シニード・M・J・フィネガン男爵
「くだらない。サキュバスなど、存在する訳がない!つまらない迷信に惑わされて!」
伯爵の屋敷から自室に戻った私は、事件のあらましの書かれた羊皮紙を自室の机に叩きつけ憤った。
馬鹿だ。無能だ。呆けてやがる。伯爵ともあろうお方が魔物の存在を本気で信じているとは、なんと嘆かわしいことか!魔物だなんてものは、人の恐怖心が作り出す幻想に過ぎない。いる訳がない。いるとしたら人の心の中にだけで、この物質世界に湧いて出る訳がない。まぁ庶民なら…無学な庶民ならいい。だが、あの老人は伯爵ではないか!民を守り、導き、管理統制すべき立場にある人だ。それが…
『フィネガン卿、私を助けてくれ。お主の知恵が必要だ。ある村の住民が、一夜にして消え去った。サキュバスどもが民を拐って喰ったに違いない。すぐに事件の詳細を調べ、魔物への対策を講ずるのだ』
などと非現実的なことを言う。なんでも、税を取り立てるために役人が村を訪れると、子供から老人まで、20人以上いる住民が一人残らずいなくなっていたらしい。役人は前日にもこの村を訪れたが、どうしても今日中に税を用意できないから一日だけ待ってくれ、と言われたので、仕方なくその日は見逃してやったそうだ。別の村で税を徴収し、次の日この村に戻るともぬけの殻になっており、その後人手を使って一帯を探し回っても、住民は一人も見つけられなかったという。
それなら、重税に苦しむ住民が一斉に夜逃げしたと考えるのが筋だろう。村同士の密告制のしかれた現状で逃げおおせるには、確かに不自然な点も多い。が、まずは役人が買収された可能性や密告制が破られた可能性を疑うべきである。それなのにサキュバスの仕業と考えるとは、現実をまるで見ておらん。オコンネル伯爵は自分の悪政から目を背けている。自分の無能さが招いた現実を、伯爵はいるはずのない魔物の襲撃とすり替えているのではないか。だとしたらまぁいい。責任を逃れるための手法なのだとしたらまぁ理解できなくもないが…しかし、あの怯え方は演技とは思えない。焦りと恐怖が充満した目で、懇願するように命令を私に下した。オコンネル伯爵はやはり馬鹿だ。無能だ。呆けてやがる。だが…
「だが逆らうわけには…」
この私はシニード・M・J・フィネガン男爵なのだ。下級貴族である男爵が伯爵の命令に逆らうことはできない。いくら私が若く、賢く、有能であっても、封建社会のルールを破れば貴族として生きていけない。だから尚更恨めしい。この私があのボケ老人の妄想に付き合わされるとは。
フィネガン家こそ、国に貢献していると言うのに…。先代当主である私の父が開発した鋼鉄の合金技術は国を大きく発展させたと言うのに。そうだ。我々は技術革新を起こした。父上の確立した製造技術により、より頑強でより軽い鋼鉄を作ることができるようになった。このおかげで我が国の軍事力は高まり、領土と国力を大きくした。今では平民の日常生活にも、この素材が取り入れられる程に普及している。私がフィネガン家の当主になった後も国へ貢献する姿勢は変わらない。私は今も鋼鉄の加工技術を発展させ続け、新型の武具を設計している。昨年は鉄板に溝を掘り込むことにより、強度を保ちながらも薄く軽量化する技術の研究に成功して、これも大変な評価を受けた。まさにフィネガン家は魔導の時代を置き去りにし、鉄の時代を見出したのだ。
なのに…どうして…どうしてこうも身分が低いのか。そう大きくはない敷地はそのままに、工房ばかりが増築されて、我々の住む“家”の部分は自然と隅に追いやられる形になった。今いる書斎も最低限以下の造りなので、棚に入りきらない本は床に山積みにするしかなく、調度品の類を飾ることは無論叶わない。本の内容にしたって、娯楽のためでもなければ棚に飾ってインテリを気取るためでもない。ただ必要だから読む本である。なぜこうも慎ましい屋敷に住まなければならないのか。それは、父上が卑しい身分の低い女、つまり母上と結婚したからだ。いや正確には違う。母上は何も悪くない。この腐った貴族社会のせいだ。貴族にとっては家柄が全て。いくら功績を残しても出世なんてできやしない。くだらない世の中だが否定するばかりでは生きていけないのも事実で、だからこそ私は政略結婚で勝利しなければならない。私もそろそろ結婚すべき年ではあるが…なんとなく気が乗らず、社交界だとか、ああいうのを苦手とするのは、父上に似たということだろうか。
