おはよう、となりの朝御飯。
「ん……」
目覚めは好調。カーテンを開け、朝日を浴びながら肩や首を慣らしていくと、まとわりついてくるような眠気もなりを潜めていくものだ。
ピンポン、とチャイムが聞こえたのはその時だ。
「はーい……」
「おはようございます、先生! 朝食のご用意が整いましたのでお知らせに来ました。支度が済み次第、こちらの部屋へといらして下さいますか?」
ご機嫌な小鳥がさえずるような声で、目の前にいるメイドエプロン姿の女の子は僕に微笑みかける。
「え、僕が上がってもいいのかな?」
越してきたばかりとはいえ女の子の部屋だろうし。
「はい、お構いなくどうぞ! せっかくの朝御飯ですから、冷めないうちに召し上がっていただきたくて」
「えっと……じゃあお言葉に甘えて。少し着替えてからそっちに行くよ。寝巻きじゃ流石に格好もつかないしね」
「はい」
いったん玄関のドアを閉め、クローゼットからスーツを出す。初めて着たときの、まだまだスーツを着せられている感が残っている気はする。
「……いつもは面倒で適当に済ませてるしなあ、朝御飯。ありつけるなら喜んで頂きたいよ」
などとひとりごちていると、
「そうですか、すこしでも喜んでいただけるなら私も嬉しいですよ。では、着替えのお手伝いをさせていただきますね」
「はいストップ!」
「えっ……?」
「『えっ……?』じゃなくて! どうしてここにいるのさ!?」
いつの間に僕の背後に。
「それはもちろん、先生のお着替えを手伝いに……」
エリスさんは『だるまさんがころんだ』よろしく突き出した手を虚空に彷徨わせていた。
「これくらいは一人でやるから! エリスさんは飲み物の用意でもしていてくれるかな!?」
「うぅ……先生がそう仰るなら……畏まりました。では、お待ちしていますね」
さながら花が萎れるかのような顔をした彼女が僕の部屋を出て程なく、隣の部屋から食器を並べる音が。二部屋をドアで繋げる工事の影響なのか、その音ははっきりと聞こえてきた。これ僕のプライバシーとか大丈夫なのかな。もちろんエリスさんのもだけれどさ。
「……というかまあ、こんな大仰な工事が僕の部屋になされてる時点でそんなものはないよね……そうだよね……」
我が物顔で、あたかも初めからそこにあったぞと言わんばかりのドアを見ながら嘆いてみた。
着替えを済ませて、今は『使用禁止』と書かれた心許ない1枚の張り紙で封印された居間のドアを横目に玄関から外へ出て、隣の部屋のチャイムを押す。すると、ガチャリと開いたドアからエリスさんの頭がひょっこりと覗き、ふんわりと室内の空気が流れてくる。蜂蜜を少しだけ薄めたような女の子の香りと、美味しそうな朝ごはんの匂い。
教師の身分で生徒の部屋に……なんて少しだけ背徳的なものを感じながらも部屋に上がらせてもらうと、匂いの出元はすぐに見えた。
「エッグベネディクト、それにポテトサラダです。昨晩のうちに朝はお米がいいか、パンがいいかを聞きそびれていましたので、私の家でのいつもの朝ご飯をお作りしましたが、よろしかったでしょうか……?」
「よろしいも何も、僕のいつもの朝に比べたらご馳走すぎて勿体無いくらいだよ。すごく美味しそうだ」
世辞でもなんでもなく僕はそう評価した。エッグなんちゃらとかもうね、僕が知る朝飯の類ではないことだけは確かだ。
「えーと、いただいちゃっていいんだよね……?」
「もちろんですよ、先生。どうぞお召し上がりくださいませ」
やはり一般ピープルの僕にはやや敷居が高くないかとも思うけれど(実際綺麗な食べ方がわからない)、とりあえずなんたらディクトを一口。その様子をじっとエリスさんは見つめている。
「……こ、これは……!」
「いかがですか……?」
マフィン生地の上に乗ったベーコン。そしてチーズ。どちらか片方だけでも十分美味しいそれを一口に頬張ると、ベーコンの脂身と蕩けるほどのチーズの旨味が広がった。そのままならしつこいだけのその脂味を、トマトの酸味で絶妙なバランスに保っている。これはエッグベネディクトのうちのひとつ、エッグプラックストーンと呼ばれる様式だろう。勧められるがままにつまんだポテトサラダもなるほど、マヨネーズなどの味付けは少なめで、ベーコンの後風味を活かす味付けになっているではないか。思わず赤ワインでも取り出して、優雅なひとときに身を任せてしまいたくなる。
……なんて宝石箱のように綺麗な言葉の食レポがつらつらと浮かんでくるわけもなく、僕の貧弱な語彙ではただただ「美味しい」を連呼するばかりなのが悲しい。それでもエリスさんは僕が食べる様を嬉しそうに眺めていた。
「オゥ……ベリーベリー……グーテンモルゲン……!」
訳:(英)わあ、とても(独)おはよう!
