突撃、お宅の晩御飯……??
「お、おおう…………」
僕はとにかく、目の前の光景に戸惑いを隠せずにいた。何故かは後で説明しよう。
ここでひとつ当たり前のことを言っておくと、学校には家庭訪問というシステムがある。それは生徒の実態を担任教師が親御さんへと直に伝え、親御さんは(その家庭にもよるが)部屋を綺麗に片付け、磨かれた居間のテーブルに茶菓などを出しては雑談に興じるという、いわばその家のステイタスお披露目式のようなものだ。
正直なところを言わせてもらえば、教師の立場である自分からするとそういった茶菓などは受け取ったりするのはよろしくないから、話し合いの席で出されたとしても丁重にお断りする必要があるのだが。
「ようこそおいでくださいました、先生。どうぞごゆっくりしていってくださいね」
今僕が訪れている家の外観はさながら西洋のお屋敷そのものだった。招き入れられてみると、内装も勿論だ。煌びやかなシャンデリア、真紅をさらに紅くしたような色味の敷物……だが、十二分に目を引きそうなそれらをも霞ませるほどに目の前に並ぶのは高級レストランもかくやと言わんばかりの料理、料理、料理。
いえお気遣いなく、などと言って茶菓のようにやり過ごせるものでないのはもはや明らかな雰囲気である。
何より、料理を準備したであろう女性が浮かべる満面の笑みを見てしまうと、どうにも僕は断りづらくなってしまう。
ある程度覚悟はしていた。僕が受け持つキキーモラの生徒の家にお邪魔するときには丁寧におもてなしされるんだろう、という漠然としたものだったが……まさかここまでとは。
「ええと、結構なお点前で……じゃなくて!」
超が付くほどに一般人の僕はこのような場所でどう対応するべきかを知らない、知るわけがない。ナイフとフォークは内側から? それとも外側だったか?
というかそもそも受け取ることすらまず断るべきなのだ。だがどう切り出したものか。
「あっ、もしかして洋食はお口に合いませんでしたか……? すぐにお引き換え致しますね」
しゅん、とキキーモラに特有の、羽根のような尻尾が気持ち萎み、綺麗な長い下睫毛が見えるほどに目を伏せ、手はお腹の前で重ねてぺこりとお辞儀。身体全体が完全に申し訳ありませんオーラを表現していた。
「あっいえ! 洋食は大好きですご心配なさらず!」
僕は堪らず言った。モッタイナイ精神が染み付いた極東の男児ならこの料理が片付けられるのを黙って見ていられようか、いやいられないだろう。
ーーちなみにこの一言が、僕のお腹の運命を決定付けたことは言うまでもない。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「ふう……その、大変美味しく頂きました。……それで、エリスさんの事なのですが」
なんとか料理を胃袋に入れた僕はようやく本題、つまり家庭訪問における、先生と親との話し合いを始めることができた。
「彼女は日頃の態度もよく、率先して清掃やボランティア活動にも参加していますね。少々忘れ物をする事はありますが、きちんと家庭学習ができているようですし、成績も優秀です」
目の前にいるのは先ほど料理を作ってくれた女性、そしてエリスさんの母でもあるアリーシャさんだ。料理のために束ねていた琥珀色の髪は解かれていた。銀縁の眼鏡をかけたその淑とした佇まいは、彼女に落ち着きのある美しさを醸し出させている。
新調したばかりなのかまだ輝きの強い眼鏡をゆっくりと外し、アリーシャさんは小さな口で息を吸い込んだ。
「うちの子は何もない廊下で躓いてこけたりしていませんか? お掃除の時にバケツをひっくり返しちゃったりしていませんか? あああえっとそれから……」
「あ、アリーシャさん、落ち着いてください? それにバケツをひっくり返すって……幾ら何でもそれはドジが過ぎますよ」
「ひぅっ……すみませんすみません」
つい先ほどまでの落ち着いた雰囲気はどこに行ったのか、わたわたとまくし立てるアリーシャさん。
彼女が一体何に謝っているのかは多分、僕の知るところではないだろう。そんな気がする。いや、そんな話はさておきだ。
「大丈夫ですよ。あなたのお子さんはみんなが頼りにするくらいに、真面目な生徒です」
