そのさん
「恋がしたかったのだ」
逆鱗亭でも一件の後、デオノーラは自分の本当の素性と、身分を偽ってガイドをした理由を男に教えた。
後者の理由は実に「らしい」ものだった。
「最近、周りの友人がどんどん結婚していってな。それでその、なんだ、あれだ……」
「焦ったんですね?」
「う、うん。そうだ。そう言うことも出来るな。はっきり言うと、私もいい加減つがいが欲しかったのだ」
湯船に浸かり、両手でお湯を掬い上げながら、デオノーラがしおらしく呟く。隣で浸かる男は、そんなデオノーラの横顔をじっと見つめていた。
二人は入浴していた。服を脱ぎ、隣合って肩まで浸かっていた。「竜泉郷」と呼ばれる、ドラゴニアの隣にある一大温泉スポットに、食事を終えた二人は足を運んでいたのだった。
彼らが利用していたのは、その竜泉郷の中にある温泉宿の一つであった。そこは小さな宿で、「比較的」常人に性的影響を及ぼさない穏やかな温泉を売りにしていた。といっても場所が場所なので、影響が出る時は出るのだが。
「しかし女王のまま婚活をしては、大半の人間はその権威に恐れをなしてしまうだろうと、友人から忠告を受けたのでな。ならばと思って新人ガイドとなり、良き伴侶となれる人間を探そうと思ったのだ」
「地位が高いのも楽じゃないってことですね」
「そういうことだな。だが言っておくが、私は女王の座を降りるつもりはないぞ」
話を浴場に戻す。同じ湯船に隣合って身を沈めつつ、釘を刺すようにデオノーラが断言する。驚く男に、デオノーラが強い意思を持った口調で続ける。
「ガイドをしていた時に同じことを言ったと思うが、私はこの国を愛している。ドラゴニアの女王であることに誇りを持っている。私にとってドラゴニアは、何物にも代えがたい宝なのだ」
そう言う彼女の声には、確固たる信念が込められていた。特に後半部分――この時点で付け加えられた部分には、より一段と強い情熱と愛があった。
デオノーラは信念の魔物だった。国と民を愛する高潔なる女王だった。その堂々たる語り姿を見た男は、自分の心臓が跳ねるのを自覚した。
「……だが、それはそれとして、貴様には悪いことをしてしまったな」
直後、デオノーラの態度が一変する。それまで見せていた熱意が瞬時に消え失せ、悔悟と反省の入り混じった表情で男の方を見た。
「どれだけ取り繕おうと、私が貴様を騙したのは事実だ。本当にすまない。言葉で謝って許されるものではないが――」
「あっ待って。ちょっと待って」
そしていきなり真面目なムードで謝罪を始めたデオノーラに、男が大きく狼狽する。慌てた男に言葉を遮られたデオノーラが口を閉ざし、眉を八の字に曲げて彼に尋ねる。
「やはり、やはり口だけでは満足できないか……?」
デオノーラは本気だった。ドラゴニアの女王は、女王であるが故に、自身のした事に対して本気でケジメをつけようとしていた。文字通り、彼女は何でもするつもりでいた。
男は更に慌てた。彼は真相を知ってもデオノーラを咎める気は無かった。逆だ。男は真逆の想いを抱いた。
だのに目の前で猛烈に誠意を見せんとする彼女に、男は目に見えて狼狽した。違う。そうじゃない。でもそれを上手く伝えられない。
男は女性との駆け引きは全くのダメダメだった。
「違います違います! 僕は全然、デオノーラさんのこと許さないとか思ってません! むしろ……」
「むしろ……なんだ?」
策を弄せない男は、直球しか投げられなかった。
「そうやって国や僕のことを真剣に考えられるデオノーラさん、素敵だな、って、思いました……」
「――あ」
それがクリーンヒットした。ドラゴニアの女王たる紅蓮のドラゴンは、鳩が豆鉄砲を食ったようにぽかんとした表情を見せた。
「あ、えっ、そう……」
時間をかけて、男の放った言葉の意味を噛み締める。遅れて男も、自分が発した言葉の重みを思い知る。男は全く無意識にそれを言い放ったが故に、それの意図するものを自覚するのに時間がかかった。
そうして間を置いた後、二人は同じ結論に達した。
「つまりその、それは……そういうことなのか?」
「あ、うう……」
一歩引いた姿勢で、慎重にデオノーラが問う。男は何も言えず、下を向いて黙り込む。
