第二十七話 如月とコウモリ男爵
私たち王女軍に協力すると一方的に使者を送ってきて勝手に戦闘に参加したウォード領主のウォーダー男爵ゲラルは、戦闘に決着がつくとすぐに姫様との対談を申し込んできた。
姫様の側近であるはずのリィレさんと私の二人すらも姫様と同行することを拒否され、ゲラルは姫様と二人きりで幕舎の中に入ってしまった。
私とリィレさんは幕舎の外で待たされて、隣にはゲラルの護衛だった男数人が、こっちをじろじろ見ながらたむろしている。それだけでも不愉快なのに、わざわざ分けた王女軍の駐留地まで入り込んできていることがより不快に感じられた。
「不愉快だ………苛々する。」
ウォードの連中に気付かれないようにリィレさんが呟く。さっきから苛立ちを示すようにそこそこ大きな胸の前で組んだ右手の人差し指の先が、金属製の胸当てをコツコツと叩いている音が聞こえる。
「………なんか、兵の様子から察するにあんまりまともな人じゃなさそうですよね。」
ゲラルの抱え込んでいた兵士はあまり「行儀がよくなさそうな」人が多い。
正直なところ、さっきからこっちを見ている兵士も「戦士としてどうか」なんて視線じゃなく「性欲のはけ口としてどうか」という意味合いの方が強い。
「まともな男ではないな、『コウモリ男爵』で知られるウォードのゲラル。危機が迫れば躊躇なく裏切り、決して敗北する軍勢には最後まで味方しない男だ。」
「………味方としていられた方が迷惑じゃありません?」
「正直なところその通りだ……敵として打ち倒せた方がよほど良かった。」
寄って来られないようある程度の距離を保ちながら、姫様が出てくるのを待つ。
じろじろ私たちを視姦する男たちも嫌だけれど、かといって姫様をこの集団の中に置いてここを去っていくのはもっと嫌だ。
さらに五分ほど視姦に耐えながら待っていたところで、ようやく疲れた顔の姫様が出てきた。その後ろには何やら不服そうな表情のゲラルがついてきている。
「お疲れ様です。」
「………はい、とても疲れました。リィレ、確かこの近くに川がありましたよね?」
「ありましたね、水浴びなさいますか?」
姫様が黙って首を縦に振ると、リィレさんはすぐに姫様の衣服などが入った箱の置いてある幕舎に向かって走って行った。残された私は姫様を連れて川に向かう。
駐屯地から少し離れたところにある小さな川、近くには誰もいないけれど私は見張りとして剣を持ってここで待機することにした。
姫様は細い指で服をスルスルと脱いでいく、そしてついに下着姿になった瞬間、近くの茂みから葉擦れの音が聞こえた。
「っ!? 誰ですか!?」
剣を抜きながらできる限り早く距離を詰め、物音をした茂みに向かって切りかかる。
その瞬間茂みから男が飛び出し、私の剣戟をかすめながらも、急いで走り去っていく、顔を見た覚えもないからたぶんクルツ軍や民兵じゃなくて、あれはゲラルの兵だ。
「ああもう、逃げ足の速い!」
あっという間にゲラルの駐屯地の中まで逃げ込んでしまう、迂闊に入ったら面倒なことになりそうだし姫様一人残してほかの不審者に襲われてもまずいので追いかけはしないけど、まさか覗きなんてするとは思わなかった。
「この分だと、駐屯地の方でも絶対何かトラブルになってるよなぁ………」
「………そうですね。」
私の独り言に姫様が明らかに落ち込んだ顔で相槌を打つ。
女性に何かされて騒ぎになるだけならまだいいけど、それを理由にゲラルがまた何かケチをつけてきそうでそれが拙い。それにこの軍において姫様の不信感が高まることはそれだけ軍の崩壊の危険が大きくなることだから、それも避けたい。
「……どうされました?」
リィレさんが衣装の入った鞄と数本の仕切りを作るための棒と布のセットを持って駐屯地から歩いてきた、さっき逃げた男には気付かなかったみたいだけれど私たちの様子がおかしいことには気付いたみたいだ。
「覗きですよ、姫様の水浴びを見ようとしていた不埒者に逃げられました。」
「……」
リィレさんが無言のまま私の襟首をつかむ、目に怒りの炎を宿らせて、やはり何も言わないままに「どうしてもっと辺りを警戒しない」と目が訴えてくる。
「すいません! 迂闊でした!!」
「キサラギさんを叱る前にやることがありますよね? リィレ。」
リィレさんは姫の言葉に従って私を解放するといそいそと仮設の水浴び場を設置する用意を始める。すぐに私も手伝うけれど、ある意味もう手遅れな気もする。
設置が完了したことを姫様が認めると、今度こそいそいそと下着まで脱いで裸になる。