意訳:言葉にできないくらい美味しいです。
「む、無理はしないでくださいね……? では失礼して、私も頂きます……」
エリスさんが少し引きつりながらも笑顔でそう言い、自分の分の料理を口に運びはじめる。そして次に目についた、温かみのある木製のコップに注がれたミルクを飲みながら、僕は言った。
「そういえばこのコップも、お料理が載ってるお皿も木製なんだね。良いなあ、なんだかこう、味があるっていうかさ。ちょっとだけ色が水を吸って変わったり、木目の模様を楽しんだりできるのって良いよね。僕だけかもしれないけど」
それを聞いたエリスさんは「まあ確かにわかります、わかるんですけれども……」と少しだけ微妙な表情になりながら続ける。
「あまりにも母が陶食器を割りすぎるもので、落としても被害が少ないようにと、父が家じゅうの食器を木製に……と、そう聞きました」
「あっ……あぁ……なるほど」
それで全てが納得できてしまうあたり本当にアリーシャさんはとんでもない人物なのだと思う。別の意味で。
「母はとっても目が悪くて……眼鏡さえかけていればまともに家事もこなせるんですけれど、なにぶんその眼鏡を失くしたり壊したりが日常茶飯事な母でして……ついこの間も買い換えたんですよ」
少しだけ愚痴っぽくエリスさんが言うのを聞いて僕も思い当たる。
「中々に新品っぽい眼鏡だなとは思ってたけど、そういうことだったんだね」
コメディチックに目を3の字にして、眼鏡を探しながらあたふたとしているアリーシャさんが頭に浮かんでしまった。
「いくら家にお金があるといっても無駄使いはできないのに……困った母を持ちました」
「そうだね……でも、そう言う割にはエリスさん、お母さんのことを大切に思ってるよね?」
「わかりますか……えへへ。困った母ですが……大切なのに変わりはありませんから」
「昨日も思ったけど、親に対してそういった気持ちを素直に言葉にできるのってすごく立派なことだと思うよ。僕なんて、たった一言の『ありがとう』ですら親には面と向かって言えなくて置き手紙とか書いたりしてさ」
そのあとは決まってにやついた顔をした親から結局からかわれたりするんだけどね。
「……大切な人であればあるほど、自分の気持ちを伝えることが難しくなってくると思うし、どうやって表現したらいいかわからなくなるときもある。でも、だからこそ、気持ちが伝えられたときにそれが強い意味を持つんじゃないかなって僕は思うんだ」
……言い終わったらだんだん恥ずかしくなってきた。果たしてエリスさんはどんなからかい顏をしているのかと見てみると、彼女は琥珀色の瞳を少しだけ細めて、優しげに微笑んでいた。
「ふふっ、私はキキーモラですよ? 他人への感謝すらできずに、どうしてご主人様への理想のご奉仕がつとまりましょうか、いえ、つとまりません!」
両拳をグッと握り力説するエリスさん。ついこの間授業で教えた反語表現もバッチリ使いこなせているから、国語教師の僕としても鼻が高いね。
「それにしても数教先生、学校の先生みたいなことを言うんですね」
「あの、もしかして普段教鞭をとってる時の僕ってそんなに頼りなく見えてるの?」
「あ、いえ! 充分頼り甲斐のある人だってちゃんとわかっているんですよ? でもお若いですから、どうしてもみんな親しみやすくなってしまって……すみません」
う、うぐう……ま、まあ親しんでくれるのは良いことなんだろうけども、やっぱりこう、僕にも理想の教師像みたいなのはあるわけで。
「腑に落ちないところはちょっとあるけれど……とりあえず朝ごはん、ご馳走様でした」
気がつけばいつのまにか僕の目の前のお皿は空だった。もしかしてこれから毎朝こんなに美味しいものが食べられるのかと思うと、一周回って畏れ多くなりそうだ。
「はい! 数教先生、お粗末様でした」
僕が席を立つと、エリスさんはじっ、と
上目遣いで僕の顔を見つめている。
「……? 僕の顔に何かついてるかな?」
「パンくずでもついているなら取ってあげていますよ。でもそうじゃなくて……えっと、その……」
僕を見上げていた彼女の顔はだんだん下がり、指と指をつき合わせながら羽根の塊のような尻尾をせわしなく左右に振っている。そして恐る恐る口を開き、
