貴女に伝えたい
アディリーヌ・ラ・ド・アレクサンドルは、常闇の不死者の国に聳える『退廃の華城』クワンストゥジュールの最上階の窓のふちに手を置き、外の景色を眺めていた。
死者であるにも関わらず酒気で火照った彼女の頬を、不死者の国に吹く優しく凍える風がそっと撫でて、傍らの漆黒のカーテンがふわりと揺れる。
それすらも愛おしく思えるほどに上機嫌な彼女は、いつも通りに城下を照らす赤色の月を見つめた。
己の瞳と同じような、暗黒魔界に昇る赤月。
教団関係者ならば滅びの予兆とさぞ嘆くことだろうが、アディリーヌからすれば見慣れたこの月の色合いは情熱的な愛の赤という認識である。
コンコンコンコンと、聞きなれたノックの音にそっと部屋の中へ視線を戻したアディリーヌは、扉の向こうから漂う何よりも大切な人の精の香りに目尻を下げて、美しい唇の端をそっともちあげた。
「入って、ルキゥール」
「失礼いたします」
アディリーヌの言葉を聞き届けてから開いた扉の先には、灰色の髪に褐色の肌をもつ男性が佇んでいた。
アディリーヌより頭一つ分ほど高い背丈に、独特の装飾で飾られ、喪服にも似たデザインの執事服を違和感なく着こなしている。
「お水をお持ちいたしました」
「うん、ありがとう。ちょうどよかった」
彼がテーブルに音もなく置いたピッチャーと華奢なグラスを見て、アディリーヌは小さく微笑んだ。
今日は、アディリーヌの誕生祭として多くの貴族たちが集まるパーティが開かれていたのだ。
愛と快楽に生きる魔物娘たちの中でも、一際刹那的で破滅的な価値観を持つアンデット系の魔物たちは、スキあらば何かと駆けつけ踊り騒ぐ癖がある。
アディリーヌの統治する不死者の国でその当人の誕生日が訪れるともなれば、みんなして騒ぐのも無理もないというものだ。
「お酒を飲みすぎて、喉が渇いていたのよ」
祝いの宴会が始まった直後から多くのものたちに祝いの言葉とプレゼントともに大量の飲酒をすることになったアディリーヌ、ワインボトルをゆうに4本は開けたであろうほど飲まされて、流石にクラクラきていたところだ。
「っ、では、お注ぎいたします」
ルキゥールは彼女の笑顔に少しだけ頬を染めた後、顔を引き締めて華美なグラスに静かに水を注いだ。
中に氷の入ってよく冷えたウンディーネの天然水は、魔界でこそありふれた代物だがアディリーヌがよく好むこれは特に上質なものが仕入れられている。
「うん……ルキゥール、少しお話がしたい気分なの、あなたも座りなさい」
「かしこまりました……」
ルキゥールの注いだ水が入ったグラスを受け取り、アディリーヌは微笑んだ後に彼を対面の椅子に座るよう促した。
これはいつものことであり、彼も慣れた様子で椅子に腰掛ける。
「ふふっ、今日の祝宴は楽しかった。アリソン様ってばあんな高価なドレスをプレゼントしてくれて……見た?あれ。随分と胸のサイズが小さかったわ。まだ懲りてないのよ」
「っ、アディリーヌ様っ」
「うふふふ、ごめんなさい」
はしたない話題にルキゥールは顔を赤らめながらも注意すると、アディリーヌはからかう様にくすくすと笑った。
これもまた、いつものことで、ルキゥールの悩みの種だ。
「でもこれ、割と切実な悩みなのよね……アリソン様毎年そういう服を贈ってくれるけれど、捨てるわけにもいかないし、かといって人前で着るにはちょっと……その、あれだし。量もどんどん増えてきてるし……」
「それはまぁ、確かに」
困った様に細くきれいな眉を顰めたアディリーヌに、ルキゥールも同意して頷いた。
いたずら大好きなあの友人が贈ってくる服はどれも過激でおまけに毎度のごとくバストやヒップサイズがプレゼントされた人物のそれに比べて小さい。
豊かなバストを持つアディリーヌがあんなものを着てしまえば、露出の多いデザイン故にスリットからはふとももが、そしておへそが丸見えだし、胸に至っては……
「……」
そこまで考えてルキゥールは己の頭を振って煩悩を振り落とした。
彼には刺激の強すぎる妄想だった。
「どうしたの?」
「いえなんでも」
アディリーヌが首をかしげて問うてくるが、答えられるわけもなくそのまますっとぼけた。
そう?と疑問符を浮かべつつもアディリーヌは納得し、手元のグラスの中身を静かに口に運ぶ。
その優雅な仕草にいつもドキリと跳ねる心臓に、いい加減慣れろとルキゥールは自重した。
「ところで、ルキゥール」
「はい」
「私は、今年も貴方からのプレゼントを期待していいのかしら?」
にこりと微笑むアディリーヌに、ルキゥールは顔を俯かせながらも静かにハイと答えた。
