逆怨みと医療サバトと禁断の力
明石数秀(あかし・かずひで)は刑事部捜査課・資料室管理係、通称・資管係で来る日も来る日も資料整理をしていた。
この係に左遷させられて以来、風星学園への復讐心を糧に仕事をこなしていたが、先の一ノ瀬兄弟と組んだ襲撃作戦は大失敗に終わる。
アリバイ工作で身分は守れたが、代償として貴重な手駒を失う破目になった。
さらには先任の警部が一か月前に定年で警察を去って、一人での勤務となっているのだが、人が来ないのをいいことに、今では空いた時間を大学時代の仲間や後輩らとの情報交換に費やしている。
そんな、ある日のこと――
「――クロードと連絡がつかないだと?」
『はい。『手頃な女見つけたから寝取ってくる』って出かけたっきりで……。家にも戻ってないそうで、両親が捜索願出したらしいッス』
「はぁ?」
『それと、桜井が高速で事故ったんス。正面衝突で車も大破だったとかで……。医者は重傷なのが奇跡って言ってたッス。一命は取り留めたんですが、顔が変形したそうで……』
「桜井? あぁ、女漁りの天才児と言われた桜井清二(さくらい・せいじ)か」
『仲間と遠征先からの帰り、かなりのスピードで突っ込んだらしいッス』
「らしいらしいってな。おめー、さっきから推測で物言ってんじゃねーよ!」
『こっちも聞いた話でしか分からないんスよ! クロードさんの両親にそのことで聞こうとしたら叩き出されるし、桜井は面会謝絶。これでどうやって聞くんスか!? それなら先輩がどうにかしてくださいよ! 先輩なら警察の力でいくらでも犯人を仕立て上げられるでしょ!』
この言葉に明石の怒りが瞬間沸騰する。
「そうしたくても出来ねぇのを知ってて言ってのかゴラァッ! 他頼る前に自分で探せやカス野郎がぁ!」
『ひぃぃ! す、すいません! すぐに、すぐにさがしますぅ!(ブツッ)』
「ええいクソッ! クソクソクソクソォォォォ!」
腹の底から吠えると、一人しかいない仕事場で怒りに任せながら机に何度も拳を叩き付ける。
そうして呻くように恨み節を吐き出す。
「見てろよ、風星のクズどもめ……。必ずのし上がって、徹底的に叩き潰してやるからな!」
そこにまた携帯の着信音が鳴る。だが、その液晶画面に映るのは、全く知らない電話番号だった。明石は恐る恐る電話に出る。
「も……、もしもし」
『明石数秀君で間違いないな?』
「――っ!? は……、はい」
重く威厳のある声が本人確認をしてくると、明石もたまらず返答する。
全く知らない人物からの突然の電話に、明石は混乱し始めていた。
『突然電話して済まんな。夏目会総裁と言えば、分かるな?』
「――っっ!!」
『明石君。報告書を読ませてもらったが、きみの大学での活躍は大変目覚ましい。女を弄び、馬鹿で弱い男から搾り取る……。そのふてぶてしさとずる賢さは、ヒラの警官としておくのは実に惜しい』
「あ、ありがとうございます」
『そこで提案だが……、きみをキャリア警官として復帰できるよう俺が掛け合ってやる。確か警部だったか? なに、こう見えて俺はサツにも顔利くんだよ。それに――俺はきみのような優秀な人材を貶めた不埒者を許せねぇんでな』
「優秀な人材、ですか?」
『優秀な人間ってぇのはな、犯罪を己の力として使いこなせる者だ。それを否定するバカなど、搾り取られるだけの奴隷で十分。まあ、俺もそのような馬鹿には虫唾が走るぜ』
「……同感です」
『それで、俺の提案は――』
「はい! 是非ともお願いいたします!」
『話が早くて助かるぜ。じゃあ早速手配してやる。色々と掛け合うから一か月は待て』
「ありがとうございます!」
『それと、明石君がそのようになった原因を排除しようじゃないか。協力するよ』
「はい! 是非とも!」
救いの手が来た――明石は心の底からそう感じた。
それから一か月後、明石は警察庁警備局警備企画課へ警部として赴任するという異例の人事が下り、警察内は騒然となるのだった。
彼は早速、かねてからの復讐計画を実行に移すべく、風星学園関係者の洗い出しを行い、そこで格好の標的を目にした。
「ハッハッハッハ、こんなとこにいやがったのかよ。早速始末するか。――おい、こいつを徹底的にマークして、一人になったら報せろ。追い込みかけてブチ殺す」
その書類に記されていた名は、龍堂凱だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから一週間後。
凱は一人で買い物をした帰り、突然の襲撃を受けた。
複数の車が道を塞ぎながら、凱に向けて突進してきたのだ。
凱も逃げるものの、両手に大量の食材が入った買い物袋を持っていたのが災いし、思うように動きが取れない。そうしてすべての退路を塞がれ、最後に迫ってきた車に追突されたのである。
食品類を道や車にぶちまけながら道路に倒された凱は、罵声とともに降りてきた者たちに棒や蹴りで滅多打ちにされた。反撃の隙も与えられないままに。
