糖分のあとに珈琲はいかがですか?
私の名前は尾根倉 満月(おねくら みつき)、現在絶好調失恋中の独り身です。
私はサキュバスでありながらも、学校の図書室で働いています。
時々図書室に来てくれるあの人、黒須架 良矢(くろすが よしや)さんに、私は恋をしていました。
……いえ、こうして想起しているということは、まだ『恋をしていた』などという過去形で終わらせることが出来る程、未練がない訳ではないでしょう。
それでも私は、身を引いたんです。
良矢さんの家に住むことになったヴァンパイアの小夜ちゃん。
同姓の私から見ても彼女はとても魅力的で、良矢さんも自然と小夜ちゃんに惹かれていきました。
その様子を陰から見ていた私は、胸がキュッと締め付けられるような感覚でした。
私はただただ泣いて、たくさん泣いて……そして思ったんです。
『私と結ばれることがなくても、それでも良矢さんに幸せになって欲しい』……と。
そして私は、行動に移りました。
方法は……まあ私だって淫魔の一人。『良矢さんと小夜ちゃんの二人で気持ちよくなれば、絶対幸せになれるはず!』ということで、ヴァンパイアに催淫効果のあるにんにくの飴を、小夜ちゃんにプレゼント。
…………思えばあの時も、たくさん泣きましたっけ……。
意外と私、泣き虫だったりするんでしょうか?
あれから私は、ともすれば暴れだしかねないくらいの淫欲、サキュバスとしての本能を抑えて、慎ましく生活しています。
あれ以来、自慰すら行っていません。
だって……切ないです。切なすぎますから。
それに、一度してしまうとお腹の下が疼いて止まらなくなって、強引にでも良矢さんを犯しに飛んでいってしまいそうになる気がして。
そんな結果を、私は望んでいません。
本能のままに良矢さんと交わり、刹那的な快楽を得る……。
私がそれを悦んだとしても、良矢さんの幸せなどそこにはないのですから。
「はぁ…………っ」
長く、熱い吐息が私の口から零れます。
油断していると、無意識に手が大事なところを触ってしまいそうです。
「……ッ! 駄目駄目、いけません……早い内に本棚を整理しておかないと……!」
仕事という理由を作り、頭を振って快楽の誘惑を断ち切ります。
私は梯子を登って、棚の上の方の本を綺麗に並べようと手を伸ばしました。
「ん……っ、と、あっ、や、きゃあぁっ!?」
あんな考え事をしていたせいか、足元が覚束なかった私は当然足を滑らせ、梯子から落ちてしまいました。
「っ痛ぅ…………っ!」
幸い命に別状はありませんでしたが、踏み外した左足と、利き手である左の手を打ちつけて痛めてしまったようです。
ちょうどその時、図書室の扉が開いて、人が入ってきました。
「尾根倉先生、こんにちは……って、あれ? いないのか? ……参ったな、この間借りたにんにく料理の本、返しに来たのに……」
その声を私が聞き紛うことはありません。
それはまさに、良矢さんでした。
こんな姿を見られたくない気持ちと、あの人なら……という気持ちが半分ずつです。
「……しょうがない、今日は出直して帰るか……」
その声を聞いて、つい私は立ち上がれないままに声を上げます。
「あっ、良矢さん! その、今は本棚の整理をしていて手が離せないんです! もう少し待ってもらえますか?」
良矢さんがいなくなる……それだけは嫌でした。
「そうなんですか。手伝いますよ、俺」
「あっ……」
止める間もなく、良矢さんは立ち上がれないままの私のところへ来てしまいました。
「先生!? ちょっ、何やってるんですか! 大丈夫ですか!?」
良矢さんが駆け寄ってきて、起こしてくれました。
「っ……!」
足に走った痛みに、思わず押し殺したような声が出てしまいます。
「足、痛めたんですか?」
「あ、いえそんな、全然心配ないですから……んっ! 痛ぁ……!」
元気です、と手を降ってみましたが、左手もやっぱり痛いものは痛いです。
「手も痛めてるんですか? ……保健室行った方がいいんじゃないですか? 先生が保健室ってあんまり聞かないですけど……」
「……確か司書室に湿布がありますから、そっちの方が早いと思います……」
「じゃあ、とりあえず司書室に行きましょうか。背負いますから、どうぞ」
そう言って良矢さんは私に背中を向けてしゃがみました。
……堂々と良矢さんに抱き付けるなんて、これほど嬉しいことはありません。
「えっと、良矢さん、失礼します……。んっ、重かったら遠慮なく言ってくださいね……?」
男を誘惑するために私たちは必然、肉付きがよくなっています。主に胸や太腿、お尻の辺りです。
「よっ、と……先生、俺だって男ですし、独り暮らしで結構鍛えられましたからね? 大丈夫ですよ。それに全然先生は重くないじゃないですか」
良矢さんがそう言ってくれますが、すでに私はそれどころではありませんでした。
…………ああ、良矢さんの背中、広くて少しごつごつしてます。でも、とってもあったかい……!
良矢さんの匂い、私の大好きな人の匂い……!
良矢さんの手が、私のお尻と腿の間の肉を掴んでます……!
良矢さんが歩く度に内股が擦れて気持ちいい……!
首に廻した手をギュってして、おっぱいをもっと押し付けてあげましょう。
これは私から良矢さんへのサービスです。
そうだ、目の前に美味しそうな耳たぶがありました。これをハミハミしてあげれば良矢さんももっと気持ちよくなるに違いありません……!
ほら……、もうすぐそこに良矢さんの…………!
