人間
暖かいものに包まれていた。
雨音。ときおり弾ける薪。
甘い芳香。
体が熱を持っていた。熱は体の各所に瘧のように蟠り、苛んでいた。全身が気だるい。
体を軋ませ、寝返りを打つ。そこで、己の伏していることに気がついた。
目を開ける。天井。梁が見える。これほどしっかりとした建物は、久しく見ていない。
羽毛の布団が体を包んでいる。湿っていた。驚くほど大量の寝汗を掻いていたようだった。
頭が茫としている。薪が、パチンと弾けた。暖炉がある。その上に、ミルクを満たした鍋が載っていた。取って飲みたかったが、変に重い体は、中々動いてはくれなかった。まず、布団を退かさねばならなかった。
布団に手をかける。退かそうとした。突然、ズキリと腕に痛みが走った。筋肉が攣ったのだ。その痛みが、急速に頭を覚醒させる。
<ここは……?>
見覚えの無い部屋だった。自分が伏しているベッド。ミルクの入った鍋を載せた暖炉。天井から吊られた灯明皿。箪笥。子供が身を縮めてやっと通れるくらいの小さな窓。簡素だが、生活感のある一室。
窓を見た。雨が、しきりに打ち付けている。向こう側には、灰色の空が見て取れる。寒そうだ。何となく、そう思った。
悪寒がした。不意にのどの奥が疼く。それは、咳となって出て行こうとした。何度か、咳き込む。力の無い咳だった。しかし、喉の疼きはそれで絶えることは無かった。繰り返すたびに、体から力が抜けてゆくようだった。
ようやく咳が止まった頃、体を動かす体力はなくなっていた。
静かになった体で、考える。何故、ここに居るのだろうか。そしてこれまでは何をしていたのだろうか。そもそも、自分は何なのか。
混濁した意識の中で、ついに何も思いつくことは無かった。記憶と言う記憶が、すっかり無くなっていた。
がちゃり、と頭上でドアの開かれる音がする。部屋に誰かが入ってきたようだ。しかし、動かせない体に確認する術は無かった。辛うじて、目蓋を開くことが出来る程度だ。
部屋に入ってきたものは、なにをするより真っ先に自分を覗き込んできた。大きな乳房。牛の角。魔物、ホルスタウロスだった。つぶらな瞳が、心配そうに見て、それから驚いたようになった。
「あらあら、目が覚めたのね。一週間も眠り続けていたのよ」
彼女は言うと、暖炉の上からミルクの入った鍋を持ってきた。
「自分で飲める?」
肯定も、否定も出来ない。体が動かなかった。
「そう。飲ませてあげるからね」
ホルスタウロスは甲斐甲斐しかった。自らが一口飲んで温度を確認すると、細い漏斗を取り出して口に咥えさせてくれた。
「少しずつ、飲んでね」
鍋が、漏斗に傾けられる。ミルクは、本当に少しずつ、注がれていった。一口、二口としずかに嚥下してゆく。濃厚で、美味であった。なによりも、温かい。ありがたかった。
腹が、激しく鳴った。そこで初めて、自分が極めて空腹であることに気がつく。ホルスタウロスは、一週間眠っていたと言っていた。一週間ぶりの食事と言うわけだ。体が貪欲に栄養を吸収してゆくのを感じる。
飲んだ先から、力がわいてくるのが分かった。ミルクを少しずつしか注いでくれないのがもどかしかった。漏斗を吐き出すと、起き上がって鍋を奪い取った。さっきまで少しも動かなかった体が、この短時間で、かなり回復していた。
「あッ」
奪い取ったミルクを、咽ることも無く、音を立てて勢い良く流し込む。ホルスタウロスは驚いたが、すぐに優しい眼になった。
「お腹が空いていたのね。よしよし」
やがて、鍋が空になった。フウ、と一息つく。生き返った風情だった。
「ありがとう」
ホルスタウロスは笑った。母性に満ちた笑みであった。
沈黙があった。礼は言ったが、他に何も見つからない。記憶が無いのだ。ホルスタウロスはニコニコ笑うばかりである。
バチン、と一際大きな音を立てて薪が弾ける。意を決した。
「あなたは、私を知っているの?」
私、と言って、思い出したことがある。私とは、女性である。そして魔物ワーラビットである。それだけが、自分に関しての唯一の持ち物だった。
「私は、ワーラビット。名前は思い出せない。何も、思い出せないの。あなたが、私のことを知っているのなら、……ごめんなさい」
それが、今のワーラビットの全てであった。ホルスタウロスは優しい目を崩さず、ワーラビットを優しく抱きしめた。
「いいのよ。何か思い出すまで、ここに居るといいわ。私はイリーナ。何でも言って。」