「こんガキャァ! ワシの車汚しよって!」
「ガキがなめんじゃねぇぞコラァ!」
「とっとと死にやがれワリャァ!」
散々に叩きのめされるのを見て笑い転げる明石は、笑いながら悠々と車を降り、勝ち誇ったかのようにゆっくりと凱の下に歩み寄る。
「よう、竜宮のガキ。この時をずぅ〜っと待ってたぜ。よ〜く似合ってんじゃねぇか。それがてめーのあるべき姿だぜ」
「……バカ石(し)の……カス秀……かよ……、懲りんやっちゃ……な、……テメェ……も」
「やかましい! 少なくとも、てめーさえいなけりゃ、こうならなかったんだよぉ!」
カス呼ばわりされた明石の顔に青筋が浮かび、動けない凱に噛みつくような声で怒鳴りつける。
逆怨みもここまで行くと執念と言ってもいい。凱を「自分の欲望を阻んだクズ野郎」としか認識していない明石にとって、凱は存在そのものが邪魔だった。
「……自業自得って、言葉も知らん、か。大学ってえのは……紙切れ、一枚で……クズを、育てる、施設だし……な……」
盛大な皮肉をぶつけながら悪魔のような笑みを浮かべる凱。
動けず血だらけになりながらも抵抗する姿に、明石の怒りがさらに高まる。
「大学に行ける金も、頭も、ルックスもねーくせに! お情けで高校出してもらったのが精々なクズがほざくなコラァ!」
「ぐっ……」
動けないのをいいことに、鬱憤晴らしに凱の頭を蹴りつける明石。その顔はもはや殺人鬼のものだ。
「さって、もうちょっと遊んでいたいとこだが、あいにく俺は忙しいんだ。強きを助け、弱きを裁く、それが警察であり法律だ。てめーを今から、『存在の罪』でちゃっちゃと処刑してやる。俺たち特殊事案執行部と夏目会の総力でな。ありがたく思えよ、ハッハッハッハ!」
撃鉄を起こす音がそこかしこから響く。
凱の視界の全てが遅く感じる。
〈ああ……、これが……死ぬってことか……〉
視界がぼやけ、耳にはスノーノイズだけが入ってくる。
彼はそのまま意識を手放してしまった。
だが、そのスノーノイズと認識していたものは、竜巻を伴う強風だった。
凱を包み込んだ竜巻は、そのまま彼をさらって飛び去ろうとしていく。
「くそ、逃がすな、撃て! 撃てぇーーっ!」
明石がすかさず発砲を命令。一斉射撃が始まるが、たとえ銃弾と言えども強風には敵わず、逸れて車や塀、電柱を撃ち抜き、挙句は味方も撃ち抜いてしまう。
『許さない……、許さない! お前たちを絶対許さない!!』
響き渡る声が明石たちの耳をつんざく。
「こっちのセリフだ、バカヤローが! 追えー! 風星にガサ入れだ!」
「明石警部! さすがにそれは本部に目を付けられるのでは……」
「るせぇ! やれっつったらやれぇ! 潰されてぇかぁ!」
特殊事案執行部の警官の指摘にブチ切れ、怒鳴り散らす明石。
そこに夏目会の幹部らしき男が声をかける。
「兄ちゃん。勢いづくのはいいんだけどよぉ。誰のお陰で今の地位があるかっての、忘れんなや」
「なっ」
「せっかくキャリアに返り咲いて栄転できたんだろ? うちの総裁、デカい失敗やったヤツにゃぁ容赦ねぇお方だぞ」
「……っ!」
「それによぉ、これ、上に通さねぇでやったんだろぉ? あのガキがケガしたからってよぉ、ここで勇み足踏んで足付いちまったら、お前どうすんだ? クビじゃぁすまねぇだろうなぁ。そうなったら、どんな目に遭うか分かってんだろぉ? 巻き添えはごめんだぜ」
「くっ……」
「オンナ寝取りまくってウハウハしてぇんだろ? だったら、兄ちゃんが今どうすべきかって、わかってんじゃねぇかぁ?」
明石にとって、待ちに待った逆襲の機会を逃すことは非常に腹立たしかった。
だが、自分を警部の地位に戻してくれた夏目会総裁の顔に泥を塗るわけにもいかないのも現実だ。
警察とヤクザ――公権力組織と反社会組織という真逆な位置にありながら、メンツを重んじるという点では全く同じであるという皮肉。
思いがけぬ足枷によって、せっかくの追撃を諦めなければならない事実が、明石の心を怒りに染める。
「ああああああああ! クソがクソがクソがああああああああ!」
そうして、明石は近所迷惑も省みない大声で吠えまくった。
「次こそぶっ殺してやる! 撤収だ!」
「野郎ども、けぇるぞ!」
凱はこうして、予期せぬ幸運によって助け出されたのである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「酷い……、いったい誰が旦那さまを!?」
ロロティアは怒りと驚きと悲しみがない交ぜになりながら、悲鳴に近い声を上げた。
凱は瑞姫の手によって救われ、エルノール・サバトの治療室に収容されている。
怪我の状態が酷く、少しでも遅れていれば殺されていたか、出血多量で死んでいただろう。
手当てが間に合ったため一命は取り留めたが、予断を許さない状態だった。
