そのろく
朝。
地平線から陽が上る。
太陽の光が窓から差し込み、薄暗い部屋を明るく照らし出す。光量と共に室温も上がり、そこに住まう者を冷たい静謐の世界から揺り起こしていく。
そんな朝が来た。あっという間に一日の始まりだ。時の経つのは速いものだ。
ベッドの上で仰向けになりながら、男はそんなことを考えた。
「……」
無言で天井を見つめる。陽光で体が暖まり、弛んだ思考が引き締まっていくのを感じる。
肉体と精神が覚醒に向かっていく。全身を巡る血液の流れが活発になり、早く起きろと動物的本能が吠える。
「起きているか?」
横から自分を呼ぶ声が聞こえてくる。視線をそちらに向けると、うつ伏せになったデオノーラの姿が視界に入る。
デオノーラは顔を横に回し、こちらをじっと見つめている。そんな彼女と視線がぶつかる。少し待って、揃って微笑み、挨拶を交わす。
「おはようございます、デオノーラ様」
「ああ、おはよう。と言っても、寝てはいないんだがな」
「すみません。習慣みたいなものでして」
「謝らなくてよい。気分を害したわけでは無いのだ」
全裸のデオノーラが全裸の男に告げる。徹夜で交わり続けた二人が、少し黙って見つめ合う。
「おはよう」
やがてデオノーラが声をかける。今度は男がそれに返す。
「おはようございます」
「……ふふ」
シーツに顔を埋めて、デオノーラが笑い声をこぼす。男が「どうかしましたか?」と問い、顔を埋めたままデオノーラが答える。
「いや、こんな形で異性と挨拶をするのは初めてでな……」
「こんな形?」
「……鈍感め、察しよ。それともあれか? 私が男ならば誰とでもこうする尻軽と思っているのか」
「あっ」
女王の言いたいことを理解した男の顔が真っ赤になる。そして昨夜のことを今更思い出し、咄嗟に視線を逸らす男に、デオノーラがため息交じりに言う。
「酷い奴だ。あんなに愛し合ったというのに。これでは貴様を嫌いになってしまうかもしれんな」
「そ、そんな……!」
「冗談だ」
狼狽える男をデオノーラが一刀に伏す。きっぱり言われた男が、視線をデオノーラに戻す。
視界の先にいるデオノーラは微笑んでいた。いたずらっ子が浮かべるような、意地の悪い笑みだった。
弄ばれていると感じた男が、ほんの僅か顔をしかめた。それを見たデオノーラが小さく笑い、申し訳なさそうに言った。
「すまぬ。少々からかってみたくなったのだ。貴様こういうことには免疫がなさそうだったからな」
「もう、ずるいですよデオノーラ様」
「わかっている。本当にすまぬことをした」
だから。
デオノーラが不意に顔を近づける。
何事かと思う男の唇に、デオノーラの唇が重なる。
「――!」
「ん……」
互いのそれを軽く触れ合わせるだけの、児戯のようなキス。だが不意打ちも相まって、破壊力は抜群だった。
男が驚きに目を見開く。デオノーラは身じろぎもせず、一心にフレンチキスを続ける。
「……ぷはっ」
数秒後、デオノーラが顔を離す。舌も唾液も交わさないが故に、両者の唇は乾いたままだった。
そんなかさついた自分の唇に指先を添え、デオノーラが恥ずかしげに言う。
「だ、だから、これで許してほしい……」
「……」
「だめ、か?」
慣れないことをして、デオノーラの顔は真っ赤だった。恥のあまり相手の顔を直視できず、上目遣いで男を見やる。
あざとい。それはずるい。
「ずるいですよ、デオノーラ様……」
悔しそうに男が呟く。こんなの勝てるわけが無い。
結局男は、デオノーラのお茶目を許した。
そんな可愛い姿を見せられたら、許すしかないではないか。
そんなこんなを経て、二人はベッドから降りた。全裸のままなのは言うまでもない。
この時ベッドシーツは二人の水分でぐしゃぐしゃに濡れており、それを見た男は申し訳ない事をしたと少し反省した。
「気に病むことはない。元よりここはそういう場所なのだ」
すかさずデオノーラがフォローに入る。男は彼女の言葉を聞き、すぐにここが「普通の宿」ではないことを思い出した。
「どうした? 私との情事に夢中になって、他のことが全て頭から抜け落ちたか?」
再びデオノーラが茶々を入れる。しかしそれは事実なので、真っ向から否定することは出来なかった。
「そ、その通りです……」
男は素直に肯定した。直後、デオノーラの動きが止まる。
想定外の反撃に、今度は彼女が羞恥する番だった。
「そ、そうか」
やがてデオノーラが言葉を絞り出す。少しして、デオノーラが男に尋ねる。
「その……私との性交は……そんなに良かったか……?」
「……」
男は無言で首を縦に振った。
デオノーラの身体が一気に熱を帯びていく。