それが純粋な優しさであると、ワーラビットには分かった。ワーラビットは、甘えることにした。ひいては無粋ながらも、訊かねばならぬ事があった。
「私の事について、何でもいい、知っていることがあれば、教えて欲しい」
*
十字架に、赤い夕日が射していた。
夕日に十字架を隔て形作られた影の中に、一人の男があった。
影の中の、男の表情は読めない。男は俯き、十字架に傅いていた。
教会――教団の本部、ひとりの老人が、神に祈りを捧げていた。老人は全裸であった。痩せた体は、その十字架を真に背負うべき雰囲気を宿らせる。教皇、人は彼をそう呼ぶ。その瞳は殉教者のそれでありながら、見る者を安心させる優しさに満ちていた。
夕日が、徐々に傾いてゆく。やがて、十字架の影は、男と共に闇に解けていった。
男はそれでも、祈りを止める事をしなかった。
世界が、闇に包まれた。月明かりすらない、真の闇だった。
動かぬ闇の中で、依然続けられる祈りは、永遠に終わらぬかのようである。
はらり、と何一つ変わることの無い空間に、一滴の光が落ちた。
闇の中に、それは淡く輝いていた。鳥の羽のように見えたそれは、男の足下に落ちると、その力を強くした。
優しい光が男を包む。崩れることの無いその姿が、光の中に消えていった。
託宣――人々は言う。この儀式を経て、教皇は人間界に使命を発すのだ。
やがて、光が止んだ。再び舞い戻った闇の中に、動くものは無かった。
静寂が教会を包んだ。
聳える城壁に唯一設けられた跳ね橋も、今は閉じている。外界と隔絶された世界の中で、人々はそれぞれ思うままに生き、あるいは死んでゆく。
深夜。既に首都の人間で、明かりを灯す者は居ない。眠った街に活動する人の気配は既に無く、月明かりのみが路を照らしていた。
人で無いもの、あるいは獣の時間。
大通りから外れ、塵と糞尿に塗れる細い道を深く入ってゆくと、行き着く場所がある。
月明かりすらも届かぬ。社会の内にありながら打ち捨てられた、ならず者共の巣窟。
その暗がりの中に、何かを咀嚼するような、湿った音が響いている。
音は、道端に突如生じたかのような、不自然な盛り上がりから聴こえてくるようだ。時折、その音に呼気のようなものが混じっている。
甘い、腐臭が立ち込めていた。一帯に住む者の棄てた、あらゆる廃棄物がそこに蟠っているのだ。決して回収されることの無いそれらは、人に拾われ、あるいは動物たちに食われることによってその姿を消してゆく。
夜目の利く者ならば、その小山の上に動く影を認めたであろうが、尋常の視力を持つものならば、暗黒に巣くう不可視の怪物を想うだろう。
闇の世界に存在するものは、たった一つ、これだけであった。それ故に、この文明からかけ離れた野生の音は、不思議と人の呼吸の無い空間に似合っていた。
と、絶えず聴こえていた咀嚼音が、不意に止んだ。
小山の上で、何かが光る。黄色い双眸であった。人のものではない。闇に瞳孔の開ききった獣のそれだ。
それが、突然跳ねた。それは、着地と同時に走り出した。
僅かな足音。蹄か、或いは爪が石床を噛む音だ。四本足の獣のようだった。恐らくは何かを感じ取ったのだろう。だが、己の身体能力を過信したあまり、完全にその身を隠す事を怠ったのだ。それが、その獣の運命を決定した。
獣は、より暗い闇へと走り去らんとしていた。月明かりはもちろん、それに照らされた何物かが新たに照らすことすらも無い、真の闇。建物と建物の間に出来た、狭い空間。獣はそこを目指していた。足音は僅かながらも、凄まじい速度だ。
その獣を狙うように、別の闇から不意に現れた何かが走る。否、走っているかは曖昧だ。それは、足音や呼吸、その影の形も判別できぬほど、その気配を闇と同化させていた。それの動く様子を見たものがいたならば、黒い蛇が高速で動く様を思うかもしれない。
獣と、それの距離が無くなるのに、そう時間はかからなかった。水を多分に含んだ重いものが弾ける音が闇に微かに響くと、ふたつの影は消えていた。
夥しい血の匂いが、あたりに立ち込めていた。
広い、空間であった。香が焚かれている。そして、暗い。ただ暗いというものではない。僅かな明かりも許さぬ、深淵の闇。
視覚を刺激する明かりは何一つ無い。香に宿ったささやかな熱はその闇に包まれ、決して外に漏れることは無い。
空間。確かにそこは広く、間が空いていた。しかし、その場に居るものを直接包み込むように、闇が香に載せられ、質量を持ったものとしてへばりついてくる。気が狂いそうな煩わしさを持った空間であった。