アディリーヌの誕生祭を祝った後のこのやりとりは、もはや定例と化している。
最初にアディリーヌからプレゼントを希望されたのは、11年前に彼が彼女の専属執事として割り振られた時だった。
まだ見習い召使の域も脱していない彼がなぜか彼女直々に指定され、四苦八苦しながらも少しずつ執事としての技能を高めていた頃、急にそんな催促をされて、当時の彼はひどく慌てたものだ。
『誕生日プレゼント、期待してるからね』
そう言って微笑むアディリーヌにすでに心奪われていた当時、何を贈ればいいのか7日7晩不眠で悩み、何かに吹っ切れた当日にクマのぬいぐるみを贈ったことは彼の人生最大の汚点である。
渡した時にそれはもう大笑いされて、可愛い可愛いと彼女に好き勝手なでくりまわされたのは今では軽くトラウマだ、当時の彼は背が低かった。
未だに部屋の目立つところにデンと構えるドヤ顔のぬいぐるみを見るたびに焼却処分してしまいたくなるが、主人の私物にそんなことをできるわけもなかった。
それから翌年以降はそんな未熟さは鳴りを潜め、彼女のために丸々一年間じっくり考え吟味したプレゼントを贈るのが、恒例となっていた。
今まで贈ったものの中には、陶酔の果実を利用した高級ワインに、美しい桃色の魔界銀の髪飾りetcetc……
どれも結構に値の張るものだが、彼女への贈り物であれば、それがふさわしいと判断すれば金に糸目をつけはしない。
しかし、ルキゥールにとっての今年のプレゼントは、少々……どころではないほどに意味合いが違っていた。
「こ……こちらを」
言葉を詰まらせながらも、彼は懐からそっと小さな箱を取り出した。
小さな黒塗りの箱は上品な金の模様で飾られていて、中身がとても大切なものであるということを知らせてくれる。
「あら……」
「っ……そ、その、今年アディリーヌ様に贈らせていただきたいのは、これ、です」
そして、ルキゥールは緊張と不安、羞恥で顔を真っ赤に染め上げ、その箱をそっと彼女に差し出した。
ガチガチに緊張している彼を見て優しく微笑んだアディリーヌは、その箱を受け取って愛おしげに撫でる。
そして、静かにその箱を開けた。
「わぁ……」
中に入っていたのは、魔界銀のリングだった。
繊細な文様が彫られたリングにはアディリーヌのイニシャルが刻まれていて、それが並の業ではないことを知らしめる。
そしてそのリングを飾り付けるのは、まだなんの魔力も含んでいない、純粋無垢なで小さな、上質の魔宝石だった。
「立場が違うというのは承知の上ですが……アディリーヌ様、どうか……その指輪を、受け取っていただけませんが、そして、わ、私を……あなたの伴侶として、認めてくださいませんか……!」
ルキゥールにとって、これは大勝負だった。
異性に高価な指輪を贈る、それは世間一般からの認識通り、プロポーズと言われる行為であった。
彼は鈍感ではなく、アディリーヌの普段の言動から彼女が自分を愛しているということを知っていたし、それより前から自分が彼女にどうしようもなく惹かれているのを知っていた。
しかし自分は単なる使用人、相手はこの国の王女、あまりにも立場が違いすぎる。
魔物娘は位の違いなど気にしないということは知ってはいるが、それでも彼にとっては正しく人生最大の大博打だったのだ。
給料三ヶ月分どころか30ヶ月分の大金を叩いて購入したその指輪はしかし、彼女が普段身につけるティアラやネックレスと比べれば安物と断じざるをえない、それでも彼の精一杯の思いを詰め込んだ贈り物だ。
祈りにも近い体制でかれは強く両手を握りあわせ顔を伏せ、、唇を噛み締める。
どうか、どうか……
「ルキゥール」
彼女の声がルキゥールの名をを呼ぶ。
普段は愛おしくて仕方がないその声がなぜか死刑執行人の呼びつけに聞こえたかれは、びくりと体を震わせて、そっと顔を上げる。
「とても嬉しいわ、ありがとう。貴方の思い、しっかり受け取らせていただきますわ」
そして彼を迎えたのは正しく大輪の花のような美しい笑顔と、その箱を胸に抱いてそっと涙を滲ませるアディリーヌであった。
あまりの美しさに一瞬我を忘れ、しかし受け入れてもらえたという望外の喜びに思わず席を立って踊り出してしまいそうになった。
「あぁ……ありがとうございますっ……!」
ルキゥールもまた涙を滲ませて震えた声で、しかし出来る限りの笑顔でそれに答えた。
「……でもルキゥール。一つだけ不満なの」
そしてその喜びを打ち砕こうとする声。
えっ、と声を詰まらせたルキゥールを前に、アディリーヌはほんの少し不満げにその箱の中身を眺めた。
「この魔宝石は、まだあなたの精が込められてないわ。贈ってくれるのなら込めておくのが礼儀ではなくて?」
