読切小説
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星空ーEmotion
 
「よ、少年。乗ってくかい?」


「空、好きなんだろ?ずいぶん熱心に見てるじゃないか」


「そんなに驚くなよ、取って食おうってんじゃないさ」





 子供の頃、いつだかに聞いた言葉を思い出す。

 それは確か夜のこと。
 どうにも自分を取り巻く『世界』に馴染めなくて村を飛び出し山を登った。
 崖を滑り落ちてしまっても大人は助けてくれなくて、けれど川の水は美味しくて、ちゃんと冷たかった。
 そして、歩き疲れて、それでも立って見上げた星空も綺麗で輝いていた。
 生きていると初めて実感して、そういう時に、横合いから語り掛けられた言葉だった。
  

 綺麗な人だというのを覚えている。
 艶のある『語られるべき美しい夜』というものを形にしたかのような、黒い、深い鱗を纏うワイバーンだったのを覚えている。
 けれどそれは、俺の思っている事と違う。
 確かに琥珀色の瞳も乳白色の爪も、何もかもが美麗といって差し支えない。
 だけれど、自分の覚えているその綺麗というのは、そういう価値観とはまるで別のものだった。


 表そうとすればあまりにも子供じみている感情は、言うなればかっこいいだろうか。
 思うままに生き、思うままに行き、いきいきと今この瞬間全てを感じて走っている。
 そんな、見かけじゃないかっこよさ、綺麗さを俺はその翼に感じていた。


 
「さてと。で、乗ってくかい?地面以外から夜空を眺めるなんて、中々味わえる事じゃないぜ?」



 だから――――







 「……」


 二十歳の今、同じ場所に立ち思い返す。

 思うさま、今までもこれからもそうするのだろう彼女にはついていけそうにはない。
 到底届くわけがない、と結局、俺は首を横に振ったんだったな。
 言うなれば気おくれだ……それくらい、大人になれば分かる。
 

 「……ふ」

 だが勿体ないことをしたなとも思ってしまい、今更だと諫めるように息を吐く。
 よしんば誘いに乗ったとして、飛び出したくせして朝には帰り、叱られて安心を覚えてしまっていた俺に何が出来た。
 お似合いだろうに、と見上げれば、そこには皮肉なことにあの夜と同じ晴れた星空があった。

 「……」


 だからつい、未練がましく考えてしまう。
 もし。
 あの誘いに乗っていれば、今もなお感じている『ズレ』が少しでも解れてくれたのか。
 憧れるだけでなく、あのワイバーンのようになれただろうか。
 思うさまに、誰が何と言おうと自分の道を進んでみせるという気概を持てただろうか。
 ……かっこよく、なれたんだろうか。

 「……意味ない、か」


 ぽつりとつぶやく。
 だけれども、そんなことを考えても仕方がないこともわかっていた。
 今の俺はただ星を眺める一般人でしかないのだから。

 ……一般。

 自分で思っておきながら鈍く心に喰い込んでくる。
 自分は所詮星やワイバーンのように特別な存在なんかじゃない、その惨めさに目を背けたくなる。
 もしあのワイバーンなら、それでも自分は自分だと言うのだろうけども。

 「……馬鹿馬鹿しい」


 言い捨てるように空へ吐く。
 だが目を逸らすことは出来なかった。

 ……そして思わずにもいられなかった。
 星のように輝く、いや。
 あのワイバーンのように、かっこよく命を走る事が出来たなら……



 「何をしけた顔してんだ?……青年?」

 「えっ……」
 

 突如聞こえたその声に、振り返る。
 本当に、星空が願いを叶えてくれたのかと思った。
 その姿を見るまでもなく、誰だかわかる。
 ここに来たのだって、実のところ彼女に会えるのならと願ってだったのだから。
 

 「っはは、なーにそんなに驚いた顔してんのさ」


 変わらない笑顔に、まばたきをする。
 しかしやはり、それは決して幻ではなかった。
 あの星空の下で手を差し伸べてくれた、黒塗りの夜を駆けるしなやかな翼。
 名前は知らないけれど、はっきりと記憶に刻みつけられている、あのワイバーンその人だった。 
 