強い、血の匂いがあった。香と融解することの決して無いものだ。気体としてそれらは永久に絡み合うことはない。複雑に重なり合ったそれらは、この闇を一層重いものにしていた。
されど、その匂いは空間に動かず、留まることは無い。無論、それは隙間風のためではなかった。
闇に、身じろぐ何かがある。あるかなしかの、小さな動きだ。生物が完全に動きを止める直前の、僅かな身じろぎ。
微かな呼吸の動きであった。それが、ふたつある。ゆっくりとした、極小のそれらが、その場に小さな大気の流れを形作っている。
ふたつは、長い間動かなかった。動かずに、互いを眺めている。いや、真の闇にあって、それを確認する術は、果たして、無い。しかしながら、存在しない、大気でない、さらに何も無い空間。無い事すら無い、あらゆる物質の知覚することの能わぬところで、何かが混ざり合い、その無い筈の存在が顕れていた。
見詰め合うことで、心のうちに何物も生じぬ者は居ない。それは、単に視覚の話だけではないのだ。闇にあっても、それは変わらず顕れる。
「まるで、獣よの」
ひとつが、言った。老人の声であった。その一瞬だけ、闇の中に現出する。そして、また暗黒が訪れる。この一言が何かの間違いであったかのごとき、静寂であった。
もうひとつは、答えなかった。答えぬ以上は存在しない。ただ、血の匂いのみがそこにある。
老人の声は、続けるように言った。
「託宣が、あった。儂は山の先をやる。おぬしは、分かっておるな」
老人の声の先にあるものが、不意に現出した。相変わらず、見えるものではない。しかし、確かにそれは顕れたのである。殺意――少なからず命のやり取りをしたことがある者ならばそれを名付けることが出来たかもしれない。濃厚な死の気配が、人型闇にぐっと充ちた。そう表せば、より的確だ。いずれにしても、視覚の外である。それでも、これを知覚することの出来ぬ者は恐らく居ない。それほどの意志が、この真の闇に顕れたのだ。
老人が凄まじい笑みを浮かべた。そういう気配があった。この獣を眼前にして尚居ずまいを改めぬ老人も、只者ではないと言うことだ。
広い空間が、重厚なふたつの気配に充たされていた。そして、強烈な血臭があった。香は、既に無かった。
*
「厭きたわ」
原生林。柔らかなる、大地。倒れ、死に、腐り、解けていったあらゆる生き物たちの残骸。腐葉土と呼ばれるもの。それは、長い時間をかけて積もった、命であった。時間という概念すら、持たぬものであった。
羊歯や苔が生えている。その上に、巨大な岩や樹、動物たちの痕がある。それらは皆、太古から同じように積み重なったものの上に成り立っている。豊穣の土であった。また、屍骸である。
鳥の囀りがある。木々のざわめく声がある。暖かな、木漏れ日がある。今を生きる命が、ある。それらは皆、隠すことなく一様に存在を示す。生きんとし、生きるすべてのものが、歓喜の声を上げている。耳を澄ませば、地下を流れる水脈の音すらも、感じられそうである。自然、そうとしかいえぬものたちであった。
「厭きたわ」
この豊かな自然の外に漏れるものは、存在するだろうか。否、そう、自然は返すであろう。不自然と呼ばれる人工物にせよ、それを生み出した人間というものの存在の原点は、ほかならぬ大地、つまり自然なのである。たとえ自然がそれら人工物に犯され、抹殺されようと、彼らは不満を漏らすまい。自然というものに発声器官は無いのである。それは、そのことが不要である事を示している。この自然は否定することは、決して無い。自然がそうと存在すること自体が、他ならぬ肯定の意なのである。
「厭きたわ」
自然が消えてゆく。人が巨大な建造物を創造する際、言われることである。だが、それは正しいのであろうか。自然、例えば土や樹、動物たちが消えてゆくことは、確かにあるだろう。しかし、それが本当の意味で消滅するかといえば、疑問が生ずる。視覚や感覚、さらには質量としては消えるのだろう。だがそれは形を変えたというだけのことだ。動物は人間に食われ、人間の精気と成る。その精気によって、現存の自然を捻り、新たに作り出されるのが、所謂人工物である。また、それら人工物が消滅したとして、それも自然であろう。すると、本当の意味で自然が消滅すると言うのは、恐らく、消滅したという事実すらない、真の無。つまりは宇宙すら無くなってしまうことを言うのではないか。