プンスカ、とでも擬音をつけたいような様子で怒るアディリーヌに、ルキゥールはポカンとした後少し笑ってしまって、益々怒られる。
それをなんとかなだめた後、彼はもうとっくに真っ赤な顔を益々赤らめて、ポツリとつぶやいた。
「その……実は、ひとつやりたいことがあって、そのまま、無垢な宝石のまま、加工してもらったのです」
彼の言葉にアディリーヌはまたも首を傾げた。
その愛らしさに益々彼女を好きになりながらも、ルキゥールは己の夢……というより、やりたかったことを語る。
「私は、その。想い人に魔宝石の指輪を渡す時、その人の見ている前でその魔宝石に精を込めたかったのです。何よりもその人のために作ったという証明のために、その……うまく言えませんけど、そうしたかったんです」
自分には似合わないなんとも女々しい願望と思いつつも、彼は願いを振り切ることができなかった。
主人である彼女にプロポーズをする立場でありながら自分の都合を優先する浅ましさに少し嫌気がさす、が……
「そういう理由だったのね!だったら早く言ってよもう!そういうことなら私も大賛成!さ、さ、早く早く!」
思いの外乗り気で自分に指輪の箱を差し出してくるアディリーヌに、ルキゥールはまたもポカンと口を開け、そして苦笑した。
この人は本当に無邪気で、優しくて……器が大きい。
「はい、畏まりました」
ルキゥールはその箱を受け取って、そっとリングを取り出した。
傷つかないよう細心の注意を払ってその指輪を取り出す。
そして、自分のありったけの愛情を、精をその指輪に込めんと、宝石の表面をそっと優しく指でなぞった。
その途端、魔法石に変化が起きた。
「わぁ……!」
アディリーヌが歓びの声をあげてその変化を見守る。
ルキゥールもまた、自分の手の内で魔宝石がどのような姿に変わるのか胸躍らせていた。
アディリーヌの魔力を受け入れた魔宝石は濃くそれでいて透き通る紫色に変化していた。
それと同じ色にはならないだろうが、彼女に似合う色になってくれれば嬉しいと彼は思う。
情熱的な赤色が、可愛らしいピンク色か。
普段執務を行う時の聡明な雰囲気を思わせる青でもいい、この不死者の国を思わせ、彼女の肌に映える黒でもいい。
そして二人はその変化をそっと見つめ
ルキゥールの目が、徐々に絶望に染まる。
「え……ぁ……」
徐々に変化を続けた魔宝石は、指でなぞった箇所から徐々に、確実にその姿を変えた。
丸く美しく滑らかに加工された表面はカクカクとかくばり、色合いはみじんも光を通さない不透明な灰色に。
瞳のような模様はなんの光も通さない黒に沈んでいく。
「や、やめてくれ、止まってくれ……!」
取り乱して膝をつくルキゥールの手の中で、しかし魔宝石は益々醜く変質していく。
そして彼の手の中で、魔宝石の指輪は見るも無残な姿に変わり果てていた。
元の透き通った美しさは微塵も残らず、そのらの道端に転がった石ころのような、見窄らしいザマに変わってしまったのだ。
「……」
「う、うぅ、ううぅぅぅ……うああぁぁ……っ」
天国から地獄へ。
アディリーヌが見つめる中、ルキゥールはガクリと崩れ落ち、ボロボロと涙をこぼした。
彼女の眼の前でみっともない姿を晒してしまっていることにすら気がつけないほどに彼の心は打ちのめされていた。
彼の心は絶望に打ちひしがれていた。
愛しの主人へと送るはずだった大切な指輪だったはずなのに、見るも無残な姿に変わり果てたことにショックを隠すことなどできなかった。
それを差し出すことなどできなかった。
何より、自分の魔力でここまで醜く変質したという事実に耐えられなかった。
「もうしわけっ……ありませんっ……アディリーヌ様……!」
「ルキゥール……」
「私は……俺はっ……貴方にこんなものを送ることはできません……こんなものしか作れない俺が、貴方の隣に、立つことなど……!」
指輪を取り落とし、床に伏して、懺悔するような姿でルキゥールは慟哭した。
どうして、なぜ、こんなことに。
後悔の念が思考を蝕む。
こんなことになってしまうのなら、想いを秘めたまま消え去って仕舞えばよかった。
いくら嘆いても後の祭り。
どれほど嘆いても嘆ききれないほどの絶望に打ちひしがれて、ルキゥールは静かに絶叫する。
アディリーヌは、そんな彼のそばに歩み寄った。
「顔を上げなさい、ルキゥール」
「っ……申し、わけ、ありま、ぜっ、うぐっ、ううぅぅ……!」
「ルキゥール」
優しく彼の背を撫でて、そっと手を重ねるアディリーヌ。
慈しみに溢れたその行為にルキゥールがわずかに顔を上げると、アディリーヌは懐から取り出したハンカチでそっと彼の頬を拭った。
