一つの身体と二つの魂
警察との悶着を終え、風星学園特別クラスの授業が再開されるのはその翌週の月曜と決まった。
教師陣及び凱はそれらの調書と始末の作成の為、ずっと学園詰めであり、朱鷺子のメンタルケアにも追われていた。
しかもそこに思いもよらぬ来訪者が現われたのだ。
「お兄さん」
「み、ず……き?」
家に帰って来たと思ったら、着替えを持って出て行ってしまった凱に不安を覚えた瑞姫は両親を問い質したのだ。
両親から凱が週明けまで学園に泊まり込みになる事を知るや、制服に着替えた上で着替えなどの衣類や勉強道具を持ち出し、彼らに懇願する形で学園にやってきたのである。
両親も娘を学園に送る為に一緒に来ており、エルノールは直々に彼らを学園長室へ案内した。
「あの子ったら兄と一緒じゃ無ければ嫌だ、と聞かないもので……」
「成程、そうじゃったか」
「いくら身内とはいえ、年頃の娘と関係が公になってしまうのが心配で……」
「それならば心配は要らぬ。そち達家族の事は、既にわしが調べ上げておるでのう」
「え!? しかしそれは――」
「御子息は用務員としてよう働いておるし、御息女もなかなかの成績。あの二人はお主達が思っておる以上にお似合いの仲じゃぞ」
「と、申しますと?」
「血が繋がっておらぬ事も、許嫁同士である事も、全て知っておる。もっともこれを知るのはわしだけじゃが、仮に間違いがあっても案ずるでない。そうなった時の手は打ってあるでのう」
「大丈夫、なのでしょうか?」
紗裕美が恐る恐る尋ねるが、エルノールは自信満々で答える。
「ははは、心配は要らぬ。御子息はあれでいてかなり自制の利く男じゃからのう」
「万が一の時にはお願い致します」
「その時はその時で対策は幾らでも立てられる。ご案じめさるな」
「……分かり、ました。それでは…娘を、宜しくお願いします」
「承知致した。食事や入浴もこの学園で賄えるゆえ、心配は無用じゃ」
「「お願い致します」」
両親は深々と一礼し、自宅へと戻って行った。
「ま、あの男なら間違いは犯さん」
分かりきったような口ぶりで呟いたエルノールは窓越しに外を見つめ、物思いにふける――
凱は学級閉鎖の間、宿直を担当する事になり、宿直室が実質的な仕事場兼宿泊場所であった。
どう言う訳かトイレやシャワー室も完備しており、下手なホテルより居心地が良い環境だった。
瑞姫は身内とはいえ男女が一つ屋根の下にいるのは示しが付かない、との理由から、メンタルケアの一環として学園長命令によって朱鷺子の部屋でルームシェアをする事となった。
1R程度の間取りを持ち、少し無理すれば二人で過ごす事も可能なくらいである。
「……どうして来たの?」
「え? それは、その……」
「……用務員のお兄さんが……いるからでしょ?」
「っ!?!!」
朱鷺子でも分かるくらい、瑞姫の行動原理はハッキリし過ぎていると言った所か。
「……お兄さん、大好きなんだね」
「……はい」
ストレートな問いかけに瑞姫は頬を朱に染めながら、弱々しく答える。
「……ボクにもあんな家族が……いたらいいな、って。……瑞姫ちゃんが……羨ましい」
「朱鷺子さん……」
「……ねえ、お兄さんの事……、教えてくれる?」
環境の違う二人ではあったが、年齢を超えた友人として、関係を深めるのにそれほど時間は要しなかった。
その二人の間にあったのが、凱と言う異性の存在だったのだから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
数時間後、エルノールはサバト風星支部にいた。
先日の支援の労いに加え、初代への連絡を行っていたからだ。
『先日の一件、御苦労じゃったな』
「あれは……賭けでした。失敗すれば、計画を進める事が叶わぬ状態になっていたのですから……」
『そうじゃな。神奈川県警に勤務する魔物娘達が協力を申し出てくれなければ、風星支部は潰されておったからな』