やっぱり綺麗な白い肌をしていて、少しボリュームが足りない気がしなくもない体もそれはそれであでやかな魅力を持っているように見える。
どこから取り出したのか桶を片手に、姫様は自分の体に水をかける。
ただそれだけの動作があまりに優雅で綺麗だから、見入ってしまうのはいつものこと。
「これから、大変そうですよね……」
新しく形式上王女軍に加わったゲラルの軍を思い出しながら呟く。
問題ありげな君主に、女性をあからさまに性の対象として見る視線を隠そうともしない野蛮な兵士、女性の割合が比較的多いクルツ軍にとっては外敵以上に厄介な爆弾を味方のうちに抱えてしまったことになる。
「そうですね、彼と会談していた時もそれはもう大変でしたから。」
「一体どんな内容を? さして実りがあったとは思えませんが。」
「戦後褒章がどうなるのかで捲し立てられました、戦後自分はどんな土地を与えられるのかどれだけの財を得られるのかそのほか、彼の目に映っていたのは完全に自分たちの利益だけ。悲しい話です。」
本当に金しか目に入ってないんだ、今までどうやって軍を動かしてこれたんだろう、そもそもこれからのことを向こうは聞いてるんだろうか。それに納得してるんだろうか。
「今後のこととか」
「後々じっくり決めましょうの一言です」
「支援物資がどれほど得られるのかとか」
「現地調達で済ませるように指示したと言っていました。」
リィレさんが頭を抱える、そして姫様がほぼ同時にため息をつく。
「馬鹿だということは知っていた、あの男にまともな考えを期待するだけ酷ともわかっていたつもりだったしかしそれは……あまりにもいい加減すぎませんか?」
「戦争は部下に任せるだけ、出費は基本的に最低限、ある意味正しい判断ではありますが絶対に民はついて来ません。」
姫様はあまり表情を変えずに言って見せる、たまに表情が消えているときはその分中の感情をしっかり押し込める必要ができるような事態に陥ってる時だけのこと。
だからこそすごく嫌な気分であることは間違いない、絶対そうだと確信できる。
姫様がどこからか持って来られていた桶を手に取り、川の水をすくってご自分の体にかける、幼げな体が川の水に濡れてなんだかいやらしい光沢を見せている。
「……体を拭いたら陣営に戻りましょうか、喧嘩が起きていないといいのですが。」
「起きてると思います、ランスさんとか因幡君とかが起こしてると思います。」
原因が相手にあるとしても、柄があんまりよくないあの二人は近くにいる女の子にちょっかいをかけられたら絶対その相手をぶっ飛ばすと思う。
乾いたタオルを取ると、姫様の体を丁寧に拭いていく、姫様はなんだか恥ずかしそうにしているけど、これも私の仕事の一部だと思うからやらせてもらう。
体をふき終えると姫様はもう一度下着を穿いて服を着込み、それから靴下を履いてから靴を履き、そして仕切りの外に出る。
リィレさんと私で仕切りを片付け、三人で撤収する。
王女軍の陣に入ってすぐのところに、ワーウルフがハロルドさんと向き合って何かを話していた、ワーウルフの方の表情は険しく、ハロルドさんの方は困った顔をしている。
私たち三人が近づいていることに気付くと、ワーウルフの方はすぐにこっちに寄ってきた。
「王女、私はあの男が気に入らない。」
ゲラルの陣営に向けてワーウルフが爪の一本を向ける。
「ゲラルのこと……でしょうか。」
「そう、あの男は覚えてないだろうが私はあいつに会ったことがある。」
「会ったこと?」
姫様がワーウルフに聞き返すと、今度はハロルドさんが
「はい、彼女……レティシエルが話してくれた限りでは、二十二年ほど前のベルトラ平原での大反乱に彼女も加わっていて、その戦場でゲラルに会ったそうです。戦場にいた魔物を捕まえていたと言ってました。」
「あの男は魔物を道具としか思っていない、非常に魔物に敵対的。」
レティシエルというらしいワーウルフが、ハロルドさんの発言に付け足すように言う。
少なくとも、彼女はゲラルの一行が味方に加わることに関しては反対みたいだ。
「僕たちが魔物と友好的である以上、魔物と敵対的な彼らと同行することに抵抗を抱く者も少なくありません。そしてまだあくまで可能性でしかありませんが、協力関係の維持が不可能だと僕が判断した場合には………」
「同盟を破棄し、クルツの住民は全員帰還する、ということですね。」
気まずい空気があたりを包む、ゲラルの軍が加わっただけでまさか一気にここまで状況が悪くなるとは思わなかった。
