の瞳が一層強く輝き、全身に纏う魔力が濃さを増す。
「聞け! 我はアポピス! 我が力にて、そなたらを堕落の底へと導いてくれようぞ!」
刮目して見よ! 漆黒の蛇が叫ぶ。
次の瞬間、アポピスの全身から魔力が噴き出していく。手で掴めそうな程に圧倒的な密度を持った暗黒の魔力が、アポピスを通して草原地帯を満たしていく。
「ちょっ、何してるんですかあなた!」
「カードの効果を表現しているに決まっておろう。マッドハッターよ、そなたは黙って見ているがよい」
「いや、限度ってものがですね……」
「まだまだ行くぞ! わらわの力はこんなものではないぞ!」
アポピスがますますハッスルする。黒の奔流がさらに勢いを増す。あれに触れたら何が起きるかわからないが、少なくともロクなことにはならないだろう。
そんな不気味な黒の渦が、不思議の国を容赦なく塗り潰さんと無差別に広がっていく。
「あっ、やばい」
この後の展開を予想し、サイスが顔を青くする。ジャイアントアント達も同じように血の気を引いて行く。
そんな彼らに魔力の奔流が迫る。
「危ない! 下がって!」
しかしそれがサイスと接触する直前、彼と魔力の間に絵札のトランパートが割って入る。乱入したトランパートはその場で障壁を張り、迫る魔力を左右に受け流していく。
障壁の中には墓地スペースも含まれていた。おかげでサイスの召喚した魔物娘達もアポピスの魔力から逃れることが出来ていた。生きた心地はしなかったが。
「すまん、助かった」
「礼には及びません。何があってもデュエルを中断させるなという女王様のお達しですので」
「助けられたのは事実だ。悪いな」
サイスの言葉を受けてそのトランパート、クローバーのジャックが「ありがとうございます」と微笑んでみせる。なおギャラリーの前にも複数人のトランパートが立ち、一斉に障壁を展開してアポピスの放つ魔力を防いでいた。アンの側にもトランパートが向かい、同じようにアポピスのそれを真っ向から防いで見せていた。
彼女達のおかげで、被害を被った者は皆無だった。しかし実害が出てないだけで、問題は解決していない。
「このままじゃここが別の魔界に上書きされる!」
「奴を止めるぞ! 急げ!」
そのことはトランパート達も重々承知しているようだった。障壁を張っていない面々が一か所に固まり、アポピスの垂れ流す魔力を防ぎながら彼女の元へ駆けよっていく。そしてご満悦の顔で「効果の発動」を続けるアポピスに全員でぶつかり、数に任せてそのドス黒い蛇を抑えつける。
「なっ、貴様ら! 止めんか! デュエルに水を差すつもりか!」
「水差してるのはどっちよ!」
「手を縛れ! 早くこれ止めるんだ!」
「ええい! いい加減にせぬか! わらわはあくまでカードの効果をだな……!」
「加減しなさいって言ってんのよ!」
トランパート達が大挙してアポピスに覆い被さり、邪悪な魔物娘を力任せに無力化していく。その姿は機動隊員が凶器を振り回す暴漢を取り押さえる様に似ていた。
「カードゲームでリアルファイトが始まるなんて凄いな」
「普通じゃねえよな」
「まあ、不思議の国ですから」
それを見て呆れた声を出すサイスとマーシャークに、障壁を張っていたトランパートが苦笑いを浮かべつつ答える。
「不思議の国」って本当に便利な言葉だよな。クローバーのジャックの台詞を聞いたサイスは、そう思わずにはいられなかった。
「離せ! はなせぇー! まだ効果は終わっておらぬのだぞぉぉぉ!」
やがて草原地帯を覆う黒い魔力が薄れていく。そうしてバトルフィールドが元の穏やかな景色を取り戻す中で、アポピスの悲痛な叫びが虚しく響き渡る。
これも不思議の国のなせるわざか。それを聞いたサイスは即座にそう考えた。
自分もまた「不思議の国」に毒され始めていることを、彼は少なからず自覚していた。
17/03/04 21:18更新 / 黒尻尾
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