「……て、頂けたら……」
「? えーと……ごめん、よく聞こえなかったんだけど……」
僕の言葉にエリスさんはピクリとする。そしてもう一度僕を見て大きく息を吸い、目をぎゅっと瞑った。
「ほっ、褒めて頂けたらっ!! うれっ……うれしぃ……です……」
顔を真っ赤にして、駄々っ子のようなポーズでそんなお願いがエリスさんから飛んでくるとは思ってなかった。
ドキリとしてしまった僕は半ば反射的に手を伸ばして、メイドカチューシャよりも前側の部分、おでこよりちょっと上あたりのところをポンポンと撫でていた。
「ふにゃ……」
思わずといったようにエリスさんが可愛らしく息をこぼす。
「……ごっ、ごめん! 急に触ったりなんかして! その……ご飯とっても美味しかったよ、ありがとう! ぼっ、僕はそろそろ学校に行かなきゃだからえっと行ってきます!」
「えっ!? あ、行ってらっしゃいませご主人様!」
行ってきますといってもあくまでここは彼女の家であって僕の家ではないのだけど、そんなことが気にならなくなるくらいには気が動転していた。そのまま荷物を持って車に乗り、学校に向けて走らせる。
信号待ちでエンジンの音を聞いているとだんだんと落ち着いてきた。……けども。
「……さっき僕、ご主人様って呼ばれてなかった……?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バタンガタンと音を立てながら家を出る先生を、私はただ呆然と見送っていた。
「………………はっ!! もう何やってるのよ私の馬鹿馬鹿ばかぁ!」
どうして『ご主人様』なんて言ってしまったのか……私はまだ、見習いのキキーモラだ。もちろん炊事洗濯掃除、自信がないわけではない。けれど、先生は私のことを1人の生徒として見ているはず。ご主人様とメイド、そんな関係に憧れはしても現実は教師と生徒、ただそれだけなのに。
「『ふにゃ……』って何……いくらなんでも油断しすぎでしょ私……駄目駄目、気持ちを引き締めなきゃ」
ぱんぱん、とエプロンの裾をはたいてみると、幾分か気分が切りかわった気がした。
私と先生が食べ終えた食器を片付けてから支度をして、私も登校しないと。
「残さず食べてくれて良かった……口に合わなかったらどうしようかって思ったけど」
片付けのために器を持ち上げると、コトリと木で出来たスプーンが同じく木で出来た器を叩く音がした。
「ごしゅ……じゃない、先生の使ってたスプーン……」
一体私はさっき何を引き締めたのだろうか。自分でも驚くほどに意識が邪な方に向かってしまった。意識するとそのことで頭がいっぱいになって、ついスプーンを持ってしまう。
「こ、これに口をつけたら……間接キスになるんじゃ……」
唇に近づけるにつれ、胸が高鳴る。そうだーー誰もいないんだし別にこれくらいはーーーー。
「〜〜っ! いや乙女か私はっ!!! 私はご主人様が求めるのならば炊事洗濯掃除夜伽エッチセックスなんでもござれのキキーモラでしょ! っていうかなんなの私はさっきから!? 頭を撫でられたくらいでコロリとあの人に落ちちゃったとでも言うの!? 軽い女だなんて思われたりしないかとっても心配になるよ私!」
食器をテキパキと洗っていき、一息ついたところでついさっきの出来事を思い出しながら、軽く頭に触れてみる。
「…………ふにゃあ……」
まだ手の感触が残っているような気がして、口角が緩むのを止められない。
部屋の壁の真ん中にある大きなドアを見ながら、私はぼんやりと考えた。
いつか先生に、自分からあのドアを開けさせてやろう、と。
目覚めは好調。カーテンを開け、朝日を浴びながら肩や首を慣らしていくと、まとわりついてくるような眠気もなりを潜めていくものだ。
ピンポン、とチャイムが聞こえたのはその時だ。
「はーい……」
「おはようございます、先生! 朝食のご用意が整いましたのでお知らせに来ました。支度が済み次第、こちらの部屋へといらして下さいますか?」
ご機嫌な小鳥がさえずるような声で、目の前にいるメイドエプロン姿の女の子は僕に微笑みかける。