「せ、先生……? その、息……すごくくすぐったいんですけど……?」
「…………あぁっ!? す、すみません良矢さん! つ、つい……!!」
まだまだ私の本能は、抑えるのが難しいようです……。
******
「ひぁん……っ」
ひんやりとした湿布の感触に、思わず声が出てしまいます。
「先生、こんな感じでいいですか?」
「あ、はい良矢さん……冷たくて気持ちいいです」
「やっぱりちょっと腫れてますね……しばらくは無理をしない方がいいかもしれないですよ?」
良矢さんは手際よく応急手当てを済ませてくれました。
「良矢さんって、家庭的ですよね。手当てもキレイで、もちろん料理も上手ですし……」
……やっぱり小夜ちゃんが羨ましいです、なんて今更もう言えないんですけどね。
「独り暮らしには欠かせませんしね。……そうだ先生、よしよかったら明日、先生のお昼の弁当を俺が作って来ましょうか? 手料理を振る舞うって約束を結局まだ果たしてませんでしたし、先生も手が使えないから作りにくいですよね?」
……これはなんという怪我の功名でしょうか。
もちろん断る理由なんて欠片も……いえ、微塵もありはしません。
「良矢さん……それならお願い、できますか?」
「もちろん。どんと来い、です」
良矢さんはそう言ったあと、どこか苦笑混じりの優しい笑顔になりました。
こんな顔も大好きです。
「あ、そうです良矢さん、一つだけリクエストいいですか……?」
「はい。何か食べたいものでもありますか?」
「できればご飯は、おにぎりにして欲しいんです。……その、えっと、お箸が持ち辛いので」
本当はおにぎりの方が気持ちがこもってそうだから……なんて言えませんよね。
「そうか、そうですね……ならオカズは、恥ずかしいですけど俺が食べさせてあげた方がよかったりしますか……?」
「いいんですかっ!?」
……つい大きな声が出てしまいました。落ち着きなさい私。
ともかくこれは願ってもない好条件です。
私は一も二もなく頷きました。
「そういえば先生は仕事中でしたよね? 本棚の整理……最初にも言いましたけど、俺が手伝いますよ」
「でも、流石にそこまでして頂くのは良矢さんに迷惑な気が……」
ただでさえもう至れり尽くせりなんですから……少し贅沢すぎる気がします。
「迷惑なんてかけた方の勝ちなんですから、どれだけだって変わりませんよ。それに父さんや母さんのやることに比べたら……こんなこと全然迷惑なんかじゃありません。俺の方こそ、お節介すぎたりしてませんか?」
「いえ、そんなこと! むしろ嬉しすぎて空でも飛びそうな気分です!」
「はは……大げさですよ、先生」
……まあ実際、その気になれば飛べるんですけどね。
「だって、嬉しいものは嬉しいんですから。だから、大げさでもなんでもないんです」
「…………先生って、前に比べて随分印象が変わりましたね。さっぱりした、って感じです」
「そ……そうですか?」
「はい。好きですよ俺、そういう感じ」
はぁん……っ。まさか良矢さんから『好きです』って言って貰えるなんて、夢じゃないんでしょうか?
やばいですこれ、頭の中がふわふわします……!
ふ……ふふっ、うふふふふふふっ…………♪
「……ら先生、…………尾根倉先生?」
「……ふぁっ!? え、あ、何よっしー君!? ……ってああ違いました何ですか良矢さん!?」
いきなり目の前に良矢さんの顔があって、驚きのあまり素が一瞬出てしまいました……。
「さっきからずっと呼んでましたからね、もう……本の整理、終わりましたよ?」
「え? もう終わったんですか!?」
「もう……? 結構時間はかかりましたけど……これでも早かったんですか?」
そう言われて、私は時計に目を向けました。
「あれ? もう30分も経ってます……!?」
「なんか先生が急にボーッとし始めたんで、本の整理を勝手にやってたんですけど……よかったですか?」
「あ……はい、とても助かりました。良矢さん、ありがとうございます」
つまりあれから私、30分くらいずっと妄想してた訳ですか……!?
「どういたしまして、です。それにしても先生、考え事でもしてたんですか? それとも何か悩んでることが?」
「そ、そういう訳では! あれです、春が近づいてるなぁ……って、何も考えずにボンヤリしてただけです! 変なこととか全然考えたりしてませんからね!?」
「そ、そうですか。……じゃあ俺はそろそろ帰りますね。夕飯の用意と、明日のお弁当の準備もあるんで」
今日はお別れですか……。名残は惜しいですが、仕方のないことですよね。
「はい、楽しみにお待ちしていますね。良矢さん、また明日」
「ええ、また明日」
私は右手を振って良矢さんを見送りました。
「はぁ…………っ」
長い息を吐いて、私は想い人が出ていったドアを見ます。
「まさかこんな展開になるなんて……嬉しすぎてもう、どうにかなりそうです。……あ、いいこと考えました……!」
放課後の図書室に、私の笑い声がくつくつと谺するのでした。
******
「ん……あむ、んっ……、良矢さんのウインナー、美味しいです……♪」
肉の棒を口に含んだ瞬間、甘美な味がいっぱいに拡がりました。
本当に。
どうしてこんなにも、良矢さんのは美味しいのでしょうか。
それはまあ、私から良矢さんへの愛情の色眼鏡がないわけではありませんが。
「先生……次は、どうします?」
恥ずかしいのか、良矢さんの顔は少し赤くなっていました。
「今度はその……白いのを、ください……!」
言って私は目を瞑ります。
しっかりと、口の中で味を確かめるためです。
「いきますよ……!」
そして私の口内にこれまで味わったことのないような、不思議な……でも、やっぱり堪らなく美味しいと思えるものが。
蕩けそうな程の感触に、思わず舌上でコロコロと弄んでから、ゆっくりと喉を通します。
鏡はありませんが、恐らく私は喜色満面といった表情でしょう。
それからもしばらく、この行為は続きました。
「すごいです、良矢さんの手で、ギュッ、ってされて……!!」
幸せで。
「お豆のほうはどうですか、先生?」
「うんっ、良いです……♪ もっと、いっぱい……!」
幸せだからこそ、長くは続かないことなんて、わかっています。
