怨敵に連なる少女(1) 新たなる邂逅
――【SIDE/凱&???】――
パーティーを終えた二日後――。
凱は義成からの再度の招きを受け、朝から東京へと出向いていた。
通常は瑞姫の背に乗っていくが、その瑞姫はエルノール、マルガレーテ、ロロティアの三人に従う形で王魔界に行かなければならず、同行出来ない状態だった。
このため、あまり慣れていない電車で東京へ向かう事となったのだが、そんな事情を人間社会が忖度するわけもなく、東京の朝の通勤電車はすし詰め状態の超満員。座席に座れるのは幸運な事だ。
椅子取りゲームの如き争奪戦を制した凱の隣には、茶色のランドセルを抱えた、ベレー帽を被った制服姿の少女が座っていた。
ランドセルには校章が刻まれており、それが凱に『南鳳学院』のものであると知らせるには、そう時間はかからなかった。
ふと互いに目が合うと、まるで時間が止まったかのような静寂が訪れたような錯覚が、互いの脳裏によぎる。
よく見れば、可愛らしい少女であった。
肩までで切り揃えられた姫カットの髪は艶やかの一言。
肌は白く、くりっとした大きな瞳が愛嬌の良さを引き立たせる。
だが、それでいながら、仕草の一つ一つは楚々として礼儀正しく、幼いながらも躾の行き届いた、《清廉(せいれん)》とした美しさを兼ね備えていて……と、世の中にはまだ、こんな可愛い女の子がいるのかと、凱は内心驚いた。
ランドセルを持っていることから小学生であるのは間違いないのだが、制服がこんなにも似合うのは瑞姫らヨメンバーズに匹敵すると凱は思ったくらいだ。
年相応に背は低く、女らしさはまだまだといったところだが、数年も経てば、誰もが放っておかないような美女に成長するのは間違いない、と確信させる……そんな美少女であった。
「なに考えてたんですか?」
少女は膝の上に抱えて持ったランドセルの上にちょこんと頬を押せ、凱の方を覗き込んで尋ねてくる。そんな仕草が不思議と可愛らしい。
「東京って、あんまり慣れないものだな、ってね」
「東京の人じゃないんですか?」
「うん……神奈川から通ってるよ」
「まあ」
本気で驚いた声を上げる少女だが、しかし、彼女の興味は別のところにあったらしい。
その光景は、《傍目(はため)》から見れば相当奇妙に見えたことだろう。
大人の男と小学生の少女が、《和気藹々(わきあいあい)》と電車の中で会話している……二人が一緒の駅から乗ってきたというなら、まだ近所付き合いのある関係かもしれないと想像できるだろう。
だが、二人は別々の駅から乗り込み、しかも空いているのが奇跡な時間帯の電車の中で合流し、いきなり雑談に興じているのだ。
実際、奇妙だった。
何せ二人は、未だに互いの名前すら知らない。
こうして話すようになったのも、つい一週間前からのことでしかないのだ。
こんな二人が出会ったきっかけは、ふとした偶然の産物だった。
*****
話はこの時から前の、瑞姫と杏咲が対談に臨んだ日にまで遡る。
源グループ本社へ向かう満員電車の中、制服姿の少女が近くで口を塞ぎながら何かに耐えていたを見かけてしまったのだ。ふと目が合えば、少女は顔を紅潮させながら、目を逸らしてうつむく。
(何かある――ならば、これだ!)