やっぱり私はどこかで複雑に絡んだ利害関係を甘く見ていたんだろう。
「同盟の破棄というよりも、領主代行の僕やネリス、父に指示を受けたランスを除けば自由意思で参加している人です。覚悟がない人は少ないですが、クルツに帰るのも本人の意思に任されるから嫌気がさせば抜け出す人も出るでしょう。」
ハロルドさんはあくまで冷静にそう説明する、言いたいことは分かるし、その危険が身近に迫っていることも納得できる。
「ハロルドさーん!」
空から声がしたかと思ったら、ネリスさんがこっちに向かって文字通り「飛んで」来る。
スカートが翻らないように抑えながら私たちの前に着地すると、ネリスさんは青ざめた表情のまま、
「ハロルドさん! ああ丁度良かった姫たちも! 急いで来てください!」
と言ってまた空を飛び始める。
「…………」「…………」「…………何かあったんですね。」
すぐにネリスさんの飛んで行った方角に向かって走り出すと、数人の男に取り押さえられたランスさんと、その少し離れたところで兵士に守られるゲラルがいた。
ゲラルの頬は分かりやすいくらいに腫れている、しかもよく見ると二人の間の地面には歯が一本転がっている。
「うっわぁ……」
ランスさんがゲラルを殴って、その結果ゲラルの歯が一本折れた。
ランスさんが殴った理由までは分からないけれど、殴ったのは間違いないだろう。
「貴様! この私に暴力をふるうとは何のつもりだ!!」
「アンタこそ人の女を金で買うとかわけのわけんねぇこと言ってんな!」
周囲の人間をともすれば引きずってまたゲラルに殴りかかりそうな勢いでランスさんはゲラルを怒鳴りつける、ものすごく怒っている、それこそ殺意すら窺えるほど。
金で買うって表現から察するにランスさんの恋人のシェンリさんかクリムさん、もしくはその両方を金を払ってやるから譲れとでも言われたんだろう。
「何が不服なのだ! 二匹で百万だぞ、魔物奴隷の相場からしたら倍額近い!!」
「金の問題じゃねぇって言ってんだよ頭ン中に馬糞でも入れてんのか!!?」
頭の中に馬糞なんて聞いたこともない暴言だけど、かなり頭に来てるらしい。
「ああ………最悪のパターンに………」
周囲の空気もかなり険悪になっていて、今にも殺し合いに発展しそうな殺気があたりに充満している、現にランスさんを抑えてる人たち以外の多くの人が何かあったらすぐウォード軍に手を出せるよう武装している。
この状況を治めるのはかなり難しいだろう、
「ランスは僕とネリスで抑えますから、姫様はゲラル男爵を説得……あれ?」
ハロルドさんが首を傾げ、辺りを確認する。
何をしてるのかと私も周囲を見回して、姫様が消えていることに気付いた。
ぱしん
乾いた音は、騒動の中心付近で起こった。
誰もが一瞬の躊躇もなくもう一度同じ方向に振り向くと、明らかに手を振りぬいたと想像することが可能な体勢で立っている姫様と、
護衛に守られながら頬を叩かれ呆然とした顔のゲラルがそこにいた。
誰も何も言えず動けないまま、気持ち悪いくらい静まり返って次の音を待つ時間は多分十秒ぐらいだと思う、体感ではやたら長く感じたけどそんなに時間は経たなかったはずだ。
「恥を知りなさい、ゲラル。」
静かに、しかし強い怒気を孕んだ声で姫様が言う。
「他者の家族を強引に奪い、あまつさえそれが金で許されると思い込む傲慢な態度。自らの益を考え他を省みぬ行い。貴方にはほとほと失望しました。」
すっと息を吸い込み、そして姫様は最後に
「領地に帰りなさい、貴方もあなたの軍も、必要ありません。戦争が終わり次第財産をすべて没収の上真っ先に流してあげますから楽しみに待ちなさい。」
そう言って姫様が立ち去ろうとすると、どうやらゲラルも自棄になったらしく、
「あの小娘をひっ捕らえろ! 儂が直々に奴隷に調教してくれる!!」
そう大声で周囲の兵士に命令した、それに呼応するかのように動いたのはウォード軍ではなく、王女軍、中でもクルツの集団だった。
姫様を守るように一気に十数人が躍り出て、ウォード軍の前衛たちと衝突する。
数人は連携で、もう数人は個人技だけで相手を倒す、やっぱり戦力ならクルツ軍の方が上みたいだ。
「ったくもー! 何なんだろうね一体さぁ!」
ハロルドさんもうんざりした顔でゲラルの部下たちをなぎ倒している、そのハロルドさんの左わきをすり抜けるようにランスさんが敵陣に向かって飛び込んでいく。
「このまま駐屯地まで攻め上がる! クリムとシェンリが連れて行かれた!」
「待てランス! 一人で突っ込むな!」