水面で波紋が広がる。遠くから水音が聞こえてくる。意識の逃げ場を探そうと五感が鋭くなり、隣に浸かるデオノーラの吐息が聞こえてくる。
墓穴を掘る。プレッシャーで背筋が軋む。心臓が悲鳴を上げる。顔を上げられない。
「教えてくれ。貴様はつまり、私のことを? そうなのか?」
横からデオノーラが詰め寄る。女王も女王で、男性との適切な距離感を掴めなかった。小手先の技術を使わず、大股歩きで男の心中に進入する。
「どうなんだ!?」
「あっ、う――」
引き締まったスタイルと豊満な胸を持つ長身の美女が全裸で迫ってきたら、大概の男性はどうなるか。デオノーラは理解出来なかった。自身の性的魅力に自覚が無かったのもまずかった。
「――」
結論を言うと、男は失神した。
湯船で茹だった脳味噌に、極上の女体は刺激が強すぎた。
「……」
「お、おい!」
緊張が閾値を越え、糸が切れた人形のように脱力し、湯船に頭から突っ伏す。そんな男を見て、デオノーラが即座に異常を察する。慌てて男の上体を起こし、顔に貼りついた前髪をかき分け、肩を揺らして名前を呼ぶ。
「どうした! しっかりするのだ!」
名前を呼びながら必死に声をかける。男がどうしてこういうことになったのか、デオノーラはまだ理解できずにいた。しかしこのままでよろしくないことはすぐに理解した。デオノーラは男の肩を担ぎ、大急ぎで風呂から出た。
男が目を覚ましたのは、それから十分後のことだった。彼は「浴衣」と呼ばれる東方の服に身を包み、「畳」に敷かれた「布団」の上に仰向けに寝かされていた。彼らが浴場を利用した温泉宿の中にある、来客用の個室の一つをまるまる使わせてもらっていたのである。
ジパングの人は本当に床の上で寝るのか。敷き布団越しに伝わる硬い感触を背中で感じ、男は未だふやけた頭でそんなことを考えた。
自分の顔の横から涼やかな風を感じたのは、その直後だった。
「起きたか……!」
同じ方向から風に次いで声が聞こえる。自分のよく知る声、必死な声だ。
男が首を動かして声のする方へ目線をやると、そこにはデオノーラがいた。紅い体躯を持つ新人ガイド兼女王が男の真横に座り込み、男と同じ浴衣を着て、心配そうに男を見つめていた。
「良かった。本当に良かった……!」
デオノーラは「団扇」を持ったまま、こちらをじっと見つめていた。両目には涙を溜めこみ、今にも泣きだしそうだった。
男は困惑した。号泣寸前の女性に何と声をかければいいのか、全くわからなかった。プライベートで女性と絡んだことのない、童貞のリアクションだった。
「あの、大丈夫ですか……?」
だから無難な対応しか出来なかった。言った直後に「もっと粋な言い方があっただろう」と後悔したが、後の祭りだった。
「大丈夫だ。私は大丈夫。それより今は貴様の方だ」
幸運だったのは、今のデオノーラにその辺りを気にする余裕が無かったことだった。目元の涙を手の甲で拭う彼女の頭の中は、男の安否の行方でいっぱいだった。
「辛くは無いか? 熱はないか? 体はまだ熱いか? 喉が渇いてないか?」
不安な気持ちを抱えたまま、男を気遣う言葉の群れを速射でまくしたてる。竜の女王もいっぱいいっぱいだった。一方で質問責めを食らった男は最初こそ面食らったが、暫くすると胸の奥から嬉しさがこみあげてくるのを自覚した。
他人から、それもとびきりの美人から純粋に心配を寄せられる。これに感謝を覚えない男はいない。この場合の彼もそれは同じだった。
「平気です。まだちょっとだるいですけど、少し休めば元通りです」
実際感謝しながら、男がデオノーラに答える。これは強がりではない。男の肉体と精神は既に快方に向かっていた。後遺症の類とも無縁である。
「きっとデオノーラさんが助けてくれたから、軽症で済んだんだと思います」
男が言いきる。二心のない、まっすぐな感謝の念のこもった言葉だ。
本当の事を言うならば、自分が倒れてから目覚めるまでの間に何が起きたかはわからなかった。それでも彼女が、デオノーラが自分の看病をしてくれたのだろうと、男は確信していた。
何故言いきれるのか。自分でもわからない。どうして彼女を特別視してしまうのだろう。
「ありがとうございます。本当に」
「礼はいい。当然のことをしたまでだ」