僕がそう言うとアリーシャさんも一安心したのか、ほっと息をついた。
「そうですか! 良かった、ずっと心配していたんですよ私……あの子ったら、お家ではもうそれは全然なので」
「全然って……そんなに怠けているんですか? エリスさんは」
エリスさんの学校での日頃の態度を知っている僕からすると、少し想像しにくい話だ。
「いえ、お家で料理を運ばせてもころんだりしないし、掃除もお洗濯も私なんかより断然上手くって……だからその反動が起きて、学校では悲惨なんじゃないかって心配で」
「普通にいい子じゃないですか!? むしろ家事スキルで負けてどうするんですアリーシャさん!」
メモ帳に「家庭内での素行もよい」と記しておいて、僕は苦笑いする。
「まあ、どこに出しても恥ずかしくない娘に育ってくれて、私としては良かったです。……先生、今日からうちの娘のこと、よろしくお願いしますね?」
アリーシャさんが僕に笑いかける。さながら子離れを悲しむ母といった表情なのが気になるが。
「はい。まだ僕も若輩ですが、若輩なりに精一杯やらせていただきます」
「あらあら、そうお硬くならないでください。若いかたのほうが色々とあの子も気楽にやれるはずですから」
「そう言っていただけると僕も気が楽になりますよ、ありがとうございます。……それではそろそろ、お暇させていただきましょうか」
ただの家庭訪問にしてはたいそう時間がかかってしまったが、まあその分美味しい思いもしているし、断りきれなかった僕の問題でもある。
「そうですね、今日は良いお話が聞けました。お帰りの道中、どうかお気をつけくださいね」
僕は再び、広く豪勢な装いをひとしきり逆行し、アリーシャさんの屋敷を後にした。見送りにと一緒について来た彼女の方が何度も何もないところで躓いてはこけていたので、心の中でそちらこそお帰りの道中はお気をつけくださいとだけ言っておいた。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「お、おおう…………」
僕はとにかく、目の前の光景に戸惑いを隠せずにいた。ん? さっきも聞いた? そんな疑問はタンスの引き出しの中にでもしまっておいてくれると助かる。
「僕の家……だよな、ここ?」
シックな見た目が気に入っている黒のテーブル。仕事の疲れを癒してくれる少し大きめのベッド。案外一人で暮らしていると点ける機会が少なく買って後悔した薄型テレビ。仕事を持ち帰る人間になってしまってからすっかり御用達のパソコンデスク。紛れもなく、ここは僕の家だ。
だが、出かける前よりは確実に、部屋の物が減っていた。空き巣を疑ったが、それにしてはどうにも部屋が綺麗に片付きすぎている。それに何より、趣味で集めている時計といった金目のものすらもむしろショウケースのホコリを拭き取られ、見栄えが良くなっている始末だ。
「っていうか……それよりもこれはなんなんだ?」
どうやら整頓されたらしい僕の部屋には、無くなったゴミやチリの代わりに、どうしても無視することのできないものがあった。
ポスターもカレンダーも貼られていない、真っ白な筈だった僕の部屋の壁には。そう、
大きな。
大きなドアが。
手を伸ばすべきか。否か。しかしこの先はおそらく隣の部屋だ。万が一にも不法侵入やらなんだかで訴えられることは公務員として避けねばならないのだが。
などと懊悩している僕をよそに、なんと無情にもドアノブが回り、あちら側からドアが開いていくではないか。
「あ、数教(かずのり)先生、お帰りなさいませ!」
「えっ……!? あ、え……??」
現れたのは、つい先ほどまで訪問先で見ていた琥珀色の髪。ふわり、とこちらを見上げる頭の動きとともに髪束が揺れる。
だがそれはアリーシャさんではない。
「え、エリス……さん!?」
「はい! 今日から先生にお仕えさせていただくことになりました、エリス・ロード・パステルナークです!」
母親に勝るとも劣らない美貌を持つ少女が、僕を見ながらそう言った。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「……ええと、つまり? キキーモラとしての社会勉強のために、誰かに仕える研修をこなさなければならない、と。それで白羽の矢が立ったのが僕だ、と。そういうこと?」
