第二話 見抜く
「…………はい?」
「彼女」は何を言っているのか分からないと言った顔で僕を見る。
けれど僕には、「彼女」がずっと僕が思い続けてきた「ネリス」ではないことは分かった、十年来の半ストーカー、舐めてもらっては困る。
確かに彼女はまっさら僕の記憶にあるネリスと同じだ、裸まで見たことはないけど、服から分かる輪郭と彼女の手触りが一致したから疑いようもない。
けれども、「彼女」が「ネリス」だったら起きるはずのないことがある。
「ネリス」の性格上、夫を置いて他の男と交わるなんてこと天地がひっくりかえっても夫に先立たれてもないし、控えめに言っても好かれていなかった僕のところになんて絶対来ない。
魔物の領主一家の長女と人間の領主一家の二男と言う間柄上、「ネリス」とふれあう機会も多かった分そのことはよく理解できている。
ましてやセックスを楽しむなんて絶対あり得ない。
「もう一回言うよ、君はネリスじゃないよね?」
確信を持って、確認する口調で彼女に言うと、彼女は黙ってしまう。
「……大体今の状況から、君が何なのかは予想できるよ、僕に対する返事に困る理由もね。」
僕は、二か月ほど前に十年来恋し続けてきた少女に振られた。
そして、その気持ちに踏ん切りをつけた気になったところで、「彼女」はあらわれた。
それもそっくりそのまま、僕の記憶の中にあったネリスの姿で。
それも、僕に執心した状態で。
そんな状況に対して納得のいく答えと言えば一つしかない。
だから確信を持って言うことができる。
「答えられないのは、当然だね。君は僕の記憶を知ってる、『ネリス』ならウソをつくときにどんな行動をするかわかる、そして抑えられない。だからどう言っても『本当はネリスじゃない』君は自分の正体を暴露してしまう。」
女性に振られた哀れな男の記憶を読むことができて、
他者を能力に至るまで完璧に模写することができて、
その分、その他者に振り回される結果も招いてしまう魔物。
そんな魔物なんて一種類しか存在しない。
「君は、ドッペルゲンガーだろう。」
確信を持って、僕は目の前の「彼女」に言う。
「彼女」は少しだけどうこたえるのか悩んでから、
「……そうです、私はドッペルゲンガー、思い続けていたネリスさんに振られる形になったあなたに引き寄せられてきたんです。名前は、イリヤーナ。」
そう答える。
「ネリスに振られたのは割と前だけど、その間君はどうしてたの?」
僕は率直な疑問をイリヤーナに聞いてみる。
何せ僕がネリスに振られたのは二カ月も前の話だ。
彼女が僕の目の前に現れたのは、今日のこと。
負の気を感知できる距離だったなら、二カ月かかるとは思えない。
「……陰でこっそりあなたのことを見てました。」
「どのくらい前から?」
「五十日ほど前です……」
その間ずっと見られてたのに気付けなかったんだ、僕……
改めて自分の注意力のなさを思い知らされる。
けどドッペルゲンガー相手ならそれも当然なのかな? 特殊な魔物だし。
「その間は、何もしてなかった?」
「………何度かあなたのお部屋に入り込んで、ベッドの匂いをクンクンしたり…気付いてませんか……エッチな小説…一冊消えてますよ?」
そう言えばアレミネルさんのエロ小説「亀頭門」がなくなってた気がする。
って言うかそれ普通にストーカーですよイリヤーナさん。
僕だって半ストーカーだけど彼女ほどあからさまではないと思う。
「あ、イリヤーナって言わなくても、イリヤで良いですよ。」
ネリスの見た目を保ったまま、イリヤーナは言う。
「じゃあそうする。……ところでさ、その姿を保ったまま会話されるのは僕としては……」
まだ失恋の傷が癒えていないことを再認識した僕に、その姿のまま会話されるのは辛い。
「できれば」
「絶対、イヤです!」
僕が全部の言葉を言いきるよりも前に、イリヤは苦虫をかみつぶしたような顔をして言った。
「まだ僕何も…」