「あ……空っぽになっちゃいましたね、お弁当」
良矢さんがそう言うのを聞いて、残念さがこみ上げてきます。
でも我慢、我慢です。
「……とっても、とっても美味しかったですよ。肉汁がたっぷり詰まってて、溢れだしそうなくらいのウインナーも、良矢さんがにぎってくれたおにぎりも、甘い甘い煮豆も。あと……気になってたんですけど、あの白くてふわふわした料理はいったい……?」
私がそう訊くと、良矢さんは不敵な笑みを浮かべました。
「ふっふっふ……聞いてビックリ、食べてビックリの『卵白の玉子焼き』ですよ」
「えぇっ!? 卵白だけなのにあんなに美味しいのができちゃうんですか!?」
「ええ、ちょっと焼くのにコツが要るんですけど、俺は普通の玉子焼きよりこっちのほうが実は好きだったりするんですよね。そもそも、卵白が美味しくないものだったら、卵黄と混ぜ合わせたりもしない筈でしょう?」
「へぇ……こんな料理もあるんですね。ご馳走になりました、良矢さん。ありがとうございますね、本当に……」
しみじみと私が言うのにしかし、良矢さんは笑ったままでした。
「お粗末様でした、と言うにはもう少しだけ早いですかね。……はい、先生」
「え……?」
良矢さんはタッパーから、砂糖のついた黄色い飴のようなものを取り出しました。
「あ……わかりました。それ、もしかして卵黄ですか?」
「お、よくわかりましたね先生。卵黄をたくさんの砂糖で包むと、水分が砂糖のほうに持っていかれてこんな風に固まるんですよ。もちろん、卵白の玉子焼きで余った卵黄を無駄になんてできませんからね……はい、どうぞ」
楊枝に刺さった1つを、口に運んでくれました。
「あ……っ、すごく甘くて、濃いです……♪ なんだか、洋菓子みたいですね♪」
「洋菓子は……砂糖とかの分量をしっかり量っていれなきゃいけないんで、苦手なんですよね……」
…………って、そうです、これは私の計画にとって都合のいい展開……!!
「それなら良矢さん……今度の土曜日、お暇ですか?」
「土曜日ですか? まあ俺は部活とかもないですし、空いてますけど……」
よしっ、第一段階クリアーですね。
「もし良ければ、一緒にケーキを作りませんか? こう見えて私、洋菓子作りは得意なんです。だから、美味しい焼き方をお教えしますよ」
旦那様の理想の女性になるための修業は、何せ私は淫魔のサキュバス。完璧と言ってもいいくらいですから。
……それでもこういう『朝昼夜のご飯』系の料理だけは良矢さんに敵わないんですけど、ね。
「でも、いいんですか?」
「何を言いますか、良矢さん。いいも何も、こちらからお願いしてるんですから。……それに、作ったケーキを持ってかえって小夜ちゃんに食べさせてあげればきっと、すごく喜んでくれますよ」
「……そうですね。では、お言葉に甘えて。……ご教授よろしくお願いします、尾根倉先生」
これで、第二段階もクリアーです。
…………我ながら、ずるい女ですよね、私って。
ああ言えば絶対、良矢さんは承諾してくれますもの。
それがあの娘に関することだからでしょうか? どうしようもなく……胸が、苦しいです。
「……それでは土曜日に、図書室で一度待ち合わせをしましょう。そこから調理室に行って、ケーキ作り開始です。教室使用の許可などは、私が何とかしておきますね」
「了解です。じゃあそろそろお昼も終わりますし、俺も教室に戻りますね」
「はい。今度こそ、ご馳走様でした、良矢さん……」
「お粗末様でした、先生」
私は少し無理に笑顔を作って、痛めていないほうの右手を良矢さんに振るのでした。
******
司書室に掛けられたカレンダーを、私は何の気無しに見やりました。
赤色の◯で囲まれているのは、今日の日付です。
……大事な日、ですからね。
そんなことを考えていると、司書室のドアが開く音がしました。
「すみません先生、少し遅れてしまって……」
もちろん入ってきたのは良矢さんです。
「いえいえ、そんなに待っていませんから、気にしないで下さい。でも、どうしたんですか?」
「いえ、その……どうせなら小夜にはサプライズにしたかったから、出掛けるときの言い訳に手こずってしまいまして……」
「成程、そういうことでしたか。なら尚のこと頑張って埋め合わせしてあげないといけませんね、良矢さん?」
「そうなりますね。よろしくお願いします、先生」
「ふふっ……どんと来い、です」
何だか楽しくなってきた私は、良矢さんの口癖を真似てみました。
「Don't 来い……つまり来るなってことですか?」
「もう、良矢さんったら……♪」
笑い合ってから、私たちは調理室へ移動しました。
******
「そう言えば先生、手足の方はもう大丈夫なんですか?」
調理室に到着すると、良矢さんが心配げに訊いてきました。
「ええ、もうすっかりです。これも良矢さんの手当てがよかったからですね」
「またまた。俺は普通の手当てをしただけです。大事にならなくてよかったですね」
「はい。それではそろそろ、始めましょうか?」
「具体的にはどんなやつを作るんです?」
「今回は、チョコレートケーキです! 生はちょっと大変ですけど、生地とクリームだけなら案外楽ですからね」
「了解です。じゃあまずは材料を必要な分だけより分けるところからですか?」
さすが良矢さん、そういうところはよくわかっていますね。
「はい。でもまあ、良矢さんは見ていて下さい」
「え? でも砂糖とかのグラム数を量るのってけっこう時間掛かるんじゃ……」
そう言う良矢さんをよそに、私は砂糖をとってはかりに載せました。
表示された数字は、まさにピッタリです。
「え……1回で!? すごいな……!?」
「たまには私もカッコいいところを見せないといけませんからね。どうですか良矢さん?」
「びっくりですよ……」
やりましたっ。昨日も遅くまで練習した甲斐があります。
と私は内心ガッツポーズ。
「ふふっ……♪ では、ここからは二人で一緒に進めましょうか!」
******
良矢さんの手際は非常によくて、教えたことはスポンジが水を吸うように吸収してくれるので、作業はあっという間でした。
今はスポンジを焼いているところです。……ってさっき良矢さんをスポンジに例えちゃいましたどうしましょう!?