「あらあら、鼻水も涙もひどいわね。男前が台無しよ?」
「しかしっ……!」
「もう、泣かないの、ほら」
ルキゥールの顔を優しく胸に抱き、あやすように背を叩く。
あまりの心地よさと、しかし自分の不甲斐ない姿にまたも泣き出してしまうルキゥールを何も言わずに抱きしめる。
「もう、一人で思い込んで勝手に傷ついて」
「ずい、ません……!」
「いいのよ、そんなところも大好きなのだから……ほら、みてルキゥール」
そう言って、アディリーヌはそったルキゥールの顔を解放し、顔を上げさせた。
彼女の温もりから離れたルキゥールは、その直後に驚愕に目を見開く。
「い、いけません!アディリーヌ様!」
「何が?」
アディリーヌは、床に落とした汚い指輪を、自分の薬指にはめ込んでいた。
あんなものを身につけさせるわけにはいかない、ルキゥールは叫ぶ。
「そんな、そんなものを身につけては、なりません!アディリーヌ様に相応しくなーーー」
「そんなことないわ」
彼の鼻先にツンと指を押し当てて言葉を遮るアディリーヌ。
その顔はいたずらっぽく笑っている。
「貴方が、私のために創り出してくれた、大切な指輪よ。私に似合わないものですか。むしろ私以外の誰に似合うものですか」
そういって愛おしげにその指輪を撫でるアディリーヌの顔に、嘘偽りは少しも含まれていなかった。
彼女は心の底から、この指輪を喜んでいるのだ。
「ですが、ですが……」
「いくらルキゥールでも、この指輪を取り上げちゃうっていうなら、私本気で怒るわよ。それよりそろそろ立ちなさい?」
むすっとした表情で告げられれば、もうルキゥールは何も言えない。
膝をついたまま、納得しかねるような、そんな不満げな表情でいたルキゥールは、彼女の言う通りにそっと立ち上がった。
「……もうしわけありません、見苦しい姿を」
「そんなことはいいわ、それよりも……えいっ」
「うおっ!?」
突如としてグッと何かに引き寄せられたルキゥールは驚きに目を見開いた。
みれば、アディリーヌが彼の腰に腕を回し、ギュウと抱き寄せている。
自分より頭一つ分背の低い彼女が胸の辺りからイタズラげに微笑んできて、そして彼の左腕をそっと手に取った。
「指を伸ばしなさい」
「は……はい」
有無を言わせぬ圧にルキゥールは左手のみならず右手まで、すべての指をピンっと立たせた。
その様子にくすくすと笑ったアディリーヌは、腰に回していた腕を外すと、自分の右中指にはまっていた濃紫色に染まった魔宝石の指輪をそっと取り外す。
「少し融通を利かせてくださる?」
そういって指輪を優しく撫でて、そしてそれをルキゥールの左手薬指にそっと差し込む。
明らかに彼の指より細い彼女の指にはまっていた指輪は、なぜかぴったりと彼の薬指にはまり込んだ。
「……ふふっ、これで指輪は交換したわね。今この瞬間から私たちは、永遠の愛を誓い合った夫婦よ、ふふ、フフフフ」
妖艶に微笑むアディリーヌに、ルキゥールはもう身動きが取れなかった。
そっと背に手を回され、ぎゅうと抱きしめられる。
彼女の少し冷たい体温が、柔らかい感触が、とても気持ちいい。
「ルキゥール」
愛おしげに名前を呼ぶ彼女の顔を向けば、そっと唇を重ねられた。
可愛らしくつま先立ちになってルキゥールの唇を啄むアディリーヌに愛おしさが溢れ出したルキゥールは、彼女の肩を強く抱き、情熱的にキスを返す。
そのまま5分、10分と、延々と互いの唇をついばみあい二人の混ざり合った唾液がアディリーヌの顎を伝い首を通り、胸の谷間を濡らす頃、ようやく二人は唇を離した。
銀のアーチが名残惜しげに繋がって、月の赤い光に照らされてプツリと途切れる。
「うわっ」
アディリーヌが彼の手を握ったまま後ろに倒れ込み、二人してそのままベッドの上に倒れこんだ。
はて、こんな位置にベッドが配置されていたが、ルキゥールはわずかに疑問に思う。
「今は私を見ていて」
しかし、そんな些細なことなど忘却の彼方に追いやる魅惑的な声が自分の下から聞こえてきて、ルキゥールはアディリーヌの顔を見つめた。
切なげに潤む彼女の瞳はまっすぐこちらを見つめている。
「明けない夜の始まりよ」
彼女の手の平が、そっと彼の頬を撫でる。
その瞬間に心地よい脱力感に襲われて、ルキゥールは目を見張った。
「たくさん愛し合いましょう」
そして、アディリーヌが彼の首に腕を回し、そっと抱き寄せ体を重ねた。
今宵、二人は朝の来ない国の最も高い場所で、永きにわたる愛の契りを交える。
そしてそれが終わる頃、この国の王女は一段と美しくなっていることだろう。