「言わなくても分ります! 元の姿に戻ってほしいって仰るんでしょう! そんなの絶対イヤです! たとえロナルドさんに言われたって絶対戻りません!!」
とんでもない剣幕で、イリヤは僕の言葉を遮りながら言う。どうして元の姿に戻るのを拒むのかは分からないけど、そこまで言うほどいやなことに変わりはないようだ。
「………帰ります。」
イリヤはサキュバスの翼を広げると、窓を開いてそこから飛び立ってしまう。
「………何なんだよ…」
その瞬間に振り向いて僕と目があった時、彼女はとても悲しそうな顔をしていた。
「………ってことがあったんです。」
夜が明けて出勤した僕は、直属の上司でもある父さんに、昨晩のことを話していた。
「当然の反応だな。」
父さんは僕の話を全部聞いたうえで、そんなことを言う。
「ドッペルゲンガーは、愛されているのが写し身の姿だと理解してる。そして彼女らは本当の姿の自分が大嫌いだ、だから嫌われることを恐れて『写し身としての自分、相手の理想の恋人』に徹しようとする。」
父さんは書類と格闘しながら、そんな風に淡々と言う。
父さんは無口な性分で必要なことしか言わないけど、言う必要のあることが多いならばそのときだけはちょっと饒舌になる。
そうだった。
ドッペルゲンガーはそう言う魔物だった。
自分は心から相手のことを愛しているけど、相手が愛しているのは真実の自分じゃないから写し身に徹する、ある意味完全な「尽くすタイプ」
その彼女らに向かって面と向かって「本当の姿を見せてほしい」なんてタブーだ、絶対に彼女らに言ってはいけない言葉だ。
本当の姿を見せられるのなら見せたいだろう。
だけれども、本当の自分を見せるのが怖かったからあの姿で来たんだ。
そんなことも分からないまま、僕は彼女を傷つけてしまった。
せっかく彼女は、僕を慰めようとしてくれていたのに。
「今度会ったら謝っておけ。」
完成した書類をファイリングしながら、父さんは言う。
確か弟のランスが統括を務めている南部開発局からの報告書だ。
「南部はどうなってます?」
話題を切りかえるために、僕はそう言った。
「……どう?」
言いたいことの意味が良くわからないとか、そう言う本当に聞き返す必要のある時にしか父さんは聞き返すことをしない。
「何か真新しいことがあったとか、あとどのくらいで開拓作業が終わるとか。」
「海に繋がる洞窟が発見された。メロウが住み着いてる、名はコーラル。」
「へぇ……」
そう言えば山や崖が続いてるせいでクルツから歩いて行くことは困難とはいえ、結構海に近いんだっけ。
そのうち海にまで進出できないかとちょっと思ってるけど、ルビーさんやツィリアさんが上空から確認してきた限りではそれは難しいんだそうだ。
「塩不足の解決に役立つかと思われたが、色々あって使用は禁止だ。」
クルツにある塩の大部分は、陸地の一部でたまに発見されている岩塩がほとんど。そのため、クルツの塩不足は年々深刻になって行くと予想されている。
「海に行けるようになればいいんだが。」
「そうですね。」
地理的には海に近くても、洞窟内にしか海に行ける場所がない。
塩が足りないことは人の生活に直結することだからできれば早くどうにかするべきだと思われているけれど、そのどうにかする手段が今のところない。
と、僕が少し考え事をしていると、父さんが棒を投げた。
ガゴォオオオオオオン
一直線に事務机の一つに飛んで行き、当たった瞬間大きな音を出す。
領主館で働いていたすべての役人の視線が、事務机に集中する。
しかし父さんは悔しげな顔をして、
「逃げたか。」
とつぶやいた。
「え? え? ぇええええ?」
父さんはすぐに歩いて棒を回収する。
「逃げたって?」
「机の下に誰かがいた。」
また机に戻ってきた父さんが、当たり前のように答える。
「それってもしかして……」
「だろうな。」
イリヤが、仕事場に来て僕を見ていた?