それはともかく、窓の外では運動部が声を張り上げているのが聞こえます。
「良矢さんは部活に入ったりしないんですか?」
私がそう聞くと、良矢さんは苦笑い。
「運動は割と得意ですけど……部活となると家に帰ってからが大変ですからね。独り暮らしだった俺にそんな余裕は無かったです。疲れた身体で料理は……あんまり出来ませんからね。まあ、今は小夜も一緒に作ってくれてますけど」
「それなら良矢さん、料理部を作ってみたりするのも楽しそうじゃないですか? 私が顧問になっちゃったりして♪」
「成程……確かに。面白そうなので、少し考えておきますね」
などと話している内に、焼き上がりを告げる電子音が鳴りました。
オーブンを開けると、熱気と共にチョコレートの香りが広がります。
「上出来です……♪」
「おお……甘くていい匂いですね」
「少し冷ましたら、クリームを塗りますね。ハート描きましょうよハート♪」
「先生もそういうところはやっぱり女の子ですよね」
「えー、いつも私は可愛い女の子ですよ?」
少しおどけた調子で私は言いました。
「まあ、否定はしませんけど。……小夜に聞かれたら怒られそうだ」
「もう……さっきもそうです。『夫婦喧嘩は犬も食わない』ですが、惚気話は気に食わないですーっ。いいですよ、どうせ彼氏なんていませんよ私っ」
「あ、あはは……」
ぷんぷん、と私は頬を膨らませて言います。
まあ本気で拗ねている訳じゃないのは良矢さんもわかっているみたいです。
……その理由までは無理でしょうけど。
だって、彼氏なんて良矢さん以外考えられませんし、それについては諦めている部分もありますから、欲しくありませんしね。
******
「はい、完成です! パチパチパチー! ほら、良矢さんも拍手ですっ」
「あ、は、はい」
パチパチパチ。
出来上がった二つのケーキを見て、手を鳴らす私たち。
1つは良矢さんが家に持って帰る分、もう1つはここで楽しんで食べる分です。
「あ、保冷剤がありません……氷でもいいですか、良矢さん?」
「まだ二月だし、それで大丈夫だと思いますよ」
持ち帰りの分を箱に容れて、氷を保冷剤代わりに詰めてこちらは完了です。
「それじゃあそろそろ、頂きましょうか♪」
ケーキを切り分けたり食器を出したりしてくれた良矢さんと、隣り合わせになって座ります。
「はむっ……。うん、これぞケーキですね♪」
「美味しいですね。リスペクトしますよ」
「ふっふっふっ、もっと敬ってくださいー。あ、そうだ良矢さん……はい、あーん♪」
私はケーキを一口分、良矢さんに差し出します。
「ちょっ、先生!?」
「この前はお弁当を食べさせて頂きましたし、そのお返しです♪ 目上の人の言うことは聞くものですよー?」
そう言うと、照れながらも良矢さんは口を開けてくれました。
******
「まったく……心臓に悪いですよ、先生」
「あらあら。それはごめんなさいです、良矢さん」
ケーキはもう食べ終わって、良矢さんともそろそろお別れです。
今は調理室から外に出て、廊下を歩きながら二人で話をしています。
その歩みの一歩一歩が、それだけ別れの近付きを意味していました。
…………私、私は……!
「……良矢、さん」
「はい、なんですか?」
「………………好きです」
「え…………?」
良矢さんのことが好きです。
どうしようもないくらい、大好きです。
…………そう言えたなら、どれだけよかったでしょうか。
「私…………大好きなんですよ。……ケーキが」
……私は、どこまでも臆病な女ですね。
「あ…………あぁ、そ、そうだったんですね」
……臆病なりの、最後の我が儘を許してください、良矢さん、小夜ちゃん。
「良矢さん、少しあちらを向いてもらえますか?」
良矢さんの隣を歩く私とは逆を、指で示します。
「え……? はい……」
…………ちゅっ。
「せ、先生!? な、なにを……!?」
「ほっぺにクリームが付いてましたよ、良矢さん。だから、指で拭ってあげました」
「指……指だったのか……?」
良矢さんは自問していました。
……もちろん、口です。というかクリーム自体、付いてません。
「これでもう取れましたからね、良矢さん。今日は楽しかったです。ありがとうございました、私の我が儘に付き合ってくださって…………」
「いえ、俺もなかなか有意義でした。……そうだ先生、ひとつお願いがあるんですけど、いいですか?」
「なんでしょうか?」
「料理部を作るっていうやつ、俺……やってみようと思います。だから先生……顧問、頼まれてもらえますか?」
「…………はいっ、喜んで!」
私は笑みを満面に浮かべて、そう答えました。
これで…………いいですよね?