「はい、先生は独り暮らしだと仰っていましたので、何かと大変な事もあるのではと思い、私が少しでも支えになってあげられるのなら……と」
まるで面接でも受けに来ているかのように背筋をピンと崩さないまま、笑顔でエリスさんが言う。
「ま、まぁ気持ちは嬉しいけれどもさ? いささか強引すぎやしないかな、エリスさん? こういうことはちゃんと許可を取ってからじゃないと……」
「……え? ちゃんと許可は貰っているはずですが、学園長に。あの人も快く返事をくださいましたし」
ヴァンパイアでもある、僕の勤め先の学園長……名前はローシェ・レストマイスさん。魔物と人間の共存を掲げて極東の島国くんだりまでやってきて、人魔共学のこの学園を設立した手腕の持ち主だ。
基本的に世話焼きで人望も厚い魔物だけれど、ちょくちょく余計なお世話が入るんだよなあ。
「……少し、学園長に連絡を取ってみてもいいかな?」
「あ、はい、どうぞ」
ツー……ツー……
『数教くんか。もしもし、私だ。どうかしたのかね?』
「学園長、エリスさんがウチにいるんですけれど。どういうことか説明していただけませんか」
『…………はっはっは』
「何ですか今の間はそして誤魔化せてませんよあなた完全に忘れてましたよね!?」
『なに、我が学園は魔物と人間の共存を目的として設立されたんだ、それは教員とて例外はない、と、そうは思わんかね?』
「それとこれとは話が別です! なんなんですかあの劇的ビフォーアフターは!? 賃貸マンションの2部屋融合なんて聞いたこともありませんよ! それに同意もした覚えなんてありませんし!」
その僕の言葉に、えっ、とエリスさんが固まる。
『事後承諾という形でどうか、お願いしてくれるか? そうかそれは良かったありがとう数教くん君が心の広い人間で私は嬉しいぞではさらばだ』
「ちょっ僕何も言ってな……切れた!! 切りやがったあの魔物!」
未だ携帯電話を虚しく耳に当てながら僕は憤慨した。と、そこでエリスさんと目が合った。みるみるうちに彼女の眉尻と、フサフサした尻尾が同時に萎びていく。見たことあるぞ、この顔は。
「も、申し訳ありません先生、すぐに出て行きますので……!」
「待ってここで出て行かれたらそれはそれできっと僕すごい悪者になるよ!?」
「えっ、なら……先生にお仕えさせていただいてもよろしいのですか!?」
ぱっとエリスさんの顔と尻尾に生気が戻る。
「あっ、それはえーと……すぐには決めかねる……かな」
「そ、そう……ですよね、あはは……」
「えと、とりあえず僕の部屋にあるあの扉は封印、君は一人、隣に越してきたってことで……いい?」
「ええと、ご奉仕させては頂けないのですか……?」
心底残念そうな顔をしながら、エリスさんは僕を見る。
「ええと……そんなに、したいの?」
「はいっ」
「どうしても?」
こくこく。
キキーモラは他人に尽くすことが生き甲斐であるというが、本当にそうらしい。
「……なら、少しだけお願いしようかな。エリスさんの負担にならない程度でね。僕の世話にかまけてその他がおろそかになっちゃったら本末転倒なんだし」
「は、はい! ありがとうございます先生、私頑張りますね!」
しかしどうして家事ができるのがそんなに嬉しいのだろう。お皿を洗うのすら面倒になるからご飯はコンビニで済ませたりしたくなるものだし、掃除だって必要に迫られなければ率先してやるようなものでもないんじゃないか、と僕は思うのだけれど。
「では先生、早速ですが今日のお夕飯の支度を、と思うのですが、好きなものや味付けなどはございますか?」
「あー……えっと、そのことなんだけどさ」
「?」
「夕飯、君の家で食べてきちゃったんだよね……」
それもかなりの量を、と心の中でつけ足しておくにとどめる。
ピキ、とエリスさんの笑顔が固まったような気がしたからだ。
「えっと……すみません先生、私も少し母に電話をかけますね」
「う、うん。どうぞ……」
張り付いた笑顔がちょっと怖いぞ、エリスさん。
ツー……ツー……ツー……ツー……ツー……
「いやに長いね」
「まさかこんな時間に寝てるはずないんですけれどね……」
ツー……ツー…ガッ! ダンッ!
