文学系石蛇
とある学校の三階、図書室の放課後。
「・・・・っ。」
本棚を前にして、やや低めの背の女性は絶句する。
理由は、その蔵書にあった。
(何よコレ・・!ラノベから辞典まで沢山・・!
あ、持ってない巻・・!)
豊富なそのラインナップに、
女性はもはや小躍りせんばかりに興奮していたのだ。
流石にここは図書室、本当に小躍りはしなかったが。
(凄い・・!前にいたところもここは良かったけど・・
ふふ、転校前日に来てみて良かった・・!)
(・・あの人、凄く嬉しそうだな。)
そんな女性の後ろ姿をカウンターの中から本越しに見る青年が一人。
彼の名前は池田直也(いけだなおや)、この学校の図書委員である。
図書室に施錠する刻限である6時30分まで、
カウンターに座って本の貸し借り登録をする仕事を受け持っていた。
優しげな雰囲気の通りの穏やかな性格で、人並みに話も出来る。
本人に自覚は無いが、それなりに人気はある方だ。
そんな彼は本棚前の女性を見ていたかと思うと、
チラ、と入り口の方へと視線を動かす。
ガチャッ。
丁度その時、来客があった。
女性ではあるが、わりかしがっしりとした体つきで、
本気で睨めば小動物程度は殺せるのではないか、
そう思わせるに足る、厳かな雰囲気を持つ女性だ。
そんな彼女は一冊の本をカウンターに置くと、
「池田、この本を返すぞ。」
と短く言った。
見た目からするとやや意外な印象を受ける、優しい声。
「ん、はい・・っと確かに返しましたよ、立浪(たつなみ)先輩。」
しかし、池田は特に驚くことはない。
彼女が高い頻度で図書室に来るので、慣れているためだ。
彼はスキャナーを本のバーコードに押し当て、返却登録を済ませる。
程なくして鳴る、登録の終了を知らせるピッという音。
「ん、ありがとう。」
それを聞き届けると、立浪は本棚の方へ歩いていく。
彼女の中で今流行りの、ロマンス小説を捜しにだ。
(似合わないって言ったら、きっと怒られるよな〜)
カウンター係なのでそれを知っている池田は、
そんなことを思いながら再び、読んでいた本に視線を落とした。
しばらくして、時刻は6時30分。
皆、その時刻の持つ意味を知っている為に、
続々と図書室を後にしていく。
先程まで埋まっていた席が急速に空いていく様に、
池田が、感じ慣れたさびしさを感じていると。
「・・ねぇ。」
彼に声がかかった。
やや少女らしい、高めの声だった。
「・・?」
その声に彼は振り向く。
彼の目線よりも少し下の所にその姿はあった。
先程本棚を前に興奮していた女性だ。
(・・どうしたんだろう?何か訊きたい事でもあるのか・・?)
そう思った池田が何か発言する前に。
「あんたがここの図書委員?」
女性はいきなりそう言った。
「え・・あ、はい、そうですけど・・」
驚き、つい敬語になりつつも池田は答える。
「ふーん・・」
すると、女性は品定めをするかのように彼を見つめた。
ほんの数秒のことだったのだが、池田にはとても長く感じられた。
(・・蛇に睨まれた蛙ってこういうのを言うのか・・)
彼がぼんやりとそんなことを思ったその時。
「・・そ、じゃあね、お疲れ様。」
彼をそんな風にした彼女は、
突如さっと視線を外してそう言い、去っていく。
「あ・・はぁ・・さようなら・・」
呆気にとられつも、その背にそう声をかける池田。
(・・何だったんだ・・?お疲れ様とは言ってくれたんだから、
いたずらとか、悪意があるわけじゃないみたいだけど・・)
彼は戸惑いつつも、戸締まりやその他諸々の確認という、
図書委員の任を果たすべく、椅子から立ち上がるのだった。
翌日。
「ほれ静かに・・これより転校生を紹介するでな。」
チャイムが鳴っているにも関わらず騒がしかった教室は、
古風な喋り方の背高の女教師、古谷(ふるや)の一声で静まり返る。
それを見回して確認してから古谷は再び口を開いた。
「んむ、素直でよろしいことよ。
では紹介する・・石塚、入って来て良いぞ。」
そして、教室の入り口に向かってそう声をかける。
それに応えるように、ドアが動き一人の女性が入ってくる。
池田は、彼女に見覚えがあった。
(あれ、昨日の女の人・・同い年だったんだ。)
彼が軽く驚いていると、古谷は石塚にチョークを手渡す。
「では、自己紹介を、の?」
石塚はそれを受け取ると、
黒板に名前を書き、生徒の方を向いて自己紹介をした。
「・・石塚真奈子(いしづかまなこ)、好きに呼んでくれて良いわ。」
・・それは、少々ぶっきらぼうだった。
加えて、笑顔も浮かべず真顔であったため、
普通なら次々と飛んでくるであろう質問も来ない。
(・・え?あれ?私、もしかして何か変なこと言った・・!?)
そんな風にしてしまった石塚本人も実は戸惑っていた。
彼女は別に、新しい教室に興味がなかったわけではなく、
あくまでいつもの彼女通りに、自己紹介をしただけだったからだ。
ただ、それがこの場の自己紹介には向かなかっただけである。
(・・どうしよう・・この空気・・)
教室中に漂い始める重い空気。
それを取り払う術を石塚は持ち合わせていなかった。
(こ、これじゃあ静かに微妙な空気のまま終わっちゃう・・!)
石塚のみならず、誰もがそう思ったその時。
「っふふ・・石塚よ、自己紹介くらいは愛想よくするものであるぞ?
多少無理をしてでも、な?」
助け船を出したのは古谷だった。
その言に「あ・・えっと、あっと・・」と石塚の視線が彷徨う。
「んふ・・」
古谷はそれを横目に見つつ今度は、固まっていた生徒達へこう言った。
「ほれ、皆も・・そう固まっておらんで。
質問の一つや二つ、あるであろう?
例えば、そうさな・・趣味とか、好みとか・・のう?」
それを受けて、最前列付近で目配せが行われる。
「はいはーい!」
一瞬の間を空けて、快活そうな女子の一人が手を挙げた。
「んむ、よいぞ羽田(はねだ)。」
指名されて、羽田と呼ばれた女子は立ち上がり言った。
「じゃあじゃあ、いっしーに質問!
あ、いっしーっていうのはあだ名ね?
暇なときは何をしてるの?私はお昼寝とかカラオケとか!」
その口の動きに、石塚はやや困惑する。
(よくこうも喋れるわね・・というか、いっしーって。
いや、好きに呼んでと言ったのは私なんだけど・・)
しかしながら、その困惑が彼女の表情に変化をもたらした。
「え、えっと・・読書かしら。」
彼女を笑わせたのだ、といっても苦笑であったが。
「おおー!じゃあ、委員も図書で良いかな!?」
「ジャンルは?ロマンス?アドベンチャー?」
「ラノベとかも好き!?」
それでもその表情の変化は、警戒心を解くには十分だったようで、
先程とは打って変わって石塚は質問攻めにされる。
「ま、待ってってば、一つずつ答えるから・・!」
(っ・・びっくりした・・!
そんなに急に変わらなくても良いじゃない・・!)
それに内心文句を言う彼女だったが、その顔は笑っていた。
その後、彼女は順調に自己紹介を終えることが出来た。
委員は人数不足と本人の希望により、図書委員となり、
席はその繋がりで池田の隣に決定。
なかなかに好調な滑り出し、石塚はそう感じていた。
(・・思ったより親しみやすい人なのか、石塚さんって。)
石塚の隣に座っている池田は、
そんな気分で過ごす彼女の雰囲気に、そんな事を考えていた。
皆に先駆けて彼女と会っていた池田は、
その際の発言から彼女を、所謂不思議系にカテゴライズしていたのだ。
そして自己紹介の第一声。
ああ、これはやっぱり・・と池田は思った。
しかし、古谷の助け船からの一連の流れ、
その中の石塚の様子を見て彼は、考えを改めた。
やや不器用なところがあるだけなんだ、と。
そして今。
昼食を食べ終わり、これからどうするかな・・と考えていた彼は。
「ねぇ、付き合って欲しいんだけど。」
その不器用にまた襲われていた。
「え、な、何て?」
聞き間違いを疑って、彼はそう言う。
石塚は不機嫌そうに眉を寄せた。
「だから、付き合って欲しいの!」
そして苛立たしげに声を大きくする。
その内容に、教室がざわつき始めた。
女子が男子に、付き合って、と言ったのだから当然だろう。
しかし、皆よりもほんの少しだけ石塚のことを理解できていた池田は、
苦笑いを浮かべながら、こう返した。
「・・もしかして、図書室に?」
すると、石塚は静かに頷く。
「ええ・・私、図書委員になったでしょ?
だから、仕事のやり方を早めに聞いておきたいのよ。」
それを聞いて、池田は納得する。
「ああ、なるほど。
分かった、じゃあ今から行く?」
彼が尋ねると石塚は、やはり真顔で答えた。
「ええ、お願いするわ。」
「わかっ・・」
た、そう言おうとしたその一瞬、彼は止まる。
とある現象を見てしまったからだ。
(・・今、石塚さんの髪の毛・・変に揺れたような・・
いや、後ろの女子は反応してないから、気のせいか・・?)
「・・どうしたの?早く行きましょう。」
「あ、ああ・・」
しかし、石塚にそう言われてしまい、
彼は考えを止めてドアの方へと歩き出す。
その後ろでは、石塚が不機嫌そうに後頭部を撫でつけていた。
ピッ、というスキャナーがバーコードを読み取る音。
続いてパソコンの画面に書籍情報が表示された。
矢印が動いていき、上の方の「登録」と書かれたパネルを押す。
すると画面がクリアになる、それが登録完了の証だった。
「ん、それで終わり。」
振り向いた石塚に、池田がそう声をかける。
「・・意外と単純なのね。
これなら、やってる内にすぐに覚えられるわ。」
石塚はそう返して小さく笑った。
(お・・なんだ、そういう顔も出来るんじゃないか。)
その笑みにそんな感想を抱きつつ、池田は言う。
「あ、だけど・・無愛想に応対をするのはちょっと。」
すると、それを聞いた石塚はややむすっとした表情になる。
そして、少しの間考え込むような素振りを見せた後、
「・・愛想笑いをしろってこと?」
と、苦虫を噛み潰したような顔で彼に訊いた。
「え、まぁ・・出来れば。」
その質問と様子に、彼はたじろぎ視線を彷徨わせつつも、返す。
彼の雰囲気は、要求ではなく提案だと言っていた。
石塚はそれを聞き、視線を下げる。
「・・苦手なのよ、愛想良くするのって・・」
その表情は、さっきまでのような強気なものではない。
また、同情を誘い自分の意見を通そうとするものでもなかった。
苦手であることを恥じらいつつも打ち明ける、
そして出来るならば改善したいと思っている顔だった。
「そっか・・」
そんな風な顔をしている石塚に、
池田は軽々しく発言しようとしていた自分を押しとどめた。
ただ嫌だからという理由であれば、我が儘だの一言で片づくが、
そうでないならば少し考える必要がある、と思ったからだ。
(とはいえ、どうするかな・・そうだ!)
少しの間考えた後、池田は口を開く。
「じゃあさ、やってみて欲しいことがあるんだ。
愛想笑いはしなくても良いからさ、というか実は俺もやってないし。」
「・・なに?やって欲しい事って・・」
あえて、やって欲しい事自体は告げない。
石塚の興味を引く為のその手法は効果があったようで、
石塚はゆっくりと顔を上げた。
そのことに内心喜びながら、彼は言った。
「えーと、一つだけなんだけど・・」
時は放課後、場所は図書室。
図書委員は今日もカウンターの中にいる。
しかし、昨日は池田が座っていたカウンターの中の椅子には、
今日は女子が座っていた。
一人の男子がその女子・・石塚に声をかける。
「これ、借ります。」
言われた石塚は、真顔のまま男子に訊く。
「何年何組の、何番かしら?」
「2年1組、5番です。」
答えを聞いた彼女は無言でそれを見つけだすと、
スキャナーにバーコードを読み取らせた。
ピッ、という音が鳴った後、矢印で登録ボタンを押す。
そこまでしてから石塚は、男子に本を渡した。
「はい、どうぞ。」
その表情はやはり真顔であったが、
口の端はほんの少しだけ、上がっていた。
(・・うん、思ってたより悪くないじゃないか。)
男子が本を受け取ってドアから出て行くのを見ながら、
カウンターが見える位置に居る池田は、そう思っていた。
(まぁ、効果はあったって事かな。)
そんなことを考えている彼に、
カウンターの方から石塚の不安そうな視線が向けられる。
・・どう、かしら?
そう語っていた。
それに気づいて池田は、小さく、大仰でない程度に頷く。
一方の石塚は、ほっとしたように小さく息を吐いた。
池田が彼女に伝えた方法とは、実は至極簡単なものだ。
本を渡すとき、はい、やら、どうぞ、等という言葉を言う事。
たったそれだけである。
「それだけで、効果は出るの?」
と石塚はあまり信じてはいなかったが、
「まぁやってみて。
一言喋るだけでも、結構違うし・・
自然な笑いが引き出されるっていうか・・
まぁそんな感じの効果も、ある・・んじゃないかな。」
と池田が言ったため、とりあえず、で試してみたのである。
彼女の様子を見るに、どうやら少なからず効果はあったようだ。
そうこうしている内に、時刻は6時30分。
皆が図書室から出ていった後、
石塚と池田はカウンターで少し話していた。
「・・どう、だったかしら。
最初は頷いてくれたけれど、やっぱり自分では、
あんまり愛想良く出来た気はしないのだけど・・」
不安そうにそう言う石塚に、池田は微笑みながら答える。
「いや?大丈夫だと思うよ。
というか、大体皆あんな感じだしね。
まぁ・・表情は硬かった気がするけど。」
その中には、少々のからかいも入っていた。
「しょうがないじゃない・・初対面の人ばっかりなんだし。」
それに対して、半ば睨むように池田を見る石塚。
その眼力は普通の女子とは思えないほどであったが、
池田は何とかおどけることに成功した。
「っ、まぁ、それはどうにかなるって。
むしろ、初対面の人ばっかりの所でよくやれたと思うよ。」
しかしながらやはりたじろぎつつもそう言う。
それを聞いて石塚は、
「・・そう、なら・・良い、のかしらね。
・・あんたのお陰、よね・・あ、ありがとう。」
と目元を緩めてしかしそっぽを向く。
その後顔半分だけを池田に見せて、笑んだ。
それは作ったようなものではなく、極々自然な笑みであった。
(ぁ・・・・・・)
彼女の気性からして滅多に見れないであろうその笑顔を見た池田は、
その可憐さに言葉を失う。
「・・ちょっと?」
「あ、まぁ、その、役に立った、なら・・俺も嬉しい。」
不思議そうな表情の石塚からそう言われて、
ハッとなった彼は、所々詰まりつつもそう返す。
「・・うん、役に立ったわ。」
短く答える石塚。
「そっか。」
池田も、短く答えた。
そして、少しの間の後。
「いっしー!居る〜?」
ドアを開けて、羽田が入ってきた。
「・・羽田さん。」
その騒がしいというか明るいというかといった雰囲気に、
池田は苦笑いを浮かべる。
「お、居た居た・・っと、これはこれは。
池田君はいっしーをナンパ中だったかな?」
その苦笑いに呼応するように、
羽田はその小さい体を屈めて下から彼を覗き込みながら、
からかうようにそう言った。
「違うって、というか会ってそんなに無い人を、
ナンパする方がどうかしてる。」
対して池田は、苦笑いを消さないままそう答えた。
「んふふーほんとーにぃー?」
羽田はしつこくにやにやと笑う。
「・・じゃあ、わたしはこれで。」
そんな二人の様子に、石塚は微妙に不機嫌そうになり、
唐突に図書室の出口に向かって歩き始める。
そして冷たい金属製のドアノブに手をかけると、振り向いた。
「池田君、それと・・羽田さんだったわよね・・じゃあね。」
「あー待ってよいっしー!あ、池田君もまた明日ねー!」
それを追いかけるように羽田も出て行く。
「ああ、また明日。」
彼女たちに応えて池田は、小さく手を振った。
(・・可愛かったな・・あの笑顔・・)
石塚が帰った後。
彼女が閉め忘れたドアの鍵を閉めながら、池田は一人にやついていた。
翌日。
「ん・・おお、石塚。
来るのが早いのう?」
皆より早めに登校した石塚は、
それよりも早く登校していたらしい古谷に話しかけられていた。
石塚は、古谷にいつもの顔で挨拶をする。
「あ・・おはようございます。
後・・それを言うなら、古谷先生の方が早いです。」
「ま・・生徒より遅く来るわけにはゆかぬしの。
少なくとも儂はそう思っておる・・それよりも。」
古谷はそれに答えつつ表情を改める。
「どうじゃ、クラスの皆にそれなりに馴染める奴はおるかえ?」
その顔はいつものおどけたものでなく、
生徒を心配する一先生の優しいものだった。
「・・はい、まぁ。
皆、その・・良い人、というか、お節介焼き、というか・・」
色々と言いながらも非難する言葉は混じっていない事に、
古谷は安堵し微笑みつつ返す。
「くふふ、羽田のような奴の事じゃな?
じゃが・・」
そして、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
「そのような輩・・嫌いでは無いのであろ?」
そしてそう続ける。
「まぁ・・嫌いじゃ、無いですけど・・」
対して、石塚はやや顔を赤くした。
そんな彼女に、古谷はにやにやと笑いながら、
「特に・・そうじゃな・・
池田のことがお気に入りになると見たぞ?」
と言う。
「池田君・・どうしてです?」
石塚は普通に返す。
「・・ふむ、まあ・・未来が見えたといったところか。」
その反応に、古谷はいたずらっぽく首を傾げにやりと笑う。
「未来が見えたって・・占い師か何かですか。
・・会ってちょっとの人を好きになるなんてそんな、
小説とかじゃないんですから。」
「ふふ・・そうかの?」
「そうです。」
時は過ぎていき放課後。
(さて、年季の違いを・・なんて、そんなガラじゃないけども。)
一日ぶりに図書室のカウンターに立った池田は、
そんなことを一人思って苦笑していた。
ちなみに、石塚は今日は奥の方で本を読んでいる。
「返しに来・・って、池田?何を笑っているんだ?」
そんな風にしていたので、図書室に来た立浪にそう言われてしまった。
「あ、いえ、何でもありませんよ。
ただ・・」
それに対して誤魔化すようにそう言って池田は本を受け取り、
視線を図書室の奥の方へ向ける。
立浪はその視線を追ったかと思うと、
「っふ、ああそういうことか。」
とその表情を緩ませた。
その直後に鳴るピッ、という音、そしてマウスのカチッと鳴る音。
いつもの返却のサインである。
「はい、返しましたよ。」
「うむ、ありがとう。」
その後そんな短いやりとりを交わすと、
立浪はカウンター近くの席に座る。
それを横目に見ながら、池田は再び椅子に腰を下ろした。
そして本を手に取り、読書を再開する。
クライマックスのシーン・・
長く傍にいたヒロインが蛇女と発覚した瞬間、恐れ慄く主人公の勇者。
ヒロインはそんな主人公に対して悲しげに微笑むと、
「さようなら・・」
そう言って、町の外へと出て行こうとする。
しかし、主人公はその腕を掴んだ。
「ど、どうして・・」
驚くヒロイン。
主人公は毅然として告げる。
「・・お前は、俺と一緒にいてくれた。
それは、お前が何者だろうと関係ない。」
ヒロインはしかし、こう返す。
「・・私は、魔物です。
この町には・・居られません。
それに・・貴方は勇者・・私を討たなくては。」
主人公は、それでも、と腕を放さない。
ヒロインも、どことなくそれを望んでいるようだ。
「・・なら、俺はこの町を捨てる、勇者の称号もだ。
たかが称号程度がお前を殺そうとしても、
俺がそれを捨ててしまえば、お前を殺す理由はない。」
そんなヒロインに向かって、そう言ってのける主人公。
「・・良いのですね?」
「無論、良い。」
心配そうなヒロイン、断言する主人公。
彼らは、二人で手を繋ぎ町の外へと歩いていった・・。
(・・これもこれで良いな・・)
本を読み終わり、そんな風に考える池田。
「・・ふぅ。」
その顔には満足感と達成感が漂っていた。
そして、顔を上げ・・彼は唖然とする。
誰も、居ない・・席が全て空いていたからだ。
「・・熱中しすぎたかな。」
誰にともなく呟き、軽く苦笑いをする。
そして立ち上がり伸びをして・・
「んん〜・・ぅん?」
彼は、奥の方の席を見て止まった。
何かが寝ているのだ。
誰か、ではない・・「何か」だ。
彼は何となくだがそう思った。
「・・・・確か・・」
あそこには石塚さんが座っていたはずだ、
だから、自分のただの思い違いかもしれない。
そう自己暗示して、池田はそこへ足を向ける。
その足取りは妙に重かった。
そして、そこへ到達した池田だが。
「・・・・」
池田は、絶句していた。
まず、その状況である。
彼の目の前には、すやすやと寝息を立てる、石塚にそっくりの少女。
しかし彼女の下半身は蛇の胴体。
そして、彼女の頭髪は全て蛇で・・
「・・・・・・・」
皆が皆、彼の方を凝視しているのだ。
威嚇するでもなく、怯えるでもなく。
彼を凝視して、時にちらりと互いに目配せしあう。
まるで、話し合いをしているような彼ら?を見ていた彼は、
「・・・・・・」
恐怖と困惑に襲われ、絶句していた。
(な・・なんだ、何なんだよこれ?!)
逃げたい、とも思う。
しかし、足が動かない・・文字通り蛇に睨まれた蛙だ。
怖いと感じながらも、動けない池田。
そんな彼の目の前でうねうねと動く蛇達。
(ぅ・・っ!!)
無限の様に感じられた彼にとっては地獄のようなそんな時間は。
「ん・・んぅ・・ん・・?」
石塚の目覚めによって、終わった。
そして彼女が目覚めた途端、蛇の挙動が変わる。
彼女の半分閉じられた瞼をつんつんと蛇達がつついたのだ。
「っ〜良いから・・離れなさいってば・・起きてるわよ・・」
それは、彼女にとってはいつものことだったのだが。
(う、うわっ、あ、あわあぁ・・!!)
池田は気が気でなかった。
少女が石塚であることは間違いないだろうとは思っている。
しかしそれがかえって彼の恐怖心を助長させた。
何せ、見知った女子が蛇の髪を持つ蛇女で・・
それを抜きにしても、
蛇達が寄ってたかって彼女の顔をつついているのだから。
(ど、どうしよう・・?!
先生に・・無理だこんな事、何かの冗談、であしらわれる。
なら・・えっと・・!)
混乱する頭でなんとか考えようとするが、
そうすればするほど彼の頭はますます混乱していった。
彼が、固まったまま動かず必死で頭を働かせていると。
「・・もう6時30分?」
いきなり石塚がそう言った。
池田の混乱に気づかずに言い放たれた言葉は、
「へ・・?」
いくらか彼の混乱を抑え込んだ。
「え・・や・・うん・・」
一部冷静になれた思考の中、彼は答える。
「・・寝過ごした・・」
石塚が呟く。
次に彼女は自らの体を見・・そして、池田の方を見ると。
「ぁ・・あの、えっと・・」
彼女も硬直する。
その口元に浮かぶのは、苦笑い。
「えーと、この体はその・・」
視線を彷徨わせる石塚。
「け、結構居るわよ?こういう・・実は、みたいな・・」
「え・・?いや、それよりも・・」
対して池田は、何とか表面上だけの冷静を保ちつつ、言った。
「い、石塚さん・・なん、だよな・・?」
「え、ええ・・そう、よ・・?」
石塚は頷く。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人して、沈黙する。
しかしながら、考えていることは同じではなかった。
(うわ・・なんか、小説みたいだな・・)
沈黙の中、そんなやや暢気とも言える考えをしているのは池田。
彼の元々の性分がそんな風である為だ。
事実が彼にとってあまりに非現実的すぎるためでもあったが、
彼は何とか目の前の光景を現実として受け入れようとしていた。
それでも、恐怖は消えずに残っていたが。
(しくじったわ・・まさか、寝ちゃって人化が解けるなんて・・!
こんな・・こんな早いタイミングで・・!!)
池田とは対照的に、深刻な危機ととらえているのは石塚。
当然といえば当然だった。
この姿を晒すことは、彼女が化け物だと周りに伝えること、
そして彼女がどんなことを考えていようと関係なく、
周りの普通の人間は自身の姿に恐怖を抱くことを、
彼女は身をもって知っていたからだ。
(・・ちぃ・・ッ!!)
石塚は表情を険しくする。
池田はそれを見て認識を改める・・
「ぁ・・!」
程、理解力を有しては居なかったし、大人になりきってもいなかった。
息を呑む池田の姿を見て、石塚は悲しい思いで笑う。
(そりゃ・・怖い、わよね・・)
そして、ドアの方に体を向け、首だけで振り向き。
「・・仕方、無いわよ。
この姿を見て怖くないなんて言える人は、居ないもの。
仕事教えてくれてありがと・・さようなら。」
そう言って、歩き始める。
待ってくれ、池田はそう言おうとした。
しかし、怖いものは怖い。
如何に彼が温厚な性格であろうと、いや、だからこそその感情は重たい。
「っ・・!!」
どんなに心が穏やかであろうと、動けなくては意味がないじゃないか。
自分の不甲斐なさに歯噛みしたその時。
(・・・・)
彼は、自分が先程まで読んでいた本を思い出していた。
あの中で、主人公はどうしていたか。
蛇女のヒロインの手を引き、止めたはずだ。
(でもそれは・・長年、付き合ったからで・・)
そんな正論が彼の思考に横たわっていた。
石塚は、体を這わせてドアへと近づいていく。
止めるなら、今しかない・・それは彼にも分かっていた。
しかし、今一歩のところで踏ん切りがつかない。
自分の中で、止めたいという気持ちがあるのは分かっている。
でも・・彼は正論を覆せるだけの論を持ち合わせていないのだ。
石塚が、ドアを開けてしまった。
(「・・そう、なら・・良い、のかしらね。
・・あんたのお陰、よね・・あ、ありがとう。」)
そこでふと、彼の脳裏を彼女と会って二日目の事が横切る。
彼女は、笑っていた。
(・・あの笑顔は、本物・・)
愛想良くするのは、と言っていた彼女の笑顔が、
池田にほんのちょっとの勇気を与えた。
「ま、待って、石塚さん。」
その勇気を支えに、彼は去ろうとする彼女に声をかける。
「何・・?」
彼女は振り返らない。
拒絶の意を示している。
「あ、あのさ。」
しかし彼は怯みこそすれ、もう迷わなかった。
「蛇は・・勿論、怖いよ。
だけど・・その、それだって、慣れてみれば良い話だ。」
短く、自分の思いを告げる。
「・・何よ。」
彼女は、振り返る。
その顔は、怒っていた。
怯む池田に、彼女はまくし立てる。
「慣れればいいって何よ!
この姿のまま、皆に、この姿晒せっていうの!?
無理に決まってるじゃない・・!
大体ね、簡単に言うけど言ってる本人が怯えてるじゃないの!
あんたは、あんただって、こわいんでしょ!?
なのに、なんでそんな事言うのよ?
本当は逃げたくて、それでも見続けることが優しさだとでも!?
やめてよ!あの人達みたいに避ければ・・ぁッ!?」
しかし、途中で彼女は目を見開いて口元を両手で押さえてしまう。
池田は驚き、それでも距離を詰めようとする。
「い、石塚さん・・その」
「来るなぁ・・っ!」
彼が一歩を踏み出した瞬間石塚が喘ぐように叫ぶ。
そして彼女の目が微かに怪しく光ると同時に。
「・・・・・」
池田は石になっていた。
(あ・・あぁ・・あ・・!!)
石塚は、自らが引き起こした現象に錯乱しかけていた。
彼が、歩み寄ろうとしてくれたことも理解していた。
しかし彼女は、それを払いのけた。
払いのけてしまった。
彼は、危害を加えようという意志は持ってなかったのに。
それに対する罪悪感と彼女の過去、既視感から来る恐怖。
(い、ぃや・・わた、私は・・ぁあ・・!)
それらに押しつぶされそうになり、
彼女はつんのめりそうになりながら、図書室を出た。
そこから、一目散に逃げる。
見捨てた事への罪悪感に駆られるであろう事も分かりながら・・逃げる。
「・・これ、石塚・・待たんか。」
しかし、幸か不幸か(彼女の核心にとっては幸いだろうか)
それはならなかった。
彼女を真正面から受け止める、暖かい誰かがあったからだ。
「だ、誰よ・・邪魔、しないで・・!」
目に涙を浮かべながら、彼女は自らの逃走を妨げた犯人を見上げる。
自らの担任だった。
古谷は彼女の肩を暖かく両腕で抱きしめると、一言だけ言う。
『落ち着け・・怯えるでない。』
「ぇ・・?」
彼女がそう言った瞬間、石塚は不思議な力と違和感を感じた。
正確には違和感と言うよりも、幾分か落ち着いたというべき感覚だ。
(・・あ・・)
それに伴って徐々に冷静になっていく思考。
(・・そうだ・・池田、君・・)
その中で、彼女は自らが石にしてしまった男子を思い出していた。
治しに行かなければ、彼女はそう思い立ち・・
(でも・・だけど・・)
踏ん切りがつかないでいた。
彼女の過去にもこういうことがあったのだ。
そのせいで、と思うのを彼女は嫌っていたが、
事実、それが彼女が自分と同じような者以外に、
人ならざる自らの姿を見せるのを避けさせる要因となっていた。
(・・・・・っ)
そのままにしておくわけにも。
だけど、だけど。
思考が迷宮へと入り込もうとしたその時。
「・・石塚。
まずは、池田を治してやることが先決ではないか?」
その迷宮の入り口は、古谷の声で閉じられた。
古谷は、彼女を優しい表情で見つめている。
その状況に、石塚は改めて疑問を覚える。
どうして、自らの先生は怯えていないのだろうか、と。
それを訊こうとした彼女の口は、しかし言葉を発さなかった。
「儂は、ファラオだからの。」
それすらも見通したように古谷が自らの素性を明かしたからだ。
(ファラオ・・砂漠の、ピラミッドの主・・よね・・?)
そんな高貴な者が身近に居た事に彼女は驚いていたが、
同時にそれをすんなりと受け入れてもいた。
先程の、自らを落ち着かせたあの柔らかな力。
それが、古谷がファラオであるという何よりの証拠だったからだ。
「・・でも、ですけど・・池田君は・・」
それは置いておくとして、と彼女は切り替える。
今大事なのは、池田だった。
彼の石化を解くか、否か。
解いたとして、その後は?
彼は・・自分を受け入れてくれるだろうか。
いや・・無理、だろう。
受け入れてくれる筈など・・
考えながら、沈んでいく彼女の表情。
対して、古谷はふう、と息を吐いた。
「・・石塚、過去は過去・・変えられはせん。
しかし、変わらぬ過去に囚われて現実も変わらんと決めつけるのも、
それは悲しいことではないか?
それにの・・池田は、そんな奴ではないと思うぞ。
そのくらいは、直に触れ合ったなら分かろう?」
知ったような口を利くな、という言葉が石塚の中に沸き上がる。
しかし、彼女は口には出さなかった。
それが、正しいと・・分かっていたから。
今度は、池田君なら、もしかしたら。
先生も見ているし、形だけだとしても。
そういう気持ちも彼女の中に確かにあったから。
「・・・・」
石化を解かれ、自らの教師から事の顛末を聞かされ。
池田は驚愕と困惑から口を開けずにいた。
(魔物娘って・・いや、それよりも。
さっきのは石塚さんが、やったんだよな。
・・メドゥーサ、だったけ・・名前は聞いたことあるけど・・
何だか、おとぎ話みたいだなぁ・・)
しかし、その石塚は、目の前にいる。
顔はとても思い詰めたようでいて・・何かを期待してるようでもある。
そして、彼をさらに驚かせたのは、
石塚が自分を石化させたそのままの姿・・
つまり、蛇の体と髪をそのまま出しているということだった。
嫌われたくないのなら、遠ざけたいだけならば、
あれは気のせいだ忘れろ、と言えばいいだけの話なのに、である。
(・・・・石塚さんなりに、頑張ってるのかな。)
それを見て、池田は少し勇気をもらった。
「あ、あのさ石塚さん。」
彼はそう声をかける。
「っ・・何・・?」
一瞬ビクッと体を振るわせた石塚から返ってきたのは、
僅かに震える、それでも気丈な声だった。
彼女は腕を組み、今にも崩れそうな凛とした顔を必死で支えている。
それを見て、池田は意を決した。
「その・・蛇、触って良い・・かな。」
「へ・・・?」
彼女は意外そうな顔をする。
当然だ。
何故なら彼女は、石化させられたことについて、
どんな罵詈雑言を浴びせられるか、それだけを考えていたのだから。
「な、んで?怒って・・無いの・・?」
恐る恐る、彼女は訊く。
すると彼女にとって意外なことに、池田は苦笑いを浮かべ頭を掻いた。
「いや・・実際、石のときは何が起こってるか分かんなかったし。
怒るも何も・・時間が飛んだみたいな感じだからなぁ・・
だから、こっちとしては何か良く分かんなくてさ。
びっくりはしたけど、だから何だってわけでもないし。
そりゃぁ・・ちょっとは不気味だとは思ったし、
石にしてる間にどこか壊されただったら怒るけど。
石塚さんは、俺に何かしようっていう気は無さそうだし、
こうやって普通に喋れてる分には問題ない、んじゃないかな。
図書委員やってる時のあの顔は、嘘じゃ無さそうだしね。
・・ああ、それよりもさ。」
それよりも。
懸念がそこまでで片づけられたことに彼女の緊張の糸が切れる。
「蛇、触っちゃ・・駄目かな?」
「だ、駄目なこと無いけど・・でも、蛇よ?
それにこんなに沢山、怖いでしょう・・?」
ややいつもの調子に戻りつつも、そう聞き返す。
傷つくのを怖がるが為に、予防線を張ろうとする。
後ろでは、古谷がそれを見透かして溜め息を吐いていた。
「・・まぁ、怖い、かな。
今も、色々疑ってないと言えば嘘になるよ。
でも・・最初は苦手なのは大概何でも、だろ?
だから、慣れるために、少し、触らせてくれないかなぁ・・って・・
正直な話、手は、震えてるんだけどさ・・」
池田は、真摯にそのままの意味で受け止めそう答える。
怖いことを隠さず、それでも何とかしようとしていた。
それを石塚は感じ。
(・・強いんだ・・池田君・・)
そんな感想を抱いていた。
理想を語る物語の主人公みたいな光り輝く強さではない。
鈍いながらもしっかりとした輝きを放つ、そんな強さ。
彼女は、そんな輝きの主人公は物語の中ではあまり好きではなかった。
嫌いなわけではないのだが、
それよりも、理想の英雄譚に謳われるような、
自分の汚点を何でもないと、手を取ってくれる人。
例を挙げるとするなら、池田が読んでいたような物語の主人公。
子供じみていると思ってはいたが、
それでもそんな主人公の方が好きであったのだ。
しかし今・・彼女に差し伸べられているのは、そんな者の手ではない。
怖いと素直に告げ・・しかしそれでもと言ってくれる者の手だった。
光り輝く英雄の手ではなく、薄汚れながらも前に進もうとする手。
望んでいた手より劣っている筈の、手。
あまり好きではない、好きではなかったはずのタイプのもの。
(・・そのはず・・なのに・・)
彼女にはその手が何よりも暖かく・・そして、優しく見えた。
だから。
「い、良いけど・・あんまり撫で回さないでね。
その・・髪・・なんだし・・」
彼女は、その手を、取った。
恐る恐る、そっと。
「ん・・分かった。」
答えると池田は、
ゆっくりと彼女の頭に手を小刻みに揺らしながら近づける。
石塚はやや不機嫌そうなちょっぴり赤い顔のまま、視線を逸らした。
少しだけ、彼の方に自分の頭が近づくように、だ。
・・彼の手がもう少しで触れる。
丁度その時だった。
「わ・・っ!?」
池田は驚きの声を上げた。
蛇の一匹が、彼の指先まで体を伸ばし頭を擦り付けてきたのだ。
(・・っ・・っ・・!!)
池田は、手が震えるのを感じながら、固唾を呑んでそれを見ていた。
すると、蛇はゆっくりと口を開き・・
「・・・ぁ・・・!!」
そこで、池田はゆっくりと手を引いてしまう。
噛まれると思ったからだ。
視線を逸らしながらもそれを見ていた石塚は、
「・・大丈夫よ、毒はないわ。
それに・・痛い噛み方はしないから。」
と言った。
少しは余裕が出てきて、口元には微かに笑みが浮かんでいる。
「・・そ、そっか・・」
答えた池田は、またゆっくりと手を彼女の頭に近づけた。
先程と同じように、また蛇が彼の手へと伸びていく。
そして、その口を少しだけ開け指へ噛みついた。
石塚がそう言っていたとは言え、幾らかの痛みを覚悟していた彼は。
(ぁ・・ほんとだ、痛くない・・)
その感触に戸惑いながらも、それを受け入れる。
すると、今度は池田は自分の指が優しく引っ張られるように感じた。
彼が自分の手を見ると、噛みついた蛇が住処へ・・
つまり彼女の頭へと持って行こうとしていた。
「あの、これ・・」
彼が驚き戸惑っていると、石塚が言う。
「その・・大丈夫、よ。
その子のしたいようにしてあげて・・」
「あ・・わ、分かった。」
池田は頷き、手を前へ、石塚の頭の方へと近づけていく。
・・実際これはその子、つまり頭の蛇がしたいのではなく、
石塚がそうして欲しいのだが、池田はそんな事は知る由はない。
この場では、メドゥーサの性質と特徴を知る古谷だけが、
その裏の真相を思い、にやにやと笑みを浮かべていた。
石塚の頭は目と鼻の先。
そんなところまで手を近づけていた池田は、
自分の手の先にある蛇達の群れにたじろいでいた。
しかし、そんな彼の気持ちとは関係なく、
蛇は彼の手を持って行こうとしている。
(こ、怖いけど・・良し、後・・少しだけ・・)
そう思い、彼が手をまた少し石塚の頭に近づけた次の瞬間。
「いっ・・!?」
彼は絶句し、硬直した。
さっきまでは見ていただけだった彼女の蛇達が、
一斉に彼の手に殺到したためだ。
慄いて彼は手を引っ込めようとするが、今度はそれすら敵わなかった。
彼の手に殺到した蛇達は、五本の指を十何匹かが弄び、
他の蛇は、全員で彼女の頭へと彼の手を運ぼうとしてきたからだ。
その蛇の中には、手首に巻き付き固定してくる者達もいた。
(わ・・ぅぁ・・うわぁ・・)
自分の手が、思い通りにならずに蛇達に飲み込まれていくのを
ただただ見ていることしか出来ないでいる池田は、
冷や汗が体を流れるのを感じながらそれを見ていた。
しばらくすると、その動きは止まる。
しかし、今度は殆どの蛇が優しく彼の手を噛み始める。
さしずめ、甘噛みといったところだろうか。
(・・・・・・ぁ、はは・・)
次々と起こる出来事に彼の頭は、ややパンク気味になっていた。
手の全てが無数の蛇に包まれるなど、
想像もしたことがなかったのだ、当然ではあるが。
しかし、実際起こっている。
(そ、そう、だよな・・
こういうこともあるって・・ことっ、うっ、あ・・!)
真面目に考えようとしていた彼の思考は、
手の背と腹から加えられた刺激に途絶えさせられた。
「っ・・ふくぅ・・っ・・!ちょ、ちょっとぉ、はは・・!」
蛇の体は、言うなれば細くてよくしなる柔らかい棒。
その棒達が一斉に今、彼の手の背と腹を刺激していた。
手で相手の手の腹や背、時には手首などを擽る行為があるが、
今彼が受けているのはまさにそれだ。
それも、人間相手ならどちらか一方だけなのが、あらゆる所からである。
そんな刺激に、池田が耐えられるはずはなく。
「あ、あはっ、ちょ、ちょっと、いしっ、づかっさっ、はは・・!!」
蛇の塊に手を突っ込みながら抑えきれない笑いを漏らすという、
何ともおかしな、または不気味な様相を彼は見せていた。
「へ?あ、ご、ごめん、あの・・!い、今止めさせるから・・!」
それを見て、流石にまずいと思ったのか石塚も止めようとする。
しかし、元はといえば自分の欲求を素直に達成するためのようなもの、
それを止められるかどうかは彼女にも怪しかった。
それは彼女にも分かっていたから、止めると言いはしたものの、
実際のところどうやって止めるかは考えつかない。
(あぁ・・!どうしよう!?
この子達、私の無意識から来てるから止めらんないじゃない!)
彼女があたふたし始めたその時。
「っふふ、お楽しみのところ悪いがの、そろそろ『止めておけ』?
学校から出る時間はとうに過ぎておるぞ。
ここでの事は、儂が見ておったという事で色々と始末してやるでな。」
救いの手は差し伸べられた。
古谷がにやにやと笑いながら、能力を使って蛇達に止めさせたのだ。
池田がちらと時計を見る、もう7時17分であった。
「あ・・はぃ・・そうですね・・はは・・じゃぁ・・」
「はい・・さようなら・・」
「うむ、さようなら、帰りは気をつけてな。」
そんな会話を交わして、三人は解散する。
(ふふ・・一時はどうなるかと思ったが、
なかなかに順調ではないか、池田、石塚。)
(・・まぁ、良いのかな・・ああやってる内に、ちょっとは・・)
(もう・・何やってるのよ、私の髪は・・!
い、いや、自分がして欲しかったのは分かってるけど・・)
三人の行き先と同じように、その思考もそれぞれであった。
翌日。
校門の前で、池田と石塚は会話を交わしていた。
内容は、石塚の素性についてだ。
「・・だから、私のことはばらさないで。」
「分かった・・じゃ、行こうか。」
会話をそれきりにして、歩きだそうとする二人。
その背後からかかる声があった。
「おやおや〜?池田君はやはりいっしー狙いだったのかな〜?」
二人は振り返る。
そこにいたのは二人の予想通り、羽田だった。
彼女はにやにやと笑いながら二人の方へ歩いてくる。
「狙いって・・ただ、普通に話してただけ。」
「そうよ、羽田さん。」
二人はそれに答える。
「ふーん・・?」
対して、首を傾げた羽田は石塚の傍まで歩いていくと。
「・・ね、もしかして、正体バレた?」
と訊いた。
「・・何の事?」
瞬間、石塚の気配が鋭く冷たくなる。
それを感じとって、羽田は表情を強ばらせた。
「ちょ、ちょっと・・いっしー。
やめてってば、いっしーの種族の怒気は、
あたし達にとっては恐ろしくって堪らないんだから・・」
そして、周りに聞こえない程度の声でそう言う。
それを聞いて、石塚のみならず、池田も首を傾げた。
「・・あたし、達?もしかして羽田さん・・」
気配を緩めた石塚が問う。
羽田はてへへ・・と頭を掻いた後、袖口を捲った。
「・・なるほど。」
二人は頷く。
何故なら捲られて見えた羽田の腕に、羽毛がついていたからだ。
「まぁ、そゆこと。
あと・・」
彼らを見て、羽田はふぅと息を吐く。
「何があったか知んないけど、この学校結構そういうの居るからさ。
困ったら、相談だよ?
いっしー、なーんかすぐ抱え込みそうだし。
んじゃね!教室で!」
そしてそう言って返事も聞かず駆け出していった。
「・・・・何よ、知ったような口利いて。」
それに対して憎まれ口を叩きつつも、
石塚の心の中は何か暖かいものに包まれていた。
放課後。
石塚は、図書室にて係の仕事をこなしていた。
「はい、じゃあこれ。」
そう言って手渡した本を、相手が持って行く。
その一連の流れは、早くも彼女の中で習慣となりかけていた。
(・・ふぅ。)
心中で一息。
そして椅子に腰掛け、次の人が来るまで自らの本を読む。
これも、彼女の中に出来かけている習慣だ。
(・・そう言えば。)
本を読みながら石塚はふと考えていた。
辺りを見渡しその姿を視野に入れ、少し安心する。
(池田君は・・あそこか。)
池田直也。
その名前は、彼女にとって少なくとも他人ではなくなっていた。
自分の素性を知り、恐れ、それでも手を伸ばしてくれた人。
手を伸ばし、震えながらも蛇の頭髪を受け入れた、ただの、人。
ヒロインの対となる・・
「っ・・ふぅ。」
そこまで考えてから、彼女は軽く頭を振った。
(流石にそれは行き過ぎね・・。
物語読んで、センチメンタルになってるのかしら。)
そう結論づけて思考をそこで中断し、読書を再開する。
その体はほんのちょっぴりだけ池田の方を向いていた。
(お・・6時30分か。)
椅子に座って本を読んでいた池田は、
周りが次々と退出していくのを感じて、そう思っていた。
「ん・・〜っ。」
本を閉じ、目も閉じて彼は伸びをした。
ぐぐぐっ、と体が引っ張られる感覚に彼は満足し、立ち上がる。
そして、すかすかになった図書室内を軽く見回して、
彼はカウンターでその視線を止めた。
石塚が、居なかったからだ。
(帰ったのかな・・まぁ、6時30分にはなってるし・・)
そこまで考えて、池田はつい笑ってしまう。
「っふふ・・」
(図書委員の仕事は戸締まりもなんだけどな。
まぁいいや、窓閉めてこよう。)
そう思って、カウンターから視線を外した直後、彼は固まった。
窓際に石塚がいたからだ。
誤解の無いように書いておくと、
石塚は別段怖い顔をしていたわけではない。
池田が硬直した理由はただ、
彼女がメドゥーサの姿をとっていたという、それだけである。
(・・やっぱ、慣れないというか何というか・・だなぁ・・)
そんな事を思いながら、池田は彼女に近づいていく。
「・・石塚さん。」
彼がそう声をかける。
返ってきたのは、ややいたずらっぽい微笑。
「・・どう?びっくり、した?」
加えて、そんな言葉だった。
昨日の反応との差に驚きながらも、彼は答える。
「・・うん、まぁ。」
それを聞いた石塚は嬉しそうに表情を緩めた。
「・・そ。
なら・・良いわ。」
そして開いていた窓を鍵まできちんと閉めると、
池田が何か言う前に話し始める。
「あの、ね?私ってこんな格好で・・見せたら、怖がられるじゃない?