特別な日が、もっと特別な日に成った夜11時の一幕……
死者であるにも関わらず酒気で火照った彼女の頬を、不死者の国に吹く優しく凍える風がそっと撫でて、傍らの漆黒のカーテンがふわりと揺れる。
それすらも愛おしく思えるほどに上機嫌な彼女は、いつも通りに城下を照らす赤色の月を見つめた。
己の瞳と同じような、暗黒魔界に昇る赤月。
教団関係者ならば滅びの予兆とさぞ嘆くことだろうが、アディリーヌからすれば見慣れたこの月の色合いは情熱的な愛の赤という認識である。
コンコンコンコンと、聞きなれたノックの音にそっと部屋の中へ視線を戻したアディリーヌは、扉の向こうから漂う何よりも大切な人の精の香りに目尻を下げて、美しい唇の端をそっともちあげた。
「入って、ルキゥール」
「失礼いたします」
アディリーヌの言葉を聞き届けてから開いた扉の先には、灰色の髪に褐色の肌をもつ男性が佇んでいた。
アディリーヌより頭一つ分ほど高い背丈に、独特の装飾で飾られ、喪服にも似たデザインの執事服を違和感なく着こなしている。
「お水をお持ちいたしました」
「うん、ありがとう。ちょうどよかった」
彼がテーブルに音もなく置いたピッチャーと華奢なグラスを見て、アディリーヌは小さく微笑んだ。
今日は、アディリーヌの誕生祭として多くの貴族たちが集まるパーティが開かれていたのだ。
愛と快楽に生きる魔物娘たちの中でも、一際刹那的で破滅的な価値観を持つアンデット系の魔物たちは、スキあらば何かと駆けつけ踊り騒ぐ癖がある。
アディリーヌの統治する不死者の国でその当人の誕生日が訪れるともなれば、みんなして騒ぐのも無理もないというものだ。
「お酒を飲みすぎて、喉が渇いていたのよ」
祝いの宴会が始まった直後から多くのものたちに祝いの言葉とプレゼントともに大量の飲酒をすることになったアディリーヌ、ワインボトルをゆうに4本は開けたであろうほど飲まされて、流石にクラクラきていたところだ。
「っ、では、お注ぎいたします」
ルキゥールは彼女の笑顔に少しだけ頬を染めた後、顔を引き締めて華美なグラスに静かに水を注いだ。
中に氷の入ってよく冷えたウンディーネの天然水は、魔界でこそありふれた代物だがアディリーヌがよく好むこれは特に上質なものが仕入れられている。
「うん……ルキゥール、少しお話がしたい気分なの、あなたも座りなさい」
「かしこまりました……」
ルキゥールの注いだ水が入ったグラスを受け取り、アディリーヌは微笑んだ後に彼を対面の椅子に座るよう促した。
これはいつものことであり、彼も慣れた様子で椅子に腰掛ける。
「ふふっ、今日の祝宴は楽しかった。アリソン様ってばあんな高価なドレスをプレゼントしてくれて……見た?あれ。随分と胸のサイズが小さかったわ。まだ懲りてないのよ」
「っ、アディリーヌ様っ」
「うふふふ、ごめんなさい」
はしたない話題にルキゥールは顔を赤らめながらも注意すると、アディリーヌはからかう様にくすくすと笑った。
これもまた、いつものことで、ルキゥールの悩みの種だ。
「でもこれ、割と切実な悩みなのよね……アリソン様毎年そういう服を贈ってくれるけれど、捨てるわけにもいかないし、かといって人前で着るにはちょっと……その、あれだし。量もどんどん増えてきてるし……」
「それはまぁ、確かに」
困った様に細くきれいな眉を顰めたアディリーヌに、ルキゥールも同意して頷いた。
いたずら大好きなあの友人が贈ってくる服はどれも過激でおまけに毎度のごとくバストやヒップサイズがプレゼントされた人物のそれに比べて小さい。
豊かなバストを持つアディリーヌがあんなものを着てしまえば、露出の多いデザイン故にスリットからはふとももが、そしておへそが丸見えだし、胸に至っては……
「……」
そこまで考えてルキゥールは己の頭を振って煩悩を振り落とした。
彼には刺激の強すぎる妄想だった。
「どうしたの?」
「いえなんでも」
アディリーヌが首をかしげて問うてくるが、答えられるわけもなくそのまますっとぼけた。
そう?と疑問符を浮かべつつもアディリーヌは納得し、手元のグラスの中身を静かに口に運ぶ。
その優雅な仕草にいつもドキリと跳ねる心臓に、いい加減慣れろとルキゥールは自重した。
「ところで、ルキゥール」
「はい」
「私は、今年も貴方からのプレゼントを期待していいのかしら?」
にこりと微笑むアディリーヌに、ルキゥールは顔を俯かせながらも静かにハイと答えた。
アディリーヌの誕生祭を祝った後のこのやりとりは、もはや定例と化している。
最初にアディリーヌからプレゼントを希望されたのは、11年前に彼が彼女の専属執事として割り振られた時だった。