「そうか……」
数時間前に注ぎ込まれた精液が潮と共に割れ目から漏れ出す。
デオノーラの魔力に当てられ、男の肉棒が再び天へ向かって屹立する。
「私は……私でも、貴様を満足させられたのだな……」
全裸で男と向かい合いながら、デオノーラが感慨深げに呟く。男は再び首を縦に振り、続けてデオノーラに問い返す。
「デオノーラ様はどうですか? 俺、ちゃんと満足させられましたか……?」
男がまっすぐ見つめる。デオノーラが大きく頷く。
デオノーラの手が伸び、男の頭を撫でる。
「良かったぞ」
「あ――」
「私は、初めての相手が貴様で、本当に良かったと思っている」
優しく、慈しむように撫でながら、デオノーラが己の本心を男にぶつける。
「大丈夫だ。貴様の愛は、確かに私の心に届いている」
女王が静かに、そして確固たる言葉で宣言する。
男の心臓が跳ねる。
デオノーラの口から吐息が漏れる。
割れ目から愛液が漏れ、腿を伝って床を濡らす。
「……今、その愛を貰ってもいいか?」
我慢しきれずにデオノーラが尋ねる。魔物娘に自制を求めるのは野暮だ。
男も既にそれを承知していた。抵抗せず――抵抗することすら脳裡に抱かず――デオノーラの望みに首肯で答える。
「シャワー浴びながらしましょう」
あまつさえ自分から提案していく。デオノーラも頷き返し、頭から手を離して男の手を握る。
男がそれを握り返す。指を絡め、両手を握り、肩を密着させバスルームへ向かう。
遠慮も拒絶もない。道徳も倫理も投げ捨てる。今はただ愛が欲しい。
「お手柔らかにお願いしますね」
「善処しよう」
初夜を通し、二人の心は、握られた手よりも固く繋がっていた。
二人がバスルームで二回戦を終えた時、時刻は午後一時を指していた。
「すっかりこんな時間になってしまったな」
「張り切りすぎましたね」
結局二人がチェックアウトしたのは、時計が午後二時を指した頃だった。なお受付に鍵を返却する際、どこか火照った様子の二人を見た受付が「朝からお楽しみでしたね」と問いかけてきたが、男もデオノーラもノーコメントを貫いた。
昨日今日の話題で軽口を叩ける余裕は、まだ二人は持ち合わせていなかった。
「それで、今日はこの後何か予定があるのか?」
話を戻す。竜翼通りに戻った二人はそこにある小さいカフェで遅めのブランチを摂り、そしてその最中にデオノーラが男に尋ねた。
もう帰るつもりなのか。竜の女王は言外にそう告げていた。
「そうですね……最初はちょっと回って、一泊したら帰る予定でした」
彼女の本心を察した男は正直に答えた。言葉を濁すよりはっきり伝えた方がいい。そう考えての発言だった。
一方でそれを聞いたデオノーラは、あからさまに落胆した。肩を落とし、俯いた表情に寂しさを漂わせる。
「そうか……そういう予定だったのか……」
そういう予定なら仕方ないな。
デオノーラが割り切るように言う。
顔が曇っている。まったく割り切れていない。
男が慌てて言葉を付け加える。
「あっ、で、でも、今はちょっと考えが変わったっていうか、スケジュール変更したくなったなっていうか……」
「本当か!?」
即座にデオノーラが食いつく。素晴らしい反応の良さである。
若干それに気圧されつつ、男が頷いて答える。
「は、はい……もうちょっとここにいたいなって、思うようになりました」
「そうか……そうかぁ……!」
男の反応を受け、一語一語を噛み締めるようにデオノーラが言う。実に嬉しそうだ。
わかりやすいことこの上ないが、ここまで表に出してくれるとこちらも嬉しくなってくる。だから男はそれを不快に思わず、自分も表情を緩めて彼女に言った。
「はい。ですからその、どこかおすすめのスポットがあれば、教えていただきたいんですけど」
「そういうことなら任せよ。いい場所を知っている」
デオノーラが即答する。男はまたも気圧されたが、すぐに気を取り直して彼女に問う。
「それってどこですか?」
「行ってからのお楽しみだ。私を信じて、一緒に来てほしい」
「はあ……」
何をするつもりなのだろう。男は怪訝に思った。しかしこの時の男は完全にデオノーラを信じていたので、それ以上変に疑うことはしなかった。
「わかりました。ついていきます」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」
そんな男の決定を、デオノーラは嬉しく思った。そして女王は微笑みながら、テーブルに視線を移して言った。
「では早く食べてしまおう。残すのは良くないからな」
ここで男は、自分達が食事中だったことを思い出した。