「厭きたわ」
如何に形を変えようと、自然はなくなることは無い。だがそれでも、人は自然、こと樹木や動物に対して、不思議な安堵感を得てしまう。それは、郷愁に近いものなのかもしれない。太古から変わらず、進化において、不要にも拘らず残されてきた官能が、自然にあるという満足感を見てしまうのだ。
「厭きたわ」
岩男、メアリー、ミラベル、ヨハン。四人は、山の中を歩いていた。緩やかな斜面を歩き続けて、もう五日目に突入しようとしていた。向かうは東。山脈の向こう側である。人の力の及ばぬ、魔物の世界である。そこに、岩男の求めるものがある。
先頭を歩く岩男の足は、獣道ですらない藪を掻き分けながらも、淀みなく動く。五日間歩いて、未だ森林限界に至る事はない。山と山の間の谷を縫うようにして歩く。水に欠くことはない。一時間程度歩行をすると、必ず一本立て、そのたびに岩男が水場に案内するか、あるいは大きな岩を退かすと綺麗な水が流れていた。無論、他の三人に水の場所は分からない。またその中に超えられる程度の小さな沢はあっても、そうはいかない大きな沢はなかった。その確実さを、ヨハンが問うて見たところ、満足する答えは返ってこなかった。山の動物、あるいは植物が水に渇くかと、つまりはそういうことらしい。三人は感心するほかに思うことはなかった。
「厭きたわ」
何度目にもなる呟きを、ミラベルが漏らす。三日目あたりから、風呂に入れないことへの不満が募り、そうぼやき続けている。四人のいずれも、常人には及びも着かぬ体力を備えているため、五日間の山行程度では疲労の片鱗も見せないが、ミラベルはただ退屈だと言う。ヨハンはミラベルがいずれ不満を漏らすであろう事を予見していたのか、苦笑するばかりであった。
「うるさいぞ、人間の女。大体、風呂に入れないくらい、なんだっていうんだ。ね、あなた」
メアリーは、ミラベルを突っぱねたのち、岩男の方を向くと熱い視線を送った。視線の行く先は、迷わず岩男の股間であった。人間も動物である限り、風呂に入らねば当然臭いが立つ。その臭いのことを、ミラベルも、メアリーも言っているのである。但し、意味合いは全く異にしていた。
メアリーが、こそこそと岩男に近づく。そして、匂いを嗅いだ。内股気味になり、自らの股間に手をやる。それら一連の流れも、この山行が始まって以来見慣れた光景だった。ヨハンとミラベルは、もう突っ込もうともしない。岩男も気付いているものの、全く相手にしていなかった。
粘着質な水分に塗れた指は、当然のように岩男に向かっていった。マーキング。こうした行為は人間より動物に近い魔物ならば当然のものである。だが、岩男は背を向けたまま、その指を躱した。岩男はメアリーの求愛を一行に受け付けようとしない。ヨハンはその様子を見て感心するしかなかった。ここまで魔物に言い寄られ、拒む自信を己は持てない。他にそんなものを持つ人間が居るとも思わない。慣れたとはいえ、気になるものは、気になる。発情したメアリーの気を受けると、頭が変になりそうだった。ミラベルもそれは同じのようで、呟くのも忘れ頬を若干赤らめている。平常でいるのは岩男だけだった。
のんびりとした、豊かな旅であった。水にも、食料にも困らない。仕事ではなく、全くの善意で岩男に協力する三人は、この自由な旅を心から楽しんだ。
山に入って、凡そ二十日。背の高い植物は、殆ど見られなくなっていた。あってもその高さは岩男の肩程度のものであり、それから採取できる木の実も、極端に量を減らしていた。無論、動物も殆ど見あたらない。ヴィンセントから譲り受けたトウモロコシ粉と乾肉のほかに、食べ物と言えば木の皮や岩塩程度のものだ。一番堪えるのは水分である。水脈が見つからないので一度引き返し、熊の毛皮で作った袋に大量の水を入れて再び登った。大量の水は恐ろしく重かった。初めは岩男とヨハンが交互に持ったものの、次第にヨハンの持っている時間が短くなり、ついには岩男が持つ事となった。
その上、気温もかなり下がってきている。雪は降らぬまでも、地面は硬く凍っており、粉を吹いた様に霜が表面を覆っていた。低い場所で仕留めた猪や熊の毛皮がなければ、凍えていたに違いない。内臓を抜いただけの毛皮も、腐らない。また腐ったとしても臭いなど気にならないだろう。岩男以外の三人は、疲労を隠せなかった。