まだ見習い召使の域も脱していない彼がなぜか彼女直々に指定され、四苦八苦しながらも少しずつ執事としての技能を高めていた頃、急にそんな催促をされて、当時の彼はひどく慌てたものだ。
『誕生日プレゼント、期待してるからね』
そう言って微笑むアディリーヌにすでに心奪われていた当時、何を贈ればいいのか7日7晩不眠で悩み、何かに吹っ切れた当日にクマのぬいぐるみを贈ったことは彼の人生最大の汚点である。
渡した時にそれはもう大笑いされて、可愛い可愛いと彼女に好き勝手なでくりまわされたのは今では軽くトラウマだ、当時の彼は背が低かった。
未だに部屋の目立つところにデンと構えるドヤ顔のぬいぐるみを見るたびに焼却処分してしまいたくなるが、主人の私物にそんなことをできるわけもなかった。
それから翌年以降はそんな未熟さは鳴りを潜め、彼女のために丸々一年間じっくり考え吟味したプレゼントを贈るのが、恒例となっていた。
今まで贈ったものの中には、陶酔の果実を利用した高級ワインに、美しい桃色の魔界銀の髪飾りetcetc……
どれも結構に値の張るものだが、彼女への贈り物であれば、それがふさわしいと判断すれば金に糸目をつけはしない。
しかし、ルキゥールにとっての今年のプレゼントは、少々……どころではないほどに意味合いが違っていた。
「こ……こちらを」
言葉を詰まらせながらも、彼は懐からそっと小さな箱を取り出した。
小さな黒塗りの箱は上品な金の模様で飾られていて、中身がとても大切なものであるということを知らせてくれる。
「あら……」
「っ……そ、その、今年アディリーヌ様に贈らせていただきたいのは、これ、です」
そして、ルキゥールは緊張と不安、羞恥で顔を真っ赤に染め上げ、その箱をそっと彼女に差し出した。
ガチガチに緊張している彼を見て優しく微笑んだアディリーヌは、その箱を受け取って愛おしげに撫でる。
そして、静かにその箱を開けた。
「わぁ……」
中に入っていたのは、魔界銀のリングだった。
繊細な文様が彫られたリングにはアディリーヌのイニシャルが刻まれていて、それが並の業ではないことを知らしめる。
そしてそのリングを飾り付けるのは、まだなんの魔力も含んでいない、純粋無垢なで小さな、上質の魔宝石だった。
「立場が違うというのは承知の上ですが……アディリーヌ様、どうか……その指輪を、受け取っていただけませんが、そして、わ、私を……あなたの伴侶として、認めてくださいませんか……!」
ルキゥールにとって、これは大勝負だった。
異性に高価な指輪を贈る、それは世間一般からの認識通り、プロポーズと言われる行為であった。
彼は鈍感ではなく、アディリーヌの普段の言動から彼女が自分を愛しているということを知っていたし、それより前から自分が彼女にどうしようもなく惹かれているのを知っていた。
しかし自分は単なる使用人、相手はこの国の王女、あまりにも立場が違いすぎる。
魔物娘は位の違いなど気にしないということは知ってはいるが、それでも彼にとっては正しく人生最大の大博打だったのだ。
給料三ヶ月分どころか30ヶ月分の大金を叩いて購入したその指輪はしかし、彼女が普段身につけるティアラやネックレスと比べれば安物と断じざるをえない、それでも彼の精一杯の思いを詰め込んだ贈り物だ。
祈りにも近い体制でかれは強く両手を握りあわせ顔を伏せ、、唇を噛み締める。
どうか、どうか……
「ルキゥール」
彼女の声がルキゥールの名をを呼ぶ。
普段は愛おしくて仕方がないその声がなぜか死刑執行人の呼びつけに聞こえたかれは、びくりと体を震わせて、そっと顔を上げる。
「とても嬉しいわ、ありがとう。貴方の思い、しっかり受け取らせていただきますわ」
そして彼を迎えたのは正しく大輪の花のような美しい笑顔と、その箱を胸に抱いてそっと涙を滲ませるアディリーヌであった。
あまりの美しさに一瞬我を忘れ、しかし受け入れてもらえたという望外の喜びに思わず席を立って踊り出してしまいそうになった。
「あぁ……ありがとうございますっ……!」
ルキゥールもまた涙を滲ませて震えた声で、しかし出来る限りの笑顔でそれに答えた。
「……でもルキゥール。一つだけ不満なの」
そしてその喜びを打ち砕こうとする声。
えっ、と声を詰まらせたルキゥールを前に、アディリーヌはほんの少し不満げにその箱の中身を眺めた。
「この魔宝石は、まだあなたの精が込められてないわ。贈ってくれるのなら込めておくのが礼儀ではなくて?」
プンスカ、とでも擬音をつけたいような様子で怒るアディリーヌに、ルキゥールはポカンとした後少し笑ってしまって、益々怒られる。