「龍堂君の力にも助けられました。武のみならず、件の生徒との面識を持っていた事が何よりの幸いでした……」
凱への呼び方の変化に、初代がいぶかしむ。
だが、彼女はエルノールの様子を見るべく、これへの指摘を控えた。
『そちの魔女達、なかなか面白い魔法の使い方をしていたようじゃな』
「はっ……。迂闊に建物を壊せば、サバト全てに対する敵意が向けられまする。そこで魔力を調節してあのように使ってみたのです」
『成程な。結果的に建物の損害に関しては何も言ってこなかったと聞いておる。これについては魔物娘の警官達からも証言を得ておるでな』
「しかし、何らかの形で仕返しはあるのでは?」
『それについても心配は無い。彼奴等は存外、面子を重んじておるようでな。特に、主犯である明石の存在が大きかったらしいぞ』
「確か、三日月君を拉致した主犯でしたな」
『うむ。彼奴について、とんでもない情報を得た。彼奴めは大学時代に違法売春サークルを立ち上げた一人として名を連ねておる。あまつさえ今もその大学や当時の幹部共と繋がりがあるそうじゃ』
「何と……!」
『呆れた事にのう、『女は寝取ってナンボ、遊んでナンボ』などと当時からほざいとったそうじゃ』
エルノールは初代のこの言葉に開いた口が塞がらなかった。
『しかも厄介な事に、あの《本部長(ド戯け)》がお零れ欲しさに身代わりを立て、事態を揉み消したとの報せがあった。明石の奴は閑職に置いたらしいがな…』
「それでは何の解決にも…!」
『うむ。身代わりにされた者が不憫でならん。あの腐敗ぶりは根が深いぞ……』
「あの時の龍堂君の目には……、憎悪と殺意が宿っておりました。これが知れれば……!」
凱が先日見せた視線に恐怖を禁じ得ないエルノールを察したのか、初代が別の話題を振る。
『おお、そう言えばもう一つ。そちの所の教師の一人に、多重人格を発症した者がおると聞いたが……、名前が思い出せぬ』
「鬼灯亜莉亜と申す者です」
『ふむ。その者に対して何か対策は立てておるのか?』
「……それは……」
対策を立てようがないと言うのが正解なのだろう。
だんまりはまさに雄弁な答えだ。
『精神はそう簡単に治せぬものじゃからな。無理に統合などしようものなら心を閉ざすじゃろうて』
「……」
エルノールにそれを答える術は無い。
けれど初代はそれに構う事無く続ける。
『そこでじゃ。その者を魔物娘にさせようと考えておる』
「何と!?」
『とは言え、ただの魔物娘には出来ん。一か八かじゃが、キマイラへの儀式を執り行うべきだと思っておる』
驚くエルノールを無視して、更に言葉は続く。
『実は密かに、我が魔界本部でも腕利きの魔女をそちらに送って調査しておる。キマイラにするには魔力と素材の適切な融合が大事じゃからな』
「ですが、キマイラは最低でも4つの獣の要素が必要ではありませんか! 人格を4つに増やして何としますか!?」
『そこはわしも悩んだ。じゃが、逆に考えてみたんじゃ。統合が無理なら、いっその事増やし、『共存』させよう、とな』
初代のこの返答に、エルノールは呆気に取られる。
『じゃが、生きた人間に素材を融合させる事になるのは事実じゃ。実行するとして失敗は許されん』
「……っ! 当然ではありませんか!」
『そうじゃな……。調査の結果、あの者には蛇、鹿、ドラゴンの素材を合成可能だそうじゃ。じゃが、肝心の残り一つの適合素材の調査に難航しておるとの報告が来ておるから、まだまだかかりそうじゃ。今は待つしかない』
「左様にございますか……」
『とにかく、そちはまず、特別クラスとやらの生徒達をどうにかする事が先決となろう。わしは手を貸してやれんが、無理はするでないぞ』
「承知……致しました」
その言葉を最後に初代は連絡を絶ち切った。
一方、エルノールの胸中には不安が渦巻く。
仮にキマイラにする方策を実行するとして、本人がそれに納得するのか?
また、成功したとして、どのような人格が現われ、他者に牙を向ける事になるのか?