今まで父さんがこんな反応を示さなかったってことは今までは来ていなかったはずなのに、どうして今頃になってここを訪れる必要ができたんだろう。
「……そう言えば、昨日は満月だったな。」
「それがどうか?」
「……いや。」
呆れたような眼をして、父さんはまた事務仕事に戻った。
その晩、僕は何をするでもなくベッドの上で横になっていた。
そういえば、テリュンの到来以降、このクルツには人が増えた気がする。
それも人間ばかり。
と言っても高々五人だからそんなに多くないのかもしれない、創立期には月に百人以上移住してきたこともあったって話も聞いている。
いつもなら、僕はもう眠っている時間だ。
なのにどうして眠れないのだろう。
そういえば、イリヤが来たのもこんな時間だった。
「……僕はイリヤに会いたいのか?」
不思議とそんな結論に達してしまう。
というか、それ以外の理由が思い当たらない。
それより気になることがある。
彼女は、本来ならこのクルツにいないはずの魔物だ。ドッペルゲンガーは誰にも気づかれることなく、気付いたら既に其処にいる魔物。だから、ここの住民の中で彼女の存在を知っているのは僕と父さんだけ。
ならば、今この時彼女はどうしているだろう。
誰にも知られないように身を隠しているんだろうか。
誰かのもとに身を寄せているんだろうか。
考えても仕方のないことだとわかっているはずなのに、僕は考えていた。
そんな風に考える理由には、一つだけ心当たりがある。
『お前は優しい奴だ、ハロルドほど万能じゃないし、ランスみたいに手先が器用で賢くもないけど、そのことだけは俺が保障してやる。』
昔、父さんが僕に言ってくれた言葉だった。
もしかしたら、人間の領主に一番向いているのは僕かもしれないとも言ってくれていた。
けれど父さんの意見は間違っている。
僕は違う、優しい人間じゃない。
ただ自分には何もないと知っているからこそ、人から求められることを欲していた。自分にも変わらずあるはずの感情にすがっていた。
それが分かっている、それを認識してしまっている。
「……僕には何にもないんだ。」
自分の手で手に入れられたものは何もない。
愛しいと思っていた少女にも、結局最後まで振り向いてはもらえなかった。
僕を慰めに来てくれたはずのイリヤも、不用意な言葉で傷つけてしまった。
今僕の周りにあるものだって、父さんが用意してくれたものばかり。
「そもそもネリスに向けていた感情だって、本当に愛情だったのかすら疑わしいじゃないか。」
他でもない彼女の苦しみを取り除いてあげられたらと願った、彼女に幸せを与えて、彼女から幸せを与えられる人間になりたかった。
それはもしかすると、必要とされたいという感情があっただけかもしれない。
彼女の性質にその可能性を思っていただけかもしれない。
ただそれを愛だと勘違いして、一人舞いあがっていただけかもしれない。
『そんなこと、ありません。』
どこかから、聞き覚えのない声がした。
素朴で大人しい感じの、良く通る声。
周囲の様子をうかがうけど、誰もいない。
「誰だい?」
虚空に向かって声をかける。
『イリヤです、こっちが本当の声、姿は見せられないですけど。ロナルドさんの後ろの壁越しに話しかけてます。』
声の出所を教えられると、確かにそこから声がしている気がする。
「いたんだ、気付かなかった。」
壁の向こうと言われても、僕が背中を当てている壁の向こうに足場はなかったはずだけど。
「そんなことないって、どう言うこと?」
『……ロナルドさんの気持ちは、本当のものです。本心からネリスさんを愛していたから、だから彼女に必要とされたいと思ったんです。私が保証します。』
壁の向こうから、イリヤは懸命に僕の気持ちについて訴える。
他の誰かに自分の思いについて自分に向けて語られるという事態はかなり妙で違和感を覚えたけど、そういえば彼女は僕の記憶を読めるんだった。
それに、失恋の感情に引き寄せられて彼女は僕のところに来たんだから、その気持ちが偽りの物なら彼女の存在も偽りになってしまう。
けれど、彼女は辛いだろう。
僕が思っているのは自分ではないと知っている。
僕が思い続けてきて、今も吹っ切れていない女の子に向けた気持ちを、僕を好いている本人がわざわざ口にすることは、きっととても辛いと思う。
それなのに、彼女は僕を励ますためにそれを言いに来た。