三人のうち、最も疲労の色が濃く見受けられたのは、意外な事に魔物であるメアリーであった。少し歩いては息切れを起こし、僅かな食料を口に含んでもすぐに吐くか、胃に落としたとしても殆ど消化できずに下した。吐き、下したとしても、それはまだ栄養を含んでいる。糞や胃液に塗れた乾し肉は、岩男が食べることとなった。それを見たメアリーは胸を熱くしたが、反応するだけの気力と体力はなく、申し訳なさそうにそれを見るだけだった。メアリーは下痢や嘔吐のほか、しきりに頭痛を訴えた。脈は遅く、体温も著しく下がっている。そのか細い声に、ごろごろとした異音を聴いたとき、珍しく岩男が表情を変えた。
肺水腫――そう呼ばれているものだった。岩男はその名を知らぬまでも、経験からその存在を知っていた。肺に水が溜まり、呼吸が困難になるのだ。体全体に酸素が行き渡らなくなり、終には死に至る。加えて酸素の薄い高山である。危険は何乗にも膨れ上がった。
こうなれば、これ以上登ることは不可能である。もとより装備や体調に不完全なものが多く、すべきではなかった。本来ならば高度順応を経てから登らねばならぬところであるが、岩男は己の体のみを信じ、他を省みず無茶をした。岩男は初めて己の浅慮による他人への禍を自覚した。少なくとも、メアリーの体調が完全になるまでは、低いところでやり過ごすしかなさそうだった。
岩男は背負った体の重さを悔いた。人との関わりとは、こういうことなのだ。様々な思いが生じる中、岩男はゆっくりとした速度で、黙々と凍った土の上を歩いた。
高度を下げる毎に、メアリーの体調は良くなっていった。岩男の採取した薬草を食わせ、大量の水を飲ませると頻繁に尿をするようになり、次第に呼気の異音も消えていった。完治とはいえぬまでも、呼気が正常に戻った時点で一行は降りる事を止め、そこでしばらくキャンプを張ることとした。木の枝と羊歯で出来た簡易的なテントであったが、多少の風程度であれば、崩れる心配はなさそうだった。
キャンプ地は、寒いことは寒いが、上よりは植物があり、またささやかながら水もあった。動物がいないのは仕方が無いものの、食物に関しては草根や樹液を採ればさしたる問題は無い。だが養生のためにはやはり肉が必要不可欠であった。岩男はヨハンとミラベルに食べられる植物とその採り方を教えると、ひとり狩りをするために動物を探し下っていった。
岩男が離れてからしばらくして、メアリーが目を覚ました。気がついたミラベルが脈を取り、熱を測った。脈は速く、高熱であった。だがそれでも、低体温よりはずっと良い。ミラベルは岩男が残していった薬草をすりつぶし、トウモロコシ粉と混ぜてを水に溶かしたものをメアリーに飲ませた。今度は吐かなかった。一息ついたところで、メアリーが口を開いた。
「ごめん」
メアリーは、それきり口を結んで涙した。悔し涙であった。ミラベルは黙ってその頭を撫でた。
その晩、久しぶりに火を焚いた。メアリーが倒れ、ここまで下りて来るのに丸一日半殆ど休まずに歩き通しであったため、流石にくたびれていた。貧弱な羊歯の屋根と気持ち程度の小さな炎は、それだけで大変な安心感を抱かせた。炎を囲んだ三人は思い思いに語り合った。
山の中を、黒い颶風が走っていた。熊の毛皮である。正確には、熊の毛皮を着た人間である。人間とは思わせぬ速度と体躯が、暗い山を駆け抜ける。
岩男であった。岩男は己の体の軽さに驚いていた。いや、軽いのは体だけではあるまい。考えてみれば、本当に久々に一人になったのだ。これまではワーラビットが居て、その後すぐにヨハンミラベルと出会った。ワーラビットと暮らす以前の記憶は曖昧である。だが、この開放感には覚えがあった。
走る。跳ぶ。這う。驚くべき速度であった。四人一列に並んだ山行の五倍、十倍の速度はある。それでも、わずかな呼吸の乱れもない。岩男は歓喜した。早く獣を仕留めたい。自分の力をフルに使って、獣を捕まえてみたい。
気持ちが良い。岩男は思った。こんなに気持ちがいいのはどれくらいぶりだろうか。憶えていない。しかし、これだけはわかる。おれは獣だ。自由な獣だ。好きに山を駆け、獣を獲り、食うのだ。
素晴らしい速度で景色が流れてゆく。五感を研ぎ澄ました。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、感覚。いずれも狩猟に欠かすことの出来ぬものたち。その中に獣の気配を察知する。そして追い詰め、獲る。獲って、それから……