それにどうしてリンドヴルムも魔竜王の鎧衣も出していなかったのか、エルノールも気にかかる点ではあったが、その疑問はすぐに解決する。
急に飛び出し、憤怒を湛えて戻ってきた瑞姫が、怒りに駆られながらも理性を振り絞り、見たままの状況を教えてくれたからだ。
彼女の話によると――
車と大勢の人間に囲まれて、袋叩きにされていた凱の姿を見たのだ。
買っていた大量の食材もぶちまけられて使い物にならなくされ、囲んでいた者たちは凱に向けて拳銃を構えていた。
つまり、凱は買い物帰りの両手が塞がった状態のところを襲われたのである。
瑞姫に限らず、妻たちの誰もがいつも凱と一緒にいるとは限らない。
襲撃者はそのわずかな隙を狙ったのだ。
「……瑞姫よ。よく……、よく、助け出してくれたのう……。じゃから、今は眠るんじゃ!」
エルノールは涙をこらえながら、睡眠の魔法を数倍も増幅して瑞姫に放つ。
さすがのドラゴンとはいえ、瑞姫はまだ未熟。遥かに永い時を生きるバフォメットに太刀打ち出来ず、あっけなく眠りに落ちた。
瑞姫の憤怒をこれ以上増幅させないがためのものだ。
「……グレイリア・サバトに連絡を入れてくれ。『力を貸して欲しい』、とな」
エルノールはそう部下に命じて握り拳を作ると、抑えきれなくなった涙が滂沱となって流れ出る。
マルガレーテも朱鷺子も亜莉亜もロロティアも、全員が沈痛な面持ちでいた。
「皆、今は兄上の回復に全力を注ごうぞ。……不埒者共め……、今に見ておれ! 必ずやこの報いを受けさせてくれる! 千倍返しじぁっ!」
エルノールは今、瑞姫の怒りの一端を共有したような気持ちになっていた。
大事な夫にこれほどの危害を加えた以上、泣き寝入りする気など更々無い。
凱が倒れたと反対勢力が知るのもそう遅くないが、それでも彼女たちは凱の回復を信じるしかない。
最悪の事態を切り抜けるためにも、全力を尽くす。ただそれだけなのだから。
翌未明になって、白い衣装をまとった魔物娘の一団がエルノール・サバトのポータルを通ってやって来た。
彼女らこそ、グレイリア・サバトの構成員たちである。
長であるバフォメットのグレイリアは医療魔法の開祖として、魔物勢力で知らない者はまずいない。
彼女の率いるサバトは、エルノール・サバトとは違う方向で異端と言えよう。
研究機関にして医療機関であるグレイリア・サバトは、加入が厳しいことでも知られる。
それはグレイリアが出会った人間の医者から受け継ぎ、医療魔法を生み出したほどの絶対たる信念ゆえであり、患者を救う強き意志を持った者、深い奉仕精神を持つ者だけがグレイリア・サバトへの加入を許され、開祖の信念は構成員たちに叩き込まれるのだ。
そのグレイリア・サバトの魔物娘たちの魔法と医術によって、凱は死の淵から救い出された。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昏睡状態にある凱の意識の中で何かがくすぶる。
以前、ドラゴニアにいた時、リンドヴルムを手にした時と同じものだ。
黒紫(くろむらさき)の炎が目に前に広がると、ゆっくり確実に燃え上がりながら四つに分裂し、様々な姿の動物を形作る。
それらは凱を取り囲むと、燃えたり、凍えたり、切り裂かれたり、殴られるような、様々な痛みを彼の意識に刷り込んでいく。
――引き裂け、切り刻め
――引き千切れ、叩きのめせ
――燃やせ、すべてを焼き尽くせ
――壊せ、潰せ、すべてをねじ伏せろ
声が、痛みが、凱の意識を襲い続ける。
彼の心に炭が、薪が、種火がくべられ、黒い炎が再び燃え盛る。
復讐と言う名の黒い炎が……。
凱を散々に扱き下ろし、いじめ続けた者たちの姿が次々と浮かぶ。
老若男女問わず嘲笑い続けるその姿は、凱の怒りを何倍にも、何十倍にも、何百倍にも膨れ上がらせていく。
体に力が満ちる。
幸いにも凱は体を相応に鍛えていたため、それなりに痛みは伴ったが、耐える事は出来た。
地下基地の夜伽部屋にある広いベッドの上で、凱はゆっくりと目覚めた。
体内に激しい違和感を覚える彼は、眠っている間に聞いた言葉のままに念じ、集中してみると、黒紫に染まる気が両の掌を炎のように包む。
「これは……」
忘れるな――とでも言いたいのだろうか。
同じ地下基地にある訓練場に一人赴いた凱は、過去に受けた仕打ちを意識に思い浮ばせ、己の無力さと人間の悪意に対する憎しみを燃やし、それを両腕に集中させる。
すると、肘から指先まで黒紫の気が刃のように収束されていく。
それはまさに、凱の憎悪と復讐心が力となって体現したのだ。
出てきた藁人形や畳表(たたみおもて)の巻物が刃と化した上腕で斬られると、その切断面が黒紫の炎で燃やされていく。
〈力だ……、力が満ち溢れる!〉
力を確信した凱は、さらに独白まで始めてしまう。