凱は何かあった時のため、バンテージの簡易版とも言うべき、細く長い布を両腕にそれぞれ巻いてある。
これは最近習得した《功夫(こうふ/要するにスキル)》の一つを使うためで、氣を布に伝え、蛇やロープのようにして操ったり、気で布を硬質化させて切り裂いたりするための、いわば触媒だ。
早速これを使う事になるとは思いもしなかった凱ではあるが、腕に巻いた布を慎重に解き放つと、布が少女の尻を撫でている不埒者の手首へ、獲物を狙う毒蛇の如く一気に巻き付き、これを締め上げる。
「ぎゃぁっ!」
不埒者が思わず声を上げれば、周囲が驚くのは当然であろう。
凱はその隙を逃さず、一気に布を引き、不埒者を容赦無く引き倒す。
不埒者の正体はスーツ姿の男だった。そこでタイミングよく駅に停まると、男は起き上がって一目散に逃げ出そうとしたが、通勤時間帯の混雑と、凱の布が手首に巻き付いている状態は叶わぬことであり、駆け出そうとして再度引き倒され、仰向けになりながら無様に転倒。
男は駆け付けた駅員と鉄道警察によって、敢え無く御用となった。
そうして事情聴取で数時間拘束され、少女も学校に連絡を入れたことで教員が迎えに来て、その日は終わった。
普通ならばそこでこの話はおしまいとなるものだが……どうやら少女は、かなり義理堅いというか、生真面目な性格だったらしい。
同じ電車に乗る機会があったというだけの関係だったが、その次の日、彼女は「昨日はありがとうございました」と礼を言ってきて……それからなし崩しに、互いに会う時、少女が次の電車に乗り換えるまでの十数分間、ちょっとした雑談をする関係になったのである。
*****
……本当に、出会いというのはどこから始まるか判らない。
けれど、どうにも今日は、その少女の様子がおかしい。
いつもならば少女の方から話題を振ってくるが、今回は挨拶しながら、凱が読んでいた漫画に興味を持ったくらいで、その後はずっと黙りがちになっていた。
「今日は、何か暖かいね」
「そうですね。眠くなっちゃいそうです」
こんな具合に、凱から何か喋りかければ普通に返事してくれるし、表情も特に暗くはないのだが……それでも毎日数週間も話していれば、普段よりも妙にテンションが低いことには流石に気づく。
何より、そろそろ彼女の乗換駅に着こうとしているのに、一向に席から腰を上げる気配が無い。普段ならば余裕を持って動けるようにしつつ、凱との会話を名残惜しみながらも、早めに降りる仕草を始めるのに――である。
「……どうしたの? そろそろ駅だけど」
「ん……ちょっと、なんか……」
少女の返事ははっきりせず、席を立つでもなく、曖昧な笑みを浮かべるだけ。
ほんのちょっと困ったように眉根を寄せる、その何とも言えないその表情は、どこか途方に暮れているようにも見えた。
それは彼女が、これまで凱にも見せたことの無かった表情だった。
(……何かあったのか?)
毎日十数分しか話すことのない凱は、少女がどんな日々を送っているかを細かく知らない。
彼女が毎日話してくれる日常は、ヨメンバーズや杏咲とは違った楽しさを与えてくれるが……それでも普通に日々を送っている以上、トラブルのまったく無い生活など存在しない。
それは、小学生である、隣の少女も例外ではないはずだった。
「……今日は、サボろっかな」
「え……?」
だから少し迷って、凱はそんな言葉をぼそりと口にした。
唐突な台詞に意図が読めなかったようで、訝しげな視線を送ってくる少女に、凱は小さく微笑みかける。
正直なところ、どこまで踏み込んでいいものか判断がつかないし、単なるお節介でしかないだろう。……いや、十中八九、単なるお節介だ。
それでも、凱は、困った様子で途方に暮れているこの顔見知りの少女を、そのまま放っておけなかった。