だからその・・正直言って、見せるのが怖いのよ、私も。
でも、だからって、何時までも怖がっては居られない、でしょう?
あんたにだったら、その、見せても大丈夫だから、
こうやって見せて、ちょっとずつ、慣れていけたらな・・って・・。
ま、まぁ、いきなりやったら驚くかなっていうののついでだけど!」
「・・そっか。」
照れ隠しにそう言った彼女に、池田は短く返した。
顔に、微笑みを浮かべながら。
その暖かい雰囲気に石塚は、
ほぼ無意識のうちにこんな事を考えていた。
(・・こういうの、包容力・・って言うんだっけ。
お兄ちゃんが居たらこんな感じなのかしら・・)
そして直後に、それを意識し赤面する。
抱いた感情が「甘え」に似ていると認識し、恥ずかしくなったのだ。
(っ、何を考えてるのよ私は。
確かに池田君は優しい方だし、私より背も高いけど、
だから、だからって・・お兄ちゃんは無いでしょうに・・!)
「・・石塚さん?」
そんな風に思っていると、池田から声がかけられる。
ハッとして石塚が彼を見ると、
不思議そうなやや困ったような顔がそこにはあった。
それを見て、彼女はまた先程と同じ考えを抱き始める。
今度は、最初から自覚できていた。
「あ、ごめん!窓全部閉めたかなって、考えてただけ。
じゃ、じゃあさようなら、また、明日!」
だからそう言って、半ば逃げるように帰る。
(うぅ〜・・なんで、こんな、変な感じになるのよ・・!)
その心中は揺れていた。
どれくらい揺れていたかというと、
やらなければならない消灯とドアの鍵閉めを忘れるくらい、である。
結局、池田が苦笑しつつそれをやって帰ったのだが、
後になって思い出した彼女は、それが容易に想像できてしまい、
やはり一人で赤面していた。
そんな彼女のこと。
「・・いっしーってさ、池田君のこと好きでしょ?」
羽田にそう訊かれるのに大して期間はかからなかった。
正体発覚から丁度、一週間経った放課後のことである。
せっかくだから、ということで羽田から近くの図書館に誘われたのだ。
何がせっかくだから、なのかは分からなかった彼女だったが、
羽田のことは友達であると思わないでもなかったので誘いに応じた。
その道中で、そう訊かれたのである。
「・・別に。」
いつも通り、ぶっきらぼうに彼女は答える。
顔にもやはり、いつもの不機嫌そうな表情。
しかし羽田はにやにやと笑いながら言う。
「ほんとにぃ〜?放課後、図書室にあたしが来たら
二人っきりになってて、いつも蛇体見せてるじゃん?」
その言葉に石塚の顔が赤くなり、髪の毛がわさわさっと動く。
「あ、あれはただの信頼とかそういう・・」
「あれれー?そう言うわりには動揺してるような。」
「し、してない!」
そんな言い方をしては、白状しているようなものだったが、
彼女の必死の誤魔化しに、羽田は追及を止める。
「ん〜そっかぁ・・」
その代わりに、別方向からの切り口を探り始めた。
(参ったなーこりゃ。
でも、いっしーは人に言われなきゃ認めなさそうだし・・
・・そういえば、メドゥーサもラミア属だよね。)
程なくして手段を思いついた彼女は、
石塚の背中側をわざとらしく見やると、呟いた。
「あ、池田君と立浪先輩が手を繋いでる。」
瞬間、空気が凍りついた。
少なくとも羽田はそう感じた。
「・・・・」
石塚は何も言葉を発しない。
しかしながら、蛇の体と頭髪をさらし、
背後を振り向きその方向を髪と共に凝視している様からは、
その心中が容易に想像できた。
(ぁ・・あはは・・や、やっぱり、そう、なん、じゃん・・?
というか・・人居なくて良かった・・)
羽田が、凍結寸前の思考回路でそんな事を考えていると、
石塚が、恐ろしい程ゆっくり(羽田の主観)彼女の方を振り返る。
ひっ、という声を喉元で辛うじて彼女が抑えていると、
間もなく石塚は言った。
「・・居ないじゃない。」
底冷え、というのがぴったりなその声の冷たさに、
羽田は本能的に恐怖しつつ、返す。
「そ、そっかー・・み、見間違い、かなー・・あはは・・」
すると石塚はいきなり、目を閉じて顔をななめに伏せた。
ゆっくりと、体も人間に戻っていく。
(あ、あり・・?)
その変わりようを羽田は戸惑いながら見ていた。
怒って詰め寄ってくるって思っていたんだけど・・と、
羽田が疑問を頭に浮かべていると、
「そう・・ええ、そうよね・・」
と石塚は呟き始めた。
何事だろう、と羽田が思ったその矢先に石塚はゆっくりと目を開ける。
「・・よく考えれば、池田君は今日は当番じゃない。
全く、焦って損したわ。」
そして、いつもの顔でそう言った。
彼女の雰囲気にもう大丈夫だと感じた羽田は、
からかうように言葉をかける。
「・・や、で、でもさ?もしかしたら、こっそりと・・」
「その手にはもう乗らないわよ、羽田さん。」
対して石塚は、意外にもそれをさらりとかわした。
「大体、池田君も立浪さんもそんな事をする人柄でないし、
池田君の匂いがこの辺りからはしないわ。
そもそも・・池田君に誰かの臭いなんてついてなかったもの。」
そのまま彼女は歩き出し、少しして・・止まる。
「いっしー?」
不思議そうな自分の友達の声に、彼女は振り向かずに言う。
「方法はどうかと思うけど・・
気づかせようとしてくれた事には、ありがとうって言っておくわ。」
彼女にしては素直な言葉に羽田は喜びを感じ、
「・・ただし、お節介な友達だ、って言葉もつくけど。」
「いっしぃぃ・・」
そして付け加えられた言葉に不満げな声を漏らした。
「さ、行きましょう羽田さん。
こっちの方で合ってるのよね?」
「ん〜はぃ・・合ってます〜・・」
「そう。」
実際、付け加えられた言葉は彼女なりの照れ隠しだったのだが、
羽田にそれは分からない。
素直で、色々とまっすぐな気質の持ち主なのだ。
「あ、待ってよいっしー!」
また、一つの物事をずるずると引きずらない。
それも、彼女の気質であった。
「ええ、羽田さんが居ないと詳しい場所自体は分からないもの。」
そして石塚は、その気楽さを心地良く感じていた。
その夜。
「ちーす、居るかぁ?」
石塚が自分の部屋で本を読んでいると、
大きな声を上げてこれまた大きな体が入ってきた。
「・・居るけど。」
静かな空間を乱され不快だとばかりに石塚は、
闖入者へと冷めた視線を向ける。
しかし、闖入者の方はそれをまるで気に留めずに、
彼女の前まで歩いていきその頭を唐突に撫でた。
正確には、蛇の背を、だ。
その手つきは、女子の頭を撫でるには粗暴過ぎた。
そして、石塚は女子である。
「あ痛ぁっ!」
結果、無法者の手は噛みつかれ、石塚の頭は解放される。
「っ、つつ・・」
手を押さえてうずくまる無法者。
同情を誘いうるかもしれない姿だが、
これで何度目か、数えるのも嫌になるレベルとなっては別だ。
しかも・・と、石塚はそれを見やる。
逞しい体、緑がかった肌、動物の頭頂部の骨の描かれたヘッドバンド。
そして何より、無駄に大きく育ちそれでいて引き締まっている胸部が、
彼女のいらだちを増長させた。
一つは、何故こうも大きくなるのかと。
そして、もう一つ。
「・・いっつも言ってるけど、もうちょっと女らしくして、姉さん。」
それだけ大きいくせに、何故こうも全てにおいてガサツなのか、と。
男兄弟であったならまだしも、姉だ。
種族柄がどうこうと言っても、学習するというのはないのか。
毎度そう思い、最初の内は文句も言っていたものの。
「へへ、悪い悪い。」
いくら言おうとも、笑いながら口先だけの言葉を返されるのでは、
もはやその気も失せるというものだった。
「・・で、何の用なの?」
しょうがないので石塚は、自らの部屋に入ってきた理由を問う。
すると彼女の姉は、思い出した、というような顔をして、
立ち上がりつつ答えた。
「あーそうそう、それな。
風邪流行ってるらしいから気をつけろって話。」
「・・はぁ。」
たった、それだけで読書を邪魔したのか、と
少々の苛立ちを再び覚える石塚。
「あーそれとな、冷え込むっぽいぞ、明日から何日か。
お前、種族柄きついだろそういうの。
暖かくして寝ろよって、まぁそんだけだ。」
しかし、続くさらりとした気遣いがそれを相殺した。
こういうところがあるから毎度結局は許してしまうのだろう。
そう思いつつ石塚は、わかった、と返す。
「おう、んじゃな!お休み。」
彼女の返事を聞くと、そういって姉は部屋の外に出て行く。
(・・相変わらず、我が道を行く人なんだから。)
そう思うと同時に石塚は、ネッグウォーマーと手袋か・・
毛布は確か、丸めて置いてあったわよね・・とも考えていた。
翌日。
昨日聞いたとおりの寒さを、用意しておいた防寒具で和らげながら、
石塚は密かに姉に感謝していた。
そのままいつも通り登校し、授業を受けていたのだが。
(・・あら?)
三時間目の中程、説明を聞いていた彼女は、
ほんの微かな違和感を覚えた。
体調でも崩したのかしら、と考えるが、
そのうち、違和感は体の外からだということに気づく。
それもかなり近い・・そこまで分かって、ある考えが浮かんだ彼女は、
周りに分からないように、
こっそりと、蛇特有の熱を感じ取る器官を顕してみた。
すると、違和感がよりはっきりとしたものとなる。
この時点で彼女には違和感の正体が分かった。
周囲の内のある一点、そこの温度がいつもより高いのだ。
そのある一点とは、池田の体温。
心配になる彼女だったが、池田の様子にさしたる異常は無い。
実際そこまでの違和感では無かったし、精々0,5℃程度、だろう。
なら、心配ないか・・
そう結論づけて、再び授業へと石塚は意識を向ける。
「さて、ではこの自分の欲求と行動が正反対になってしまう防衛本能。
名を何と言ったかのう?・・石塚よ。」
「・・・・」
その直後、長々と余所見をしていたツケを払わされるのであった。
放課後。
石塚が、大分慣れて来た係の仕事をしつつ本を読んでいる内に、
時刻はすぐに6時30分となった。
「・・ふふ。」
羽田に指摘されたように、彼女は池田が気に入っている、いや、好きだ。
その池田と、短い時間とはいえ二人っきりになれるとあっては、
彼女が笑みを漏らしてしまうのも無理からぬ事だった。
「ん・・んぅ・・」
いつものように、図書室に池田の気配だけがあることを確認してから、
石塚はその本来の姿を現す。
周りのものを蛇体でぐちゃぐちゃにしないように注意しつつ、だ。
「・・お疲れさま、石塚さん。」
そして、正面からカウンターに近づいてくる池田に、
他愛ない返事をしようとしたが。
「あ、ええ・・どうしたの?」
それは疑問を伴うものになってしまった。
何故なら、彼女の視界に白いマスクが入ってきたからだ。
「あぁこれ?ちょっと風邪流行ってるらしいし・・
俺、意外と体調崩しやすいみたいだからさ、念の為。」
どうって事はないと思うけど、と最後に付け加えて、
軽く肩をすくめてみせる池田。
心配しなくても大丈夫、という仕草だったが、
石塚はいつもよりも不機嫌そうな顔でこう返した。
「いや、なら良いけど・・でも、ちゃんと暖かくして寝なさいよ?
なんて事無い、って思ってたのが意外と辛かったりするんだから。」
「うん、知ってる・・何度か経験済みだしね。」
言われた池田は笑顔で応じる。
「そ・・なら、いいけど。」
その柔らかい言葉に、石塚も笑って返した。
これならば問題無さそうね、と思いながら。
翌日、放課後のそのまた皆が出て行った後の図書室にて。
「・・ふぅ〜・・」
石塚は腕を枕に、重い重い溜め息を吐いていた。
当番を本来の者の代わりに務めさせられたからではない。
その本来の者が来ていないこと、それが不満なのである。
(・・だから言ったじゃない・・
大丈夫かしら・・安静にしてる、だろうけれど・・)
そして、心配なのであった。
(明日は・・休み、よね、週末だし。
・・となると、会えるのは少し先か・・)
ふぅ、ともう一度ため息を吐く。
それが自分らしくない行動なのも、彼女は自覚していたが、
だからといって抑える気にはならなかった。
想いを告げてこそいないとはいえ、好きな人なのだ。
週の終わりに会えるのと会えないのとでは、大分違う。
せめて、ちょっと話すだけでも・・
と考えたところで、彼女は妙案を思いつく。
「見舞い・・!あ・・でも、駄目ね・・」
しかし、持ち上がりかけた頭は再び降ろされてしまった。
(・・池田君の家って、どこなのかしら・・)
そう、肝心なことを知らなかったからである。
いかに良い方法を思いついたとて、ここが分からなくては意味がない。
と、なるとやはり、大人しく・・
「何が、駄目なんじゃ?」
突如背後よりかけられた声。
ビクッとして石塚が振り向くとそこには、
腕組みをした古谷が、苦笑を浮かべて立っていた。
「あ・・古谷先生。
別に、何でもないですよ。」
石塚はいつもの調子を装ってそう返す。
「っはは、大人に嘘をついても罷り通ることは滅多にないぞ?」
しかし、古谷は苦笑を浮かべたまま、言った。
「言いにくいことなら、当ててやっても良いが?
そうさなぁ・・池田の見舞いに行きたい、
されど、何らかの理由によりそれがならぬ、といった所か?」
「・・・・」
そして続く古谷の問い。
石塚は無言であったが、
それを見て古谷は、苦笑を優しい微笑みへと変えた。
「当たり、だな。
・・どれ、ここはひとつ儂に相談してみる、というのはどうじゃ。
思いの外、簡単に解決できるやもしれんぞ?」
相談の提案。
迷惑でないか・・とか、お節介を・・とか、
その他色々な事を考えた石塚だったが、
担任なら、彼の住所を知ってるわよね・・と最終的に考えがそこに至る。
「そうですね、じゃあ・・」
なので、その提案に乗ってみたのだった。
少々の後。
「・・うむ、ではここでちょっと待っとれ。」
そう言うと古谷は出て行く。
どうしようというのだろう・・と石塚が不思議に思っていると、
すぐに古谷は戻ってきた。
彼女は、古谷が手に一枚の紙を握っていることに気づく。
気になったので質問しようとしたが、
古谷は、それよりも速くその紙を彼女に差し出した。
「ほれ。
まぁ、女子にはちと面倒やもしれんが・・」
受け取り、見てみる彼女。
「これ・・」
彼女は、何か暖かい気持ちに包まれた。
紙切れが、学校周辺の簡単な地図のコピーだったからだ。
しかも、ある一箇所には丸がしてあり、この辺、と書いてある。
そこは、池田の家の大体の位置・・何とも丁寧なことである。
石塚にとっては、正に渡りに船であった。
「・・いいんですか?」
彼女の、声色に喜びを滲ませながらのほぼ形だけの遠慮を、
彼女の教師は目を細めハッと笑い飛ばす。
「な〜にをその気もない癖に遠慮しておるのやら。
そんなもので自らの恋路を阻む可能性を作るなど、阿呆のすることぞ。
まぁ、そんな所も可愛らしいのじゃがな。」
豊富な人生経験に裏打ちされた頼もしい言葉。
その中に恋路という単語が出てきた事に石塚は少なからず驚いたが、
まぁ、この先生なら不思議と言うほどでもないわね、とも思っていた。
「・・じゃあ、ありがたくいただきます。」
「んむ、精々気張れよ。」
かくして、石塚は池田の家に行けるようになったのであった。
その次の日。
あまり早く行くのも迷惑だろうと考えた石塚は、
正午よりやや早いくらいに出発し、地図を頼りに歩き、
太陽が真上に来た辺りで、無事池田家まで辿り着いていた。
車庫はあるが車はない・・親は出かけているようだ。
「っ、ふぅ・・」
少々緊張しつつ、見舞い、ただの見舞いよ、と自分に言い聞かせつつ、
彼女はインターホンを押す。
「・・ぁ。」
ピンポーンという音が鳴ってから彼女は、自分の行動をやや後悔した。
池田の性格上、
相当の容態でない限り、応対に出ようとするのは明らかだからだ。
そんな所も好きなのだが、それはつまり彼に多少の無理を強いること。
浮かれていたわね・・と石塚が自戒していると、
ガラガラと音を立てて、横開きの玄関が開く。
「はいはーい・・って、石塚さん?」
応対に出た池田の顔色は、彼女が思っていたより、良かった。
石塚を家の中に招き入れて。
池田は、彼女の不機嫌に苦笑していた。
「うん、まぁ・・実は、
昨日の午後4時くらいには熱はほとんど無くなってたんだ。」
不用意に、こんな事を口走ったが為に。
「はぁ・・!?大した風邪じゃなかったんじゃない、何よそれ・・」
そう言いはする石塚だったが、実は相当ホッとしていた。
ただ、それが素直に出せないだけである。
池田も、それにはなんとなく気づいていた。
「はは・・ごめんごめん、係の仕事押しつけちゃったな。」
「本当よ、まったく・・」
口を尖らせる石塚に、彼は苦笑しつつ言う。
「悪かったって、次の当番代わるから。」
それは、所謂友達として、なら妥当な言葉だったろうが、
この場合はちょっと、ずれていた。
「良いわよ別に・・私だって、好きでやったんだし。」
「・・そっか・・」
返ってきた言葉に池田は黙り込んでしまう。
石塚さんが不機嫌そうなのはいつもの事だ。
しかし、今日は殊更機嫌が悪そうだ・・これはなんでだ?
そんな事を考える池田。
少々の後、何かを思いついた彼は、
おもむろに石塚の方を向くと、こう提案する。
「あーその・・石塚さん?
だったらさ、お詫び・・というか何というかだけど、
どっか出かけない・・かな、奢ったり・・とか・・」
それは、[石塚の女心]をまったく分かっていないものだった。
もっとも、彼は普通の女心すら知らないので仕方ないとも言えるのだが。
「・・良いって言ってるでしょ。
それに、どこか出かけて人混みに入ったら、
症状が残ってて悪化するかもしれないじゃない。」
「いや、だけど・・俺の気が収まらないっていうか・・」
「あぁもう!」
しつこい彼に、石塚は頭を振って立ち上がる。
彼女の突然の行動に驚く池田。
その何とも言えない表情に向かって彼女は、感情に任せて言い放った。
「そこまで言うんなら、今日一日、私にあんたの看病させなさい!」
今日一日あんたと二人っきりで居させなさい、
流石に、そこまでダイレクトに言うのは彼女には無理だったが・・
「え・・あ、うん・・」
それでも、それは功を奏したのだった。
さて。
勢いで看病されることになった池田だったが、
彼自身が言った通り、実際のところ体調は悪くなかった。
故に。
「・・・・」
現状は、テレビもつけずに、
ソファに二人で並んで無言で座っているという、
池田にとって良く分からない状態になっていた。
(・・どうすればいいんだろう・・)
彼はこれまで、異性と話す機会は多々あったものの、
こうも近い距離にそれが居るという経験は、したことがなかった。
それでも、何か気の利いたことが言えないものか・・そう思って、
彼は石塚の方を見る。
彼女は彼の視線に気づいた途端に顔を赤らめて、さっと顔を背ける。
嫌われている、と思うほど彼は単純ではなかったが、
その意味を完全に理解出来るほど大人というわけでもなかった。
参ったなぁ・・と苦笑しつつ、
何回目かになる視線を逸らす行為をしようとして彼は、
そう言えば、と再び石塚の方を向いた。
「石塚さん、なんで今日はメドゥーサの体してないの?
なんというか、いつもあれだったから違和感っていうか・・」
「えっ・・」
続いた質問の内容が予想外であったらしく、
彼女は顎に手を当て、考え込むような素振りを見せる。
「・・それもそうね・・」
そしてほんの少しの間の後、そう言うと本来の姿を現した。
その瞬間。
「うわーい池田君だー!」
彼女の蛇達はそのようなことを言って、
池田の方へとくねくねとした体を伸ばし始めた。
うざったい、という風な石塚とは対照的に、
池田は微笑みながら蛇の集団へ手を突っ込む。
「わーい!」「あったかーい!」「つんつん・・」
そして群がられながら、一言。
「この蛇達って、喋れたんだ?」
尋ねられた石塚は、不機嫌そうな表情のままそっぽを向き、
「・・まぁ、ね。」
と答えた。
彼女の口からの答えはそれだけである。
「図書室に居るときはまだ学校内だからねぇ・・
大声で喋ると色々面倒だから、そうしなかったの。」
だが、頭の蛇の方はことのほかお喋りで、
口をかなりの速さで開閉させていく。
「あ、でもでも何回か危ないときはあったなー。
特に一番最初のアレ!アレはほんとーに・・」
まるで、石塚の分まで自分が話すのだ、そう言わんばかりである。
「・・そうなんだ・・」
もはや、その返事が石塚に対してなのか、
それとも蛇に対してのものなのかあやふやになっていたが、
とりあえず、池田はそう返事をする。
「・・うざったくなるけどね。
勝手なことをぺらぺらと・・」
それを受けて、石塚は腕を組みつつ返す。
「あ、そうそう、私たちの言動って全部、
持ち主の心に由来してるんだよ、知ってた?」
一方蛇は、盛大にネタバレをぶちかました。
「・・え?」
当然ながら、池田は硬直する。
その意味を一息には理解できなかったのだ。
「えーと・・その、それって・・」
彼はそう言いながら、石塚の方をゆっくり見やる。
「・・で、デタラメよ。」
彼女は真っ赤な顔でそう返す。
「や、でも」「デタラメだったら!」
池田が何か言おうとしても、させない。
果たして、蛇が言っていたことは本当なんだろうか。
ここまでの否定となると、石塚さん的には真実っぽいんだけど・・
彼が、決めかねていたその時。
ぐぅ〜〜・・
彼の腹が音を立てて、鳴った。
その瞬間。
「あ、わ、私何か作るわ!
看病って言ったんだし、それくらいさせて?」
「あ、ねぇねぇ、どの辺の材料使って良いとかある?
人の家の冷蔵庫だから無闇に取れないよ。」
一人と一匹は、ほぼ同時に同じようなことを言った。
「あ、えーと・・引き出しにチャーハンの素入ってるから・・」
それに返しつつ池田は思う。
彼女の髪の言っていたことは、本当のようだ。
「ごちそうさま。」
しばらくした後。
作ってもらったチャーハンを食べ終わった池田は、
石塚の方を向いて、微笑みつつこう言った。
「石塚さんって、料理上手なんだな。
おいしかったよ。」
対する石塚は腕を組みながら、赤い顔を真横に向ける。
「そ、そう?まぁ、おいしかったんなら・・良いけど。」
「うん、上手だと思う。」
そのいつも通りの反応に笑って応じつつ、
池田は自分の分と彼女の分の皿を持ち、台所まで持って行く。
そして皿を置き、ふぅと一息ついてからそれを洗い始めた丁度その時。
「そういや、とっても唐突だけどさ。
池田君って好きな人とか居たりすんの?」
突如、彼にそんな質問がかけられた。
「ん〜?いや、居ないけど?」
それに間延びした声で彼が返すと、声の主はさらりとこう言った。
「あ、そなの?だったらご主人とかオススメだよ?」
ご主人?と池田は不思議に思い、一瞬首を傾げるが、
話し手が蛇だと言うことは彼らの持ち主、つまり石塚のことだろう、
と結論づけてそれに返す。
「あー・・いやでもさ、そういうのは相手の気持ちが大事だろ。」
「へー?じゃあさ、池田君自身はどう思ってるの?」
「俺・・?うん・・まぁ・・そう、なったらいいなぁとは・・」
その会話は、池田と石塚の距離的に少々不思議なものであるが、
キッチン付近の構造と今の状況を考えると、そうでもなかったりする。
池田家のキッチン付近の構造は、
食卓と台所がカウンターによって仕切られ、向かい合わせだ。
そして今、池田は下を向いて皿を洗っていた。
だから自分の話している相手の主がどんな顔をしているかなど、
そんな事は分からない。
また、彼は一つの事をやっていると他の事まで考えが回らない男だった。
なので、蛇が何を言わんとしているのか、良く分かっていないのだ。
「・・あのさ、池田君?私達って、ご主人の心の代弁者だよ?」
「え、ああ、知ってる・・と、よしこれで全部だな。」
その態度に蛇ははぁ、とため息をついた。
「・・う〜、よーするに、さっきのは遠回しな告はぐぅ」
「・・?どうし」
不自然に止まった相手の言葉に顔を上げた池田は、
口をた、の形にしたまま固まった。
「・・まったく、余計な事を・・!」
自分の髪の毛の内の一本、やけにおしゃべりなその一匹の首、
それを石塚が顔を真っ赤にしながら握りしめていたからだ。
「ちょ、ご主人、ギブギブ!酸欠!酸欠になる!」
体をくねらせ必死に訴える蛇。
「知らないわよ!というかむしろ一回そうなって静かになっちゃえ!」
しかし、取り乱す石塚には届かない。
そのあまりの形相に池田は軽く引きつつ、声をかける。
「い、石塚さん、その辺で・・」
「池田君も池田君よ!人の気も知らないで・・!」
だが、それも彼女の気持ちを燃え上がらせただけだった。
「そ、その!私の事が好きとかどうとか!
そういう事を私が居るのに色々と・・!」
さらに、彼女はヒートアップしていく。
池田が口を挟む間などない。
「だ、大体そういう事は!そう、いう・・こと、は・・」
かと思うと急に語尾が弱くなる。
その落差に池田が戸惑っていると、彼女の頭から声がかかった。
「あーまぁ、あれだよ池田君。
ご主人は、正面から好きって言われえぇっ!!
な、なんで!?私今のは悪くみぎぃ・・」
その声は、途中で彼女に封じられてしまう。
しかし、今回の池田は聞き流さなかった。
「あーあのさ、石塚さん?」
とある事を思いついた彼は、
やや恥ずかしげに視線をさまよわせながら、石塚に声をかける。
「あ、いや!違うの!この、蛇が言ってることはデタラメで!」
「・・いや、まぁそれでも良いよ。」
「え・・?」
そして、誤魔化そうとする往生際の悪い彼女を優しく制し、言った。
「俺がそういう風になれたら良いなぁって思ってるのは、本当だから。」
「えっ・・!?・・あ、あぅ・・」
それを聞いた瞬間石塚の体が跳ねた。
その直後、顔を赤くして俯く彼女。
池田は、固唾を呑んで返事を待つ。
・・しかし、顔を赤くしたまま、彼女は何の反応も示さない。
うるさいくらいの蛇も、このときは一言も発さなかった。
少しして。
沈黙による妙な雰囲気が漂い始めた辺りで、
池田は恥ずかしくなって頭を掻きつつ、視線を逸らした。
「・・ってこれ、何を言ってるんだって話だよね。
ついさっき、相手の気持ちがーなんて、
言ってた奴の言うこととは思えないな、はは・・」
それに対し石塚は、一回視線を持ち上げ池田を見た後、
ゆっくりと目を伏せ短くこう答えた。
「・・ええ、そうね。」
「はは・・だよなあ・・」
口ではそう言いつつも、振られたかな、これは・・
と心の中で落ち込む池田。
それを見て、石塚は少しだけ口の端を持ち上げて言う。
「・・でも。
そういう人を好きになる変わり者もいるんじゃ、ないかしら。」
「はは・・そうだと良いな。」
苦笑にも見える微笑を浮かべて返す池田。
対して彼女は、ほんのり頬を染めてそっぽを向きつつ、言った。
「そうね・・た、例えば、例えばよ?
自分の姿を、怯えながらだけど少しずつだけど、受け入れてもらった、
蛇の髪と体を持ってる、素直じゃない奴・・とか・・」
「い・・石塚さん・・!」
それを聞いた池田の目に光が増していく。
その様をチラ、と横目で見た後彼女は続ける。
「ま、まぁ?それが私って言うわけではないけど?
そういう訳だから、あの、もし、それでもよかったら、
わたしがその、変わり者になってあげても良い、わよ?」
彼女らしい、何とも素直でない言い草。
しかし、それを聞いた池田は破顔する。
「ああ、お願いするよ!」
「・・うん、引き受けたわ。
後になってから嫌になったって言っても絶対離れてあげないから!」
石塚も珍しく声高にそう言って笑う。
「うざったくなっても知らないよ〜?」
「ご主人のことで分からないことがあったら、あたし達に聞いてね!」
「いや〜真っ赤な顔をしてようが、怒った顔をしてようが、
本当の気持ちなんて私達を見ればはぅ!?
な、なんで私だけが、いっつも・・」
蛇達も、表現に違いはあれどそれを祝福している。
かくして、彼らは無事恋人同士となったのであった。
それから少し経ち、
二人が互いのことを呼ぶ際に名字を使わなくなった頃。
「・・君はなかなかにやり手だね、池田直也君。」
放課後、いつものように図書室で係の仕事をこなしていた池田は、
本を借りに来たという金髪の女子から、そんな事を言われていた。
「・・え、何がですか?」
女子の雰囲気からなんとなく年上だと思った池田が、
敬語になりつつ訊くと、女子はふっと笑ってこう答える。
「石塚真奈子君のことだよ。」
そして、かれにぐっと顔を近づけると、
目の色を変えてみせ(比喩ではない、実際に黒から赤へと変わった。)
周りには聞こえないくらいの声で、囁いた。
「メドゥーサだろう?かなり短い期間でオトしたそうじゃないか。」
それは、池田と女子からすれば普通の会話になるが、
端から見れば、女子が池田に言い寄っているようにも見える。
そして、この図書室にはそれが許せない者がいた。
「・・・・・・」
本当ならばずっと池田の隣にいたいのを、
流石に邪魔になるから、と自分に言い聞かせて我慢し、
でもせめて、ということでカウンターが見える椅子に座って、
自分の座っている席から、本を読みつつチラチラと彼の方を見る。
それが池田が当番の日の彼女のいつもの過ごし方なのだが、
今日は、彼の相手の女子の方をずーっと凝視していた。
彼女の種族柄を考えれば、その胸の内などもはや語るまでもない。
「い、いっしぃ〜・・」
向かい側に座っていた羽田が怯えたような声を出すが、
それすらも意識の外に追いやって、彼女は池田の相手を見続けた。
目が、人間のそれから蛇のそれに変わり始める。
丁度その時、池田に話しかけていた女子が話を切り上げ、
石塚の方へと歩いて近づいてきた。
なおも石塚は冷たい目で睨むように見続けるが、
相対する女子は、余裕の笑みを崩さない。
「・・そんな目で見られては、ろくに話も出来ないよ?」
それどころか、諭すように石塚に語りかけた。
「ええ、それは分かってます。」
しかし、彼女の雰囲気はますます冷たくなる。
そうされた相手の女子ははぁ、とため息をつくと、
再び目の色を変えて見せた。
そして今度は、石塚や羽田のような者にのみ分かる独特の気、
つまり魔力を少しだけ自らの周囲に漂わせ、こう言う。
「安心すると良い、私はこういうもので・・彼氏持ちだよ。」
「なら、良いですけど。」
そこまでされて、石塚はやっと元に戻る。
その後、急激に恥ずかしさと申し訳なさに襲われた彼女は、こう続けた。
「・・それと、その・・一応・・すいませんでした。
でも、なんというかその・・あれは・・」
「ああ、構いはしないさ。
君の気質を知っていてなお、からかうようなことをしたのだから、
非はむしろ私の方にある・・すまなかったね。」
それに大人びた所作と共に謝罪で返しつつ、石塚の隣に女子は座る。
やっと空気も元に戻ったその時。
「あ、あの〜・・もしかして、赤井満(あかい みつる)さん?」
さっきまで固まっていた羽田が、唐突に女子に訊いた。
問われた女子は不思議そうにやや目を見開いた後、
ゆっくりとそれを穏やかなものに戻しながら答える。
「ああ、そうだけど・・どうしたのかな?」
「あ、いや大した理由は無いんですけどね。
金髪のボーイッシュなカッコいい風紀委員の先輩って皆が噂するんで、
そんな人気者なら一回会ってみたいなーと思ってて。」
「はは・・人気者、ね。
ちなみに聞いておきたいんだが・・性別は?」
「えーと、7割が女子ですね!」
「・・ふふ、参ったなこれは。」
「そういう対応が人気なんですよ、きっと〜」
「そうらしいね。」
話を一旦そこで切り、微笑み合う二人。
それを横目で見つつ、良いな、と石塚もまた微笑む。
同時にそれを羨ましくも思ったが、二人の会話に入る自信はなかった。
しかしながら、誰かと話したいという欲求は出て来てしまっている。
・・うん、直也君と話そう。
そう思い、しおりを挟んで本を閉じ、立ち上がろうとしたその瞬間。
キーンコーンカーンコーン・・
チャイムが鳴ってしまった。
しょうがない、まぁ教室は同じだしそれで我慢しよう・・と、
彼女が落胆しつつもそう決めた、その時。
「・・ああ、そうだ石塚君?」
横から声がかけられた。
あぁもう!とそちらを向くと、予想通り赤井が彼女の方を見ていた。
文句の一つでも、とやや理不尽なことを彼女は考えたが、
それが言葉になるよりも速く、赤井が口を開く。
「今日の放課後、少し二人きりで話したいことがある・・ここでね。」
何がしたいのか理解不能な言葉だったが、
その声音と視線の真剣さに、石塚は頷くことしかできなかった。
とはいえ。
その時は勢いに押されたとはいえ。
放課後、石塚は一日で一番楽しみな池田との会話を邪魔されたのだ。
「・・で、何の話なんですか赤井先輩。」
機嫌が悪くなるのは当然とも言えた。
「いや、ね?確かに君には悪いことをしたとは思ってるけれど。」
気まずそうな顔をしつつ肩を竦めそれに応対する赤井。
「何の話、なんですか?」
そんな赤井にも、石塚は表情を変えずに尋ねる。
赤井は参った、と両手をあげて言った後に表情を真剣なものに改めた。
「では、こんなどうでもいい先輩に時間を使いたくないだろうから、
単刀直入に言うよ・・石塚君・・君、相当我慢してるだろう?」
単刀直入、という割には少々遠回しな表現。
いつもの石塚ならば、眉を顰めて睨みつけるところだ。
「・・何の、事ですか。」
しかし、心当たりがあった石塚は今、硬い反応を返していた。
それを見て赤井は、
聞き分けのない子供を相手取った時のような苦笑を顔に浮かべる。
「おいおい、ここには君と私、二人しか居ないんだよ?
それに、私はダンピール・・隠し通せると思わないこと。
もう一度訊くよ・・我慢、してるだろう?」
「・・・・・」
石塚は、黙って答えない。
しかし赤井は満足したように微笑んだ。
「沈黙は、肯定と受け取るよ。
・・これまではどうやって凌いでたんだい?」
そしてそう尋ねる。
オブラートに包んだ言い方だったが、
その質問に、石塚は頬をほんのり赤くして視線を斜め下にずらした。
「い、言えるわけないじゃないですか・・」
「あー・・すまない、それはそうだな。」
その様を見て、赤井は素直に謝罪する。
がしかし、すぐにその表情は真剣なものに切り替わった。
「だけど・・それでいつまでも凌げるものではないだろう?
君の想い人に直接してもらってるのでは無い以上、
むしろ蓄積していく一方だと思うが。
それに・・」
窓の近くまで歩いていく赤井。
何をする気なのかと石塚が怪訝に思っていると、
彼女は窓を開けて、外の上の方を手で示した。
その白い腕が示す先には、月。
丸く満ち満ちていくであろうそれの欠け具合は、
ナイフで一部分を切り取られたホットケーキを彷彿とさせる。
自分自身の今のようだ・・と石塚はふと思った。
「これまでは耐えられていたかもしれなくても、
何回も凌ごうとして効果が薄くなっているのと、
君と池田君がそこまでの関係となっているのが重なっては、
もう通用しない・・満足なんて出来やしないだろう。」
そして語られる言葉。
それは、石塚も意識してはいた事だった。
そして、どれほど抑え込もうとしても無理だという事も。
「・・でも、どうすればいいんですか。」
「簡単な話だよ、いっそしてもらえばいい・・君の想い人、池田君に。」
その質問を待っていた、とばかりに答える赤井。
しかし、石塚は浮かない顔だ。
「・・でも、直也君は・・」
続くのは、そんなことをしてくれるだろうか。
それを見透かしたように、赤井は笑って人差し指をゆっくりと立てた。
「なに、心配することはないと思うよ。
君はメドゥーサ・・魔物娘だ。
よしんば君にその気が無かったとしても、
本来の姿をとっていて、かつ想いを寄せる男が近くにいれば、
無意識に全てを使って誘ってしまう。
それを抜きにしても、客観的に見て君達はお似合いだし、
そういう事をするにも早すぎる事はない間柄だと思うよ?