「ハハ……ハハハハ! 人間など……所詮、己の欲望のためにしか生きようとしない……下劣でこざかしい獣だ。人間も獣も同じ! 己の欲を満たすために必要以上に命を奪い、果てしなく欲望を抱く! 人間どもよ。その身にたっぷりと教えてやる……。テメェの勝利に酔いしれ、敗者を踏みにじって嗤い狂うしか能のねえ愚か者どもめ……!」
黒紫の炎を噴き上げる凱の背後で、冷や水を浴びせるような叫びが訓練場に響く。
「何をしておる、兄上!」
怒りの表情を湛えたエルノールを先頭に朱鷺子、亜莉亜、ロロティア、マルガレーテ、フロゥがいた。
「何って? 力を試しただけだぞ?」
薄ら笑いを浮かべる凱へ唸り声を上げるフロゥを、朱鷺子はそれとなく宥める。
この時点で何をやらかすか分かったものではない。
凱の精神は禁断の力と破壊の魅力に取りつかれた危険な状態にあり、看過は出来ないが、これ以上要らぬ刺激を与えてしまえば、凱を正真正銘の怪物にさせてしまうだろう。
「兄上。まずはゆっくりと、呼吸を整えるんじゃ。でなければその炎が言う事を聞いてくれなくなるぞ」
肥大化した人間への憎悪と復讐心をこれ以上膨らませたら、どす黒い炎がやがて体を覆い、己自身を灰になるまで燃やし尽くすのは目に見えている。
咄嗟に出たエルノールの言葉であったが、武術における呼吸法を思い出させようと試みた。
そこに白き竜の少女が姿を見せる。
「お兄さん、ううん、あなた。今は、それを向けちゃ、ダメ……」
「瑞姫!? お主、わしの魔法を自力で解いたのか!!」
エルノールが驚きの声を上げる。
眠らせていたはずの瑞姫が、息を切らせながら駆け付けたのだ。
「その力を、みんなに向けちゃ、ダメ。向けるなら……わたしだけにして。わたしと、あなたは、一心同体。ううん、わたしたちは運命共同体なの! お願い……お願い……! ――きゃっ!」
凱は縋りつく瑞姫を突き飛ばすと、全員に背を向けて大きく息を吸い込み、音を立てながら両手を合わせて気を巡らせる。
炎のような黒紫の気が全身を駆け巡ると、今度はそれぞれに姿の違う四体の竜の形を取りながら凱の体を覆い、暴れ狂う。
「お……ぉおぉあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
四体の竜が凱の身体の中に一つずつ吸い込まれ、その度に目や鼻、挙句耳や全身の毛穴からも血がこぼれ出る。
それでも彼は残っていた理性と妻たちへの想いを糧とし、力を振り絞った。
自分を信じ、支えてくれる瑞姫たちのためにも、噴き上がる禁断の力を己が力としなければならないのだから。
「わ、わたし、だって……! んぐっ! んんんんっ!」
瑞姫は凱の背に両手を当て、精神同調で凱を支え始める。
彼女にしか出来ないからこそ、「滅ぶならば一緒に」との覚悟を持って臨んだのだ。
その姿に、ロロティアは部屋から駆けていき、すぐに戻ってくる。
手にはいつもの箒が握られていた。だが、彼女はこの箒を床に叩きつけて踏み壊し、出てきた一本の杖を手に取り、つぶやく。
「まさか、これを旦那さまに使うことになるなんて……」
それは仕込み杖「琥珀丸」であった。エルノールの中に一計が浮かぶ。
「いい考えが浮かんだぞ。ロロ、お主はそれで兄上を斬れ。残る皆で魔力を兄上に撃ち込むんじゃ! 勝負は一度きり、覚悟は良いか!?」
「うん」「はいですよー」「よろしくてよ!」
エルノールの言葉に、残る三人は了承し、ロロティアも決断する。
「私が旦那さまの気と魔力を一気に斬ります。皆さまは魔力を。……では、参ります」
ロロティアは凱の前に立ち、居合斬りの構えを取ると静かに目を閉じる。
荒ぶる気と魔力が重なったところを狙うためだ。
これを外せば今よりもっと酷い事態に、いや、最悪の場合、身体を蝕まれて再起不能となるか、気の暴走で自分たちも道連れとなるだろう。
ゆえにチャンスは一度しかない。
〈旦那さま……。このロロティアがお救いいたします〉
激しく入り乱れる気と魔力。その二つが交わるのは一瞬。
琥珀丸の鯉口を切ったロロティアは静かに、そしてその一瞬を見出す――
「――っ!」
一瞬の息遣いとともに、ロロティアは琥珀丸を抜き払い、気と魔力を一気に両断した。
「今じゃ! 撃て!」
エルノールの号令で、すかさずマルガレーテが魔力の矢を放ち、朱鷺子、亜莉亜、エルノールの三人も自分たちの魔力を凱に向けて放った。
気で象られた竜たちは悶え、凱に撃ち込まれた魔物の魔力に向かって、一つづつ取り込まれていく。
四つ目が身体に取り込まれた時には精も魂も使い切ったのだろう、凱は足下から崩れ落ちるように倒れ込み、精神同調で彼を支えていた瑞姫もほぼ同時に倒れ込んでしまう。
「……旦那さまの、あの未来が……現実に近づいてしまった……」
ロロティアはそう言いながら、すすり泣く。
「グレイリア・サバトの者を呼べ! まだ数人残っとる筈じゃ!」
昏睡状態となった二人は医務室に運ばれ、治療の後に目を覚ましたのは、それから四日後のことであった。