全てが先行き不透明だったが、決断に要する時間も少なかった――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ようやく調書と始末の作成を終えたのは金曜の夜。
凱は宿直室で一息つきながら、過日の出来事に思いを馳せる。
思いもよらない形で自分の武術が頼られ、実際に拉致された生徒を救出すべく、警察相手に喧嘩までした。
この事で警察が大人しく引き下がる事はしないだろうとも考えながら………。
己の非を是が非でも認めないのは何も警察に限った事では無い。
そういう職業の者で無くとも、己の非を決して認めない人間はごまんといるのだから。
人間と言う存在に絶望している凱にとって、
男はチンポザルという名の獣欲溢れる薄汚い雄の類人猿―――
女はオナホザルという欲望に忠実な香水臭い雌の類人猿―――
と言った認識でしかなくなっていた。
自分を嫌った魔物娘の同級生も凱にとっては同類である。
もっとも、彼女達は凱の存在を認識すらしなかったから覚えている訳も無いだろうが、仮に謝って来たその時こそ、一辺の情けさえかける事は無いだろう。
心に一生の傷を付けた者達を許す程、彼は寛容では無い。
もし瑞姫に出会っていなければ、凱はきっと父の死をきっかけに完全に壊れ、父の死をぞんざいに扱った医師を撲殺していただろう。
心を保っているのは瑞姫の存在があったからこそと言える。
父から学んだ生活の術も瑞姫の家で役に立ってくれている。今はそれだけが心の拠り所だった。
ふと時計を見ると、夕食の時間を過ぎていた。
凱は自分の分の食事でも作ろうと思い、食堂へ足を運ぶ。
米を先に炊きながら適当に食材を見繕い、簡単にできる物と考え、厚揚げにキャベツ、にんにく、味噌等を用いたご飯に乗せるおかずを作り始める。
と、そこに思いがけない人物がやってくる。
「あれー? 龍堂用務員ですかー?」
間延びした特徴的な口調で話すのはただ一人である。
「鬼灯教諭?」
「堅苦しい呼び方は嫌ですよー。泊まり込みとはいえ、学校は休みなのですからー、亜莉亜、と呼んで欲しいですよー」
「いくらなんでも、それは不味いのでは?」
「でーすーからー、学校は休みなのですー。プライベートというのがあっても、いいわけですよー」
「じゃあ…亜莉亜、さん?」
「うーん、まあ、いいですよー。あたしも龍堂用務員の事を、凱ちゃん、と呼ぶですー」
「――して、亜莉亜……さんは、何か御用で?」
「簡単にー、カップ麺でも食べようと思ったですよー」
鬼灯亜莉亜――
人間でありながら特別クラスの主任教師を務める彼女の私生活は、自堕落の一言に尽きる。
彼女の居住空間は学園から程近くにある、ボロアパートの一室だ。
仕事の無い日の生活場所はそこであり、部屋は異様なまでに散らかっている。
散乱しているゴミにしても、ビールの空き缶やつまみの袋、コンビニ弁当の殻が殆どだ。
何もかもやりっぱなしで、酷い時にはゲームを点けっぱなしで仕事に出てしまうくらいなのだから、そのレベルは推して知るべしだろうか。
「それにしてもいい匂いがするですー。凱ちゃんは何してるですー?」
「夕飯と夜食の支度です」
「凱ちゃんは料理出来るんでしたね。それじゃ、御相伴に預かってもいいですか〜?」
「構いませんが……、他の教諭達は?」
「あー、酒盛りする為に、みなさん買い物に出てしまってるですー」
「そんじゃ、俺の分として米を炊き直すか……」
「それじゃあ、手伝うですよー」
馴れた手つきで米を研ぎ、炊くまでの時間を食材切りで潰す事にしたのだが、そこで事件は起こる。
「こうですよね? えっと、えい! ……っ痛っ!」
亜莉亜が興味本位で包丁を使い、左手の親指を切ってしまったのだ。
凱が絆創膏を取りに行こうとした、その時―――!
「……っ?! (ガクッ)……何…? ……これ、血……? ……血!?」
間延びしない、ドスの利いたような口調に変化した事に驚く凱を見た亜莉亜。
彼を見る目つきは攻撃的で、普段見る姿からはとても想像出来ないものであった。
「血……死んじゃう……? いや……死ぬのは……、いや……、死ぬのはいやぁぁ!」
狂ったように包丁を振り回す亜莉亜に戸惑いつつもチャンスを窺う凱であったが、果たしてそのチャンスはすぐに訪れる。
大振りな動きである為、隙を見つけ易くなっていたのだ。