「え、僕が上がってもいいのかな?」
越してきたばかりとはいえ女の子の部屋だろうし。
「はい、お構いなくどうぞ! せっかくの朝御飯ですから、冷めないうちに召し上がっていただきたくて」
「えっと……じゃあお言葉に甘えて。少し着替えてからそっちに行くよ。寝巻きじゃ流石に格好もつかないしね」
「はい」
いったん玄関のドアを閉め、クローゼットからスーツを出す。初めて着たときの、まだまだスーツを着せられている感が残っている気はする。
「……いつもは面倒で適当に済ませてるしなあ、朝御飯。ありつけるなら喜んで頂きたいよ」
などとひとりごちていると、
「そうですか、すこしでも喜んでいただけるなら私も嬉しいですよ。では、着替えのお手伝いをさせていただきますね」
「はいストップ!」
「えっ……?」
「『えっ……?』じゃなくて! どうしてここにいるのさ!?」
いつの間に僕の背後に。
「それはもちろん、先生のお着替えを手伝いに……」
エリスさんは『だるまさんがころんだ』よろしく突き出した手を虚空に彷徨わせていた。
「これくらいは一人でやるから! エリスさんは飲み物の用意でもしていてくれるかな!?」
「うぅ……先生がそう仰るなら……畏まりました。では、お待ちしていますね」
さながら花が萎れるかのような顔をした彼女が僕の部屋を出て程なく、隣の部屋から食器を並べる音が。二部屋をドアで繋げる工事の影響なのか、その音ははっきりと聞こえてきた。これ僕のプライバシーとか大丈夫なのかな。もちろんエリスさんのもだけれどさ。
「……というかまあ、こんな大仰な工事が僕の部屋になされてる時点でそんなものはないよね……そうだよね……」
我が物顔で、あたかも初めからそこにあったぞと言わんばかりのドアを見ながら嘆いてみた。
着替えを済ませて、今は『使用禁止』と書かれた心許ない1枚の張り紙で封印された居間のドアを横目に玄関から外へ出て、隣の部屋のチャイムを押す。すると、ガチャリと開いたドアからエリスさんの頭がひょっこりと覗き、ふんわりと室内の空気が流れてくる。蜂蜜を少しだけ薄めたような女の子の香りと、美味しそうな朝ごはんの匂い。
教師の身分で生徒の部屋に……なんて少しだけ背徳的なものを感じながらも部屋に上がらせてもらうと、匂いの出元はすぐに見えた。
「エッグベネディクト、それにポテトサラダです。昨晩のうちに朝はお米がいいか、パンがいいかを聞きそびれていましたので、私の家でのいつもの朝ご飯をお作りしましたが、よろしかったでしょうか……?」
「よろしいも何も、僕のいつもの朝に比べたらご馳走すぎて勿体無いくらいだよ。すごく美味しそうだ」
世辞でもなんでもなく僕はそう評価した。エッグなんちゃらとかもうね、僕が知る朝飯の類ではないことだけは確かだ。
「えーと、いただいちゃっていいんだよね……?」
「もちろんですよ、先生。どうぞお召し上がりくださいませ」
やはり一般ピープルの僕にはやや敷居が高くないかとも思うけれど(実際綺麗な食べ方がわからない)、とりあえずなんたらディクトを一口。その様子をじっとエリスさんは見つめている。
「……こ、これは……!」
「いかがですか……?」
マフィン生地の上に乗ったベーコン。そしてチーズ。どちらか片方だけでも十分美味しいそれを一口に頬張ると、ベーコンの脂身と蕩けるほどのチーズの旨味が広がった。そのままならしつこいだけのその脂味を、トマトの酸味で絶妙なバランスに保っている。これはエッグベネディクトのうちのひとつ、エッグプラックストーンと呼ばれる様式だろう。勧められるがままにつまんだポテトサラダもなるほど、マヨネーズなどの味付けは少なめで、ベーコンの後風味を活かす味付けになっているではないか。思わず赤ワインでも取り出して、優雅なひとときに身を任せてしまいたくなる。
……なんて宝石箱のように綺麗な言葉の食レポがつらつらと浮かんでくるわけもなく、僕の貧弱な語彙ではただただ「美味しい」を連呼するばかりなのが悲しい。それでもエリスさんは僕が食べる様を嬉しそうに眺めていた。
「オゥ……ベリーベリー……グーテンモルゲン……!」
訳:(英)わあ、とても(独)おはよう!