『ひゃああああエリスちゃん! どうしましょう!? 聴こえますか!? 私の声ちゃんと聴こえてますか!?』
「ど、どうしたのママ!? 落ち着いて!」
『あの、えっと、携帯電話を取ろうとしたらうっかり手から滑らせて落っことしてしまいました……そうしたら画面にヒビが入ってしまって』
「もうっ! 今度は携帯電話なの、ママ!? この前こそ眼鏡をうっかり落として踏んづけて割っちゃったばかりじゃないの! 一体修理にいくらすると思ってるの!?」
あ、あれ……随分と僕の中でのエリスさんのイメージが崩れたぞ……『ママ』?? 絶対『お母さん』って呼んでる派だと思っていたのに。それに口調もどこか子供っぽいし……。
「それに先生、ご飯ウチで食べてきたってどういうこと!? せっかく私、先生を喜ばせるために色々買って準備してたのに! っていうか家庭訪問で食べ物はタブー! うっかり以前に常識の問題よ!?」
『は、はううっごめんなさいごめんなさい!』
子供に常識を諭される親ってなんなんだろうなぁ。アリーシャさんはいい娘を持ったんだなぁ。
「もう……ママ? 私もいないんだから家事はメイドに任せるのよ? 絶対よ? 私がいない間に実家が火事で全焼、とかシャレにならないからね?」
いや、どれだけ子供に信頼されてないんだアリーシャさん。
『はーい……私はおとなしくご主人様とセックスだけしてますね……』
「ぶぅっ!? せっ……!?」
魔物の会話って、こんなのが日常なのか……!?
「ん、それじゃあねママ。愛してるわ」
『エリスちゃん、もっともっと立派になって帰ってきて下さいね。私も愛してますよ』
そこで母娘の通話は終わった。
「申し訳ありません先生、母が多分にご迷惑をおかけしました……」
「い、いや、断りきれない僕も僕だし、美味しかったからいいよ……」
「母は排他的利他主義が過ぎます……ご奉仕とそれは似て非なるものであるべきなのです」
「へ、へぇ……」
「ご奉仕、それはつまり相手のことを大切に想い、トータルな面において相手をケアするものであって、決して自己満足からなるものではないのです。利他主義の性質こそありますが、それはある種の……」
国語教師の僕をしても圧巻の小論発表が急に開催されてしまった。
「……ですから、言うなれば完全なる他者満足にこそご奉仕の終着点というものがあるのです。わかりましたか先生?」
「はい。それはもう」
頭の中を文字がひたすら通り抜けていった感覚しかないのだが、これをリピートするのはもっと辛い。
「では、毎日の起床時間を教えて頂けますか、先生? 朝食をお作りいたしますから」
「え、いや悪いよそんな。適当に買って食べるから気にしないで」
「せ・ん・せ・い? いつ、起床、なさいますか?」
丁寧に、にこやかに、エリスさんは訊いてきた。
「ハイ。ロクジデス。アリガタク、イタダキマス」
いや……だからその笑顔本当に怖いんですけど。
「よろしいです♪」
そこでエリスさんはもう一度、今度は自然に笑ったのだった。
僕はとにかく、目の前の光景に戸惑いを隠せずにいた。何故かは後で説明しよう。
ここでひとつ当たり前のことを言っておくと、学校には家庭訪問というシステムがある。それは生徒の実態を担任教師が親御さんへと直に伝え、親御さんは(その家庭にもよるが)部屋を綺麗に片付け、磨かれた居間のテーブルに茶菓などを出しては雑談に興じるという、いわばその家のステイタスお披露目式のようなものだ。
正直なところを言わせてもらえば、教師の立場である自分からするとそういった茶菓などは受け取ったりするのはよろしくないから、話し合いの席で出されたとしても丁重にお断りする必要があるのだが。
「ようこそおいでくださいました、先生。どうぞごゆっくりしていってくださいね」