この係に左遷させられて以来、風星学園への復讐心を糧に仕事をこなしていたが、先の一ノ瀬兄弟と組んだ襲撃作戦は大失敗に終わる。
アリバイ工作で身分は守れたが、代償として貴重な手駒を失う破目になった。
さらには先任の警部が一か月前に定年で警察を去って、一人での勤務となっているのだが、人が来ないのをいいことに、今では空いた時間を大学時代の仲間や後輩らとの情報交換に費やしている。
そんな、ある日のこと――
「――クロードと連絡がつかないだと?」
『はい。『手頃な女見つけたから寝取ってくる』って出かけたっきりで……。家にも戻ってないそうで、両親が捜索願出したらしいッス』
「はぁ?」
『それと、桜井が高速で事故ったんス。正面衝突で車も大破だったとかで……。医者は重傷なのが奇跡って言ってたッス。一命は取り留めたんですが、顔が変形したそうで……』
「桜井? あぁ、女漁りの天才児と言われた桜井清二(さくらい・せいじ)か」
『仲間と遠征先からの帰り、かなりのスピードで突っ込んだらしいッス』
「らしいらしいってな。おめー、さっきから推測で物言ってんじゃねーよ!」
『こっちも聞いた話でしか分からないんスよ! クロードさんの両親にそのことで聞こうとしたら叩き出されるし、桜井は面会謝絶。これでどうやって聞くんスか!? それなら先輩がどうにかしてくださいよ! 先輩なら警察の力でいくらでも犯人を仕立て上げられるでしょ!』
この言葉に明石の怒りが瞬間沸騰する。
「そうしたくても出来ねぇのを知ってて言ってのかゴラァッ! 他頼る前に自分で探せやカス野郎がぁ!」
『ひぃぃ! す、すいません! すぐに、すぐにさがしますぅ!(ブツッ)』
「ええいクソッ! クソクソクソクソォォォォ!」
腹の底から吠えると、一人しかいない仕事場で怒りに任せながら机に何度も拳を叩き付ける。
そうして呻くように恨み節を吐き出す。
「見てろよ、風星のクズどもめ……。必ずのし上がって、徹底的に叩き潰してやるからな!」
そこにまた携帯の着信音が鳴る。だが、その液晶画面に映るのは、全く知らない電話番号だった。明石は恐る恐る電話に出る。
「も……、もしもし」
『明石数秀君で間違いないな?』
「――っ!? は……、はい」
重く威厳のある声が本人確認をしてくると、明石もたまらず返答する。
全く知らない人物からの突然の電話に、明石は混乱し始めていた。
『突然電話して済まんな。夏目会総裁と言えば、分かるな?』
「――っっ!!」
『明石君。報告書を読ませてもらったが、きみの大学での活躍は大変目覚ましい。女を弄び、馬鹿で弱い男から搾り取る……。そのふてぶてしさとずる賢さは、ヒラの警官としておくのは実に惜しい』
「あ、ありがとうございます」
『そこで提案だが……、きみをキャリア警官として復帰できるよう俺が掛け合ってやる。確か警部だったか? なに、こう見えて俺はサツにも顔利くんだよ。それに――俺はきみのような優秀な人材を貶めた不埒者を許せねぇんでな』
「優秀な人材、ですか?」
『優秀な人間ってぇのはな、犯罪を己の力として使いこなせる者だ。それを否定するバカなど、搾り取られるだけの奴隷で十分。まあ、俺もそのような馬鹿には虫唾が走るぜ』
「……同感です」
『それで、俺の提案は――』
「はい! 是非ともお願いいたします!」
『話が早くて助かるぜ。じゃあ早速手配してやる。色々と掛け合うから一か月は待て』
「ありがとうございます!」
『それと、明石君がそのようになった原因を排除しようじゃないか。協力するよ』
「はい! 是非とも!」
救いの手が来た――明石は心の底からそう感じた。
それから一か月後、明石は警察庁警備局警備企画課へ警部として赴任するという異例の人事が下り、警察内は騒然となるのだった。
彼は早速、かねてからの復讐計画を実行に移すべく、風星学園関係者の洗い出しを行い、そこで格好の標的を目にした。
「ハッハッハッハ、こんなとこにいやがったのかよ。早速始末するか。――おい、こいつを徹底的にマークして、一人になったら報せろ。追い込みかけてブチ殺す」
その書類に記されていた名は、龍堂凱だった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それから一週間後。
凱は一人で買い物をした帰り、突然の襲撃を受けた。
複数の車が道を塞ぎながら、凱に向けて突進してきたのだ。
凱も逃げるものの、両手に大量の食材が入った買い物袋を持っていたのが災いし、思うように動きが取れない。そうしてすべての退路を塞がれ、最後に迫ってきた車に追突されたのである。
食品類を道や車にぶちまけながら道路に倒された凱は、罵声とともに降りてきた者たちに棒や蹴りで滅多打ちにされた。反撃の隙も与えられないままに。
「こんガキャァ! ワシの車汚しよって!」
「ガキがなめんじゃねぇぞコラァ!」
「とっとと死にやがれワリャァ!」