 「……ま、あたしも驚いたけどね」

 「え……?」


 そんな彼女はこちらの横まで歩くと星を見上げ、唐突に語り始める。
 だがいったい何を驚いたというのだろうか。
 
 「あたしさ。思うとおりに行きたいから、だから偶に誰も居ない空を思いっきり駆け抜けてバカになるんだ」

 「あ、はあ」

 「でも、さ。あの日……アンタを乗せて走れなかった。それだけが最近、何でだか妙にどうしても気になっちゃってね」

 
 と、彼女が振り返った。
 頬を爪で掻く顔は照れくさそうで、しかし微笑む顔はやはりかっこよい。
 
 「俺が……ですか?」
 
 だからこそ俺は、思わず訊き返してしまっていた。
 どうして俺なんかが悩みの種になるんですか、とは言わずに隠したままだ。

 「まあ、さ」

 
 そんな疑問に彼女は一つ前置きをすると、同時に頬を掻くのをやめて腕を組む。
 たわわな胸が押し上げられるのに見とれそうになるのは置いておくとしても、それはきっと、彼女にとっては何気ない仕草なのだろう。
 けれどどうにも、気合の姿勢にも見えてしまう。
 それが正しいのかは分からないが。
 
 
 「……あんな風に空を見られる少年を乗せなかったなんて、勿体ないことしたなーってさ。まあ、あたしの我儘なのかもしれないけどね、へへっ」


 けれど、同じ姿勢のまま豪気に笑う彼女を見ていると、少しずつどうでもよくなってしまってもいた。
 もっと言えばとても快い、だろうか。
 悩みを打ち明けておきながらこうも気持ちよく笑えているのが、どうしようもなくかっこよくて。 

 「で、アンタはどうだい」

 「へっ」

 「アンタも何かあるんだろ?それくらい分かるさ。染みついた落ち着く場所って、中々忘れられないもんな」

 「……俺は……」

 そしてまた、逆立ちしたってかなうわけがないと思っていたものだから。
 流れるように話す彼女に俺は、返す言葉を詰まらせてしまっていた。
 だが言えたものではない。
 なんだかかっこいい悩みの彼女に対して、かっこよくなりたいだけ等とはあまりにも小さ過ぎるのだから。

 「俺のは、そんな。そんなに……大した悩みじゃ」

 「おっと、聞き逃げは許さないよ?」


 だから誤魔化そうとして、しかし今夜の彼女は逃がしてくれなかった。
 少年でなくなった俺に手加減などしてくれなかったのだ。
 これはもう、話すしかない。
 けれど……


 「俺は……かっこよく、なりたかったなあって」

 けれど観念は、少しだけ俺に勇気と安心をくれた。
 不安はまだある。
 それでも、一歩を踏み出すには十分過ぎる力だった。

 「へえ?かっこよく、かあ」

 「……あの星みたいに。どこにあってもきらきらしていて、何処に居たって見つけられるようにかっこよくなりたいって」
 
 「ふぅん、そっか……」
  

 たどたどしく、言葉を選んで放っていく。
 もちろんそこに自信はない。
 しかし、目の前のワイバーンは素直に聞いてくれていたから。
 否定も肯定もなく、それでいてしっかりと受け止めてくれていると感じられたから。
 だから自然と、俺は話し続けていた。
 
 「それで?」

 「それで、って……」

 「何かあるだろ?だからどうする、とか。だからどうしたいとか」
 

 と、唐突に彼女が胡坐をかいて問いかけてくる。

 ……その先に何があるか。
 それは、知らず知らずのうちに目を背けていたものだったかもしれない。 
 しかし考えたとしても、そんなものはあるのだろうか。
 いや、もしあったとしても……

 「そんなものは、俺には……」

 「へへ、誤魔化すなよ。あたしには分かるんだ」


 等と考える俺に彼女は言い放つと、ゆっくりと星空に目を移す。
 自然体なそれは、同時に自信に満ちた様子でもあった。
 不安など無さそうに真っすぐ、蒼い黒を見据えているのだ。

 「あるんだろ?なんか、何かこれだけは譲れないってのがさ」
 
 「俺は……」

 「ん?」


 彼女が再び、見つめてくる。
 微笑んだその顔の後ろで、くすんだ長い金の髪がさらさらと揺れる。
 その姿はやはりかっこよくて……そして今日に限って言えばまるで、恐れるなと言っているようにも見えた。
 手を伸ばせ、そこに連れてってやるから安心しろ。
 だからさあ言ってみろと、そう語り掛けているようだった。
 