むしろよくぞここまで事に及ばなかったなと。
・・大体、そもそも、
君達のような間柄になる以前に性行為に及ぶ者のなんと多い事か。
確かに魔物娘だしそういう事になるのは仕方ないとは思うんだけど・・
っとすまない、愚痴を聞いてもらっているのではなかったね。
ともかく、第三者からしてもお似合いだという話さ。」
「そ、そうですか・・」
途中こめかみを押さえつつ話した彼女に、
色々苦労してるんだなぁ、と思いながら石塚は返す。
実際、何度かそういう雰囲気になったことはあったのだが、
二人とも良く言えば良識があり、
魔物娘的に悪く言えば理性的であったので、
まだまだ付き合い始めたばっかりだから、という認識も合わさって、
手を繋いで微笑み合うくらいで満足していたのだ。
しかしながら、その都度に自分の中のある部分が、
物足りない、その先へと行きたいと囁いているのも彼女は感じていた。
これまでは趣味に時間を費やしたり、人には言えない方法だったり、
とにかく色々な方法で自らを鎮めてどうにかしていたが、
目の前の先輩の言う通り、効力は目に見えて薄くなっていた。
・・なるほど、いっそしてもらえば、
ここまで辛いのは消えてなくなるし、二人の関係もさらに近しくなれる。
そこまで考えてから石塚は再び口を開いた。
「でも、確かに良いかもしれないです。
・・心のどこかで、直也君を求めていたのは事実ですし。
それに・・明日から土日で月曜も祝日、休みですしね。」
その答えに、満足そうに赤井は頷く。
「ああ、それが良いと思うよ。
お節介ながら、彼が予定がないことも聞いておいた。
今日電話して、誘うといいだろう。」
「分かりました・・ありがとうございます。」
早く帰って電話しようと思い、出て行こうとする石塚。
「ああ、最後に良いかな?」
そんな気が急いての行動は赤井によって止められた。
「・・なんですか?」
彼女は振り向く。
怒っているような言い方だったが、
実際は早く行きたくてうずうずしているだけである。
そんな彼女に、赤井は微笑みながら何かを取り出した。
菓子のようである・・それもかなりおいしそうだ。
「ここに、私の魔力を込めた菓子がある。
・・実際の所、彼氏に作ってあげようとして、
形が気に入らなかっただけなのだがね。
有り体に言えば・・まぁ、在庫処分さ。
ともかく、これを食べれば正直になれるという代物だが・・」
「・・折角ですけど、遠慮しておきます。
私は、全て私のままで、直也君と過ごしたいですから。」
いるかい、と聞かれる前に石塚は答える。
誘いを蹴られた形になった赤井だったが、
彼女はむしろ嬉しそうに口の端をつり上げた。
「そう言うと思っていたよ・・それでこそさ。」
それを見て、格好いいな、と石塚は素直にそう思った。
恐らくはここが、主に女子に好まれる所以なのだろう、とも。
「ええ、当然です・・じゃあ、さようなら。」
とはいえ、それを本人に言うのははばかられたので、
石塚は短くそう言って図書室のドアを開ける。
「うん、さようなら・・っとと。
私が出なくては君が帰れないかな?」
「はい。」
そして、赤井が出たのを確認してからドアの鍵を閉めた。
「では改めて、さようなら石塚君。
言うまでもないことだろうが、頑張るといい。」
「・・はい、赤井さん。」
彼女の胸には、静かなやる気が燃えていた。
その夜。
池田は、石塚からの電話に応じていた。
内容は勿論、明日からのことについてである。
「と、いうことなんだけど・・どう?大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。
どうせ何もしないで本読むかゲームするかゴロゴロしてるだけだし。」
「・・そう、良かったわ。」
電話越しであるので顔は見えなかったが、
石塚が笑ったのが雰囲気でなんとなく分かり、彼は微笑を浮かべる。
「あーでも、泊まるんだったらそっちに行かなきゃだよな。
俺、真奈の家どこにあるか知らないんだけど・・」
その微笑のまま、遠回しに質問。
対して、電話越しの石塚はふふっと声に出して笑った。
「えーと・・じゃあ、直也君の家まで私が迎えに行くわよ。
直也君に迷われても困るし。
で・・なるべく早く行きたいけれど・・何時くらいなら大丈夫?」
「そうだな・・10時くらいなら大丈夫?」
「ん・・うんっ!ぁ・・じゃ、じゃあ明日!」
彼女にしては珍しい子供らしい返事と共にプツッと切れる電話。
恥ずかしかったんだろうな・・と微笑ましく思いつつ、
旅行中の両親に電話をすることにしたのだった。
事後承諾ってやつだよな・・と思いながら。
ちなみに、彼の電話に対して返ってきたのは主に、
頑張りなさいよ、泣かせるんじゃないよ、
そして、あんたのしたいようにしなさい、の三つであった。
泊まりに行くだけにしてはやや大げさだと思った彼だったが、
とりあえず、分かった、と返したのだった。
翌日。
朝ご飯を食べ終わった池田は、白い下着の上から長袖の黒い上着を着て、
ズボンもこれまた黒いジャージに履き替えた後、
昨日、手持ち無沙汰だったので図書館へ行って借りた本を読んでいた。
「っ・・」
ちなみに、少々顔が赤くなっている。
それが魔物娘に関する物だったからだ。
魔物娘の基本的な性質から、
それぞれの魔物娘に関する情報まで載っている優れものである。
「・・ま、魔物娘って・・そういう性質なんだ・・」
今、池田が閲覧しているのは、彼女たちの糧についての項。
健全な男子たる彼が赤面するのは無理からぬ事だった。
「・・て、事は、真奈も・・?」
それを一瞬想像して顔を赤くした後、彼は頭をぶんぶんと振る。
「っ・・何を想像してるんだ、俺は。
や、まぁ・・良いなぁとは、ってああもぅ。」
誰を相手取ってるんだよ、と自分に突っ込みながら、
彼はさらにページをめくっていく。
数々の魔物娘の項目を飛ばしたその手は、メドゥーサの項で止まる。
「ラミア属らしく嫉妬深く独占欲が強い・・か。
はは、確かに。
立浪先輩と話してくるって言っただけで睨んでくるもんな。」
性質と自らの彼女の行動を照らし合わせ、苦笑する池田。
「えーと他には・・」
彼は、さらに続きを読もうとする。
ピンッポーン・・
「あ、あのっ、直也君、居る?」
しかし、それはならなかった。
彼にとって待ちわびていた者が来たからだ。
続きは暇な時、と着替えと財布の入ったリュックに本を入れて背負い、
薄手のジャケットを羽織って彼は、玄関に歩いていった。
「居るよー!おはよう、真奈。」
そして、そこに立っていた石塚にそう言って挨拶する。
彼女は、池田の姿を見た瞬間に顔を明るくした。
「あ、おはよう直也君。」
そして、いつもとは違う上機嫌な顔で池田に挨拶を返す。
「うん。」
応えつつ家の鍵を閉める池田。
その後振り向いて彼は。
「お、おは、よぅ・・」
二度目の挨拶をしたが、その際顔を少し赤くして視線を逸らした。
「直也君?」
不思議に思った石塚が首を傾げ、声をかける。
池田は、視線を左右に揺らしながら少しずつ彼女の方に戻した。
「あ、ああ、いや・・その・・」
言葉に詰まりつつ、彼女の服装をチラチラと見る池田。
その視線を追って彼の気持ちに予想がついた石塚は、
ふっと笑い、言葉を紡いだ。
「ああ、この格好?寒いから長袖を探そうとしたら、
これしかなくって・・正直、どうかしらね?」
彼女の言葉に、池田は再び視線を逸らす。
石塚が今着ているのは長袖の体操服の上着の上下、
所謂ジャージと呼ばれるものである。
色は上が灰色っぽく下が藍色。
寒いという割に開けっ広げの襟元からは、ねずみ色のシャツが見え隠れ。
女子らしくない、とか言ってしまえばそうなのだろう。
しかし、普段のやや不愛想な言動や仕草によって、
くすんだ石のような印象を与える石塚という女子に、
それは並の女の子っぽい服装よりも、良く似合っていた。
「あ・・うん、か、可愛いと思うよ。」
そして、池田の心にもストライクであった。
その事を自覚し、彼自身少なからず驚いている。
そこに目の前の彼女の姿が重なり、それで目を逸らした。
要するに、魅力的な彼女に照れを覚えたのだ。
「・・そう?なら、良かったけど。」
そんな池田の心情を知ってか知らずか、石塚はやんわりと微笑む。
横目でそれを見た後、視線を彼女の真正面に持って来つつ池田は思う。
・・可愛いな。
同時に、彼の目はゆっくりと細くなった。
石塚も、それを先程と変わらぬ笑みで受け止める。
「・・・・」「・・・・」
そのまま少しの間、互いに見つめ合っていたのだが・・
「じゃ、じゃあそろそろ行きましょう。
いつまでもこうしていたって仕方ないもの!」
石塚は突如、そう言って池田に背を向け歩き始める。
急な気恥ずかしさに襲われたのだろう。
「あ・・ああうん。」
遅れて同じような感情を覚えた池田も、
そう返した後、その背を追って歩き始めた。
すぐに追いつくと彼は、横に並んで歩調を彼女に合わせる。
そして何を話すでもなく、ずっとそのまま。
それはそれで心地良いのだが、何か物足りないなぁ、とも思っていた。
しかし何を話そうか・・と考えつつ、彼女の方へ視線を下げる。
そこで彼は、おや、と思った。
彼女の身長が自分よりもやや低いのは知っていたが、
それにしても彼女の身長が低いと感じたのだ。
それは恐らく、彼女があの姿をとっていないからだろう。
・・てことは俺にとって、真奈は蛇の姿の方で印象があるんだな。
実際、蛇の体をとると、石塚の全長は相当伸びるし。
あ、気怠げに纏めるあの顔もいいよな・・とそんなことを思い返す。
しかしそれが会話のネタになるかというと、そうではない。
さて、じゃあ何を・・と再び考え始めたとき。
「・・ねぇ。」
斜め下から、呼びかける声があった。
ん、と池田がそちらを向くと、石塚が見上げてきている。
やや不機嫌そうな顔だが、それが、
何かを提案しようとするときに良くする顔だというのを彼は知っている。
「何?」
だから、言いやすいようにそう訊く。
すると、石塚は目を何回かキョロキョロさせた後、
意を決したようにコクと頷くと、彼を見上げてこう言った。
「し、しりとり・・しない?」
「へ?」
予想外なその問いかけに、そんな気の抜けた声を出す池田。
「だ、だから・・しりとりしない?って言ってるの。」
対して石塚は、恥ずかしいのを堪えるように顔を赤くして、
もう一度繰り返した。
随分とまた、なんていうか・・だなぁ、と思った池田だったが、
「あ、うんじゃあ・・最初の言葉は何にする?」
折角の彼女からの誘いであったので、乗ってみることにした。
「えーと・・普通に、しりとりのりから。
り、り、り・・リス!」
すると、石塚はどこか安心したように笑ってから、
しりとりの始まりを告げる。
何に何故安心したのかは予想がつかなかった池田だったが、
真奈が気分が良いならそれで良いか、とそこで思考を止めた。
「す・・す・・っスイカ!」
そして、自らも始まったしりとりを楽しむべく言葉を繋ぐ。
言葉を発する際の彼の顔は自然と笑顔になっていった。
「か、か、か、か・・狩り。」
対して、少々恥ずかしげに答えを返す石塚。
どうしたんだろう、と思った池田だったが、
それよりも、彼女の出した答えに続く言葉を探す方に考えは行っていた。
それから結構な時間が経過して。
「の、の・・海苔巻き!」
「き・・き・・きんぴら牛蒡!」
「ふふ、残念、もう言ったわよ。」
「えっと・・じゃあ、きんぴら!」
「あっ、ずるい!」
彼らは未だにしりとりを続けていた。
もとよりしりとり自体、ほぼ無限に出来る可能性を持つ遊びではある。
「ら、ら・・乱気流!」
「う?う・・う・・ういろう!」
「また、う?う、う、う・・羽毛!」
「あ、ちょ・・!」
「ふふん、やり返しただけよ?」
「うー・・!う・・う・・烏合の衆!」
「あっ?!やったわね・・!う、う、う、う・・うな重!」
「えぇ?またうか・・う・・う・・」
そして、彼らが本を良く読む故か言葉を色々知っているというのも、
長々とその遊びが続けられる所以でもあった。
返せる言葉を知っているか、というのはもとより、
しりとりというのは互いが言葉を知らないと成立しない遊びである。
返した単語を相手が知らなかったのでは、
インチキだとかそういう事になってしまうからだ。
「ふふん、降参かしら?」
「う・・う・・!・・っあ、薄化粧!」
「なっ・・!う、う、う・・!」
その点、彼らは言葉を沢山知っているので、
返された言葉を理解でき、それに返す言葉を用意できた。
「う、う、う、う・・!う、海ぶどう!」
「う・・!う・・う・・う・・・・裏稼業!」
「なぁっ・・?!」
ちなみに、今彼等がやっているのは、
最初についた文字と最後の文字を一緒にする、
単純ながらも効果的、あるいは姑息ともいえるしりとりの戦法だ。
ちなみに彼らが少し前にやっていた同じようなとしては、
相手が言ってきた言葉の最初を自分が言う言葉の最後にする、
というものがある。(例:ぼうこう→うつぼ→ぼうそう)
「う、う、う、う・・裏番組表!」
「え!?なんか少しずるくないそれ?」
「い、良いのよ!ほら、う!」
「う・・う・・う・・右往左往!」
「くぅ・・!」
基本的に、これらが使われるときは相手のストックを減らすことと、
相手のやる気を削ぐことが大体の目的となるのだが。
「う、う、う、う・・浦島太郎!」
「言ったよ、それ。」
「えぇ!?・・う、う、う、うう・・っぁ、有象無象!」
「っ?・・まだあったか・・!」
彼らは、そんなことは今は考えておらず、半ばむきになって、
どれほどそれを続けられるかという事に執心していた。
所謂、縛りプレイ状態である。
「う・・う・・う・・馬が合う!」
「ち、まだ思いつくの?う、う、う、う・・雨氷!」
「う・・う・・う・・!・・運行!」
「んぁー・・!う、う、う、運休!」
長い間それを続けているが、二人は飽きない。
なぜなら、それをしていることで、
くるくると変わる相手の表情が見れて楽しいからだ。
「うー・・うー・・う・・雲散霧消、どうだ!」
しかしながらそろそろ決めたいとも思っていたので、
これで最後にする、とばかりに力強く言い切る池田。
「う、う、う、ううう・・!」
彼の狙い通り、石塚は思い悩む。
腕を組み、どこかを睨みつけるようにして考えている姿は、
いつもの不機嫌そうなそれに似ている。
だけどやっぱりどこか違う、何がと言われると困るけれど、
・・ともかく、眉根を寄せる真奈はやっぱり可愛い。
そんなことを、のんきに考えていたのだが。
「う、う、う・・ぁあ!ウスバカゲロウっ!ふふん!」
その余裕は、晴れやかな石塚の一言によって崩された。
「ぅええ、まだあったか・・えーと、う、う、う、う・・」
それでも。
・・晴れやかな顔も、
不機嫌そうないつもとのギャップが合わさって良いなぁ。
などと、やはりしっかり彼女の魅力を享受していたが。
さておき、うで始まりうで終わる言葉を探し始める池田だが、
正直言ってもう限界だなぁ、とも感じていた。
「う・・う・・う・・」
負けたくはない、とは勿論思っているものの、
しかしやはりもう言葉が見つからない。
「う・・う・・う・・う・・」
一分半程じっくりと考えた後、
観念したように首を振った後顔をしかめてから、口を開く。
「・・渦潮。」
「・・お?え、えーと、お、おはねぇ・・ぇへ・・」
悔しい思いを抱え、それを顔にも出していた池田だったが、
彼女の横顔を見た途端にそんな感情はどこかへ行ってしまった。
ある感情が、心の中を占めてしまったからである。
か・・可愛い・・!
その直後、彼女の顔を無意識に凝視してしまっていることに
気づいて慌てて顔を逸らすが、ニヤケは止まらなかった。
「お、おでしょ・・?お、お、おぉ・・んふふ・・」
池田と同様に彼女の口の端も
抑えきれないのだろう嬉しさによって、微妙に上がっている。
それだけではなく、目までもが笑っていた。
そんなに嬉しかったのか、と池田は思ったが、
感情をおおっぴらにするのが苦手な石塚ならではの可愛らしい姿を見て、
余程嬉しかったんだろうな、と結論づける。
そんな彼の横で、石塚はニヤケながら言った。
「お、お、お・・?あ、私の家・・」
あまりに熱中していたため一瞬、
わたしのいえ?わじゃなくておだけど・・と彼は思ったが、
石塚の指さす方向を見て、納得する。
家の前にある石柱に[石塚]という文字が彫られていたからだ。
近づいてみて感じたことを、彼は率直に口に出した。
「・・なんていうか・・石が・・」
彼の言う通り、石塚宅はどこを見ても石が目に入ってくる。
多いわけではないのだが、ちらほらと目立つところに置かれていた。
それを聞いて石塚は、予想通り、というような苦笑いを浮かべる。
「あ・・やっぱりそう思う?
家族構成上、なんていうかその・・石っていうか、
洞窟、とか、岩場って言えばいいのかな・・
とにかく、私も含めてそういうのが感じられると安心するのよ。
だから、こんなに石が見えるの。」
「へぇ・・え、じゃあさ?
石塚さんのお母さんも、メドゥーサなの?」
お父さんも、と訊かなかったのは、
彼が魔物娘についての基本的な知識を仕入れていたからである。
その上でのその質問だったのだが、彼女は首を横に振る。
「うぅん、違うわ。
エキドナ、っていうんだけど・・」
知ってる?という風に首を傾げる彼女。
「・・別の種族の魔物娘を生む蛇女・・ラミア型の魔物娘、だっけ?」
「へ?ああうん、そうだけど・・良く知ってるわね?
正直、知らないって言うと思ってたんだけど。」
直也君は知らなくて当然、と思っていたので、
存外すらすらと返されたことに石塚は目を丸くした。
そんな石塚に、池田は微笑む。
「ああ、ちょっとね。
図書館に行ってそういうのの本を借りてきた。
俺もなんて言うかその・・真奈に関することだし、
色々と知っておきたいなっていうか・・な。」
それを聞いて、石塚は表情をやや不機嫌そうにする。
「・・そういうことなら、私に直接聞いてくれればいいのに。」
怒っているのではない、
自分以外を頼ったことに対するちょっとした嫉妬。
勿論そんなこと知っている・・微笑ましいな。
「いや、でもさ・・真奈の口からは言いにくいこととかあるだろ?」
「・・たとえば何よ?」
半目になって聞き返す石塚に、
池田は視線をさまよわせてから、恥ずかしげに言う。
「例えば・・何を、か、糧にするか、とか?」
「あっ・・?あ、その、そ、それは、えぇとっ・・!」
その瞬間石塚は顔を真っ赤にし、
先程の池田以上に視線を顔ごときょろきょろとさまよわせた。
その様を見て、だから言ったじゃんといった感じに一回苦笑してから、
池田は慌てる彼女に軽く首を傾げてみせる。
「・・ね?」
「そ・・そうね、確かに・・そうだわ。」
彼女は渋々といった感じでそれを認めた。
その後で、仕切り直しといった風に咳払いをする。
「ん、んんっ。
と、とりあえず・・それは、それとして。」
そして、門を手で示した。
「・・ようこそ、直也君。」
その後。
池田は、石塚に連れられて彼女の部屋まで来て、座っていた。
棚に本が詰まっていることが目に付く部屋の中は、
汚くはなく、かといって別段綺麗という程でもなく。
言い換えてみれば、普通であった。
実の所、池田はそれを見て内心ホッとしていた。
汚かった場合は言うまでもないが、
潔癖性を疑うほどに綺麗であっても、それはそれで気を遣うからだ。
・・考えてみると失礼な話だよなーと、自虐してもいたが。
「ねぇ、直也君?」
そんな彼に石塚から声がかかる。
何?とそちらを振り向いた彼は、
石塚が苦笑を浮かべているのを見て、ん、と思った。
何か変なことをしたかな、と思っていると、彼女はゆっくりと口を開く。
「・・部屋をそんなにじっくり観察するように見られると、
ちょっと、その・・恥ずかしいんだけど。」
「え?・・あ、ごめん。
・・でも、俺そんなにじろじろ見てた?」
それを聞いて謝り、しかし続けてそう聞く池田。
問われた石塚は、首を横に振る。
「ううん、ジロジロ見てはいなかったわ。
・・でも、一言も発さないで顔を色々と動かしていたら、
誰だってそういうことは分かるわよ。」
「・・は、はは、そりゃそうだな・・」
言われた言葉に、池田は苦笑を返す。
対して石塚は、ふう、と息を吐いた後、首を傾げてこう訊いてくる。
「・・で?どうだったのかしら、私の部屋は。
あんなにじっくり見たって事は、何か気になるものでもあった?」
その首の傾げ具合が妙に魅力的に感じられたが、
とりあえずそれは置いておいて彼は質問に答えた。
「あ、いいや・・別に気になったものはないんだ。
強いて言えば、本が多いなぁってくらい。
・・やっぱり、好きなんだ?」
そして最後に聞き返す。
彼女はすぐには答えず、哀愁をその瞳に帯びさせた。
池田が不思議に思うと同時に、彼女は口を開く。
「ん・・まぁ、ね。」
その言い方は、好きなものを好きと肯定するという行為の割に、
やや暗い色を含んでいるように感じられる。
「へ〜・・」
それが気になって、つい生返事になってしまう池田。
「・・何よ?」
そんな彼の様子は、やはり彼女に気にかけられてしまった。
「あ、うんにゃ何でもない。」
取り繕うも、
「嘘ばっかり・・直也君は嘘つこうとすると、
妙に顔が真面目になったりおどけたりするからすぐに分かるのよ。」
すっぱりと切られてしまう。
「う・・」
そこまで細やかに理由まで言われたとあっては、
池田に誤魔化そうという気は起こせなかった。
だから、正直に白状することにしたのだった。
「・・えっと、な?
嫌だったら言わなくても良いんだけどさ。
その・・本を好きになった理由、とかって聞きたいんだ。」
「・・・・」
瞬間、予想通り石塚の表情がやや曇った。
「あ、いや、嫌だったら良いんだよ?」
慌てて止めようとするが、
「・・ううん、良いの。」
「う?うん・・」
首を振る石塚を見て、やめる。
その際池田の顔が曇ったのを見て、彼女は苦笑した。
「別に、そんな大仰な理由じゃないからね。
その・・私ってこういう、格好じゃない?」
言いながら、彼女は二人の間でのいつもの姿に戻る。
ジャージはいつの間にか脱げていた・・不思議パワーであろうか。
「・・うん。」
「だから、あんまり人が寄りつかなかったのよ。
で、仕方ないから本を読んでたらハマったってわけ。
・・どう?言った通り大した話じゃないでしょ?」
話し終わると彼女は、どこか自虐的な笑みを浮かべた。
「あ・・え・・と・・」
それを見て池田は、良く分からない感情に襲われる。
それが顔に出ていたのか、石塚は苦笑すると。
「ま・・でも、その・・そのおかげで、直也君に会えたんだし。
この体も、まぁ、受け入れてくれた人はいるもの。
今となっては・・そこまで悪いものじゃ、無いわ。」
そう言ってフォローするように付け加えたのだった。
しかし、池田の暗い気持ちは消えない。
どうにも、語る口調や表情から、
先程語られた以上の何か暗い理由があるように思えた。
「・・ねぇ、真奈?」
だから、呼びかける。
「ん、何?」
いつものように応える石塚。
それを見て、彼は何かを言おうとする。
しかし、上手くそれは言葉にはならない。
気持ちはあるのに、それがすっきりと言葉に出来ないもどかしさ。
「あーえと、その・・」
とりあえず、考えが纏まるまでの時間稼ぎ。
しかし、その稼いだ時間が使われることはなかった。
「・・別に、良いわよ。
そりゃあ、最初の内は悲しかったけどね。」
「え・・?」
「でも・・その・・い、今は、ちゃんと受け止めてくれる人がいるもの。
魔物娘でも身内でもなく、私自身を受け入れてくれた、人間が。
だから・・良いの。
・・直也君は・・私から逃げずに、ちゃんと見てくれたから・・」
そう言って石塚が彼の隣に這い寄り、肩に頭を乗せてきたからである。
蛇達は空気を読んだのか、普通の髪の毛の如く自然に流れていた。
「ま、真奈・・」
恥ずかしくなりながらも、珍しく素直な彼女の方を向く池田。
すると彼女は、ゆっくりと顔を彼に向けた。
そして、いつものような不機嫌な顔でこう言う。
「・・こんなこと、言わせないでよ。
恥ずかしいん、だから・・もう。」
「・・ごめん。」
それが照れ隠しであることを分かりつつも、
どうすればいいのか分からず、とりあえず謝る池田。
そんな彼に、さらに彼女は不機嫌そうになった。
「別に・・謝って欲しいわけじゃ、ないんだけど・・」
しかし、どれほど不機嫌そうであっても
その顔はずっと自分の方を向いたまま。
それを感じていた池田は、何かしてやりたい、と思っていた。
何をすればいいか、分からない。
自分の中で蠢き逆巻く感情も、どうすれば良いか分からない。
しかし、何もしないでは居られない。
そんな状態になった彼は。
「ぁ・・」
何も言わずに体の向きを変え、彼女の体を抱きしめていた。
首同士を触れ合うくらいに近づけ、腕を相手の体全体を包むように回す。
顎を肩にちょんと乗せ、腕全体で抱きしめる。
優しく傷つけぬように、しかし、しっかり。
手の先から伝わってくるのは、自分と比べるとやや低めの体温。
「直也、君・・?」
それを池田がゆっくりと味わうよりも先に、石塚は彼の名を口に出す。
意外そうな声音に彼は、
首から上だけを彼女の顔が見えるくらいに離した後、俯いて語り始める。
俯いたのは、言おうとしていることがあやふやであったからだ。
「・・自分でも、良く分からないんだけどさ。
何となく、こうしたくなったんだ。」
言葉にならない、微妙な感情。
そうとしか言えないそれをそのままに語る。
「・・っふぅ、もっと上手く言えればいいんだけど・・
良く分からないんだ、本当に。」
そして彼は、苦笑しつつ顔を上げた。
当然、石塚の横顔はそこにある。
その石塚の顔はというと。
「・・そう・・」
微笑んでいた。
それはいつもの不機嫌そうな顔ではなく。
しりとりの最中に見せたあの子供っぽい笑顔でもなかった。
柔らかに彼女は、池田の方を斜めに見上げて微笑んでいた。
そこにある感情は、良く分からない。
明るい感情なのだろうということは、推測できた。
でなければ、こんなにも可憐には映らないだろうから。
しかし、細かいことは分からなかった。
・・なんだか、同じだな。
そう彼が思っていると石塚はおもむろに、
彼を真正面から見据えられるように体の向きを変える。
「っ・・」
そして来た、先程とは違う真正面からの、彼女の微笑み。
池田は、顔が熱くなるのを感じていた。
そのまま言葉を発せないでいると、
彼女はゆっくりと彼の首もとに自らの側頭部を押し当てる。
そして蛇の体をくねらせ、彼の腰や背中の辺りを後ろから包み込んだ後、
自分がされているように彼の背中に手を回し、言った。
「私もね、何で今こうしているのか、分からない。
直也君にこうされたとき、びっくり、したはずなんだけど・・
気づくととっても暖かくて心地良かった・・」
半ば独白のようなそれを、池田は黙って聞く。
「ふふ、実は諦めてたんだ・・こういう風にされるの。
あ、直也君に会う前の事よ?怖がられ続けてたから・・ね?
でもそうやって諦めた、って強がってみても、結局・・欲しがってた。
こういう風に、暖かい、自分を包んでくれる人を。」
そこまで言うと石塚は、再び池田を見上げた。
二人の距離はさっきよりも、近い。
「・・なんて、言ってみたけれど。
やっぱりはっきりとは分からないわ、結局なんでこうしたのかは。」
そんな近い距離なのも構わず、石塚は微笑む。
「・・そっか。」
対して池田も、今度は微笑みで返す。
池田本人は意識してはいなかったが、その返し方は、
付き合う前に図書室であったやりとりの中でのそれと、全く同じである。
それが安心感を与えたのか、
石塚はもう一度彼の首筋にしなだれかかってきた。
確かめるように顔を擦り付けた後、
安心したように、ほぅ・・と息を吐くと、こう言う。
「でも・・良いわ。
今はそんなどうでもいいことより・・」
そして彼を舐め上げるように視線を動かした後目を細め、
甘えるような声音で、続けた。
「直也君がこうして私の傍にいてくれることの方が、大事だから・・」
それを真正面から受けた池田は、もう顔が熱いなどというものではない。
心臓は死ぬのではないかという程の早鐘を打っていた。
加えて、それとは別に熱い何かが胸の奥から沸き上がってきてもいた。
その熱い何かは池田の腕を、ゆっくりと彼女の肩まで動かす。
そして次に彼の口を動かした。
「・・真奈・・」
たった一言。
そのたった一言だけで石塚は、
池田がどんな感情を抱いているか理解したようで、うん・・と頷く。
それを合図にして池田は、ゆっくりと彼女の唇に自分のそれを重ねた。
「あん・・んむ・・」
ゆっくりと優しく、唇を動かす。
そうすると、柔らかい感触と甘い香りが、池田の中の男を刺激する。
「ん・・はぁ、む・・ん・・」
しかし、刺激されているのは何も彼だけではなかった。
石塚もまた、彼の感覚に刺激されていた。
「あむ・・っ、む・・」
挟み込んでくる事もなく、ただただ唇同士を触れ合わせるだけ。
強引でない・・臆病とも意気地無しとも言える動かし方。
でも、そんな優しい動かし方は、
まるで池田直也という人間を体現しているかのようで。
「ん・・あ、ぁむ・・」
縋るように、彼の唇を求める。
体から力が抜けるのも構わず、それだけを。
気づけば彼女は、体重のほとんどを池田に預けていた。
「んむぅ・・?」
石塚からかかってくる重みが増したことに気づいた池田は、
ゆっくりと足を伸ばして、体を後ろに倒し自重を彼女の蛇体に乗せる。
「ん、んむ・・」
その間も彼女からの求めは続く。
気持ちよさに思わず顔を引いてしまっても、
逃がさないとばかりに先読みして追ってくる。
顔の角度を変え、一番逃げにくい方向へと導かれてしまう。
そしてキスそのものも、自分より数倍は上手い。
「ん、ふぁ・・っ・・」
不慣れながらもそれに応える池田だったが、
気持ちよさにペースが乱れて息が限界となり、口を離した。
「ぁ・・」
石塚はというと、彼の胸元に顎を乗せて名残惜しそうにしている。
しょうがないな・・と思った池田は、
彼女を抱きしめていた両腕の内、右手を彼女の頭に持っていった。
「ん・・」
そのまま彼女の頭を撫でながら、言う。
「真奈。
初めての、キス・・だな。」
それを聞いて石塚は、はっとしたように目を少し見開いた。
「あ・・うん・・そう言えば、そうね・・」
どうやら、それすらも忘れるほどに気持ちよかったらしい。
それは、彼にとって嬉しかった。
「なんだか・・不思議な感じ・・。
直也君って人が、そのまま出てたって言うのかしら・・」
「・・へぇ?良く分かんないけど・・
俺、真奈とキスしてるとき・・気持ちよかったよ。」
「・・私も・・」
「そっか・・」
会話をそこで止め、微笑み合う二人。
超至近距離にある相手の顔を見ながら、ただただ過ごす。
言葉はない。
それでも、相手の顔を見ているだけで安心できる。
そんな雰囲気に包まれた石塚と池田は、それに任せて再び唇を重ね・・
ぐぅ〜・・
無かった。
唐突に、石塚のお腹が鳴いたからだ。
「・・こういうこと、前にもあったな。」
先程からの微笑みのまま、池田は言う。
「あのときは確か・・直也君の方だった、かしら?」
石塚も、同じような表情でそう返した。
「・・・・ぅ。」
直後彼女は思い出したように、
赤くした顔を横にして、ゆっくりと池田の胸に押し当てた。
彼には、恥じらった理由が良く分からなかったが、
彼女がお腹が空いているということは、分かった。
だから、こう提案する。
「・・じゃあ、何か作ろうか。
って言っても俺、
料理あんまり出来ないから手伝ってもらうことになるだろうけど。」
それを、内心やや不満げに聞いていた石塚だったが、
手伝ってもらう、という言葉が出た瞬間その表情をほころばせた。
「まぁ・・手伝ってあげるわ。
勝手に作られて、分量を間違われても困るし。」
言葉とは裏腹に好意的なその笑顔に、
あぁ可愛いなあ、と思いながら、池田はこう返した。
「ん・・頼むよ。」
等というやりとりはしていたものの。
「直也君、水注いでもらっていい?」
「分かった。」
「なおやん、そこに置いてる蓋取って〜」
「・・これ?」
「そそ、ありがと〜」
「真奈、皿出しとくよ。」
「ん、ありがと・・」
焼きそば、炒飯、冷やし中華くらいしか作った事がない池田は、
謙遜ではなく本当に料理経験が少ないので、
手伝ってもらうというより、手伝わせてもらっている状態だった。
ちなみに作ったのは焼きそばである。
「あの手際・・本当に、あんまり作ったこと無いのね。」
箸で綺麗に麺を食べながら、石塚は苦笑とともに言った。
「・・恥ずかしながら、ね。」
そう返す割に、そこまで恥ずかしがらずに食べる池田。
彼の食事に対する意識が、それほど高くはないからだ。
野菜が足りなければ、キャベツ辺りをちぎって何かをかけ、
魚が足りなければ、キッチンペーパーを敷いてレンジの機能で焼く。
肉の場合も、フライパンを使って焼く程度ならば出来る。
卵も同様である。
要するに彼は、慣れていないので手際が悪い以外はそう悪くないのだ。
それは、石塚も感じ取っていた。
「でも、そう悪くはないと思うけどなー?
漫画とかの決まり切った料理下手みたいな事はやらかさなかったし。」
頭の蛇が代弁する。
言われた池田は、今度は恥ずかしそうに答えた。
「いや・・あの、恥ずかしながら・・ちょっと面倒っていうか・・」
「・・致命的ね。」
石塚は苦笑する。
手間を加えて、食材を美味しいものにする料理という行動において、
一番の障壁となる感情だからだ。
しかし、それならそれで一つ気になることを彼女は見つけた。
「っん・・ねぇ?だったら、料理したときはどういう動機だったの?」
ラストに取っておいた大好きな肉を飲み込んでから、それを問う。
「んぐ・・んっ・・んー?」
池田は最後の麺を飲み込んでから、思い出すように見上げる。
「んー・・あぁ、そうだ。」
やがて、何かを思い出して軽く頷くと彼は、石塚の方を見て言った。
「確か、いつか一人暮らしする時に役立つから出来るようになれって、
母さんに言われたんだったかな。」
「ぇ・・・・」
「・・真奈?」
言い終わってから池田は、石塚が不安そうにしているのに気づく。
どうしたんだ、と聞こうとしたがその直後に、
石塚はゆっくりと彼の方へ顔を向けた。
表現するなら、恐る恐る、と言ったところだろうか。
何か、不安にさせるようなこと言ったっけ・・と池田は考える。
しかし思い当たらないので困惑していると、石塚は口を開いた。
「・・一人暮らし・・するの?」
「・・え?」
深刻な表情や声音に釣り合わない、あまりに単純な質問。
それを聞き池田は。
「いやぁ、可能性の話だよ。
いつか・・って言ったでしょ?
いつかそうなったときの為に・・ってこと。
まぁ俺としても体調は崩したくないし・・その、
料理とか出来たら好きになった人に作れるなーなんて思ったしさ。
だから、ちょっとは出来るようになっとこうって。」
軽く思い出話でもするかのようにそう語った。
表情で、大した理由じゃないでしょ、と言いながら。
実はこれ、石塚にしてみれば重要な事であった。
料理を作る動機のことではない。
一人暮らしをするかどうか、だ。
簡単に説明すると彼女の脳内では、
一人暮らしをするということが、どこかへ出て行く、
つまり、離れ離れになる、ということに繋がっていたのである。
それは、もしもの可能性の話であって、
聞く限り池田にその気も無さそうであった。
そう分かって彼女は、安心と早とちりによる羞恥を覚える。
「そ、そう・・」
その感情を顔に出し、彼女は短く呟いた。
恥ずかしさに俯いていたので、それは見えなかったが。
「・・好きな人に、作ってもらってる現状だけどね。」
しかし感じ取ることは出来た池田は、それを払拭するために、
彼女が突っ込んでくるような言葉を選んだ。
狙いは「うん・・ふふ、情けないわね?」辺りである。
「・・ふふ、そうね。」
顔を持ち上げた彼女は、机の上に組んだ腕にそれを乗せ、こちらを向く。
そこまでは彼の予想通り。
しかし次に取った行動は予想の外だった。
ふわり、と滅多に見せない微笑みを浮かべると。
「・・だったら、いつか作ってもらえる日を楽しみにしておくわ。」
と、そう言ったのだ。
何とも嬉しい誤算である。
「あ、ああ・・」
そのあまりの破壊力に、彼は赤くなって目を逸らした。
「ふふ・・」
石塚は、にやにやとした笑みを浮かべて見守ってくる。
いつもと違うその様子に彼は耐えきれなくなり、
「そ、そろそろ、皿片付けなきゃ。」
そう言って、自分の家と同様に隣り合っているキッチンを目指し、
逃げるように立ち上がった。
しかし、彼は逃げることは出来なかった。
「・・・・・・ふふ。」
皿を運んでいる間も、皿に水をためている間も、
「ふふ・・」
スポンジで洗剤を泡立てている時も。
「・・ふふふ・・」
ついには洗い終わって、乾燥機の中に突っ込んだ後でさえ。
「・・・・んふ。」
ずっと、ず〜っと、石塚は笑って池田を見ていたからだ。
「・・真奈。」
流石に耐え切れなくなって彼は彼女に苦笑を向ける。
無論、そこに込められた意味を彼女は理解していた。
「何かしら?」
理解していた・・が、構わずそのままの顔で彼女は問う。
池田に、言わせたいのだ。
理由を言うならばそれは、出来心、というやつであろうか。
「・・その、恥ずかしいん、だけど。」
その狙い通りに池田はそれを口にする。
しかし、それだけで彼女の企みは止まらない。
「・・私から、微笑まれ続けるのは・・イヤ?」
そう言って小首を傾げ、やや不安そうな顔をしてみせる石塚。
いつもの様子からすれば明らかな演技である。
「え・・!?あ・・や、そういう訳じゃ・・」
しかし、珍しい、というか滅多にない事でもあるので、
彼にはそれが有効打として機能していた。
慌てる彼がおもしろくて、石塚はもう少し意地悪してみる。
「でも・・」
してみた、は良いものの。
そこから先を考えることが出来ないでいた。
もとより、素直ではないがひねくれている訳でもない彼女。
そんな彼女が、男を手玉に取るように言葉を繰る事が出来るだろうか。
「・・で、でも・・?」
「でも・・」
いや、出来ない。
だから、言葉に詰まってしまう。
そんな石塚を見ているうちに、池田は少し落ち着いた。
「・・真奈。」
ちょっとした疑いを瞳に浮かべて、微妙な表情で彼女を彼は見る。
それを受けて、石塚は。
「・・何?」
焦っていた。
すっごく焦っていた。
しているのは、ついさっきとほぼ同じやり取りなのに、
双方の感情は真逆と言っても良いくらいである。
「もしかして、ちょっと弄くろうとしてた?」
もはや疑いを確実なものとした池田は、そう訊いてみた。
「・・・・・・」
石塚は、正面から池田を見たまま答えない。
「・・・・・・・・」
彼も、何も言わずにそれを見つめる。
「・・・・・・」
突如石塚がテーブルの上に腕を組み、顎を乗せた。
その頬は赤い。
それを見て彼は、しょうがないなぁ、という風に心中でため息をついた。
「・・・・うん。」
直後石塚が小さな声で、言う。
その様はまさに、悪戯のばれた子供だ。
それを可愛らしく思いながら彼は、石塚の隣にまた座る。
「まぁ・・別に良いけどね。」
元より、弄くろうとしていたことを咎める気もなかったので、
微笑みつつそう言って彼女の頭を撫でる。
石塚は赤くした顔を上げながら、白状するように語った。
「・・だって、直也君が慌てたり恥ずかしがったりする事なんて、
そうそう無いんだもの・・つい・・」
聞いて池田は、そうだっけ、と軽く応じる。
対して彼女はどこかいじけたようにそっぽを向き、ええ、と言う。
池田は微笑みながら、思ったことを正直に口に出した。
「・・子供っぽいところあるよな、真奈って。」
それを聞いた石塚は、顔の赤みはそのままに表情を険しくする。
「どこがよ。」
しかし池田はその顔を見て、更に笑みを深くした。
「そういうところが、だよ。」
そうされた石塚は、拗ねたように言う。
「・・そういう直也君は、大人ぶってるように見えるけど。」
「うん・・まぁ、そうかも。」
あくまで慌てず笑う池田。
そんな彼に、石塚はついに完全に背を向けた。
「・・ずるいわよ、直也君は。
自分だけそうやって慌てないで・・」
顔が見えないようにしておいて、そう言う。
そういうのがまさに子供なんだよなぁ・・と思いながら、
池田はふぅと短く息を吐く。
「って、言われてもね・・。
真奈が俺よりもちょっと慌てやすいだけじゃないかな。
ほら、よく言うでしょ、慌てる人が居ると逆に落ち着くって。」
そしてそう言った訳なのだが。
「・・フォローになってないわよ。」
返ってきたのはそんな言葉。
どうやら、彼女はフォローが欲しかったらしい。
と、思った池田はこう返す。
「あー・・慌てたりする方が、俺は可愛いと思うけど。」
「・・そう?」
瞬間、石塚の雰囲気が先程よりは柔らかなものに変わる。
ちょっとは上手くいったかな?と、思う池田。
そんな彼をよそに、石塚は上の方を向いて細々と呟いた。
「実はね・・」
後に何かが続く言葉。
「・・・・」
しかし、待っていても彼女からの言葉は続いてこない。
「・・え、何?」
不思議に思った池田が、その続きを促したその直後。
「っわ!?」
池田は素っ頓狂な声を上げ、石塚の方へと倒れ込んだ。
後ろから、重たい筋肉質な何かに動かされたのだ。
もっと言うなら、巻き込まれるような感じだった。
突然のことに何事かと戸惑い、とっさに目を閉じてしまう池田。
体の前方から感じる感触は柔らかく、少し冷たい。
真奈の体だな・・気持ちいい。
そんな風に彼が考えていると今度は、
胴への四方からの締め付けるような感触が襲いかかる。
「っう・・!」
その感触に彼は身を硬くする。
しかし、しばらくして冷静になってから、あまりきつくない事に気づく。
ギュウギュウと締め付けられている事は締め付けられているのだが、
息苦しい感じはしないのだ。
少し待ってみるが、今感じている以上の刺激は来そうになかった。
やや落ち着いてきたところで、ゆっくりと目を開ける。
「・・さっきの続き。」
その瞬間、そんな声が聞こえた。
声の主は目の前の微笑み顔。
「・・ぅえ?」
いつの間にか石塚が体を反転させていたこと、
加えて彼女の言った事の意味が分からないことの二つに、
池田はほうけたような声を出す。
それを見て、彼女は更に笑みを深くする。
「実はね・・私も、慌てたりぼけっとしたりしてるあんたが好き。」
「・・・・」
口を開けたまま無言になってしまう池田。
そんな彼に石塚は続ける。
「ふふ・・直也君は、不意打ちに・・
それも、初めてのことに関しては特に弱いから。
だから、こうやって・・ね。」
言葉を切り、体に力を入れるような仕草をする彼女。
「っ?」
すると、池田の体がゆっくりと彼女の方に動いた。
彼は何もしていないのに、である。
ふと、自分の体の周囲を見回す。
そこにはくすんだ青みがかった蛇腹があった。
「あ・・」
やっと彼は、さっきからの感触が彼女の体であると気づく。
「・・やっぱり、びっくりするのね。
ふふ・・何度も見てるのに。」
口を開ける彼に、石塚は微笑んだまま顔を近づける。
恥ずかしくなって彼は顔を背けようとするが、
細く冷たい尻尾の先が、それを無理矢理彼女の方に向けさせた。
「あー・・えと、ま、真奈?」
顔の赤みを深くして、視線だけでも何とか逸らそうとする池田。
「・・なぁに?」
その先からのぞき込みつつ、笑みを深くする石塚。
「は、恥ずかしいん・・だけど・・」
また視線を逸らす池田。
「うん・・知ってるわ。」
石塚は追いかける。
「え・・えっと・・」
「・・ふふ・・」
そのまま何回か、鬼が明らかに有利な視線の鬼ごっこをしていると。
「・・ね、池田君?」
池田の体に対して正面の位置で、石塚がいきなりそう言う。
「っ!な、何?」
名前でなく名字で呼ばれたことに池田は言いしれぬ不安感を感じ、
つい真正面からその顔を見つめてしまう。
その時見つめたその先の中央辺りから、
二筋の仄かな怪しい光が走ってくるのを彼は見た。
それに驚いて彼は、何回か瞬きする。
「ふふ・・驚いた?」
その後目を開けるが、そこにあるのは変わらぬ自らの彼女の微笑み。
どうやら、驚かせるために呼び方を変えてみたらしい。
そのことは素直に微笑ましく思いつつ、
仄かなあの光について彼は考え始めた。
最初の頃のあの光っぽいけど、体は石にはなってないし・・と、
訝しみつつ彼はとりあえず、さっきまでと同じように視線を逸らす。
「・・!?」
・・出来なかった。
いや、さっきまでも出来ていたとは言えない状態だったのだが、
それでも一応、申し訳程度には動かせたのだ。
しかし、今はそれすらも出来ない。
首の辺りがずぅん、と重たくて動かせないのだ。
「・・まさか。」
ある一つの可能性を思いついた池田は、
石塚が微笑む中手を動かし自分の首を触ってみる。
そこからは、ひんやり冷たい硬質の手触りが返ってきた。
「これって・・」
呟きつつ彼は目を石塚の方に向ける。
「ふふ、そうよ。」
彼女は笑って頷くと、続ける。
「直也君に姿がバレた時は全身を固めちゃったけど・・
こうやって、部分的に固めることも出来るの。」
そして、驚愕からか開きっぱなしの池田の口へ、自分のそれを重ねた。
「ふぁんっ・・」
今日何回目かの柔らかい感触。
しかし、それは今回は長続きしなかった。
石塚がさっと唇を離したからだ。
「あ・・」
名残惜しそうに声を漏らしてしまう池田。
彼女はそれを見て微笑みながら、こう言った。
「・・もう、逃げられないわね・・?」
「へ・・」
言い方がやや気取ったような感じであったことに、彼は目を丸くする。
それだけで、彼が何を思ったのか感じ取った石塚は、首を傾げてみせた。
「ふふ・・物語だったら、こんな感じかなぁって思って。
・・さ、どうする勇者さん?暴れる?怯える?命乞いをする?」
その口元は、とても楽しそうに歪まされている。
自らの姿が異形であることを利用して、遊んでいるのだ。
そうと分かった彼は。
「その蛇がヒロインで・・主人公が惚れてることが見透かされてたら?」
そう言って挑発的に笑ってみせる。
「そう・・ふふ、いけない勇者さんね・・」
彼の順応性の高さを嬉しく思いながら、石塚は妖しく微笑んだ。
その笑みに含まれた嗜虐性に思わず背を震わせた後、
彼はなおも挑発的にこう言う。
「っ・・だとしたら、どうする・・?」
完全に誘っている言葉。
石塚の我慢は限界を迎えた。
「・・分かり切ったこと・・勇者じゃいられなくしてあげる・・!」
顔を火照らせながら、彼の口を塞ぎにかかる。
彼の唇と彼女の唇。
ふたつの赤が重なり合おうとしたその瞬間。
「ぅいーす!ただいま!まな・・こ・・」
その良い雰囲気をぶちこわす、招かれざる客が部屋に入ってきた。
それから、少しして。
「はは・・まぁ、悪かったよ。」
ソファ前に立った闖入者は、そこに座る自らの妹に笑って謝っていた。
「うっさい!せっかく・・!せっかく、直也君と!」
その妹はというと、顔を真っ赤にして涙目になりながら、
自分が一番大切にしている、隣に座る男子に全身で抱きついている。
「ま、真奈・・落ち着いてとは言わないけど、
とりあえず、今しかいられないわけじゃないんだからさ・・」
その男子はというと、苦笑いを浮かべながらそう言ってなだめていた。
「むー・・だって・・!」
縋るように彼を見つめる石塚。
その様を見て闖入者は、苦笑いしながら言った。
「あー・・その、さ。
あたしは六時になったら、カレシんところ遊びに行くから。
それから泊まりで居ねえから、だから機嫌なおしてくれよ、真奈子。」
「・・嘘じゃない?」
睨みつける石塚。
闖入者は肩を竦めてぼやく。
「・・同じ鬼でもアカオニとかアオオニなら、
こういうとき疑われずにすむんかね・・ああ、嘘じゃねえよ。」
「・・ホントにホント?」
それでも疑う彼女に、闖入者は笑って小指を突き出す。
「なんなら・・これ、するか?」
「・・・・いい。」
そうまでされてやっと石塚は、その件への追及をやめた。
闖入者は苦笑すると、今度は池田の方へ向き直る。
「で・・お前さんは、見たところ・・真奈子の彼氏だね。
・・ほー・・へぇー・・ふーん・・?」
そして品定めするかのように、顎に手を当てつつ彼を眺めた。
「えー・・と・・」
何となく気まずくなり、体を揺すりながら彼は視線を逸らす。
「・・姉さん。」
それを感じて、石塚の雰囲気がまた冷たく刺々しいものへと変わる。
しかし引き起こした本人はというと、動じずに姿勢を自然体へと戻した。
「はは、悪い悪い。
真奈子がここまで反応するんだ、関係を疑うのは野暮ってもんだな。
・・っううん・・」
続けて咳払いをする。
その行動は、石塚と池田を彼女の方へと向き直らせた。
二人の内池田の方に、彼女は手を差し出す。
「ま、とりあえず。
聞いてりゃ分かってるだろうが、あたしは真奈子の姉ちゃん。
種族はオーガで、名前は陽子ってんだ。」
「あ・・はい、俺は池田直也です。
こっちこそよろしくお願いします。」
差し出された手を握り返す池田。
「っひひ、硬えなぁ・・おう、よろしくさん。」
陽子はそう言って笑う。
池田も、言葉こそ無けれど笑っていた。
その様を見た石塚は一人、やきもちのような、もしくは、
蚊帳の外に居ることから来る寂寥感のようなものを味わっていた。
「・・・・・・」
勿論、それを言葉に出せる程子供ではなかったが、
むしろ言葉に出せない事が今は、恨めしい。
そう彼女が思っていると。
「・・真奈、どうかした?」
突如池田がそう言って彼女を見下ろしてきた。
「ひぇ?」
全くアプローチを仕掛けた覚えもない彼女は、変な声を出してしまう。
その事を内心恥ずかしく思いながら見返した先の池田は、笑っていた。
「だって蛇が小さな声で、なおやん、いっしーと話してよ、
って俺に言ってきたんだ。
だから、何か言いたい事とかあるのかなぁと。」
そしてそんな事を言う。
また蛇が余計なことをしたのか、といつもの考え方を巡らせながら、
それでも池田と話す為の切っ掛けを与えてくれたことには感謝しつつ、
言葉を返そうとする。
「ほぇ〜・・石塚の蛇が喋ったのかぁ!」
しかし、場に響いたのは彼女の声ではなかった。
この姉は・・ッ!と瞳の奥で憎悪の炎を燃え上がらせる石塚。
「・・真奈。」
池田はそれに気づいて彼女の体に触れ、何かを言おうとする。
「これまで母ちゃん以外には話さなかったあいつらがかい!