凱は思い切り包丁を振り下ろした瞬間を狙って体当たりを仕掛け、包丁を腕ごと抑え込む。
体当たりされた弾みで包丁を取り落とした亜莉亜は更なる抵抗を試みて暴れるも、
体格差で敵う筈が無く、血を流している左手を掴まれ、切った指をしゃぶられてしまう有様となる。
「なに……っ?! いやっ! 放してっ! 放してぇぇぇぇっ!!」
口では叫ぶが、体が抑え込まれたかのようになり、暴れてはいない。
亜莉亜の指から口を放した凱は、人が変わったように暴れ出した彼女に尋ねる。
「亜莉亜さん、どうしたんですか急に!?」
「あたしはアリス! 亜莉亜じゃない!」
口調も亜莉亜とはまるで違う。間延びした口調とは打って変わって、断定形で乱暴なものだ。
凱も慎重に言葉を返す。
「じゃあ、アリスさん。アリスさんは、その身体のもう一人の人格って事?」
「アリスは亜莉亜で亜莉亜はアリス! ……あれ? でもそれじゃあ……あれ……?」
「……?」
二重人格――それが亜莉亜の中に隠された真実。
凱はアリスの抵抗が止んだのを確かめつつ、体を離し、彼女を開放する。
「えっと……、アリス……、よくわかんない……。亜莉亜に、聞いて……?」
アリスと名乗る女の瞼が眠るように重く閉じようとしている。
「ほら……亜莉亜が教えてくれるって……。それじゃあね……ばいばい……」
ガクンッと糸が切れた人形のように動かなくなったと思った瞬間、バッと顔を上げたのは――
「ん〜? あれぇー? あたし、またやっちゃったですかー?」
凱が聞き慣れた語尾の伸びた口調。
それは亜莉亜という本来の人格が戻って来た事を意味していた。
「ビックリしましたよ。突然乱暴な口調で暴れ出すから」
「あたしの事、凱ちゃんは知りませんですよねー?」
「知らない以前に、俺は他人の事を深く知りたくないですよ」
「アリスを見られた以上はー、知って貰わなきゃいけないですよー?」
「……そうですか」
「早速ですが話すですよー?」
一拍置いて、亜莉亜は己の身の上を話し始める。
「あたし、実は家族がいないんですよー。あたしの家族は飛行機事故で全員死んじゃったですー」
語尾のせいで悲壮さが欠けるのは御愛嬌と言ったところか。
「何故かあたし一人だけが生き残ったですよー。もう、ほんっとに不思議だったですよー」
次の瞬間、亜莉亜の顔に悲壮さが滲み出る。
「でも……、救助される直前に一度だけ目を覚ました時、すぐ隣で残骸に押し潰されたお父さんの首だけがあって……、もう一つ奥からは血の滝が流れていたです……。とても鮮明に覚えてるです……。そんなのを目にしてから、あたしの中で生まれたのがアリスなんですよー……」
「別の人格が生まれた、と……?」
「(ガクッ)……うん……。亜莉亜の事を守る為に、って……それで、アリスが生まれた……」
「そうですか」
「そうなの……。驚いたり……しないの?」
「驚かないと言ったら嘘になりますよ。あんな話を聞いた後だから驚きようが無いと言うのか……」
「(グゥゥ〜…)……お腹、空いちゃった……。亜莉亜も起きるみたいだし……ごはん、楽しみにしてるね(ガクッ)……ありゃ〜、またですよー……」
「とにかく、飯作りますから、亜莉亜さんは座って待ってて下さいね」
「それじゃあ、瑞姫ちゃんと朱鷺子ちゃんも呼ぶですよー」
「……先生が呼ぶと言うなら」
「決まりですー! 早速呼んでくるですよー!」
更に二人分の食事を追加する事になった凱は、さながら食堂の勤務員であるかのように慌ただしく動く。
おかずを増やして汁物も作ったりと、料理に励むその姿は下手な主婦などいとも簡単に凌駕していた。
実際にその姿を知る瑞姫でさえ、かなりの量を作っている姿を見るのは初めてである。
「……あれが瑞姫ちゃんのお兄さんの姿なんだね」
「はい。仕事で忙しくなった両親に代わって、家の食事やお弁当を作ってくれてるんです」
「羨ましいですー」
甘辛い物を主体にしたおかずに味噌汁も手作りという本格的な出来栄えに、朱鷺子と亜莉亜も驚嘆を隠せない。
それと同時に三人のお腹の虫が鳴いていた。
やがて白米が炊き上がって料理も出来上がり、テーブルに次々と並べられていく。
「……? 何してるんだ? 早く食べないと冷めるぞ?」
恥ずかしがる彼女達を促す凱は使った機材を軽く片付けると、麦茶のボトルを冷蔵庫から出してテーブルに置きつつ、席に座る。