 「……あの夜。誘いに乗ってたら」

 「うん」

 「……星のように、貴方のようなワイバーンみたいに、かっこよくて特別で、輝いた存在になれたのかなって。考えても仕方ないって思うのに、どうしてもそう思ってしまって」

 それに後押しされるように、俺はもう一度口を開く。
 まだ少し恥ずかしいし、馬鹿にされたら怖いけれど、それでもこれだけは譲れない。
 そんな何かに支えられる感覚を、ゆっくりと言葉にしていく。

 「そっか」

 「俺はその……だから……」


 しかし、そこで言葉が止まってしまう。
 もし会えたならと思ってここに来た。
 そんなことを当の本人に言うのは、流石に少々、無いのではないか。

 「うっし!んーじゃいくかあ!」

 等と考え込もうとした瞬間、すっくと彼女が立ち上がる。
 その淀みない動作は、まるで光が天に立ち昇るようでもあった。

 「えっ?」


 それに圧倒されたのもある。
 だけれど口から零れた言葉は、単純な疑問が大きかった。

 いいや、疑問だけではないかもしれない。
 話の流れを強引に切って立ち上がった彼女が何をするのか、とても興味があったのかもしれない。

 と考え、しかしこれも少し違うなと俺は内心頭を振る。
 正確にはきっと、これから何が起こるのかが分かり、そして自分が関われることを期待しているのだ。
 それで隠し切れない興奮が漏れてしまったのだろう。 
 
 
 「えっ?じゃないよ、ははっ。行くんだろ空!何年か前に行けなかった空に、今からでも行きたいんだろ?」

 「……!」

 
 だからほんのちょっぴり、その言葉に口角が持ち上がってしまう。
 一瞬自分の目が見開かれたのが、分かってしまう。
 嬉しくてたまらない、そんな自分を感じてしまっていたのだ。

 ……そうだ。
 俺は、この言葉を心待ちにしていたのだ。
 どんなに誤魔化しても、どんなに正当化しても、この心を高ぶらせる感情は鎮める事が出来ないのである。
 とんだ恥知らずだと思う。

 「いい、んですか」

 「フッ、くどいよ。やりたいならやりたいって言いな?」

 「……!じゃ、じゃあ!」

 
 けれどしかし。
 どうしても鎮める事が出来ないのなら、恥知らずなら恥知らずなりにやってしまえばいいと思う自分がいるのも確かだった。
 抑えつけているけれど、確かに自分の中にいるその自分。
 あの夜は感じることすらできなかった自分が、今この時は躍り出しそうな程に暴れているのも分かっていたから。


 「よぉっし!っと、その前に条件な」

 「っ、は、はい?条、件……」

 
 と、乗ってきていたところに爪で指をさされる。
 唐突ながらも冗談とは思えない雰囲気に、難しそうな条件じゃなければいいけれどと身構えるが。

 「敬語禁止!一緒に空突っ走るんだ、敬語なんて使われると痒くなっちゃってさ。だから、な?頼むぜ」


 頭を、抱えそうになる。
 なんて簡単な、そして難しい条件なのだろう。
 丁寧にするのはそれなりに得意なつもりだがしかし、その逆となると難しい。

 「は……ううん。分かった!よろしくお願いし……いや、よろしくな」


 ……いいや。
 ぶり返しそうになる弱気を、頭を振って振り払う。
 今度こそ、機会を逃すわけにはいかなかった。
 そのためなら些細なこだわりくらいどうってことはないはずだ。 

 「んお?おーう上等だ、じゃあ行くよ!」


 対して彼女は、驚いたように目を丸くする。
 だがそれも一瞬の事ですぐに笑顔で頷き、可と思えばもう駆け出していた。
 返事が気に入らなかったかと不安になったがどうやら杞憂で済んだらしい。

 「あ、あの……」


 とはいえ彼女が向かう先にあるのは、崖だ。
 下に大きな川が流れるといっても、断崖絶壁なのは間違いない。
 大丈夫なのか。

 「さあ!見てなよ!」
 
 
 そう怯む俺にしかし、彼女はそのまま足を踏み切ると底へと落ちていってしまった。
 どうするんだ……


 「グォアァアアアアアアアアァァァァァアアアーーーーーッ!!!!!」

 「っ、つおわあ!?」


 等という疑問は全くの無意味だったらしい。
 世界全てを揺らすような咆哮が響き渡ったかと思うと、すぐにその『翼』が姿を現したからだ。



 ……いい……かっこいい!!