食事を終え、会計を済ませた後、男は早速デオノーラに尋ねた。
「それで、これからどこに行くんですか?」
「うむ。それはな」
デオノーラはそこまで言って、言葉を切った。回答を中断したデオノーラを見て男が怪訝に思っていると、彼の眼前で唐突にデオノーラが翼を開いた。
「えっ?」
「飛ぶぞ」
驚く男の手を掴み、デオノーラが自分の元へ引き寄せる。そして彼の腰に手を回し、胸元に寄せ、彼を横向きに抱き上げる。
俗に言うお姫様抱っこである。
「えっ」
「しっかり捕まっているがよい」
状況を把握できていない男に、デオノーラが平然と告げる。直後、デオノーラが翼をはためかせ、直立姿勢のままふわりと宙に浮く。
これから彼女のすることを察した男が、慌ててデオノーラの首に両手を回して体を固定する。男の心臓の鼓動を鎖骨越しに感じながら、デオノーラが翼を広げて身を屈める。
縮んだ身体をまっすぐ伸ばす。同時に広げた翼を再度はためかせる。
肉体の地力と内包する魔力が混ざり合い、爆発的上昇力が産声を上げる。大の男を抱えたドラゴンが衝撃音を足元に置き去り、一飛びで高高度へ進出する。
「わっ、わっ!」
「大丈夫、私を信じろ!」
驚き慌てる男にデオノーラが強く言い放つ。それだけでパニックが消え失せ、男の精神が平静を取り戻す。
好きになった人が大丈夫と言うのだ。これ以上に心強いことがあるだろうか。
「行くぞ!」
デオノーラが叫ぶ。男が彼女の首に回した両手に力を込める。
ドラゴンが狙いを定め、広げた翼で大気を叩く。前を見つめて背筋を伸ばし、紅蓮の竜が空を駆ける。
そのデオノーラの顔を、男はじっと見つめていた。彼はそれだけを見つめ続けた。外の景色や眼下の街並みは文字通り眼中になく、ただ女王の表情のみを、彼は目に焼き付けた。
「こそばゆいな」
その視線に気づいたデオノーラが、前を見たまま男に言う。その顔は嬉しそうに微笑んでいた。
駄目ですか? 力を抜いた状態で男が問う。微笑みながらデオノーラが答える。
「いや、見ていてくれ」
それだけ言って口を閉ざす。男も応えず、無言で見つめ続ける。
今の二人に、それ以上の受け答えは必要なかった。そうして好いた人間の想いを受け止めながら、ドラゴンは空を軽やかに飛び続けた。
数分の飛行の後、デオノーラがその勢いを弱めて地に足をつける。遅れて男がデオノーラから離れ、よろめきながらも両足で立つ。
「ここは……」
「我が居城だ」
男からの問いにデオノーラが答える。彼女は固く閉ざされた大門を背に立ち、男に言葉を投げかけた。
「ここに貴様を招きたかったのだ」
「この……城に?」
「そうだ」
デオノーラが腕を組んで頷く。視線で続きを求める男に、デオノーラが言葉を放つ。
「単刀直入に言う。私の物になれ」
デオノーラはテンションを変えずに言いきった。男は少しだけびっくりした。こうなることは薄々予想していたし、期待もしていたからだ。
しかし目に見えて動揺することのない男を見て、デオノーラは面白くなさそうに顔をしかめた。
「なんだそのリアクションは。もっと驚いてくれないと張り合いが無いだろう」
「いや、でもその、こういうことになるんじゃないかなって思ってたんで……」
「期待していたというのか? この助平め」
デオノーラが口を尖らせる。思わぬ反撃を食らった男は今度こそ動揺し、負けじとデオノーラに言い返す。
「じゃあデオノーラ様は、ここで俺が嫌ですって言ってもいいんですね?」
「えっ」
効果覿面だった。それを聞いたデオノーラは一瞬で表情を曇らせ、置き去りにされた犬のようにしゅんとした顔を見せた。
「……本当にそういうこと言うのか……?」
あっ。やばい。効きすぎた。
わかりやすいほど絶望するデオノーラを見て、男が己の軽率さに後悔する。そして慌てたように両手を振り、大急ぎで弁解する。
「違う! 違います! そんなこと言うわけないじゃないですか!」
「本当か……?」
「本当です! 本当ですって! 俺もデオノーラ様と一緒にいたいです!」
勢いのままに言ってのける。そして言い終えた後、息を整え、姿勢を正して改めて宣言する。
「……俺は、デオノーラ様と一緒にいたいです」
「あ……」
「デオノーラ様はどうですか? 本当に俺と一緒にいたいですか?」
男が縋るように問い返す。デオノーラは開きかけた口を閉ざし、男に向かってまっすぐ歩く。
男の眼前にデオノーラが立つ。二人が自然と目を合わせ、デオノーラが男の頬にそっと手を添える。
「いたいさ」
慈しむような眼で男を見つめながら、デオノーラが静かに答える。