「……ねぇイリヤ。」
『なんでしょう。』
「君は、どうしてそんなに僕にやさしいの?」
イリヤの声が黙る。
永遠とも感じられそうなほど重苦しい沈黙。
それを破るのは、
『……何もないからだと思います。』
イリヤの声だった。
『……私は、ロナルドさんに向けた感情以外にどんなものも持っていません。本当に私は空っぽです、だから必死になって、持っている感情を確認し続けたいんです、それがなかったら、イリヤである私自体が壊れてしまうかもしれない、消えてしまうかもしれない。それが、怖いんです。』
切ない声でイリヤは言う。
僕は、彼女の気持ちが良くわかった。
何もないから、だからこそ一つの感情にすがる。
それがなければ、自分を失いそうで怖いから。
「あのさ、イリヤ。」
『はい。』
「もっと、君と話をしたい……だからできれば、また来てくれないか?」
『はい、喜んで!』
そうして、その日の話は終わった。
「彼女」は何を言っているのか分からないと言った顔で僕を見る。
けれど僕には、「彼女」がずっと僕が思い続けてきた「ネリス」ではないことは分かった、十年来の半ストーカー、舐めてもらっては困る。
確かに彼女はまっさら僕の記憶にあるネリスと同じだ、裸まで見たことはないけど、服から分かる輪郭と彼女の手触りが一致したから疑いようもない。
けれども、「彼女」が「ネリス」だったら起きるはずのないことがある。
「ネリス」の性格上、夫を置いて他の男と交わるなんてこと天地がひっくりかえっても夫に先立たれてもないし、控えめに言っても好かれていなかった僕のところになんて絶対来ない。
魔物の領主一家の長女と人間の領主一家の二男と言う間柄上、「ネリス」とふれあう機会も多かった分そのことはよく理解できている。
ましてやセックスを楽しむなんて絶対あり得ない。
「もう一回言うよ、君はネリスじゃないよね?」
確信を持って、確認する口調で彼女に言うと、彼女は黙ってしまう。
「……大体今の状況から、君が何なのかは予想できるよ、僕に対する返事に困る理由もね。」
僕は、二か月ほど前に十年来恋し続けてきた少女に振られた。
そして、その気持ちに踏ん切りをつけた気になったところで、「彼女」はあらわれた。
それもそっくりそのまま、僕の記憶の中にあったネリスの姿で。
それも、僕に執心した状態で。
そんな状況に対して納得のいく答えと言えば一つしかない。
だから確信を持って言うことができる。
「答えられないのは、当然だね。君は僕の記憶を知ってる、『ネリス』ならウソをつくときにどんな行動をするかわかる、そして抑えられない。だからどう言っても『本当はネリスじゃない』君は自分の正体を暴露してしまう。」
女性に振られた哀れな男の記憶を読むことができて、
他者を能力に至るまで完璧に模写することができて、
その分、その他者に振り回される結果も招いてしまう魔物。
そんな魔物なんて一種類しか存在しない。
「君は、ドッペルゲンガーだろう。」
確信を持って、僕は目の前の「彼女」に言う。
「彼女」は少しだけどうこたえるのか悩んでから、
「……そうです、私はドッペルゲンガー、思い続けていたネリスさんに振られる形になったあなたに引き寄せられてきたんです。名前は、イリヤーナ。」
そう答える。
「ネリスに振られたのは割と前だけど、その間君はどうしてたの?」
僕は率直な疑問をイリヤーナに聞いてみる。
何せ僕がネリスに振られたのは二カ月も前の話だ。
彼女が僕の目の前に現れたのは、今日のこと。
負の気を感知できる距離だったなら、二カ月かかるとは思えない。
「……陰でこっそりあなたのことを見てました。」
「どのくらい前から?」
「五十日ほど前です……」
その間ずっと見られてたのに気付けなかったんだ、僕……
改めて自分の注意力のなさを思い知らされる。
けどドッペルゲンガー相手ならそれも当然なのかな? 特殊な魔物だし。
「その間は、何もしてなかった?」
「………何度かあなたのお部屋に入り込んで、ベッドの匂いをクンクンしたり…気付いてませんか……エッチな小説…一冊消えてますよ?」
そう言えばアレミネルさんのエロ小説「亀頭門」がなくなってた気がする。
って言うかそれ普通にストーカーですよイリヤーナさん。
僕だって半ストーカーだけど彼女ほどあからさまではないと思う。