ハロルドさんのその言葉を無視して、ランスさんは魔法で作り出したと思われる小銃を片手にウォード軍の陣地に向かっていく。
私の仕事は姫様の護衛だけれど、思わず彼の後を追っていた。
少し後ろをハロルドさんもついてくるのがわかった。
ランスさんは目についた敵兵を誰彼かまわず銃撃しながら一直線に進行する、撃たれた相手はかなり派手に吹っ飛んでるけど死んではいないみたいだ。
敵の集団がランスさんを囲んだ、しかしランスさんは構わず正面の相手の懐に潜り込むと銃身で殴りつけ、さらに男の頭を蹴り、周囲の男たちにも発砲した。
何と言うか圧倒的、敵の数が多いとかそんなの全く問題じゃないと言わんばかりになぎ倒してランスさんはどんどん先に進んでいく。
「ランス! 落ち着けガス欠になるぞ!」
ハロルドさんの発言とほぼ同時に、近づいてきた敵を銃撃しようとランスさんが銃を構えて、引き金を引く。けれど、銃身から放たれるはずの「何か」が今度は出なかった。
驚きに目を見開いたランスさんに向かって、撃たれないことに安心した敵が切りかかる。
ごぉっ
私の頭の横を通り過ぎた何かがランスさんを切ろうとしていた男の頭にぶつかる。
からころと音を立てて棒が落ちるのとほぼ同時に、男も倒れる。
ランスさんはというと、ショックのあまりかその場に座り込んでいた。
慌てて駆け寄ってみたけど、気づいてないみたいに反応がない。
「ランス、怪我してない?」
ハロルドさんも追い付いてきた、棒を回収しながらランスさんに声をかける。
王女軍の面々も攻め込んできているからか、戦場の真ん中にいるはずの私たちに攻撃が来ることはない。
「…………してない。」
「うん、ならいいね。キサラギ、そこ退いて。」
言われたとおり私が退くと、ハロルドさんが棒を振りかぶり、ランスさんの頭を力いっぱい殴りつけた。
「ちょっと! ハロルドさんいったい何なさってるんですか!?」
「キサラギは黙ってて。ランス、頭冷えた?」
私に対して一言だけ告げてから、冷えるどころか頭から出血しているランスさんに向かって怒気のこもった眼で訊ねる。
「………ああ……大丈夫だ。」
そう言って立ち上がろうとしたランスさんを、ハロルドさんが蹴ってまた転ばせる。
「大人しくしてること、頭に血が上って気づいてないかもしれないけど顔が真っ青だよ。」
「でも、シェンリとクリムが!」
「二人のことを思うんならじっとしてろって言ってるんだよ!!」
食って掛かろうとしたランスさんに向かい、ハロルドさんが声を荒げて怒鳴りつける。
「その状態で無茶して怪我でもしてみろ、それこそ死んでみろ。あの二人がどんな顔すると思う……」
その言葉にランスさんは答えず、座り込んだまま目線を下に向けた。
「すまん………」
「わかったなら結構、ここで待ってろ。キサラギはまた暴走しないように見張ってて。」
言われたとおりに私はランスさんの隣に腰を下ろす。
ハロルドさんはまた戦場に駆け込んでいった、戦場と言ってももう戦意のない相手を捕縛する作業が中心だから戦闘らしい戦闘はほとんど行われていない。
「意外でした、ランスさんがあんな無茶をするなんて。」
「そうかい。」
隣のランスさんに声をかけるけど、返事は一言だけ。
「お前だって無茶くらいするだろ、ソラが酷い目にあってるときには特に。」
「は!?」
「気づいてないと思ってたのか? お前ソラのこと好きなんだろ?」
湯気が出そうなほどに顔が赤くなるのを感じた、まさかこの人にまで気づかれていたとは思わなかった、ほとんどというか全く会話した記憶はないのに。
「とりあえず思い出だけでも貰っとけ、それくらいなら罰は当たらん。」
「思い出って……」
「寝たり。無理ならキスとか」
頭から蒸気が出てないかと思うほど顔が熱くなる。
ランスさんはあまり表情を変えずに私のことを見てる、憎たらしいほど何の感慨も抱いてなさそうな表情だ、ここまで人の心を乱しておきながら。
「ランスがキサラギ真っ赤にしてる。」
「お仕置きが必要かにゃ?」
背後からした声にランスさんが振り向くと、そこにはシェンリさんとクリムさんが立っていた、二人とも怪我はしてないようで、私を困らせているランスさんを何やら冷たい目で見ている。
「おい、これにはいろいろ事情があってだな。」
「聞かない。」「浮気夫の言い訳を聞くほど心広くないにゃぁ」
二人はそう言って、ランスさんを抱えて連行していった。
あとに残された私は、
「思い出………か……」
ランスさんが遺した言葉を、ひとり呟いていた。