重ねて礼を述べる男にデオノーラが反応する。この頃には彼女の方も既に立ち直っていた。目に涙は無く、最初に出会った時と同じ威厳と存在感を見に纏っていた。
「むしろ、私の方から謝らなければならない。私が不甲斐ないせいで、貴様にいらぬ負担を強いてしまった。本当にすまない」
そうした王の迫力を自ら萎ませ、デオノーラが謝罪する。男の隣に座ったまま、深く頭を下げる。そして男が「でも」といいかけるのを制するように、デオノーラが続けて言葉を紡ぐ。
「今日の私は、柄にもなく興奮してしまっていた。きっと素晴らしい男性と出会えたからだろうな。だからつい調子に乗って、貴様を振り回してしまったんだろう。うむ、そうなのだ。きっとそうだ。惚れた弱みは恐ろしい」
女王が早口で言いきる。途端に早口になる。一気にエンジンをかけてきたデオノーラに、男が怪訝な顔を見せる。
一秒後、男の脳裡にある言葉が引っかかる。
「惚れた?」
思わず口に出す。確かに聞いた。どういう意味なのか。
男がデオノーラを見る。視線の先にいたドラゴニアの女王は、それまでと打って変わって静かになっていた。
顔が耳まで赤くなっていた。目はぐるぐると渦巻き、口は真一文字に結ばれていた。
「……」
男の反芻を耳にした時点で、デオノーラは自身の迂闊さに気づいた。同時に状況が手遅れなところまで来ていることにも気づいた。手遅れだ。
「それってつまり……そういうことなんです?」
男が追い打ちをかける。邪念のない真っ直ぐな瞳がデオノーラを見据える。
女王は即答しなかった。反応を見せるまでたっぷり数十秒を要した。長い沈黙の後、デオノーラは観念したかのように首を縦に振った。
その行動の意味を理解しようと、男が脳内で咀嚼する。再びの沈黙が場を支配する。
またしても数十秒後。今度は男が顔を赤くする。
「えっ。その、えっ」
男が倒れたまま狼狽える。目だけを泳がせ、額から脂汗をどっと噴き出す。
「俺のこと……」
「……そうだ」
男が動揺する一方で、デオノーラは平静を取り戻していた。極限まで追い詰められたことが却って彼女の頭を冷やし、覚悟を決めさせるまでに至っていた。
腹の括り方の速さは、流石の女王といったところだった。
「白状しよう。私は貴様に惚れている。好きになった」
デオノーラがきっぱりと言い切る。男はまだ狼狽えている。口を半開きにし、視線を定めず挙動不審になる。
お構いなしにデオノーラが続ける。一度堰を切ってしまえば、後はもう流れるばかりだ。
「女王としてではない。一匹の雌として、私は貴様を好きになった」
「そんな、冗談やめて――」
「本心だ」
男の反論を遮る。断言された男はもはや黙るしかない。
一方のデオノーラも顔を真っ赤にしていた。彼女にとっても一世一代の告白であった。しかしあまりに唐突であるが故に、男はそれがデオノーラの本心から出た言葉であると信じることが出来なかった。
「……いきなりこんなことを言ってしまって済まないと思う」
そしてここで、デオノーラもまた自分の告白が唐突なものであることに気づく。一応謝罪はするが、本心は揺るがない。
「しかし事実は事実だ。私は貴様を好いた。こんなに愛おしい気持ちを抱いたのは初めてだ」
開き直る。男の胸が不安と興奮で激しくざわつく。
そのように不安定な男に、デオノーラが続けて宣言する。
「それでその、そんな貴様に、どうしても紹介したいスポットがあるのだ。観光ガイドとして、そこへ案内したい」
「それはどういう……?」
「行ってのお楽しみだ」
落ち着きを取り戻そうとする男が声をかけ、落ち着きを取り戻そうとするデオノーラが答える。
しかしどちらも、落ち着けられたのは外面だけだった。どちらの心も嵐の海の如く激しく荒れていた。
「ど、どうだ? 同行してくれないか?」
上ずった声でデオノーラが言う。既に感情が漏れ出る。
男の方も感情を抑えるのでいっぱいいっぱいだった。こちらはデオノーラよりもずっと余裕が無かった。
「俺は……」
例によって、男はたっぷり逡巡した。
デオノーラはそれを催促しなかった。
二人の世界を沈黙が包む。空気が重い。
「俺は」
たっぷり迷って、男は答えを出した。
逆鱗亭でも一件の後、デオノーラは自分の本当の素性と、身分を偽ってガイドをした理由を男に教えた。