「だからここまで貴様を招いたのだ。そもそも最初にそう言ったではないか」
「ごめんなさい。ちょっと意地悪したくなっちゃいました」
「こいつめ」
悪びれもせずに言いきる男の頬を、デオノーラが掌でぺちぺち叩く。二人を包む空気は弛緩し、それまであった緊張や動揺は完全に風化していた。
その緩く暖かい雰囲気の中で、デオノーラがそっと男を抱き寄せる。
「竜を弄ぶとは、貴様は悪い人間だな」
大好きな男を抱き締めつつ、デオノーラが軽口を叩く。そのデオノーラの背中に両手を回し、男がそれに答える。
「あなたが可愛らしいのがいけないんです」
「他人のせいにするのか。なんて悪どい人間なんだ」
「事実じゃないですか。デオノーラ様が可愛いのがいけないんですよ」
「馬鹿者。軽はずみに可愛いなどと言うな。私は女王なのだぞ」
「いいじゃないですか。今は俺達以外誰もいないんですから」
構うものかと言わんばかりに、男がそう答えてデオノーラの胸元に顔を埋める。その感触にくすぐったさと愛おしさを覚えつつ、デオノーラがそれに反論する。
「……本当に誰もいないと思っているのか?」
「えっ?」
「なら見せてやろう」
思わず顔を上げる男の前で、デオノーラがおもむろに片手を挙げる。そして腕を動かして自分の顔の真横に手を置き、男に見えるように指を鳴らす。
直後、彼女の背後にあった大門が音を立てて開かれる。それと同時に、様々な格好をした竜属の魔物娘達が、雪崩を起こしたように奥から溢れ出してくる。
デオノーラが男を抱き締めたまま、身体を横に向ける。男がデオノーラに抱きついたまま、顔を横に回してその光景を凝視する。
「へ?」
扉の奥から悲鳴と共に現れた大群を見て、男が目を丸くする。小さくため息をつきながらデオノーラが言う。
「私に恋人が出来た、というだけでこの有様だ」
「あの、彼女たちは、あれ?」
「城の使用人、付き人、近衛騎士、他所から来た客人。要するに、我が城に身を寄せる者達だ」
ただの野次馬だよ。デオノーラが苦笑交じりに答える。すぐさまその「野次馬」の中から声が飛んでくる。
「いいじゃないですかー! せっかくデオノーラ様に春が来たんですよ!? お祝いしてもいいじゃないですかー!」
「出歯亀をしてたやつが偉そうに言うな。そもそもどうしてもう広まっているのだ? 私がこの男と愛を交わしたのは昨夜のことだぞ?」
「僭越ながらデオノーラ様。このドラゴニアで色恋沙汰を隠し通せるとお思いですか?」
腰に剣を佩き、金属製の鎧で身を包んだドラゴン属の女性が、地面に倒れたままデオノーラに言い返す。それを聞いた男とデオノーラは、このドラゴニアがどのような場所なのかを今更のように思い出す。
「そう言えば竜種の人たちって、結構速く空飛べるんでしたっけ」
「個体と訓練によるが、その気になれば弓矢のように素早く飛ぶ者もいるな」
「夜の内に空を飛んで、夜明け前に町から城へ着くことも?」
「余裕で出来るだろう」
迂闊だった。デオノーラがこぼす。言葉のわりに、あまり後悔してないように見える。
「なんだか嬉しそうですね」
「そう見えるか? まあ、我が恋人を披露してみせるというのは、あまり悪い気はしないな」
男の問いにそう答え、デオノーラが彼を一層強く抱き寄せる。崩れ落ちたままの群衆から黄色い悲鳴が飛ぶ。
艶めいた叫びを聞いた男が顔を赤くする。
「恥ずかしいです」
「今更だぞ。それにこれから、貴様は私の伴侶になるのだ。もっと胆力を鍛えてもらわねば困る」
伴侶。その言葉を聞いた男が背筋を震わせる。
その身震いに目敏く気づいたデオノーラが、からかうように男に言い放つ。
「これからのことを想像して緊張しているのか」
「それはまあ緊張しますよ」
「ではその緊張を、今ほぐしてやるとしよう」
「なにを」
言いかけた男の口を唇で塞ぐ。
男の顔にデオノーラの顔が覆い被さり、互いの唇が隙間なく結合する。
「――!」
「ん……」
驚く男の前で、デオノーラが色気のある声を漏らす。群衆が一斉に押し黙り、目の前の光景に釘付けになる。
突然のキスは、そのまま一分ほど続いた。
「……ぷはっ」
たっぷり一分間、愛する男の唇を堪能したデオノーラが、顔を離して満足げな表情を見せる。キスの不意打ちを食らった男は顔面から感情を消し、崩れた面々も同じように唖然として成り行きを見守る。
その中にあってただ一人余裕を持ち続けたデオノーラが、男の顎を持ち上げ彼に宣告する。
「もう逃がさないぞ」
「あ……」
「貴様はもう、私のものだ」
場を再び黄色い悲鳴が支配するのに、そう時間はかからなかった。
地平線から陽が上る。