それをなんとかなだめた後、彼はもうとっくに真っ赤な顔を益々赤らめて、ポツリとつぶやいた。
「その……実は、ひとつやりたいことがあって、そのまま、無垢な宝石のまま、加工してもらったのです」
彼の言葉にアディリーヌはまたも首を傾げた。
その愛らしさに益々彼女を好きになりながらも、ルキゥールは己の夢……というより、やりたかったことを語る。
「私は、その。想い人に魔宝石の指輪を渡す時、その人の見ている前でその魔宝石に精を込めたかったのです。何よりもその人のために作ったという証明のために、その……うまく言えませんけど、そうしたかったんです」
自分には似合わないなんとも女々しい願望と思いつつも、彼は願いを振り切ることができなかった。
主人である彼女にプロポーズをする立場でありながら自分の都合を優先する浅ましさに少し嫌気がさす、が……
「そういう理由だったのね!だったら早く言ってよもう!そういうことなら私も大賛成!さ、さ、早く早く!」
思いの外乗り気で自分に指輪の箱を差し出してくるアディリーヌに、ルキゥールはまたもポカンと口を開け、そして苦笑した。
この人は本当に無邪気で、優しくて……器が大きい。
「はい、畏まりました」
ルキゥールはその箱を受け取って、そっとリングを取り出した。
傷つかないよう細心の注意を払ってその指輪を取り出す。
そして、自分のありったけの愛情を、精をその指輪に込めんと、宝石の表面をそっと優しく指でなぞった。
その途端、魔法石に変化が起きた。
「わぁ……!」
アディリーヌが歓びの声をあげてその変化を見守る。
ルキゥールもまた、自分の手の内で魔宝石がどのような姿に変わるのか胸躍らせていた。
アディリーヌの魔力を受け入れた魔宝石は濃くそれでいて透き通る紫色に変化していた。
それと同じ色にはならないだろうが、彼女に似合う色になってくれれば嬉しいと彼は思う。
情熱的な赤色が、可愛らしいピンク色か。
普段執務を行う時の聡明な雰囲気を思わせる青でもいい、この不死者の国を思わせ、彼女の肌に映える黒でもいい。
そして二人はその変化をそっと見つめ
ルキゥールの目が、徐々に絶望に染まる。
「え……ぁ……」
徐々に変化を続けた魔宝石は、指でなぞった箇所から徐々に、確実にその姿を変えた。
丸く美しく滑らかに加工された表面はカクカクとかくばり、色合いはみじんも光を通さない不透明な灰色に。
瞳のような模様はなんの光も通さない黒に沈んでいく。
「や、やめてくれ、止まってくれ……!」
取り乱して膝をつくルキゥールの手の中で、しかし魔宝石は益々醜く変質していく。
そして彼の手の中で、魔宝石の指輪は見るも無残な姿に変わり果てていた。
元の透き通った美しさは微塵も残らず、そのらの道端に転がった石ころのような、見窄らしいザマに変わってしまったのだ。
「……」
「う、うぅ、ううぅぅぅ……うああぁぁ……っ」
天国から地獄へ。
アディリーヌが見つめる中、ルキゥールはガクリと崩れ落ち、ボロボロと涙をこぼした。
彼女の眼の前でみっともない姿を晒してしまっていることにすら気がつけないほどに彼の心は打ちのめされていた。
彼の心は絶望に打ちひしがれていた。
愛しの主人へと送るはずだった大切な指輪だったはずなのに、見るも無残な姿に変わり果てたことにショックを隠すことなどできなかった。
それを差し出すことなどできなかった。
何より、自分の魔力でここまで醜く変質したという事実に耐えられなかった。
「もうしわけっ……ありませんっ……アディリーヌ様……!」
「ルキゥール……」
「私は……俺はっ……貴方にこんなものを送ることはできません……こんなものしか作れない俺が、貴方の隣に、立つことなど……!」
指輪を取り落とし、床に伏して、懺悔するような姿でルキゥールは慟哭した。
どうして、なぜ、こんなことに。
後悔の念が思考を蝕む。
こんなことになってしまうのなら、想いを秘めたまま消え去って仕舞えばよかった。
いくら嘆いても後の祭り。
どれほど嘆いても嘆ききれないほどの絶望に打ちひしがれて、ルキゥールは静かに絶叫する。
アディリーヌは、そんな彼のそばに歩み寄った。
「顔を上げなさい、ルキゥール」
「っ……申し、わけ、ありま、ぜっ、うぐっ、ううぅぅ……!」
「ルキゥール」
優しく彼の背を撫でて、そっと手を重ねるアディリーヌ。
慈しみに溢れたその行為にルキゥールがわずかに顔を上げると、アディリーヌは懐から取り出したハンカチでそっと彼の頬を拭った。
「あらあら、鼻水も涙もひどいわね。男前が台無しよ?」