姫様の側近であるはずのリィレさんと私の二人すらも姫様と同行することを拒否され、ゲラルは姫様と二人きりで幕舎の中に入ってしまった。
私とリィレさんは幕舎の外で待たされて、隣にはゲラルの護衛だった男数人が、こっちをじろじろ見ながらたむろしている。それだけでも不愉快なのに、わざわざ分けた王女軍の駐留地まで入り込んできていることがより不快に感じられた。
「不愉快だ………苛々する。」
ウォードの連中に気付かれないようにリィレさんが呟く。さっきから苛立ちを示すようにそこそこ大きな胸の前で組んだ右手の人差し指の先が、金属製の胸当てをコツコツと叩いている音が聞こえる。
「………なんか、兵の様子から察するにあんまりまともな人じゃなさそうですよね。」
ゲラルの抱え込んでいた兵士はあまり「行儀がよくなさそうな」人が多い。
正直なところ、さっきからこっちを見ている兵士も「戦士としてどうか」なんて視線じゃなく「性欲のはけ口としてどうか」という意味合いの方が強い。
「まともな男ではないな、『コウモリ男爵』で知られるウォードのゲラル。危機が迫れば躊躇なく裏切り、決して敗北する軍勢には最後まで味方しない男だ。」
「………味方としていられた方が迷惑じゃありません?」
「正直なところその通りだ……敵として打ち倒せた方がよほど良かった。」
寄って来られないようある程度の距離を保ちながら、姫様が出てくるのを待つ。
じろじろ私たちを視姦する男たちも嫌だけれど、かといって姫様をこの集団の中に置いてここを去っていくのはもっと嫌だ。
さらに五分ほど視姦に耐えながら待っていたところで、ようやく疲れた顔の姫様が出てきた。その後ろには何やら不服そうな表情のゲラルがついてきている。
「お疲れ様です。」
「………はい、とても疲れました。リィレ、確かこの近くに川がありましたよね?」
「ありましたね、水浴びなさいますか?」
姫様が黙って首を縦に振ると、リィレさんはすぐに姫様の衣服などが入った箱の置いてある幕舎に向かって走って行った。残された私は姫様を連れて川に向かう。
駐屯地から少し離れたところにある小さな川、近くには誰もいないけれど私は見張りとして剣を持ってここで待機することにした。
姫様は細い指で服をスルスルと脱いでいく、そしてついに下着姿になった瞬間、近くの茂みから葉擦れの音が聞こえた。
「っ!? 誰ですか!?」
剣を抜きながらできる限り早く距離を詰め、物音をした茂みに向かって切りかかる。
その瞬間茂みから男が飛び出し、私の剣戟をかすめながらも、急いで走り去っていく、顔を見た覚えもないからたぶんクルツ軍や民兵じゃなくて、あれはゲラルの兵だ。
「ああもう、逃げ足の速い!」
あっという間にゲラルの駐屯地の中まで逃げ込んでしまう、迂闊に入ったら面倒なことになりそうだし姫様一人残してほかの不審者に襲われてもまずいので追いかけはしないけど、まさか覗きなんてするとは思わなかった。
「この分だと、駐屯地の方でも絶対何かトラブルになってるよなぁ………」
「………そうですね。」
私の独り言に姫様が明らかに落ち込んだ顔で相槌を打つ。
女性に何かされて騒ぎになるだけならまだいいけど、それを理由にゲラルがまた何かケチをつけてきそうでそれが拙い。それにこの軍において姫様の不信感が高まることはそれだけ軍の崩壊の危険が大きくなることだから、それも避けたい。
「……どうされました?」
リィレさんが衣装の入った鞄と数本の仕切りを作るための棒と布のセットを持って駐屯地から歩いてきた、さっき逃げた男には気付かなかったみたいだけれど私たちの様子がおかしいことには気付いたみたいだ。
「覗きですよ、姫様の水浴びを見ようとしていた不埒者に逃げられました。」
「……」
リィレさんが無言のまま私の襟首をつかむ、目に怒りの炎を宿らせて、やはり何も言わないままに「どうしてもっと辺りを警戒しない」と目が訴えてくる。
「すいません! 迂闊でした!!」
「キサラギさんを叱る前にやることがありますよね? リィレ。」
リィレさんは姫の言葉に従って私を解放するといそいそと仮設の水浴び場を設置する用意を始める。すぐに私も手伝うけれど、ある意味もう手遅れな気もする。
設置が完了したことを姫様が認めると、今度こそいそいそと下着まで脱いで裸になる。
やっぱり綺麗な白い肌をしていて、少しボリュームが足りない気がしなくもない体もそれはそれであでやかな魅力を持っているように見える。