散々に叩きのめされるのを見て笑い転げる明石は、笑いながら悠々と車を降り、勝ち誇ったかのようにゆっくりと凱の下に歩み寄る。
「よう、竜宮のガキ。この時をずぅ〜っと待ってたぜ。よ〜く似合ってんじゃねぇか。それがてめーのあるべき姿だぜ」
「……バカ石(し)の……カス秀……かよ……、懲りんやっちゃ……な、……テメェ……も」
「やかましい! 少なくとも、てめーさえいなけりゃ、こうならなかったんだよぉ!」
カス呼ばわりされた明石の顔に青筋が浮かび、動けない凱に噛みつくような声で怒鳴りつける。
逆怨みもここまで行くと執念と言ってもいい。凱を「自分の欲望を阻んだクズ野郎」としか認識していない明石にとって、凱は存在そのものが邪魔だった。
「……自業自得って、言葉も知らん、か。大学ってえのは……紙切れ、一枚で……クズを、育てる、施設だし……な……」
盛大な皮肉をぶつけながら悪魔のような笑みを浮かべる凱。
動けず血だらけになりながらも抵抗する姿に、明石の怒りがさらに高まる。
「大学に行ける金も、頭も、ルックスもねーくせに! お情けで高校出してもらったのが精々なクズがほざくなコラァ!」
「ぐっ……」
動けないのをいいことに、鬱憤晴らしに凱の頭を蹴りつける明石。その顔はもはや殺人鬼のものだ。
「さって、もうちょっと遊んでいたいとこだが、あいにく俺は忙しいんだ。強きを助け、弱きを裁く、それが警察であり法律だ。てめーを今から、『存在の罪』でちゃっちゃと処刑してやる。俺たち特殊事案執行部と夏目会の総力でな。ありがたく思えよ、ハッハッハッハ!」
撃鉄を起こす音がそこかしこから響く。
凱の視界の全てが遅く感じる。
〈ああ……、これが……死ぬってことか……〉
視界がぼやけ、耳にはスノーノイズだけが入ってくる。
彼はそのまま意識を手放してしまった。
だが、そのスノーノイズと認識していたものは、竜巻を伴う強風だった。
凱を包み込んだ竜巻は、そのまま彼をさらって飛び去ろうとしていく。
「くそ、逃がすな、撃て! 撃てぇーーっ!」
明石がすかさず発砲を命令。一斉射撃が始まるが、たとえ銃弾と言えども強風には敵わず、逸れて車や塀、電柱を撃ち抜き、挙句は味方も撃ち抜いてしまう。
『許さない……、許さない! お前たちを絶対許さない!!』
響き渡る声が明石たちの耳をつんざく。
「こっちのセリフだ、バカヤローが! 追えー! 風星にガサ入れだ!」
「明石警部! さすがにそれは本部に目を付けられるのでは……」
「るせぇ! やれっつったらやれぇ! 潰されてぇかぁ!」
特殊事案執行部の警官の指摘にブチ切れ、怒鳴り散らす明石。
そこに夏目会の幹部らしき男が声をかける。
「兄ちゃん。勢いづくのはいいんだけどよぉ。誰のお陰で今の地位があるかっての、忘れんなや」
「なっ」
「せっかくキャリアに返り咲いて栄転できたんだろ? うちの総裁、デカい失敗やったヤツにゃぁ容赦ねぇお方だぞ」
「……っ!」
「それによぉ、これ、上に通さねぇでやったんだろぉ? あのガキがケガしたからってよぉ、ここで勇み足踏んで足付いちまったら、お前どうすんだ? クビじゃぁすまねぇだろうなぁ。そうなったら、どんな目に遭うか分かってんだろぉ? 巻き添えはごめんだぜ」
「くっ……」
「オンナ寝取りまくってウハウハしてぇんだろ? だったら、兄ちゃんが今どうすべきかって、わかってんじゃねぇかぁ?」
明石にとって、待ちに待った逆襲の機会を逃すことは非常に腹立たしかった。
だが、自分を警部の地位に戻してくれた夏目会総裁の顔に泥を塗るわけにもいかないのも現実だ。
警察とヤクザ――公権力組織と反社会組織という真逆な位置にありながら、メンツを重んじるという点では全く同じであるという皮肉。
思いがけぬ足枷によって、せっかくの追撃を諦めなければならない事実が、明石の心を怒りに染める。
「ああああああああ! クソがクソがクソがああああああああ!」
そうして、明石は近所迷惑も省みない大声で吠えまくった。
「次こそぶっ殺してやる! 撤収だ!」
「野郎ども、けぇるぞ!」
凱はこうして、予期せぬ幸運によって助け出されたのである。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「酷い……、いったい誰が旦那さまを!?」
ロロティアは怒りと驚きと悲しみがない交ぜになりながら、悲鳴に近い声を上げた。
凱は瑞姫の手によって救われ、エルノール・サバトの治療室に収容されている。
怪我の状態が酷く、少しでも遅れていれば殺されていたか、出血多量で死んでいただろう。
手当てが間に合ったため一命は取り留めたが、予断を許さない状態だった。
それにどうしてリンドヴルムも魔竜王の鎧衣も出していなかったのか、エルノールも気にかかる点ではあったが、その疑問はすぐに解決する。