 

 表すのに、もはやそれ以外は必要なかった。
 空の全てを覆うだとか夜空に紛れる黄金の角だとか、そんなものは些細な部分の一つ一つに過ぎない。
 今はただ。
 間近で見て受け取って、俺という青年の中の少年がかっこいいと思った、それを大事にしたかった。

 「っへへ、そうだろ!あたしは竜、ワイバーンだからな!」

 
 そんな感情にすら応えるように、はばたく彼女が大口を開ける。
 恥じらいや謙遜なんてものは感じられない。
 むしろとんでもなく傲慢で、しかも誇らしげな笑顔があるだけだ。
 
 「っと、ほら乗りな!」

 「っ!ああ……!ああ!」
 
 と、彼女が近くに降りてくる。
 だがその足が地に着く前に、俺は既に手を伸ばしかけていた。
 早く、早くこの翼に乗りたい。
 憧れに触れたい、飛ばせてもらいたい!
 体中を駆けめぐる感情が、そうさせていたのだ。
 いつもならば雄大な巨体に怯んでいただろうに我ながらなんと現金な。
 
 「ッハッハッハッハ、いいねいいね。そういう反応は!」
 
  
 しかし彼女はそんな態度を見ても、むしろ嬉しそうに声を高鳴らせた。
 自信満々なその態度、もはや遠慮はいらないだろうとついに俺は手を伸ばす。 

 「おお……」


 瞬間、感嘆が漏れた。
 手のひらから伝わってくる感覚は、それ程までに絶妙だった。
 すべすべでつるつるで、一枚一枚の手触りからすらも強靱さが分かるのに、少し広く見れば柔らかくもある。
 触れれば触るほどに感触が変わるようで、それでいていつまで触っていても飽きない。
 遠目にはゴツゴツしてさえいるというのにこれは……

 「……あー、もういいかい。そろそろ飛びたいんだけれどもさ?」

 「あ、ああうん。ごめん」

 「ま、いいけどさ。悪い気分じゃないよ」


 と、焦れったくなったか微笑み混じりに急かされてしまう。
 もっと触っていたかったからつい気のない返事をしてしまったが、確かにこのままというのも悪いだろう。
 そう思い、彼女の首元に手をかけて体を引き上げる。
 届くかどうか心配になる中々の高さだったが、そこは彼女が位置を下げてくれてどうにかなった。

 しかしながら跨がってみて思う。
 股の間に大きなものをはさむこの感覚は、少しばかり不思議な心地だ。
 だが生身独特の暖かさも感じる、となれば慣れれば快適なのだろうか?
 ともあれしばらくはしがみつくことになりそうだ、気を抜けば滑り落ちかねない。
 

 「よっし、んじゃ……!」


 そういう風に感覚をまとめていると、一鳴きした彼女が溜めを作る。
 どうやら、ゆっくりとコツを掴んだりコツを確かめる時間はないらしかった。
 なんて自分勝手な、もう少しくらいくれてもいいだろうに。

 「っ、よおしっ!」


 しかし今は、それがどうしようもなく心地よくもあった。
 人の事なんて最低限から上は知りもしないが、ついてきたいならついてこい。
 そんな吹き抜ける風のような勢いに胸の高鳴りを感じながら、しっかりとその首に四肢でしがみついた瞬間だった。

 「っ、しゃあッ!」

 


 「っ、あぁぁああーーーー!?」


 ついに、自らを彼女は大地から解き放つ。
 直後襲ってきた、まるで体が押しつぶされそうな力に俺はたまらず絶叫する。


 「ィーーーーーッヤッホォオーーーーーウッ!!!!」

 だが激動はそれだけではなかった。
 空を飛ぶのが初めての俺を乗せているのに、彼女は崖際を思いっきり滑り落ちたのだ。
 真っすぐ、縦に、ただただ一心に、楽しく楽しくてたまらないといわんばかりである。