どこから取り出したのか桶を片手に、姫様は自分の体に水をかける。
ただそれだけの動作があまりに優雅で綺麗だから、見入ってしまうのはいつものこと。
「これから、大変そうですよね……」
新しく形式上王女軍に加わったゲラルの軍を思い出しながら呟く。
問題ありげな君主に、女性をあからさまに性の対象として見る視線を隠そうともしない野蛮な兵士、女性の割合が比較的多いクルツ軍にとっては外敵以上に厄介な爆弾を味方のうちに抱えてしまったことになる。
「そうですね、彼と会談していた時もそれはもう大変でしたから。」
「一体どんな内容を? さして実りがあったとは思えませんが。」
「戦後褒章がどうなるのかで捲し立てられました、戦後自分はどんな土地を与えられるのかどれだけの財を得られるのかそのほか、彼の目に映っていたのは完全に自分たちの利益だけ。悲しい話です。」
本当に金しか目に入ってないんだ、今までどうやって軍を動かしてこれたんだろう、そもそもこれからのことを向こうは聞いてるんだろうか。それに納得してるんだろうか。
「今後のこととか」
「後々じっくり決めましょうの一言です」
「支援物資がどれほど得られるのかとか」
「現地調達で済ませるように指示したと言っていました。」
リィレさんが頭を抱える、そして姫様がほぼ同時にため息をつく。
「馬鹿だということは知っていた、あの男にまともな考えを期待するだけ酷ともわかっていたつもりだったしかしそれは……あまりにもいい加減すぎませんか?」
「戦争は部下に任せるだけ、出費は基本的に最低限、ある意味正しい判断ではありますが絶対に民はついて来ません。」
姫様はあまり表情を変えずに言って見せる、たまに表情が消えているときはその分中の感情をしっかり押し込める必要ができるような事態に陥ってる時だけのこと。
だからこそすごく嫌な気分であることは間違いない、絶対そうだと確信できる。
姫様がどこからか持って来られていた桶を手に取り、川の水をすくってご自分の体にかける、幼げな体が川の水に濡れてなんだかいやらしい光沢を見せている。
「……体を拭いたら陣営に戻りましょうか、喧嘩が起きていないといいのですが。」
「起きてると思います、ランスさんとか因幡君とかが起こしてると思います。」
原因が相手にあるとしても、柄があんまりよくないあの二人は近くにいる女の子にちょっかいをかけられたら絶対その相手をぶっ飛ばすと思う。
乾いたタオルを取ると、姫様の体を丁寧に拭いていく、姫様はなんだか恥ずかしそうにしているけど、これも私の仕事の一部だと思うからやらせてもらう。
体をふき終えると姫様はもう一度下着を穿いて服を着込み、それから靴下を履いてから靴を履き、そして仕切りの外に出る。
リィレさんと私で仕切りを片付け、三人で撤収する。
王女軍の陣に入ってすぐのところに、ワーウルフがハロルドさんと向き合って何かを話していた、ワーウルフの方の表情は険しく、ハロルドさんの方は困った顔をしている。
私たち三人が近づいていることに気付くと、ワーウルフの方はすぐにこっちに寄ってきた。
「王女、私はあの男が気に入らない。」
ゲラルの陣営に向けてワーウルフが爪の一本を向ける。
「ゲラルのこと……でしょうか。」
「そう、あの男は覚えてないだろうが私はあいつに会ったことがある。」
「会ったこと?」
姫様がワーウルフに聞き返すと、今度はハロルドさんが
「はい、彼女……レティシエルが話してくれた限りでは、二十二年ほど前のベルトラ平原での大反乱に彼女も加わっていて、その戦場でゲラルに会ったそうです。戦場にいた魔物を捕まえていたと言ってました。」
「あの男は魔物を道具としか思っていない、非常に魔物に敵対的。」
レティシエルというらしいワーウルフが、ハロルドさんの発言に付け足すように言う。
少なくとも、彼女はゲラルの一行が味方に加わることに関しては反対みたいだ。
「僕たちが魔物と友好的である以上、魔物と敵対的な彼らと同行することに抵抗を抱く者も少なくありません。そしてまだあくまで可能性でしかありませんが、協力関係の維持が不可能だと僕が判断した場合には………」
「同盟を破棄し、クルツの住民は全員帰還する、ということですね。」
気まずい空気があたりを包む、ゲラルの軍が加わっただけでまさか一気にここまで状況が悪くなるとは思わなかった。
やっぱり私はどこかで複雑に絡んだ利害関係を甘く見ていたんだろう。