ふと、ここで思い至るものがあった。最高の気分に水を注されるが如き不快感。不快感? おれは何故、こんなものを抱くのか。獣を獲るそれは良い。しかし、その後が問題だった。獣を獲った後は、食うのではない。上に持ってゆくのだ。何故か。憶えている。己が弱らせてしまった、仲間のメアリーを助けるためだ。
助けるのか。何故助けるのだ。鬱陶しいあの雌を、何故助けるというのか。流れ行く景色の中、顔にあたる爽やかな風。その中で己に好意を寄せるメアリーの顔を思い描く。笑った顔、媚びた顔、怒った顔、発情した顔、病に罹った青い顔。いずれも鬱陶しいものだ。何故。何故鬱陶しいのか。
そこまで思ったところで、頭に衝撃が走った。転倒。熱い痛みが滲む。突き出した枝に気付かず、頭から突っ込んだようであった。倒れたままで、岩男は考えた。ヨハン、ミラベル、メアリー。そして、名も知らぬ、だが最愛のワーラビット。先ほど、獣だった頃の気持ちを思い出しているとき、そこへ水を注す原因となった者たちだ。開放された自由な獣は、それだけで幸福であった。だがそこに人間が絡んだ瞬間、開放感は失せた。失せ、そして鬱念が顔を出した。何故だろう。
昔を思い出す。記憶としての形がない、曖昧な感覚だけの思い出。獣であった自分。あの頃は、何も考えず、獣を獲り、山に身を任せていれば、それだけでよかった。あの頃と、何が違うのか。
虚空を眺め、岩男は深く思い悩んだ。しかし幾ら悩んだところで、何も見つからなかった。そこへ、一つの音が届いてきた。
草を掻き分ける、微かな音。岩男は殆ど反射的に、その方向へ跳んでいた。そして気がついたときには、右手が温かく湿った物の中にあった。甘い匂いが、鼻をついた。血臭であった。
見れば、大人の男ほどの鹿であった。角はなく、メスであることがわかる。メス鹿は一撃で首を貫かれ、絶命していた。その首が中途で奇妙な方向に折れ曲がっている。恐らくは即死であったろう。数度、小さく痙攣すると、全く動かなくなった。
岩男は鹿を片手で吊るし上げると、鹿の喉から右手を引き抜き、持ってきていた革の袋にその頭を突っ込んだ。血抜きである。こうすると肉が美味くなり、それでいて血液も無駄にはならない。血液が漏れないように、皮袋を紐で吊って樹に固定した。
鹿の全身を扱き、血を抜く。そのとき、鹿の腹に違和感があった。鹿の腹が、少しだけ変に膨れているのである。注意深く触る。何かが居る。直感でそう思った。鹿の腹を掴んで、そのまま裂く。裂いた腹に手を突っ込んだ。違和感の正体は、すぐに分かった。
鹿の腹から、それを抜き出した。それに伴い、内臓のいくつかも出てくる。内臓が腹からぶら下がった。
岩男はそれを見た。毛も生え揃わぬ、小さな鹿がそこにあった。岩男の手に捕まれ、小さく身じろぎする。まだ、生きているようだった。
岩男はそれの頭を咥えると、無造作に食いちぎった。胎児の肉を食うのは初めてだった。柔らかな胎児の骨は簡単に拉げた。美味い。そう思った。
"初めて食った。美味い" 岩男は首のなくなったそれを、再び見た。
――ああ、そうか。
岩男は、漸く思い至った。
――おれは、人間なのだ。
鹿の血抜きは殆ど終わっていた。岩男は鹿を分解し、血の袋とは別の袋に入れると、両方を担いで下りてきた道を登り始めた。
鬱蒼と茂る森を歩けば、踏み跡や折った枝の跡が出来る。岩男は、己がつけたそれらを辿り、キャンプへ戻ろうとしていた。
いち早く肉を持ち帰らねば。その新たに生まれた輝かしい意識の齎す焦りが岩男の注意力を疎かにした。
岩男は気付かなかった。岩男の辿る足跡、あるいは折られた枝の向かう方が皆一様ではないことに。
雨音。ときおり弾ける薪。
甘い芳香。
体が熱を持っていた。熱は体の各所に瘧のように蟠り、苛んでいた。全身が気だるい。
体を軋ませ、寝返りを打つ。そこで、己の伏していることに気がついた。
目を開ける。天井。梁が見える。これほどしっかりとした建物は、久しく見ていない。
羽毛の布団が体を包んでいる。湿っていた。驚くほど大量の寝汗を掻いていたようだった。
頭が茫としている。薪が、パチンと弾けた。暖炉がある。その上に、ミルクを満たした鍋が載っていた。取って飲みたかったが、変に重い体は、中々動いてはくれなかった。まず、布団を退かさねばならなかった。