太陽の光が窓から差し込み、薄暗い部屋を明るく照らし出す。光量と共に室温も上がり、そこに住まう者を冷たい静謐の世界から揺り起こしていく。
そんな朝が来た。あっという間に一日の始まりだ。時の経つのは速いものだ。
ベッドの上で仰向けになりながら、男はそんなことを考えた。
「……」
無言で天井を見つめる。陽光で体が暖まり、弛んだ思考が引き締まっていくのを感じる。
肉体と精神が覚醒に向かっていく。全身を巡る血液の流れが活発になり、早く起きろと動物的本能が吠える。
「起きているか?」
横から自分を呼ぶ声が聞こえてくる。視線をそちらに向けると、うつ伏せになったデオノーラの姿が視界に入る。
デオノーラは顔を横に回し、こちらをじっと見つめている。そんな彼女と視線がぶつかる。少し待って、揃って微笑み、挨拶を交わす。
「おはようございます、デオノーラ様」
「ああ、おはよう。と言っても、寝てはいないんだがな」
「すみません。習慣みたいなものでして」
「謝らなくてよい。気分を害したわけでは無いのだ」
全裸のデオノーラが全裸の男に告げる。徹夜で交わり続けた二人が、少し黙って見つめ合う。
「おはよう」
やがてデオノーラが声をかける。今度は男がそれに返す。
「おはようございます」
「……ふふ」
シーツに顔を埋めて、デオノーラが笑い声をこぼす。男が「どうかしましたか?」と問い、顔を埋めたままデオノーラが答える。
「いや、こんな形で異性と挨拶をするのは初めてでな……」
「こんな形?」
「……鈍感め、察しよ。それともあれか? 私が男ならば誰とでもこうする尻軽と思っているのか」
「あっ」
女王の言いたいことを理解した男の顔が真っ赤になる。そして昨夜のことを今更思い出し、咄嗟に視線を逸らす男に、デオノーラがため息交じりに言う。
「酷い奴だ。あんなに愛し合ったというのに。これでは貴様を嫌いになってしまうかもしれんな」
「そ、そんな……!」
「冗談だ」
狼狽える男をデオノーラが一刀に伏す。きっぱり言われた男が、視線をデオノーラに戻す。
視界の先にいるデオノーラは微笑んでいた。いたずらっ子が浮かべるような、意地の悪い笑みだった。
弄ばれていると感じた男が、ほんの僅か顔をしかめた。それを見たデオノーラが小さく笑い、申し訳なさそうに言った。
「すまぬ。少々からかってみたくなったのだ。貴様こういうことには免疫がなさそうだったからな」
「もう、ずるいですよデオノーラ様」
「わかっている。本当にすまぬことをした」
だから。
デオノーラが不意に顔を近づける。
何事かと思う男の唇に、デオノーラの唇が重なる。
「――!」
「ん……」
互いのそれを軽く触れ合わせるだけの、児戯のようなキス。だが不意打ちも相まって、破壊力は抜群だった。
男が驚きに目を見開く。デオノーラは身じろぎもせず、一心にフレンチキスを続ける。
「……ぷはっ」
数秒後、デオノーラが顔を離す。舌も唾液も交わさないが故に、両者の唇は乾いたままだった。
そんなかさついた自分の唇に指先を添え、デオノーラが恥ずかしげに言う。
「だ、だから、これで許してほしい……」
「……」
「だめ、か?」
慣れないことをして、デオノーラの顔は真っ赤だった。恥のあまり相手の顔を直視できず、上目遣いで男を見やる。
あざとい。それはずるい。
「ずるいですよ、デオノーラ様……」
悔しそうに男が呟く。こんなの勝てるわけが無い。
結局男は、デオノーラのお茶目を許した。
そんな可愛い姿を見せられたら、許すしかないではないか。
そんなこんなを経て、二人はベッドから降りた。全裸のままなのは言うまでもない。
この時ベッドシーツは二人の水分でぐしゃぐしゃに濡れており、それを見た男は申し訳ない事をしたと少し反省した。
「気に病むことはない。元よりここはそういう場所なのだ」
すかさずデオノーラがフォローに入る。男は彼女の言葉を聞き、すぐにここが「普通の宿」ではないことを思い出した。
「どうした? 私との情事に夢中になって、他のことが全て頭から抜け落ちたか?」
再びデオノーラが茶々を入れる。しかしそれは事実なので、真っ向から否定することは出来なかった。
「そ、その通りです……」
男は素直に肯定した。直後、デオノーラの動きが止まる。
想定外の反撃に、今度は彼女が羞恥する番だった。
「そ、そうか」
やがてデオノーラが言葉を絞り出す。少しして、デオノーラが男に尋ねる。
「その……私との性交は……そんなに良かったか……?」
「……」
男は無言で首を縦に振った。
デオノーラの身体が一気に熱を帯びていく。
「そうか……」