へぇ〜・・石塚に好かれるなんてスゲエ奴だと思ってたが、
まさか、ここまで懐かせてるたぁねえ!」
だが、そんなことに気づかない鈍感な姉がべらべらと話してくれたので。
「・・っさい。」
「あ?どうした真奈子。」
「うっさい!こっから出てって!彼氏の家にもう行けばいいでしょ!」
石塚は、わき上がる感情のままにそう喚いてしまっていた。
その後。
「はは、悪かったな。
んじゃ・・お望み通り、カレシんとこ行ってくるよ。
ちぃっとはええけどまぁ、大丈夫だろうし。
・・二人とも、留守よろしくな。」
締め出されるような形となったにも関わらず、陽子はそう言うと、
気にしてねぇよ、というような表情で笑った後、家から出て行った。
対して、締め出した方の石塚は。
「ぅ〜・・」
落ち込んでいた。
口からつい出たとはいえ、わりかしいつも苛立たせられているとはいえ、
あんな風に追い出してしまったのだ、それは気に病むというものである。
・・では、そうしなければ良かったではないか。
と、いうことになるのだが、それが正論なのも分かっているのだが。
不思慮なことをいつも無遠慮に言ってくる姉だぞ、という気持ちと、
あの時の自分の感情の末にたどり着いた、
二人きりというこの状況を喜びたい気持ちもあった。
しかしながらそこに至るまでの過程は褒められたものでは、ない。
「・・」
だからやはりどうにも喜べるものでは・・
「真奈。」
彼女がそう思っていると、池田は優しく声をかけてきた。
「・・何?」
短く答える。
暗く素っ気なく重い、
落ち込んでいるのがありありと分かってしまう声音。
発言した後でそれを感じて、
これじゃあ、直也君に気を遣わせるだけじゃない・・と、
内心更に落ち込む。
そんな彼女をよそに、彼は世間話をするかのような調子で訊く。
「陽子さんと真奈って、いつもこう?」
「・・ううん、大体同じだけど、いつもはもうちょっと・・」
答える彼女だったが、語尾の方が弱くなってしまう。
先程から感じている罪悪感を意識してしまったからだ。
俯いてしまう彼女。
「・・やっぱり。」
しかし、そんな石塚とは対照的に、池田は得心したように頷いた。
「な・・何がよ。」
弾かれたように振り返った後、彼女は問う。
すると池田は表情を穏やかにして、こう言った。
「きっと、陽子さんは俺達を二人きりにするために、
真奈をわざと怒らせたんじゃないかなって事。」
「・・は?」
「だって、真奈があんなに怒ったのに、陽子さんは笑ってたでしょ。
いつもはああじゃないなら、もっと驚いたりとかすると思うんだけど。」
「・・・・」
「どう、かな?」
考え込む石塚。
そう言われればそのような気もしてくる。
しかしながら、あのガサツな姉に気を使われたというのを認めるのは、
なんだか癪でもあった。
それに、それが本当であるならば、
上手く乗せられて自分は叫んだという事になるではないか。
・・もしそうだったなら、納得がいかない。
そう結論づけた彼女は。
「・・・・逆よ。」
むすっとして短く呟いた。
「え?」
「私を気遣ったんじゃなくって自分が早く行きたかったのよ、きっと。」
自分の顔を見つめてくる池田に、彼女は目を横に逸らしながら続ける。
「だって、そうじゃなかったら・・そうじゃ、なかったら。
なんか・・なんか・・その・・」
文句を言おうとしたもののその後に言葉が続かない。
二人きりにしてくれたこと、それ自体はとてもありがたいのだから。
「・・真奈。」
彼女の様を見て池田は、微笑みながらゆっくりとその頭を撫でる。
「ん・・何よ。」
不満そうな表情を浮かべながら顔を背けつつ、体重は彼に寄せる石塚。
そんな彼女を微笑ましく思い、
自らに寄りかかってくるその体に両手を回しながら、彼は続けた。
「とりあえず、この事はおいといてさ。
今は、二人っきりの時間を楽しもう?」
紆余曲折を経て手に入れた念願の状況、
そこに至るまでの過程や思惑についての思考を放棄して、
彼の言う通りにただ楽しむのも確かに・・悪くはない。
「・・・・それも、そうね。」
少しの逡巡の後、石塚は体を捻り彼の胸元に後頭部を預ける。
すぐさま彼女の頭髪が彼の首元に体を擦り付けるが、
それを振り払うこともしないほど、彼女は実は上機嫌になりつつあった。
絡み付かれた方の池田も、
時々顎の下に来る感触にくすぐったくなって顔を動かす以外は、
ほとんど全く動かずに彼女の全身を抱き締めている。
「・・・・・・」
同じ方向を向いて、無言。
窓から穏やかに差し込んでくる昼下がりの陽光と、
それよりも幾分か暖かい池田の体。
正面と背後の両方から感じる、心地良い温もり。
「・・っぅ・・」
それを感じたとあっては、
石塚の上半身がカクッ・・と横下斜めにズレるのも無理からぬ事だった。
「ん、真奈・・?」
彼女の肩を腕の輪で受け止めながら、
池田は眼下の揺れる頭に呼びかける。
「ん・・」
返ってきたのは、短くあやふやな言葉のようなもの。
返事なのかただの反射的な動きに伴うものなのか、はっきりしない。
微笑ましいような、一方では困ってしまったような気持ちになって、
池田は次の石塚の行動を待つ。
「・・・・」
しかし、彼女の体は全く動かない。
かつ、言葉を発することもなく。
・・参ったな、これじゃどう対応したものか。
そう困惑する一方で、まぁこのままでも良いんだけど・・と、
腕の中から感じられる温もりを享受する事も、考え始めた池田。
その時である。
石塚の体がぐらりと揺れたのは。
「っおぅっ・・と・・」
やや驚きつつ、少しだけ腕に力を込める池田。
「ん、んぅ・・?」
ガクン、と揺れたであろう石塚はそれに反応して、
ゆっくりと頭を持ち上げ、覚醒するかのような素振りを見せた。
それに、お・・?と心で呟きながら、
次に何が起きるのか池田はやんわりと身構える。
予想は、ゆっくりとこちらを振り向く動作だ。
「ん・・直也、く・・ん・・ぅ・・」
しかしながら、石塚の行動はそれに反するものだった。
夢うつつ、というような風でもぞもぞと上半身を動かしたかと思うと、
池田の肩と胸の間に出来た隙間にその後頭部を預け。
「んぅ・・ん・・すぅ・・ん、ふふ・・」
そのまま、寝入った。
「・・・・・・」
驚きから絶句する池田。
だがその驚愕の表情は、すぐに微笑みへと変わった。
「・・ふぅ・・」
小さく息を吐きつつ彼は、
自らの体を布団と枕にして眠る石塚に優しい眼差しを向ける。
そして彼はそのままゆっくりと体を後ろの方へと傾け、
柔らかいソファに体重を押しつけていった。
いかに石塚が自らの愛らしい彼女であったとしても、
何にももたれずに支えるのは流石に堪えるためだ。
そうし終わってから、彼はもう一度自らの腕の中を覗き込む。
「ん・・」
その視線の先には先程と全く変わらぬ石塚の姿。
静かに寝息を立てる彼女は、安心しきっていて、とても幸せそうである。
それを見て、微笑ましく思うとともにどこか安心する。
だから、というわけではないだろうが・・
「ん・・ふ、ぁああ・・」
池田自身も、欠伸をしてしまっていた。
「ぁ・・ふふ・・」
何となく恥ずかしくなり苦笑する一方で、
このまま寝てしまおうか、とも思う。
しかし、だ・・誰か来たらあれだし・・と、何とか持ち直そうとする。
「ん、あぁふぁあああ・・」
しかし、欠伸は再び彼の口の中から吐き出された。
これはもぅ・・寝てしまった方が良いかな・・と思っていると、
彼の首元を細い何かがつついてきた。
その刺激の犯人を思い浮かべながらそちらを向くと、
予想通りのものが彼の方を向いている。
それは、半分閉じかけている彼の目を見ながらこう言った。
「なおやん。
寝ちゃいたいならユー寝ちゃいなよ。
もし起きなきゃいけなくなったら、私たちが起こすからさ。」
どうやら、自分を気遣ってくれたらしい。
「ん・・ありがとう。
じゃ、そうさせてもらおぅかな・・」
その気遣いを素直に嬉しく思いながら、彼はそう返し、
そのまま目を閉じて、意識を沈めていった。
それからしばらく経って、カラスと一緒に帰る時間がとっくに過ぎて、
月の光が自己主張を始めた辺りの時間帯。
「ん、んぅ・・?」
そんな、誰もが夜と認める頃になってから、やっと池田は目を覚ました。
「ん・・ぅう・・」
ぼやける視界を改めるように何回か瞬きをする。
直後、目の前で何かが揺れ動くのが見えた。
「ん・・?」
寝ぼけ眼を瞬かせ、その正体を見極めようとする。
「ふふ。」
直後、微かに笑うような声が聞こえた。
と同時に額の辺りを何かがつんつんとつついてくる。
・・これは、この細いのはアレだな。
「・・真奈。」
苦笑とともに刺激の犯人の名を口に出し、彼は何回か瞬きをする。
はっきりした視界の中に映った顔は、にやにやと笑みを浮かべていた。
「おはよう・・ふふ。」
そのままの表情で、目覚めの挨拶をしてくる。
その穏やかな表情はなかなかに見られないレアなものだ。
「ん・・おはよう。」
だから、池田も嬉しくなって同じような表情になった。
「ええ・・」
すると次に石塚はゆっくりと顔を近づけて来る。
妖艶と言うにはやや冷たさや鋭さが勝るものの、
そうだからこその独特の魅力を持つそれが、迫ってくる。
「ま、真奈・・」
緩やかにしかし確実に距離を詰めてくる石塚に、
何をする気なのか全く分からない彼は、困惑したように呟いた。
「寝てたときの無防備な顔は、良かったけど。
そうやって驚いたり困ってる直也君も、やっぱり良いものね・・」
対する石塚は妙な余裕を保ったまま体を巧みにくねらせて、
一旦彼の頭よりも高い位置に自分の体を持ち上げる。
そして段々と彼の顔めがけて下ろしていった。
石塚の体に包み込まれているために、あまり体は自由に動かせない。
そんな状況で蛇の体と共に迫ってくる石塚に、
池田は何故か、恐怖にも似た言いしれぬ感情を抱いていた。
「っ・・!」
それが顔と言動に出てしまう。
表情はやや硬くなり、体も同様に強張ってしまった。
直後、その行動が石塚の心に残っているものと一致するのでは、と、
彼は不安に駆られる。
「っふふ・・何故かしら、不思議ね・・」
だが予想とは裏腹に石塚は、悲しむどころかそう言って微笑む。
「え?」
「そんな反応されたら少し前だったら悲しんでたのに、今は・・」
どういうこと、と言うよりも先に言って池田の首筋に手を回すと、
やけに色っぽく感じられる声で、彼女は彼の耳元に口元を寄せ囁いた。
「とっても・・素敵だと思えるの・・」
「っぅ!?」
その声の調子と耳にかかった息の両方に、
ゾクゾクッという感覚を覚え、池田は身震いをする。
「っ・・ふふ・・ぅふふ・・」
それを見た石塚は突如笑ったかと思うと、
「っねぇ、どう?・・その・・ドキッとした?」
少しばかり顔を赤らめて、そう問いかけてきた。
そこまで来て、やっと彼は石塚にいじられていたということに気づく。
「っ・・!ま、真奈!」
彼は彼女よりも顔を赤くして、口を大きく開ける。
滅多に見られない彼のそんな表情を見た石塚は、
微笑ましくなって穏やかに顔を綻ばせた。
「ふふ、ごめん。
・・でも素敵って思ったのは、本当だから。」
しかしながら、伝えるべき事はきちんと伝える。
「え・・っぁ・・」
池田が顔を更に赤くしたのを見て、聞かれたことを確認した彼女は、
なんでもないわよ、と体を彼から退かせキッチンの方へ這っていく。
蛇の体が大きいので彼からは見えなかったが、
その体の先、尻尾と呼べるだろう部分は確かに楽しげに揺れていた。
それからまた少々して、夕食を食べ終わった石塚は。
「ふぅ〜・・気持ちいいわね・・」
風呂を満喫していた。
体の蛇の部分は、湯船の壁に沿ってつけられている。
ちなみにオール電化のため、火傷をする心配はほぼない。
「あ、あぁ・・うん・・」
そして勿論というべきかは分からないが、池田も一緒に入っていた。
石塚の前、後ろに倒れ込めば甘えられる位置に。
しかし、のんびりとくつろぐ石塚とは対照的に、
池田はきょろきょろと視線をさまよわせ、落ち着かない様子だ。
「・・もう、そんなに恥ずかしがること無いじゃない。
恋人同士、でしょ?」
石塚としては、何故そんなに恥ずかしがるのかが分からなかった。
魔物娘故か、はたまた彼女が特別そうなのかは定かでないが、
彼女の中では、恋人という関係で結ばれた彼に対しては、
裸体を見られる等の事は恥ずかしいと思うに値しないのだ。
その分、言葉には恥じらいを覚えるのだが。
「や、だって・・は、初めてで、しかもその・・真奈、綺麗だから・・」
逆に池田は、言葉にはそれほど恥じらいを持たないのだが、
体や肌が接触するなどのことにそれを持っていた。
「そ、そう・・で、でも、恋人同士だから、ね?」
思わぬカウンターに内心ときめきつつも、
何とか彼に自分を正面から見てもらおうと、言葉を巡らす石塚。
「あ、うん、それは、そうなんだけど・・」
だが、何とか言いつつ彼は全く動こうとしない。
それを見て石塚は、それならそれで、と口の端を釣り上げた。
次に無言で上半身を持ち上げる。
さながら獲物の様子をうかがう蛇のように。
チャパァ・・という水音。
それと後ろで何かが動いたという感覚を不思議に思ったのか池田は、
振り向いて何かを言おうとした。
しかし。
「っわ!?」
それよりも先、振り向ききらない内に、
石塚がその体を強い力で引っ張り自らの胸元に抱き寄せた。
逃げられないように、しっかりと下半身を足に絡める。
「え?ま、真奈?」
いつもからすれば積極的な彼女に、池田は困惑したような声を上げる。
対して石塚は、食事前にやったように彼の耳元に口を寄せた。
それだけで少し前にあったことを思い出し、体に力が入る池田。
その様を見てニヤァッと笑うと。
「まぁ、恥ずかしがる直也君も、素敵なんだけどね・・」
と、石塚は舐め回すように首を動かし言った。
「ま、真奈・・!」
耐えきれなくなり彼女の居ない方につい体をひねる池田。
だが彼が居るのは湯船、そう広いわけではない。
だから、当然捕まる。
「ふふ、捕まえた。
・・もう、こうなるの分かっててやってるでしょ?」
体を巧みに動かして回り込みつつ壁側の自らの体に池田を押しつけ、
今度は正面から彼を見つめる石塚。
対して彼は、顔を赤くしながら言った。
「わ、分かってるけど・・体が動くんだから、しょうがないだろ・・」
それを見て彼女は微笑む。
「そうね、しょうがないわね。」
そして視線を落とし、やや頬を紅くするとこう続けた。
「ここがこんなになっちゃってるのも、しょうがない、わよね・・」
ここ、とはどこなのか、そして、こんなに、とはどういう意味なのか。
他ならぬ自分の体であるが故に、
二つがはっきりと分かってしまった池田は、赤面し取り乱す。
「あ、や!あの、こ、これは、その・・!
お、男の生理現象っていうか!」
「ふふ・・変な直也君。
しょうがないって、言ってるのに・・」
しかし、石塚は対照的に落ち着いた態度で微笑みを崩さない。
その態度に池田は妙な違和感を感じた。
「・・って、いうかさ、その。
真奈は、なんでそんなに落ち着いてるんだよ・・?」
いつもだったら、いやそうじゃなくてももっと恥ずかしがる事だろ、
と考えたこと以外、そのままに口に出す。
すると石塚は窓の方を見ながら、そうね・・と不思議そうに呟いた。
少しの間そうしていた彼女だったが、
突如何かを思いついたように顔を上げ、その後頷く。
「今日が満月、だからかしら。」
「は・・?」
訳が分からなくて、ポカンとなる池田。
そんな彼に石塚は、あ、ごめん・・と説明を始めた。
「満月は魔力が高まる・・とか何とかそういう感じ。
私達が日常的に魔力を放出するのは知ってるでしょう?」
「あ、おぅん。」
妙な言葉だがこれは、返事のおう、と、うん、が混ざった結果である。
首を傾げかけた石塚だったが、何とか理解して続ける。
「・・それで、さっき言ったことに繋がるんだけど、
高まる、ってことは無意識に出る分も出せる分も上がるの。
で、魔力は男の人に、特に、す、好きな人がいたら、
その人に集中して注がれるの。」
「ふんふん。」
「で・・ね?魔力が注がれた男の人がどうなるか知ってる?」
「・・まぁ。」
顔を赤くしつつ顔を背け、答える池田。
それを見て双方の認識が大体あってる事を確信し、石塚は続ける。
「うん・・それでね、私達も勿論知ってる。
だから、直也君のがこうなってるのを見ても、
落ち着いていられてるんじゃないかしら。」
「は、はぁ・・」
どこか微妙にズレている気がしないでもない池田だったが、
とりあえずその説明にそう返した。
「あ・・だ、だけど、それならそれで、
このまま一緒にいるのも、アレだし・・俺、上がるね。」
そして直後気まずくなって風呂から上がろうとするという、
極めて常識的な行動を取る。
「ねぇ、池田君。」
「えっ・・何?」
「・・逃がすと思う?」
しかし生憎と、彼が相手取っているのは常識の外の存在である。
呼び方を変えるという、一度された方法に再度引っかかった彼は、
足首から先だけを石へと変えられた。
規模は小さいが、歩き出せない時点で致命傷だった。
一応、這い出そうとすれば出来る・・が。
「まあ、こうなる・・よね。」
そうするほど、今の状況が嫌だというわけでもない。
「精を、糧にする・・だった、っけ?」
無意識に興奮しつつも、確認を取る池田。
実を言えば彼はちょっと、ほんのちょっとだけ、期待していた。
魔物娘のそういう技術が卓越しているのは、知ってはいるから。
年頃の男子としての恥じらいや石塚への気遣いから、表には出さないが。
「・・うん、まぁその・・ね。」
恥じらいながら答える石塚。
その姿を見て、池田は言う。
「だったら、アレだ。
こういうことをするのも・・しょうがない、かな。」
それは雰囲気を和らげようとして言った言葉だったのだが、
「っ、勘違いしないで。」
驚くぐらいの速さで、石塚にそう差し込まれてしまった。
たじろぐ彼に彼女は続ける。
「性質としてはしょうがないことなのかもしれないけど、
私は、性質だから、タイミング的に丁度良いからする訳じゃないわ。」
その口の開閉は、かなりの速さだった。
しかも、まだまくし立てようとしているようだ。
「私は「分かってるよ・・さっきのは軽口だって。」
そこに池田が割り込み返す。
やや不満げな表情で見上げる石塚だったが、
彼の顔に苦笑じみた微笑みが浮かんでいるのを認め、俯く。
悪いことをしちゃったな、そう思いながら彼は続ける。
「恥ずかしかったからああいうことを言っちゃっただけ。
その・・真奈にしてもらうのを良く思ってないとかじゃ、ないから。」
「・・う、うん。」
自分でも思うところがあったのか、疑わずに答える石塚。
「だからその・・えぇっと、な?」
次に言う言葉の恥ずかしさを思い赤面しながら、彼は更に言葉を重ねる。
「・・してくれるなら、俺は、して欲しい・・かな。」
「ん・・!うん・・!」
対する石塚は、歓喜を表情に滲ませた。
「じゃあ、あの・・方法は。」
そしてその表情に少しだけ照れを加えて、問う。
「え?あー・・えっと・・」
池田は少しの間考え込むような素振りを見せた後、
顔をますます赤くしながら、言った。
「真奈に、お、お任せするよ・・」
「うん・・分かったわ。」
彼女が答えると同時に、彼は持ち上げられ背中は壁に押しつけられた。
「え、ぇえ?」
困惑する彼に石塚は、思わず背筋がゾクリとしそうな良い笑顔で、言う。
「・・この方が、気持ちよくなるだろうから、ね?」
かくして。
魔物娘である石塚に「お任せ」した池田は。
「っ・・ふ、ぅあぁっ・・!」
始めたばかりだというのに、体を走った未知の快感に震えていた。
「ん・・ふふ・・」
一方の石塚は、それを見てニヤァリと口元を歪める。
そして自らの手を動かし、その中にある暖かくなった棒を何回か握った。
すると外側にある皮が伸びたり縮んだりし・・
「っ、ぁぅっ、っ・・!」
同時に、池田の体が再び揺れる。
顔はその一瞬強ばり、口元は我慢するように引き絞られている。
簡単にイくわけにはいかない、嬌声を張り上げるのはみっともない、
そういう、男子としてのプライドである。
「お任せ」してる時点で、あってないようなものではあったが。
しかしそれを見て石塚は、かえって気を良くしたように目を細め、
体をもたげ、池田の顔の側面に口を寄せた。
「我慢しようとしてるの・・?」
「っ、う・・!」
そしてそう言うと、
「ぁむ・・っ・・」
震える彼をなぶるかのように、その耳を口に含む。
「っぅ!?ま、まぬぁっ・・!」
恥ずかしさからか抗議しようとした彼だったが、
側頭部からのぬめった感触に、その声の質を変えられてしまった。
「んふ・・んむぅ・・っ・・」
太すぎず細すぎもしない、丁度心地の良いサイズの感触が、
耳たぶの辺りを一、二回なぞってくる。
「ぁっ・・ふぅっ・・」
池田は震えながらも、彼女の居ない方へと無意識に体を捻った。
無論、彼女の下半身に捕らえられているので頭くらいしか動かない。
「ん・・らぁめっ・・ふふ・・」
その頭もすぐに、
彼女の余っていた方の腕によって動かせなくなってしまう。
「ん、ぁむぅ・・れぉ・・」
完全に動けない状態で、耳を責められる。
それだけでも体が震えるほどの妙な快感なのだが・・
「っくぁ・・っ!」
それは股間からも上ってくる。
彼は、同時にその男の象徴も責められていた事を思い出した。
「っふふ・・」
ゆっくりと、しかし、一切緩めることなく一定のペースで。
上下に強制的にそれを動かされるのは、予想以上のものであった。
「っ・・ぅくっぅ・・!」
無論、池田とて健全な男子・・自慰くらいはしたことはある。
しかし、今味わっているのに比べれば、
これまでに感じたことのある快感など大したことはない。
そう言っても過言ではないくらい、石塚の技術は卓越していた。
・・このまま、射精してしまったら、どれほど気持ちいいのだろう。
ふと、のぼせる頭でそんなことを考える。
その瞬間。
「っはぁくぅ・・っ・・!」
これまで抑えていた声が、つい裏返ってしまった。
それはつまり、その声を彼女に聞かれてしまったという事で。
「・・直也君・・ふふ、恥ずかしい声ね・・?」
腕の位置を頭から首に動かして、耳を責めるのを止め、
正面から見つめてくる石塚。
その目は温かく見守るようでいて、優越感に浸っているようでもあって。
「っ・・!」
彼は、ブルリとその身を震わせてしまっていた。
それを見た彼女は更に乗ってきたようで、顔を寄せてくる。
そしてもう少しで唇が触れ合うか、というところで止まると、
「りゅぅ・・る・・」
その良く伸びる舌を、結ばれている彼の口の端に滑らせてきた。
「ぅ・・?」
それ自体はそれほどの快楽ではない。
くすぐったいと表現した方が正しいくらいだ。
「・・るぅ・・ん・・」
しかし石塚は、やけに熱心にそこを舌で触れてくる。
その事を不思議に思い、彼はその口を開けた。
「なぁ、真奈・・そこ、そんなぁむぅっ・・!?」
その瞬間、先程まで口の端をつついていた舌が、
口の中へとなだれ込んでくる。
やられた。
そう思うことさえ、できない。
「あむ、ん、りゅぅんむぅれろぉ・・んむぅ・・」
石塚の求めは、それくらいに激しかった。
口の中をにゅちゅにゅちゅと這いずり回られ、
呼吸のために口を開けることすら許されない。
「んぅ、ぅ、ふぁ、まぁ、ぬぁうんむぅう・・」
真奈、とその名を呼ぼうとした声さえ、
彼女の舌に吸われてくぐもった音に変わってしまう。
自分の声や要求は提示する暇さえ与えられない。
「ちょ、ふぁむう、ん、ん、ううんむ・・!」
まさしく一方的。
最初の方こそ驚いていたが、池田はもうそれを不満には思えなかった。
段々と頭がぼうーっとしてきていたのだ。
「んじゅ、ん、ん・・」
口の中のものというものが舐め尽くされ、
鼻で息をする度に心地の良い香りが通り抜け、
頭が痺れるような感じになり、体から力が抜けていく。
「んぅ、ん・・む・・う・・」
池田はついになすがままになって、身を委ねていた。
「れぅ、んむ・・うん・・」
舌を動かし、やや緩慢になった彼女からの求めに応える。
眼前に見える彼女の、ただひたすら自らを求めてくるその姿に彼は、
言いしれぬ、また言い表しようのない、そんな快感を覚えていた。
・・もしかすると、これが一番気持ちの良い理由かもしれない・・
そんな事を思い始める。
彼女から、真奈から激しいくらいに求められる。
ただただ自分という存在を貪るように。
まるで、支配者に蹂躙されるように。
・・ああ、だから、彼女に耳を舐められたときあんなに・・?
それを意識する、意識した、その瞬間。
「むぅんうっ・・んぱぁ・・!」
何かが背中へ流れ、肩から抜けていった。
まるで、快楽という刃物で斬り上げられたような感触。
・・だめだ。
池田は、思っていた。
このままでは、石塚の求めに応えることすら出来ないくらいに・・
「ぃっひ・・っ!」
感じてしまう。
体全体が、じんじんと熱くなり頭が痺れてーー
池田は絶頂しようとしていた。
「あ・・はっ・・あ・・ぁあ・・?」
しかし、出来なかった。
体が熱い事は熱いのだが、その上にいけなかったのだ。
「はぁ・・あ、あ・・ま、な・・?」
顔を火照らせつつ、そうなるように加減をしたであろう石塚を見る池田。
すると彼女は彼を湯船の中に引きずり込むと。
「っ・・はぁ・・ふふ、直也君・・
お湯の中になんて、出さないで・・」
自らの体を持ち上げ、その蛇の体に刻まれた一筋の線を指差し。
「ここ・・ここに、出して・・」
そう言うと、ゆっくりとその部分を、池田の屹立にあてがった。
「・・って、駄目・・!」
それが男女のする所謂「本物」だと気付き池田は抵抗を試みる。
しかし無情にも彼女は、そんな池田の耳元に口を近づける。
「でも・・直也君が好き、なの、だから・・お願い・・」
そして、そう囁いた。
真奈子がいつも絶対に言わないような、これ以上ないストレートな表現。
それを聞かされた直也は。
「っ・・ぅ・・!?」
言葉だけで、達するかのような思いを味わっていた。
股間のものが張り詰めて、今にも爆発しそうになる。
そうなっているのを見た真奈子は、
「あ・・ふふ・・やっぱり、直也君もしたいのね・・良かった。」
嬉しそうな笑みを浮かべ、そして・・
「じゃあ・・いくね・・」
彼女はそう言って、腰を押し込んだ。
瞬間。
「ぅあ・・」
直也は、先程までの手コキとは全く違う感覚に身を震わせていた。
にゅりゅにゅりゅと優しく、緩々な・・そんな感覚。
まるで、包み、溶かそうとしているかのような、快感。
「は・・ぁ・・ぅ・・あぁ・・」
事実、直也はその快楽に溶かされていた。
体中が巻き付かれているのもあって、
体全体がふわふわとした気持ちよさに包まれているのだ。
「ぁっ・・ふふ・・可愛い・・」
「あ・・う、く、ぅ・・」
真奈に見られている。
そのことに今更な軽い羞恥を覚え、男を見せようと力を振り絞る直也。
「良いわよ、んぅっ、別に・・はぁ・・」
「えっ・・」
しかしそれも、彼女が胸元に上半身を乗せそう言った事で、溶かされる。
何とかかんとか力を入れていた筋肉が弛緩していき・・
「ぅ・・うぁっ・・」
ついには、力という力がほとんど全て抜け落ちてしまった。
体に力を入れようにも、頭がぼぉっとしてしまい、できない。
そんなだらしない様を見た真奈子は、自らの両腕を直也の胴体に回す。
「・・ねぇ・・んぅ、分かる・・?私達、全てで繋がってるの・・」
「お・・うん、そうだな・・」
そして、そんな事を言う。
下から見上げてくる彼女は、頬が赤く染まり瞳が濡れていた。
髪の一つが熱に浮かされたように、断続的に息を吐き続けている。
ああ・・そういう事・・。
真奈・・俺の為に我慢してくれてるんだな・・でも・・と、
そう思った直也は。
「なぁ、真奈・・良いぞ、ぅっ、動いても・・
俺・・真奈にされるの好きみたいだからな・・」
そう口走っていた。
「っ・・!で、でも・・」
対する真奈子は僅かに身を震わせた後、
驚いたように顔を上げて、問いかけてくる。
続く言葉は、大丈夫なの?だろう、と直也は見当をつけた。
だから、安心させるためにこう言う。
「大丈夫だよ・・あ、でも・・こっちがあんまり、っくぅ・・!
攻めてやれなくって、ごめんな・・?
こういうの、男がぁっ、するもんなんだろうけど・・」
すると、真奈子は。
「うぅん・・良いの・・ありがと・・っんあっぁ・・!」
いきなり息を荒らげビクビクと揺れ動き、そんな声を出し始めた。
「あっ・・あぁ・・!ぅう・・!直、也君・・っ!」
声は出すほどに激しくなり、その淫猥さを増していく。
まるで、抑えていたものが抑えきれなくなってしまったかのようだ。
「だ、大丈夫?真奈・・」
心配になり、声をかける直也。
「ま、真奈、んむ!?んむうぅっ・・!」
対する答えは、熱烈な接吻だった。
「んむっ、ん、ふっ、んむ、むんん、んん・・!」
先程同じものを受けた時と違い、今度は真奈子側にも余裕がない。
顔が紅く染まり、髪の毛はざわざわとどうしようもなく蠢いている。
「んはぁっ・・!直、也君・・直也君・・!」
口を離したかと思えば、うわごとのように直也の名を呼ぶ。
自分の中の思いが暴走しかけて、ぐちゃぐちゃになっているのだろう。
それはそれで嬉しい、と直也は思う。
しかしなんだか真奈が壊れてしまいそうで、少し心配にもなっていた。
「っぅ・・真奈・・」
だから、彼女の名前を呼ぶ。
「直也君・・直也くぅん・・なに・・!?」
そしてほぼ真上、至近距離に見えるその顔に何とか唇を近づけ・・
「は、ぁむ・・」
今度は自分から、口づけた。
「ん・・?!ふぁむ、ぬむ・・!」
当然のように、激しくしようと舌を這わせる真奈子。
直也はそんな彼女の背中にゆっくりと手を回す。
力が入らないが、それくらいのことは幸いながら出来た。
「んむ・・っ!?」
目を見開きぴくっ、と一回揺れる真奈子。
驚いた様も、やっぱり可愛いな・・と、
何故かどこか余裕の出てきた頭で考えながら、直也は口を動かす。
「はむ、あむ、っむりゅぅ・・」
舌を真奈子の口の中へと侵入させていく。
「んりゅ・・」
落ち着かせるように、じっくりと。
「む、れぅ・・」
焦りをかき消すように、ゆっくりと。
「ん、む、ぅ・・れろぉ・・ん・・」
・・お返しをするように、たっぷりと。
「んゅ・・っ、ぅっ・・」
その途中で彼は、真奈子の舌が戸惑うように震えているのに気づいた。
・・反撃ととられちゃったかな、これは・・と、ここで彼は口を離し、
「あむぅ・・っ、ぱぁ・・真奈・・良いからな・・おいで・・」
あくまで真奈子が攻めてくるように、彼は声をかける。
それが彼がされたいことで、真奈がしたいことだろうとも、思ったから。
「んぅ・・う、ん・・」
真奈子はこくりと頷き、その舌を直也の口の中へ滑らせる。
顔は先程と同じく赤いままだが・・
「ぁむ・・ん、む・・」
口を動かすその調子は先程よりも落ち着いていた。
「ふふ・・ん・・れぅ、りゅ・・」
それに安心しつつ直也は、這いずってくる暖かい舌を再度受け入れた。
「んむ・・あむ・・」
入り込んできたぬるっとした感触の先端が、頬の内を舐めてくる。
「む・・りゅ・・」
それを追いかけ、自らの舌をそこにあてがった。
「んふ、む・・りゅむ・・」
すると真奈子はさっき舐めていた頬をそっちのけで、絡みついてくる。
まるで、そこを舐めていたのは囮だと言わんばかりに。
「んむ、んりゅぅ・・」
「ん・・む、ぅ・・」
何とかそれも受け止め、舌を動かそうとする直也だったが・・
ぐじゅっ・・
「む!?んん・・!」
股間から、急に締め付けるような肉の感触に包まれた瞬間、
片目をつむり体を強ばらせてしまった。
いきなりの刺激に対する、どうしようもない体の反応。
「ん・・ふ・・」
それを見て真奈子は、目を嬉しそうに細めた後舌を抜き去り・・
「んはぁ・・ふふ、私が上なのは、変えてあげないから・・」
そう言うと緩々と腰を動かし始めた。
「っぅ・・ん、あぁ・・」
数十秒前に感じた締め付けとは違う優しい愛撫に、
直也は無意識にそんな声を出してしまう。
「ぁ・・はぅ、あぁぁああ・・」
気持ちよすぎた。
行為を始めた最初にも優しいのは感じたが、それよりも気持ちよかった。
付け加えてなにより。
ただ強く擦り、何となく気持ちよくなって吐き出す・・
というそれくらいでしか、
自分自身を快楽で満たしたことのない彼にとってそれは、
優しく、ゆるく・・そして、気持ちよすぎた。
「あ・・ぁ、は、ぁぅ・・」
口から何かが抜けていきそうな声を出してしまう直也。
「ん・・ふ・・」
そんな彼を見て、真奈子は優しげに微笑む。
まるで、もっと溺れていいのよ、とでも言うかのように。
「っぅう・・」
それを直也が見て目から僅かばかり覇気が抜けるのとほぼ同時、
真奈子は追い打ちに、ゆっくりと一定の間隔で腰を振ってきた。
あえて言葉に表現するのなら、ぬっちり、とでもいうのだろう、
そんな感覚が直也に襲いかかってくる。
「んぁ・・ぅ・・ああ・・」
屹立した男性器を、
全方向からゆっくり優しくみっちりと締め付けられる感触。
「あ・・はぁぅ・・ああぁああ・・」
直也は、もう声が止められなくなっていた。
しかも・・
「ぁ・・!ぅ、く・・っ・・」
締め付けるだけに留まらず、先端を嬲るように触れてくる。
ゆっくりと、しかし休み無く。
「んぅ・・っ・・」
ペースを整えることなど許されず、
「ふふ・・やっぱり、直也君は、可愛い・・あむ・・」
更なる快楽を脳と体に染み込まされる。
「ぁ・・ま、な・・む・・」
目を半分だけ開けて、真奈子のキスを受け入れる直也。
その瞳から、覇気は完全に消えていた。
「ん・・れぅ・・」
甘い甘い、キス。
舌が這いずる度に、鼻からとろけるような匂いが脳を冒していく。
こちらからも動かす・・当然、望んだことでもあるが、それはもう、
彼の体が勝手にそうさせていた。
「ろぅ、る・・ん、む・・」
舌を絡みつかせ、彼は痺れるような甘さを楽しもうとする。
にゅちゅっ・・
「む・・!?ふ、ふぁ、む・・!」
するとすかさず股間から刺激が来て、
絡ませた舌ごと真奈子にしがみつくような形になってしまった。
「むふ・・ん、む・・」
一方の真奈子は、
そんな彼を優越を帯びた瞳で見つめた後、さらに舌を絡めていく。
「む・・んむ、ん・・ぅう・・」
とろけるようでいて、どこか痺れるような甘い匂い。
それだけでも、意識が薄れてしまいそうな感覚を覚える直也。
しかし・・
にゅ、にゅ、ぎゅちゅぅ・・
生憎か、はたまた僥倖か、彼に与えられていたのはそれだけではない。
刺激は下半身からも来ていた。
ゆっくりした刺激が、しっかりと。
膣内がきゅうきゅうと、包囲を狭めてきたのだ。
それは、苛烈、というには優しいが、
だからといって容易に耐えられるものでもない。
「むっんむ、んぅう・・!」
ましてや、長々と真奈子の求めに応じて消耗していた直也には、
それは殊更効力が大きかった。
「っ、むぅ、んふ、ん・・!」
息を荒くしながらも彼は、何とか膣と舌の両方に応えて、
真奈子を悦ばせようと努力する。
もはやほとんど流されているような感じで舌を絡ませ、
微細な動きではあるが、腰も動かして。
「ん・・ふ、ぁ、む・・う・・」
彼がそこまでするのは自分自身が、おいで、と言ったからだ。
どんな風にされようと、自分が無くなりそうだとしても、
何とかそれを受け入れる、と決めたからだ。
あの日、怯えながらも真奈子の姿を受け入れたのと同じように。
「ん、ふあぅむ、ん・・」
直也君が自分を無くして溺れてくれない。
彼女はそう思っていた。
きっと、私という全てを受け入れてくれようとしているからだろう。
あの日、恐怖しながらも頭を撫でてくれたように。
そうとも思っていた。
しかし彼女は今、魔物娘の本能に従っている。
それはつまり・・
自分という「雌」に溺れてくれるのが一番嬉しいということで。
だから、嬉しさを感じつつも、ここでは悔しさの方が勝っていた。
魔物娘に生まれながら、好いた男を骨抜きに出来ない事への、悔しさ。
その悔しさは、彼女に一つの行動を取らせた。
「っはぁ・・はぁ・・はぁ・・」
舌が、抜かれた。
直也は息を整えながら、ぼんやりとそう考えていた。
同時に、何とか応えられたかな、とも。
脳がすでにとろけきっているのではないかと思うくらいに思考が重く、
下半身には、始めてから未だ一度たりとも止まない刺激が続いているが、
それでも・・男のつとめは果たせたかな、と。
「・・直也君・・ん・・」
次の瞬間、何度目かの彼女の口を耳に感じた。
何と言われるか・・と覚悟を決める。
「・・好き・・」
「っぅぁ・・!?」
が、その覚悟はあっさりと砕かれた。
彼が満身創痍だったのもあるが、やはり効いたのは素直な言葉。
じわじわと染み込んでいた感覚が、それで一斉に形をなすイメージ。
「ぁ・・ま、な・・!」
結果、ついに直也の皮が剥がされる。
「そ、そんなこと、あ、ま、待って・・!」
余裕を無くし、何とか立て直そうとするが。
「可愛い・・好きだから、ね・・直也君・・」
「っっぅ、だ、ダメだって!ま、な、俺・・!」
追撃の言葉に、彼の思考はノックダウンされた。
「えと、あの、真奈、俺は・・っ!」
何を言おうとしているのかも纏められず、
口を開いてもあやふやな言葉しか出て来ない。
そして、その口も・・
「いいから・・ふぁむ・・」
真奈子に塞がれてしまった。
時間稼ぎの手段を奪われ、快楽を一気に流し込まれる。
「む・・!むっ、りゅぅっ、む、むぅうっ!」
先程までにしたって、応じられてはいたが蓄積はされていた。
ただ、何とかやりくりできたように錯覚していただけなのだ。
だから。
「んむ、む、ふりゅ、むぅ!」
じわじわと、今になってそれが湧き上がって来る。
我慢できていたはずのものが、彼を追い詰めてきて・・
「む!ん、ん、ん”!」
しかも、今その瞬間も体全体、ペニスは特に責められている。
ぱっくりとくわえ込まれ、じっくりと時間をかけて、
根元から先端へと扱かれていた。
「むぅ・・!んむっぅ・・!」
にゅりゅ、ぬりゅ、と膣内が動くたびに、体全体が震わされるようだ。
もう、彼は限界だった。
何かひと押しがあれば、崩れてしまいそうなほどに。
「んはぁ・・」
しかし、そこでまた口が離される。
「あはぁ・・はぁ・・ま、な・・なん、で・・?」
直也は縋るような声を出してしまった。
どうしようもなく、絶頂に近づいてしまっているのだ。
そんな彼を見て彼女は。
「はぁ・・なお、や、君・・私もね・・実は、イきそうなの・・!」
「え・・!?」
彼にとって驚愕の事実を告げた。
彼の目には、全く余裕に見えていた。
それが・・実はこんなに感じていたなんて・・
驚く彼に、彼女は息を切らして言う。
「だ、って・・!直也、君が・・!かわい過ぎ、たんだからぁっ・・!」
その顔が赤く赤く染まっているのに直也は、今更ながら気づいた。
そして、直也は知らない。
「もう・・我慢できない!行くから・・いい、でしょ・・!」
「あ、ああ・・うん・・!」
頷いて返したそれが、彼女のリミッターを外したことを。
「あ・・!直也君!なおやく、ん・・!」
顔をぱぁああっと明るくして、真奈子は彼に覆いかぶさる。
そして、その舌を半ば無理やりに突っ込んだ。
「む、りゅ!んうむ〜〜!!」
そして、無茶苦茶に舌と腰を動かし始める。
舌はべろべろと彼を気持ちよくさせることだけを考え、
歯茎の裏や歯の上、全てを舐めまわしてきた。
「む、んふ!ん、む、っむぅむ!」
腰も、激しく振り立てられ、
ゆっくりと擦られて高められた肉棒が、一気に締め付けられる。
「はむ、むりゅ、ん、れぅ・・っむ・・!」
もはや、双方に余裕はなかった。
互いにしがみつき合い、縋り縋られ、
自らの限界を相手へと愛と欲で次々と塗り替えていく。
「ん、むりゅ、んはっ、い、いいのっ、なお」
「はむ、んぱぁっ・・分かってる、わかって、るから・・あむ・・!」
口を離しては短い言葉だけを重ねて、すぐに舌を絡ませ合う。
そして真奈子は蛇体と腕で、直也は腕で相手を抱きしめる。
真奈子の方が覆う面積は圧倒的に多かったが、
受ける快感はどちらも相手に劣りはしないものだった。
「まな・・!そろ、そろ・・!」
短く言う直也。
「うん・・!いこっ・・!」
短く答える真奈子。
瞬間。
彼の指がしっかりと彼女に押し付けられ、彼女の体が彼をしっかり締め、
彼女の膣がきゅっと彼自身を締め付け・・
「あっ!まなっ、はあぁぁあああぁぁぁああ・・っ!!」
「ぁっ!?あぅ、なお、やく、んはあぁぁあああぅぅうぅぅん・・っ!」
二人は、弾けた。
男のそれが女のそれに入り込み。
二人は、どこか遠いところに、二人で弾け飛んでしまったのだ。
快楽、快感・・そして。
なによりも、二人同時にイけたことが、
切れようとする朦朧とした意識に、途方もない幸福感をもたらしていた。
それから、しばらくして。
直也は、真奈子と一緒に彼女の部屋で、向かい合って布団に入っていた。
「・・その、さ。
今更だけど・・やっちゃった・・な・・」
恥ずかしげに、直也は言う。
「う、うん・・気持ち、良かった・・」
対する真奈子も同じようにして、答えた。
微笑ましく思う彼だったが、同時に危惧もあった。
「でも・・子供、出来ちゃったら・・」
そう、妊娠したら。
勿論、真奈を放り捨てるなどという外道になるつもりはない、だが・・
考える直也の足に、真奈子は尻尾を絡みつかせた。
「大丈夫よ・・魔物娘って、妊娠をすっごくしづらいの・・」
そのまま正面から抱きしめ、続ける。
「だから、何度でも、出来るわね・・?」
「っ・・あ、あぁ・・そう、だ・・ん・・?」
その声が艶っぽくて、直也はブルッと身を震わせてしまう。
しかし、
直後に彼女の顔がやや暗くなってしまったのを見て、疑問符を浮かべる。
彼女は不安そうに呟く。
「・・ねぇ・・でも、もし、赤ちゃんできたら・・」
ああ、真奈も心配なんだ・・でも、やっぱり、だよね。
「大丈夫だよ。」
そう思った彼は彼女を抱きしめ、その頭を自分の胸元に寄せる。
「そうなったら・・ずっと、真奈の隣にいられる、からさ。」
「っ・・直也、君・・!」
真奈子は、嬉しそうに頭を彼にこすりつけた。
その様はなんだか子供っぽい、彼の最も好きな彼女の姿の一つだ。
「ふふ・・よしよし・・」
その頭を微笑みながら撫で、彼は続ける。
「まぁ・・そうならなくてもさ、ずっと、真奈の傍に俺はいるよ。」
すると彼女は、もぞもぞと動き彼の顔が見える位置まで顔を動かすと。
「んちゅっ・・」
その口を軽く一回だけ奪った。
「当然よ・・こんな気持ちにさせて、今更離れろは言わせないんだから!」
その顔は、晴れやかで・・直也の大好きな、素敵な笑顔であった。
「・・・・っ。」
本棚を前にして、やや低めの背の女性は絶句する。
理由は、その蔵書にあった。
(何よコレ・・!ラノベから辞典まで沢山・・!