布団に手をかける。退かそうとした。突然、ズキリと腕に痛みが走った。筋肉が攣ったのだ。その痛みが、急速に頭を覚醒させる。
<ここは……?>
見覚えの無い部屋だった。自分が伏しているベッド。ミルクの入った鍋を載せた暖炉。天井から吊られた灯明皿。箪笥。子供が身を縮めてやっと通れるくらいの小さな窓。簡素だが、生活感のある一室。
窓を見た。雨が、しきりに打ち付けている。向こう側には、灰色の空が見て取れる。寒そうだ。何となく、そう思った。
悪寒がした。不意にのどの奥が疼く。それは、咳となって出て行こうとした。何度か、咳き込む。力の無い咳だった。しかし、喉の疼きはそれで絶えることは無かった。繰り返すたびに、体から力が抜けてゆくようだった。
ようやく咳が止まった頃、体を動かす体力はなくなっていた。
静かになった体で、考える。何故、ここに居るのだろうか。そしてこれまでは何をしていたのだろうか。そもそも、自分は何なのか。
混濁した意識の中で、ついに何も思いつくことは無かった。記憶と言う記憶が、すっかり無くなっていた。
がちゃり、と頭上でドアの開かれる音がする。部屋に誰かが入ってきたようだ。しかし、動かせない体に確認する術は無かった。辛うじて、目蓋を開くことが出来る程度だ。
部屋に入ってきたものは、なにをするより真っ先に自分を覗き込んできた。大きな乳房。牛の角。魔物、ホルスタウロスだった。つぶらな瞳が、心配そうに見て、それから驚いたようになった。
「あらあら、目が覚めたのね。一週間も眠り続けていたのよ」
彼女は言うと、暖炉の上からミルクの入った鍋を持ってきた。
「自分で飲める?」
肯定も、否定も出来ない。体が動かなかった。
「そう。飲ませてあげるからね」
ホルスタウロスは甲斐甲斐しかった。自らが一口飲んで温度を確認すると、細い漏斗を取り出して口に咥えさせてくれた。
「少しずつ、飲んでね」
鍋が、漏斗に傾けられる。ミルクは、本当に少しずつ、注がれていった。一口、二口としずかに嚥下してゆく。濃厚で、美味であった。なによりも、温かい。ありがたかった。
腹が、激しく鳴った。そこで初めて、自分が極めて空腹であることに気がつく。ホルスタウロスは、一週間眠っていたと言っていた。一週間ぶりの食事と言うわけだ。体が貪欲に栄養を吸収してゆくのを感じる。
飲んだ先から、力がわいてくるのが分かった。ミルクを少しずつしか注いでくれないのがもどかしかった。漏斗を吐き出すと、起き上がって鍋を奪い取った。さっきまで少しも動かなかった体が、この短時間で、かなり回復していた。
「あッ」
奪い取ったミルクを、咽ることも無く、音を立てて勢い良く流し込む。ホルスタウロスは驚いたが、すぐに優しい眼になった。
「お腹が空いていたのね。よしよし」
やがて、鍋が空になった。フウ、と一息つく。生き返った風情だった。
「ありがとう」
ホルスタウロスは笑った。母性に満ちた笑みであった。
沈黙があった。礼は言ったが、他に何も見つからない。記憶が無いのだ。ホルスタウロスはニコニコ笑うばかりである。
バチン、と一際大きな音を立てて薪が弾ける。意を決した。
「あなたは、私を知っているの?」
私、と言って、思い出したことがある。私とは、女性である。そして魔物ワーラビットである。それだけが、自分に関しての唯一の持ち物だった。
「私は、ワーラビット。名前は思い出せない。何も、思い出せないの。あなたが、私のことを知っているのなら、……ごめんなさい」
それが、今のワーラビットの全てであった。ホルスタウロスは優しい目を崩さず、ワーラビットを優しく抱きしめた。
「いいのよ。何か思い出すまで、ここに居るといいわ。私はイリーナ。何でも言って。」
それが純粋な優しさであると、ワーラビットには分かった。ワーラビットは、甘えることにした。ひいては無粋ながらも、訊かねばならぬ事があった。
「私の事について、何でもいい、知っていることがあれば、教えて欲しい」
*
十字架に、赤い夕日が射していた。
夕日に十字架を隔て形作られた影の中に、一人の男があった。
影の中の、男の表情は読めない。男は俯き、十字架に傅いていた。
教会――教団の本部、ひとりの老人が、神に祈りを捧げていた。老人は全裸であった。痩せた体は、その十字架を真に背負うべき雰囲気を宿らせる。教皇、人は彼をそう呼ぶ。その瞳は殉教者のそれでありながら、見る者を安心させる優しさに満ちていた。
夕日が、徐々に傾いてゆく。やがて、十字架の影は、男と共に闇に解けていった。