 「うおわぁぁああああああああああーーーっ!!!!!」

 もちろん俺は楽しむどころではない。
 怖くて怖くてたまらず、今にも涙を溢れさせてしまいそうだった。
 しかしだからといって本当にずり落ちなどすれば、間違いなく即死だろう。
 激流のような景色にそんなことを思ってしまい、一層強い力で必死にしがみつく。
 未だ違和感のあった股の間の大きな感覚だが、今ばかりはこれが生きている証拠にすら思えてしまっていた。

 「っはは、小便漏らすなよぉおっ!!!」


 対して彼女はどこまで行っても自分勝手に吹き抜けるつもりらしく。雄々しく言い放ったかと思うと今度は姿勢を上げ、真横に飛び始めた。
 恐る恐る視線を上げる。
 どうやら方向的には、月明かりに照らされる草原に向かうようだ。
 それ自体はいいのだがしかし普通、そこに行くためには崖を超える必要がある。
 なのに今は崖の真っただ中で、つまり……


 「ーーーあぁぁっ!!!?」

 
 直感する。
 あろうことかこのワイバーンは、崖と崖の隙間を縫って飛ぶつもりなのだ。
 上からも行けただろうに、わざわざ危険な方法を選んで。


 この人は……とんでもない、バカだ!


 今更ながらにそんなことを感じる。
 確かに横幅はそれなりなのは錯乱寸前の頭でも分かったが、だからといってこんな道を行く事はないはずだ。
 通る事が出来るとは、通っていいということではない……っ!?

 「いぃっ!?」


 と思っている間にも、横の方でガラガラと音を立てて岩が崩れ落ちていった。
 既に通り過ぎた遠い場所であるからいいものの、もしこれが頭上だったりしたらどうするのか。
 少なくとも、大惨事が避けられないのは間違いない。

 「なーにビビってんだ、行くぜ――ッ!!!」

 
 しかしそんな俺を発破するように、彼女は更にスピードを上げる。
 当たらなければいいとでも言いたいのだろうか。
 それともまさかとは思うが何も考えていないのか。
 分からなかったがしかし、一つだけわかる事があった。

 この人は正真正銘、実のところバカ以外の何物でもない……!








 「どうだい、楽しかったろ!」

 「ああ、ああ、バカかと思ったよ!そっちは楽しかったろうなあ!」


 だから。
 空中に止まった後に喜色を迸らせてのそんな言葉にはもう、そう返すしかなかった。
 この人は他人の事なんぞ何一つ考えやしないらしい。
 なんという身勝手な。

 「へ、なーんだ、やっぱりそんな風にも話せるんじゃないか」

 「っ、え?……あ」

 
 等と思っていると不意に言葉がかけられる。
 そこには既にさっきまでのような荒々しさはなかった。
 打って変わって優しくて、気遣いの塊のような暖かさである。

 「……敬語じゃなくしても遠慮はあるってくらい、あたしにもわかるさ。だからまあ、ほらさ」

 「それは……」

 
 続いた言葉に絶句してしまう。
 単純な趣味だと思っていたが、こんな意味があったとは。
 バカかと思っていたけれど、もしかしたらそんなに底は浅くないのかもしれない。

 「なんて、まあいつも通りにやっちまっただけでもあるんだけどさ、へへ!」

 「さいでー……」


 と思ったが実際はどうなのか。
 どちらも本当に思えるような気もするが、果たしてどうやら。
 嘘や出まかせには感じないものの、まあいいや、既に考えるのも面倒だ。
 何だか気疲れしてしまった気がする、今は考えずに置いておこう。

 「さってと、じゃあ行くか。今度はゆっくりとな」

 「……本当に頼むよ……」

 「ははは、星が見えるくらいにゆっくりやるさ、しっかり眺めてな」

 
 等と結論を出す一方、彼女が再び動き出す。
 内心身構えるが、宣言通り今度はちゃんとゆっくりだった。
 そういえばさっきはスピードのことは言っていなかった気がする、となれば言えばゆっくりになったのだろうか?