数時間前に注ぎ込まれた精液が潮と共に割れ目から漏れ出す。
デオノーラの魔力に当てられ、男の肉棒が再び天へ向かって屹立する。
「私は……私でも、貴様を満足させられたのだな……」
全裸で男と向かい合いながら、デオノーラが感慨深げに呟く。男は再び首を縦に振り、続けてデオノーラに問い返す。
「デオノーラ様はどうですか? 俺、ちゃんと満足させられましたか……?」
男がまっすぐ見つめる。デオノーラが大きく頷く。
デオノーラの手が伸び、男の頭を撫でる。
「良かったぞ」
「あ――」
「私は、初めての相手が貴様で、本当に良かったと思っている」
優しく、慈しむように撫でながら、デオノーラが己の本心を男にぶつける。
「大丈夫だ。貴様の愛は、確かに私の心に届いている」
女王が静かに、そして確固たる言葉で宣言する。
男の心臓が跳ねる。
デオノーラの口から吐息が漏れる。
割れ目から愛液が漏れ、腿を伝って床を濡らす。
「……今、その愛を貰ってもいいか?」
我慢しきれずにデオノーラが尋ねる。魔物娘に自制を求めるのは野暮だ。
男も既にそれを承知していた。抵抗せず――抵抗することすら脳裡に抱かず――デオノーラの望みに首肯で答える。
「シャワー浴びながらしましょう」
あまつさえ自分から提案していく。デオノーラも頷き返し、頭から手を離して男の手を握る。
男がそれを握り返す。指を絡め、両手を握り、肩を密着させバスルームへ向かう。
遠慮も拒絶もない。道徳も倫理も投げ捨てる。今はただ愛が欲しい。
「お手柔らかにお願いしますね」
「善処しよう」
初夜を通し、二人の心は、握られた手よりも固く繋がっていた。
二人がバスルームで二回戦を終えた時、時刻は午後一時を指していた。
「すっかりこんな時間になってしまったな」
「張り切りすぎましたね」
結局二人がチェックアウトしたのは、時計が午後二時を指した頃だった。なお受付に鍵を返却する際、どこか火照った様子の二人を見た受付が「朝からお楽しみでしたね」と問いかけてきたが、男もデオノーラもノーコメントを貫いた。
昨日今日の話題で軽口を叩ける余裕は、まだ二人は持ち合わせていなかった。
「それで、今日はこの後何か予定があるのか?」
話を戻す。竜翼通りに戻った二人はそこにある小さいカフェで遅めのブランチを摂り、そしてその最中にデオノーラが男に尋ねた。
もう帰るつもりなのか。竜の女王は言外にそう告げていた。
「そうですね……最初はちょっと回って、一泊したら帰る予定でした」
彼女の本心を察した男は正直に答えた。言葉を濁すよりはっきり伝えた方がいい。そう考えての発言だった。
一方でそれを聞いたデオノーラは、あからさまに落胆した。肩を落とし、俯いた表情に寂しさを漂わせる。
「そうか……そういう予定だったのか……」
そういう予定なら仕方ないな。
デオノーラが割り切るように言う。
顔が曇っている。まったく割り切れていない。
男が慌てて言葉を付け加える。
「あっ、で、でも、今はちょっと考えが変わったっていうか、スケジュール変更したくなったなっていうか……」
「本当か!?」
即座にデオノーラが食いつく。素晴らしい反応の良さである。
若干それに気圧されつつ、男が頷いて答える。
「は、はい……もうちょっとここにいたいなって、思うようになりました」
「そうか……そうかぁ……!」
男の反応を受け、一語一語を噛み締めるようにデオノーラが言う。実に嬉しそうだ。
わかりやすいことこの上ないが、ここまで表に出してくれるとこちらも嬉しくなってくる。だから男はそれを不快に思わず、自分も表情を緩めて彼女に言った。
「はい。ですからその、どこかおすすめのスポットがあれば、教えていただきたいんですけど」
「そういうことなら任せよ。いい場所を知っている」
デオノーラが即答する。男はまたも気圧されたが、すぐに気を取り直して彼女に問う。
「それってどこですか?」
「行ってからのお楽しみだ。私を信じて、一緒に来てほしい」
「はあ……」
何をするつもりなのだろう。男は怪訝に思った。しかしこの時の男は完全にデオノーラを信じていたので、それ以上変に疑うことはしなかった。
「わかりました。ついていきます」
「ありがとう。そう言ってくれて嬉しい」
そんな男の決定を、デオノーラは嬉しく思った。そして女王は微笑みながら、テーブルに視線を移して言った。
「では早く食べてしまおう。残すのは良くないからな」
ここで男は、自分達が食事中だったことを思い出した。
食事を終え、会計を済ませた後、男は早速デオノーラに尋ねた。
「それで、これからどこに行くんですか?」
「うむ。それはな」