あ、持ってない巻・・!)
豊富なそのラインナップに、
女性はもはや小躍りせんばかりに興奮していたのだ。
流石にここは図書室、本当に小躍りはしなかったが。
(凄い・・!前にいたところもここは良かったけど・・
ふふ、転校前日に来てみて良かった・・!)
(・・あの人、凄く嬉しそうだな。)
そんな女性の後ろ姿をカウンターの中から本越しに見る青年が一人。
彼の名前は池田直也(いけだなおや)、この学校の図書委員である。
図書室に施錠する刻限である6時30分まで、
カウンターに座って本の貸し借り登録をする仕事を受け持っていた。
優しげな雰囲気の通りの穏やかな性格で、人並みに話も出来る。
本人に自覚は無いが、それなりに人気はある方だ。
そんな彼は本棚前の女性を見ていたかと思うと、
チラ、と入り口の方へと視線を動かす。
ガチャッ。
丁度その時、来客があった。
女性ではあるが、わりかしがっしりとした体つきで、
本気で睨めば小動物程度は殺せるのではないか、
そう思わせるに足る、厳かな雰囲気を持つ女性だ。
そんな彼女は一冊の本をカウンターに置くと、
「池田、この本を返すぞ。」
と短く言った。
見た目からするとやや意外な印象を受ける、優しい声。
「ん、はい・・っと確かに返しましたよ、立浪(たつなみ)先輩。」
しかし、池田は特に驚くことはない。
彼女が高い頻度で図書室に来るので、慣れているためだ。
彼はスキャナーを本のバーコードに押し当て、返却登録を済ませる。
程なくして鳴る、登録の終了を知らせるピッという音。
「ん、ありがとう。」
それを聞き届けると、立浪は本棚の方へ歩いていく。
彼女の中で今流行りの、ロマンス小説を捜しにだ。
(似合わないって言ったら、きっと怒られるよな〜)
カウンター係なのでそれを知っている池田は、
そんなことを思いながら再び、読んでいた本に視線を落とした。
しばらくして、時刻は6時30分。
皆、その時刻の持つ意味を知っている為に、
続々と図書室を後にしていく。
先程まで埋まっていた席が急速に空いていく様に、
池田が、感じ慣れたさびしさを感じていると。
「・・ねぇ。」
彼に声がかかった。
やや少女らしい、高めの声だった。
「・・?」
その声に彼は振り向く。
彼の目線よりも少し下の所にその姿はあった。
先程本棚を前に興奮していた女性だ。
(・・どうしたんだろう?何か訊きたい事でもあるのか・・?)
そう思った池田が何か発言する前に。
「あんたがここの図書委員?」
女性はいきなりそう言った。
「え・・あ、はい、そうですけど・・」
驚き、つい敬語になりつつも池田は答える。
「ふーん・・」
すると、女性は品定めをするかのように彼を見つめた。
ほんの数秒のことだったのだが、池田にはとても長く感じられた。
(・・蛇に睨まれた蛙ってこういうのを言うのか・・)
彼がぼんやりとそんなことを思ったその時。
「・・そ、じゃあね、お疲れ様。」
彼をそんな風にした彼女は、
突如さっと視線を外してそう言い、去っていく。
「あ・・はぁ・・さようなら・・」
呆気にとられつも、その背にそう声をかける池田。
(・・何だったんだ・・?お疲れ様とは言ってくれたんだから、
いたずらとか、悪意があるわけじゃないみたいだけど・・)
彼は戸惑いつつも、戸締まりやその他諸々の確認という、
図書委員の任を果たすべく、椅子から立ち上がるのだった。
翌日。
「ほれ静かに・・これより転校生を紹介するでな。」
チャイムが鳴っているにも関わらず騒がしかった教室は、
古風な喋り方の背高の女教師、古谷(ふるや)の一声で静まり返る。
それを見回して確認してから古谷は再び口を開いた。
「んむ、素直でよろしいことよ。
では紹介する・・石塚、入って来て良いぞ。」
そして、教室の入り口に向かってそう声をかける。
それに応えるように、ドアが動き一人の女性が入ってくる。
池田は、彼女に見覚えがあった。
(あれ、昨日の女の人・・同い年だったんだ。)
彼が軽く驚いていると、古谷は石塚にチョークを手渡す。
「では、自己紹介を、の?」
石塚はそれを受け取ると、
黒板に名前を書き、生徒の方を向いて自己紹介をした。
「・・石塚真奈子(いしづかまなこ)、好きに呼んでくれて良いわ。」
・・それは、少々ぶっきらぼうだった。
加えて、笑顔も浮かべず真顔であったため、
普通なら次々と飛んでくるであろう質問も来ない。
(・・え?あれ?私、もしかして何か変なこと言った・・!?)
そんな風にしてしまった石塚本人も実は戸惑っていた。
彼女は別に、新しい教室に興味がなかったわけではなく、
あくまでいつもの彼女通りに、自己紹介をしただけだったからだ。
ただ、それがこの場の自己紹介には向かなかっただけである。
(・・どうしよう・・この空気・・)
教室中に漂い始める重い空気。
それを取り払う術を石塚は持ち合わせていなかった。
(こ、これじゃあ静かに微妙な空気のまま終わっちゃう・・!)
石塚のみならず、誰もがそう思ったその時。
「っふふ・・石塚よ、自己紹介くらいは愛想よくするものであるぞ?
多少無理をしてでも、な?」
助け船を出したのは古谷だった。
その言に「あ・・えっと、あっと・・」と石塚の視線が彷徨う。
「んふ・・」
古谷はそれを横目に見つつ今度は、固まっていた生徒達へこう言った。
「ほれ、皆も・・そう固まっておらんで。
質問の一つや二つ、あるであろう?
例えば、そうさな・・趣味とか、好みとか・・のう?」
それを受けて、最前列付近で目配せが行われる。
「はいはーい!」
一瞬の間を空けて、快活そうな女子の一人が手を挙げた。
「んむ、よいぞ羽田(はねだ)。」
指名されて、羽田と呼ばれた女子は立ち上がり言った。
「じゃあじゃあ、いっしーに質問!
あ、いっしーっていうのはあだ名ね?
暇なときは何をしてるの?私はお昼寝とかカラオケとか!」
その口の動きに、石塚はやや困惑する。
(よくこうも喋れるわね・・というか、いっしーって。
いや、好きに呼んでと言ったのは私なんだけど・・)
しかしながら、その困惑が彼女の表情に変化をもたらした。
「え、えっと・・読書かしら。」
彼女を笑わせたのだ、といっても苦笑であったが。
「おおー!じゃあ、委員も図書で良いかな!?」
「ジャンルは?ロマンス?アドベンチャー?」
「ラノベとかも好き!?」
それでもその表情の変化は、警戒心を解くには十分だったようで、
先程とは打って変わって石塚は質問攻めにされる。
「ま、待ってってば、一つずつ答えるから・・!」
(っ・・びっくりした・・!
そんなに急に変わらなくても良いじゃない・・!)
それに内心文句を言う彼女だったが、その顔は笑っていた。
その後、彼女は順調に自己紹介を終えることが出来た。
委員は人数不足と本人の希望により、図書委員となり、
席はその繋がりで池田の隣に決定。
なかなかに好調な滑り出し、石塚はそう感じていた。
(・・思ったより親しみやすい人なのか、石塚さんって。)
石塚の隣に座っている池田は、
そんな気分で過ごす彼女の雰囲気に、そんな事を考えていた。
皆に先駆けて彼女と会っていた池田は、
その際の発言から彼女を、所謂不思議系にカテゴライズしていたのだ。
そして自己紹介の第一声。
ああ、これはやっぱり・・と池田は思った。
しかし、古谷の助け船からの一連の流れ、
その中の石塚の様子を見て彼は、考えを改めた。
やや不器用なところがあるだけなんだ、と。
そして今。
昼食を食べ終わり、これからどうするかな・・と考えていた彼は。
「ねぇ、付き合って欲しいんだけど。」
その不器用にまた襲われていた。
「え、な、何て?」
聞き間違いを疑って、彼はそう言う。
石塚は不機嫌そうに眉を寄せた。
「だから、付き合って欲しいの!」
そして苛立たしげに声を大きくする。
その内容に、教室がざわつき始めた。
女子が男子に、付き合って、と言ったのだから当然だろう。
しかし、皆よりもほんの少しだけ石塚のことを理解できていた池田は、
苦笑いを浮かべながら、こう返した。
「・・もしかして、図書室に?」
すると、石塚は静かに頷く。
「ええ・・私、図書委員になったでしょ?
だから、仕事のやり方を早めに聞いておきたいのよ。」
それを聞いて、池田は納得する。
「ああ、なるほど。
分かった、じゃあ今から行く?」
彼が尋ねると石塚は、やはり真顔で答えた。
「ええ、お願いするわ。」
「わかっ・・」
た、そう言おうとしたその一瞬、彼は止まる。
とある現象を見てしまったからだ。
(・・今、石塚さんの髪の毛・・変に揺れたような・・
いや、後ろの女子は反応してないから、気のせいか・・?)
「・・どうしたの?早く行きましょう。」
「あ、ああ・・」
しかし、石塚にそう言われてしまい、
彼は考えを止めてドアの方へと歩き出す。
その後ろでは、石塚が不機嫌そうに後頭部を撫でつけていた。
ピッ、というスキャナーがバーコードを読み取る音。
続いてパソコンの画面に書籍情報が表示された。
矢印が動いていき、上の方の「登録」と書かれたパネルを押す。
すると画面がクリアになる、それが登録完了の証だった。
「ん、それで終わり。」
振り向いた石塚に、池田がそう声をかける。
「・・意外と単純なのね。
これなら、やってる内にすぐに覚えられるわ。」
石塚はそう返して小さく笑った。
(お・・なんだ、そういう顔も出来るんじゃないか。)
その笑みにそんな感想を抱きつつ、池田は言う。
「あ、だけど・・無愛想に応対をするのはちょっと。」
すると、それを聞いた石塚はややむすっとした表情になる。
そして、少しの間考え込むような素振りを見せた後、
「・・愛想笑いをしろってこと?」
と、苦虫を噛み潰したような顔で彼に訊いた。
「え、まぁ・・出来れば。」
その質問と様子に、彼はたじろぎ視線を彷徨わせつつも、返す。
彼の雰囲気は、要求ではなく提案だと言っていた。
石塚はそれを聞き、視線を下げる。
「・・苦手なのよ、愛想良くするのって・・」
その表情は、さっきまでのような強気なものではない。
また、同情を誘い自分の意見を通そうとするものでもなかった。
苦手であることを恥じらいつつも打ち明ける、
そして出来るならば改善したいと思っている顔だった。
「そっか・・」
そんな風な顔をしている石塚に、
池田は軽々しく発言しようとしていた自分を押しとどめた。
ただ嫌だからという理由であれば、我が儘だの一言で片づくが、
そうでないならば少し考える必要がある、と思ったからだ。
(とはいえ、どうするかな・・そうだ!)
少しの間考えた後、池田は口を開く。
「じゃあさ、やってみて欲しいことがあるんだ。
愛想笑いはしなくても良いからさ、というか実は俺もやってないし。」
「・・なに?やって欲しい事って・・」
あえて、やって欲しい事自体は告げない。
石塚の興味を引く為のその手法は効果があったようで、
石塚はゆっくりと顔を上げた。
そのことに内心喜びながら、彼は言った。
「えーと、一つだけなんだけど・・」
時は放課後、場所は図書室。
図書委員は今日もカウンターの中にいる。
しかし、昨日は池田が座っていたカウンターの中の椅子には、
今日は女子が座っていた。
一人の男子がその女子・・石塚に声をかける。
「これ、借ります。」
言われた石塚は、真顔のまま男子に訊く。
「何年何組の、何番かしら?」
「2年1組、5番です。」
答えを聞いた彼女は無言でそれを見つけだすと、
スキャナーにバーコードを読み取らせた。
ピッ、という音が鳴った後、矢印で登録ボタンを押す。
そこまでしてから石塚は、男子に本を渡した。
「はい、どうぞ。」
その表情はやはり真顔であったが、
口の端はほんの少しだけ、上がっていた。
(・・うん、思ってたより悪くないじゃないか。)
男子が本を受け取ってドアから出て行くのを見ながら、
カウンターが見える位置に居る池田は、そう思っていた。
(まぁ、効果はあったって事かな。)
そんなことを考えている彼に、
カウンターの方から石塚の不安そうな視線が向けられる。
・・どう、かしら?
そう語っていた。
それに気づいて池田は、小さく、大仰でない程度に頷く。
一方の石塚は、ほっとしたように小さく息を吐いた。
池田が彼女に伝えた方法とは、実は至極簡単なものだ。
本を渡すとき、はい、やら、どうぞ、等という言葉を言う事。
たったそれだけである。
「それだけで、効果は出るの?」
と石塚はあまり信じてはいなかったが、
「まぁやってみて。
一言喋るだけでも、結構違うし・・
自然な笑いが引き出されるっていうか・・
まぁそんな感じの効果も、ある・・んじゃないかな。」
と池田が言ったため、とりあえず、で試してみたのである。
彼女の様子を見るに、どうやら少なからず効果はあったようだ。
そうこうしている内に、時刻は6時30分。
皆が図書室から出ていった後、
石塚と池田はカウンターで少し話していた。
「・・どう、だったかしら。
最初は頷いてくれたけれど、やっぱり自分では、
あんまり愛想良く出来た気はしないのだけど・・」
不安そうにそう言う石塚に、池田は微笑みながら答える。
「いや?大丈夫だと思うよ。
というか、大体皆あんな感じだしね。
まぁ・・表情は硬かった気がするけど。」
その中には、少々のからかいも入っていた。
「しょうがないじゃない・・初対面の人ばっかりなんだし。」
それに対して、半ば睨むように池田を見る石塚。
その眼力は普通の女子とは思えないほどであったが、
池田は何とかおどけることに成功した。
「っ、まぁ、それはどうにかなるって。
むしろ、初対面の人ばっかりの所でよくやれたと思うよ。」
しかしながらやはりたじろぎつつもそう言う。
それを聞いて石塚は、
「・・そう、なら・・良い、のかしらね。
・・あんたのお陰、よね・・あ、ありがとう。」
と目元を緩めてしかしそっぽを向く。
その後顔半分だけを池田に見せて、笑んだ。
それは作ったようなものではなく、極々自然な笑みであった。
(ぁ・・・・・・)
彼女の気性からして滅多に見れないであろうその笑顔を見た池田は、
その可憐さに言葉を失う。
「・・ちょっと?」
「あ、まぁ、その、役に立った、なら・・俺も嬉しい。」
不思議そうな表情の石塚からそう言われて、
ハッとなった彼は、所々詰まりつつもそう返す。
「・・うん、役に立ったわ。」
短く答える石塚。
「そっか。」
池田も、短く答えた。
そして、少しの間の後。
「いっしー!居る〜?」
ドアを開けて、羽田が入ってきた。
「・・羽田さん。」
その騒がしいというか明るいというかといった雰囲気に、
池田は苦笑いを浮かべる。
「お、居た居た・・っと、これはこれは。
池田君はいっしーをナンパ中だったかな?」
その苦笑いに呼応するように、
羽田はその小さい体を屈めて下から彼を覗き込みながら、
からかうようにそう言った。
「違うって、というか会ってそんなに無い人を、
ナンパする方がどうかしてる。」
対して池田は、苦笑いを消さないままそう答えた。
「んふふーほんとーにぃー?」
羽田はしつこくにやにやと笑う。
「・・じゃあ、わたしはこれで。」
そんな二人の様子に、石塚は微妙に不機嫌そうになり、
唐突に図書室の出口に向かって歩き始める。
そして冷たい金属製のドアノブに手をかけると、振り向いた。
「池田君、それと・・羽田さんだったわよね・・じゃあね。」
「あー待ってよいっしー!あ、池田君もまた明日ねー!」
それを追いかけるように羽田も出て行く。
「ああ、また明日。」
彼女たちに応えて池田は、小さく手を振った。
(・・可愛かったな・・あの笑顔・・)
石塚が帰った後。
彼女が閉め忘れたドアの鍵を閉めながら、池田は一人にやついていた。
翌日。
「ん・・おお、石塚。
来るのが早いのう?」
皆より早めに登校した石塚は、
それよりも早く登校していたらしい古谷に話しかけられていた。
石塚は、古谷にいつもの顔で挨拶をする。
「あ・・おはようございます。
後・・それを言うなら、古谷先生の方が早いです。」
「ま・・生徒より遅く来るわけにはゆかぬしの。
少なくとも儂はそう思っておる・・それよりも。」
古谷はそれに答えつつ表情を改める。
「どうじゃ、クラスの皆にそれなりに馴染める奴はおるかえ?」
その顔はいつものおどけたものでなく、
生徒を心配する一先生の優しいものだった。
「・・はい、まぁ。
皆、その・・良い人、というか、お節介焼き、というか・・」
色々と言いながらも非難する言葉は混じっていない事に、
古谷は安堵し微笑みつつ返す。
「くふふ、羽田のような奴の事じゃな?
じゃが・・」
そして、にやりと不敵な笑みを浮かべる。
「そのような輩・・嫌いでは無いのであろ?」
そしてそう続ける。
「まぁ・・嫌いじゃ、無いですけど・・」
対して、石塚はやや顔を赤くした。
そんな彼女に、古谷はにやにやと笑いながら、
「特に・・そうじゃな・・
池田のことがお気に入りになると見たぞ?」
と言う。
「池田君・・どうしてです?」
石塚は普通に返す。
「・・ふむ、まあ・・未来が見えたといったところか。」
その反応に、古谷はいたずらっぽく首を傾げにやりと笑う。
「未来が見えたって・・占い師か何かですか。
・・会ってちょっとの人を好きになるなんてそんな、
小説とかじゃないんですから。」
「ふふ・・そうかの?」
「そうです。」
時は過ぎていき放課後。
(さて、年季の違いを・・なんて、そんなガラじゃないけども。)
一日ぶりに図書室のカウンターに立った池田は、
そんなことを一人思って苦笑していた。
ちなみに、石塚は今日は奥の方で本を読んでいる。
「返しに来・・って、池田?何を笑っているんだ?」
そんな風にしていたので、図書室に来た立浪にそう言われてしまった。
「あ、いえ、何でもありませんよ。
ただ・・」
それに対して誤魔化すようにそう言って池田は本を受け取り、
視線を図書室の奥の方へ向ける。
立浪はその視線を追ったかと思うと、
「っふ、ああそういうことか。」
とその表情を緩ませた。
その直後に鳴るピッ、という音、そしてマウスのカチッと鳴る音。
いつもの返却のサインである。
「はい、返しましたよ。」
「うむ、ありがとう。」
その後そんな短いやりとりを交わすと、
立浪はカウンター近くの席に座る。
それを横目に見ながら、池田は再び椅子に腰を下ろした。
そして本を手に取り、読書を再開する。
クライマックスのシーン・・
長く傍にいたヒロインが蛇女と発覚した瞬間、恐れ慄く主人公の勇者。
ヒロインはそんな主人公に対して悲しげに微笑むと、
「さようなら・・」
そう言って、町の外へと出て行こうとする。
しかし、主人公はその腕を掴んだ。
「ど、どうして・・」
驚くヒロイン。
主人公は毅然として告げる。
「・・お前は、俺と一緒にいてくれた。
それは、お前が何者だろうと関係ない。」
ヒロインはしかし、こう返す。
「・・私は、魔物です。
この町には・・居られません。
それに・・貴方は勇者・・私を討たなくては。」
主人公は、それでも、と腕を放さない。
ヒロインも、どことなくそれを望んでいるようだ。
「・・なら、俺はこの町を捨てる、勇者の称号もだ。
たかが称号程度がお前を殺そうとしても、
俺がそれを捨ててしまえば、お前を殺す理由はない。」
そんなヒロインに向かって、そう言ってのける主人公。
「・・良いのですね?」
「無論、良い。」
心配そうなヒロイン、断言する主人公。
彼らは、二人で手を繋ぎ町の外へと歩いていった・・。
(・・これもこれで良いな・・)
本を読み終わり、そんな風に考える池田。
「・・ふぅ。」
その顔には満足感と達成感が漂っていた。
そして、顔を上げ・・彼は唖然とする。
誰も、居ない・・席が全て空いていたからだ。
「・・熱中しすぎたかな。」
誰にともなく呟き、軽く苦笑いをする。
そして立ち上がり伸びをして・・
「んん〜・・ぅん?」
彼は、奥の方の席を見て止まった。
何かが寝ているのだ。
誰か、ではない・・「何か」だ。
彼は何となくだがそう思った。
「・・・・確か・・」
あそこには石塚さんが座っていたはずだ、
だから、自分のただの思い違いかもしれない。
そう自己暗示して、池田はそこへ足を向ける。
その足取りは妙に重かった。
そして、そこへ到達した池田だが。
「・・・・」
池田は、絶句していた。
まず、その状況である。
彼の目の前には、すやすやと寝息を立てる、石塚にそっくりの少女。
しかし彼女の下半身は蛇の胴体。
そして、彼女の頭髪は全て蛇で・・
「・・・・・・・」
皆が皆、彼の方を凝視しているのだ。
威嚇するでもなく、怯えるでもなく。
彼を凝視して、時にちらりと互いに目配せしあう。
まるで、話し合いをしているような彼ら?を見ていた彼は、
「・・・・・・」
恐怖と困惑に襲われ、絶句していた。
(な・・なんだ、何なんだよこれ?!)
逃げたい、とも思う。
しかし、足が動かない・・文字通り蛇に睨まれた蛙だ。
怖いと感じながらも、動けない池田。
そんな彼の目の前でうねうねと動く蛇達。
(ぅ・・っ!!)
無限の様に感じられた彼にとっては地獄のようなそんな時間は。
「ん・・んぅ・・ん・・?」
石塚の目覚めによって、終わった。
そして彼女が目覚めた途端、蛇の挙動が変わる。
彼女の半分閉じられた瞼をつんつんと蛇達がつついたのだ。
「っ〜良いから・・離れなさいってば・・起きてるわよ・・」
それは、彼女にとってはいつものことだったのだが。
(う、うわっ、あ、あわあぁ・・!!)
池田は気が気でなかった。
少女が石塚であることは間違いないだろうとは思っている。
しかしそれがかえって彼の恐怖心を助長させた。
何せ、見知った女子が蛇の髪を持つ蛇女で・・
それを抜きにしても、
蛇達が寄ってたかって彼女の顔をつついているのだから。
(ど、どうしよう・・?!
先生に・・無理だこんな事、何かの冗談、であしらわれる。
なら・・えっと・・!)
混乱する頭でなんとか考えようとするが、
そうすればするほど彼の頭はますます混乱していった。
彼が、固まったまま動かず必死で頭を働かせていると。
「・・もう6時30分?」
いきなり石塚がそう言った。
池田の混乱に気づかずに言い放たれた言葉は、
「へ・・?」
いくらか彼の混乱を抑え込んだ。
「え・・や・・うん・・」
一部冷静になれた思考の中、彼は答える。
「・・寝過ごした・・」
石塚が呟く。
次に彼女は自らの体を見・・そして、池田の方を見ると。
「ぁ・・あの、えっと・・」
彼女も硬直する。
その口元に浮かぶのは、苦笑い。
「えーと、この体はその・・」
視線を彷徨わせる石塚。
「け、結構居るわよ?こういう・・実は、みたいな・・」
「え・・?いや、それよりも・・」
対して池田は、何とか表面上だけの冷静を保ちつつ、言った。
「い、石塚さん・・なん、だよな・・?」
「え、ええ・・そう、よ・・?」
石塚は頷く。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
二人して、沈黙する。
しかしながら、考えていることは同じではなかった。
(うわ・・なんか、小説みたいだな・・)
沈黙の中、そんなやや暢気とも言える考えをしているのは池田。
彼の元々の性分がそんな風である為だ。
事実が彼にとってあまりに非現実的すぎるためでもあったが、
彼は何とか目の前の光景を現実として受け入れようとしていた。
それでも、恐怖は消えずに残っていたが。
(しくじったわ・・まさか、寝ちゃって人化が解けるなんて・・!
こんな・・こんな早いタイミングで・・!!)
池田とは対照的に、深刻な危機ととらえているのは石塚。
当然といえば当然だった。
この姿を晒すことは、彼女が化け物だと周りに伝えること、
そして彼女がどんなことを考えていようと関係なく、
周りの普通の人間は自身の姿に恐怖を抱くことを、
彼女は身をもって知っていたからだ。
(・・ちぃ・・ッ!!)
石塚は表情を険しくする。
池田はそれを見て認識を改める・・
「ぁ・・!」
程、理解力を有しては居なかったし、大人になりきってもいなかった。
息を呑む池田の姿を見て、石塚は悲しい思いで笑う。
(そりゃ・・怖い、わよね・・)
そして、ドアの方に体を向け、首だけで振り向き。
「・・仕方、無いわよ。
この姿を見て怖くないなんて言える人は、居ないもの。
仕事教えてくれてありがと・・さようなら。」
そう言って、歩き始める。
待ってくれ、池田はそう言おうとした。
しかし、怖いものは怖い。
如何に彼が温厚な性格であろうと、いや、だからこそその感情は重たい。
「っ・・!!」
どんなに心が穏やかであろうと、動けなくては意味がないじゃないか。
自分の不甲斐なさに歯噛みしたその時。
(・・・・)
彼は、自分が先程まで読んでいた本を思い出していた。
あの中で、主人公はどうしていたか。
蛇女のヒロインの手を引き、止めたはずだ。
(でもそれは・・長年、付き合ったからで・・)
そんな正論が彼の思考に横たわっていた。
石塚は、体を這わせてドアへと近づいていく。
止めるなら、今しかない・・それは彼にも分かっていた。
しかし、今一歩のところで踏ん切りがつかない。
自分の中で、止めたいという気持ちがあるのは分かっている。
でも・・彼は正論を覆せるだけの論を持ち合わせていないのだ。
石塚が、ドアを開けてしまった。
(「・・そう、なら・・良い、のかしらね。
・・あんたのお陰、よね・・あ、ありがとう。」)
そこでふと、彼の脳裏を彼女と会って二日目の事が横切る。
彼女は、笑っていた。
(・・あの笑顔は、本物・・)
愛想良くするのは、と言っていた彼女の笑顔が、
池田にほんのちょっとの勇気を与えた。
「ま、待って、石塚さん。」
その勇気を支えに、彼は去ろうとする彼女に声をかける。
「何・・?」
彼女は振り返らない。
拒絶の意を示している。
「あ、あのさ。」
しかし彼は怯みこそすれ、もう迷わなかった。
「蛇は・・勿論、怖いよ。
だけど・・その、それだって、慣れてみれば良い話だ。」
短く、自分の思いを告げる。
「・・何よ。」
彼女は、振り返る。
その顔は、怒っていた。
怯む池田に、彼女はまくし立てる。
「慣れればいいって何よ!
この姿のまま、皆に、この姿晒せっていうの!?
無理に決まってるじゃない・・!
大体ね、簡単に言うけど言ってる本人が怯えてるじゃないの!
あんたは、あんただって、こわいんでしょ!?
なのに、なんでそんな事言うのよ?
本当は逃げたくて、それでも見続けることが優しさだとでも!?
やめてよ!あの人達みたいに避ければ・・ぁッ!?」
しかし、途中で彼女は目を見開いて口元を両手で押さえてしまう。
池田は驚き、それでも距離を詰めようとする。
「い、石塚さん・・その」
「来るなぁ・・っ!」
彼が一歩を踏み出した瞬間石塚が喘ぐように叫ぶ。
そして彼女の目が微かに怪しく光ると同時に。
「・・・・・」
池田は石になっていた。
(あ・・あぁ・・あ・・!!)
石塚は、自らが引き起こした現象に錯乱しかけていた。
彼が、歩み寄ろうとしてくれたことも理解していた。
しかし彼女は、それを払いのけた。
払いのけてしまった。
彼は、危害を加えようという意志は持ってなかったのに。
それに対する罪悪感と彼女の過去、既視感から来る恐怖。
(い、ぃや・・わた、私は・・ぁあ・・!)
それらに押しつぶされそうになり、
彼女はつんのめりそうになりながら、図書室を出た。
そこから、一目散に逃げる。
見捨てた事への罪悪感に駆られるであろう事も分かりながら・・逃げる。
「・・これ、石塚・・待たんか。」
しかし、幸か不幸か(彼女の核心にとっては幸いだろうか)
それはならなかった。
彼女を真正面から受け止める、暖かい誰かがあったからだ。
「だ、誰よ・・邪魔、しないで・・!」
目に涙を浮かべながら、彼女は自らの逃走を妨げた犯人を見上げる。
自らの担任だった。
古谷は彼女の肩を暖かく両腕で抱きしめると、一言だけ言う。
『落ち着け・・怯えるでない。』
「ぇ・・?」
彼女がそう言った瞬間、石塚は不思議な力と違和感を感じた。
正確には違和感と言うよりも、幾分か落ち着いたというべき感覚だ。
(・・あ・・)
それに伴って徐々に冷静になっていく思考。
(・・そうだ・・池田、君・・)
その中で、彼女は自らが石にしてしまった男子を思い出していた。
治しに行かなければ、彼女はそう思い立ち・・
(でも・・だけど・・)
踏ん切りがつかないでいた。
彼女の過去にもこういうことがあったのだ。
そのせいで、と思うのを彼女は嫌っていたが、
事実、それが彼女が自分と同じような者以外に、
人ならざる自らの姿を見せるのを避けさせる要因となっていた。
(・・・・・っ)
そのままにしておくわけにも。
だけど、だけど。
思考が迷宮へと入り込もうとしたその時。
「・・石塚。
まずは、池田を治してやることが先決ではないか?」
その迷宮の入り口は、古谷の声で閉じられた。
古谷は、彼女を優しい表情で見つめている。
その状況に、石塚は改めて疑問を覚える。
どうして、自らの先生は怯えていないのだろうか、と。
それを訊こうとした彼女の口は、しかし言葉を発さなかった。
「儂は、ファラオだからの。」
それすらも見通したように古谷が自らの素性を明かしたからだ。
(ファラオ・・砂漠の、ピラミッドの主・・よね・・?)
そんな高貴な者が身近に居た事に彼女は驚いていたが、
同時にそれをすんなりと受け入れてもいた。
先程の、自らを落ち着かせたあの柔らかな力。
それが、古谷がファラオであるという何よりの証拠だったからだ。
「・・でも、ですけど・・池田君は・・」
それは置いておくとして、と彼女は切り替える。
今大事なのは、池田だった。
彼の石化を解くか、否か。
解いたとして、その後は?
彼は・・自分を受け入れてくれるだろうか。
いや・・無理、だろう。
受け入れてくれる筈など・・
考えながら、沈んでいく彼女の表情。
対して、古谷はふう、と息を吐いた。
「・・石塚、過去は過去・・変えられはせん。
しかし、変わらぬ過去に囚われて現実も変わらんと決めつけるのも、
それは悲しいことではないか?
それにの・・池田は、そんな奴ではないと思うぞ。
そのくらいは、直に触れ合ったなら分かろう?」
知ったような口を利くな、という言葉が石塚の中に沸き上がる。
しかし、彼女は口には出さなかった。
それが、正しいと・・分かっていたから。
今度は、池田君なら、もしかしたら。
先生も見ているし、形だけだとしても。
そういう気持ちも彼女の中に確かにあったから。
「・・・・」
石化を解かれ、自らの教師から事の顛末を聞かされ。
池田は驚愕と困惑から口を開けずにいた。
(魔物娘って・・いや、それよりも。
さっきのは石塚さんが、やったんだよな。
・・メドゥーサ、だったけ・・名前は聞いたことあるけど・・
何だか、おとぎ話みたいだなぁ・・)
しかし、その石塚は、目の前にいる。
顔はとても思い詰めたようでいて・・何かを期待してるようでもある。
そして、彼をさらに驚かせたのは、
石塚が自分を石化させたそのままの姿・・
つまり、蛇の体と髪をそのまま出しているということだった。
嫌われたくないのなら、遠ざけたいだけならば、
あれは気のせいだ忘れろ、と言えばいいだけの話なのに、である。
(・・・・石塚さんなりに、頑張ってるのかな。)
それを見て、池田は少し勇気をもらった。
「あ、あのさ石塚さん。」
彼はそう声をかける。
「っ・・何・・?」
一瞬ビクッと体を振るわせた石塚から返ってきたのは、
僅かに震える、それでも気丈な声だった。
彼女は腕を組み、今にも崩れそうな凛とした顔を必死で支えている。
それを見て、池田は意を決した。
「その・・蛇、触って良い・・かな。」
「へ・・・?」
彼女は意外そうな顔をする。
当然だ。
何故なら彼女は、石化させられたことについて、
どんな罵詈雑言を浴びせられるか、それだけを考えていたのだから。
「な、んで?怒って・・無いの・・?」
恐る恐る、彼女は訊く。
すると彼女にとって意外なことに、池田は苦笑いを浮かべ頭を掻いた。
「いや・・実際、石のときは何が起こってるか分かんなかったし。
怒るも何も・・時間が飛んだみたいな感じだからなぁ・・
だから、こっちとしては何か良く分かんなくてさ。
びっくりはしたけど、だから何だってわけでもないし。
そりゃぁ・・ちょっとは不気味だとは思ったし、
石にしてる間にどこか壊されただったら怒るけど。
石塚さんは、俺に何かしようっていう気は無さそうだし、
こうやって普通に喋れてる分には問題ない、んじゃないかな。
図書委員やってる時のあの顔は、嘘じゃ無さそうだしね。
・・ああ、それよりもさ。」
それよりも。
懸念がそこまでで片づけられたことに彼女の緊張の糸が切れる。
「蛇、触っちゃ・・駄目かな?」
「だ、駄目なこと無いけど・・でも、蛇よ?
それにこんなに沢山、怖いでしょう・・?」
ややいつもの調子に戻りつつも、そう聞き返す。
傷つくのを怖がるが為に、予防線を張ろうとする。
後ろでは、古谷がそれを見透かして溜め息を吐いていた。
「・・まぁ、怖い、かな。
今も、色々疑ってないと言えば嘘になるよ。
でも・・最初は苦手なのは大概何でも、だろ?
だから、慣れるために、少し、触らせてくれないかなぁ・・って・・
正直な話、手は、震えてるんだけどさ・・」
池田は、真摯にそのままの意味で受け止めそう答える。
怖いことを隠さず、それでも何とかしようとしていた。
それを石塚は感じ。
(・・強いんだ・・池田君・・)
そんな感想を抱いていた。
理想を語る物語の主人公みたいな光り輝く強さではない。
鈍いながらもしっかりとした輝きを放つ、そんな強さ。
彼女は、そんな輝きの主人公は物語の中ではあまり好きではなかった。
嫌いなわけではないのだが、
それよりも、理想の英雄譚に謳われるような、
自分の汚点を何でもないと、手を取ってくれる人。
例を挙げるとするなら、池田が読んでいたような物語の主人公。
子供じみていると思ってはいたが、
それでもそんな主人公の方が好きであったのだ。
しかし今・・彼女に差し伸べられているのは、そんな者の手ではない。
怖いと素直に告げ・・しかしそれでもと言ってくれる者の手だった。
光り輝く英雄の手ではなく、薄汚れながらも前に進もうとする手。
望んでいた手より劣っている筈の、手。
あまり好きではない、好きではなかったはずのタイプのもの。
(・・そのはず・・なのに・・)
彼女にはその手が何よりも暖かく・・そして、優しく見えた。
だから。
「い、良いけど・・あんまり撫で回さないでね。
その・・髪・・なんだし・・」
彼女は、その手を、取った。
恐る恐る、そっと。
「ん・・分かった。」
答えると池田は、
ゆっくりと彼女の頭に手を小刻みに揺らしながら近づける。
石塚はやや不機嫌そうなちょっぴり赤い顔のまま、視線を逸らした。
少しだけ、彼の方に自分の頭が近づくように、だ。
・・彼の手がもう少しで触れる。
丁度その時だった。
「わ・・っ!?」
池田は驚きの声を上げた。
蛇の一匹が、彼の指先まで体を伸ばし頭を擦り付けてきたのだ。
(・・っ・・っ・・!!)
池田は、手が震えるのを感じながら、固唾を呑んでそれを見ていた。
すると、蛇はゆっくりと口を開き・・
「・・・ぁ・・・!!」
そこで、池田はゆっくりと手を引いてしまう。
噛まれると思ったからだ。
視線を逸らしながらもそれを見ていた石塚は、
「・・大丈夫よ、毒はないわ。
それに・・痛い噛み方はしないから。」
と言った。
少しは余裕が出てきて、口元には微かに笑みが浮かんでいる。
「・・そ、そっか・・」
答えた池田は、またゆっくりと手を彼女の頭に近づけた。
先程と同じように、また蛇が彼の手へと伸びていく。
そして、その口を少しだけ開け指へ噛みついた。
石塚がそう言っていたとは言え、幾らかの痛みを覚悟していた彼は。
(ぁ・・ほんとだ、痛くない・・)
その感触に戸惑いながらも、それを受け入れる。
すると、今度は池田は自分の指が優しく引っ張られるように感じた。
彼が自分の手を見ると、噛みついた蛇が住処へ・・
つまり彼女の頭へと持って行こうとしていた。
「あの、これ・・」
彼が驚き戸惑っていると、石塚が言う。
「その・・大丈夫、よ。
その子のしたいようにしてあげて・・」
「あ・・わ、分かった。」
池田は頷き、手を前へ、石塚の頭の方へと近づけていく。
・・実際これはその子、つまり頭の蛇がしたいのではなく、
石塚がそうして欲しいのだが、池田はそんな事は知る由はない。
この場では、メドゥーサの性質と特徴を知る古谷だけが、
その裏の真相を思い、にやにやと笑みを浮かべていた。
石塚の頭は目と鼻の先。
そんなところまで手を近づけていた池田は、
自分の手の先にある蛇達の群れにたじろいでいた。
しかし、そんな彼の気持ちとは関係なく、
蛇は彼の手を持って行こうとしている。
(こ、怖いけど・・良し、後・・少しだけ・・)
そう思い、彼が手をまた少し石塚の頭に近づけた次の瞬間。
「いっ・・!?」
彼は絶句し、硬直した。
さっきまでは見ていただけだった彼女の蛇達が、
一斉に彼の手に殺到したためだ。
慄いて彼は手を引っ込めようとするが、今度はそれすら敵わなかった。
彼の手に殺到した蛇達は、五本の指を十何匹かが弄び、
他の蛇は、全員で彼女の頭へと彼の手を運ぼうとしてきたからだ。
その蛇の中には、手首に巻き付き固定してくる者達もいた。
(わ・・ぅぁ・・うわぁ・・)
自分の手が、思い通りにならずに蛇達に飲み込まれていくのを
ただただ見ていることしか出来ないでいる池田は、
冷や汗が体を流れるのを感じながらそれを見ていた。
しばらくすると、その動きは止まる。
しかし、今度は殆どの蛇が優しく彼の手を噛み始める。
さしずめ、甘噛みといったところだろうか。
(・・・・・・ぁ、はは・・)
次々と起こる出来事に彼の頭は、ややパンク気味になっていた。
手の全てが無数の蛇に包まれるなど、
想像もしたことがなかったのだ、当然ではあるが。
しかし、実際起こっている。
(そ、そう、だよな・・
こういうこともあるって・・ことっ、うっ、あ・・!)
真面目に考えようとしていた彼の思考は、
手の背と腹から加えられた刺激に途絶えさせられた。
「っ・・ふくぅ・・っ・・!ちょ、ちょっとぉ、はは・・!」
蛇の体は、言うなれば細くてよくしなる柔らかい棒。
その棒達が一斉に今、彼の手の背と腹を刺激していた。
手で相手の手の腹や背、時には手首などを擽る行為があるが、
今彼が受けているのはまさにそれだ。
それも、人間相手ならどちらか一方だけなのが、あらゆる所からである。
そんな刺激に、池田が耐えられるはずはなく。
「あ、あはっ、ちょ、ちょっと、いしっ、づかっさっ、はは・・!!」
蛇の塊に手を突っ込みながら抑えきれない笑いを漏らすという、
何ともおかしな、または不気味な様相を彼は見せていた。
「へ?あ、ご、ごめん、あの・・!い、今止めさせるから・・!」
それを見て、流石にまずいと思ったのか石塚も止めようとする。
しかし、元はといえば自分の欲求を素直に達成するためのようなもの、
それを止められるかどうかは彼女にも怪しかった。
それは彼女にも分かっていたから、止めると言いはしたものの、
実際のところどうやって止めるかは考えつかない。
(あぁ・・!どうしよう!?
この子達、私の無意識から来てるから止めらんないじゃない!)
彼女があたふたし始めたその時。
「っふふ、お楽しみのところ悪いがの、そろそろ『止めておけ』?
学校から出る時間はとうに過ぎておるぞ。
ここでの事は、儂が見ておったという事で色々と始末してやるでな。」
救いの手は差し伸べられた。
古谷がにやにやと笑いながら、能力を使って蛇達に止めさせたのだ。
池田がちらと時計を見る、もう7時17分であった。
「あ・・はぃ・・そうですね・・はは・・じゃぁ・・」
「はい・・さようなら・・」
「うむ、さようなら、帰りは気をつけてな。」
そんな会話を交わして、三人は解散する。
(ふふ・・一時はどうなるかと思ったが、
なかなかに順調ではないか、池田、石塚。)
(・・まぁ、良いのかな・・ああやってる内に、ちょっとは・・)
(もう・・何やってるのよ、私の髪は・・!
い、いや、自分がして欲しかったのは分かってるけど・・)
三人の行き先と同じように、その思考もそれぞれであった。
翌日。
校門の前で、池田と石塚は会話を交わしていた。
内容は、石塚の素性についてだ。
「・・だから、私のことはばらさないで。」
「分かった・・じゃ、行こうか。」
会話をそれきりにして、歩きだそうとする二人。
その背後からかかる声があった。
「おやおや〜?池田君はやはりいっしー狙いだったのかな〜?」
二人は振り返る。
そこにいたのは二人の予想通り、羽田だった。
彼女はにやにやと笑いながら二人の方へ歩いてくる。
「狙いって・・ただ、普通に話してただけ。」
「そうよ、羽田さん。」
二人はそれに答える。
「ふーん・・?」
対して、首を傾げた羽田は石塚の傍まで歩いていくと。
「・・ね、もしかして、正体バレた?」
と訊いた。
「・・何の事?」
瞬間、石塚の気配が鋭く冷たくなる。
それを感じとって、羽田は表情を強ばらせた。
「ちょ、ちょっと・・いっしー。
やめてってば、いっしーの種族の怒気は、
あたし達にとっては恐ろしくって堪らないんだから・・」
そして、周りに聞こえない程度の声でそう言う。
それを聞いて、石塚のみならず、池田も首を傾げた。
「・・あたし、達?もしかして羽田さん・・」
気配を緩めた石塚が問う。
羽田はてへへ・・と頭を掻いた後、袖口を捲った。
「・・なるほど。」
二人は頷く。
何故なら捲られて見えた羽田の腕に、羽毛がついていたからだ。
「まぁ、そゆこと。
あと・・」
彼らを見て、羽田はふぅと息を吐く。
「何があったか知んないけど、この学校結構そういうの居るからさ。
困ったら、相談だよ?
いっしー、なーんかすぐ抱え込みそうだし。
んじゃね!教室で!」
そしてそう言って返事も聞かず駆け出していった。
「・・・・何よ、知ったような口利いて。」
それに対して憎まれ口を叩きつつも、
石塚の心の中は何か暖かいものに包まれていた。
放課後。
石塚は、図書室にて係の仕事をこなしていた。
「はい、じゃあこれ。」
そう言って手渡した本を、相手が持って行く。
その一連の流れは、早くも彼女の中で習慣となりかけていた。
(・・ふぅ。)
心中で一息。
そして椅子に腰掛け、次の人が来るまで自らの本を読む。
これも、彼女の中に出来かけている習慣だ。
(・・そう言えば。)
本を読みながら石塚はふと考えていた。
辺りを見渡しその姿を視野に入れ、少し安心する。
(池田君は・・あそこか。)
池田直也。
その名前は、彼女にとって少なくとも他人ではなくなっていた。
自分の素性を知り、恐れ、それでも手を伸ばしてくれた人。
手を伸ばし、震えながらも蛇の頭髪を受け入れた、ただの、人。
ヒロインの対となる・・
「っ・・ふぅ。」
そこまで考えてから、彼女は軽く頭を振った。
(流石にそれは行き過ぎね・・。
物語読んで、センチメンタルになってるのかしら。)
そう結論づけて思考をそこで中断し、読書を再開する。
その体はほんのちょっぴりだけ池田の方を向いていた。
(お・・6時30分か。)
椅子に座って本を読んでいた池田は、
周りが次々と退出していくのを感じて、そう思っていた。
「ん・・〜っ。」
本を閉じ、目も閉じて彼は伸びをした。
ぐぐぐっ、と体が引っ張られる感覚に彼は満足し、立ち上がる。
そして、すかすかになった図書室内を軽く見回して、
彼はカウンターでその視線を止めた。
石塚が、居なかったからだ。
(帰ったのかな・・まぁ、6時30分にはなってるし・・)
そこまで考えて、池田はつい笑ってしまう。
「っふふ・・」
(図書委員の仕事は戸締まりもなんだけどな。
まぁいいや、窓閉めてこよう。)
そう思って、カウンターから視線を外した直後、彼は固まった。
窓際に石塚がいたからだ。
誤解の無いように書いておくと、
石塚は別段怖い顔をしていたわけではない。
池田が硬直した理由はただ、
彼女がメドゥーサの姿をとっていたという、それだけである。
(・・やっぱ、慣れないというか何というか・・だなぁ・・)
そんな事を思いながら、池田は彼女に近づいていく。
「・・石塚さん。」
彼がそう声をかける。
返ってきたのは、ややいたずらっぽい微笑。
「・・どう?びっくり、した?」
加えて、そんな言葉だった。
昨日の反応との差に驚きながらも、彼は答える。
「・・うん、まぁ。」
それを聞いた石塚は嬉しそうに表情を緩めた。
「・・そ。
なら・・良いわ。」
そして開いていた窓を鍵まできちんと閉めると、
池田が何か言う前に話し始める。
「あの、ね?私ってこんな格好で・・見せたら、怖がられるじゃない?