 ……今度は、と言ったしそれも怪しいか。
 どのみち、これ以上はやめておこう。

 等々結局考えてしまい頭痛がしそうになったところで、俺は辺りを見回してみた。
 それ自体は何の気なしのことだったが……
 
 「…………」


 平原も夜の景色も、遠くの方にぽつりぽつりと見える灯りも、闇に駆けるぼやけたワーウルフの蠢きも、もちろん見たことはあった。
 しかし空からのそれらは一言で言えば、新鮮というそれに尽きた。
 とはいえ決定的に何が変わっているのかは分からない。
 もしかしたら高い位置から眺めているからなのかもしれないし、微妙に揺れ動くワイバーンの背中から見ているからなのかもしれない。
 いやそれとも、本当に何も変わっていなかったりするのだろうか。
 景色自体は変わっていなくて、物の見方そのものが変わったのだろうか。
 あまりにロマンチックに過ぎるが、もしそうならそれもいい。
 何がいいかは分からないが、とにかく悪い気はしない。

 ……案外、そういうものなのかもしれないな。

 ゆっくりと目を閉じる。
 疲れていてあまり考えたくなかったからそうしたのもあるし、結局分からなかったのもあるかもしれない。
 しかしながら耳元や頬を撫でていく緩やかな風は、確かに気持ちいいものだった。



 



 「……なあ、ちゃんとあたしはかっこいいか?」

 「へ……」

 「アンタ言ってくれただろ?」
 
 「……かっこいいよ。間違いなく。怖かったけど、それでもやっぱりかっこよかった」


 と、しばらくした後、不意に彼女が頭を上げて問いかけてきた。
 意図は分からないがもうこの際だ、そう思い、感じたままに答えてみる。
 実際、バカや考え無しなどと思いつくものを辿っていけば、最後に行き着くのはやはりそんな表現だった。

 「そうか……そっか!よおし。なら、いいや」
 

 それを聞いた彼女は、再び正面を向く。
 結局何が聞きたかったのだろう、そんな疑問が胸の中でくすぶるが。

 「んへへ、そっか。かっこいいってのは……悪くないな」


 続いた嬉しそうな様子に、俺はまあいいやと考えを止めた。
 彼女がかっこいいと言われて嬉しがっている、今はそれでいいのだろう。
 事こまやかに気に掛けるのは、言ってみればかっこよくない。

 「さてと!じゃあもういっちょ行くか!」

 「っ……あ、ああ……」


 等と格好をつけてみるが、彼女はさらにその上を行く。
 気合いの一声を上げ高と思うと再び加速を始めたのだ。
 自然と、身震いしそうになる。 
 すべてを振り切るようなあの急降下と急加速をまた味わうかと思うと、息を呑まずにはいられない。

 「んー?ッハハ、大丈夫大丈夫!だだっ広い平原だぞ?」

 「っ、つ……!」


 が、やはりこちらの事情などお構いなしらしい。
 察しているのだろうになお笑う彼女とみるみる早くなる景色、そして強風にどこかぼんやりと考え始めるが。




 

 …………うん?




 行き先の虚空を見つめているとふと唐突に、それらは閃きと感覚を連れてきた。
 言うなれば、直感をも超えた、限りなく素晴らしく感じる、そうでありながら単なる思いつきとでもいうのか。
 自分でも困惑するほどのそれは、理屈では説明できない。
 それほどにぼやけていて、しかしだからこそか確信すらできる。

 この『世界』の中では、限りなく自由だ、と。

 脈絡もない。
 馬鹿げた考え方だとすぐわかる。
 何故そう思ったのかも分からないくらい、この気づきは突然すぎる。
 だが、しかし。
 不思議と今の俺は、これは恐らくは直感なのだろう、で片付けてしまっていた。
 いや、片付けてしまえていた。

 ーー違うな。


 むしろ、こういった思考も邪魔だとすら感じていた。
 宵闇に包まれ月に照らされた景色と体全体に無遠慮に当たる感触に、ついに俺までバカになったのか。

「……」


 やはり何故だか分からないが……しかしそれはそれでいい。
 どのみち今やりたいことは、このように考えに沈む事ではないのだから。

 「……ーーーっ」

  
 頭を振って顔を上げ、深呼吸して前方を見据える。
 ワイバーンから伝わる揺れと股の間の感覚は、いつの間にかあまり気にならなくなってきていた。
 慣れ、だろうか。
 もしそうなら自分の案外な順応性の高さに驚くが。