急に飛び出し、憤怒を湛えて戻ってきた瑞姫が、怒りに駆られながらも理性を振り絞り、見たままの状況を教えてくれたからだ。
彼女の話によると――
車と大勢の人間に囲まれて、袋叩きにされていた凱の姿を見たのだ。
買っていた大量の食材もぶちまけられて使い物にならなくされ、囲んでいた者たちは凱に向けて拳銃を構えていた。
つまり、凱は買い物帰りの両手が塞がった状態のところを襲われたのである。
瑞姫に限らず、妻たちの誰もがいつも凱と一緒にいるとは限らない。
襲撃者はそのわずかな隙を狙ったのだ。
「……瑞姫よ。よく……、よく、助け出してくれたのう……。じゃから、今は眠るんじゃ!」
エルノールは涙をこらえながら、睡眠の魔法を数倍も増幅して瑞姫に放つ。
さすがのドラゴンとはいえ、瑞姫はまだ未熟。遥かに永い時を生きるバフォメットに太刀打ち出来ず、あっけなく眠りに落ちた。
瑞姫の憤怒をこれ以上増幅させないがためのものだ。
「……グレイリア・サバトに連絡を入れてくれ。『力を貸して欲しい』、とな」
エルノールはそう部下に命じて握り拳を作ると、抑えきれなくなった涙が滂沱となって流れ出る。
マルガレーテも朱鷺子も亜莉亜もロロティアも、全員が沈痛な面持ちでいた。
「皆、今は兄上の回復に全力を注ごうぞ。……不埒者共め……、今に見ておれ! 必ずやこの報いを受けさせてくれる! 千倍返しじぁっ!」
エルノールは今、瑞姫の怒りの一端を共有したような気持ちになっていた。
大事な夫にこれほどの危害を加えた以上、泣き寝入りする気など更々無い。
凱が倒れたと反対勢力が知るのもそう遅くないが、それでも彼女たちは凱の回復を信じるしかない。
最悪の事態を切り抜けるためにも、全力を尽くす。ただそれだけなのだから。
翌未明になって、白い衣装をまとった魔物娘の一団がエルノール・サバトのポータルを通ってやって来た。
彼女らこそ、グレイリア・サバトの構成員たちである。
長であるバフォメットのグレイリアは医療魔法の開祖として、魔物勢力で知らない者はまずいない。
彼女の率いるサバトは、エルノール・サバトとは違う方向で異端と言えよう。
研究機関にして医療機関であるグレイリア・サバトは、加入が厳しいことでも知られる。
それはグレイリアが出会った人間の医者から受け継ぎ、医療魔法を生み出したほどの絶対たる信念ゆえであり、患者を救う強き意志を持った者、深い奉仕精神を持つ者だけがグレイリア・サバトへの加入を許され、開祖の信念は構成員たちに叩き込まれるのだ。
そのグレイリア・サバトの魔物娘たちの魔法と医術によって、凱は死の淵から救い出された。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
昏睡状態にある凱の意識の中で何かがくすぶる。
以前、ドラゴニアにいた時、リンドヴルムを手にした時と同じものだ。
黒紫(くろむらさき)の炎が目に前に広がると、ゆっくり確実に燃え上がりながら四つに分裂し、様々な姿の動物を形作る。
それらは凱を取り囲むと、燃えたり、凍えたり、切り裂かれたり、殴られるような、様々な痛みを彼の意識に刷り込んでいく。
――引き裂け、切り刻め
――引き千切れ、叩きのめせ
――燃やせ、すべてを焼き尽くせ
――壊せ、潰せ、すべてをねじ伏せろ
声が、痛みが、凱の意識を襲い続ける。
彼の心に炭が、薪が、種火がくべられ、黒い炎が再び燃え盛る。
復讐と言う名の黒い炎が……。
凱を散々に扱き下ろし、いじめ続けた者たちの姿が次々と浮かぶ。
老若男女問わず嘲笑い続けるその姿は、凱の怒りを何倍にも、何十倍にも、何百倍にも膨れ上がらせていく。
体に力が満ちる。
幸いにも凱は体を相応に鍛えていたため、それなりに痛みは伴ったが、耐える事は出来た。
地下基地の夜伽部屋にある広いベッドの上で、凱はゆっくりと目覚めた。
体内に激しい違和感を覚える彼は、眠っている間に聞いた言葉のままに念じ、集中してみると、黒紫に染まる気が両の掌を炎のように包む。
「これは……」
忘れるな――とでも言いたいのだろうか。
同じ地下基地にある訓練場に一人赴いた凱は、過去に受けた仕打ちを意識に思い浮ばせ、己の無力さと人間の悪意に対する憎しみを燃やし、それを両腕に集中させる。
すると、肘から指先まで黒紫の気が刃のように収束されていく。
それはまさに、凱の憎悪と復讐心が力となって体現したのだ。
出てきた藁人形や畳表(たたみおもて)の巻物が刃と化した上腕で斬られると、その切断面が黒紫の炎で燃やされていく。
〈力だ……、力が満ち溢れる!〉
力を確信した凱は、さらに独白まで始めてしまう。
「ハハ……ハハハハ! 人間など……所詮、己の欲望のためにしか生きようとしない……下劣でこざかしい獣だ。人間も獣も同じ! 己の欲を満たすために必要以上に命を奪い、果てしなく欲望を抱く! 人間どもよ。その身にたっぷりと教えてやる……。テメェの勝利に酔いしれ、敗者を踏みにじって嗤い狂うしか能のねえ愚か者どもめ……!」