だからその・・正直言って、見せるのが怖いのよ、私も。
でも、だからって、何時までも怖がっては居られない、でしょう?
あんたにだったら、その、見せても大丈夫だから、
こうやって見せて、ちょっとずつ、慣れていけたらな・・って・・。
ま、まぁ、いきなりやったら驚くかなっていうののついでだけど!」
「・・そっか。」
照れ隠しにそう言った彼女に、池田は短く返した。
顔に、微笑みを浮かべながら。
その暖かい雰囲気に石塚は、
ほぼ無意識のうちにこんな事を考えていた。
(・・こういうの、包容力・・って言うんだっけ。
お兄ちゃんが居たらこんな感じなのかしら・・)
そして直後に、それを意識し赤面する。
抱いた感情が「甘え」に似ていると認識し、恥ずかしくなったのだ。
(っ、何を考えてるのよ私は。
確かに池田君は優しい方だし、私より背も高いけど、
だから、だからって・・お兄ちゃんは無いでしょうに・・!)
「・・石塚さん?」
そんな風に思っていると、池田から声がかけられる。
ハッとして石塚が彼を見ると、
不思議そうなやや困ったような顔がそこにはあった。
それを見て、彼女はまた先程と同じ考えを抱き始める。
今度は、最初から自覚できていた。
「あ、ごめん!窓全部閉めたかなって、考えてただけ。
じゃ、じゃあさようなら、また、明日!」
だからそう言って、半ば逃げるように帰る。
(うぅ〜・・なんで、こんな、変な感じになるのよ・・!)
その心中は揺れていた。
どれくらい揺れていたかというと、
やらなければならない消灯とドアの鍵閉めを忘れるくらい、である。
結局、池田が苦笑しつつそれをやって帰ったのだが、
後になって思い出した彼女は、それが容易に想像できてしまい、
やはり一人で赤面していた。
そんな彼女のこと。
「・・いっしーってさ、池田君のこと好きでしょ?」
羽田にそう訊かれるのに大して期間はかからなかった。
正体発覚から丁度、一週間経った放課後のことである。
せっかくだから、ということで羽田から近くの図書館に誘われたのだ。
何がせっかくだから、なのかは分からなかった彼女だったが、
羽田のことは友達であると思わないでもなかったので誘いに応じた。
その道中で、そう訊かれたのである。
「・・別に。」
いつも通り、ぶっきらぼうに彼女は答える。
顔にもやはり、いつもの不機嫌そうな表情。
しかし羽田はにやにやと笑いながら言う。
「ほんとにぃ〜?放課後、図書室にあたしが来たら
二人っきりになってて、いつも蛇体見せてるじゃん?」
その言葉に石塚の顔が赤くなり、髪の毛がわさわさっと動く。
「あ、あれはただの信頼とかそういう・・」
「あれれー?そう言うわりには動揺してるような。」
「し、してない!」
そんな言い方をしては、白状しているようなものだったが、
彼女の必死の誤魔化しに、羽田は追及を止める。
「ん〜そっかぁ・・」
その代わりに、別方向からの切り口を探り始めた。
(参ったなーこりゃ。
でも、いっしーは人に言われなきゃ認めなさそうだし・・
・・そういえば、メドゥーサもラミア属だよね。)
程なくして手段を思いついた彼女は、
石塚の背中側をわざとらしく見やると、呟いた。
「あ、池田君と立浪先輩が手を繋いでる。」
瞬間、空気が凍りついた。
少なくとも羽田はそう感じた。
「・・・・」
石塚は何も言葉を発しない。
しかしながら、蛇の体と頭髪をさらし、
背後を振り向きその方向を髪と共に凝視している様からは、
その心中が容易に想像できた。
(ぁ・・あはは・・や、やっぱり、そう、なん、じゃん・・?
というか・・人居なくて良かった・・)
羽田が、凍結寸前の思考回路でそんな事を考えていると、
石塚が、恐ろしい程ゆっくり(羽田の主観)彼女の方を振り返る。
ひっ、という声を喉元で辛うじて彼女が抑えていると、
間もなく石塚は言った。
「・・居ないじゃない。」
底冷え、というのがぴったりなその声の冷たさに、
羽田は本能的に恐怖しつつ、返す。
「そ、そっかー・・み、見間違い、かなー・・あはは・・」
すると石塚はいきなり、目を閉じて顔をななめに伏せた。
ゆっくりと、体も人間に戻っていく。
(あ、あり・・?)
その変わりようを羽田は戸惑いながら見ていた。
怒って詰め寄ってくるって思っていたんだけど・・と、
羽田が疑問を頭に浮かべていると、
「そう・・ええ、そうよね・・」
と石塚は呟き始めた。
何事だろう、と羽田が思ったその矢先に石塚はゆっくりと目を開ける。
「・・よく考えれば、池田君は今日は当番じゃない。
全く、焦って損したわ。」
そして、いつもの顔でそう言った。
彼女の雰囲気にもう大丈夫だと感じた羽田は、
からかうように言葉をかける。
「・・や、で、でもさ?もしかしたら、こっそりと・・」
「その手にはもう乗らないわよ、羽田さん。」
対して石塚は、意外にもそれをさらりとかわした。
「大体、池田君も立浪さんもそんな事をする人柄でないし、
池田君の匂いがこの辺りからはしないわ。
そもそも・・池田君に誰かの臭いなんてついてなかったもの。」
そのまま彼女は歩き出し、少しして・・止まる。
「いっしー?」
不思議そうな自分の友達の声に、彼女は振り向かずに言う。
「方法はどうかと思うけど・・
気づかせようとしてくれた事には、ありがとうって言っておくわ。」
彼女にしては素直な言葉に羽田は喜びを感じ、
「・・ただし、お節介な友達だ、って言葉もつくけど。」
「いっしぃぃ・・」
そして付け加えられた言葉に不満げな声を漏らした。
「さ、行きましょう羽田さん。
こっちの方で合ってるのよね?」
「ん〜はぃ・・合ってます〜・・」
「そう。」
実際、付け加えられた言葉は彼女なりの照れ隠しだったのだが、
羽田にそれは分からない。
素直で、色々とまっすぐな気質の持ち主なのだ。
「あ、待ってよいっしー!」
また、一つの物事をずるずると引きずらない。
それも、彼女の気質であった。
「ええ、羽田さんが居ないと詳しい場所自体は分からないもの。」
そして石塚は、その気楽さを心地良く感じていた。
その夜。
「ちーす、居るかぁ?」
石塚が自分の部屋で本を読んでいると、
大きな声を上げてこれまた大きな体が入ってきた。
「・・居るけど。」
静かな空間を乱され不快だとばかりに石塚は、
闖入者へと冷めた視線を向ける。
しかし、闖入者の方はそれをまるで気に留めずに、
彼女の前まで歩いていきその頭を唐突に撫でた。
正確には、蛇の背を、だ。
その手つきは、女子の頭を撫でるには粗暴過ぎた。
そして、石塚は女子である。
「あ痛ぁっ!」
結果、無法者の手は噛みつかれ、石塚の頭は解放される。
「っ、つつ・・」
手を押さえてうずくまる無法者。
同情を誘いうるかもしれない姿だが、
これで何度目か、数えるのも嫌になるレベルとなっては別だ。
しかも・・と、石塚はそれを見やる。
逞しい体、緑がかった肌、動物の頭頂部の骨の描かれたヘッドバンド。
そして何より、無駄に大きく育ちそれでいて引き締まっている胸部が、
彼女のいらだちを増長させた。
一つは、何故こうも大きくなるのかと。
そして、もう一つ。
「・・いっつも言ってるけど、もうちょっと女らしくして、姉さん。」
それだけ大きいくせに、何故こうも全てにおいてガサツなのか、と。
男兄弟であったならまだしも、姉だ。
種族柄がどうこうと言っても、学習するというのはないのか。
毎度そう思い、最初の内は文句も言っていたものの。
「へへ、悪い悪い。」
いくら言おうとも、笑いながら口先だけの言葉を返されるのでは、
もはやその気も失せるというものだった。
「・・で、何の用なの?」
しょうがないので石塚は、自らの部屋に入ってきた理由を問う。
すると彼女の姉は、思い出した、というような顔をして、
立ち上がりつつ答えた。
「あーそうそう、それな。
風邪流行ってるらしいから気をつけろって話。」
「・・はぁ。」
たった、それだけで読書を邪魔したのか、と
少々の苛立ちを再び覚える石塚。
「あーそれとな、冷え込むっぽいぞ、明日から何日か。
お前、種族柄きついだろそういうの。
暖かくして寝ろよって、まぁそんだけだ。」
しかし、続くさらりとした気遣いがそれを相殺した。
こういうところがあるから毎度結局は許してしまうのだろう。
そう思いつつ石塚は、わかった、と返す。
「おう、んじゃな!お休み。」
彼女の返事を聞くと、そういって姉は部屋の外に出て行く。
(・・相変わらず、我が道を行く人なんだから。)
そう思うと同時に石塚は、ネッグウォーマーと手袋か・・
毛布は確か、丸めて置いてあったわよね・・とも考えていた。
翌日。
昨日聞いたとおりの寒さを、用意しておいた防寒具で和らげながら、
石塚は密かに姉に感謝していた。
そのままいつも通り登校し、授業を受けていたのだが。
(・・あら?)
三時間目の中程、説明を聞いていた彼女は、
ほんの微かな違和感を覚えた。
体調でも崩したのかしら、と考えるが、
そのうち、違和感は体の外からだということに気づく。
それもかなり近い・・そこまで分かって、ある考えが浮かんだ彼女は、
周りに分からないように、
こっそりと、蛇特有の熱を感じ取る器官を顕してみた。
すると、違和感がよりはっきりとしたものとなる。
この時点で彼女には違和感の正体が分かった。
周囲の内のある一点、そこの温度がいつもより高いのだ。
そのある一点とは、池田の体温。
心配になる彼女だったが、池田の様子にさしたる異常は無い。
実際そこまでの違和感では無かったし、精々0,5℃程度、だろう。
なら、心配ないか・・
そう結論づけて、再び授業へと石塚は意識を向ける。
「さて、ではこの自分の欲求と行動が正反対になってしまう防衛本能。
名を何と言ったかのう?・・石塚よ。」
「・・・・」
その直後、長々と余所見をしていたツケを払わされるのであった。
放課後。
石塚が、大分慣れて来た係の仕事をしつつ本を読んでいる内に、
時刻はすぐに6時30分となった。
「・・ふふ。」
羽田に指摘されたように、彼女は池田が気に入っている、いや、好きだ。
その池田と、短い時間とはいえ二人っきりになれるとあっては、
彼女が笑みを漏らしてしまうのも無理からぬ事だった。
「ん・・んぅ・・」
いつものように、図書室に池田の気配だけがあることを確認してから、
石塚はその本来の姿を現す。
周りのものを蛇体でぐちゃぐちゃにしないように注意しつつ、だ。
「・・お疲れさま、石塚さん。」
そして、正面からカウンターに近づいてくる池田に、
他愛ない返事をしようとしたが。
「あ、ええ・・どうしたの?」
それは疑問を伴うものになってしまった。
何故なら、彼女の視界に白いマスクが入ってきたからだ。
「あぁこれ?ちょっと風邪流行ってるらしいし・・
俺、意外と体調崩しやすいみたいだからさ、念の為。」
どうって事はないと思うけど、と最後に付け加えて、
軽く肩をすくめてみせる池田。
心配しなくても大丈夫、という仕草だったが、
石塚はいつもよりも不機嫌そうな顔でこう返した。
「いや、なら良いけど・・でも、ちゃんと暖かくして寝なさいよ?
なんて事無い、って思ってたのが意外と辛かったりするんだから。」
「うん、知ってる・・何度か経験済みだしね。」
言われた池田は笑顔で応じる。
「そ・・なら、いいけど。」
その柔らかい言葉に、石塚も笑って返した。
これならば問題無さそうね、と思いながら。
翌日、放課後のそのまた皆が出て行った後の図書室にて。
「・・ふぅ〜・・」
石塚は腕を枕に、重い重い溜め息を吐いていた。
当番を本来の者の代わりに務めさせられたからではない。
その本来の者が来ていないこと、それが不満なのである。
(・・だから言ったじゃない・・
大丈夫かしら・・安静にしてる、だろうけれど・・)
そして、心配なのであった。
(明日は・・休み、よね、週末だし。
・・となると、会えるのは少し先か・・)
ふぅ、ともう一度ため息を吐く。
それが自分らしくない行動なのも、彼女は自覚していたが、
だからといって抑える気にはならなかった。
想いを告げてこそいないとはいえ、好きな人なのだ。
週の終わりに会えるのと会えないのとでは、大分違う。
せめて、ちょっと話すだけでも・・
と考えたところで、彼女は妙案を思いつく。
「見舞い・・!あ・・でも、駄目ね・・」
しかし、持ち上がりかけた頭は再び降ろされてしまった。
(・・池田君の家って、どこなのかしら・・)
そう、肝心なことを知らなかったからである。
いかに良い方法を思いついたとて、ここが分からなくては意味がない。
と、なるとやはり、大人しく・・
「何が、駄目なんじゃ?」
突如背後よりかけられた声。
ビクッとして石塚が振り向くとそこには、
腕組みをした古谷が、苦笑を浮かべて立っていた。
「あ・・古谷先生。
別に、何でもないですよ。」
石塚はいつもの調子を装ってそう返す。
「っはは、大人に嘘をついても罷り通ることは滅多にないぞ?」
しかし、古谷は苦笑を浮かべたまま、言った。
「言いにくいことなら、当ててやっても良いが?
そうさなぁ・・池田の見舞いに行きたい、
されど、何らかの理由によりそれがならぬ、といった所か?」
「・・・・」
そして続く古谷の問い。
石塚は無言であったが、
それを見て古谷は、苦笑を優しい微笑みへと変えた。
「当たり、だな。
・・どれ、ここはひとつ儂に相談してみる、というのはどうじゃ。
思いの外、簡単に解決できるやもしれんぞ?」
相談の提案。
迷惑でないか・・とか、お節介を・・とか、
その他色々な事を考えた石塚だったが、
担任なら、彼の住所を知ってるわよね・・と最終的に考えがそこに至る。
「そうですね、じゃあ・・」
なので、その提案に乗ってみたのだった。
少々の後。
「・・うむ、ではここでちょっと待っとれ。」
そう言うと古谷は出て行く。
どうしようというのだろう・・と石塚が不思議に思っていると、
すぐに古谷は戻ってきた。
彼女は、古谷が手に一枚の紙を握っていることに気づく。
気になったので質問しようとしたが、
古谷は、それよりも速くその紙を彼女に差し出した。
「ほれ。
まぁ、女子にはちと面倒やもしれんが・・」
受け取り、見てみる彼女。
「これ・・」
彼女は、何か暖かい気持ちに包まれた。
紙切れが、学校周辺の簡単な地図のコピーだったからだ。
しかも、ある一箇所には丸がしてあり、この辺、と書いてある。
そこは、池田の家の大体の位置・・何とも丁寧なことである。
石塚にとっては、正に渡りに船であった。
「・・いいんですか?」
彼女の、声色に喜びを滲ませながらのほぼ形だけの遠慮を、
彼女の教師は目を細めハッと笑い飛ばす。
「な〜にをその気もない癖に遠慮しておるのやら。
そんなもので自らの恋路を阻む可能性を作るなど、阿呆のすることぞ。
まぁ、そんな所も可愛らしいのじゃがな。」
豊富な人生経験に裏打ちされた頼もしい言葉。
その中に恋路という単語が出てきた事に石塚は少なからず驚いたが、
まぁ、この先生なら不思議と言うほどでもないわね、とも思っていた。
「・・じゃあ、ありがたくいただきます。」
「んむ、精々気張れよ。」
かくして、石塚は池田の家に行けるようになったのであった。
その次の日。
あまり早く行くのも迷惑だろうと考えた石塚は、
正午よりやや早いくらいに出発し、地図を頼りに歩き、
太陽が真上に来た辺りで、無事池田家まで辿り着いていた。
車庫はあるが車はない・・親は出かけているようだ。
「っ、ふぅ・・」
少々緊張しつつ、見舞い、ただの見舞いよ、と自分に言い聞かせつつ、
彼女はインターホンを押す。
「・・ぁ。」
ピンポーンという音が鳴ってから彼女は、自分の行動をやや後悔した。
池田の性格上、
相当の容態でない限り、応対に出ようとするのは明らかだからだ。
そんな所も好きなのだが、それはつまり彼に多少の無理を強いること。
浮かれていたわね・・と石塚が自戒していると、
ガラガラと音を立てて、横開きの玄関が開く。
「はいはーい・・って、石塚さん?」
応対に出た池田の顔色は、彼女が思っていたより、良かった。
石塚を家の中に招き入れて。
池田は、彼女の不機嫌に苦笑していた。
「うん、まぁ・・実は、
昨日の午後4時くらいには熱はほとんど無くなってたんだ。」
不用意に、こんな事を口走ったが為に。
「はぁ・・!?大した風邪じゃなかったんじゃない、何よそれ・・」
そう言いはする石塚だったが、実は相当ホッとしていた。
ただ、それが素直に出せないだけである。
池田も、それにはなんとなく気づいていた。
「はは・・ごめんごめん、係の仕事押しつけちゃったな。」
「本当よ、まったく・・」
口を尖らせる石塚に、彼は苦笑しつつ言う。
「悪かったって、次の当番代わるから。」
それは、所謂友達として、なら妥当な言葉だったろうが、
この場合はちょっと、ずれていた。
「良いわよ別に・・私だって、好きでやったんだし。」
「・・そっか・・」
返ってきた言葉に池田は黙り込んでしまう。
石塚さんが不機嫌そうなのはいつもの事だ。
しかし、今日は殊更機嫌が悪そうだ・・これはなんでだ?
そんな事を考える池田。
少々の後、何かを思いついた彼は、
おもむろに石塚の方を向くと、こう提案する。
「あーその・・石塚さん?
だったらさ、お詫び・・というか何というかだけど、
どっか出かけない・・かな、奢ったり・・とか・・」
それは、[石塚の女心]をまったく分かっていないものだった。
もっとも、彼は普通の女心すら知らないので仕方ないとも言えるのだが。
「・・良いって言ってるでしょ。
それに、どこか出かけて人混みに入ったら、
症状が残ってて悪化するかもしれないじゃない。」
「いや、だけど・・俺の気が収まらないっていうか・・」
「あぁもう!」
しつこい彼に、石塚は頭を振って立ち上がる。
彼女の突然の行動に驚く池田。
その何とも言えない表情に向かって彼女は、感情に任せて言い放った。
「そこまで言うんなら、今日一日、私にあんたの看病させなさい!」
今日一日あんたと二人っきりで居させなさい、
流石に、そこまでダイレクトに言うのは彼女には無理だったが・・
「え・・あ、うん・・」
それでも、それは功を奏したのだった。
さて。
勢いで看病されることになった池田だったが、
彼自身が言った通り、実際のところ体調は悪くなかった。
故に。
「・・・・」
現状は、テレビもつけずに、
ソファに二人で並んで無言で座っているという、
池田にとって良く分からない状態になっていた。
(・・どうすればいいんだろう・・)
彼はこれまで、異性と話す機会は多々あったものの、
こうも近い距離にそれが居るという経験は、したことがなかった。
それでも、何か気の利いたことが言えないものか・・そう思って、
彼は石塚の方を見る。
彼女は彼の視線に気づいた途端に顔を赤らめて、さっと顔を背ける。
嫌われている、と思うほど彼は単純ではなかったが、
その意味を完全に理解出来るほど大人というわけでもなかった。
参ったなぁ・・と苦笑しつつ、
何回目かになる視線を逸らす行為をしようとして彼は、
そう言えば、と再び石塚の方を向いた。
「石塚さん、なんで今日はメドゥーサの体してないの?
なんというか、いつもあれだったから違和感っていうか・・」
「えっ・・」
続いた質問の内容が予想外であったらしく、
彼女は顎に手を当て、考え込むような素振りを見せる。
「・・それもそうね・・」
そしてほんの少しの間の後、そう言うと本来の姿を現した。
その瞬間。
「うわーい池田君だー!」
彼女の蛇達はそのようなことを言って、
池田の方へとくねくねとした体を伸ばし始めた。
うざったい、という風な石塚とは対照的に、
池田は微笑みながら蛇の集団へ手を突っ込む。
「わーい!」「あったかーい!」「つんつん・・」
そして群がられながら、一言。
「この蛇達って、喋れたんだ?」
尋ねられた石塚は、不機嫌そうな表情のままそっぽを向き、
「・・まぁ、ね。」
と答えた。
彼女の口からの答えはそれだけである。
「図書室に居るときはまだ学校内だからねぇ・・
大声で喋ると色々面倒だから、そうしなかったの。」
だが、頭の蛇の方はことのほかお喋りで、
口をかなりの速さで開閉させていく。
「あ、でもでも何回か危ないときはあったなー。
特に一番最初のアレ!アレはほんとーに・・」
まるで、石塚の分まで自分が話すのだ、そう言わんばかりである。
「・・そうなんだ・・」
もはや、その返事が石塚に対してなのか、
それとも蛇に対してのものなのかあやふやになっていたが、
とりあえず、池田はそう返事をする。
「・・うざったくなるけどね。
勝手なことをぺらぺらと・・」
それを受けて、石塚は腕を組みつつ返す。
「あ、そうそう、私たちの言動って全部、
持ち主の心に由来してるんだよ、知ってた?」
一方蛇は、盛大にネタバレをぶちかました。
「・・え?」
当然ながら、池田は硬直する。
その意味を一息には理解できなかったのだ。
「えーと・・その、それって・・」
彼はそう言いながら、石塚の方をゆっくり見やる。
「・・で、デタラメよ。」
彼女は真っ赤な顔でそう返す。
「や、でも」「デタラメだったら!」
池田が何か言おうとしても、させない。
果たして、蛇が言っていたことは本当なんだろうか。
ここまでの否定となると、石塚さん的には真実っぽいんだけど・・
彼が、決めかねていたその時。
ぐぅ〜〜・・
彼の腹が音を立てて、鳴った。
その瞬間。
「あ、わ、私何か作るわ!
看病って言ったんだし、それくらいさせて?」
「あ、ねぇねぇ、どの辺の材料使って良いとかある?
人の家の冷蔵庫だから無闇に取れないよ。」
一人と一匹は、ほぼ同時に同じようなことを言った。
「あ、えーと・・引き出しにチャーハンの素入ってるから・・」
それに返しつつ池田は思う。
彼女の髪の言っていたことは、本当のようだ。
「ごちそうさま。」
しばらくした後。
作ってもらったチャーハンを食べ終わった池田は、
石塚の方を向いて、微笑みつつこう言った。
「石塚さんって、料理上手なんだな。
おいしかったよ。」
対する石塚は腕を組みながら、赤い顔を真横に向ける。
「そ、そう?まぁ、おいしかったんなら・・良いけど。」
「うん、上手だと思う。」
そのいつも通りの反応に笑って応じつつ、
池田は自分の分と彼女の分の皿を持ち、台所まで持って行く。
そして皿を置き、ふぅと一息ついてからそれを洗い始めた丁度その時。
「そういや、とっても唐突だけどさ。
池田君って好きな人とか居たりすんの?」
突如、彼にそんな質問がかけられた。
「ん〜?いや、居ないけど?」
それに間延びした声で彼が返すと、声の主はさらりとこう言った。
「あ、そなの?だったらご主人とかオススメだよ?」
ご主人?と池田は不思議に思い、一瞬首を傾げるが、
話し手が蛇だと言うことは彼らの持ち主、つまり石塚のことだろう、
と結論づけてそれに返す。
「あー・・いやでもさ、そういうのは相手の気持ちが大事だろ。」
「へー?じゃあさ、池田君自身はどう思ってるの?」
「俺・・?うん・・まぁ・・そう、なったらいいなぁとは・・」
その会話は、池田と石塚の距離的に少々不思議なものであるが、
キッチン付近の構造と今の状況を考えると、そうでもなかったりする。
池田家のキッチン付近の構造は、
食卓と台所がカウンターによって仕切られ、向かい合わせだ。
そして今、池田は下を向いて皿を洗っていた。
だから自分の話している相手の主がどんな顔をしているかなど、
そんな事は分からない。
また、彼は一つの事をやっていると他の事まで考えが回らない男だった。
なので、蛇が何を言わんとしているのか、良く分かっていないのだ。
「・・あのさ、池田君?私達って、ご主人の心の代弁者だよ?」
「え、ああ、知ってる・・と、よしこれで全部だな。」
その態度に蛇ははぁ、とため息をついた。
「・・う〜、よーするに、さっきのは遠回しな告はぐぅ」
「・・?どうし」
不自然に止まった相手の言葉に顔を上げた池田は、
口をた、の形にしたまま固まった。
「・・まったく、余計な事を・・!」
自分の髪の毛の内の一本、やけにおしゃべりなその一匹の首、
それを石塚が顔を真っ赤にしながら握りしめていたからだ。
「ちょ、ご主人、ギブギブ!酸欠!酸欠になる!」
体をくねらせ必死に訴える蛇。
「知らないわよ!というかむしろ一回そうなって静かになっちゃえ!」
しかし、取り乱す石塚には届かない。
そのあまりの形相に池田は軽く引きつつ、声をかける。
「い、石塚さん、その辺で・・」
「池田君も池田君よ!人の気も知らないで・・!」
だが、それも彼女の気持ちを燃え上がらせただけだった。
「そ、その!私の事が好きとかどうとか!
そういう事を私が居るのに色々と・・!」
さらに、彼女はヒートアップしていく。
池田が口を挟む間などない。
「だ、大体そういう事は!そう、いう・・こと、は・・」
かと思うと急に語尾が弱くなる。
その落差に池田が戸惑っていると、彼女の頭から声がかかった。
「あーまぁ、あれだよ池田君。
ご主人は、正面から好きって言われえぇっ!!
な、なんで!?私今のは悪くみぎぃ・・」
その声は、途中で彼女に封じられてしまう。
しかし、今回の池田は聞き流さなかった。
「あーあのさ、石塚さん?」
とある事を思いついた彼は、
やや恥ずかしげに視線をさまよわせながら、石塚に声をかける。
「あ、いや!違うの!この、蛇が言ってることはデタラメで!」
「・・いや、まぁそれでも良いよ。」
「え・・?」
そして、誤魔化そうとする往生際の悪い彼女を優しく制し、言った。
「俺がそういう風になれたら良いなぁって思ってるのは、本当だから。」
「えっ・・!?・・あ、あぅ・・」
それを聞いた瞬間石塚の体が跳ねた。
その直後、顔を赤くして俯く彼女。
池田は、固唾を呑んで返事を待つ。
・・しかし、顔を赤くしたまま、彼女は何の反応も示さない。
うるさいくらいの蛇も、このときは一言も発さなかった。
少しして。
沈黙による妙な雰囲気が漂い始めた辺りで、
池田は恥ずかしくなって頭を掻きつつ、視線を逸らした。
「・・ってこれ、何を言ってるんだって話だよね。
ついさっき、相手の気持ちがーなんて、
言ってた奴の言うこととは思えないな、はは・・」
それに対し石塚は、一回視線を持ち上げ池田を見た後、
ゆっくりと目を伏せ短くこう答えた。
「・・ええ、そうね。」
「はは・・だよなあ・・」
口ではそう言いつつも、振られたかな、これは・・
と心の中で落ち込む池田。
それを見て、石塚は少しだけ口の端を持ち上げて言う。
「・・でも。
そういう人を好きになる変わり者もいるんじゃ、ないかしら。」
「はは・・そうだと良いな。」
苦笑にも見える微笑を浮かべて返す池田。
対して彼女は、ほんのり頬を染めてそっぽを向きつつ、言った。
「そうね・・た、例えば、例えばよ?
自分の姿を、怯えながらだけど少しずつだけど、受け入れてもらった、
蛇の髪と体を持ってる、素直じゃない奴・・とか・・」
「い・・石塚さん・・!」
それを聞いた池田の目に光が増していく。
その様をチラ、と横目で見た後彼女は続ける。
「ま、まぁ?それが私って言うわけではないけど?
そういう訳だから、あの、もし、それでもよかったら、
わたしがその、変わり者になってあげても良い、わよ?」
彼女らしい、何とも素直でない言い草。
しかし、それを聞いた池田は破顔する。
「ああ、お願いするよ!」
「・・うん、引き受けたわ。
後になってから嫌になったって言っても絶対離れてあげないから!」
石塚も珍しく声高にそう言って笑う。
「うざったくなっても知らないよ〜?」
「ご主人のことで分からないことがあったら、あたし達に聞いてね!」
「いや〜真っ赤な顔をしてようが、怒った顔をしてようが、
本当の気持ちなんて私達を見ればはぅ!?
な、なんで私だけが、いっつも・・」
蛇達も、表現に違いはあれどそれを祝福している。
かくして、彼らは無事恋人同士となったのであった。
それから少し経ち、
二人が互いのことを呼ぶ際に名字を使わなくなった頃。
「・・君はなかなかにやり手だね、池田直也君。」
放課後、いつものように図書室で係の仕事をこなしていた池田は、
本を借りに来たという金髪の女子から、そんな事を言われていた。
「・・え、何がですか?」
女子の雰囲気からなんとなく年上だと思った池田が、
敬語になりつつ訊くと、女子はふっと笑ってこう答える。
「石塚真奈子君のことだよ。」
そして、かれにぐっと顔を近づけると、
目の色を変えてみせ(比喩ではない、実際に黒から赤へと変わった。)
周りには聞こえないくらいの声で、囁いた。
「メドゥーサだろう?かなり短い期間でオトしたそうじゃないか。」
それは、池田と女子からすれば普通の会話になるが、
端から見れば、女子が池田に言い寄っているようにも見える。
そして、この図書室にはそれが許せない者がいた。
「・・・・・・」
本当ならばずっと池田の隣にいたいのを、
流石に邪魔になるから、と自分に言い聞かせて我慢し、
でもせめて、ということでカウンターが見える椅子に座って、
自分の座っている席から、本を読みつつチラチラと彼の方を見る。
それが池田が当番の日の彼女のいつもの過ごし方なのだが、
今日は、彼の相手の女子の方をずーっと凝視していた。
彼女の種族柄を考えれば、その胸の内などもはや語るまでもない。
「い、いっしぃ〜・・」
向かい側に座っていた羽田が怯えたような声を出すが、
それすらも意識の外に追いやって、彼女は池田の相手を見続けた。
目が、人間のそれから蛇のそれに変わり始める。
丁度その時、池田に話しかけていた女子が話を切り上げ、
石塚の方へと歩いて近づいてきた。
なおも石塚は冷たい目で睨むように見続けるが、
相対する女子は、余裕の笑みを崩さない。
「・・そんな目で見られては、ろくに話も出来ないよ?」
それどころか、諭すように石塚に語りかけた。
「ええ、それは分かってます。」
しかし、彼女の雰囲気はますます冷たくなる。
そうされた相手の女子ははぁ、とため息をつくと、
再び目の色を変えて見せた。
そして今度は、石塚や羽田のような者にのみ分かる独特の気、
つまり魔力を少しだけ自らの周囲に漂わせ、こう言う。
「安心すると良い、私はこういうもので・・彼氏持ちだよ。」
「なら、良いですけど。」
そこまでされて、石塚はやっと元に戻る。
その後、急激に恥ずかしさと申し訳なさに襲われた彼女は、こう続けた。
「・・それと、その・・一応・・すいませんでした。
でも、なんというかその・・あれは・・」
「ああ、構いはしないさ。
君の気質を知っていてなお、からかうようなことをしたのだから、
非はむしろ私の方にある・・すまなかったね。」
それに大人びた所作と共に謝罪で返しつつ、石塚の隣に女子は座る。
やっと空気も元に戻ったその時。
「あ、あの〜・・もしかして、赤井満(あかい みつる)さん?」
さっきまで固まっていた羽田が、唐突に女子に訊いた。
問われた女子は不思議そうにやや目を見開いた後、
ゆっくりとそれを穏やかなものに戻しながら答える。
「ああ、そうだけど・・どうしたのかな?」
「あ、いや大した理由は無いんですけどね。
金髪のボーイッシュなカッコいい風紀委員の先輩って皆が噂するんで、
そんな人気者なら一回会ってみたいなーと思ってて。」
「はは・・人気者、ね。
ちなみに聞いておきたいんだが・・性別は?」
「えーと、7割が女子ですね!」
「・・ふふ、参ったなこれは。」
「そういう対応が人気なんですよ、きっと〜」
「そうらしいね。」
話を一旦そこで切り、微笑み合う二人。
それを横目で見つつ、良いな、と石塚もまた微笑む。
同時にそれを羨ましくも思ったが、二人の会話に入る自信はなかった。
しかしながら、誰かと話したいという欲求は出て来てしまっている。
・・うん、直也君と話そう。
そう思い、しおりを挟んで本を閉じ、立ち上がろうとしたその瞬間。
キーンコーンカーンコーン・・
チャイムが鳴ってしまった。
しょうがない、まぁ教室は同じだしそれで我慢しよう・・と、
彼女が落胆しつつもそう決めた、その時。
「・・ああ、そうだ石塚君?」
横から声がかけられた。
あぁもう!とそちらを向くと、予想通り赤井が彼女の方を見ていた。
文句の一つでも、とやや理不尽なことを彼女は考えたが、
それが言葉になるよりも速く、赤井が口を開く。
「今日の放課後、少し二人きりで話したいことがある・・ここでね。」
何がしたいのか理解不能な言葉だったが、
その声音と視線の真剣さに、石塚は頷くことしかできなかった。
とはいえ。
その時は勢いに押されたとはいえ。
放課後、石塚は一日で一番楽しみな池田との会話を邪魔されたのだ。
「・・で、何の話なんですか赤井先輩。」
機嫌が悪くなるのは当然とも言えた。
「いや、ね?確かに君には悪いことをしたとは思ってるけれど。」
気まずそうな顔をしつつ肩を竦めそれに応対する赤井。
「何の話、なんですか?」
そんな赤井にも、石塚は表情を変えずに尋ねる。
赤井は参った、と両手をあげて言った後に表情を真剣なものに改めた。
「では、こんなどうでもいい先輩に時間を使いたくないだろうから、
単刀直入に言うよ・・石塚君・・君、相当我慢してるだろう?」
単刀直入、という割には少々遠回しな表現。
いつもの石塚ならば、眉を顰めて睨みつけるところだ。
「・・何の、事ですか。」
しかし、心当たりがあった石塚は今、硬い反応を返していた。
それを見て赤井は、
聞き分けのない子供を相手取った時のような苦笑を顔に浮かべる。
「おいおい、ここには君と私、二人しか居ないんだよ?
それに、私はダンピール・・隠し通せると思わないこと。
もう一度訊くよ・・我慢、してるだろう?」
「・・・・・」
石塚は、黙って答えない。
しかし赤井は満足したように微笑んだ。
「沈黙は、肯定と受け取るよ。
・・これまではどうやって凌いでたんだい?」
そしてそう尋ねる。
オブラートに包んだ言い方だったが、
その質問に、石塚は頬をほんのり赤くして視線を斜め下にずらした。
「い、言えるわけないじゃないですか・・」
「あー・・すまない、それはそうだな。」
その様を見て、赤井は素直に謝罪する。
がしかし、すぐにその表情は真剣なものに切り替わった。
「だけど・・それでいつまでも凌げるものではないだろう?
君の想い人に直接してもらってるのでは無い以上、
むしろ蓄積していく一方だと思うが。
それに・・」
窓の近くまで歩いていく赤井。
何をする気なのかと石塚が怪訝に思っていると、
彼女は窓を開けて、外の上の方を手で示した。
その白い腕が示す先には、月。
丸く満ち満ちていくであろうそれの欠け具合は、
ナイフで一部分を切り取られたホットケーキを彷彿とさせる。
自分自身の今のようだ・・と石塚はふと思った。
「これまでは耐えられていたかもしれなくても、
何回も凌ごうとして効果が薄くなっているのと、
君と池田君がそこまでの関係となっているのが重なっては、
もう通用しない・・満足なんて出来やしないだろう。」
そして語られる言葉。
それは、石塚も意識してはいた事だった。
そして、どれほど抑え込もうとしても無理だという事も。
「・・でも、どうすればいいんですか。」
「簡単な話だよ、いっそしてもらえばいい・・君の想い人、池田君に。」
その質問を待っていた、とばかりに答える赤井。
しかし、石塚は浮かない顔だ。
「・・でも、直也君は・・」
続くのは、そんなことをしてくれるだろうか。
それを見透かしたように、赤井は笑って人差し指をゆっくりと立てた。
「なに、心配することはないと思うよ。
君はメドゥーサ・・魔物娘だ。
よしんば君にその気が無かったとしても、
本来の姿をとっていて、かつ想いを寄せる男が近くにいれば、
無意識に全てを使って誘ってしまう。
それを抜きにしても、客観的に見て君達はお似合いだし、
そういう事をするにも早すぎる事はない間柄だと思うよ?