「キミもどう? 気が乗らない時は、たまにはこうするのもいいと思うよ」
*****
単にサボると決めただけで、別にどこか目的地があるわけではない。
何となく電車を乗り換え、何となく電車に乗り続けて、およそ1時間半の電車の旅
を経て、二人が降りたのは、都市部をかなり通り過ぎた海沿いの無人駅。
そこに降りたのも特に何か理由があったわけではない。
綺麗な景色でも見れば、気が晴れるだろうと思っただけのことだ。
「……大丈夫だった?」
「はい。ママに急に頭が痛くなったって言ったら、すぐに信じてくれました」
スマホを手に待合室から出てきた少女に尋ねると、彼女ははにかみながらうなずいた。
波の音が入らない場所で、今日は学校を休む旨を親に連絡していたのだ。
「お兄さんは、大丈夫、ですか?」
「ああ、こっちも連絡済み。風邪ひいたってことにしといたから。むしろキミの方が心配。いきなり休むとか言って、お母さんに怒られたりしなかった?」
「あ、それは大丈夫です」
自分から誘っておきながら、実はそこが気掛かりだった。
普通の親なら、普段通りに家を出たはずの我が子がいきなり学校を休むと言い出したら、心配するか怒るかするはずだ。気晴らしに誘っておきながら、それで結果的に彼女の負担を増やしてしまっては意味が無い。
行き当たりばったりな行動をしたことに、実は少々後悔していたのだが……結果的にそれは《杞憂(きゆう)》だったらしい。
「パパもママも仕事で忙しいから……家に帰るのは遅いですし、こういうこと、何度もあるんです」
「……そっか」
一瞬、彼女は寂しそうな表情をしていたが、そこは触れるべきではないと凱は敢えて気づかないふりをすることにした。
彼女が問題ないと言うのであれば、無理に踏み入るものではないからだ。
「……えへへ」
凱の微妙な表情に気がついたらしい少女は、気まずさを誤魔化すように、あるいは凱を気遣うように、小さく、悪戯っぽい笑みで取り繕う。
「こんなふうにサボるなんて、はじめて」
(……いい子なんだな、ホントに)
今さらのようにつくづくそう思う凱に、少女は初めて名を明かす。
少女の名は、《笹川麻理依(ささがわ・まりい)》。12歳の小学六年生。
凱は初めて、そしてようやく少女の名前と年齢を知り、自己紹介を返す。
少女の苗字に嫌な引っ掛かりを覚える凱だったが、確信に繋げられないのも事実だったため、表に出す訳にいかないとばかりに平静を装う。
そうでなくとも単なる顔見知り程度の関係でしかないのに、大胆な誘いをしてしまったものだと後悔半分。
サボりは社会人であってもダメな事だが、小学生……特にこんな真面目な少女にとって一大事であろうことは明白。
「でも、ちょっとワクワクするかも。海、きれいだし」
麻理依と名乗った少女は、言いながらフェンスに寄りかかり、改めてホームからの海の景色を眺めた。
都市部から相当距離のあるこの駅は、海岸線のすぐそばまで迫った山の中腹にある。そんな立地にあるためか、景色は綺麗な反面、海風が酷く強い。
「ホント、きれい」
冬制服用のベレー帽を海風で飛ばされないように手で押さえながら呟いた麻理依の表情は、相変わらずよく判らなかった。暗いわけでもなく、ぼんやりと海を眺めているその横顔は、少なくとも景色に見とれているような感じはしない。
そのままにしておくのも気が引けて、凱は近くにあった自動販売機でミルクティーを買い、麻理依に手渡した。
「あ……お金……」
「いいよ。奢り」
勝手に買っておいて金を要求するなんて出来る訳もない。
少し強引に押しつけると、こちらの意図を察してくれたらしく、麻理依は素直に受け取った。
「じゃ……いただきます」
「駅の中に行こう。無人駅だし」