デオノーラはそこまで言って、言葉を切った。回答を中断したデオノーラを見て男が怪訝に思っていると、彼の眼前で唐突にデオノーラが翼を開いた。
「えっ?」
「飛ぶぞ」
驚く男の手を掴み、デオノーラが自分の元へ引き寄せる。そして彼の腰に手を回し、胸元に寄せ、彼を横向きに抱き上げる。
俗に言うお姫様抱っこである。
「えっ」
「しっかり捕まっているがよい」
状況を把握できていない男に、デオノーラが平然と告げる。直後、デオノーラが翼をはためかせ、直立姿勢のままふわりと宙に浮く。
これから彼女のすることを察した男が、慌ててデオノーラの首に両手を回して体を固定する。男の心臓の鼓動を鎖骨越しに感じながら、デオノーラが翼を広げて身を屈める。
縮んだ身体をまっすぐ伸ばす。同時に広げた翼を再度はためかせる。
肉体の地力と内包する魔力が混ざり合い、爆発的上昇力が産声を上げる。大の男を抱えたドラゴンが衝撃音を足元に置き去り、一飛びで高高度へ進出する。
「わっ、わっ!」
「大丈夫、私を信じろ!」
驚き慌てる男にデオノーラが強く言い放つ。それだけでパニックが消え失せ、男の精神が平静を取り戻す。
好きになった人が大丈夫と言うのだ。これ以上に心強いことがあるだろうか。
「行くぞ!」
デオノーラが叫ぶ。男が彼女の首に回した両手に力を込める。
ドラゴンが狙いを定め、広げた翼で大気を叩く。前を見つめて背筋を伸ばし、紅蓮の竜が空を駆ける。
そのデオノーラの顔を、男はじっと見つめていた。彼はそれだけを見つめ続けた。外の景色や眼下の街並みは文字通り眼中になく、ただ女王の表情のみを、彼は目に焼き付けた。
「こそばゆいな」
その視線に気づいたデオノーラが、前を見たまま男に言う。その顔は嬉しそうに微笑んでいた。
駄目ですか? 力を抜いた状態で男が問う。微笑みながらデオノーラが答える。
「いや、見ていてくれ」
それだけ言って口を閉ざす。男も応えず、無言で見つめ続ける。
今の二人に、それ以上の受け答えは必要なかった。そうして好いた人間の想いを受け止めながら、ドラゴンは空を軽やかに飛び続けた。
数分の飛行の後、デオノーラがその勢いを弱めて地に足をつける。遅れて男がデオノーラから離れ、よろめきながらも両足で立つ。
「ここは……」
「我が居城だ」
男からの問いにデオノーラが答える。彼女は固く閉ざされた大門を背に立ち、男に言葉を投げかけた。
「ここに貴様を招きたかったのだ」
「この……城に?」
「そうだ」
デオノーラが腕を組んで頷く。視線で続きを求める男に、デオノーラが言葉を放つ。
「単刀直入に言う。私の物になれ」
デオノーラはテンションを変えずに言いきった。男は少しだけびっくりした。こうなることは薄々予想していたし、期待もしていたからだ。
しかし目に見えて動揺することのない男を見て、デオノーラは面白くなさそうに顔をしかめた。
「なんだそのリアクションは。もっと驚いてくれないと張り合いが無いだろう」
「いや、でもその、こういうことになるんじゃないかなって思ってたんで……」
「期待していたというのか? この助平め」
デオノーラが口を尖らせる。思わぬ反撃を食らった男は今度こそ動揺し、負けじとデオノーラに言い返す。
「じゃあデオノーラ様は、ここで俺が嫌ですって言ってもいいんですね?」
「えっ」
効果覿面だった。それを聞いたデオノーラは一瞬で表情を曇らせ、置き去りにされた犬のようにしゅんとした顔を見せた。
「……本当にそういうこと言うのか……?」
あっ。やばい。効きすぎた。
わかりやすいほど絶望するデオノーラを見て、男が己の軽率さに後悔する。そして慌てたように両手を振り、大急ぎで弁解する。
「違う! 違います! そんなこと言うわけないじゃないですか!」
「本当か……?」
「本当です! 本当ですって! 俺もデオノーラ様と一緒にいたいです!」
勢いのままに言ってのける。そして言い終えた後、息を整え、姿勢を正して改めて宣言する。
「……俺は、デオノーラ様と一緒にいたいです」
「あ……」
「デオノーラ様はどうですか? 本当に俺と一緒にいたいですか?」
男が縋るように問い返す。デオノーラは開きかけた口を閉ざし、男に向かってまっすぐ歩く。
男の眼前にデオノーラが立つ。二人が自然と目を合わせ、デオノーラが男の頬にそっと手を添える。
「いたいさ」
慈しむような眼で男を見つめながら、デオノーラが静かに答える。
「だからここまで貴様を招いたのだ。そもそも最初にそう言ったではないか」
「ごめんなさい。ちょっと意地悪したくなっちゃいました」
「こいつめ」