******
司書室に戻った私は、珈琲を淹れてから、もう一度カレンダーに目を向けました。
今日は、二月十四日。
「大好きですよ、良矢さん…………明日もあさっても、その先もずっと…………私は、あなたのことを想っていますからね……」
そして珈琲を一口。
……ホワイトデーには、なにかお返ししてくれるでしょうか、なんて甘い想像をしながら。
私の口いっぱいに、ほろ苦い風味が広がりました。
〜fin〜
私はサキュバスでありながらも、学校の図書室で働いています。
時々図書室に来てくれるあの人、黒須架 良矢(くろすが よしや)さんに、私は恋をしていました。
……いえ、こうして想起しているということは、まだ『恋をしていた』などという過去形で終わらせることが出来る程、未練がない訳ではないでしょう。
それでも私は、身を引いたんです。
良矢さんの家に住むことになったヴァンパイアの小夜ちゃん。
同姓の私から見ても彼女はとても魅力的で、良矢さんも自然と小夜ちゃんに惹かれていきました。
その様子を陰から見ていた私は、胸がキュッと締め付けられるような感覚でした。
私はただただ泣いて、たくさん泣いて……そして思ったんです。
『私と結ばれることがなくても、それでも良矢さんに幸せになって欲しい』……と。
そして私は、行動に移りました。
方法は……まあ私だって淫魔の一人。『良矢さんと小夜ちゃんの二人で気持ちよくなれば、絶対幸せになれるはず!』ということで、ヴァンパイアに催淫効果のあるにんにくの飴を、小夜ちゃんにプレゼント。
…………思えばあの時も、たくさん泣きましたっけ……。
意外と私、泣き虫だったりするんでしょうか?
あれから私は、ともすれば暴れだしかねないくらいの淫欲、サキュバスとしての本能を抑えて、慎ましく生活しています。
あれ以来、自慰すら行っていません。
だって……切ないです。切なすぎますから。
それに、一度してしまうとお腹の下が疼いて止まらなくなって、強引にでも良矢さんを犯しに飛んでいってしまいそうになる気がして。
そんな結果を、私は望んでいません。
本能のままに良矢さんと交わり、刹那的な快楽を得る……。
私がそれを悦んだとしても、良矢さんの幸せなどそこにはないのですから。
「はぁ…………っ」
長く、熱い吐息が私の口から零れます。
油断していると、無意識に手が大事なところを触ってしまいそうです。
「……ッ! 駄目駄目、いけません……早い内に本棚を整理しておかないと……!」
仕事という理由を作り、頭を振って快楽の誘惑を断ち切ります。
私は梯子を登って、棚の上の方の本を綺麗に並べようと手を伸ばしました。
「ん……っ、と、あっ、や、きゃあぁっ!?」
あんな考え事をしていたせいか、足元が覚束なかった私は当然足を滑らせ、梯子から落ちてしまいました。
「っ痛ぅ…………っ!」
幸い命に別状はありませんでしたが、踏み外した左足と、利き手である左の手を打ちつけて痛めてしまったようです。
ちょうどその時、図書室の扉が開いて、人が入ってきました。
「尾根倉先生、こんにちは……って、あれ? いないのか? ……参ったな、この間借りたにんにく料理の本、返しに来たのに……」
その声を私が聞き紛うことはありません。
それはまさに、良矢さんでした。
こんな姿を見られたくない気持ちと、あの人なら……という気持ちが半分ずつです。
「……しょうがない、今日は出直して帰るか……」
その声を聞いて、つい私は立ち上がれないままに声を上げます。
「あっ、良矢さん! その、今は本棚の整理をしていて手が離せないんです! もう少し待ってもらえますか?」
良矢さんがいなくなる……それだけは嫌でした。
「そうなんですか。手伝いますよ、俺」
「あっ……」
止める間もなく、良矢さんは立ち上がれないままの私のところへ来てしまいました。
「先生!? ちょっ、何やってるんですか! 大丈夫ですか!?」
良矢さんが駆け寄ってきて、起こしてくれました。
「っ……!」
足に走った痛みに、思わず押し殺したような声が出てしまいます。
「足、痛めたんですか?」
「あ、いえそんな、全然心配ないですから……んっ! 痛ぁ……!」
元気です、と手を降ってみましたが、左手もやっぱり痛いものは痛いです。
「手も痛めてるんですか? ……保健室行った方がいいんじゃないですか? 先生が保健室ってあんまり聞かないですけど……」
「……確か司書室に湿布がありますから、そっちの方が早いと思います……」
「じゃあ、とりあえず司書室に行きましょうか。背負いますから、どうぞ」
そう言って良矢さんは私に背中を向けてしゃがみました。
……堂々と良矢さんに抱き付けるなんて、これほど嬉しいことはありません。
「えっと、良矢さん、失礼します……。んっ、重かったら遠慮なく言ってくださいね……?」
男を誘惑するために私たちは必然、肉付きがよくなっています。主に胸や太腿、お尻の辺りです。
「よっ、と……先生、俺だって男ですし、独り暮らしで結構鍛えられましたからね? 大丈夫ですよ。それに全然先生は重くないじゃないですか」
良矢さんがそう言ってくれますが、すでに私はそれどころではありませんでした。
…………ああ、良矢さんの背中、広くて少しごつごつしてます。でも、とってもあったかい……!
良矢さんの匂い、私の大好きな人の匂い……!
良矢さんの手が、私のお尻と腿の間の肉を掴んでます……!
良矢さんが歩く度に内股が擦れて気持ちいい……!
首に廻した手をギュってして、おっぱいをもっと押し付けてあげましょう。
これは私から良矢さんへのサービスです。
そうだ、目の前に美味しそうな耳たぶがありました。これをハミハミしてあげれば良矢さんももっと気持ちよくなるに違いありません……!
ほら……、もうすぐそこに良矢さんの…………!