凱の言葉に麻理依は素直に従い、二人は無人の駅舎に入る。
椅子に座り、麻理依がキャップを開けて飲み始めたのを確認してから、凱も自分用に買ってきたミルクティーを開け、それを口につけた。
ずっと空調の効いていた電車内にいたせいだろう、自分でも思った以上に喉が渇いていたが、凱はゆったりとしたペースで飲んでいる。
麻理依も同じだったらしく、ゆっくり少しずつ飲んでいる。
互いにじっくり時間をかけて飲み切り、ペットボトルから口を離すと、麻理依はしばらくうつむく。
そこでようやく何かの思い切りがついたようで、麻理依はゆっくりと口を開いた。
「……あの、実は、私……」
しかし、そこで勇気が引っ込んでしまったのか、口を《噤(つぐ)》んでしまう。
再びしばらく黙り込んだ後、むしろ沈黙に耐え切れなくなった様子で、麻理依はおずおずと、本調子でなくなった理由を話し始める。
「パパとママ……ううん、笹川の人たちを異常に感じてるんです」
「…………」
「パパもママも、おじさんも、“かおり”お姉ちゃんも、かずまお兄ちゃんも……なにかがおかしいって感じてしまうんです」
麻理依が発した、『笹川』と『かおり』の言葉に、凱は軽い頭痛と目まいを覚えるが、ひとまずは少女の言葉を聞くことにした。
「チカンにあっても言いだせる雰囲気じゃないし……」
「……そっか」
学校でイジメにでも遭ったのかと思っていたが……よもやそういうことだったとは思いもしなかった。
けれど考えてみれば、充分にそれはあり得る事態ではある。
彼女の家の事情については現状では測りかねるが、痴漢についてはどこかで聞いた話を思い出していた。
痴漢という犯罪者は、容姿の美醜よりも、大人しそうだったり気弱そうな女性を狙う傾向があるという。
凱と話している間は笑顔も多く、元気な様子を見せることの多い麻理依だが、彼女の立ち振る舞いは基本的には楚々としたものであり、見方を変えれば、確かにそれは気弱そうにも見えてしまうことだろう。
その上、麻理依は、誰もが振り返らずにはいられないほどの美少女なのだ。
しかも、制服に包まれていながら、小学生とは思えないほど胸と腰回りのボリュームが凄いのだ。まさに女としての肉感が制服越しにでも伝わるような感じが漂っており、俗にロリ巨乳、あるいはトランジスタグラマーと言えてしまうような体つきである。
大人しそうな彼女ゆえ、痴漢にロリコンの気があれば、十中八九、格好のターゲットになってしまうだろう。
「……お兄さんは、自分がなんとかしてやる、とか、そういうこと言わないんですね」
黙り込んでしまった凱に、麻理依はそんな言葉を投げかける。
「そりゃ……本当に何とかしてあげられることなら、そう言うけど」
凱としてはそう返すしかない。
もちろん、その場限りの口当たりのいい慰めとして、彼女の言うように「俺がどうにかしてやる」といったような台詞を口に出来ただろう。
しかし凱は、そんな事はしたくなかった。
一介の社会人でしかない凱では、まだ力が無いからだ。
それに、痴漢という存在そのものが、凱と彼の亡父の人生を壊した忌まわしい仇敵であり、痴漢冤罪という忌まわしい過去を刻みつけた怨敵。
凱を図らずも陥れる手助けをした、顔も素性も判らぬ痴漢の真犯人は、きっと今も太陽の下を堂々と闊歩しているのだろう。
よしんば、痴漢を現行犯で捕まえられたとしても、痴漢は一人だけではない。
麻理依のような美少女であれば、彼女を狙う痴漢が新たに現れるだけ。
そんないたちごっこでは、今の凱に出来る事は皆無だ。
果たして、麻理依はどんな気持ちでいるのだろうか。
その彼女はただただ無表情に、凱の顔を見つめてきた。怒っているわけでもなく、軽蔑しているわけでもない。ただ、凱の瞳の奥に宿るものを感じ取ったのか、麻理依が言葉を発する。