意訳:言葉にできないくらい美味しいです。
「む、無理はしないでくださいね……? では失礼して、私も頂きます……」
エリスさんが少し引きつりながらも笑顔でそう言い、自分の分の料理を口に運びはじめる。そして次に目についた、温かみのある木製のコップに注がれたミルクを飲みながら、僕は言った。
「そういえばこのコップも、お料理が載ってるお皿も木製なんだね。良いなあ、なんだかこう、味があるっていうかさ。ちょっとだけ色が水を吸って変わったり、木目の模様を楽しんだりできるのって良いよね。僕だけかもしれないけど」
それを聞いたエリスさんは「まあ確かにわかります、わかるんですけれども……」と少しだけ微妙な表情になりながら続ける。
「あまりにも母が陶食器を割りすぎるもので、落としても被害が少ないようにと、父が家じゅうの食器を木製に……と、そう聞きました」
「あっ……あぁ……なるほど」
それで全てが納得できてしまうあたり本当にアリーシャさんはとんでもない人物なのだと思う。別の意味で。
「母はとっても目が悪くて……眼鏡さえかけていればまともに家事もこなせるんですけれど、なにぶんその眼鏡を失くしたり壊したりが日常茶飯事な母でして……ついこの間も買い換えたんですよ」
少しだけ愚痴っぽくエリスさんが言うのを聞いて僕も思い当たる。
「中々に新品っぽい眼鏡だなとは思ってたけど、そういうことだったんだね」
コメディチックに目を3の字にして、眼鏡を探しながらあたふたとしているアリーシャさんが頭に浮かんでしまった。
「いくら家にお金があるといっても無駄使いはできないのに……困った母を持ちました」
「そうだね……でも、そう言う割にはエリスさん、お母さんのことを大切に思ってるよね?」
「わかりますか……えへへ。困った母ですが……大切なのに変わりはありませんから」
「昨日も思ったけど、親に対してそういった気持ちを素直に言葉にできるのってすごく立派なことだと思うよ。僕なんて、たった一言の『ありがとう』ですら親には面と向かって言えなくて置き手紙とか書いたりしてさ」
そのあとは決まってにやついた顔をした親から結局からかわれたりするんだけどね。
「……大切な人であればあるほど、自分の気持ちを伝えることが難しくなってくると思うし、どうやって表現したらいいかわからなくなるときもある。でも、だからこそ、気持ちが伝えられたときにそれが強い意味を持つんじゃないかなって僕は思うんだ」
……言い終わったらだんだん恥ずかしくなってきた。果たしてエリスさんはどんなからかい顏をしているのかと見てみると、彼女は琥珀色の瞳を少しだけ細めて、優しげに微笑んでいた。
「ふふっ、私はキキーモラですよ? 他人への感謝すらできずに、どうしてご主人様への理想のご奉仕がつとまりましょうか、いえ、つとまりません!」
両拳をグッと握り力説するエリスさん。ついこの間授業で教えた反語表現もバッチリ使いこなせているから、国語教師の僕としても鼻が高いね。
「それにしても数教先生、学校の先生みたいなことを言うんですね」
「あの、もしかして普段教鞭をとってる時の僕ってそんなに頼りなく見えてるの?」
「あ、いえ! 充分頼り甲斐のある人だってちゃんとわかっているんですよ? でもお若いですから、どうしてもみんな親しみやすくなってしまって……すみません」
う、うぐう……ま、まあ親しんでくれるのは良いことなんだろうけども、やっぱりこう、僕にも理想の教師像みたいなのはあるわけで。
「腑に落ちないところはちょっとあるけれど……とりあえず朝ごはん、ご馳走様でした」
気がつけばいつのまにか僕の目の前のお皿は空だった。もしかしてこれから毎朝こんなに美味しいものが食べられるのかと思うと、一周回って畏れ多くなりそうだ。
「はい! 数教先生、お粗末様でした」
僕が席を立つと、エリスさんはじっ、と
上目遣いで僕の顔を見つめている。
「……? 僕の顔に何かついてるかな?」