女性陣三人もこれに倣って席についた。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」「いただくですよー」「……いただきます」
三者三様の言葉と共に食事が始まる。
「うん! 美味しいですー!」
「……これが……、これが家庭の味……? 何だろう……、とっても……あったかい……」
「お兄さんの料理、こんなに作って貰ったの初めて。あむっ、うん! やっぱり美味しい♪」
凱は三人の言葉を聞いて胸を撫で下ろす。
ただ、自分が作れる物を作っただけではあるが、味の好みは人それぞれ。
自分の味が好まれた事でほんの少し、自信を付けられたのかも知れない。
彼はそう思う事にした。
不運にもこの少し後に魔物娘の教師陣が買い出しから戻ってきてしまう。
しかも食堂にやってきた為に料理を作ったのがバレて、鍋料理でどうにか機嫌を直してもらう羽目になってしまうのだが――
教師陣及び凱はそれらの調書と始末の作成の為、ずっと学園詰めであり、朱鷺子のメンタルケアにも追われていた。
しかもそこに思いもよらぬ来訪者が現われたのだ。
「お兄さん」
「み、ず……き?」
家に帰って来たと思ったら、着替えを持って出て行ってしまった凱に不安を覚えた瑞姫は両親を問い質したのだ。
両親から凱が週明けまで学園に泊まり込みになる事を知るや、制服に着替えた上で着替えなどの衣類や勉強道具を持ち出し、彼らに懇願する形で学園にやってきたのである。
両親も娘を学園に送る為に一緒に来ており、エルノールは直々に彼らを学園長室へ案内した。
「あの子ったら兄と一緒じゃ無ければ嫌だ、と聞かないもので……」
「成程、そうじゃったか」
「いくら身内とはいえ、年頃の娘と関係が公になってしまうのが心配で……」
「それならば心配は要らぬ。そち達家族の事は、既にわしが調べ上げておるでのう」
「え!? しかしそれは――」
「御子息は用務員としてよう働いておるし、御息女もなかなかの成績。あの二人はお主達が思っておる以上にお似合いの仲じゃぞ」
「と、申しますと?」
「血が繋がっておらぬ事も、許嫁同士である事も、全て知っておる。もっともこれを知るのはわしだけじゃが、仮に間違いがあっても案ずるでない。そうなった時の手は打ってあるでのう」
「大丈夫、なのでしょうか?」
紗裕美が恐る恐る尋ねるが、エルノールは自信満々で答える。
「ははは、心配は要らぬ。御子息はあれでいてかなり自制の利く男じゃからのう」
「万が一の時にはお願い致します」
「その時はその時で対策は幾らでも立てられる。ご案じめさるな」
「……分かり、ました。それでは…娘を、宜しくお願いします」
「承知致した。食事や入浴もこの学園で賄えるゆえ、心配は無用じゃ」
「「お願い致します」」
両親は深々と一礼し、自宅へと戻って行った。
「ま、あの男なら間違いは犯さん」
分かりきったような口ぶりで呟いたエルノールは窓越しに外を見つめ、物思いにふける――
凱は学級閉鎖の間、宿直を担当する事になり、宿直室が実質的な仕事場兼宿泊場所であった。
どう言う訳かトイレやシャワー室も完備しており、下手なホテルより居心地が良い環境だった。
瑞姫は身内とはいえ男女が一つ屋根の下にいるのは示しが付かない、との理由から、メンタルケアの一環として学園長命令によって朱鷺子の部屋でルームシェアをする事となった。
1R程度の間取りを持ち、少し無理すれば二人で過ごす事も可能なくらいである。
「……どうして来たの?」
「え? それは、その……」
「……用務員のお兄さんが……いるからでしょ?」
「っ!?!!」
朱鷺子でも分かるくらい、瑞姫の行動原理はハッキリし過ぎていると言った所か。
「……お兄さん、大好きなんだね」
「……はい」
ストレートな問いかけに瑞姫は頬を朱に染めながら、弱々しく答える。
「……ボクにもあんな家族が……いたらいいな、って。……瑞姫ちゃんが……羨ましい」
「朱鷺子さん……」
「……ねえ、お兄さんの事……、教えてくれる?」
環境の違う二人ではあったが、年齢を超えた友人として、関係を深めるのにそれほど時間は要しなかった。
その二人の間にあったのが、凱と言う異性の存在だったのだから。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