「……ねえ、お兄さん」
しばらく奇妙な視線を交わし合い……そして、再び意を決した口調で彼女が口にした提案に……凱は耳を疑ってしまった。
「私を、今日みたいに、またどこかに連れてってくれませんか?」
「……キミが嫌じゃなければ」
わずかに逡巡して、凱はそう答える。
二人は海をしばらく眺めた後、無人駅に戻って軽い語らいをした。
そうして互いに連絡先を交換し、帰路に就いたのは、夕方になる少し前。
凱の心の中で何かが引っかかる何かが解明するのは、もう少し先の話。
パーティーを終えた二日後――。
凱は義成からの再度の招きを受け、朝から東京へと出向いていた。
通常は瑞姫の背に乗っていくが、その瑞姫はエルノール、マルガレーテ、ロロティアの三人に従う形で王魔界に行かなければならず、同行出来ない状態だった。
このため、あまり慣れていない電車で東京へ向かう事となったのだが、そんな事情を人間社会が忖度するわけもなく、東京の朝の通勤電車はすし詰め状態の超満員。座席に座れるのは幸運な事だ。
椅子取りゲームの如き争奪戦を制した凱の隣には、茶色のランドセルを抱えた、ベレー帽を被った制服姿の少女が座っていた。
ランドセルには校章が刻まれており、それが凱に『南鳳学院』のものであると知らせるには、そう時間はかからなかった。
ふと互いに目が合うと、まるで時間が止まったかのような静寂が訪れたような錯覚が、互いの脳裏によぎる。
よく見れば、可愛らしい少女であった。
肩までで切り揃えられた姫カットの髪は艶やかの一言。
肌は白く、くりっとした大きな瞳が愛嬌の良さを引き立たせる。
だが、それでいながら、仕草の一つ一つは楚々として礼儀正しく、幼いながらも躾の行き届いた、《清廉(せいれん)》とした美しさを兼ね備えていて……と、世の中にはまだ、こんな可愛い女の子がいるのかと、凱は内心驚いた。
ランドセルを持っていることから小学生であるのは間違いないのだが、制服がこんなにも似合うのは瑞姫らヨメンバーズに匹敵すると凱は思ったくらいだ。
年相応に背は低く、女らしさはまだまだといったところだが、数年も経てば、誰もが放っておかないような美女に成長するのは間違いない、と確信させる……そんな美少女であった。
「なに考えてたんですか?」
少女は膝の上に抱えて持ったランドセルの上にちょこんと頬を押せ、凱の方を覗き込んで尋ねてくる。そんな仕草が不思議と可愛らしい。
「東京って、あんまり慣れないものだな、ってね」
「東京の人じゃないんですか?」
「うん……神奈川から通ってるよ」
「まあ」
本気で驚いた声を上げる少女だが、しかし、彼女の興味は別のところにあったらしい。
その光景は、《傍目(はため)》から見れば相当奇妙に見えたことだろう。
大人の男と小学生の少女が、《和気藹々(わきあいあい)》と電車の中で会話している……二人が一緒の駅から乗ってきたというなら、まだ近所付き合いのある関係かもしれないと想像できるだろう。
だが、二人は別々の駅から乗り込み、しかも空いているのが奇跡な時間帯の電車の中で合流し、いきなり雑談に興じているのだ。
実際、奇妙だった。
何せ二人は、未だに互いの名前すら知らない。
こうして話すようになったのも、つい一週間前からのことでしかないのだ。
こんな二人が出会ったきっかけは、ふとした偶然の産物だった。
*****
話はこの時から前の、瑞姫と杏咲が対談に臨んだ日にまで遡る。
源グループ本社へ向かう満員電車の中、制服姿の少女が近くで口を塞ぎながら何かに耐えていたを見かけてしまったのだ。ふと目が合えば、少女は顔を紅潮させながら、目を逸らしてうつむく。
(何かある――ならば、これだ!)