後者の理由は実に「らしい」ものだった。
「最近、周りの友人がどんどん結婚していってな。それでその、なんだ、あれだ……」
「焦ったんですね?」
「う、うん。そうだ。そう言うことも出来るな。はっきり言うと、私もいい加減つがいが欲しかったのだ」
湯船に浸かり、両手でお湯を掬い上げながら、デオノーラがしおらしく呟く。隣で浸かる男は、そんなデオノーラの横顔をじっと見つめていた。
二人は入浴していた。服を脱ぎ、隣合って肩まで浸かっていた。「竜泉郷」と呼ばれる、ドラゴニアの隣にある一大温泉スポットに、食事を終えた二人は足を運んでいたのだった。
彼らが利用していたのは、その竜泉郷の中にある温泉宿の一つであった。そこは小さな宿で、「比較的」常人に性的影響を及ぼさない穏やかな温泉を売りにしていた。といっても場所が場所なので、影響が出る時は出るのだが。
「しかし女王のまま婚活をしては、大半の人間はその権威に恐れをなしてしまうだろうと、友人から忠告を受けたのでな。ならばと思って新人ガイドとなり、良き伴侶となれる人間を探そうと思ったのだ」
「地位が高いのも楽じゃないってことですね」
「そういうことだな。だが言っておくが、私は女王の座を降りるつもりはないぞ」
話を浴場に戻す。同じ湯船に隣合って身を沈めつつ、釘を刺すようにデオノーラが断言する。驚く男に、デオノーラが強い意思を持った口調で続ける。
「ガイドをしていた時に同じことを言ったと思うが、私はこの国を愛している。ドラゴニアの女王であることに誇りを持っている。私にとってドラゴニアは、何物にも代えがたい宝なのだ」
そう言う彼女の声には、確固たる信念が込められていた。特に後半部分――この時点で付け加えられた部分には、より一段と強い情熱と愛があった。
デオノーラは信念の魔物だった。国と民を愛する高潔なる女王だった。その堂々たる語り姿を見た男は、自分の心臓が跳ねるのを自覚した。
「……だが、それはそれとして、貴様には悪いことをしてしまったな」
直後、デオノーラの態度が一変する。それまで見せていた熱意が瞬時に消え失せ、悔悟と反省の入り混じった表情で男の方を見た。
「どれだけ取り繕おうと、私が貴様を騙したのは事実だ。本当にすまない。言葉で謝って許されるものではないが――」
「あっ待って。ちょっと待って」
そしていきなり真面目なムードで謝罪を始めたデオノーラに、男が大きく狼狽する。慌てた男に言葉を遮られたデオノーラが口を閉ざし、眉を八の字に曲げて彼に尋ねる。
「やはり、やはり口だけでは満足できないか……?」
デオノーラは本気だった。ドラゴニアの女王は、女王であるが故に、自身のした事に対して本気でケジメをつけようとしていた。文字通り、彼女は何でもするつもりでいた。
男は更に慌てた。彼は真相を知ってもデオノーラを咎める気は無かった。逆だ。男は真逆の想いを抱いた。
だのに目の前で猛烈に誠意を見せんとする彼女に、男は目に見えて狼狽した。違う。そうじゃない。でもそれを上手く伝えられない。
男は女性との駆け引きは全くのダメダメだった。
「違います違います! 僕は全然、デオノーラさんのこと許さないとか思ってません! むしろ……」
「むしろ……なんだ?」
策を弄せない男は、直球しか投げられなかった。
「そうやって国や僕のことを真剣に考えられるデオノーラさん、素敵だな、って、思いました……」
「――あ」
それがクリーンヒットした。ドラゴニアの女王たる紅蓮のドラゴンは、鳩が豆鉄砲を食ったようにぽかんとした表情を見せた。
「あ、えっ、そう……」
時間をかけて、男の放った言葉の意味を噛み締める。遅れて男も、自分が発した言葉の重みを思い知る。男は全く無意識にそれを言い放ったが故に、それの意図するものを自覚するのに時間がかかった。
そうして間を置いた後、二人は同じ結論に達した。
「つまりその、それは……そういうことなのか?」
「あ、うう……」
一歩引いた姿勢で、慎重にデオノーラが問う。男は何も言えず、下を向いて黙り込む。
水面で波紋が広がる。遠くから水音が聞こえてくる。意識の逃げ場を探そうと五感が鋭くなり、隣に浸かるデオノーラの吐息が聞こえてくる。