数時間後、エルノールはサバト風星支部にいた。
先日の支援の労いに加え、初代への連絡を行っていたからだ。
『先日の一件、御苦労じゃったな』
「あれは……賭けでした。失敗すれば、計画を進める事が叶わぬ状態になっていたのですから……」
『そうじゃな。神奈川県警に勤務する魔物娘達が協力を申し出てくれなければ、風星支部は潰されておったからな』
「龍堂君の力にも助けられました。武のみならず、件の生徒との面識を持っていた事が何よりの幸いでした……」
凱への呼び方の変化に、初代がいぶかしむ。
だが、彼女はエルノールの様子を見るべく、これへの指摘を控えた。
『そちの魔女達、なかなか面白い魔法の使い方をしていたようじゃな』
「はっ……。迂闊に建物を壊せば、サバト全てに対する敵意が向けられまする。そこで魔力を調節してあのように使ってみたのです」
『成程な。結果的に建物の損害に関しては何も言ってこなかったと聞いておる。これについては魔物娘の警官達からも証言を得ておるでな』
「しかし、何らかの形で仕返しはあるのでは?」
『それについても心配は無い。彼奴等は存外、面子を重んじておるようでな。特に、主犯である明石の存在が大きかったらしいぞ』
「確か、三日月君を拉致した主犯でしたな」
『うむ。彼奴について、とんでもない情報を得た。彼奴めは大学時代に違法売春サークルを立ち上げた一人として名を連ねておる。あまつさえ今もその大学や当時の幹部共と繋がりがあるそうじゃ』
「何と……!」
『呆れた事にのう、『女は寝取ってナンボ、遊んでナンボ』などと当時からほざいとったそうじゃ』
エルノールは初代のこの言葉に開いた口が塞がらなかった。
『しかも厄介な事に、あの《本部長(ド戯け)》がお零れ欲しさに身代わりを立て、事態を揉み消したとの報せがあった。明石の奴は閑職に置いたらしいがな…』
「それでは何の解決にも…!」
『うむ。身代わりにされた者が不憫でならん。あの腐敗ぶりは根が深いぞ……』
「あの時の龍堂君の目には……、憎悪と殺意が宿っておりました。これが知れれば……!」
凱が先日見せた視線に恐怖を禁じ得ないエルノールを察したのか、初代が別の話題を振る。
『おお、そう言えばもう一つ。そちの所の教師の一人に、多重人格を発症した者がおると聞いたが……、名前が思い出せぬ』
「鬼灯亜莉亜と申す者です」
『ふむ。その者に対して何か対策は立てておるのか?』
「……それは……」
対策を立てようがないと言うのが正解なのだろう。
だんまりはまさに雄弁な答えだ。
『精神はそう簡単に治せぬものじゃからな。無理に統合などしようものなら心を閉ざすじゃろうて』
「……」
エルノールにそれを答える術は無い。
けれど初代はそれに構う事無く続ける。
『そこでじゃ。その者を魔物娘にさせようと考えておる』
「何と!?」
『とは言え、ただの魔物娘には出来ん。一か八かじゃが、キマイラへの儀式を執り行うべきだと思っておる』
驚くエルノールを無視して、更に言葉は続く。
『実は密かに、我が魔界本部でも腕利きの魔女をそちらに送って調査しておる。キマイラにするには魔力と素材の適切な融合が大事じゃからな』
「ですが、キマイラは最低でも4つの獣の要素が必要ではありませんか! 人格を4つに増やして何としますか!?」
『そこはわしも悩んだ。じゃが、逆に考えてみたんじゃ。統合が無理なら、いっその事増やし、『共存』させよう、とな』
初代のこの返答に、エルノールは呆気に取られる。
『じゃが、生きた人間に素材を融合させる事になるのは事実じゃ。実行するとして失敗は許されん』
「……っ! 当然ではありませんか!」
『そうじゃな……。調査の結果、あの者には蛇、鹿、ドラゴンの素材を合成可能だそうじゃ。じゃが、肝心の残り一つの適合素材の調査に難航しておるとの報告が来ておるから、まだまだかかりそうじゃ。今は待つしかない』
「左様にございますか……」
『とにかく、そちはまず、特別クラスとやらの生徒達をどうにかする事が先決となろう。わしは手を貸してやれんが、無理はするでないぞ』
「承知……致しました」
その言葉を最後に初代は連絡を絶ち切った。
一方、エルノールの胸中には不安が渦巻く。
仮にキマイラにする方策を実行するとして、本人がそれに納得するのか?
また、成功したとして、どのような人格が現われ、他者に牙を向ける事になるのか?