「あ、イリヤーナって言わなくても、イリヤで良いですよ。」
ネリスの見た目を保ったまま、イリヤーナは言う。
「じゃあそうする。……ところでさ、その姿を保ったまま会話されるのは僕としては……」
まだ失恋の傷が癒えていないことを再認識した僕に、その姿のまま会話されるのは辛い。
「できれば」
「絶対、イヤです!」
僕が全部の言葉を言いきるよりも前に、イリヤは苦虫をかみつぶしたような顔をして言った。
「まだ僕何も…」
「言わなくても分ります! 元の姿に戻ってほしいって仰るんでしょう! そんなの絶対イヤです! たとえロナルドさんに言われたって絶対戻りません!!」
とんでもない剣幕で、イリヤは僕の言葉を遮りながら言う。どうして元の姿に戻るのを拒むのかは分からないけど、そこまで言うほどいやなことに変わりはないようだ。
「………帰ります。」
イリヤはサキュバスの翼を広げると、窓を開いてそこから飛び立ってしまう。
「………何なんだよ…」
その瞬間に振り向いて僕と目があった時、彼女はとても悲しそうな顔をしていた。
「………ってことがあったんです。」
夜が明けて出勤した僕は、直属の上司でもある父さんに、昨晩のことを話していた。
「当然の反応だな。」
父さんは僕の話を全部聞いたうえで、そんなことを言う。
「ドッペルゲンガーは、愛されているのが写し身の姿だと理解してる。そして彼女らは本当の姿の自分が大嫌いだ、だから嫌われることを恐れて『写し身としての自分、相手の理想の恋人』に徹しようとする。」
父さんは書類と格闘しながら、そんな風に淡々と言う。
父さんは無口な性分で必要なことしか言わないけど、言う必要のあることが多いならばそのときだけはちょっと饒舌になる。
そうだった。
ドッペルゲンガーはそう言う魔物だった。
自分は心から相手のことを愛しているけど、相手が愛しているのは真実の自分じゃないから写し身に徹する、ある意味完全な「尽くすタイプ」
その彼女らに向かって面と向かって「本当の姿を見せてほしい」なんてタブーだ、絶対に彼女らに言ってはいけない言葉だ。
本当の姿を見せられるのなら見せたいだろう。
だけれども、本当の自分を見せるのが怖かったからあの姿で来たんだ。
そんなことも分からないまま、僕は彼女を傷つけてしまった。
せっかく彼女は、僕を慰めようとしてくれていたのに。
「今度会ったら謝っておけ。」
完成した書類をファイリングしながら、父さんは言う。
確か弟のランスが統括を務めている南部開発局からの報告書だ。
「南部はどうなってます?」
話題を切りかえるために、僕はそう言った。
「……どう?」
言いたいことの意味が良くわからないとか、そう言う本当に聞き返す必要のある時にしか父さんは聞き返すことをしない。
「何か真新しいことがあったとか、あとどのくらいで開拓作業が終わるとか。」
「海に繋がる洞窟が発見された。メロウが住み着いてる、名はコーラル。」
「へぇ……」
そう言えば山や崖が続いてるせいでクルツから歩いて行くことは困難とはいえ、結構海に近いんだっけ。
そのうち海にまで進出できないかとちょっと思ってるけど、ルビーさんやツィリアさんが上空から確認してきた限りではそれは難しいんだそうだ。
「塩不足の解決に役立つかと思われたが、色々あって使用は禁止だ。」
クルツにある塩の大部分は、陸地の一部でたまに発見されている岩塩がほとんど。そのため、クルツの塩不足は年々深刻になって行くと予想されている。
「海に行けるようになればいいんだが。」
「そうですね。」
地理的には海に近くても、洞窟内にしか海に行ける場所がない。
塩が足りないことは人の生活に直結することだからできれば早くどうにかするべきだと思われているけれど、そのどうにかする手段が今のところない。
と、僕が少し考え事をしていると、父さんが棒を投げた。
ガゴォオオオオオオン
一直線に事務机の一つに飛んで行き、当たった瞬間大きな音を出す。
領主館で働いていたすべての役人の視線が、事務机に集中する。
しかし父さんは悔しげな顔をして、
「逃げたか。」
とつぶやいた。
「え? え? ぇええええ?」
父さんはすぐに歩いて棒を回収する。
「逃げたって?」
「机の下に誰かがいた。」
また机に戻ってきた父さんが、当たり前のように答える。
「それってもしかして……」
「だろうな。」
イリヤが、仕事場に来て僕を見ていた?