凱は何かあった時のため、バンテージの簡易版とも言うべき、細く長い布を両腕にそれぞれ巻いてある。
これは最近習得した《功夫(こうふ/要するにスキル)》の一つを使うためで、氣を布に伝え、蛇やロープのようにして操ったり、気で布を硬質化させて切り裂いたりするための、いわば触媒だ。
早速これを使う事になるとは思いもしなかった凱ではあるが、腕に巻いた布を慎重に解き放つと、布が少女の尻を撫でている不埒者の手首へ、獲物を狙う毒蛇の如く一気に巻き付き、これを締め上げる。
「ぎゃぁっ!」
不埒者が思わず声を上げれば、周囲が驚くのは当然であろう。
凱はその隙を逃さず、一気に布を引き、不埒者を容赦無く引き倒す。
不埒者の正体はスーツ姿の男だった。そこでタイミングよく駅に停まると、男は起き上がって一目散に逃げ出そうとしたが、通勤時間帯の混雑と、凱の布が手首に巻き付いている状態は叶わぬことであり、駆け出そうとして再度引き倒され、仰向けになりながら無様に転倒。
男は駆け付けた駅員と鉄道警察によって、敢え無く御用となった。
そうして事情聴取で数時間拘束され、少女も学校に連絡を入れたことで教員が迎えに来て、その日は終わった。
普通ならばそこでこの話はおしまいとなるものだが……どうやら少女は、かなり義理堅いというか、生真面目な性格だったらしい。
同じ電車に乗る機会があったというだけの関係だったが、その次の日、彼女は「昨日はありがとうございました」と礼を言ってきて……それからなし崩しに、互いに会う時、少女が次の電車に乗り換えるまでの十数分間、ちょっとした雑談をする関係になったのである。
*****
……本当に、出会いというのはどこから始まるか判らない。
けれど、どうにも今日は、その少女の様子がおかしい。
いつもならば少女の方から話題を振ってくるが、今回は挨拶しながら、凱が読んでいた漫画に興味を持ったくらいで、その後はずっと黙りがちになっていた。
「今日は、何か暖かいね」
「そうですね。眠くなっちゃいそうです」
こんな具合に、凱から何か喋りかければ普通に返事してくれるし、表情も特に暗くはないのだが……それでも毎日数週間も話していれば、普段よりも妙にテンションが低いことには流石に気づく。
何より、そろそろ彼女の乗換駅に着こうとしているのに、一向に席から腰を上げる気配が無い。普段ならば余裕を持って動けるようにしつつ、凱との会話を名残惜しみながらも、早めに降りる仕草を始めるのに――である。
「……どうしたの? そろそろ駅だけど」
「ん……ちょっと、なんか……」
少女の返事ははっきりせず、席を立つでもなく、曖昧な笑みを浮かべるだけ。
ほんのちょっと困ったように眉根を寄せる、その何とも言えないその表情は、どこか途方に暮れているようにも見えた。
それは彼女が、これまで凱にも見せたことの無かった表情だった。
(……何かあったのか?)
毎日十数分しか話すことのない凱は、少女がどんな日々を送っているかを細かく知らない。
彼女が毎日話してくれる日常は、ヨメンバーズや杏咲とは違った楽しさを与えてくれるが……それでも普通に日々を送っている以上、トラブルのまったく無い生活など存在しない。
それは、小学生である、隣の少女も例外ではないはずだった。
「……今日は、サボろっかな」
「え……?」
だから少し迷って、凱はそんな言葉をぼそりと口にした。
唐突な台詞に意図が読めなかったようで、訝しげな視線を送ってくる少女に、凱は小さく微笑みかける。
正直なところ、どこまで踏み込んでいいものか判断がつかないし、単なるお節介でしかないだろう。……いや、十中八九、単なるお節介だ。
それでも、凱は、困った様子で途方に暮れているこの顔見知りの少女を、そのまま放っておけなかった。
「キミもどう? 気が乗らない時は、たまにはこうするのもいいと思うよ」
*****
単にサボると決めただけで、別にどこか目的地があるわけではない。
何となく電車を乗り換え、何となく電車に乗り続けて、およそ1時間半の電車の旅