全てが先行き不透明だったが、決断に要する時間も少なかった――
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
ようやく調書と始末の作成を終えたのは金曜の夜。
凱は宿直室で一息つきながら、過日の出来事に思いを馳せる。
思いもよらない形で自分の武術が頼られ、実際に拉致された生徒を救出すべく、警察相手に喧嘩までした。
この事で警察が大人しく引き下がる事はしないだろうとも考えながら………。
己の非を是が非でも認めないのは何も警察に限った事では無い。
そういう職業の者で無くとも、己の非を決して認めない人間はごまんといるのだから。
人間と言う存在に絶望している凱にとって、
男はチンポザルという名の獣欲溢れる薄汚い雄の類人猿―――
女はオナホザルという欲望に忠実な香水臭い雌の類人猿―――
と言った認識でしかなくなっていた。
自分を嫌った魔物娘の同級生も凱にとっては同類である。
もっとも、彼女達は凱の存在を認識すらしなかったから覚えている訳も無いだろうが、仮に謝って来たその時こそ、一辺の情けさえかける事は無いだろう。
心に一生の傷を付けた者達を許す程、彼は寛容では無い。
もし瑞姫に出会っていなければ、凱はきっと父の死をきっかけに完全に壊れ、父の死をぞんざいに扱った医師を撲殺していただろう。
心を保っているのは瑞姫の存在があったからこそと言える。
父から学んだ生活の術も瑞姫の家で役に立ってくれている。今はそれだけが心の拠り所だった。
ふと時計を見ると、夕食の時間を過ぎていた。
凱は自分の分の食事でも作ろうと思い、食堂へ足を運ぶ。
米を先に炊きながら適当に食材を見繕い、簡単にできる物と考え、厚揚げにキャベツ、にんにく、味噌等を用いたご飯に乗せるおかずを作り始める。
と、そこに思いがけない人物がやってくる。
「あれー? 龍堂用務員ですかー?」
間延びした特徴的な口調で話すのはただ一人である。
「鬼灯教諭?」
「堅苦しい呼び方は嫌ですよー。泊まり込みとはいえ、学校は休みなのですからー、亜莉亜、と呼んで欲しいですよー」
「いくらなんでも、それは不味いのでは?」
「でーすーからー、学校は休みなのですー。プライベートというのがあっても、いいわけですよー」
「じゃあ…亜莉亜、さん?」
「うーん、まあ、いいですよー。あたしも龍堂用務員の事を、凱ちゃん、と呼ぶですー」
「――して、亜莉亜……さんは、何か御用で?」
「簡単にー、カップ麺でも食べようと思ったですよー」
鬼灯亜莉亜――
人間でありながら特別クラスの主任教師を務める彼女の私生活は、自堕落の一言に尽きる。
彼女の居住空間は学園から程近くにある、ボロアパートの一室だ。
仕事の無い日の生活場所はそこであり、部屋は異様なまでに散らかっている。
散乱しているゴミにしても、ビールの空き缶やつまみの袋、コンビニ弁当の殻が殆どだ。
何もかもやりっぱなしで、酷い時にはゲームを点けっぱなしで仕事に出てしまうくらいなのだから、そのレベルは推して知るべしだろうか。
「それにしてもいい匂いがするですー。凱ちゃんは何してるですー?」
「夕飯と夜食の支度です」
「凱ちゃんは料理出来るんでしたね。それじゃ、御相伴に預かってもいいですか〜?」
「構いませんが……、他の教諭達は?」
「あー、酒盛りする為に、みなさん買い物に出てしまってるですー」
「そんじゃ、俺の分として米を炊き直すか……」
「それじゃあ、手伝うですよー」
馴れた手つきで米を研ぎ、炊くまでの時間を食材切りで潰す事にしたのだが、そこで事件は起こる。
「こうですよね? えっと、えい! ……っ痛っ!」
亜莉亜が興味本位で包丁を使い、左手の親指を切ってしまったのだ。
凱が絆創膏を取りに行こうとした、その時―――!
「……っ?! (ガクッ)……何…? ……これ、血……? ……血!?」
間延びしない、ドスの利いたような口調に変化した事に驚く凱を見た亜莉亜。
彼を見る目つきは攻撃的で、普段見る姿からはとても想像出来ないものであった。
「血……死んじゃう……? いや……死ぬのは……、いや……、死ぬのはいやぁぁ!」
狂ったように包丁を振り回す亜莉亜に戸惑いつつもチャンスを窺う凱であったが、果たしてそのチャンスはすぐに訪れる。
大振りな動きである為、隙を見つけ易くなっていたのだ。
凱は思い切り包丁を振り下ろした瞬間を狙って体当たりを仕掛け、包丁を腕ごと抑え込む。
体当たりされた弾みで包丁を取り落とした亜莉亜は更なる抵抗を試みて暴れるも、
体格差で敵う筈が無く、血を流している左手を掴まれ、切った指をしゃぶられてしまう有様となる。
「なに……っ?! いやっ! 放してっ! 放してぇぇぇぇっ!!」
口では叫ぶが、体が抑え込まれたかのようになり、暴れてはいない。
亜莉亜の指から口を放した凱は、人が変わったように暴れ出した彼女に尋ねる。