今僕が訪れている家の外観はさながら西洋のお屋敷そのものだった。招き入れられてみると、内装も勿論だ。煌びやかなシャンデリア、真紅をさらに紅くしたような色味の敷物……だが、十二分に目を引きそうなそれらをも霞ませるほどに目の前に並ぶのは高級レストランもかくやと言わんばかりの料理、料理、料理。
いえお気遣いなく、などと言って茶菓のようにやり過ごせるものでないのはもはや明らかな雰囲気である。
何より、料理を準備したであろう女性が浮かべる満面の笑みを見てしまうと、どうにも僕は断りづらくなってしまう。
ある程度覚悟はしていた。僕が受け持つキキーモラの生徒の家にお邪魔するときには丁寧におもてなしされるんだろう、という漠然としたものだったが……まさかここまでとは。
「ええと、結構なお点前で……じゃなくて!」
超が付くほどに一般人の僕はこのような場所でどう対応するべきかを知らない、知るわけがない。ナイフとフォークは内側から? それとも外側だったか?
というかそもそも受け取ることすらまず断るべきなのだ。だがどう切り出したものか。
「あっ、もしかして洋食はお口に合いませんでしたか……? すぐにお引き換え致しますね」
しゅん、とキキーモラに特有の、羽根のような尻尾が気持ち萎み、綺麗な長い下睫毛が見えるほどに目を伏せ、手はお腹の前で重ねてぺこりとお辞儀。身体全体が完全に申し訳ありませんオーラを表現していた。
「あっいえ! 洋食は大好きですご心配なさらず!」
僕は堪らず言った。モッタイナイ精神が染み付いた極東の男児ならこの料理が片付けられるのを黙って見ていられようか、いやいられないだろう。
ーーちなみにこの一言が、僕のお腹の運命を決定付けたことは言うまでもない。
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「ふう……その、大変美味しく頂きました。……それで、エリスさんの事なのですが」
なんとか料理を胃袋に入れた僕はようやく本題、つまり家庭訪問における、先生と親との話し合いを始めることができた。
「彼女は日頃の態度もよく、率先して清掃やボランティア活動にも参加していますね。少々忘れ物をする事はありますが、きちんと家庭学習ができているようですし、成績も優秀です」
目の前にいるのは先ほど料理を作ってくれた女性、そしてエリスさんの母でもあるアリーシャさんだ。料理のために束ねていた琥珀色の髪は解かれていた。銀縁の眼鏡をかけたその淑とした佇まいは、彼女に落ち着きのある美しさを醸し出させている。
新調したばかりなのかまだ輝きの強い眼鏡をゆっくりと外し、アリーシャさんは小さな口で息を吸い込んだ。
「うちの子は何もない廊下で躓いてこけたりしていませんか? お掃除の時にバケツをひっくり返しちゃったりしていませんか? あああえっとそれから……」
「あ、アリーシャさん、落ち着いてください? それにバケツをひっくり返すって……幾ら何でもそれはドジが過ぎますよ」
「ひぅっ……すみませんすみません」
つい先ほどまでの落ち着いた雰囲気はどこに行ったのか、わたわたとまくし立てるアリーシャさん。
彼女が一体何に謝っているのかは多分、僕の知るところではないだろう。そんな気がする。いや、そんな話はさておきだ。
「大丈夫ですよ。あなたのお子さんはみんなが頼りにするくらいに、真面目な生徒です」
僕がそう言うとアリーシャさんも一安心したのか、ほっと息をついた。
「そうですか! 良かった、ずっと心配していたんですよ私……あの子ったら、お家ではもうそれは全然なので」
「全然って……そんなに怠けているんですか? エリスさんは」
エリスさんの学校での日頃の態度を知っている僕からすると、少し想像しにくい話だ。
「いえ、お家で料理を運ばせてもころんだりしないし、掃除もお洗濯も私なんかより断然上手くって……だからその反動が起きて、学校では悲惨なんじゃないかって心配で」
「普通にいい子じゃないですか!? むしろ家事スキルで負けてどうするんですアリーシャさん!」