を経て、二人が降りたのは、都市部をかなり通り過ぎた海沿いの無人駅。
そこに降りたのも特に何か理由があったわけではない。
綺麗な景色でも見れば、気が晴れるだろうと思っただけのことだ。
「……大丈夫だった?」
「はい。ママに急に頭が痛くなったって言ったら、すぐに信じてくれました」
スマホを手に待合室から出てきた少女に尋ねると、彼女ははにかみながらうなずいた。
波の音が入らない場所で、今日は学校を休む旨を親に連絡していたのだ。
「お兄さんは、大丈夫、ですか?」
「ああ、こっちも連絡済み。風邪ひいたってことにしといたから。むしろキミの方が心配。いきなり休むとか言って、お母さんに怒られたりしなかった?」
「あ、それは大丈夫です」
自分から誘っておきながら、実はそこが気掛かりだった。
普通の親なら、普段通りに家を出たはずの我が子がいきなり学校を休むと言い出したら、心配するか怒るかするはずだ。気晴らしに誘っておきながら、それで結果的に彼女の負担を増やしてしまっては意味が無い。
行き当たりばったりな行動をしたことに、実は少々後悔していたのだが……結果的にそれは《杞憂(きゆう)》だったらしい。
「パパもママも仕事で忙しいから……家に帰るのは遅いですし、こういうこと、何度もあるんです」
「……そっか」
一瞬、彼女は寂しそうな表情をしていたが、そこは触れるべきではないと凱は敢えて気づかないふりをすることにした。
彼女が問題ないと言うのであれば、無理に踏み入るものではないからだ。
「……えへへ」
凱の微妙な表情に気がついたらしい少女は、気まずさを誤魔化すように、あるいは凱を気遣うように、小さく、悪戯っぽい笑みで取り繕う。
「こんなふうにサボるなんて、はじめて」
(……いい子なんだな、ホントに)
今さらのようにつくづくそう思う凱に、少女は初めて名を明かす。
少女の名は、《笹川麻理依(ささがわ・まりい)》。12歳の小学六年生。
凱は初めて、そしてようやく少女の名前と年齢を知り、自己紹介を返す。
少女の苗字に嫌な引っ掛かりを覚える凱だったが、確信に繋げられないのも事実だったため、表に出す訳にいかないとばかりに平静を装う。
そうでなくとも単なる顔見知り程度の関係でしかないのに、大胆な誘いをしてしまったものだと後悔半分。
サボりは社会人であってもダメな事だが、小学生……特にこんな真面目な少女にとって一大事であろうことは明白。
「でも、ちょっとワクワクするかも。海、きれいだし」
麻理依と名乗った少女は、言いながらフェンスに寄りかかり、改めてホームからの海の景色を眺めた。
都市部から相当距離のあるこの駅は、海岸線のすぐそばまで迫った山の中腹にある。そんな立地にあるためか、景色は綺麗な反面、海風が酷く強い。
「ホント、きれい」
冬制服用のベレー帽を海風で飛ばされないように手で押さえながら呟いた麻理依の表情は、相変わらずよく判らなかった。暗いわけでもなく、ぼんやりと海を眺めているその横顔は、少なくとも景色に見とれているような感じはしない。
そのままにしておくのも気が引けて、凱は近くにあった自動販売機でミルクティーを買い、麻理依に手渡した。
「あ……お金……」
「いいよ。奢り」
勝手に買っておいて金を要求するなんて出来る訳もない。
少し強引に押しつけると、こちらの意図を察してくれたらしく、麻理依は素直に受け取った。
「じゃ……いただきます」
「駅の中に行こう。無人駅だし」
凱の言葉に麻理依は素直に従い、二人は無人の駅舎に入る。
椅子に座り、麻理依がキャップを開けて飲み始めたのを確認してから、凱も自分用に買ってきたミルクティーを開け、それを口につけた。
ずっと空調の効いていた電車内にいたせいだろう、自分でも思った以上に喉が渇いていたが、凱はゆったりとしたペースで飲んでいる。
麻理依も同じだったらしく、ゆっくり少しずつ飲んでいる。
互いにじっくり時間をかけて飲み切り、ペットボトルから口を離すと、麻理依はしばらくうつむく。