「しかしっ……!」
「もう、泣かないの、ほら」
ルキゥールの顔を優しく胸に抱き、あやすように背を叩く。
あまりの心地よさと、しかし自分の不甲斐ない姿にまたも泣き出してしまうルキゥールを何も言わずに抱きしめる。
「もう、一人で思い込んで勝手に傷ついて」
「ずい、ません……!」
「いいのよ、そんなところも大好きなのだから……ほら、みてルキゥール」
そう言って、アディリーヌはそったルキゥールの顔を解放し、顔を上げさせた。
彼女の温もりから離れたルキゥールは、その直後に驚愕に目を見開く。
「い、いけません!アディリーヌ様!」
「何が?」
アディリーヌは、床に落とした汚い指輪を、自分の薬指にはめ込んでいた。
あんなものを身につけさせるわけにはいかない、ルキゥールは叫ぶ。
「そんな、そんなものを身につけては、なりません!アディリーヌ様に相応しくなーーー」
「そんなことないわ」
彼の鼻先にツンと指を押し当てて言葉を遮るアディリーヌ。
その顔はいたずらっぽく笑っている。
「貴方が、私のために創り出してくれた、大切な指輪よ。私に似合わないものですか。むしろ私以外の誰に似合うものですか」
そういって愛おしげにその指輪を撫でるアディリーヌの顔に、嘘偽りは少しも含まれていなかった。
彼女は心の底から、この指輪を喜んでいるのだ。
「ですが、ですが……」
「いくらルキゥールでも、この指輪を取り上げちゃうっていうなら、私本気で怒るわよ。それよりそろそろ立ちなさい?」
むすっとした表情で告げられれば、もうルキゥールは何も言えない。
膝をついたまま、納得しかねるような、そんな不満げな表情でいたルキゥールは、彼女の言う通りにそっと立ち上がった。
「……もうしわけありません、見苦しい姿を」
「そんなことはいいわ、それよりも……えいっ」
「うおっ!?」
突如としてグッと何かに引き寄せられたルキゥールは驚きに目を見開いた。
みれば、アディリーヌが彼の腰に腕を回し、ギュウと抱き寄せている。
自分より頭一つ分背の低い彼女が胸の辺りからイタズラげに微笑んできて、そして彼の左腕をそっと手に取った。
「指を伸ばしなさい」
「は……はい」
有無を言わせぬ圧にルキゥールは左手のみならず右手まで、すべての指をピンっと立たせた。
その様子にくすくすと笑ったアディリーヌは、腰に回していた腕を外すと、自分の右中指にはまっていた濃紫色に染まった魔宝石の指輪をそっと取り外す。
「少し融通を利かせてくださる?」
そういって指輪を優しく撫でて、そしてそれをルキゥールの左手薬指にそっと差し込む。
明らかに彼の指より細い彼女の指にはまっていた指輪は、なぜかぴったりと彼の薬指にはまり込んだ。
「……ふふっ、これで指輪は交換したわね。今この瞬間から私たちは、永遠の愛を誓い合った夫婦よ、ふふ、フフフフ」
妖艶に微笑むアディリーヌに、ルキゥールはもう身動きが取れなかった。
そっと背に手を回され、ぎゅうと抱きしめられる。
彼女の少し冷たい体温が、柔らかい感触が、とても気持ちいい。
「ルキゥール」
愛おしげに名前を呼ぶ彼女の顔を向けば、そっと唇を重ねられた。
可愛らしくつま先立ちになってルキゥールの唇を啄むアディリーヌに愛おしさが溢れ出したルキゥールは、彼女の肩を強く抱き、情熱的にキスを返す。
そのまま5分、10分と、延々と互いの唇をついばみあい二人の混ざり合った唾液がアディリーヌの顎を伝い首を通り、胸の谷間を濡らす頃、ようやく二人は唇を離した。
銀のアーチが名残惜しげに繋がって、月の赤い光に照らされてプツリと途切れる。
「うわっ」
アディリーヌが彼の手を握ったまま後ろに倒れ込み、二人してそのままベッドの上に倒れこんだ。
はて、こんな位置にベッドが配置されていたが、ルキゥールはわずかに疑問に思う。
「今は私を見ていて」
しかし、そんな些細なことなど忘却の彼方に追いやる魅惑的な声が自分の下から聞こえてきて、ルキゥールはアディリーヌの顔を見つめた。
切なげに潤む彼女の瞳はまっすぐこちらを見つめている。
「明けない夜の始まりよ」
彼女の手の平が、そっと彼の頬を撫でる。
その瞬間に心地よい脱力感に襲われて、ルキゥールは目を見張った。
「たくさん愛し合いましょう」
そして、アディリーヌが彼の首に腕を回し、そっと抱き寄せ体を重ねた。
今宵、二人は朝の来ない国の最も高い場所で、永きにわたる愛の契りを交える。
そしてそれが終わる頃、この国の王女は一段と美しくなっていることだろう。
特別な日が、もっと特別な日に成った夜11時の一幕……
16/07/15 12:17更新 / 車輪(人物)