それはまぁいい。それよりも、腹が立つと言えばあの聖職者や魔道士連中だ。何の役にも立たん癖に、態度だけはいっちょまえ。海を隔てた遠い遠い大陸ならいざ知らず、魔素とかいうのが足りてないこの地では、高位の魔道士ですらちっぽけな火の玉を出すのがせいぜいではないか。私の開発したクロスボウの方が遥かに優れている。古びて時代遅れの学問より、これからは鉄と科学だ。あいつらは私のような学者に対して「信仰心が足りていない」とか「神への冒涜」なんて言うが、そんなのは保身のための詭弁だろうが。科学は神の創りたもうた世界の神秘を解き明かすことにもなる。確かに私の信仰心は人並み以下かもしれないけど、でも、私の方が神の下僕としてよっぽど高尚のはずだ。
「……まぁいい」
まぁ、そんなことはどうだっていい。この世はつまらない連中ばかりだ。本当に馬鹿馬鹿しい。ともかく、こんなくだらない仕事はとっとと終わらせよう。仕事は仕事じゃないか…。
そう割り切ってしまえば、胸の中の怒りも抑えられよう。何度か深呼吸をした。胸を空気でいっぱいに満たし、すぼめた口からゆっくり、ゆっくりと吐き出す。頭の悪い老人がここいらで一番の知恵者にすがり付いてきたのだと思うと、怒りを哀れみと優越感に変えることができた。憤りはロウソクの小さな火くらいに沈静化し、私の頭は建設的な思考を取り戻しつつあった。煮えたハラワタも少しは冷めた。切り替えは早い方である。
そろそろ出発の準備をしなければならない。食料や水はどれくらい要るだろう。あの村は遠いらしいから、野営の用意もしなければ。一応武器も持っていこうか。無論魔物対策などではなく、山賊対策として。それから、私の従者として連れて行くべきなのは誰だろう。まぁ、あの男が妥当か。平民の癖にそれなりの教育を施されているあの男は、何かと便利だからな。
「ジェイミー!ジェイミーはおらんか!誰か、ジェイミーを呼べ!」
私は使用人のジェイムズ・ウェイクを呼びつけた。
伯爵の屋敷から自室に戻った私は、事件のあらましの書かれた羊皮紙を自室の机に叩きつけ憤った。
馬鹿だ。無能だ。呆けてやがる。伯爵ともあろうお方が魔物の存在を本気で信じているとは、なんと嘆かわしいことか!魔物だなんてものは、人の恐怖心が作り出す幻想に過ぎない。いる訳がない。いるとしたら人の心の中にだけで、この物質世界に湧いて出る訳がない。まぁ庶民なら…無学な庶民ならいい。だが、あの老人は伯爵ではないか!民を守り、導き、管理統制すべき立場にある人だ。それが…
『フィネガン卿、私を助けてくれ。お主の知恵が必要だ。ある村の住民が、一夜にして消え去った。サキュバスどもが民を拐って喰ったに違いない。すぐに事件の詳細を調べ、魔物への対策を講ずるのだ』
などと非現実的なことを言う。なんでも、税を取り立てるために役人が村を訪れると、子供から老人まで、20人以上いる住民が一人残らずいなくなっていたらしい。役人は前日にもこの村を訪れたが、どうしても今日中に税を用意できないから一日だけ待ってくれ、と言われたので、仕方なくその日は見逃してやったそうだ。別の村で税を徴収し、次の日この村に戻るともぬけの殻になっており、その後人手を使って一帯を探し回っても、住民は一人も見つけられなかったという。
それなら、重税に苦しむ住民が一斉に夜逃げしたと考えるのが筋だろう。村同士の密告制のしかれた現状で逃げおおせるには、確かに不自然な点も多い。が、まずは役人が買収された可能性や密告制が破られた可能性を疑うべきである。それなのにサキュバスの仕業と考えるとは、現実をまるで見ておらん。オコンネル伯爵は自分の悪政から目を背けている。自分の無能さが招いた現実を、伯爵はいるはずのない魔物の襲撃とすり替えているのではないか。だとしたらまぁいい。責任を逃れるための手法なのだとしたらまぁ理解できなくもないが…しかし、あの怯え方は演技とは思えない。焦りと恐怖が充満した目で、懇願するように命令を私に下した。オコンネル伯爵はやはり馬鹿だ。無能だ。呆けてやがる。だが…
「だが逆らうわけには…」