メモ帳に「家庭内での素行もよい」と記しておいて、僕は苦笑いする。
「まあ、どこに出しても恥ずかしくない娘に育ってくれて、私としては良かったです。……先生、今日からうちの娘のこと、よろしくお願いしますね?」
アリーシャさんが僕に笑いかける。さながら子離れを悲しむ母といった表情なのが気になるが。
「はい。まだ僕も若輩ですが、若輩なりに精一杯やらせていただきます」
「あらあら、そうお硬くならないでください。若いかたのほうが色々とあの子も気楽にやれるはずですから」
「そう言っていただけると僕も気が楽になりますよ、ありがとうございます。……それではそろそろ、お暇させていただきましょうか」
ただの家庭訪問にしてはたいそう時間がかかってしまったが、まあその分美味しい思いもしているし、断りきれなかった僕の問題でもある。
「そうですね、今日は良いお話が聞けました。お帰りの道中、どうかお気をつけくださいね」
僕は再び、広く豪勢な装いをひとしきり逆行し、アリーシャさんの屋敷を後にした。見送りにと一緒について来た彼女の方が何度も何もないところで躓いてはこけていたので、心の中でそちらこそお帰りの道中はお気をつけくださいとだけ言っておいた。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
「お、おおう…………」
僕はとにかく、目の前の光景に戸惑いを隠せずにいた。ん? さっきも聞いた? そんな疑問はタンスの引き出しの中にでもしまっておいてくれると助かる。
「僕の家……だよな、ここ?」
シックな見た目が気に入っている黒のテーブル。仕事の疲れを癒してくれる少し大きめのベッド。案外一人で暮らしていると点ける機会が少なく買って後悔した薄型テレビ。仕事を持ち帰る人間になってしまってからすっかり御用達のパソコンデスク。紛れもなく、ここは僕の家だ。
だが、出かける前よりは確実に、部屋の物が減っていた。空き巣を疑ったが、それにしてはどうにも部屋が綺麗に片付きすぎている。それに何より、趣味で集めている時計といった金目のものすらもむしろショウケースのホコリを拭き取られ、見栄えが良くなっている始末だ。
「っていうか……それよりもこれはなんなんだ?」
どうやら整頓されたらしい僕の部屋には、無くなったゴミやチリの代わりに、どうしても無視することのできないものがあった。
ポスターもカレンダーも貼られていない、真っ白な筈だった僕の部屋の壁には。そう、
大きな。
大きなドアが。
手を伸ばすべきか。否か。しかしこの先はおそらく隣の部屋だ。万が一にも不法侵入やらなんだかで訴えられることは公務員として避けねばならないのだが。
などと懊悩している僕をよそに、なんと無情にもドアノブが回り、あちら側からドアが開いていくではないか。
「あ、数教(かずのり)先生、お帰りなさいませ!」
「えっ……!? あ、え……??」
現れたのは、つい先ほどまで訪問先で見ていた琥珀色の髪。ふわり、とこちらを見上げる頭の動きとともに髪束が揺れる。
だがそれはアリーシャさんではない。
「え、エリス……さん!?」
「はい! 今日から先生にお仕えさせていただくことになりました、エリス・ロード・パステルナークです!」
母親に勝るとも劣らない美貌を持つ少女が、僕を見ながらそう言った。
ーーーーーーーーーーーーーーー
「……ええと、つまり? キキーモラとしての社会勉強のために、誰かに仕える研修をこなさなければならない、と。それで白羽の矢が立ったのが僕だ、と。そういうこと?」
「はい、先生は独り暮らしだと仰っていましたので、何かと大変な事もあるのではと思い、私が少しでも支えになってあげられるのなら……と」
まるで面接でも受けに来ているかのように背筋をピンと崩さないまま、笑顔でエリスさんが言う。