 「グァーーーオゥ!!」


 そんなことより、風にも負けない咆哮には笑みがつい漏れてしまう。
 誰かを乗せていたとしてもこの人は、本当に楽しそうだ。
 それだけの自信があるのか、やはりそれともバカなだけか。
 しかし今はその突き抜けるような性分がありがたい。
 どんな状況でも自分らしくあれる、やはりあなたは憧れだ、と目を閉じて……




 ……手を広げてみたら、どれだけ気持ちいいのだろうか……


 「ふっ」


 ……アホか。
 考えた自分を鼻で笑いつつ、目を開ける。 
 とうとう具体的な言葉として表れた思いつきは、自分の事ながらバカバカしい。 
 加速していけばのしかかる風の圧がますます強くなっていくことは考えるまでもないだろう。
 だというのに……いや。

 考えれば、か、なるほど。

 彼女の行動を思い出す。
 計画性もなく、やりたいようにやる。
 まさしくバカで、しかしだからこそかっこいいのではないか。


 「ーっ、はぁあーーっ……」

 
 思い至ればもう、やるまでは既に瞬間だった。
 足だけで彼女の首にしがみつき、それ以外は風を感じることにだけ集中する。
 再び目を閉じて、深呼吸して恐怖を消し、ゆるやかに両腕を横に開いていく。
 
 「くっ、ぐ……っ」


 その瞬間から、へし折れそうな力で腕が後ろに持っていかれ始めた。
 骨が軋むような強烈な圧に、思わず手を握り込んで目を引き絞る。
 くぐもった声を出してしまうが……一方で体中を駆け巡る刺激がたまらなくもあった。
 重い感覚が痺れるような快感を連れてくるとでもいうのか。
 少しだけ、危険な予感もする。
 だがもしどうにかなりそうでも、俺にはこのワイバーンがついている。
 そう思えるから、だから、何も問題はないのだ。
 
 「……!」
 

 そう落ち着かせたところで、今一度ゆっくりと目を開けてみた。
 




 そこから先は、断言していい。
 最高だ、と。




 まず景色が流れていた。
 これは普通に分かる。
 だが二つ目は、初めての体験だった。 

 言うなれば、それは風。

 見えないはずの風の流れが、掴めそうなほどにしっかりと分かったのだ。
 だから思わず、無抵抗に開いていた指でそれを掴もうとしてみる。

 ……しかし掴めない。
 まあ当然だ。
 魔法も何も使えない俺が、ただ手を閉じただけで捕まえられるわけもないのだから。
  
 「……ふふっ、くくくくっ」


 だがそれでも笑みが漏れる。
 そうだ、考えてみれば当然なのである。
 風など本質は分かるはずもない。
 精霊だとかに触れたならともかく、素人の俺には感じとれるはずもない。
 ましてや、それを見る、掴むだと。

 「くくくっ」


 だがどうだ、俺は確かに掴んだ。
 勿論手の中を見ても何も残ってはいないし、何かがあった跡もないだろう。
 しかしながら確かに俺は、掴んでいた。
 この突き進む風の中でしっかりと。
 ああ、言ってみればそれは、バカになるという事を掴んだのかもしれない。
 何も考えないという事を、頭ではなく体で分かってしまったのかもしれない。
 
 「……随分と調子よさそうじゃないか?」


 彼女が語り掛けてくる。
 そういう体を取ってはいたが、いや、実のところそれは問いかけだ。
 やっとわかったかい?と。
 そしてさらに言えば、この程度で満足かい?と。
 だがそれは、俺の憧れにしてはらしくない言葉だ。
 分かりきった事を訊くなんて、そんな意地悪はかっこよくなくて、だけれども最高にかっこいい!



 だから……!


 「ああ……!けどもっとだ!もっと!」

 
 ついに俺は一歩踏み出す。
 ただの人間が入り込むにはあまりに危なっかしい、やめておいた方がいい。
 少し考えただけでそんなことが分かる、ワイバーンの領域へ。

 「…………行くぜっ!」


 だが彼女は止めなかった。
 むしろ翼を畳んで加速する。
 恐らく、もう、バカなのだろう。
 そして俺もバカだ。
 ならば止めるものなどいるはずもなく。

 「っ、おおおおおお!!!!」

 

 加速していく世界。
 一層寒々しく吹きつける夜の風。
 

 それでも。


 これはまさしく、憧れていたあの、このワイバーンと一緒に駆け抜ける夢のような現実そのものだった。
17/11/13 19:24更新 / GARU

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