むしろよくぞここまで事に及ばなかったなと。
・・大体、そもそも、
君達のような間柄になる以前に性行為に及ぶ者のなんと多い事か。
確かに魔物娘だしそういう事になるのは仕方ないとは思うんだけど・・
っとすまない、愚痴を聞いてもらっているのではなかったね。
ともかく、第三者からしてもお似合いだという話さ。」
「そ、そうですか・・」
途中こめかみを押さえつつ話した彼女に、
色々苦労してるんだなぁ、と思いながら石塚は返す。
実際、何度かそういう雰囲気になったことはあったのだが、
二人とも良く言えば良識があり、
魔物娘的に悪く言えば理性的であったので、
まだまだ付き合い始めたばっかりだから、という認識も合わさって、
手を繋いで微笑み合うくらいで満足していたのだ。
しかしながら、その都度に自分の中のある部分が、
物足りない、その先へと行きたいと囁いているのも彼女は感じていた。
これまでは趣味に時間を費やしたり、人には言えない方法だったり、
とにかく色々な方法で自らを鎮めてどうにかしていたが、
目の前の先輩の言う通り、効力は目に見えて薄くなっていた。
・・なるほど、いっそしてもらえば、
ここまで辛いのは消えてなくなるし、二人の関係もさらに近しくなれる。
そこまで考えてから石塚は再び口を開いた。
「でも、確かに良いかもしれないです。
・・心のどこかで、直也君を求めていたのは事実ですし。
それに・・明日から土日で月曜も祝日、休みですしね。」
その答えに、満足そうに赤井は頷く。
「ああ、それが良いと思うよ。
お節介ながら、彼が予定がないことも聞いておいた。
今日電話して、誘うといいだろう。」
「分かりました・・ありがとうございます。」
早く帰って電話しようと思い、出て行こうとする石塚。
「ああ、最後に良いかな?」
そんな気が急いての行動は赤井によって止められた。
「・・なんですか?」
彼女は振り向く。
怒っているような言い方だったが、
実際は早く行きたくてうずうずしているだけである。
そんな彼女に、赤井は微笑みながら何かを取り出した。
菓子のようである・・それもかなりおいしそうだ。
「ここに、私の魔力を込めた菓子がある。
・・実際の所、彼氏に作ってあげようとして、
形が気に入らなかっただけなのだがね。
有り体に言えば・・まぁ、在庫処分さ。
ともかく、これを食べれば正直になれるという代物だが・・」
「・・折角ですけど、遠慮しておきます。
私は、全て私のままで、直也君と過ごしたいですから。」
いるかい、と聞かれる前に石塚は答える。
誘いを蹴られた形になった赤井だったが、
彼女はむしろ嬉しそうに口の端をつり上げた。
「そう言うと思っていたよ・・それでこそさ。」
それを見て、格好いいな、と石塚は素直にそう思った。
恐らくはここが、主に女子に好まれる所以なのだろう、とも。
「ええ、当然です・・じゃあ、さようなら。」
とはいえ、それを本人に言うのははばかられたので、
石塚は短くそう言って図書室のドアを開ける。
「うん、さようなら・・っとと。
私が出なくては君が帰れないかな?」
「はい。」
そして、赤井が出たのを確認してからドアの鍵を閉めた。
「では改めて、さようなら石塚君。
言うまでもないことだろうが、頑張るといい。」
「・・はい、赤井さん。」
彼女の胸には、静かなやる気が燃えていた。
その夜。
池田は、石塚からの電話に応じていた。
内容は勿論、明日からのことについてである。
「と、いうことなんだけど・・どう?大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ。
どうせ何もしないで本読むかゲームするかゴロゴロしてるだけだし。」
「・・そう、良かったわ。」
電話越しであるので顔は見えなかったが、
石塚が笑ったのが雰囲気でなんとなく分かり、彼は微笑を浮かべる。
「あーでも、泊まるんだったらそっちに行かなきゃだよな。
俺、真奈の家どこにあるか知らないんだけど・・」
その微笑のまま、遠回しに質問。
対して、電話越しの石塚はふふっと声に出して笑った。
「えーと・・じゃあ、直也君の家まで私が迎えに行くわよ。
直也君に迷われても困るし。
で・・なるべく早く行きたいけれど・・何時くらいなら大丈夫?」
「そうだな・・10時くらいなら大丈夫?」
「ん・・うんっ!ぁ・・じゃ、じゃあ明日!」
彼女にしては珍しい子供らしい返事と共にプツッと切れる電話。
恥ずかしかったんだろうな・・と微笑ましく思いつつ、
旅行中の両親に電話をすることにしたのだった。
事後承諾ってやつだよな・・と思いながら。
ちなみに、彼の電話に対して返ってきたのは主に、
頑張りなさいよ、泣かせるんじゃないよ、
そして、あんたのしたいようにしなさい、の三つであった。
泊まりに行くだけにしてはやや大げさだと思った彼だったが、
とりあえず、分かった、と返したのだった。
翌日。
朝ご飯を食べ終わった池田は、白い下着の上から長袖の黒い上着を着て、
ズボンもこれまた黒いジャージに履き替えた後、
昨日、手持ち無沙汰だったので図書館へ行って借りた本を読んでいた。
「っ・・」
ちなみに、少々顔が赤くなっている。
それが魔物娘に関する物だったからだ。
魔物娘の基本的な性質から、
それぞれの魔物娘に関する情報まで載っている優れものである。
「・・ま、魔物娘って・・そういう性質なんだ・・」
今、池田が閲覧しているのは、彼女たちの糧についての項。
健全な男子たる彼が赤面するのは無理からぬ事だった。
「・・て、事は、真奈も・・?」
それを一瞬想像して顔を赤くした後、彼は頭をぶんぶんと振る。
「っ・・何を想像してるんだ、俺は。
や、まぁ・・良いなぁとは、ってああもぅ。」
誰を相手取ってるんだよ、と自分に突っ込みながら、
彼はさらにページをめくっていく。
数々の魔物娘の項目を飛ばしたその手は、メドゥーサの項で止まる。
「ラミア属らしく嫉妬深く独占欲が強い・・か。
はは、確かに。
立浪先輩と話してくるって言っただけで睨んでくるもんな。」
性質と自らの彼女の行動を照らし合わせ、苦笑する池田。
「えーと他には・・」
彼は、さらに続きを読もうとする。
ピンッポーン・・
「あ、あのっ、直也君、居る?」
しかし、それはならなかった。
彼にとって待ちわびていた者が来たからだ。
続きは暇な時、と着替えと財布の入ったリュックに本を入れて背負い、
薄手のジャケットを羽織って彼は、玄関に歩いていった。
「居るよー!おはよう、真奈。」
そして、そこに立っていた石塚にそう言って挨拶する。
彼女は、池田の姿を見た瞬間に顔を明るくした。
「あ、おはよう直也君。」
そして、いつもとは違う上機嫌な顔で池田に挨拶を返す。
「うん。」
応えつつ家の鍵を閉める池田。
その後振り向いて彼は。
「お、おは、よぅ・・」
二度目の挨拶をしたが、その際顔を少し赤くして視線を逸らした。
「直也君?」
不思議に思った石塚が首を傾げ、声をかける。
池田は、視線を左右に揺らしながら少しずつ彼女の方に戻した。
「あ、ああ、いや・・その・・」
言葉に詰まりつつ、彼女の服装をチラチラと見る池田。
その視線を追って彼の気持ちに予想がついた石塚は、
ふっと笑い、言葉を紡いだ。
「ああ、この格好?寒いから長袖を探そうとしたら、
これしかなくって・・正直、どうかしらね?」
彼女の言葉に、池田は再び視線を逸らす。
石塚が今着ているのは長袖の体操服の上着の上下、
所謂ジャージと呼ばれるものである。
色は上が灰色っぽく下が藍色。
寒いという割に開けっ広げの襟元からは、ねずみ色のシャツが見え隠れ。
女子らしくない、とか言ってしまえばそうなのだろう。
しかし、普段のやや不愛想な言動や仕草によって、
くすんだ石のような印象を与える石塚という女子に、
それは並の女の子っぽい服装よりも、良く似合っていた。
「あ・・うん、か、可愛いと思うよ。」
そして、池田の心にもストライクであった。
その事を自覚し、彼自身少なからず驚いている。
そこに目の前の彼女の姿が重なり、それで目を逸らした。
要するに、魅力的な彼女に照れを覚えたのだ。
「・・そう?なら、良かったけど。」
そんな池田の心情を知ってか知らずか、石塚はやんわりと微笑む。
横目でそれを見た後、視線を彼女の真正面に持って来つつ池田は思う。
・・可愛いな。
同時に、彼の目はゆっくりと細くなった。
石塚も、それを先程と変わらぬ笑みで受け止める。
「・・・・」「・・・・」
そのまま少しの間、互いに見つめ合っていたのだが・・
「じゃ、じゃあそろそろ行きましょう。
いつまでもこうしていたって仕方ないもの!」
石塚は突如、そう言って池田に背を向け歩き始める。
急な気恥ずかしさに襲われたのだろう。
「あ・・ああうん。」
遅れて同じような感情を覚えた池田も、
そう返した後、その背を追って歩き始めた。
すぐに追いつくと彼は、横に並んで歩調を彼女に合わせる。
そして何を話すでもなく、ずっとそのまま。
それはそれで心地良いのだが、何か物足りないなぁ、とも思っていた。
しかし何を話そうか・・と考えつつ、彼女の方へ視線を下げる。
そこで彼は、おや、と思った。
彼女の身長が自分よりもやや低いのは知っていたが、
それにしても彼女の身長が低いと感じたのだ。
それは恐らく、彼女があの姿をとっていないからだろう。
・・てことは俺にとって、真奈は蛇の姿の方で印象があるんだな。
実際、蛇の体をとると、石塚の全長は相当伸びるし。
あ、気怠げに纏めるあの顔もいいよな・・とそんなことを思い返す。
しかしそれが会話のネタになるかというと、そうではない。
さて、じゃあ何を・・と再び考え始めたとき。
「・・ねぇ。」
斜め下から、呼びかける声があった。
ん、と池田がそちらを向くと、石塚が見上げてきている。
やや不機嫌そうな顔だが、それが、
何かを提案しようとするときに良くする顔だというのを彼は知っている。
「何?」
だから、言いやすいようにそう訊く。
すると、石塚は目を何回かキョロキョロさせた後、
意を決したようにコクと頷くと、彼を見上げてこう言った。
「し、しりとり・・しない?」
「へ?」
予想外なその問いかけに、そんな気の抜けた声を出す池田。
「だ、だから・・しりとりしない?って言ってるの。」
対して石塚は、恥ずかしいのを堪えるように顔を赤くして、
もう一度繰り返した。
随分とまた、なんていうか・・だなぁ、と思った池田だったが、
「あ、うんじゃあ・・最初の言葉は何にする?」
折角の彼女からの誘いであったので、乗ってみることにした。
「えーと・・普通に、しりとりのりから。
り、り、り・・リス!」
すると、石塚はどこか安心したように笑ってから、
しりとりの始まりを告げる。
何に何故安心したのかは予想がつかなかった池田だったが、
真奈が気分が良いならそれで良いか、とそこで思考を止めた。
「す・・す・・っスイカ!」
そして、自らも始まったしりとりを楽しむべく言葉を繋ぐ。
言葉を発する際の彼の顔は自然と笑顔になっていった。
「か、か、か、か・・狩り。」
対して、少々恥ずかしげに答えを返す石塚。
どうしたんだろう、と思った池田だったが、
それよりも、彼女の出した答えに続く言葉を探す方に考えは行っていた。
それから結構な時間が経過して。
「の、の・・海苔巻き!」
「き・・き・・きんぴら牛蒡!」
「ふふ、残念、もう言ったわよ。」
「えっと・・じゃあ、きんぴら!」
「あっ、ずるい!」
彼らは未だにしりとりを続けていた。
もとよりしりとり自体、ほぼ無限に出来る可能性を持つ遊びではある。
「ら、ら・・乱気流!」
「う?う・・う・・ういろう!」
「また、う?う、う、う・・羽毛!」
「あ、ちょ・・!」
「ふふん、やり返しただけよ?」
「うー・・!う・・う・・烏合の衆!」
「あっ?!やったわね・・!う、う、う、う・・うな重!」
「えぇ?またうか・・う・・う・・」
そして、彼らが本を良く読む故か言葉を色々知っているというのも、
長々とその遊びが続けられる所以でもあった。
返せる言葉を知っているか、というのはもとより、
しりとりというのは互いが言葉を知らないと成立しない遊びである。
返した単語を相手が知らなかったのでは、
インチキだとかそういう事になってしまうからだ。
「ふふん、降参かしら?」
「う・・う・・!・・っあ、薄化粧!」
「なっ・・!う、う、う・・!」
その点、彼らは言葉を沢山知っているので、
返された言葉を理解でき、それに返す言葉を用意できた。
「う、う、う、う・・!う、海ぶどう!」
「う・・!う・・う・・う・・・・裏稼業!」
「なぁっ・・?!」
ちなみに、今彼等がやっているのは、
最初についた文字と最後の文字を一緒にする、
単純ながらも効果的、あるいは姑息ともいえるしりとりの戦法だ。
ちなみに彼らが少し前にやっていた同じようなとしては、
相手が言ってきた言葉の最初を自分が言う言葉の最後にする、
というものがある。(例:ぼうこう→うつぼ→ぼうそう)
「う、う、う、う・・裏番組表!」
「え!?なんか少しずるくないそれ?」
「い、良いのよ!ほら、う!」
「う・・う・・う・・右往左往!」
「くぅ・・!」
基本的に、これらが使われるときは相手のストックを減らすことと、
相手のやる気を削ぐことが大体の目的となるのだが。
「う、う、う、う・・浦島太郎!」
「言ったよ、それ。」
「えぇ!?・・う、う、う、うう・・っぁ、有象無象!」
「っ?・・まだあったか・・!」
彼らは、そんなことは今は考えておらず、半ばむきになって、
どれほどそれを続けられるかという事に執心していた。
所謂、縛りプレイ状態である。
「う・・う・・う・・馬が合う!」
「ち、まだ思いつくの?う、う、う、う・・雨氷!」
「う・・う・・う・・!・・運行!」
「んぁー・・!う、う、う、運休!」
長い間それを続けているが、二人は飽きない。
なぜなら、それをしていることで、
くるくると変わる相手の表情が見れて楽しいからだ。
「うー・・うー・・う・・雲散霧消、どうだ!」
しかしながらそろそろ決めたいとも思っていたので、
これで最後にする、とばかりに力強く言い切る池田。
「う、う、う、ううう・・!」
彼の狙い通り、石塚は思い悩む。
腕を組み、どこかを睨みつけるようにして考えている姿は、
いつもの不機嫌そうなそれに似ている。
だけどやっぱりどこか違う、何がと言われると困るけれど、
・・ともかく、眉根を寄せる真奈はやっぱり可愛い。
そんなことを、のんきに考えていたのだが。
「う、う、う・・ぁあ!ウスバカゲロウっ!ふふん!」
その余裕は、晴れやかな石塚の一言によって崩された。
「ぅええ、まだあったか・・えーと、う、う、う、う・・」
それでも。
・・晴れやかな顔も、
不機嫌そうないつもとのギャップが合わさって良いなぁ。
などと、やはりしっかり彼女の魅力を享受していたが。
さておき、うで始まりうで終わる言葉を探し始める池田だが、
正直言ってもう限界だなぁ、とも感じていた。
「う・・う・・う・・」
負けたくはない、とは勿論思っているものの、
しかしやはりもう言葉が見つからない。
「う・・う・・う・・う・・」
一分半程じっくりと考えた後、
観念したように首を振った後顔をしかめてから、口を開く。
「・・渦潮。」
「・・お?え、えーと、お、おはねぇ・・ぇへ・・」
悔しい思いを抱え、それを顔にも出していた池田だったが、
彼女の横顔を見た途端にそんな感情はどこかへ行ってしまった。
ある感情が、心の中を占めてしまったからである。
か・・可愛い・・!
その直後、彼女の顔を無意識に凝視してしまっていることに
気づいて慌てて顔を逸らすが、ニヤケは止まらなかった。
「お、おでしょ・・?お、お、おぉ・・んふふ・・」
池田と同様に彼女の口の端も
抑えきれないのだろう嬉しさによって、微妙に上がっている。
それだけではなく、目までもが笑っていた。
そんなに嬉しかったのか、と池田は思ったが、
感情をおおっぴらにするのが苦手な石塚ならではの可愛らしい姿を見て、
余程嬉しかったんだろうな、と結論づける。
そんな彼の横で、石塚はニヤケながら言った。
「お、お、お・・?あ、私の家・・」
あまりに熱中していたため一瞬、
わたしのいえ?わじゃなくておだけど・・と彼は思ったが、
石塚の指さす方向を見て、納得する。
家の前にある石柱に[石塚]という文字が彫られていたからだ。
近づいてみて感じたことを、彼は率直に口に出した。
「・・なんていうか・・石が・・」
彼の言う通り、石塚宅はどこを見ても石が目に入ってくる。
多いわけではないのだが、ちらほらと目立つところに置かれていた。
それを聞いて石塚は、予想通り、というような苦笑いを浮かべる。
「あ・・やっぱりそう思う?
家族構成上、なんていうかその・・石っていうか、
洞窟、とか、岩場って言えばいいのかな・・
とにかく、私も含めてそういうのが感じられると安心するのよ。
だから、こんなに石が見えるの。」
「へぇ・・え、じゃあさ?
石塚さんのお母さんも、メドゥーサなの?」
お父さんも、と訊かなかったのは、
彼が魔物娘についての基本的な知識を仕入れていたからである。
その上でのその質問だったのだが、彼女は首を横に振る。
「うぅん、違うわ。
エキドナ、っていうんだけど・・」
知ってる?という風に首を傾げる彼女。
「・・別の種族の魔物娘を生む蛇女・・ラミア型の魔物娘、だっけ?」
「へ?ああうん、そうだけど・・良く知ってるわね?
正直、知らないって言うと思ってたんだけど。」
直也君は知らなくて当然、と思っていたので、
存外すらすらと返されたことに石塚は目を丸くした。
そんな石塚に、池田は微笑む。
「ああ、ちょっとね。
図書館に行ってそういうのの本を借りてきた。
俺もなんて言うかその・・真奈に関することだし、
色々と知っておきたいなっていうか・・な。」
それを聞いて、石塚は表情をやや不機嫌そうにする。
「・・そういうことなら、私に直接聞いてくれればいいのに。」
怒っているのではない、
自分以外を頼ったことに対するちょっとした嫉妬。
勿論そんなこと知っている・・微笑ましいな。
「いや、でもさ・・真奈の口からは言いにくいこととかあるだろ?」
「・・たとえば何よ?」
半目になって聞き返す石塚に、
池田は視線をさまよわせてから、恥ずかしげに言う。
「例えば・・何を、か、糧にするか、とか?」
「あっ・・?あ、その、そ、それは、えぇとっ・・!」
その瞬間石塚は顔を真っ赤にし、
先程の池田以上に視線を顔ごときょろきょろとさまよわせた。
その様を見て、だから言ったじゃんといった感じに一回苦笑してから、
池田は慌てる彼女に軽く首を傾げてみせる。
「・・ね?」
「そ・・そうね、確かに・・そうだわ。」
彼女は渋々といった感じでそれを認めた。
その後で、仕切り直しといった風に咳払いをする。
「ん、んんっ。
と、とりあえず・・それは、それとして。」
そして、門を手で示した。
「・・ようこそ、直也君。」
その後。
池田は、石塚に連れられて彼女の部屋まで来て、座っていた。
棚に本が詰まっていることが目に付く部屋の中は、
汚くはなく、かといって別段綺麗という程でもなく。
言い換えてみれば、普通であった。
実の所、池田はそれを見て内心ホッとしていた。
汚かった場合は言うまでもないが、
潔癖性を疑うほどに綺麗であっても、それはそれで気を遣うからだ。
・・考えてみると失礼な話だよなーと、自虐してもいたが。
「ねぇ、直也君?」
そんな彼に石塚から声がかかる。
何?とそちらを振り向いた彼は、
石塚が苦笑を浮かべているのを見て、ん、と思った。
何か変なことをしたかな、と思っていると、彼女はゆっくりと口を開く。
「・・部屋をそんなにじっくり観察するように見られると、
ちょっと、その・・恥ずかしいんだけど。」
「え?・・あ、ごめん。
・・でも、俺そんなにじろじろ見てた?」
それを聞いて謝り、しかし続けてそう聞く池田。
問われた石塚は、首を横に振る。
「ううん、ジロジロ見てはいなかったわ。
・・でも、一言も発さないで顔を色々と動かしていたら、
誰だってそういうことは分かるわよ。」
「・・は、はは、そりゃそうだな・・」
言われた言葉に、池田は苦笑を返す。
対して石塚は、ふう、と息を吐いた後、首を傾げてこう訊いてくる。
「・・で?どうだったのかしら、私の部屋は。
あんなにじっくり見たって事は、何か気になるものでもあった?」
その首の傾げ具合が妙に魅力的に感じられたが、
とりあえずそれは置いておいて彼は質問に答えた。
「あ、いいや・・別に気になったものはないんだ。
強いて言えば、本が多いなぁってくらい。
・・やっぱり、好きなんだ?」
そして最後に聞き返す。
彼女はすぐには答えず、哀愁をその瞳に帯びさせた。
池田が不思議に思うと同時に、彼女は口を開く。
「ん・・まぁ、ね。」
その言い方は、好きなものを好きと肯定するという行為の割に、
やや暗い色を含んでいるように感じられる。
「へ〜・・」
それが気になって、つい生返事になってしまう池田。
「・・何よ?」
そんな彼の様子は、やはり彼女に気にかけられてしまった。
「あ、うんにゃ何でもない。」
取り繕うも、
「嘘ばっかり・・直也君は嘘つこうとすると、
妙に顔が真面目になったりおどけたりするからすぐに分かるのよ。」
すっぱりと切られてしまう。
「う・・」
そこまで細やかに理由まで言われたとあっては、
池田に誤魔化そうという気は起こせなかった。
だから、正直に白状することにしたのだった。
「・・えっと、な?
嫌だったら言わなくても良いんだけどさ。
その・・本を好きになった理由、とかって聞きたいんだ。」
「・・・・」
瞬間、予想通り石塚の表情がやや曇った。
「あ、いや、嫌だったら良いんだよ?」
慌てて止めようとするが、
「・・ううん、良いの。」
「う?うん・・」
首を振る石塚を見て、やめる。
その際池田の顔が曇ったのを見て、彼女は苦笑した。
「別に、そんな大仰な理由じゃないからね。
その・・私ってこういう、格好じゃない?」
言いながら、彼女は二人の間でのいつもの姿に戻る。
ジャージはいつの間にか脱げていた・・不思議パワーであろうか。
「・・うん。」
「だから、あんまり人が寄りつかなかったのよ。
で、仕方ないから本を読んでたらハマったってわけ。
・・どう?言った通り大した話じゃないでしょ?」
話し終わると彼女は、どこか自虐的な笑みを浮かべた。
「あ・・え・・と・・」
それを見て池田は、良く分からない感情に襲われる。
それが顔に出ていたのか、石塚は苦笑すると。
「ま・・でも、その・・そのおかげで、直也君に会えたんだし。
この体も、まぁ、受け入れてくれた人はいるもの。
今となっては・・そこまで悪いものじゃ、無いわ。」
そう言ってフォローするように付け加えたのだった。
しかし、池田の暗い気持ちは消えない。
どうにも、語る口調や表情から、
先程語られた以上の何か暗い理由があるように思えた。
「・・ねぇ、真奈?」
だから、呼びかける。
「ん、何?」
いつものように応える石塚。
それを見て、彼は何かを言おうとする。
しかし、上手くそれは言葉にはならない。
気持ちはあるのに、それがすっきりと言葉に出来ないもどかしさ。
「あーえと、その・・」
とりあえず、考えが纏まるまでの時間稼ぎ。
しかし、その稼いだ時間が使われることはなかった。
「・・別に、良いわよ。
そりゃあ、最初の内は悲しかったけどね。」
「え・・?」
「でも・・その・・い、今は、ちゃんと受け止めてくれる人がいるもの。
魔物娘でも身内でもなく、私自身を受け入れてくれた、人間が。
だから・・良いの。
・・直也君は・・私から逃げずに、ちゃんと見てくれたから・・」
そう言って石塚が彼の隣に這い寄り、肩に頭を乗せてきたからである。
蛇達は空気を読んだのか、普通の髪の毛の如く自然に流れていた。
「ま、真奈・・」
恥ずかしくなりながらも、珍しく素直な彼女の方を向く池田。
すると彼女は、ゆっくりと顔を彼に向けた。
そして、いつものような不機嫌な顔でこう言う。
「・・こんなこと、言わせないでよ。
恥ずかしいん、だから・・もう。」
「・・ごめん。」
それが照れ隠しであることを分かりつつも、
どうすればいいのか分からず、とりあえず謝る池田。
そんな彼に、さらに彼女は不機嫌そうになった。
「別に・・謝って欲しいわけじゃ、ないんだけど・・」
しかし、どれほど不機嫌そうであっても
その顔はずっと自分の方を向いたまま。
それを感じていた池田は、何かしてやりたい、と思っていた。
何をすればいいか、分からない。
自分の中で蠢き逆巻く感情も、どうすれば良いか分からない。
しかし、何もしないでは居られない。
そんな状態になった彼は。
「ぁ・・」
何も言わずに体の向きを変え、彼女の体を抱きしめていた。
首同士を触れ合うくらいに近づけ、腕を相手の体全体を包むように回す。
顎を肩にちょんと乗せ、腕全体で抱きしめる。
優しく傷つけぬように、しかし、しっかり。
手の先から伝わってくるのは、自分と比べるとやや低めの体温。
「直也、君・・?」
それを池田がゆっくりと味わうよりも先に、石塚は彼の名を口に出す。
意外そうな声音に彼は、
首から上だけを彼女の顔が見えるくらいに離した後、俯いて語り始める。
俯いたのは、言おうとしていることがあやふやであったからだ。
「・・自分でも、良く分からないんだけどさ。
何となく、こうしたくなったんだ。」
言葉にならない、微妙な感情。
そうとしか言えないそれをそのままに語る。
「・・っふぅ、もっと上手く言えればいいんだけど・・
良く分からないんだ、本当に。」
そして彼は、苦笑しつつ顔を上げた。
当然、石塚の横顔はそこにある。
その石塚の顔はというと。
「・・そう・・」
微笑んでいた。
それはいつもの不機嫌そうな顔ではなく。
しりとりの最中に見せたあの子供っぽい笑顔でもなかった。
柔らかに彼女は、池田の方を斜めに見上げて微笑んでいた。
そこにある感情は、良く分からない。
明るい感情なのだろうということは、推測できた。
でなければ、こんなにも可憐には映らないだろうから。
しかし、細かいことは分からなかった。
・・なんだか、同じだな。
そう彼が思っていると石塚はおもむろに、
彼を真正面から見据えられるように体の向きを変える。
「っ・・」
そして来た、先程とは違う真正面からの、彼女の微笑み。
池田は、顔が熱くなるのを感じていた。
そのまま言葉を発せないでいると、
彼女はゆっくりと彼の首もとに自らの側頭部を押し当てる。
そして蛇の体をくねらせ、彼の腰や背中の辺りを後ろから包み込んだ後、
自分がされているように彼の背中に手を回し、言った。
「私もね、何で今こうしているのか、分からない。
直也君にこうされたとき、びっくり、したはずなんだけど・・
気づくととっても暖かくて心地良かった・・」
半ば独白のようなそれを、池田は黙って聞く。
「ふふ、実は諦めてたんだ・・こういう風にされるの。
あ、直也君に会う前の事よ?怖がられ続けてたから・・ね?
でもそうやって諦めた、って強がってみても、結局・・欲しがってた。
こういう風に、暖かい、自分を包んでくれる人を。」
そこまで言うと石塚は、再び池田を見上げた。
二人の距離はさっきよりも、近い。
「・・なんて、言ってみたけれど。
やっぱりはっきりとは分からないわ、結局なんでこうしたのかは。」
そんな近い距離なのも構わず、石塚は微笑む。
「・・そっか。」
対して池田も、今度は微笑みで返す。
池田本人は意識してはいなかったが、その返し方は、
付き合う前に図書室であったやりとりの中でのそれと、全く同じである。
それが安心感を与えたのか、
石塚はもう一度彼の首筋にしなだれかかってきた。
確かめるように顔を擦り付けた後、
安心したように、ほぅ・・と息を吐くと、こう言う。
「でも・・良いわ。
今はそんなどうでもいいことより・・」
そして彼を舐め上げるように視線を動かした後目を細め、
甘えるような声音で、続けた。
「直也君がこうして私の傍にいてくれることの方が、大事だから・・」
それを真正面から受けた池田は、もう顔が熱いなどというものではない。
心臓は死ぬのではないかという程の早鐘を打っていた。
加えて、それとは別に熱い何かが胸の奥から沸き上がってきてもいた。
その熱い何かは池田の腕を、ゆっくりと彼女の肩まで動かす。
そして次に彼の口を動かした。
「・・真奈・・」
たった一言。
そのたった一言だけで石塚は、
池田がどんな感情を抱いているか理解したようで、うん・・と頷く。
それを合図にして池田は、ゆっくりと彼女の唇に自分のそれを重ねた。
「あん・・んむ・・」
ゆっくりと優しく、唇を動かす。
そうすると、柔らかい感触と甘い香りが、池田の中の男を刺激する。
「ん・・はぁ、む・・ん・・」
しかし、刺激されているのは何も彼だけではなかった。
石塚もまた、彼の感覚に刺激されていた。
「あむ・・っ、む・・」
挟み込んでくる事もなく、ただただ唇同士を触れ合わせるだけ。
強引でない・・臆病とも意気地無しとも言える動かし方。
でも、そんな優しい動かし方は、
まるで池田直也という人間を体現しているかのようで。
「ん・・あ、ぁむ・・」
縋るように、彼の唇を求める。
体から力が抜けるのも構わず、それだけを。
気づけば彼女は、体重のほとんどを池田に預けていた。
「んむぅ・・?」
石塚からかかってくる重みが増したことに気づいた池田は、
ゆっくりと足を伸ばして、体を後ろに倒し自重を彼女の蛇体に乗せる。
「ん、んむ・・」
その間も彼女からの求めは続く。
気持ちよさに思わず顔を引いてしまっても、
逃がさないとばかりに先読みして追ってくる。
顔の角度を変え、一番逃げにくい方向へと導かれてしまう。
そしてキスそのものも、自分より数倍は上手い。
「ん、ふぁ・・っ・・」
不慣れながらもそれに応える池田だったが、
気持ちよさにペースが乱れて息が限界となり、口を離した。
「ぁ・・」
石塚はというと、彼の胸元に顎を乗せて名残惜しそうにしている。
しょうがないな・・と思った池田は、
彼女を抱きしめていた両腕の内、右手を彼女の頭に持っていった。
「ん・・」
そのまま彼女の頭を撫でながら、言う。
「真奈。
初めての、キス・・だな。」
それを聞いて石塚は、はっとしたように目を少し見開いた。
「あ・・うん・・そう言えば、そうね・・」
どうやら、それすらも忘れるほどに気持ちよかったらしい。
それは、彼にとって嬉しかった。
「なんだか・・不思議な感じ・・。
直也君って人が、そのまま出てたって言うのかしら・・」
「・・へぇ?良く分かんないけど・・
俺、真奈とキスしてるとき・・気持ちよかったよ。」
「・・私も・・」
「そっか・・」
会話をそこで止め、微笑み合う二人。
超至近距離にある相手の顔を見ながら、ただただ過ごす。
言葉はない。
それでも、相手の顔を見ているだけで安心できる。
そんな雰囲気に包まれた石塚と池田は、それに任せて再び唇を重ね・・
ぐぅ〜・・
無かった。
唐突に、石塚のお腹が鳴いたからだ。
「・・こういうこと、前にもあったな。」
先程からの微笑みのまま、池田は言う。
「あのときは確か・・直也君の方だった、かしら?」
石塚も、同じような表情でそう返した。
「・・・・ぅ。」
直後彼女は思い出したように、
赤くした顔を横にして、ゆっくりと池田の胸に押し当てた。
彼には、恥じらった理由が良く分からなかったが、
彼女がお腹が空いているということは、分かった。
だから、こう提案する。
「・・じゃあ、何か作ろうか。
って言っても俺、
料理あんまり出来ないから手伝ってもらうことになるだろうけど。」
それを、内心やや不満げに聞いていた石塚だったが、
手伝ってもらう、という言葉が出た瞬間その表情をほころばせた。
「まぁ・・手伝ってあげるわ。
勝手に作られて、分量を間違われても困るし。」
言葉とは裏腹に好意的なその笑顔に、
あぁ可愛いなあ、と思いながら、池田はこう返した。
「ん・・頼むよ。」
等というやりとりはしていたものの。
「直也君、水注いでもらっていい?」
「分かった。」
「なおやん、そこに置いてる蓋取って〜」
「・・これ?」
「そそ、ありがと〜」
「真奈、皿出しとくよ。」
「ん、ありがと・・」
焼きそば、炒飯、冷やし中華くらいしか作った事がない池田は、
謙遜ではなく本当に料理経験が少ないので、
手伝ってもらうというより、手伝わせてもらっている状態だった。
ちなみに作ったのは焼きそばである。
「あの手際・・本当に、あんまり作ったこと無いのね。」
箸で綺麗に麺を食べながら、石塚は苦笑とともに言った。
「・・恥ずかしながら、ね。」
そう返す割に、そこまで恥ずかしがらずに食べる池田。
彼の食事に対する意識が、それほど高くはないからだ。
野菜が足りなければ、キャベツ辺りをちぎって何かをかけ、
魚が足りなければ、キッチンペーパーを敷いてレンジの機能で焼く。
肉の場合も、フライパンを使って焼く程度ならば出来る。
卵も同様である。
要するに彼は、慣れていないので手際が悪い以外はそう悪くないのだ。
それは、石塚も感じ取っていた。
「でも、そう悪くはないと思うけどなー?
漫画とかの決まり切った料理下手みたいな事はやらかさなかったし。」
頭の蛇が代弁する。
言われた池田は、今度は恥ずかしそうに答えた。
「いや・・あの、恥ずかしながら・・ちょっと面倒っていうか・・」
「・・致命的ね。」
石塚は苦笑する。
手間を加えて、食材を美味しいものにする料理という行動において、
一番の障壁となる感情だからだ。
しかし、それならそれで一つ気になることを彼女は見つけた。
「っん・・ねぇ?だったら、料理したときはどういう動機だったの?」
ラストに取っておいた大好きな肉を飲み込んでから、それを問う。
「んぐ・・んっ・・んー?」
池田は最後の麺を飲み込んでから、思い出すように見上げる。
「んー・・あぁ、そうだ。」
やがて、何かを思い出して軽く頷くと彼は、石塚の方を見て言った。
「確か、いつか一人暮らしする時に役立つから出来るようになれって、
母さんに言われたんだったかな。」
「ぇ・・・・」
「・・真奈?」
言い終わってから池田は、石塚が不安そうにしているのに気づく。
どうしたんだ、と聞こうとしたがその直後に、
石塚はゆっくりと彼の方へ顔を向けた。
表現するなら、恐る恐る、と言ったところだろうか。
何か、不安にさせるようなこと言ったっけ・・と池田は考える。
しかし思い当たらないので困惑していると、石塚は口を開いた。
「・・一人暮らし・・するの?」
「・・え?」
深刻な表情や声音に釣り合わない、あまりに単純な質問。
それを聞き池田は。
「いやぁ、可能性の話だよ。
いつか・・って言ったでしょ?
いつかそうなったときの為に・・ってこと。
まぁ俺としても体調は崩したくないし・・その、
料理とか出来たら好きになった人に作れるなーなんて思ったしさ。
だから、ちょっとは出来るようになっとこうって。」
軽く思い出話でもするかのようにそう語った。
表情で、大した理由じゃないでしょ、と言いながら。
実はこれ、石塚にしてみれば重要な事であった。
料理を作る動機のことではない。
一人暮らしをするかどうか、だ。
簡単に説明すると彼女の脳内では、
一人暮らしをするということが、どこかへ出て行く、
つまり、離れ離れになる、ということに繋がっていたのである。
それは、もしもの可能性の話であって、
聞く限り池田にその気も無さそうであった。
そう分かって彼女は、安心と早とちりによる羞恥を覚える。
「そ、そう・・」
その感情を顔に出し、彼女は短く呟いた。
恥ずかしさに俯いていたので、それは見えなかったが。
「・・好きな人に、作ってもらってる現状だけどね。」
しかし感じ取ることは出来た池田は、それを払拭するために、
彼女が突っ込んでくるような言葉を選んだ。
狙いは「うん・・ふふ、情けないわね?」辺りである。
「・・ふふ、そうね。」
顔を持ち上げた彼女は、机の上に組んだ腕にそれを乗せ、こちらを向く。
そこまでは彼の予想通り。
しかし次に取った行動は予想の外だった。
ふわり、と滅多に見せない微笑みを浮かべると。
「・・だったら、いつか作ってもらえる日を楽しみにしておくわ。」
と、そう言ったのだ。
何とも嬉しい誤算である。
「あ、ああ・・」
そのあまりの破壊力に、彼は赤くなって目を逸らした。
「ふふ・・」
石塚は、にやにやとした笑みを浮かべて見守ってくる。
いつもと違うその様子に彼は耐えきれなくなり、
「そ、そろそろ、皿片付けなきゃ。」
そう言って、自分の家と同様に隣り合っているキッチンを目指し、
逃げるように立ち上がった。
しかし、彼は逃げることは出来なかった。
「・・・・・・ふふ。」
皿を運んでいる間も、皿に水をためている間も、
「ふふ・・」
スポンジで洗剤を泡立てている時も。
「・・ふふふ・・」
ついには洗い終わって、乾燥機の中に突っ込んだ後でさえ。
「・・・・んふ。」
ずっと、ず〜っと、石塚は笑って池田を見ていたからだ。
「・・真奈。」
流石に耐え切れなくなって彼は彼女に苦笑を向ける。
無論、そこに込められた意味を彼女は理解していた。
「何かしら?」
理解していた・・が、構わずそのままの顔で彼女は問う。
池田に、言わせたいのだ。
理由を言うならばそれは、出来心、というやつであろうか。
「・・その、恥ずかしいん、だけど。」
その狙い通りに池田はそれを口にする。
しかし、それだけで彼女の企みは止まらない。
「・・私から、微笑まれ続けるのは・・イヤ?」
そう言って小首を傾げ、やや不安そうな顔をしてみせる石塚。
いつもの様子からすれば明らかな演技である。
「え・・!?あ・・や、そういう訳じゃ・・」
しかし、珍しい、というか滅多にない事でもあるので、
彼にはそれが有効打として機能していた。
慌てる彼がおもしろくて、石塚はもう少し意地悪してみる。
「でも・・」
してみた、は良いものの。
そこから先を考えることが出来ないでいた。
もとより、素直ではないがひねくれている訳でもない彼女。
そんな彼女が、男を手玉に取るように言葉を繰る事が出来るだろうか。
「・・で、でも・・?」
「でも・・」
いや、出来ない。
だから、言葉に詰まってしまう。
そんな石塚を見ているうちに、池田は少し落ち着いた。
「・・真奈。」
ちょっとした疑いを瞳に浮かべて、微妙な表情で彼女を彼は見る。
それを受けて、石塚は。
「・・何?」
焦っていた。
すっごく焦っていた。
しているのは、ついさっきとほぼ同じやり取りなのに、
双方の感情は真逆と言っても良いくらいである。
「もしかして、ちょっと弄くろうとしてた?」
もはや疑いを確実なものとした池田は、そう訊いてみた。
「・・・・・・」
石塚は、正面から池田を見たまま答えない。
「・・・・・・・・」
彼も、何も言わずにそれを見つめる。
「・・・・・・」
突如石塚がテーブルの上に腕を組み、顎を乗せた。
その頬は赤い。
それを見て彼は、しょうがないなぁ、という風に心中でため息をついた。
「・・・・うん。」
直後石塚が小さな声で、言う。
その様はまさに、悪戯のばれた子供だ。
それを可愛らしく思いながら彼は、石塚の隣にまた座る。
「まぁ・・別に良いけどね。」
元より、弄くろうとしていたことを咎める気もなかったので、
微笑みつつそう言って彼女の頭を撫でる。
石塚は赤くした顔を上げながら、白状するように語った。
「・・だって、直也君が慌てたり恥ずかしがったりする事なんて、
そうそう無いんだもの・・つい・・」
聞いて池田は、そうだっけ、と軽く応じる。
対して彼女はどこかいじけたようにそっぽを向き、ええ、と言う。
池田は微笑みながら、思ったことを正直に口に出した。
「・・子供っぽいところあるよな、真奈って。」
それを聞いた石塚は、顔の赤みはそのままに表情を険しくする。
「どこがよ。」
しかし池田はその顔を見て、更に笑みを深くした。
「そういうところが、だよ。」
そうされた石塚は、拗ねたように言う。
「・・そういう直也君は、大人ぶってるように見えるけど。」
「うん・・まぁ、そうかも。」
あくまで慌てず笑う池田。
そんな彼に、石塚はついに完全に背を向けた。
「・・ずるいわよ、直也君は。
自分だけそうやって慌てないで・・」
顔が見えないようにしておいて、そう言う。
そういうのがまさに子供なんだよなぁ・・と思いながら、
池田はふぅと短く息を吐く。
「って、言われてもね・・。
真奈が俺よりもちょっと慌てやすいだけじゃないかな。
ほら、よく言うでしょ、慌てる人が居ると逆に落ち着くって。」
そしてそう言った訳なのだが。
「・・フォローになってないわよ。」
返ってきたのはそんな言葉。
どうやら、彼女はフォローが欲しかったらしい。
と、思った池田はこう返す。
「あー・・慌てたりする方が、俺は可愛いと思うけど。」
「・・そう?」
瞬間、石塚の雰囲気が先程よりは柔らかなものに変わる。
ちょっとは上手くいったかな?と、思う池田。
そんな彼をよそに、石塚は上の方を向いて細々と呟いた。
「実はね・・」
後に何かが続く言葉。
「・・・・」
しかし、待っていても彼女からの言葉は続いてこない。
「・・え、何?」
不思議に思った池田が、その続きを促したその直後。
「っわ!?」
池田は素っ頓狂な声を上げ、石塚の方へと倒れ込んだ。
後ろから、重たい筋肉質な何かに動かされたのだ。
もっと言うなら、巻き込まれるような感じだった。
突然のことに何事かと戸惑い、とっさに目を閉じてしまう池田。
体の前方から感じる感触は柔らかく、少し冷たい。
真奈の体だな・・気持ちいい。
そんな風に彼が考えていると今度は、
胴への四方からの締め付けるような感触が襲いかかる。
「っう・・!」
その感触に彼は身を硬くする。
しかし、しばらくして冷静になってから、あまりきつくない事に気づく。
ギュウギュウと締め付けられている事は締め付けられているのだが、
息苦しい感じはしないのだ。
少し待ってみるが、今感じている以上の刺激は来そうになかった。
やや落ち着いてきたところで、ゆっくりと目を開ける。
「・・さっきの続き。」
その瞬間、そんな声が聞こえた。
声の主は目の前の微笑み顔。
「・・ぅえ?」
いつの間にか石塚が体を反転させていたこと、
加えて彼女の言った事の意味が分からないことの二つに、
池田はほうけたような声を出す。
それを見て、彼女は更に笑みを深くする。
「実はね・・私も、慌てたりぼけっとしたりしてるあんたが好き。」
「・・・・」
口を開けたまま無言になってしまう池田。
そんな彼に石塚は続ける。
「ふふ・・直也君は、不意打ちに・・
それも、初めてのことに関しては特に弱いから。
だから、こうやって・・ね。」
言葉を切り、体に力を入れるような仕草をする彼女。
「っ?」
すると、池田の体がゆっくりと彼女の方に動いた。
彼は何もしていないのに、である。
ふと、自分の体の周囲を見回す。
そこにはくすんだ青みがかった蛇腹があった。
「あ・・」
やっと彼は、さっきからの感触が彼女の体であると気づく。
「・・やっぱり、びっくりするのね。
ふふ・・何度も見てるのに。」
口を開ける彼に、石塚は微笑んだまま顔を近づける。
恥ずかしくなって彼は顔を背けようとするが、
細く冷たい尻尾の先が、それを無理矢理彼女の方に向けさせた。
「あー・・えと、ま、真奈?」
顔の赤みを深くして、視線だけでも何とか逸らそうとする池田。
「・・なぁに?」
その先からのぞき込みつつ、笑みを深くする石塚。
「は、恥ずかしいん・・だけど・・」
また視線を逸らす池田。
「うん・・知ってるわ。」
石塚は追いかける。
「え・・えっと・・」
「・・ふふ・・」
そのまま何回か、鬼が明らかに有利な視線の鬼ごっこをしていると。
「・・ね、池田君?」
池田の体に対して正面の位置で、石塚がいきなりそう言う。
「っ!な、何?」
名前でなく名字で呼ばれたことに池田は言いしれぬ不安感を感じ、
つい真正面からその顔を見つめてしまう。
その時見つめたその先の中央辺りから、
二筋の仄かな怪しい光が走ってくるのを彼は見た。
それに驚いて彼は、何回か瞬きする。
「ふふ・・驚いた?」
その後目を開けるが、そこにあるのは変わらぬ自らの彼女の微笑み。
どうやら、驚かせるために呼び方を変えてみたらしい。
そのことは素直に微笑ましく思いつつ、
仄かなあの光について彼は考え始めた。
最初の頃のあの光っぽいけど、体は石にはなってないし・・と、
訝しみつつ彼はとりあえず、さっきまでと同じように視線を逸らす。
「・・!?」
・・出来なかった。
いや、さっきまでも出来ていたとは言えない状態だったのだが、
それでも一応、申し訳程度には動かせたのだ。
しかし、今はそれすらも出来ない。
首の辺りがずぅん、と重たくて動かせないのだ。
「・・まさか。」
ある一つの可能性を思いついた池田は、
石塚が微笑む中手を動かし自分の首を触ってみる。
そこからは、ひんやり冷たい硬質の手触りが返ってきた。
「これって・・」
呟きつつ彼は目を石塚の方に向ける。
「ふふ、そうよ。」
彼女は笑って頷くと、続ける。
「直也君に姿がバレた時は全身を固めちゃったけど・・
こうやって、部分的に固めることも出来るの。」
そして、驚愕からか開きっぱなしの池田の口へ、自分のそれを重ねた。
「ふぁんっ・・」
今日何回目かの柔らかい感触。
しかし、それは今回は長続きしなかった。
石塚がさっと唇を離したからだ。
「あ・・」
名残惜しそうに声を漏らしてしまう池田。
彼女はそれを見て微笑みながら、こう言った。
「・・もう、逃げられないわね・・?」
「へ・・」
言い方がやや気取ったような感じであったことに、彼は目を丸くする。
それだけで、彼が何を思ったのか感じ取った石塚は、首を傾げてみせた。
「ふふ・・物語だったら、こんな感じかなぁって思って。
・・さ、どうする勇者さん?暴れる?怯える?命乞いをする?」
その口元は、とても楽しそうに歪まされている。
自らの姿が異形であることを利用して、遊んでいるのだ。
そうと分かった彼は。
「その蛇がヒロインで・・主人公が惚れてることが見透かされてたら?」
そう言って挑発的に笑ってみせる。
「そう・・ふふ、いけない勇者さんね・・」
彼の順応性の高さを嬉しく思いながら、石塚は妖しく微笑んだ。
その笑みに含まれた嗜虐性に思わず背を震わせた後、
彼はなおも挑発的にこう言う。
「っ・・だとしたら、どうする・・?」
完全に誘っている言葉。
石塚の我慢は限界を迎えた。
「・・分かり切ったこと・・勇者じゃいられなくしてあげる・・!」
顔を火照らせながら、彼の口を塞ぎにかかる。
彼の唇と彼女の唇。
ふたつの赤が重なり合おうとしたその瞬間。
「ぅいーす!ただいま!まな・・こ・・」
その良い雰囲気をぶちこわす、招かれざる客が部屋に入ってきた。
それから、少しして。
「はは・・まぁ、悪かったよ。」
ソファ前に立った闖入者は、そこに座る自らの妹に笑って謝っていた。
「うっさい!せっかく・・!せっかく、直也君と!」
その妹はというと、顔を真っ赤にして涙目になりながら、
自分が一番大切にしている、隣に座る男子に全身で抱きついている。
「ま、真奈・・落ち着いてとは言わないけど、
とりあえず、今しかいられないわけじゃないんだからさ・・」
その男子はというと、苦笑いを浮かべながらそう言ってなだめていた。
「むー・・だって・・!」
縋るように彼を見つめる石塚。
その様を見て闖入者は、苦笑いしながら言った。
「あー・・その、さ。
あたしは六時になったら、カレシんところ遊びに行くから。
それから泊まりで居ねえから、だから機嫌なおしてくれよ、真奈子。」
「・・嘘じゃない?」
睨みつける石塚。
闖入者は肩を竦めてぼやく。
「・・同じ鬼でもアカオニとかアオオニなら、
こういうとき疑われずにすむんかね・・ああ、嘘じゃねえよ。」
「・・ホントにホント?」
それでも疑う彼女に、闖入者は笑って小指を突き出す。
「なんなら・・これ、するか?」
「・・・・いい。」
そうまでされてやっと石塚は、その件への追及をやめた。
闖入者は苦笑すると、今度は池田の方へ向き直る。
「で・・お前さんは、見たところ・・真奈子の彼氏だね。
・・ほー・・へぇー・・ふーん・・?」
そして品定めするかのように、顎に手を当てつつ彼を眺めた。
「えー・・と・・」
何となく気まずくなり、体を揺すりながら彼は視線を逸らす。
「・・姉さん。」
それを感じて、石塚の雰囲気がまた冷たく刺々しいものへと変わる。
しかし引き起こした本人はというと、動じずに姿勢を自然体へと戻した。
「はは、悪い悪い。
真奈子がここまで反応するんだ、関係を疑うのは野暮ってもんだな。
・・っううん・・」
続けて咳払いをする。
その行動は、石塚と池田を彼女の方へと向き直らせた。
二人の内池田の方に、彼女は手を差し出す。
「ま、とりあえず。
聞いてりゃ分かってるだろうが、あたしは真奈子の姉ちゃん。
種族はオーガで、名前は陽子ってんだ。」
「あ・・はい、俺は池田直也です。
こっちこそよろしくお願いします。」
差し出された手を握り返す池田。
「っひひ、硬えなぁ・・おう、よろしくさん。」
陽子はそう言って笑う。
池田も、言葉こそ無けれど笑っていた。
その様を見た石塚は一人、やきもちのような、もしくは、
蚊帳の外に居ることから来る寂寥感のようなものを味わっていた。
「・・・・・・」
勿論、それを言葉に出せる程子供ではなかったが、
むしろ言葉に出せない事が今は、恨めしい。
そう彼女が思っていると。
「・・真奈、どうかした?」
突如池田がそう言って彼女を見下ろしてきた。
「ひぇ?」
全くアプローチを仕掛けた覚えもない彼女は、変な声を出してしまう。
その事を内心恥ずかしく思いながら見返した先の池田は、笑っていた。
「だって蛇が小さな声で、なおやん、いっしーと話してよ、
って俺に言ってきたんだ。
だから、何か言いたい事とかあるのかなぁと。」
そしてそんな事を言う。
また蛇が余計なことをしたのか、といつもの考え方を巡らせながら、
それでも池田と話す為の切っ掛けを与えてくれたことには感謝しつつ、
言葉を返そうとする。
「ほぇ〜・・石塚の蛇が喋ったのかぁ!」
しかし、場に響いたのは彼女の声ではなかった。
この姉は・・ッ!と瞳の奥で憎悪の炎を燃え上がらせる石塚。
「・・真奈。」
池田はそれに気づいて彼女の体に触れ、何かを言おうとする。
「これまで母ちゃん以外には話さなかったあいつらがかい!