「パンくずでもついているなら取ってあげていますよ。でもそうじゃなくて……えっと、その……」
僕を見上げていた彼女の顔はだんだん下がり、指と指をつき合わせながら羽根の塊のような尻尾をせわしなく左右に振っている。そして恐る恐る口を開き、
「……て、頂けたら……」
「? えーと……ごめん、よく聞こえなかったんだけど……」
僕の言葉にエリスさんはピクリとする。そしてもう一度僕を見て大きく息を吸い、目をぎゅっと瞑った。
「ほっ、褒めて頂けたらっ!! うれっ……うれしぃ……です……」
顔を真っ赤にして、駄々っ子のようなポーズでそんなお願いがエリスさんから飛んでくるとは思ってなかった。
ドキリとしてしまった僕は半ば反射的に手を伸ばして、メイドカチューシャよりも前側の部分、おでこよりちょっと上あたりのところをポンポンと撫でていた。
「ふにゃ……」
思わずといったようにエリスさんが可愛らしく息をこぼす。
「……ごっ、ごめん! 急に触ったりなんかして! その……ご飯とっても美味しかったよ、ありがとう! ぼっ、僕はそろそろ学校に行かなきゃだからえっと行ってきます!」
「えっ!? あ、行ってらっしゃいませご主人様!」
行ってきますといってもあくまでここは彼女の家であって僕の家ではないのだけど、そんなことが気にならなくなるくらいには気が動転していた。そのまま荷物を持って車に乗り、学校に向けて走らせる。
信号待ちでエンジンの音を聞いているとだんだんと落ち着いてきた。……けども。
「……さっき僕、ご主人様って呼ばれてなかった……?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バタンガタンと音を立てながら家を出る先生を、私はただ呆然と見送っていた。
「………………はっ!! もう何やってるのよ私の馬鹿馬鹿ばかぁ!」
どうして『ご主人様』なんて言ってしまったのか……私はまだ、見習いのキキーモラだ。もちろん炊事洗濯掃除、自信がないわけではない。けれど、先生は私のことを1人の生徒として見ているはず。ご主人様とメイド、そんな関係に憧れはしても現実は教師と生徒、ただそれだけなのに。
「『ふにゃ……』って何……いくらなんでも油断しすぎでしょ私……駄目駄目、気持ちを引き締めなきゃ」
ぱんぱん、とエプロンの裾をはたいてみると、幾分か気分が切りかわった気がした。
私と先生が食べ終えた食器を片付けてから支度をして、私も登校しないと。
「残さず食べてくれて良かった……口に合わなかったらどうしようかって思ったけど」
片付けのために器を持ち上げると、コトリと木で出来たスプーンが同じく木で出来た器を叩く音がした。
「ごしゅ……じゃない、先生の使ってたスプーン……」
一体私はさっき何を引き締めたのだろうか。自分でも驚くほどに意識が邪な方に向かってしまった。意識するとそのことで頭がいっぱいになって、ついスプーンを持ってしまう。
「こ、これに口をつけたら……間接キスになるんじゃ……」
唇に近づけるにつれ、胸が高鳴る。そうだーー誰もいないんだし別にこれくらいはーーーー。
「〜〜っ! いや乙女か私はっ!!! 私はご主人様が求めるのならば炊事洗濯掃除夜伽エッチセックスなんでもござれのキキーモラでしょ! っていうかなんなの私はさっきから!? 頭を撫でられたくらいでコロリとあの人に落ちちゃったとでも言うの!? 軽い女だなんて思われたりしないかとっても心配になるよ私!」
食器をテキパキと洗っていき、一息ついたところでついさっきの出来事を思い出しながら、軽く頭に触れてみる。
「…………ふにゃあ……」
まだ手の感触が残っているような気がして、口角が緩むのを止められない。
部屋の壁の真ん中にある大きなドアを見ながら、私はぼんやりと考えた。
いつか先生に、自分からあのドアを開けさせてやろう、と。
16/07/14 03:30更新 / ノータ
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