墓穴を掘る。プレッシャーで背筋が軋む。心臓が悲鳴を上げる。顔を上げられない。
「教えてくれ。貴様はつまり、私のことを? そうなのか?」
横からデオノーラが詰め寄る。女王も女王で、男性との適切な距離感を掴めなかった。小手先の技術を使わず、大股歩きで男の心中に進入する。
「どうなんだ!?」
「あっ、う――」
引き締まったスタイルと豊満な胸を持つ長身の美女が全裸で迫ってきたら、大概の男性はどうなるか。デオノーラは理解出来なかった。自身の性的魅力に自覚が無かったのもまずかった。
「――」
結論を言うと、男は失神した。
湯船で茹だった脳味噌に、極上の女体は刺激が強すぎた。
「……」
「お、おい!」
緊張が閾値を越え、糸が切れた人形のように脱力し、湯船に頭から突っ伏す。そんな男を見て、デオノーラが即座に異常を察する。慌てて男の上体を起こし、顔に貼りついた前髪をかき分け、肩を揺らして名前を呼ぶ。
「どうした! しっかりするのだ!」
名前を呼びながら必死に声をかける。男がどうしてこういうことになったのか、デオノーラはまだ理解できずにいた。しかしこのままでよろしくないことはすぐに理解した。デオノーラは男の肩を担ぎ、大急ぎで風呂から出た。
男が目を覚ましたのは、それから十分後のことだった。彼は「浴衣」と呼ばれる東方の服に身を包み、「畳」に敷かれた「布団」の上に仰向けに寝かされていた。彼らが浴場を利用した温泉宿の中にある、来客用の個室の一つをまるまる使わせてもらっていたのである。
ジパングの人は本当に床の上で寝るのか。敷き布団越しに伝わる硬い感触を背中で感じ、男は未だふやけた頭でそんなことを考えた。
自分の顔の横から涼やかな風を感じたのは、その直後だった。
「起きたか……!」
同じ方向から風に次いで声が聞こえる。自分のよく知る声、必死な声だ。
男が首を動かして声のする方へ目線をやると、そこにはデオノーラがいた。紅い体躯を持つ新人ガイド兼女王が男の真横に座り込み、男と同じ浴衣を着て、心配そうに男を見つめていた。
「良かった。本当に良かった……!」
デオノーラは「団扇」を持ったまま、こちらをじっと見つめていた。両目には涙を溜めこみ、今にも泣きだしそうだった。
男は困惑した。号泣寸前の女性に何と声をかければいいのか、全くわからなかった。プライベートで女性と絡んだことのない、童貞のリアクションだった。
「あの、大丈夫ですか……?」
だから無難な対応しか出来なかった。言った直後に「もっと粋な言い方があっただろう」と後悔したが、後の祭りだった。
「大丈夫だ。私は大丈夫。それより今は貴様の方だ」
幸運だったのは、今のデオノーラにその辺りを気にする余裕が無かったことだった。目元の涙を手の甲で拭う彼女の頭の中は、男の安否の行方でいっぱいだった。
「辛くは無いか? 熱はないか? 体はまだ熱いか? 喉が渇いてないか?」
不安な気持ちを抱えたまま、男を気遣う言葉の群れを速射でまくしたてる。竜の女王もいっぱいいっぱいだった。一方で質問責めを食らった男は最初こそ面食らったが、暫くすると胸の奥から嬉しさがこみあげてくるのを自覚した。
他人から、それもとびきりの美人から純粋に心配を寄せられる。これに感謝を覚えない男はいない。この場合の彼もそれは同じだった。
「平気です。まだちょっとだるいですけど、少し休めば元通りです」
実際感謝しながら、男がデオノーラに答える。これは強がりではない。男の肉体と精神は既に快方に向かっていた。後遺症の類とも無縁である。
「きっとデオノーラさんが助けてくれたから、軽症で済んだんだと思います」
男が言いきる。二心のない、まっすぐな感謝の念のこもった言葉だ。
本当の事を言うならば、自分が倒れてから目覚めるまでの間に何が起きたかはわからなかった。それでも彼女が、デオノーラが自分の看病をしてくれたのだろうと、男は確信していた。
何故言いきれるのか。自分でもわからない。どうして彼女を特別視してしまうのだろう。
「ありがとうございます。本当に」
「礼はいい。当然のことをしたまでだ」
重ねて礼を述べる男にデオノーラが反応する。この頃には彼女の方も既に立ち直っていた。目に涙は無く、最初に出会った時と同じ威厳と存在感を見に纏っていた。