へぇ〜・・石塚に好かれるなんてスゲエ奴だと思ってたが、
まさか、ここまで懐かせてるたぁねえ!」
だが、そんなことに気づかない鈍感な姉がべらべらと話してくれたので。
「・・っさい。」
「あ?どうした真奈子。」
「うっさい!こっから出てって!彼氏の家にもう行けばいいでしょ!」
石塚は、わき上がる感情のままにそう喚いてしまっていた。
その後。
「はは、悪かったな。
んじゃ・・お望み通り、カレシんとこ行ってくるよ。
ちぃっとはええけどまぁ、大丈夫だろうし。
・・二人とも、留守よろしくな。」
締め出されるような形となったにも関わらず、陽子はそう言うと、
気にしてねぇよ、というような表情で笑った後、家から出て行った。
対して、締め出した方の石塚は。
「ぅ〜・・」
落ち込んでいた。
口からつい出たとはいえ、わりかしいつも苛立たせられているとはいえ、
あんな風に追い出してしまったのだ、それは気に病むというものである。
・・では、そうしなければ良かったではないか。
と、いうことになるのだが、それが正論なのも分かっているのだが。
不思慮なことをいつも無遠慮に言ってくる姉だぞ、という気持ちと、
あの時の自分の感情の末にたどり着いた、
二人きりというこの状況を喜びたい気持ちもあった。
しかしながらそこに至るまでの過程は褒められたものでは、ない。
「・・」
だからやはりどうにも喜べるものでは・・
「真奈。」
彼女がそう思っていると、池田は優しく声をかけてきた。
「・・何?」
短く答える。
暗く素っ気なく重い、
落ち込んでいるのがありありと分かってしまう声音。
発言した後でそれを感じて、
これじゃあ、直也君に気を遣わせるだけじゃない・・と、
内心更に落ち込む。
そんな彼女をよそに、彼は世間話をするかのような調子で訊く。
「陽子さんと真奈って、いつもこう?」
「・・ううん、大体同じだけど、いつもはもうちょっと・・」
答える彼女だったが、語尾の方が弱くなってしまう。
先程から感じている罪悪感を意識してしまったからだ。
俯いてしまう彼女。
「・・やっぱり。」
しかし、そんな石塚とは対照的に、池田は得心したように頷いた。
「な・・何がよ。」
弾かれたように振り返った後、彼女は問う。
すると池田は表情を穏やかにして、こう言った。
「きっと、陽子さんは俺達を二人きりにするために、
真奈をわざと怒らせたんじゃないかなって事。」
「・・は?」
「だって、真奈があんなに怒ったのに、陽子さんは笑ってたでしょ。
いつもはああじゃないなら、もっと驚いたりとかすると思うんだけど。」
「・・・・」
「どう、かな?」
考え込む石塚。
そう言われればそのような気もしてくる。
しかしながら、あのガサツな姉に気を使われたというのを認めるのは、
なんだか癪でもあった。
それに、それが本当であるならば、
上手く乗せられて自分は叫んだという事になるではないか。
・・もしそうだったなら、納得がいかない。
そう結論づけた彼女は。
「・・・・逆よ。」
むすっとして短く呟いた。
「え?」
「私を気遣ったんじゃなくって自分が早く行きたかったのよ、きっと。」
自分の顔を見つめてくる池田に、彼女は目を横に逸らしながら続ける。
「だって、そうじゃなかったら・・そうじゃ、なかったら。
なんか・・なんか・・その・・」
文句を言おうとしたもののその後に言葉が続かない。
二人きりにしてくれたこと、それ自体はとてもありがたいのだから。
「・・真奈。」
彼女の様を見て池田は、微笑みながらゆっくりとその頭を撫でる。
「ん・・何よ。」
不満そうな表情を浮かべながら顔を背けつつ、体重は彼に寄せる石塚。
そんな彼女を微笑ましく思い、
自らに寄りかかってくるその体に両手を回しながら、彼は続けた。
「とりあえず、この事はおいといてさ。
今は、二人っきりの時間を楽しもう?」
紆余曲折を経て手に入れた念願の状況、
そこに至るまでの過程や思惑についての思考を放棄して、
彼の言う通りにただ楽しむのも確かに・・悪くはない。
「・・・・それも、そうね。」
少しの逡巡の後、石塚は体を捻り彼の胸元に後頭部を預ける。
すぐさま彼女の頭髪が彼の首元に体を擦り付けるが、
それを振り払うこともしないほど、彼女は実は上機嫌になりつつあった。
絡み付かれた方の池田も、
時々顎の下に来る感触にくすぐったくなって顔を動かす以外は、
ほとんど全く動かずに彼女の全身を抱き締めている。
「・・・・・・」
同じ方向を向いて、無言。
窓から穏やかに差し込んでくる昼下がりの陽光と、
それよりも幾分か暖かい池田の体。
正面と背後の両方から感じる、心地良い温もり。
「・・っぅ・・」
それを感じたとあっては、
石塚の上半身がカクッ・・と横下斜めにズレるのも無理からぬ事だった。
「ん、真奈・・?」
彼女の肩を腕の輪で受け止めながら、
池田は眼下の揺れる頭に呼びかける。
「ん・・」
返ってきたのは、短くあやふやな言葉のようなもの。
返事なのかただの反射的な動きに伴うものなのか、はっきりしない。
微笑ましいような、一方では困ってしまったような気持ちになって、
池田は次の石塚の行動を待つ。
「・・・・」
しかし、彼女の体は全く動かない。
かつ、言葉を発することもなく。
・・参ったな、これじゃどう対応したものか。
そう困惑する一方で、まぁこのままでも良いんだけど・・と、
腕の中から感じられる温もりを享受する事も、考え始めた池田。
その時である。
石塚の体がぐらりと揺れたのは。
「っおぅっ・・と・・」
やや驚きつつ、少しだけ腕に力を込める池田。
「ん、んぅ・・?」
ガクン、と揺れたであろう石塚はそれに反応して、
ゆっくりと頭を持ち上げ、覚醒するかのような素振りを見せた。
それに、お・・?と心で呟きながら、
次に何が起きるのか池田はやんわりと身構える。
予想は、ゆっくりとこちらを振り向く動作だ。
「ん・・直也、く・・ん・・ぅ・・」
しかしながら、石塚の行動はそれに反するものだった。
夢うつつ、というような風でもぞもぞと上半身を動かしたかと思うと、
池田の肩と胸の間に出来た隙間にその後頭部を預け。
「んぅ・・ん・・すぅ・・ん、ふふ・・」
そのまま、寝入った。
「・・・・・・」
驚きから絶句する池田。
だがその驚愕の表情は、すぐに微笑みへと変わった。
「・・ふぅ・・」
小さく息を吐きつつ彼は、
自らの体を布団と枕にして眠る石塚に優しい眼差しを向ける。
そして彼はそのままゆっくりと体を後ろの方へと傾け、
柔らかいソファに体重を押しつけていった。
いかに石塚が自らの愛らしい彼女であったとしても、
何にももたれずに支えるのは流石に堪えるためだ。
そうし終わってから、彼はもう一度自らの腕の中を覗き込む。
「ん・・」
その視線の先には先程と全く変わらぬ石塚の姿。
静かに寝息を立てる彼女は、安心しきっていて、とても幸せそうである。
それを見て、微笑ましく思うとともにどこか安心する。
だから、というわけではないだろうが・・
「ん・・ふ、ぁああ・・」
池田自身も、欠伸をしてしまっていた。
「ぁ・・ふふ・・」
何となく恥ずかしくなり苦笑する一方で、
このまま寝てしまおうか、とも思う。
しかし、だ・・誰か来たらあれだし・・と、何とか持ち直そうとする。
「ん、あぁふぁあああ・・」
しかし、欠伸は再び彼の口の中から吐き出された。
これはもぅ・・寝てしまった方が良いかな・・と思っていると、
彼の首元を細い何かがつついてきた。
その刺激の犯人を思い浮かべながらそちらを向くと、
予想通りのものが彼の方を向いている。
それは、半分閉じかけている彼の目を見ながらこう言った。
「なおやん。
寝ちゃいたいならユー寝ちゃいなよ。
もし起きなきゃいけなくなったら、私たちが起こすからさ。」
どうやら、自分を気遣ってくれたらしい。
「ん・・ありがとう。
じゃ、そうさせてもらおぅかな・・」
その気遣いを素直に嬉しく思いながら、彼はそう返し、
そのまま目を閉じて、意識を沈めていった。
それからしばらく経って、カラスと一緒に帰る時間がとっくに過ぎて、
月の光が自己主張を始めた辺りの時間帯。
「ん、んぅ・・?」
そんな、誰もが夜と認める頃になってから、やっと池田は目を覚ました。
「ん・・ぅう・・」
ぼやける視界を改めるように何回か瞬きをする。
直後、目の前で何かが揺れ動くのが見えた。
「ん・・?」
寝ぼけ眼を瞬かせ、その正体を見極めようとする。
「ふふ。」
直後、微かに笑うような声が聞こえた。
と同時に額の辺りを何かがつんつんとつついてくる。
・・これは、この細いのはアレだな。
「・・真奈。」
苦笑とともに刺激の犯人の名を口に出し、彼は何回か瞬きをする。
はっきりした視界の中に映った顔は、にやにやと笑みを浮かべていた。
「おはよう・・ふふ。」
そのままの表情で、目覚めの挨拶をしてくる。
その穏やかな表情はなかなかに見られないレアなものだ。
「ん・・おはよう。」
だから、池田も嬉しくなって同じような表情になった。
「ええ・・」
すると次に石塚はゆっくりと顔を近づけて来る。
妖艶と言うにはやや冷たさや鋭さが勝るものの、
そうだからこその独特の魅力を持つそれが、迫ってくる。
「ま、真奈・・」
緩やかにしかし確実に距離を詰めてくる石塚に、
何をする気なのか全く分からない彼は、困惑したように呟いた。
「寝てたときの無防備な顔は、良かったけど。
そうやって驚いたり困ってる直也君も、やっぱり良いものね・・」
対する石塚は妙な余裕を保ったまま体を巧みにくねらせて、
一旦彼の頭よりも高い位置に自分の体を持ち上げる。
そして段々と彼の顔めがけて下ろしていった。
石塚の体に包み込まれているために、あまり体は自由に動かせない。
そんな状況で蛇の体と共に迫ってくる石塚に、
池田は何故か、恐怖にも似た言いしれぬ感情を抱いていた。
「っ・・!」
それが顔と言動に出てしまう。
表情はやや硬くなり、体も同様に強張ってしまった。
直後、その行動が石塚の心に残っているものと一致するのでは、と、
彼は不安に駆られる。
「っふふ・・何故かしら、不思議ね・・」
だが予想とは裏腹に石塚は、悲しむどころかそう言って微笑む。
「え?」
「そんな反応されたら少し前だったら悲しんでたのに、今は・・」
どういうこと、と言うよりも先に言って池田の首筋に手を回すと、
やけに色っぽく感じられる声で、彼女は彼の耳元に口元を寄せ囁いた。
「とっても・・素敵だと思えるの・・」
「っぅ!?」
その声の調子と耳にかかった息の両方に、
ゾクゾクッという感覚を覚え、池田は身震いをする。
「っ・・ふふ・・ぅふふ・・」
それを見た石塚は突如笑ったかと思うと、
「っねぇ、どう?・・その・・ドキッとした?」
少しばかり顔を赤らめて、そう問いかけてきた。
そこまで来て、やっと彼は石塚にいじられていたということに気づく。
「っ・・!ま、真奈!」
彼は彼女よりも顔を赤くして、口を大きく開ける。
滅多に見られない彼のそんな表情を見た石塚は、
微笑ましくなって穏やかに顔を綻ばせた。
「ふふ、ごめん。
・・でも素敵って思ったのは、本当だから。」
しかしながら、伝えるべき事はきちんと伝える。
「え・・っぁ・・」
池田が顔を更に赤くしたのを見て、聞かれたことを確認した彼女は、
なんでもないわよ、と体を彼から退かせキッチンの方へ這っていく。
蛇の体が大きいので彼からは見えなかったが、
その体の先、尻尾と呼べるだろう部分は確かに楽しげに揺れていた。
それからまた少々して、夕食を食べ終わった石塚は。
「ふぅ〜・・気持ちいいわね・・」
風呂を満喫していた。
体の蛇の部分は、湯船の壁に沿ってつけられている。
ちなみにオール電化のため、火傷をする心配はほぼない。
「あ、あぁ・・うん・・」
そして勿論というべきかは分からないが、池田も一緒に入っていた。
石塚の前、後ろに倒れ込めば甘えられる位置に。
しかし、のんびりとくつろぐ石塚とは対照的に、
池田はきょろきょろと視線をさまよわせ、落ち着かない様子だ。
「・・もう、そんなに恥ずかしがること無いじゃない。
恋人同士、でしょ?」
石塚としては、何故そんなに恥ずかしがるのかが分からなかった。
魔物娘故か、はたまた彼女が特別そうなのかは定かでないが、
彼女の中では、恋人という関係で結ばれた彼に対しては、
裸体を見られる等の事は恥ずかしいと思うに値しないのだ。
その分、言葉には恥じらいを覚えるのだが。
「や、だって・・は、初めてで、しかもその・・真奈、綺麗だから・・」
逆に池田は、言葉にはそれほど恥じらいを持たないのだが、
体や肌が接触するなどのことにそれを持っていた。
「そ、そう・・で、でも、恋人同士だから、ね?」
思わぬカウンターに内心ときめきつつも、
何とか彼に自分を正面から見てもらおうと、言葉を巡らす石塚。
「あ、うん、それは、そうなんだけど・・」
だが、何とか言いつつ彼は全く動こうとしない。
それを見て石塚は、それならそれで、と口の端を釣り上げた。
次に無言で上半身を持ち上げる。
さながら獲物の様子をうかがう蛇のように。
チャパァ・・という水音。
それと後ろで何かが動いたという感覚を不思議に思ったのか池田は、
振り向いて何かを言おうとした。
しかし。
「っわ!?」
それよりも先、振り向ききらない内に、
石塚がその体を強い力で引っ張り自らの胸元に抱き寄せた。
逃げられないように、しっかりと下半身を足に絡める。
「え?ま、真奈?」
いつもからすれば積極的な彼女に、池田は困惑したような声を上げる。
対して石塚は、食事前にやったように彼の耳元に口を寄せた。
それだけで少し前にあったことを思い出し、体に力が入る池田。
その様を見てニヤァッと笑うと。
「まぁ、恥ずかしがる直也君も、素敵なんだけどね・・」
と、石塚は舐め回すように首を動かし言った。
「ま、真奈・・!」
耐えきれなくなり彼女の居ない方につい体をひねる池田。
だが彼が居るのは湯船、そう広いわけではない。
だから、当然捕まる。
「ふふ、捕まえた。
・・もう、こうなるの分かっててやってるでしょ?」
体を巧みに動かして回り込みつつ壁側の自らの体に池田を押しつけ、
今度は正面から彼を見つめる石塚。
対して彼は、顔を赤くしながら言った。
「わ、分かってるけど・・体が動くんだから、しょうがないだろ・・」
それを見て彼女は微笑む。
「そうね、しょうがないわね。」
そして視線を落とし、やや頬を紅くするとこう続けた。
「ここがこんなになっちゃってるのも、しょうがない、わよね・・」
ここ、とはどこなのか、そして、こんなに、とはどういう意味なのか。
他ならぬ自分の体であるが故に、
二つがはっきりと分かってしまった池田は、赤面し取り乱す。
「あ、や!あの、こ、これは、その・・!
お、男の生理現象っていうか!」
「ふふ・・変な直也君。
しょうがないって、言ってるのに・・」
しかし、石塚は対照的に落ち着いた態度で微笑みを崩さない。
その態度に池田は妙な違和感を感じた。
「・・って、いうかさ、その。
真奈は、なんでそんなに落ち着いてるんだよ・・?」
いつもだったら、いやそうじゃなくてももっと恥ずかしがる事だろ、
と考えたこと以外、そのままに口に出す。
すると石塚は窓の方を見ながら、そうね・・と不思議そうに呟いた。
少しの間そうしていた彼女だったが、
突如何かを思いついたように顔を上げ、その後頷く。
「今日が満月、だからかしら。」
「は・・?」
訳が分からなくて、ポカンとなる池田。
そんな彼に石塚は、あ、ごめん・・と説明を始めた。
「満月は魔力が高まる・・とか何とかそういう感じ。
私達が日常的に魔力を放出するのは知ってるでしょう?」
「あ、おぅん。」
妙な言葉だがこれは、返事のおう、と、うん、が混ざった結果である。
首を傾げかけた石塚だったが、何とか理解して続ける。
「・・それで、さっき言ったことに繋がるんだけど、
高まる、ってことは無意識に出る分も出せる分も上がるの。
で、魔力は男の人に、特に、す、好きな人がいたら、
その人に集中して注がれるの。」
「ふんふん。」
「で・・ね?魔力が注がれた男の人がどうなるか知ってる?」
「・・まぁ。」
顔を赤くしつつ顔を背け、答える池田。
それを見て双方の認識が大体あってる事を確信し、石塚は続ける。
「うん・・それでね、私達も勿論知ってる。
だから、直也君のがこうなってるのを見ても、
落ち着いていられてるんじゃないかしら。」
「は、はぁ・・」
どこか微妙にズレている気がしないでもない池田だったが、
とりあえずその説明にそう返した。
「あ・・だ、だけど、それならそれで、
このまま一緒にいるのも、アレだし・・俺、上がるね。」
そして直後気まずくなって風呂から上がろうとするという、
極めて常識的な行動を取る。
「ねぇ、池田君。」
「えっ・・何?」
「・・逃がすと思う?」
しかし生憎と、彼が相手取っているのは常識の外の存在である。
呼び方を変えるという、一度された方法に再度引っかかった彼は、
足首から先だけを石へと変えられた。
規模は小さいが、歩き出せない時点で致命傷だった。
一応、這い出そうとすれば出来る・・が。
「まあ、こうなる・・よね。」
そうするほど、今の状況が嫌だというわけでもない。
「精を、糧にする・・だった、っけ?」
無意識に興奮しつつも、確認を取る池田。
実を言えば彼はちょっと、ほんのちょっとだけ、期待していた。
魔物娘のそういう技術が卓越しているのは、知ってはいるから。
年頃の男子としての恥じらいや石塚への気遣いから、表には出さないが。
「・・うん、まぁその・・ね。」
恥じらいながら答える石塚。
その姿を見て、池田は言う。
「だったら、アレだ。
こういうことをするのも・・しょうがない、かな。」
それは雰囲気を和らげようとして言った言葉だったのだが、
「っ、勘違いしないで。」
驚くぐらいの速さで、石塚にそう差し込まれてしまった。
たじろぐ彼に彼女は続ける。
「性質としてはしょうがないことなのかもしれないけど、
私は、性質だから、タイミング的に丁度良いからする訳じゃないわ。」
その口の開閉は、かなりの速さだった。
しかも、まだまくし立てようとしているようだ。
「私は「分かってるよ・・さっきのは軽口だって。」
そこに池田が割り込み返す。
やや不満げな表情で見上げる石塚だったが、
彼の顔に苦笑じみた微笑みが浮かんでいるのを認め、俯く。
悪いことをしちゃったな、そう思いながら彼は続ける。
「恥ずかしかったからああいうことを言っちゃっただけ。
その・・真奈にしてもらうのを良く思ってないとかじゃ、ないから。」
「・・う、うん。」
自分でも思うところがあったのか、疑わずに答える石塚。
「だからその・・えぇっと、な?」
次に言う言葉の恥ずかしさを思い赤面しながら、彼は更に言葉を重ねる。
「・・してくれるなら、俺は、して欲しい・・かな。」
「ん・・!うん・・!」
対する石塚は、歓喜を表情に滲ませた。
「じゃあ、あの・・方法は。」
そしてその表情に少しだけ照れを加えて、問う。
「え?あー・・えっと・・」
池田は少しの間考え込むような素振りを見せた後、
顔をますます赤くしながら、言った。
「真奈に、お、お任せするよ・・」
「うん・・分かったわ。」
彼女が答えると同時に、彼は持ち上げられ背中は壁に押しつけられた。
「え、ぇえ?」
困惑する彼に石塚は、思わず背筋がゾクリとしそうな良い笑顔で、言う。
「・・この方が、気持ちよくなるだろうから、ね?」
かくして。
魔物娘である石塚に「お任せ」した池田は。
「っ・・ふ、ぅあぁっ・・!」
始めたばかりだというのに、体を走った未知の快感に震えていた。
「ん・・ふふ・・」
一方の石塚は、それを見てニヤァリと口元を歪める。
そして自らの手を動かし、その中にある暖かくなった棒を何回か握った。
すると外側にある皮が伸びたり縮んだりし・・
「っ、ぁぅっ、っ・・!」
同時に、池田の体が再び揺れる。
顔はその一瞬強ばり、口元は我慢するように引き絞られている。
簡単にイくわけにはいかない、嬌声を張り上げるのはみっともない、
そういう、男子としてのプライドである。
「お任せ」してる時点で、あってないようなものではあったが。
しかしそれを見て石塚は、かえって気を良くしたように目を細め、
体をもたげ、池田の顔の側面に口を寄せた。
「我慢しようとしてるの・・?」
「っ、う・・!」
そしてそう言うと、
「ぁむ・・っ・・」
震える彼をなぶるかのように、その耳を口に含む。
「っぅ!?ま、まぬぁっ・・!」
恥ずかしさからか抗議しようとした彼だったが、
側頭部からのぬめった感触に、その声の質を変えられてしまった。
「んふ・・んむぅ・・っ・・」
太すぎず細すぎもしない、丁度心地の良いサイズの感触が、
耳たぶの辺りを一、二回なぞってくる。
「ぁっ・・ふぅっ・・」
池田は震えながらも、彼女の居ない方へと無意識に体を捻った。
無論、彼女の下半身に捕らえられているので頭くらいしか動かない。
「ん・・らぁめっ・・ふふ・・」
その頭もすぐに、
彼女の余っていた方の腕によって動かせなくなってしまう。
「ん、ぁむぅ・・れぉ・・」
完全に動けない状態で、耳を責められる。
それだけでも体が震えるほどの妙な快感なのだが・・
「っくぁ・・っ!」
それは股間からも上ってくる。
彼は、同時にその男の象徴も責められていた事を思い出した。
「っふふ・・」
ゆっくりと、しかし、一切緩めることなく一定のペースで。
上下に強制的にそれを動かされるのは、予想以上のものであった。
「っ・・ぅくっぅ・・!」
無論、池田とて健全な男子・・自慰くらいはしたことはある。
しかし、今味わっているのに比べれば、
これまでに感じたことのある快感など大したことはない。
そう言っても過言ではないくらい、石塚の技術は卓越していた。
・・このまま、射精してしまったら、どれほど気持ちいいのだろう。
ふと、のぼせる頭でそんなことを考える。
その瞬間。
「っはぁくぅ・・っ・・!」
これまで抑えていた声が、つい裏返ってしまった。
それはつまり、その声を彼女に聞かれてしまったという事で。
「・・直也君・・ふふ、恥ずかしい声ね・・?」
腕の位置を頭から首に動かして、耳を責めるのを止め、
正面から見つめてくる石塚。
その目は温かく見守るようでいて、優越感に浸っているようでもあって。
「っ・・!」
彼は、ブルリとその身を震わせてしまっていた。
それを見た彼女は更に乗ってきたようで、顔を寄せてくる。
そしてもう少しで唇が触れ合うか、というところで止まると、
「りゅぅ・・る・・」
その良く伸びる舌を、結ばれている彼の口の端に滑らせてきた。
「ぅ・・?」
それ自体はそれほどの快楽ではない。
くすぐったいと表現した方が正しいくらいだ。
「・・るぅ・・ん・・」
しかし石塚は、やけに熱心にそこを舌で触れてくる。
その事を不思議に思い、彼はその口を開けた。
「なぁ、真奈・・そこ、そんなぁむぅっ・・!?」
その瞬間、先程まで口の端をつついていた舌が、
口の中へとなだれ込んでくる。
やられた。
そう思うことさえ、できない。
「あむ、ん、りゅぅんむぅれろぉ・・んむぅ・・」
石塚の求めは、それくらいに激しかった。
口の中をにゅちゅにゅちゅと這いずり回られ、
呼吸のために口を開けることすら許されない。
「んぅ、ぅ、ふぁ、まぁ、ぬぁうんむぅう・・」
真奈、とその名を呼ぼうとした声さえ、
彼女の舌に吸われてくぐもった音に変わってしまう。
自分の声や要求は提示する暇さえ与えられない。
「ちょ、ふぁむう、ん、ん、ううんむ・・!」
まさしく一方的。
最初の方こそ驚いていたが、池田はもうそれを不満には思えなかった。
段々と頭がぼうーっとしてきていたのだ。
「んじゅ、ん、ん・・」
口の中のものというものが舐め尽くされ、
鼻で息をする度に心地の良い香りが通り抜け、
頭が痺れるような感じになり、体から力が抜けていく。
「んぅ、ん・・む・・う・・」
池田はついになすがままになって、身を委ねていた。
「れぅ、んむ・・うん・・」
舌を動かし、やや緩慢になった彼女からの求めに応える。
眼前に見える彼女の、ただひたすら自らを求めてくるその姿に彼は、
言いしれぬ、また言い表しようのない、そんな快感を覚えていた。
・・もしかすると、これが一番気持ちの良い理由かもしれない・・
そんな事を思い始める。
彼女から、真奈から激しいくらいに求められる。
ただただ自分という存在を貪るように。
まるで、支配者に蹂躙されるように。
・・ああ、だから、彼女に耳を舐められたときあんなに・・?
それを意識する、意識した、その瞬間。
「むぅんうっ・・んぱぁ・・!」
何かが背中へ流れ、肩から抜けていった。
まるで、快楽という刃物で斬り上げられたような感触。
・・だめだ。
池田は、思っていた。
このままでは、石塚の求めに応えることすら出来ないくらいに・・
「ぃっひ・・っ!」
感じてしまう。
体全体が、じんじんと熱くなり頭が痺れてーー
池田は絶頂しようとしていた。
「あ・・はっ・・あ・・ぁあ・・?」
しかし、出来なかった。
体が熱い事は熱いのだが、その上にいけなかったのだ。
「はぁ・・あ、あ・・ま、な・・?」
顔を火照らせつつ、そうなるように加減をしたであろう石塚を見る池田。
すると彼女は彼を湯船の中に引きずり込むと。
「っ・・はぁ・・ふふ、直也君・・
お湯の中になんて、出さないで・・」
自らの体を持ち上げ、その蛇の体に刻まれた一筋の線を指差し。
「ここ・・ここに、出して・・」
そう言うと、ゆっくりとその部分を、池田の屹立にあてがった。
「・・って、駄目・・!」
それが男女のする所謂「本物」だと気付き池田は抵抗を試みる。
しかし無情にも彼女は、そんな池田の耳元に口を近づける。
「でも・・直也君が好き、なの、だから・・お願い・・」
そして、そう囁いた。
真奈子がいつも絶対に言わないような、これ以上ないストレートな表現。
それを聞かされた直也は。
「っ・・ぅ・・!?」
言葉だけで、達するかのような思いを味わっていた。
股間のものが張り詰めて、今にも爆発しそうになる。
そうなっているのを見た真奈子は、
「あ・・ふふ・・やっぱり、直也君もしたいのね・・良かった。」
嬉しそうな笑みを浮かべ、そして・・
「じゃあ・・いくね・・」
彼女はそう言って、腰を押し込んだ。
瞬間。
「ぅあ・・」
直也は、先程までの手コキとは全く違う感覚に身を震わせていた。
にゅりゅにゅりゅと優しく、緩々な・・そんな感覚。
まるで、包み、溶かそうとしているかのような、快感。
「は・・ぁ・・ぅ・・あぁ・・」
事実、直也はその快楽に溶かされていた。
体中が巻き付かれているのもあって、
体全体がふわふわとした気持ちよさに包まれているのだ。
「ぁっ・・ふふ・・可愛い・・」
「あ・・う、く、ぅ・・」
真奈に見られている。
そのことに今更な軽い羞恥を覚え、男を見せようと力を振り絞る直也。
「良いわよ、んぅっ、別に・・はぁ・・」
「えっ・・」
しかしそれも、彼女が胸元に上半身を乗せそう言った事で、溶かされる。
何とかかんとか力を入れていた筋肉が弛緩していき・・
「ぅ・・うぁっ・・」
ついには、力という力がほとんど全て抜け落ちてしまった。
体に力を入れようにも、頭がぼぉっとしてしまい、できない。
そんなだらしない様を見た真奈子は、自らの両腕を直也の胴体に回す。
「・・ねぇ・・んぅ、分かる・・?私達、全てで繋がってるの・・」
「お・・うん、そうだな・・」
そして、そんな事を言う。
下から見上げてくる彼女は、頬が赤く染まり瞳が濡れていた。
髪の一つが熱に浮かされたように、断続的に息を吐き続けている。
ああ・・そういう事・・。
真奈・・俺の為に我慢してくれてるんだな・・でも・・と、
そう思った直也は。
「なぁ、真奈・・良いぞ、ぅっ、動いても・・
俺・・真奈にされるの好きみたいだからな・・」
そう口走っていた。
「っ・・!で、でも・・」
対する真奈子は僅かに身を震わせた後、
驚いたように顔を上げて、問いかけてくる。
続く言葉は、大丈夫なの?だろう、と直也は見当をつけた。
だから、安心させるためにこう言う。
「大丈夫だよ・・あ、でも・・こっちがあんまり、っくぅ・・!
攻めてやれなくって、ごめんな・・?
こういうの、男がぁっ、するもんなんだろうけど・・」
すると、真奈子は。
「うぅん・・良いの・・ありがと・・っんあっぁ・・!」
いきなり息を荒らげビクビクと揺れ動き、そんな声を出し始めた。
「あっ・・あぁ・・!ぅう・・!直、也君・・っ!」
声は出すほどに激しくなり、その淫猥さを増していく。
まるで、抑えていたものが抑えきれなくなってしまったかのようだ。
「だ、大丈夫?真奈・・」
心配になり、声をかける直也。
「ま、真奈、んむ!?んむうぅっ・・!」
対する答えは、熱烈な接吻だった。
「んむっ、ん、ふっ、んむ、むんん、んん・・!」
先程同じものを受けた時と違い、今度は真奈子側にも余裕がない。
顔が紅く染まり、髪の毛はざわざわとどうしようもなく蠢いている。
「んはぁっ・・!直、也君・・直也君・・!」
口を離したかと思えば、うわごとのように直也の名を呼ぶ。
自分の中の思いが暴走しかけて、ぐちゃぐちゃになっているのだろう。
それはそれで嬉しい、と直也は思う。
しかしなんだか真奈が壊れてしまいそうで、少し心配にもなっていた。
「っぅ・・真奈・・」
だから、彼女の名前を呼ぶ。
「直也君・・直也くぅん・・なに・・!?」
そしてほぼ真上、至近距離に見えるその顔に何とか唇を近づけ・・
「は、ぁむ・・」
今度は自分から、口づけた。
「ん・・?!ふぁむ、ぬむ・・!」
当然のように、激しくしようと舌を這わせる真奈子。
直也はそんな彼女の背中にゆっくりと手を回す。
力が入らないが、それくらいのことは幸いながら出来た。
「んむ・・っ!?」
目を見開きぴくっ、と一回揺れる真奈子。
驚いた様も、やっぱり可愛いな・・と、
何故かどこか余裕の出てきた頭で考えながら、直也は口を動かす。
「はむ、あむ、っむりゅぅ・・」
舌を真奈子の口の中へと侵入させていく。
「んりゅ・・」
落ち着かせるように、じっくりと。
「む、れぅ・・」
焦りをかき消すように、ゆっくりと。
「ん、む、ぅ・・れろぉ・・ん・・」
・・お返しをするように、たっぷりと。
「んゅ・・っ、ぅっ・・」
その途中で彼は、真奈子の舌が戸惑うように震えているのに気づいた。
・・反撃ととられちゃったかな、これは・・と、ここで彼は口を離し、
「あむぅ・・っ、ぱぁ・・真奈・・良いからな・・おいで・・」
あくまで真奈子が攻めてくるように、彼は声をかける。
それが彼がされたいことで、真奈がしたいことだろうとも、思ったから。
「んぅ・・う、ん・・」
真奈子はこくりと頷き、その舌を直也の口の中へ滑らせる。
顔は先程と同じく赤いままだが・・
「ぁむ・・ん、む・・」
口を動かすその調子は先程よりも落ち着いていた。
「ふふ・・ん・・れぅ、りゅ・・」
それに安心しつつ直也は、這いずってくる暖かい舌を再度受け入れた。
「んむ・・あむ・・」
入り込んできたぬるっとした感触の先端が、頬の内を舐めてくる。
「む・・りゅ・・」
それを追いかけ、自らの舌をそこにあてがった。
「んふ、む・・りゅむ・・」
すると真奈子はさっき舐めていた頬をそっちのけで、絡みついてくる。
まるで、そこを舐めていたのは囮だと言わんばかりに。
「んむ、んりゅぅ・・」
「ん・・む、ぅ・・」
何とかそれも受け止め、舌を動かそうとする直也だったが・・
ぐじゅっ・・
「む!?んん・・!」
股間から、急に締め付けるような肉の感触に包まれた瞬間、
片目をつむり体を強ばらせてしまった。
いきなりの刺激に対する、どうしようもない体の反応。
「ん・・ふ・・」
それを見て真奈子は、目を嬉しそうに細めた後舌を抜き去り・・
「んはぁ・・ふふ、私が上なのは、変えてあげないから・・」
そう言うと緩々と腰を動かし始めた。
「っぅ・・ん、あぁ・・」
数十秒前に感じた締め付けとは違う優しい愛撫に、
直也は無意識にそんな声を出してしまう。
「ぁ・・はぅ、あぁぁああ・・」
気持ちよすぎた。
行為を始めた最初にも優しいのは感じたが、それよりも気持ちよかった。
付け加えてなにより。
ただ強く擦り、何となく気持ちよくなって吐き出す・・
というそれくらいでしか、
自分自身を快楽で満たしたことのない彼にとってそれは、
優しく、ゆるく・・そして、気持ちよすぎた。
「あ・・ぁ、は、ぁぅ・・」
口から何かが抜けていきそうな声を出してしまう直也。
「ん・・ふ・・」
そんな彼を見て、真奈子は優しげに微笑む。
まるで、もっと溺れていいのよ、とでも言うかのように。
「っぅう・・」
それを直也が見て目から僅かばかり覇気が抜けるのとほぼ同時、
真奈子は追い打ちに、ゆっくりと一定の間隔で腰を振ってきた。
あえて言葉に表現するのなら、ぬっちり、とでもいうのだろう、
そんな感覚が直也に襲いかかってくる。
「んぁ・・ぅ・・ああ・・」
屹立した男性器を、
全方向からゆっくり優しくみっちりと締め付けられる感触。
「あ・・はぁぅ・・ああぁああ・・」
直也は、もう声が止められなくなっていた。
しかも・・
「ぁ・・!ぅ、く・・っ・・」
締め付けるだけに留まらず、先端を嬲るように触れてくる。
ゆっくりと、しかし休み無く。
「んぅ・・っ・・」
ペースを整えることなど許されず、
「ふふ・・やっぱり、直也君は、可愛い・・あむ・・」
更なる快楽を脳と体に染み込まされる。
「ぁ・・ま、な・・む・・」
目を半分だけ開けて、真奈子のキスを受け入れる直也。
その瞳から、覇気は完全に消えていた。
「ん・・れぅ・・」
甘い甘い、キス。
舌が這いずる度に、鼻からとろけるような匂いが脳を冒していく。
こちらからも動かす・・当然、望んだことでもあるが、それはもう、
彼の体が勝手にそうさせていた。
「ろぅ、る・・ん、む・・」
舌を絡みつかせ、彼は痺れるような甘さを楽しもうとする。
にゅちゅっ・・
「む・・!?ふ、ふぁ、む・・!」
するとすかさず股間から刺激が来て、
絡ませた舌ごと真奈子にしがみつくような形になってしまった。
「むふ・・ん、む・・」
一方の真奈子は、
そんな彼を優越を帯びた瞳で見つめた後、さらに舌を絡めていく。
「む・・んむ、ん・・ぅう・・」
とろけるようでいて、どこか痺れるような甘い匂い。
それだけでも、意識が薄れてしまいそうな感覚を覚える直也。
しかし・・
にゅ、にゅ、ぎゅちゅぅ・・
生憎か、はたまた僥倖か、彼に与えられていたのはそれだけではない。
刺激は下半身からも来ていた。
ゆっくりした刺激が、しっかりと。
膣内がきゅうきゅうと、包囲を狭めてきたのだ。
それは、苛烈、というには優しいが、
だからといって容易に耐えられるものでもない。
「むっんむ、んぅう・・!」
ましてや、長々と真奈子の求めに応じて消耗していた直也には、
それは殊更効力が大きかった。
「っ、むぅ、んふ、ん・・!」
息を荒くしながらも彼は、何とか膣と舌の両方に応えて、
真奈子を悦ばせようと努力する。
もはやほとんど流されているような感じで舌を絡ませ、
微細な動きではあるが、腰も動かして。
「ん・・ふ、ぁ、む・・う・・」
彼がそこまでするのは自分自身が、おいで、と言ったからだ。
どんな風にされようと、自分が無くなりそうだとしても、
何とかそれを受け入れる、と決めたからだ。
あの日、怯えながらも真奈子の姿を受け入れたのと同じように。
「ん、ふあぅむ、ん・・」
直也君が自分を無くして溺れてくれない。
彼女はそう思っていた。
きっと、私という全てを受け入れてくれようとしているからだろう。
あの日、恐怖しながらも頭を撫でてくれたように。
そうとも思っていた。
しかし彼女は今、魔物娘の本能に従っている。
それはつまり・・
自分という「雌」に溺れてくれるのが一番嬉しいということで。
だから、嬉しさを感じつつも、ここでは悔しさの方が勝っていた。
魔物娘に生まれながら、好いた男を骨抜きに出来ない事への、悔しさ。
その悔しさは、彼女に一つの行動を取らせた。
「っはぁ・・はぁ・・はぁ・・」
舌が、抜かれた。
直也は息を整えながら、ぼんやりとそう考えていた。
同時に、何とか応えられたかな、とも。
脳がすでにとろけきっているのではないかと思うくらいに思考が重く、
下半身には、始めてから未だ一度たりとも止まない刺激が続いているが、
それでも・・男のつとめは果たせたかな、と。
「・・直也君・・ん・・」
次の瞬間、何度目かの彼女の口を耳に感じた。
何と言われるか・・と覚悟を決める。
「・・好き・・」
「っぅぁ・・!?」
が、その覚悟はあっさりと砕かれた。
彼が満身創痍だったのもあるが、やはり効いたのは素直な言葉。
じわじわと染み込んでいた感覚が、それで一斉に形をなすイメージ。
「ぁ・・ま、な・・!」
結果、ついに直也の皮が剥がされる。
「そ、そんなこと、あ、ま、待って・・!」
余裕を無くし、何とか立て直そうとするが。
「可愛い・・好きだから、ね・・直也君・・」
「っっぅ、だ、ダメだって!ま、な、俺・・!」
追撃の言葉に、彼の思考はノックダウンされた。
「えと、あの、真奈、俺は・・っ!」
何を言おうとしているのかも纏められず、
口を開いてもあやふやな言葉しか出て来ない。
そして、その口も・・
「いいから・・ふぁむ・・」
真奈子に塞がれてしまった。
時間稼ぎの手段を奪われ、快楽を一気に流し込まれる。
「む・・!むっ、りゅぅっ、む、むぅうっ!」
先程までにしたって、応じられてはいたが蓄積はされていた。
ただ、何とかやりくりできたように錯覚していただけなのだ。
だから。
「んむ、む、ふりゅ、むぅ!」
じわじわと、今になってそれが湧き上がって来る。
我慢できていたはずのものが、彼を追い詰めてきて・・
「む!ん、ん、ん”!」
しかも、今その瞬間も体全体、ペニスは特に責められている。
ぱっくりとくわえ込まれ、じっくりと時間をかけて、
根元から先端へと扱かれていた。
「むぅ・・!んむっぅ・・!」
にゅりゅ、ぬりゅ、と膣内が動くたびに、体全体が震わされるようだ。
もう、彼は限界だった。
何かひと押しがあれば、崩れてしまいそうなほどに。
「んはぁ・・」
しかし、そこでまた口が離される。
「あはぁ・・はぁ・・ま、な・・なん、で・・?」
直也は縋るような声を出してしまった。
どうしようもなく、絶頂に近づいてしまっているのだ。
そんな彼を見て彼女は。
「はぁ・・なお、や、君・・私もね・・実は、イきそうなの・・!」
「え・・!?」
彼にとって驚愕の事実を告げた。
彼の目には、全く余裕に見えていた。
それが・・実はこんなに感じていたなんて・・
驚く彼に、彼女は息を切らして言う。
「だ、って・・!直也、君が・・!かわい過ぎ、たんだからぁっ・・!」
その顔が赤く赤く染まっているのに直也は、今更ながら気づいた。
そして、直也は知らない。
「もう・・我慢できない!行くから・・いい、でしょ・・!」
「あ、ああ・・うん・・!」
頷いて返したそれが、彼女のリミッターを外したことを。
「あ・・!直也君!なおやく、ん・・!」
顔をぱぁああっと明るくして、真奈子は彼に覆いかぶさる。
そして、その舌を半ば無理やりに突っ込んだ。
「む、りゅ!んうむ〜〜!!」
そして、無茶苦茶に舌と腰を動かし始める。
舌はべろべろと彼を気持ちよくさせることだけを考え、
歯茎の裏や歯の上、全てを舐めまわしてきた。
「む、んふ!ん、む、っむぅむ!」
腰も、激しく振り立てられ、
ゆっくりと擦られて高められた肉棒が、一気に締め付けられる。
「はむ、むりゅ、ん、れぅ・・っむ・・!」
もはや、双方に余裕はなかった。
互いにしがみつき合い、縋り縋られ、
自らの限界を相手へと愛と欲で次々と塗り替えていく。
「ん、むりゅ、んはっ、い、いいのっ、なお」
「はむ、んぱぁっ・・分かってる、わかって、るから・・あむ・・!」
口を離しては短い言葉だけを重ねて、すぐに舌を絡ませ合う。
そして真奈子は蛇体と腕で、直也は腕で相手を抱きしめる。
真奈子の方が覆う面積は圧倒的に多かったが、
受ける快感はどちらも相手に劣りはしないものだった。
「まな・・!そろ、そろ・・!」
短く言う直也。
「うん・・!いこっ・・!」
短く答える真奈子。
瞬間。
彼の指がしっかりと彼女に押し付けられ、彼女の体が彼をしっかり締め、
彼女の膣がきゅっと彼自身を締め付け・・
「あっ!まなっ、はあぁぁあああぁぁぁああ・・っ!!」
「ぁっ!?あぅ、なお、やく、んはあぁぁあああぅぅうぅぅん・・っ!」
二人は、弾けた。
男のそれが女のそれに入り込み。
二人は、どこか遠いところに、二人で弾け飛んでしまったのだ。
快楽、快感・・そして。
なによりも、二人同時にイけたことが、
切れようとする朦朧とした意識に、途方もない幸福感をもたらしていた。
それから、しばらくして。
直也は、真奈子と一緒に彼女の部屋で、向かい合って布団に入っていた。
「・・その、さ。
今更だけど・・やっちゃった・・な・・」
恥ずかしげに、直也は言う。
「う、うん・・気持ち、良かった・・」
対する真奈子も同じようにして、答えた。
微笑ましく思う彼だったが、同時に危惧もあった。
「でも・・子供、出来ちゃったら・・」
そう、妊娠したら。
勿論、真奈を放り捨てるなどという外道になるつもりはない、だが・・
考える直也の足に、真奈子は尻尾を絡みつかせた。
「大丈夫よ・・魔物娘って、妊娠をすっごくしづらいの・・」
そのまま正面から抱きしめ、続ける。
「だから、何度でも、出来るわね・・?」
「っ・・あ、あぁ・・そう、だ・・ん・・?」
その声が艶っぽくて、直也はブルッと身を震わせてしまう。
しかし、
直後に彼女の顔がやや暗くなってしまったのを見て、疑問符を浮かべる。
彼女は不安そうに呟く。
「・・ねぇ・・でも、もし、赤ちゃんできたら・・」
ああ、真奈も心配なんだ・・でも、やっぱり、だよね。
「大丈夫だよ。」
そう思った彼は彼女を抱きしめ、その頭を自分の胸元に寄せる。
「そうなったら・・ずっと、真奈の隣にいられる、からさ。」
「っ・・直也、君・・!」
真奈子は、嬉しそうに頭を彼にこすりつけた。
その様はなんだか子供っぽい、彼の最も好きな彼女の姿の一つだ。
「ふふ・・よしよし・・」
その頭を微笑みながら撫で、彼は続ける。
「まぁ・・そうならなくてもさ、ずっと、真奈の傍に俺はいるよ。」
すると彼女は、もぞもぞと動き彼の顔が見える位置まで顔を動かすと。
「んちゅっ・・」
その口を軽く一回だけ奪った。
「当然よ・・こんな気持ちにさせて、今更離れろは言わせないんだから!」
その顔は、晴れやかで・・直也の大好きな、素敵な笑顔であった。
15/04/14 22:56更新 / GARU