「せ、先生……? その、息……すごくくすぐったいんですけど……?」
「…………あぁっ!? す、すみません良矢さん! つ、つい……!!」
まだまだ私の本能は、抑えるのが難しいようです……。
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「ひぁん……っ」
ひんやりとした湿布の感触に、思わず声が出てしまいます。
「先生、こんな感じでいいですか?」
「あ、はい良矢さん……冷たくて気持ちいいです」
「やっぱりちょっと腫れてますね……しばらくは無理をしない方がいいかもしれないですよ?」
良矢さんは手際よく応急手当てを済ませてくれました。
「良矢さんって、家庭的ですよね。手当てもキレイで、もちろん料理も上手ですし……」
……やっぱり小夜ちゃんが羨ましいです、なんて今更もう言えないんですけどね。
「独り暮らしには欠かせませんしね。……そうだ先生、よしよかったら明日、先生のお昼の弁当を俺が作って来ましょうか? 手料理を振る舞うって約束を結局まだ果たしてませんでしたし、先生も手が使えないから作りにくいですよね?」
……これはなんという怪我の功名でしょうか。
もちろん断る理由なんて欠片も……いえ、微塵もありはしません。
「良矢さん……それならお願い、できますか?」
「もちろん。どんと来い、です」
良矢さんはそう言ったあと、どこか苦笑混じりの優しい笑顔になりました。
こんな顔も大好きです。
「あ、そうです良矢さん、一つだけリクエストいいですか……?」
「はい。何か食べたいものでもありますか?」
「できればご飯は、おにぎりにして欲しいんです。……その、えっと、お箸が持ち辛いので」
本当はおにぎりの方が気持ちがこもってそうだから……なんて言えませんよね。
「そうか、そうですね……ならオカズは、恥ずかしいですけど俺が食べさせてあげた方がよかったりしますか……?」
「いいんですかっ!?」
……つい大きな声が出てしまいました。落ち着きなさい私。
ともかくこれは願ってもない好条件です。
私は一も二もなく頷きました。
「そういえば先生は仕事中でしたよね? 本棚の整理……最初にも言いましたけど、俺が手伝いますよ」
「でも、流石にそこまでして頂くのは良矢さんに迷惑な気が……」
ただでさえもう至れり尽くせりなんですから……少し贅沢すぎる気がします。
「迷惑なんてかけた方の勝ちなんですから、どれだけだって変わりませんよ。それに父さんや母さんのやることに比べたら……こんなこと全然迷惑なんかじゃありません。俺の方こそ、お節介すぎたりしてませんか?」
「いえ、そんなこと! むしろ嬉しすぎて空でも飛びそうな気分です!」
「はは……大げさですよ、先生」
……まあ実際、その気になれば飛べるんですけどね。
「だって、嬉しいものは嬉しいんですから。だから、大げさでもなんでもないんです」
「…………先生って、前に比べて随分印象が変わりましたね。さっぱりした、って感じです」
「そ……そうですか?」
「はい。好きですよ俺、そういう感じ」
はぁん……っ。まさか良矢さんから『好きです』って言って貰えるなんて、夢じゃないんでしょうか?
やばいですこれ、頭の中がふわふわします……!
ふ……ふふっ、うふふふふふふっ…………♪
「……ら先生、…………尾根倉先生?」
「……ふぁっ!? え、あ、何よっしー君!? ……ってああ違いました何ですか良矢さん!?」
いきなり目の前に良矢さんの顔があって、驚きのあまり素が一瞬出てしまいました……。
「さっきからずっと呼んでましたからね、もう……本の整理、終わりましたよ?」
「え? もう終わったんですか!?」
「もう……? 結構時間はかかりましたけど……これでも早かったんですか?」
そう言われて、私は時計に目を向けました。
「あれ? もう30分も経ってます……!?」
「なんか先生が急にボーッとし始めたんで、本の整理を勝手にやってたんですけど……よかったですか?」
「あ……はい、とても助かりました。良矢さん、ありがとうございます」
つまりあれから私、30分くらいずっと妄想してた訳ですか……!?
「どういたしまして、です。それにしても先生、考え事でもしてたんですか? それとも何か悩んでることが?」
「そ、そういう訳では! あれです、春が近づいてるなぁ……って、何も考えずにボンヤリしてただけです! 変なこととか全然考えたりしてませんからね!?」
「そ、そうですか。……じゃあ俺はそろそろ帰りますね。夕飯の用意と、明日のお弁当の準備もあるんで」
今日はお別れですか……。名残は惜しいですが、仕方のないことですよね。
「はい、楽しみにお待ちしていますね。良矢さん、また明日」
「ええ、また明日」
私は右手を振って良矢さんを見送りました。
「はぁ…………っ」
長い息を吐いて、私は想い人が出ていったドアを見ます。
「まさかこんな展開になるなんて……嬉しすぎてもう、どうにかなりそうです。……あ、いいこと考えました……!」
放課後の図書室に、私の笑い声がくつくつと谺するのでした。
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「ん……あむ、んっ……、良矢さんのウインナー、美味しいです……♪」
肉の棒を口に含んだ瞬間、甘美な味がいっぱいに拡がりました。
本当に。
どうしてこんなにも、良矢さんのは美味しいのでしょうか。
それはまあ、私から良矢さんへの愛情の色眼鏡がないわけではありませんが。
「先生……次は、どうします?」
恥ずかしいのか、良矢さんの顔は少し赤くなっていました。
「今度はその……白いのを、ください……!」
言って私は目を瞑ります。
しっかりと、口の中で味を確かめるためです。
「いきますよ……!」
そして私の口内にこれまで味わったことのないような、不思議な……でも、やっぱり堪らなく美味しいと思えるものが。
蕩けそうな程の感触に、思わず舌上でコロコロと弄んでから、ゆっくりと喉を通します。
鏡はありませんが、恐らく私は喜色満面といった表情でしょう。
それからもしばらく、この行為は続きました。
「すごいです、良矢さんの手で、ギュッ、ってされて……!!」
幸せで。
「お豆のほうはどうですか、先生?」
「うんっ、良いです……♪ もっと、いっぱい……!」
幸せだからこそ、長くは続かないことなんて、わかっています。
「あ……空っぽになっちゃいましたね、お弁当」