この私はシニード・M・J・フィネガン男爵なのだ。下級貴族である男爵が伯爵の命令に逆らうことはできない。いくら私が若く、賢く、有能であっても、封建社会のルールを破れば貴族として生きていけない。だから尚更恨めしい。この私があのボケ老人の妄想に付き合わされるとは。
フィネガン家こそ、国に貢献していると言うのに…。先代当主である私の父が開発した鋼鉄の合金技術は国を大きく発展させたと言うのに。そうだ。我々は技術革新を起こした。父上の確立した製造技術により、より頑強でより軽い鋼鉄を作ることができるようになった。このおかげで我が国の軍事力は高まり、領土と国力を大きくした。今では平民の日常生活にも、この素材が取り入れられる程に普及している。私がフィネガン家の当主になった後も国へ貢献する姿勢は変わらない。私は今も鋼鉄の加工技術を発展させ続け、新型の武具を設計している。昨年は鉄板に溝を掘り込むことにより、強度を保ちながらも薄く軽量化する技術の研究に成功して、これも大変な評価を受けた。まさにフィネガン家は魔導の時代を置き去りにし、鉄の時代を見出したのだ。
なのに…どうして…どうしてこうも身分が低いのか。そう大きくはない敷地はそのままに、工房ばかりが増築されて、我々の住む“家”の部分は自然と隅に追いやられる形になった。今いる書斎も最低限以下の造りなので、棚に入りきらない本は床に山積みにするしかなく、調度品の類を飾ることは無論叶わない。本の内容にしたって、娯楽のためでもなければ棚に飾ってインテリを気取るためでもない。ただ必要だから読む本である。なぜこうも慎ましい屋敷に住まなければならないのか。それは、父上が卑しい身分の低い女、つまり母上と結婚したからだ。いや正確には違う。母上は何も悪くない。この腐った貴族社会のせいだ。貴族にとっては家柄が全て。いくら功績を残しても出世なんてできやしない。くだらない世の中だが否定するばかりでは生きていけないのも事実で、だからこそ私は政略結婚で勝利しなければならない。私もそろそろ結婚すべき年ではあるが…なんとなく気が乗らず、社交界だとか、ああいうのを苦手とするのは、父上に似たということだろうか。
それはまぁいい。それよりも、腹が立つと言えばあの聖職者や魔道士連中だ。何の役にも立たん癖に、態度だけはいっちょまえ。海を隔てた遠い遠い大陸ならいざ知らず、魔素とかいうのが足りてないこの地では、高位の魔道士ですらちっぽけな火の玉を出すのがせいぜいではないか。私の開発したクロスボウの方が遥かに優れている。古びて時代遅れの学問より、これからは鉄と科学だ。あいつらは私のような学者に対して「信仰心が足りていない」とか「神への冒涜」なんて言うが、そんなのは保身のための詭弁だろうが。科学は神の創りたもうた世界の神秘を解き明かすことにもなる。確かに私の信仰心は人並み以下かもしれないけど、でも、私の方が神の下僕としてよっぽど高尚のはずだ。
「……まぁいい」
まぁ、そんなことはどうだっていい。この世はつまらない連中ばかりだ。本当に馬鹿馬鹿しい。ともかく、こんなくだらない仕事はとっとと終わらせよう。仕事は仕事じゃないか…。
そう割り切ってしまえば、胸の中の怒りも抑えられよう。何度か深呼吸をした。胸を空気でいっぱいに満たし、すぼめた口からゆっくり、ゆっくりと吐き出す。頭の悪い老人がここいらで一番の知恵者にすがり付いてきたのだと思うと、怒りを哀れみと優越感に変えることができた。憤りはロウソクの小さな火くらいに沈静化し、私の頭は建設的な思考を取り戻しつつあった。煮えたハラワタも少しは冷めた。切り替えは早い方である。
そろそろ出発の準備をしなければならない。食料や水はどれくらい要るだろう。あの村は遠いらしいから、野営の用意もしなければ。一応武器も持っていこうか。無論魔物対策などではなく、山賊対策として。それから、私の従者として連れて行くべきなのは誰だろう。まぁ、あの男が妥当か。平民の癖にそれなりの教育を施されているあの男は、何かと便利だからな。
「ジェイミー!ジェイミーはおらんか!誰か、ジェイミーを呼べ!」
私は使用人のジェイムズ・ウェイクを呼びつけた。
13/04/11 19:29更新 / 黒文字
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