「同盟の破棄というよりも、領主代行の僕やネリス、父に指示を受けたランスを除けば自由意思で参加している人です。覚悟がない人は少ないですが、クルツに帰るのも本人の意思に任されるから嫌気がさせば抜け出す人も出るでしょう。」
ハロルドさんはあくまで冷静にそう説明する、言いたいことは分かるし、その危険が身近に迫っていることも納得できる。
「ハロルドさーん!」
空から声がしたかと思ったら、ネリスさんがこっちに向かって文字通り「飛んで」来る。
スカートが翻らないように抑えながら私たちの前に着地すると、ネリスさんは青ざめた表情のまま、
「ハロルドさん! ああ丁度良かった姫たちも! 急いで来てください!」
と言ってまた空を飛び始める。
「…………」「…………」「…………何かあったんですね。」
すぐにネリスさんの飛んで行った方角に向かって走り出すと、数人の男に取り押さえられたランスさんと、その少し離れたところで兵士に守られるゲラルがいた。
ゲラルの頬は分かりやすいくらいに腫れている、しかもよく見ると二人の間の地面には歯が一本転がっている。
「うっわぁ……」
ランスさんがゲラルを殴って、その結果ゲラルの歯が一本折れた。
ランスさんが殴った理由までは分からないけれど、殴ったのは間違いないだろう。
「貴様! この私に暴力をふるうとは何のつもりだ!!」
「アンタこそ人の女を金で買うとかわけのわけんねぇこと言ってんな!」
周囲の人間をともすれば引きずってまたゲラルに殴りかかりそうな勢いでランスさんはゲラルを怒鳴りつける、ものすごく怒っている、それこそ殺意すら窺えるほど。
金で買うって表現から察するにランスさんの恋人のシェンリさんかクリムさん、もしくはその両方を金を払ってやるから譲れとでも言われたんだろう。
「何が不服なのだ! 二匹で百万だぞ、魔物奴隷の相場からしたら倍額近い!!」
「金の問題じゃねぇって言ってんだよ頭ン中に馬糞でも入れてんのか!!?」
頭の中に馬糞なんて聞いたこともない暴言だけど、かなり頭に来てるらしい。
「ああ………最悪のパターンに………」
周囲の空気もかなり険悪になっていて、今にも殺し合いに発展しそうな殺気があたりに充満している、現にランスさんを抑えてる人たち以外の多くの人が何かあったらすぐウォード軍に手を出せるよう武装している。
この状況を治めるのはかなり難しいだろう、
「ランスは僕とネリスで抑えますから、姫様はゲラル男爵を説得……あれ?」
ハロルドさんが首を傾げ、辺りを確認する。
何をしてるのかと私も周囲を見回して、姫様が消えていることに気付いた。
ぱしん
乾いた音は、騒動の中心付近で起こった。
誰もが一瞬の躊躇もなくもう一度同じ方向に振り向くと、明らかに手を振りぬいたと想像することが可能な体勢で立っている姫様と、
護衛に守られながら頬を叩かれ呆然とした顔のゲラルがそこにいた。
誰も何も言えず動けないまま、気持ち悪いくらい静まり返って次の音を待つ時間は多分十秒ぐらいだと思う、体感ではやたら長く感じたけどそんなに時間は経たなかったはずだ。
「恥を知りなさい、ゲラル。」
静かに、しかし強い怒気を孕んだ声で姫様が言う。
「他者の家族を強引に奪い、あまつさえそれが金で許されると思い込む傲慢な態度。自らの益を考え他を省みぬ行い。貴方にはほとほと失望しました。」
すっと息を吸い込み、そして姫様は最後に
「領地に帰りなさい、貴方もあなたの軍も、必要ありません。戦争が終わり次第財産をすべて没収の上真っ先に流してあげますから楽しみに待ちなさい。」
そう言って姫様が立ち去ろうとすると、どうやらゲラルも自棄になったらしく、
「あの小娘をひっ捕らえろ! 儂が直々に奴隷に調教してくれる!!」
そう大声で周囲の兵士に命令した、それに呼応するかのように動いたのはウォード軍ではなく、王女軍、中でもクルツの集団だった。
姫様を守るように一気に十数人が躍り出て、ウォード軍の前衛たちと衝突する。
数人は連携で、もう数人は個人技だけで相手を倒す、やっぱり戦力ならクルツ軍の方が上みたいだ。
「ったくもー! 何なんだろうね一体さぁ!」
ハロルドさんもうんざりした顔でゲラルの部下たちをなぎ倒している、そのハロルドさんの左わきをすり抜けるようにランスさんが敵陣に向かって飛び込んでいく。
「このまま駐屯地まで攻め上がる! クリムとシェンリが連れて行かれた!」
「待てランス! 一人で突っ込むな!」
ハロルドさんのその言葉を無視して、ランスさんは魔法で作り出したと思われる小銃を片手にウォード軍の陣地に向かっていく。
私の仕事は姫様の護衛だけれど、思わず彼の後を追っていた。