良矢さんがそう言うのを聞いて、残念さがこみ上げてきます。
でも我慢、我慢です。
「……とっても、とっても美味しかったですよ。肉汁がたっぷり詰まってて、溢れだしそうなくらいのウインナーも、良矢さんがにぎってくれたおにぎりも、甘い甘い煮豆も。あと……気になってたんですけど、あの白くてふわふわした料理はいったい……?」
私がそう訊くと、良矢さんは不敵な笑みを浮かべました。
「ふっふっふ……聞いてビックリ、食べてビックリの『卵白の玉子焼き』ですよ」
「えぇっ!? 卵白だけなのにあんなに美味しいのができちゃうんですか!?」
「ええ、ちょっと焼くのにコツが要るんですけど、俺は普通の玉子焼きよりこっちのほうが実は好きだったりするんですよね。そもそも、卵白が美味しくないものだったら、卵黄と混ぜ合わせたりもしない筈でしょう?」
「へぇ……こんな料理もあるんですね。ご馳走になりました、良矢さん。ありがとうございますね、本当に……」
しみじみと私が言うのにしかし、良矢さんは笑ったままでした。
「お粗末様でした、と言うにはもう少しだけ早いですかね。……はい、先生」
「え……?」
良矢さんはタッパーから、砂糖のついた黄色い飴のようなものを取り出しました。
「あ……わかりました。それ、もしかして卵黄ですか?」
「お、よくわかりましたね先生。卵黄をたくさんの砂糖で包むと、水分が砂糖のほうに持っていかれてこんな風に固まるんですよ。もちろん、卵白の玉子焼きで余った卵黄を無駄になんてできませんからね……はい、どうぞ」
楊枝に刺さった1つを、口に運んでくれました。
「あ……っ、すごく甘くて、濃いです……♪ なんだか、洋菓子みたいですね♪」
「洋菓子は……砂糖とかの分量をしっかり量っていれなきゃいけないんで、苦手なんですよね……」
…………って、そうです、これは私の計画にとって都合のいい展開……!!
「それなら良矢さん……今度の土曜日、お暇ですか?」
「土曜日ですか? まあ俺は部活とかもないですし、空いてますけど……」
よしっ、第一段階クリアーですね。
「もし良ければ、一緒にケーキを作りませんか? こう見えて私、洋菓子作りは得意なんです。だから、美味しい焼き方をお教えしますよ」
旦那様の理想の女性になるための修業は、何せ私は淫魔のサキュバス。完璧と言ってもいいくらいですから。
……それでもこういう『朝昼夜のご飯』系の料理だけは良矢さんに敵わないんですけど、ね。
「でも、いいんですか?」
「何を言いますか、良矢さん。いいも何も、こちらからお願いしてるんですから。……それに、作ったケーキを持ってかえって小夜ちゃんに食べさせてあげればきっと、すごく喜んでくれますよ」
「……そうですね。では、お言葉に甘えて。……ご教授よろしくお願いします、尾根倉先生」
これで、第二段階もクリアーです。
…………我ながら、ずるい女ですよね、私って。
ああ言えば絶対、良矢さんは承諾してくれますもの。
それがあの娘に関することだからでしょうか? どうしようもなく……胸が、苦しいです。
「……それでは土曜日に、図書室で一度待ち合わせをしましょう。そこから調理室に行って、ケーキ作り開始です。教室使用の許可などは、私が何とかしておきますね」
「了解です。じゃあそろそろお昼も終わりますし、俺も教室に戻りますね」
「はい。今度こそ、ご馳走様でした、良矢さん……」
「お粗末様でした、先生」
私は少し無理に笑顔を作って、痛めていないほうの右手を良矢さんに振るのでした。
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司書室に掛けられたカレンダーを、私は何の気無しに見やりました。
赤色の◯で囲まれているのは、今日の日付です。
……大事な日、ですからね。
そんなことを考えていると、司書室のドアが開く音がしました。
「すみません先生、少し遅れてしまって……」
もちろん入ってきたのは良矢さんです。
「いえいえ、そんなに待っていませんから、気にしないで下さい。でも、どうしたんですか?」
「いえ、その……どうせなら小夜にはサプライズにしたかったから、出掛けるときの言い訳に手こずってしまいまして……」
「成程、そういうことでしたか。なら尚のこと頑張って埋め合わせしてあげないといけませんね、良矢さん?」
「そうなりますね。よろしくお願いします、先生」
「ふふっ……どんと来い、です」
何だか楽しくなってきた私は、良矢さんの口癖を真似てみました。
「Don't 来い……つまり来るなってことですか?」
「もう、良矢さんったら……♪」
笑い合ってから、私たちは調理室へ移動しました。
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「そう言えば先生、手足の方はもう大丈夫なんですか?」
調理室に到着すると、良矢さんが心配げに訊いてきました。
「ええ、もうすっかりです。これも良矢さんの手当てがよかったからですね」
「またまた。俺は普通の手当てをしただけです。大事にならなくてよかったですね」
「はい。それではそろそろ、始めましょうか?」
「具体的にはどんなやつを作るんです?」
「今回は、チョコレートケーキです! 生はちょっと大変ですけど、生地とクリームだけなら案外楽ですからね」
「了解です。じゃあまずは材料を必要な分だけより分けるところからですか?」
さすが良矢さん、そういうところはよくわかっていますね。
「はい。でもまあ、良矢さんは見ていて下さい」
「え? でも砂糖とかのグラム数を量るのってけっこう時間掛かるんじゃ……」
そう言う良矢さんをよそに、私は砂糖をとってはかりに載せました。
表示された数字は、まさにピッタリです。
「え……1回で!? すごいな……!?」
「たまには私もカッコいいところを見せないといけませんからね。どうですか良矢さん?」
「びっくりですよ……」
やりましたっ。昨日も遅くまで練習した甲斐があります。
と私は内心ガッツポーズ。
「ふふっ……♪ では、ここからは二人で一緒に進めましょうか!」
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良矢さんの手際は非常によくて、教えたことはスポンジが水を吸うように吸収してくれるので、作業はあっという間でした。
今はスポンジを焼いているところです。……ってさっき良矢さんをスポンジに例えちゃいましたどうしましょう!?