「ま、まぁ気持ちは嬉しいけれどもさ? いささか強引すぎやしないかな、エリスさん? こういうことはちゃんと許可を取ってからじゃないと……」
「……え? ちゃんと許可は貰っているはずですが、学園長に。あの人も快く返事をくださいましたし」
ヴァンパイアでもある、僕の勤め先の学園長……名前はローシェ・レストマイスさん。魔物と人間の共存を掲げて極東の島国くんだりまでやってきて、人魔共学のこの学園を設立した手腕の持ち主だ。
基本的に世話焼きで人望も厚い魔物だけれど、ちょくちょく余計なお世話が入るんだよなあ。
「……少し、学園長に連絡を取ってみてもいいかな?」
「あ、はい、どうぞ」
ツー……ツー……
『数教くんか。もしもし、私だ。どうかしたのかね?』
「学園長、エリスさんがウチにいるんですけれど。どういうことか説明していただけませんか」
『…………はっはっは』
「何ですか今の間はそして誤魔化せてませんよあなた完全に忘れてましたよね!?」
『なに、我が学園は魔物と人間の共存を目的として設立されたんだ、それは教員とて例外はない、と、そうは思わんかね?』
「それとこれとは話が別です! なんなんですかあの劇的ビフォーアフターは!? 賃貸マンションの2部屋融合なんて聞いたこともありませんよ! それに同意もした覚えなんてありませんし!」
その僕の言葉に、えっ、とエリスさんが固まる。
『事後承諾という形でどうか、お願いしてくれるか? そうかそれは良かったありがとう数教くん君が心の広い人間で私は嬉しいぞではさらばだ』
「ちょっ僕何も言ってな……切れた!! 切りやがったあの魔物!」
未だ携帯電話を虚しく耳に当てながら僕は憤慨した。と、そこでエリスさんと目が合った。みるみるうちに彼女の眉尻と、フサフサした尻尾が同時に萎びていく。見たことあるぞ、この顔は。
「も、申し訳ありません先生、すぐに出て行きますので……!」
「待ってここで出て行かれたらそれはそれできっと僕すごい悪者になるよ!?」
「えっ、なら……先生にお仕えさせていただいてもよろしいのですか!?」
ぱっとエリスさんの顔と尻尾に生気が戻る。
「あっ、それはえーと……すぐには決めかねる……かな」
「そ、そう……ですよね、あはは……」
「えと、とりあえず僕の部屋にあるあの扉は封印、君は一人、隣に越してきたってことで……いい?」
「ええと、ご奉仕させては頂けないのですか……?」
心底残念そうな顔をしながら、エリスさんは僕を見る。
「ええと……そんなに、したいの?」
「はいっ」
「どうしても?」
こくこく。
キキーモラは他人に尽くすことが生き甲斐であるというが、本当にそうらしい。
「……なら、少しだけお願いしようかな。エリスさんの負担にならない程度でね。僕の世話にかまけてその他がおろそかになっちゃったら本末転倒なんだし」
「は、はい! ありがとうございます先生、私頑張りますね!」
しかしどうして家事ができるのがそんなに嬉しいのだろう。お皿を洗うのすら面倒になるからご飯はコンビニで済ませたりしたくなるものだし、掃除だって必要に迫られなければ率先してやるようなものでもないんじゃないか、と僕は思うのだけれど。
「では先生、早速ですが今日のお夕飯の支度を、と思うのですが、好きなものや味付けなどはございますか?」
「あー……えっと、そのことなんだけどさ」
「?」
「夕飯、君の家で食べてきちゃったんだよね……」
それもかなりの量を、と心の中でつけ足しておくにとどめる。
ピキ、とエリスさんの笑顔が固まったような気がしたからだ。
「えっと……すみません先生、私も少し母に電話をかけますね」
「う、うん。どうぞ……」
張り付いた笑顔がちょっと怖いぞ、エリスさん。
ツー……ツー……ツー……ツー……ツー……
「いやに長いね」
「まさかこんな時間に寝てるはずないんですけれどね……」
ツー……ツー…ガッ! ダンッ!