少し後ろをハロルドさんもついてくるのがわかった。
ランスさんは目についた敵兵を誰彼かまわず銃撃しながら一直線に進行する、撃たれた相手はかなり派手に吹っ飛んでるけど死んではいないみたいだ。
敵の集団がランスさんを囲んだ、しかしランスさんは構わず正面の相手の懐に潜り込むと銃身で殴りつけ、さらに男の頭を蹴り、周囲の男たちにも発砲した。
何と言うか圧倒的、敵の数が多いとかそんなの全く問題じゃないと言わんばかりになぎ倒してランスさんはどんどん先に進んでいく。
「ランス! 落ち着けガス欠になるぞ!」
ハロルドさんの発言とほぼ同時に、近づいてきた敵を銃撃しようとランスさんが銃を構えて、引き金を引く。けれど、銃身から放たれるはずの「何か」が今度は出なかった。
驚きに目を見開いたランスさんに向かって、撃たれないことに安心した敵が切りかかる。
ごぉっ
私の頭の横を通り過ぎた何かがランスさんを切ろうとしていた男の頭にぶつかる。
からころと音を立てて棒が落ちるのとほぼ同時に、男も倒れる。
ランスさんはというと、ショックのあまりかその場に座り込んでいた。
慌てて駆け寄ってみたけど、気づいてないみたいに反応がない。
「ランス、怪我してない?」
ハロルドさんも追い付いてきた、棒を回収しながらランスさんに声をかける。
王女軍の面々も攻め込んできているからか、戦場の真ん中にいるはずの私たちに攻撃が来ることはない。
「…………してない。」
「うん、ならいいね。キサラギ、そこ退いて。」
言われたとおり私が退くと、ハロルドさんが棒を振りかぶり、ランスさんの頭を力いっぱい殴りつけた。
「ちょっと! ハロルドさんいったい何なさってるんですか!?」
「キサラギは黙ってて。ランス、頭冷えた?」
私に対して一言だけ告げてから、冷えるどころか頭から出血しているランスさんに向かって怒気のこもった眼で訊ねる。
「………ああ……大丈夫だ。」
そう言って立ち上がろうとしたランスさんを、ハロルドさんが蹴ってまた転ばせる。
「大人しくしてること、頭に血が上って気づいてないかもしれないけど顔が真っ青だよ。」
「でも、シェンリとクリムが!」
「二人のことを思うんならじっとしてろって言ってるんだよ!!」
食って掛かろうとしたランスさんに向かい、ハロルドさんが声を荒げて怒鳴りつける。
「その状態で無茶して怪我でもしてみろ、それこそ死んでみろ。あの二人がどんな顔すると思う……」
その言葉にランスさんは答えず、座り込んだまま目線を下に向けた。
「すまん………」
「わかったなら結構、ここで待ってろ。キサラギはまた暴走しないように見張ってて。」
言われたとおりに私はランスさんの隣に腰を下ろす。
ハロルドさんはまた戦場に駆け込んでいった、戦場と言ってももう戦意のない相手を捕縛する作業が中心だから戦闘らしい戦闘はほとんど行われていない。
「意外でした、ランスさんがあんな無茶をするなんて。」
「そうかい。」
隣のランスさんに声をかけるけど、返事は一言だけ。
「お前だって無茶くらいするだろ、ソラが酷い目にあってるときには特に。」
「は!?」
「気づいてないと思ってたのか? お前ソラのこと好きなんだろ?」
湯気が出そうなほどに顔が赤くなるのを感じた、まさかこの人にまで気づかれていたとは思わなかった、ほとんどというか全く会話した記憶はないのに。
「とりあえず思い出だけでも貰っとけ、それくらいなら罰は当たらん。」
「思い出って……」
「寝たり。無理ならキスとか」
頭から蒸気が出てないかと思うほど顔が熱くなる。
ランスさんはあまり表情を変えずに私のことを見てる、憎たらしいほど何の感慨も抱いてなさそうな表情だ、ここまで人の心を乱しておきながら。
「ランスがキサラギ真っ赤にしてる。」
「お仕置きが必要かにゃ?」
背後からした声にランスさんが振り向くと、そこにはシェンリさんとクリムさんが立っていた、二人とも怪我はしてないようで、私を困らせているランスさんを何やら冷たい目で見ている。
「おい、これにはいろいろ事情があってだな。」
「聞かない。」「浮気夫の言い訳を聞くほど心広くないにゃぁ」
二人はそう言って、ランスさんを抱えて連行していった。
あとに残された私は、
「思い出………か……」
ランスさんが遺した言葉を、ひとり呟いていた。
12/02/06 22:41更新 / なるつき
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