「亜莉亜さん、どうしたんですか急に!?」
「あたしはアリス! 亜莉亜じゃない!」
口調も亜莉亜とはまるで違う。間延びした口調とは打って変わって、断定形で乱暴なものだ。
凱も慎重に言葉を返す。
「じゃあ、アリスさん。アリスさんは、その身体のもう一人の人格って事?」
「アリスは亜莉亜で亜莉亜はアリス! ……あれ? でもそれじゃあ……あれ……?」
「……?」
二重人格――それが亜莉亜の中に隠された真実。
凱はアリスの抵抗が止んだのを確かめつつ、体を離し、彼女を開放する。
「えっと……、アリス……、よくわかんない……。亜莉亜に、聞いて……?」
アリスと名乗る女の瞼が眠るように重く閉じようとしている。
「ほら……亜莉亜が教えてくれるって……。それじゃあね……ばいばい……」
ガクンッと糸が切れた人形のように動かなくなったと思った瞬間、バッと顔を上げたのは――
「ん〜? あれぇー? あたし、またやっちゃったですかー?」
凱が聞き慣れた語尾の伸びた口調。
それは亜莉亜という本来の人格が戻って来た事を意味していた。
「ビックリしましたよ。突然乱暴な口調で暴れ出すから」
「あたしの事、凱ちゃんは知りませんですよねー?」
「知らない以前に、俺は他人の事を深く知りたくないですよ」
「アリスを見られた以上はー、知って貰わなきゃいけないですよー?」
「……そうですか」
「早速ですが話すですよー?」
一拍置いて、亜莉亜は己の身の上を話し始める。
「あたし、実は家族がいないんですよー。あたしの家族は飛行機事故で全員死んじゃったですー」
語尾のせいで悲壮さが欠けるのは御愛嬌と言ったところか。
「何故かあたし一人だけが生き残ったですよー。もう、ほんっとに不思議だったですよー」
次の瞬間、亜莉亜の顔に悲壮さが滲み出る。
「でも……、救助される直前に一度だけ目を覚ました時、すぐ隣で残骸に押し潰されたお父さんの首だけがあって……、もう一つ奥からは血の滝が流れていたです……。とても鮮明に覚えてるです……。そんなのを目にしてから、あたしの中で生まれたのがアリスなんですよー……」
「別の人格が生まれた、と……?」
「(ガクッ)……うん……。亜莉亜の事を守る為に、って……それで、アリスが生まれた……」
「そうですか」
「そうなの……。驚いたり……しないの?」
「驚かないと言ったら嘘になりますよ。あんな話を聞いた後だから驚きようが無いと言うのか……」
「(グゥゥ〜…)……お腹、空いちゃった……。亜莉亜も起きるみたいだし……ごはん、楽しみにしてるね(ガクッ)……ありゃ〜、またですよー……」
「とにかく、飯作りますから、亜莉亜さんは座って待ってて下さいね」
「それじゃあ、瑞姫ちゃんと朱鷺子ちゃんも呼ぶですよー」
「……先生が呼ぶと言うなら」
「決まりですー! 早速呼んでくるですよー!」
更に二人分の食事を追加する事になった凱は、さながら食堂の勤務員であるかのように慌ただしく動く。
おかずを増やして汁物も作ったりと、料理に励むその姿は下手な主婦などいとも簡単に凌駕していた。
実際にその姿を知る瑞姫でさえ、かなりの量を作っている姿を見るのは初めてである。
「……あれが瑞姫ちゃんのお兄さんの姿なんだね」
「はい。仕事で忙しくなった両親に代わって、家の食事やお弁当を作ってくれてるんです」
「羨ましいですー」
甘辛い物を主体にしたおかずに味噌汁も手作りという本格的な出来栄えに、朱鷺子と亜莉亜も驚嘆を隠せない。
それと同時に三人のお腹の虫が鳴いていた。
やがて白米が炊き上がって料理も出来上がり、テーブルに次々と並べられていく。
「……? 何してるんだ? 早く食べないと冷めるぞ?」
恥ずかしがる彼女達を促す凱は使った機材を軽く片付けると、麦茶のボトルを冷蔵庫から出してテーブルに置きつつ、席に座る。
女性陣三人もこれに倣って席についた。
「それじゃ、いただきます」
「いただきます」「いただくですよー」「……いただきます」
三者三様の言葉と共に食事が始まる。
「うん! 美味しいですー!」
「……これが……、これが家庭の味……? 何だろう……、とっても……あったかい……」
「お兄さんの料理、こんなに作って貰ったの初めて。あむっ、うん! やっぱり美味しい♪」
凱は三人の言葉を聞いて胸を撫で下ろす。
ただ、自分が作れる物を作っただけではあるが、味の好みは人それぞれ。
自分の味が好まれた事でほんの少し、自信を付けられたのかも知れない。
彼はそう思う事にした。
不運にもこの少し後に魔物娘の教師陣が買い出しから戻ってきてしまう。
しかも食堂にやってきた為に料理を作ったのがバレて、鍋料理でどうにか機嫌を直してもらう羽目になってしまうのだが――
19/01/01 18:53更新 / rakshasa
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