『ひゃああああエリスちゃん! どうしましょう!? 聴こえますか!? 私の声ちゃんと聴こえてますか!?』
「ど、どうしたのママ!? 落ち着いて!」
『あの、えっと、携帯電話を取ろうとしたらうっかり手から滑らせて落っことしてしまいました……そうしたら画面にヒビが入ってしまって』
「もうっ! 今度は携帯電話なの、ママ!? この前こそ眼鏡をうっかり落として踏んづけて割っちゃったばかりじゃないの! 一体修理にいくらすると思ってるの!?」
あ、あれ……随分と僕の中でのエリスさんのイメージが崩れたぞ……『ママ』?? 絶対『お母さん』って呼んでる派だと思っていたのに。それに口調もどこか子供っぽいし……。
「それに先生、ご飯ウチで食べてきたってどういうこと!? せっかく私、先生を喜ばせるために色々買って準備してたのに! っていうか家庭訪問で食べ物はタブー! うっかり以前に常識の問題よ!?」
『は、はううっごめんなさいごめんなさい!』
子供に常識を諭される親ってなんなんだろうなぁ。アリーシャさんはいい娘を持ったんだなぁ。
「もう……ママ? 私もいないんだから家事はメイドに任せるのよ? 絶対よ? 私がいない間に実家が火事で全焼、とかシャレにならないからね?」
いや、どれだけ子供に信頼されてないんだアリーシャさん。
『はーい……私はおとなしくご主人様とセックスだけしてますね……』
「ぶぅっ!? せっ……!?」
魔物の会話って、こんなのが日常なのか……!?
「ん、それじゃあねママ。愛してるわ」
『エリスちゃん、もっともっと立派になって帰ってきて下さいね。私も愛してますよ』
そこで母娘の通話は終わった。
「申し訳ありません先生、母が多分にご迷惑をおかけしました……」
「い、いや、断りきれない僕も僕だし、美味しかったからいいよ……」
「母は排他的利他主義が過ぎます……ご奉仕とそれは似て非なるものであるべきなのです」
「へ、へぇ……」
「ご奉仕、それはつまり相手のことを大切に想い、トータルな面において相手をケアするものであって、決して自己満足からなるものではないのです。利他主義の性質こそありますが、それはある種の……」
国語教師の僕をしても圧巻の小論発表が急に開催されてしまった。
「……ですから、言うなれば完全なる他者満足にこそご奉仕の終着点というものがあるのです。わかりましたか先生?」
「はい。それはもう」
頭の中を文字がひたすら通り抜けていった感覚しかないのだが、これをリピートするのはもっと辛い。
「では、毎日の起床時間を教えて頂けますか、先生? 朝食をお作りいたしますから」
「え、いや悪いよそんな。適当に買って食べるから気にしないで」
「せ・ん・せ・い? いつ、起床、なさいますか?」
丁寧に、にこやかに、エリスさんは訊いてきた。
「ハイ。ロクジデス。アリガタク、イタダキマス」
いや……だからその笑顔本当に怖いんですけど。
「よろしいです♪」
そこでエリスさんはもう一度、今度は自然に笑ったのだった。
16/07/14 02:16更新 / ノータ
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