「むしろ、私の方から謝らなければならない。私が不甲斐ないせいで、貴様にいらぬ負担を強いてしまった。本当にすまない」
そうした王の迫力を自ら萎ませ、デオノーラが謝罪する。男の隣に座ったまま、深く頭を下げる。そして男が「でも」といいかけるのを制するように、デオノーラが続けて言葉を紡ぐ。
「今日の私は、柄にもなく興奮してしまっていた。きっと素晴らしい男性と出会えたからだろうな。だからつい調子に乗って、貴様を振り回してしまったんだろう。うむ、そうなのだ。きっとそうだ。惚れた弱みは恐ろしい」
女王が早口で言いきる。途端に早口になる。一気にエンジンをかけてきたデオノーラに、男が怪訝な顔を見せる。
一秒後、男の脳裡にある言葉が引っかかる。
「惚れた?」
思わず口に出す。確かに聞いた。どういう意味なのか。
男がデオノーラを見る。視線の先にいたドラゴニアの女王は、それまでと打って変わって静かになっていた。
顔が耳まで赤くなっていた。目はぐるぐると渦巻き、口は真一文字に結ばれていた。
「……」
男の反芻を耳にした時点で、デオノーラは自身の迂闊さに気づいた。同時に状況が手遅れなところまで来ていることにも気づいた。手遅れだ。
「それってつまり……そういうことなんです?」
男が追い打ちをかける。邪念のない真っ直ぐな瞳がデオノーラを見据える。
女王は即答しなかった。反応を見せるまでたっぷり数十秒を要した。長い沈黙の後、デオノーラは観念したかのように首を縦に振った。
その行動の意味を理解しようと、男が脳内で咀嚼する。再びの沈黙が場を支配する。
またしても数十秒後。今度は男が顔を赤くする。
「えっ。その、えっ」
男が倒れたまま狼狽える。目だけを泳がせ、額から脂汗をどっと噴き出す。
「俺のこと……」
「……そうだ」
男が動揺する一方で、デオノーラは平静を取り戻していた。極限まで追い詰められたことが却って彼女の頭を冷やし、覚悟を決めさせるまでに至っていた。
腹の括り方の速さは、流石の女王といったところだった。
「白状しよう。私は貴様に惚れている。好きになった」
デオノーラがきっぱりと言い切る。男はまだ狼狽えている。口を半開きにし、視線を定めず挙動不審になる。
お構いなしにデオノーラが続ける。一度堰を切ってしまえば、後はもう流れるばかりだ。
「女王としてではない。一匹の雌として、私は貴様を好きになった」
「そんな、冗談やめて――」
「本心だ」
男の反論を遮る。断言された男はもはや黙るしかない。
一方のデオノーラも顔を真っ赤にしていた。彼女にとっても一世一代の告白であった。しかしあまりに唐突であるが故に、男はそれがデオノーラの本心から出た言葉であると信じることが出来なかった。
「……いきなりこんなことを言ってしまって済まないと思う」
そしてここで、デオノーラもまた自分の告白が唐突なものであることに気づく。一応謝罪はするが、本心は揺るがない。
「しかし事実は事実だ。私は貴様を好いた。こんなに愛おしい気持ちを抱いたのは初めてだ」
開き直る。男の胸が不安と興奮で激しくざわつく。
そのように不安定な男に、デオノーラが続けて宣言する。
「それでその、そんな貴様に、どうしても紹介したいスポットがあるのだ。観光ガイドとして、そこへ案内したい」
「それはどういう……?」
「行ってのお楽しみだ」
落ち着きを取り戻そうとする男が声をかけ、落ち着きを取り戻そうとするデオノーラが答える。
しかしどちらも、落ち着けられたのは外面だけだった。どちらの心も嵐の海の如く激しく荒れていた。
「ど、どうだ? 同行してくれないか?」
上ずった声でデオノーラが言う。既に感情が漏れ出る。
男の方も感情を抑えるのでいっぱいいっぱいだった。こちらはデオノーラよりもずっと余裕が無かった。
「俺は……」
例によって、男はたっぷり逡巡した。
デオノーラはそれを催促しなかった。
二人の世界を沈黙が包む。空気が重い。
「俺は」
たっぷり迷って、男は答えを出した。
20/04/19 19:16更新 / 黒尻尾
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