悪びれもせずに言いきる男の頬を、デオノーラが掌でぺちぺち叩く。二人を包む空気は弛緩し、それまであった緊張や動揺は完全に風化していた。
その緩く暖かい雰囲気の中で、デオノーラがそっと男を抱き寄せる。
「竜を弄ぶとは、貴様は悪い人間だな」
大好きな男を抱き締めつつ、デオノーラが軽口を叩く。そのデオノーラの背中に両手を回し、男がそれに答える。
「あなたが可愛らしいのがいけないんです」
「他人のせいにするのか。なんて悪どい人間なんだ」
「事実じゃないですか。デオノーラ様が可愛いのがいけないんですよ」
「馬鹿者。軽はずみに可愛いなどと言うな。私は女王なのだぞ」
「いいじゃないですか。今は俺達以外誰もいないんですから」
構うものかと言わんばかりに、男がそう答えてデオノーラの胸元に顔を埋める。その感触にくすぐったさと愛おしさを覚えつつ、デオノーラがそれに反論する。
「……本当に誰もいないと思っているのか?」
「えっ?」
「なら見せてやろう」
思わず顔を上げる男の前で、デオノーラがおもむろに片手を挙げる。そして腕を動かして自分の顔の真横に手を置き、男に見えるように指を鳴らす。
直後、彼女の背後にあった大門が音を立てて開かれる。それと同時に、様々な格好をした竜属の魔物娘達が、雪崩を起こしたように奥から溢れ出してくる。
デオノーラが男を抱き締めたまま、身体を横に向ける。男がデオノーラに抱きついたまま、顔を横に回してその光景を凝視する。
「へ?」
扉の奥から悲鳴と共に現れた大群を見て、男が目を丸くする。小さくため息をつきながらデオノーラが言う。
「私に恋人が出来た、というだけでこの有様だ」
「あの、彼女たちは、あれ?」
「城の使用人、付き人、近衛騎士、他所から来た客人。要するに、我が城に身を寄せる者達だ」
ただの野次馬だよ。デオノーラが苦笑交じりに答える。すぐさまその「野次馬」の中から声が飛んでくる。
「いいじゃないですかー! せっかくデオノーラ様に春が来たんですよ!? お祝いしてもいいじゃないですかー!」
「出歯亀をしてたやつが偉そうに言うな。そもそもどうしてもう広まっているのだ? 私がこの男と愛を交わしたのは昨夜のことだぞ?」
「僭越ながらデオノーラ様。このドラゴニアで色恋沙汰を隠し通せるとお思いですか?」
腰に剣を佩き、金属製の鎧で身を包んだドラゴン属の女性が、地面に倒れたままデオノーラに言い返す。それを聞いた男とデオノーラは、このドラゴニアがどのような場所なのかを今更のように思い出す。
「そう言えば竜種の人たちって、結構速く空飛べるんでしたっけ」
「個体と訓練によるが、その気になれば弓矢のように素早く飛ぶ者もいるな」
「夜の内に空を飛んで、夜明け前に町から城へ着くことも?」
「余裕で出来るだろう」
迂闊だった。デオノーラがこぼす。言葉のわりに、あまり後悔してないように見える。
「なんだか嬉しそうですね」
「そう見えるか? まあ、我が恋人を披露してみせるというのは、あまり悪い気はしないな」
男の問いにそう答え、デオノーラが彼を一層強く抱き寄せる。崩れ落ちたままの群衆から黄色い悲鳴が飛ぶ。
艶めいた叫びを聞いた男が顔を赤くする。
「恥ずかしいです」
「今更だぞ。それにこれから、貴様は私の伴侶になるのだ。もっと胆力を鍛えてもらわねば困る」
伴侶。その言葉を聞いた男が背筋を震わせる。
その身震いに目敏く気づいたデオノーラが、からかうように男に言い放つ。
「これからのことを想像して緊張しているのか」
「それはまあ緊張しますよ」
「ではその緊張を、今ほぐしてやるとしよう」
「なにを」
言いかけた男の口を唇で塞ぐ。
男の顔にデオノーラの顔が覆い被さり、互いの唇が隙間なく結合する。
「――!」
「ん……」
驚く男の前で、デオノーラが色気のある声を漏らす。群衆が一斉に押し黙り、目の前の光景に釘付けになる。
突然のキスは、そのまま一分ほど続いた。
「……ぷはっ」
たっぷり一分間、愛する男の唇を堪能したデオノーラが、顔を離して満足げな表情を見せる。キスの不意打ちを食らった男は顔面から感情を消し、崩れた面々も同じように唖然として成り行きを見守る。
その中にあってただ一人余裕を持ち続けたデオノーラが、男の顎を持ち上げ彼に宣告する。
「もう逃がさないぞ」
「あ……」
「貴様はもう、私のものだ」
場を再び黄色い悲鳴が支配するのに、そう時間はかからなかった。
20/06/29 21:03更新 / 黒尻尾
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