そこでようやく何かの思い切りがついたようで、麻理依はゆっくりと口を開いた。
「……あの、実は、私……」
しかし、そこで勇気が引っ込んでしまったのか、口を《噤(つぐ)》んでしまう。
再びしばらく黙り込んだ後、むしろ沈黙に耐え切れなくなった様子で、麻理依はおずおずと、本調子でなくなった理由を話し始める。
「パパとママ……ううん、笹川の人たちを異常に感じてるんです」
「…………」
「パパもママも、おじさんも、“かおり”お姉ちゃんも、かずまお兄ちゃんも……なにかがおかしいって感じてしまうんです」
麻理依が発した、『笹川』と『かおり』の言葉に、凱は軽い頭痛と目まいを覚えるが、ひとまずは少女の言葉を聞くことにした。
「チカンにあっても言いだせる雰囲気じゃないし……」
「……そっか」
学校でイジメにでも遭ったのかと思っていたが……よもやそういうことだったとは思いもしなかった。
けれど考えてみれば、充分にそれはあり得る事態ではある。
彼女の家の事情については現状では測りかねるが、痴漢についてはどこかで聞いた話を思い出していた。
痴漢という犯罪者は、容姿の美醜よりも、大人しそうだったり気弱そうな女性を狙う傾向があるという。
凱と話している間は笑顔も多く、元気な様子を見せることの多い麻理依だが、彼女の立ち振る舞いは基本的には楚々としたものであり、見方を変えれば、確かにそれは気弱そうにも見えてしまうことだろう。
その上、麻理依は、誰もが振り返らずにはいられないほどの美少女なのだ。
しかも、制服に包まれていながら、小学生とは思えないほど胸と腰回りのボリュームが凄いのだ。まさに女としての肉感が制服越しにでも伝わるような感じが漂っており、俗にロリ巨乳、あるいはトランジスタグラマーと言えてしまうような体つきである。
大人しそうな彼女ゆえ、痴漢にロリコンの気があれば、十中八九、格好のターゲットになってしまうだろう。
「……お兄さんは、自分がなんとかしてやる、とか、そういうこと言わないんですね」
黙り込んでしまった凱に、麻理依はそんな言葉を投げかける。
「そりゃ……本当に何とかしてあげられることなら、そう言うけど」
凱としてはそう返すしかない。
もちろん、その場限りの口当たりのいい慰めとして、彼女の言うように「俺がどうにかしてやる」といったような台詞を口に出来ただろう。
しかし凱は、そんな事はしたくなかった。
一介の社会人でしかない凱では、まだ力が無いからだ。
それに、痴漢という存在そのものが、凱と彼の亡父の人生を壊した忌まわしい仇敵であり、痴漢冤罪という忌まわしい過去を刻みつけた怨敵。
凱を図らずも陥れる手助けをした、顔も素性も判らぬ痴漢の真犯人は、きっと今も太陽の下を堂々と闊歩しているのだろう。
よしんば、痴漢を現行犯で捕まえられたとしても、痴漢は一人だけではない。
麻理依のような美少女であれば、彼女を狙う痴漢が新たに現れるだけ。
そんないたちごっこでは、今の凱に出来る事は皆無だ。
果たして、麻理依はどんな気持ちでいるのだろうか。
その彼女はただただ無表情に、凱の顔を見つめてきた。怒っているわけでもなく、軽蔑しているわけでもない。ただ、凱の瞳の奥に宿るものを感じ取ったのか、麻理依が言葉を発する。
「……ねえ、お兄さん」
しばらく奇妙な視線を交わし合い……そして、再び意を決した口調で彼女が口にした提案に……凱は耳を疑ってしまった。
「私を、今日みたいに、またどこかに連れてってくれませんか?」
「……キミが嫌じゃなければ」
わずかに逡巡して、凱はそう答える。
二人は海をしばらく眺めた後、無人駅に戻って軽い語らいをした。
そうして互いに連絡先を交換し、帰路に就いたのは、夕方になる少し前。
凱の心の中で何かが引っかかる何かが解明するのは、もう少し先の話。
25/09/24 03:57更新 / rakshasa
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