黒紫の炎を噴き上げる凱の背後で、冷や水を浴びせるような叫びが訓練場に響く。
「何をしておる、兄上!」
怒りの表情を湛えたエルノールを先頭に朱鷺子、亜莉亜、ロロティア、マルガレーテ、フロゥがいた。
「何って? 力を試しただけだぞ?」
薄ら笑いを浮かべる凱へ唸り声を上げるフロゥを、朱鷺子はそれとなく宥める。
この時点で何をやらかすか分かったものではない。
凱の精神は禁断の力と破壊の魅力に取りつかれた危険な状態にあり、看過は出来ないが、これ以上要らぬ刺激を与えてしまえば、凱を正真正銘の怪物にさせてしまうだろう。
「兄上。まずはゆっくりと、呼吸を整えるんじゃ。でなければその炎が言う事を聞いてくれなくなるぞ」
肥大化した人間への憎悪と復讐心をこれ以上膨らませたら、どす黒い炎がやがて体を覆い、己自身を灰になるまで燃やし尽くすのは目に見えている。
咄嗟に出たエルノールの言葉であったが、武術における呼吸法を思い出させようと試みた。
そこに白き竜の少女が姿を見せる。
「お兄さん、ううん、あなた。今は、それを向けちゃ、ダメ……」
「瑞姫!? お主、わしの魔法を自力で解いたのか!!」
エルノールが驚きの声を上げる。
眠らせていたはずの瑞姫が、息を切らせながら駆け付けたのだ。
「その力を、みんなに向けちゃ、ダメ。向けるなら……わたしだけにして。わたしと、あなたは、一心同体。ううん、わたしたちは運命共同体なの! お願い……お願い……! ――きゃっ!」
凱は縋りつく瑞姫を突き飛ばすと、全員に背を向けて大きく息を吸い込み、音を立てながら両手を合わせて気を巡らせる。
炎のような黒紫の気が全身を駆け巡ると、今度はそれぞれに姿の違う四体の竜の形を取りながら凱の体を覆い、暴れ狂う。
「お……ぉおぉあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
四体の竜が凱の身体の中に一つずつ吸い込まれ、その度に目や鼻、挙句耳や全身の毛穴からも血がこぼれ出る。
それでも彼は残っていた理性と妻たちへの想いを糧とし、力を振り絞った。
自分を信じ、支えてくれる瑞姫たちのためにも、噴き上がる禁断の力を己が力としなければならないのだから。
「わ、わたし、だって……! んぐっ! んんんんっ!」
瑞姫は凱の背に両手を当て、精神同調で凱を支え始める。
彼女にしか出来ないからこそ、「滅ぶならば一緒に」との覚悟を持って臨んだのだ。
その姿に、ロロティアは部屋から駆けていき、すぐに戻ってくる。
手にはいつもの箒が握られていた。だが、彼女はこの箒を床に叩きつけて踏み壊し、出てきた一本の杖を手に取り、つぶやく。
「まさか、これを旦那さまに使うことになるなんて……」
それは仕込み杖「琥珀丸」であった。エルノールの中に一計が浮かぶ。
「いい考えが浮かんだぞ。ロロ、お主はそれで兄上を斬れ。残る皆で魔力を兄上に撃ち込むんじゃ! 勝負は一度きり、覚悟は良いか!?」
「うん」「はいですよー」「よろしくてよ!」
エルノールの言葉に、残る三人は了承し、ロロティアも決断する。
「私が旦那さまの気と魔力を一気に斬ります。皆さまは魔力を。……では、参ります」
ロロティアは凱の前に立ち、居合斬りの構えを取ると静かに目を閉じる。
荒ぶる気と魔力が重なったところを狙うためだ。
これを外せば今よりもっと酷い事態に、いや、最悪の場合、身体を蝕まれて再起不能となるか、気の暴走で自分たちも道連れとなるだろう。
ゆえにチャンスは一度しかない。
〈旦那さま……。このロロティアがお救いいたします〉
激しく入り乱れる気と魔力。その二つが交わるのは一瞬。
琥珀丸の鯉口を切ったロロティアは静かに、そしてその一瞬を見出す――
「――っ!」
一瞬の息遣いとともに、ロロティアは琥珀丸を抜き払い、気と魔力を一気に両断した。
「今じゃ! 撃て!」
エルノールの号令で、すかさずマルガレーテが魔力の矢を放ち、朱鷺子、亜莉亜、エルノールの三人も自分たちの魔力を凱に向けて放った。
気で象られた竜たちは悶え、凱に撃ち込まれた魔物の魔力に向かって、一つづつ取り込まれていく。
四つ目が身体に取り込まれた時には精も魂も使い切ったのだろう、凱は足下から崩れ落ちるように倒れ込み、精神同調で彼を支えていた瑞姫もほぼ同時に倒れ込んでしまう。
「……旦那さまの、あの未来が……現実に近づいてしまった……」
ロロティアはそう言いながら、すすり泣く。
「グレイリア・サバトの者を呼べ! まだ数人残っとる筈じゃ!」
昏睡状態となった二人は医務室に運ばれ、治療の後に目を覚ましたのは、それから四日後のことであった。
20/05/05 10:20更新 / rakshasa
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