今まで父さんがこんな反応を示さなかったってことは今までは来ていなかったはずなのに、どうして今頃になってここを訪れる必要ができたんだろう。
「……そう言えば、昨日は満月だったな。」
「それがどうか?」
「……いや。」
呆れたような眼をして、父さんはまた事務仕事に戻った。
その晩、僕は何をするでもなくベッドの上で横になっていた。
そういえば、テリュンの到来以降、このクルツには人が増えた気がする。
それも人間ばかり。
と言っても高々五人だからそんなに多くないのかもしれない、創立期には月に百人以上移住してきたこともあったって話も聞いている。
いつもなら、僕はもう眠っている時間だ。
なのにどうして眠れないのだろう。
そういえば、イリヤが来たのもこんな時間だった。
「……僕はイリヤに会いたいのか?」
不思議とそんな結論に達してしまう。
というか、それ以外の理由が思い当たらない。
それより気になることがある。
彼女は、本来ならこのクルツにいないはずの魔物だ。ドッペルゲンガーは誰にも気づかれることなく、気付いたら既に其処にいる魔物。だから、ここの住民の中で彼女の存在を知っているのは僕と父さんだけ。
ならば、今この時彼女はどうしているだろう。
誰にも知られないように身を隠しているんだろうか。
誰かのもとに身を寄せているんだろうか。
考えても仕方のないことだとわかっているはずなのに、僕は考えていた。
そんな風に考える理由には、一つだけ心当たりがある。
『お前は優しい奴だ、ハロルドほど万能じゃないし、ランスみたいに手先が器用で賢くもないけど、そのことだけは俺が保障してやる。』
昔、父さんが僕に言ってくれた言葉だった。
もしかしたら、人間の領主に一番向いているのは僕かもしれないとも言ってくれていた。
けれど父さんの意見は間違っている。
僕は違う、優しい人間じゃない。
ただ自分には何もないと知っているからこそ、人から求められることを欲していた。自分にも変わらずあるはずの感情にすがっていた。
それが分かっている、それを認識してしまっている。
「……僕には何にもないんだ。」
自分の手で手に入れられたものは何もない。
愛しいと思っていた少女にも、結局最後まで振り向いてはもらえなかった。
僕を慰めに来てくれたはずのイリヤも、不用意な言葉で傷つけてしまった。
今僕の周りにあるものだって、父さんが用意してくれたものばかり。
「そもそもネリスに向けていた感情だって、本当に愛情だったのかすら疑わしいじゃないか。」
他でもない彼女の苦しみを取り除いてあげられたらと願った、彼女に幸せを与えて、彼女から幸せを与えられる人間になりたかった。
それはもしかすると、必要とされたいという感情があっただけかもしれない。
彼女の性質にその可能性を思っていただけかもしれない。
ただそれを愛だと勘違いして、一人舞いあがっていただけかもしれない。
『そんなこと、ありません。』
どこかから、聞き覚えのない声がした。
素朴で大人しい感じの、良く通る声。
周囲の様子をうかがうけど、誰もいない。
「誰だい?」
虚空に向かって声をかける。
『イリヤです、こっちが本当の声、姿は見せられないですけど。ロナルドさんの後ろの壁越しに話しかけてます。』
声の出所を教えられると、確かにそこから声がしている気がする。
「いたんだ、気付かなかった。」
壁の向こうと言われても、僕が背中を当てている壁の向こうに足場はなかったはずだけど。
「そんなことないって、どう言うこと?」
『……ロナルドさんの気持ちは、本当のものです。本心からネリスさんを愛していたから、だから彼女に必要とされたいと思ったんです。私が保証します。』
壁の向こうから、イリヤは懸命に僕の気持ちについて訴える。
他の誰かに自分の思いについて自分に向けて語られるという事態はかなり妙で違和感を覚えたけど、そういえば彼女は僕の記憶を読めるんだった。
それに、失恋の感情に引き寄せられて彼女は僕のところに来たんだから、その気持ちが偽りの物なら彼女の存在も偽りになってしまう。
けれど、彼女は辛いだろう。
僕が思っているのは自分ではないと知っている。
僕が思い続けてきて、今も吹っ切れていない女の子に向けた気持ちを、僕を好いている本人がわざわざ口にすることは、きっととても辛いと思う。
それなのに、彼女は僕を励ますためにそれを言いに来た。
「……ねぇイリヤ。」
『なんでしょう。』
「君は、どうしてそんなに僕にやさしいの?」
イリヤの声が黙る。
永遠とも感じられそうなほど重苦しい沈黙。
それを破るのは、
『……何もないからだと思います。』
イリヤの声だった。
『……私は、ロナルドさんに向けた感情以外にどんなものも持っていません。本当に私は空っぽです、だから必死になって、持っている感情を確認し続けたいんです、それがなかったら、イリヤである私自体が壊れてしまうかもしれない、消えてしまうかもしれない。それが、怖いんです。』
切ない声でイリヤは言う。
僕は、彼女の気持ちが良くわかった。
何もないから、だからこそ一つの感情にすがる。
それがなければ、自分を失いそうで怖いから。
「あのさ、イリヤ。」
『はい。』
「もっと、君と話をしたい……だからできれば、また来てくれないか?」
『はい、喜んで!』
そうして、その日の話は終わった。
11/05/27 07:33更新 / なるつき
戻る
次へ