それはともかく、窓の外では運動部が声を張り上げているのが聞こえます。
「良矢さんは部活に入ったりしないんですか?」
私がそう聞くと、良矢さんは苦笑い。
「運動は割と得意ですけど……部活となると家に帰ってからが大変ですからね。独り暮らしだった俺にそんな余裕は無かったです。疲れた身体で料理は……あんまり出来ませんからね。まあ、今は小夜も一緒に作ってくれてますけど」
「それなら良矢さん、料理部を作ってみたりするのも楽しそうじゃないですか? 私が顧問になっちゃったりして♪」
「成程……確かに。面白そうなので、少し考えておきますね」
などと話している内に、焼き上がりを告げる電子音が鳴りました。
オーブンを開けると、熱気と共にチョコレートの香りが広がります。
「上出来です……♪」
「おお……甘くていい匂いですね」
「少し冷ましたら、クリームを塗りますね。ハート描きましょうよハート♪」
「先生もそういうところはやっぱり女の子ですよね」
「えー、いつも私は可愛い女の子ですよ?」
少しおどけた調子で私は言いました。
「まあ、否定はしませんけど。……小夜に聞かれたら怒られそうだ」
「もう……さっきもそうです。『夫婦喧嘩は犬も食わない』ですが、惚気話は気に食わないですーっ。いいですよ、どうせ彼氏なんていませんよ私っ」
「あ、あはは……」
ぷんぷん、と私は頬を膨らませて言います。
まあ本気で拗ねている訳じゃないのは良矢さんもわかっているみたいです。
……その理由までは無理でしょうけど。
だって、彼氏なんて良矢さん以外考えられませんし、それについては諦めている部分もありますから、欲しくありませんしね。
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「はい、完成です! パチパチパチー! ほら、良矢さんも拍手ですっ」
「あ、は、はい」
パチパチパチ。
出来上がった二つのケーキを見て、手を鳴らす私たち。
1つは良矢さんが家に持って帰る分、もう1つはここで楽しんで食べる分です。
「あ、保冷剤がありません……氷でもいいですか、良矢さん?」
「まだ二月だし、それで大丈夫だと思いますよ」
持ち帰りの分を箱に容れて、氷を保冷剤代わりに詰めてこちらは完了です。
「それじゃあそろそろ、頂きましょうか♪」
ケーキを切り分けたり食器を出したりしてくれた良矢さんと、隣り合わせになって座ります。
「はむっ……。うん、これぞケーキですね♪」
「美味しいですね。リスペクトしますよ」
「ふっふっふっ、もっと敬ってくださいー。あ、そうだ良矢さん……はい、あーん♪」
私はケーキを一口分、良矢さんに差し出します。
「ちょっ、先生!?」
「この前はお弁当を食べさせて頂きましたし、そのお返しです♪ 目上の人の言うことは聞くものですよー?」
そう言うと、照れながらも良矢さんは口を開けてくれました。
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「まったく……心臓に悪いですよ、先生」
「あらあら。それはごめんなさいです、良矢さん」
ケーキはもう食べ終わって、良矢さんともそろそろお別れです。
今は調理室から外に出て、廊下を歩きながら二人で話をしています。
その歩みの一歩一歩が、それだけ別れの近付きを意味していました。
…………私、私は……!
「……良矢、さん」
「はい、なんですか?」
「………………好きです」
「え…………?」
良矢さんのことが好きです。
どうしようもないくらい、大好きです。
…………そう言えたなら、どれだけよかったでしょうか。
「私…………大好きなんですよ。……ケーキが」
……私は、どこまでも臆病な女ですね。
「あ…………あぁ、そ、そうだったんですね」
……臆病なりの、最後の我が儘を許してください、良矢さん、小夜ちゃん。
「良矢さん、少しあちらを向いてもらえますか?」
良矢さんの隣を歩く私とは逆を、指で示します。
「え……? はい……」
…………ちゅっ。
「せ、先生!? な、なにを……!?」
「ほっぺにクリームが付いてましたよ、良矢さん。だから、指で拭ってあげました」
「指……指だったのか……?」
良矢さんは自問していました。
……もちろん、口です。というかクリーム自体、付いてません。
「これでもう取れましたからね、良矢さん。今日は楽しかったです。ありがとうございました、私の我が儘に付き合ってくださって…………」
「いえ、俺もなかなか有意義でした。……そうだ先生、ひとつお願いがあるんですけど、いいですか?」
「なんでしょうか?」
「料理部を作るっていうやつ、俺……やってみようと思います。だから先生……顧問、頼まれてもらえますか?」
「…………はいっ、喜んで!」
私は笑みを満面に浮かべて、そう答えました。
これで…………いいですよね?
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司書室に戻った私は、珈琲を淹れてから、もう一度カレンダーに目を向けました。
今日は、二月十四日。
「大好きですよ、良矢さん…………明日もあさっても、その先もずっと…………私は、あなたのことを想っていますからね……」
そして珈琲を一口。
……ホワイトデーには、なにかお返ししてくれるでしょうか、なんて甘い想像をしながら。
私の口いっぱいに、ほろ苦い風味が広がりました。
〜fin〜
13/03/28 20:37更新 / ノータ