男はそれでも、祈りを止める事をしなかった。
世界が、闇に包まれた。月明かりすらない、真の闇だった。
動かぬ闇の中で、依然続けられる祈りは、永遠に終わらぬかのようである。
はらり、と何一つ変わることの無い空間に、一滴の光が落ちた。
闇の中に、それは淡く輝いていた。鳥の羽のように見えたそれは、男の足下に落ちると、その力を強くした。
優しい光が男を包む。崩れることの無いその姿が、光の中に消えていった。
託宣――人々は言う。この儀式を経て、教皇は人間界に使命を発すのだ。
やがて、光が止んだ。再び舞い戻った闇の中に、動くものは無かった。
静寂が教会を包んだ。
聳える城壁に唯一設けられた跳ね橋も、今は閉じている。外界と隔絶された世界の中で、人々はそれぞれ思うままに生き、あるいは死んでゆく。
深夜。既に首都の人間で、明かりを灯す者は居ない。眠った街に活動する人の気配は既に無く、月明かりのみが路を照らしていた。
人で無いもの、あるいは獣の時間。
大通りから外れ、塵と糞尿に塗れる細い道を深く入ってゆくと、行き着く場所がある。
月明かりすらも届かぬ。社会の内にありながら打ち捨てられた、ならず者共の巣窟。
その暗がりの中に、何かを咀嚼するような、湿った音が響いている。
音は、道端に突如生じたかのような、不自然な盛り上がりから聴こえてくるようだ。時折、その音に呼気のようなものが混じっている。
甘い、腐臭が立ち込めていた。一帯に住む者の棄てた、あらゆる廃棄物がそこに蟠っているのだ。決して回収されることの無いそれらは、人に拾われ、あるいは動物たちに食われることによってその姿を消してゆく。
夜目の利く者ならば、その小山の上に動く影を認めたであろうが、尋常の視力を持つものならば、暗黒に巣くう不可視の怪物を想うだろう。
闇の世界に存在するものは、たった一つ、これだけであった。それ故に、この文明からかけ離れた野生の音は、不思議と人の呼吸の無い空間に似合っていた。
と、絶えず聴こえていた咀嚼音が、不意に止んだ。
小山の上で、何かが光る。黄色い双眸であった。人のものではない。闇に瞳孔の開ききった獣のそれだ。
それが、突然跳ねた。それは、着地と同時に走り出した。
僅かな足音。蹄か、或いは爪が石床を噛む音だ。四本足の獣のようだった。恐らくは何かを感じ取ったのだろう。だが、己の身体能力を過信したあまり、完全にその身を隠す事を怠ったのだ。それが、その獣の運命を決定した。
獣は、より暗い闇へと走り去らんとしていた。月明かりはもちろん、それに照らされた何物かが新たに照らすことすらも無い、真の闇。建物と建物の間に出来た、狭い空間。獣はそこを目指していた。足音は僅かながらも、凄まじい速度だ。
その獣を狙うように、別の闇から不意に現れた何かが走る。否、走っているかは曖昧だ。それは、足音や呼吸、その影の形も判別できぬほど、その気配を闇と同化させていた。それの動く様子を見たものがいたならば、黒い蛇が高速で動く様を思うかもしれない。
獣と、それの距離が無くなるのに、そう時間はかからなかった。水を多分に含んだ重いものが弾ける音が闇に微かに響くと、ふたつの影は消えていた。
夥しい血の匂いが、あたりに立ち込めていた。
広い、空間であった。香が焚かれている。そして、暗い。ただ暗いというものではない。僅かな明かりも許さぬ、深淵の闇。
視覚を刺激する明かりは何一つ無い。香に宿ったささやかな熱はその闇に包まれ、決して外に漏れることは無い。
空間。確かにそこは広く、間が空いていた。しかし、その場に居るものを直接包み込むように、闇が香に載せられ、質量を持ったものとしてへばりついてくる。気が狂いそうな煩わしさを持った空間であった。
強い、血の匂いがあった。香と融解することの決して無いものだ。気体としてそれらは永久に絡み合うことはない。複雑に重なり合ったそれらは、この闇を一層重いものにしていた。
されど、その匂いは空間に動かず、留まることは無い。無論、それは隙間風のためではなかった。
闇に、身じろぐ何かがある。あるかなしかの、小さな動きだ。生物が完全に動きを止める直前の、僅かな身じろぎ。
微かな呼吸の動きであった。それが、ふたつある。ゆっくりとした、極小のそれらが、その場に小さな大気の流れを形作っている。
ふたつは、長い間動かなかった。動かずに、互いを眺めている。いや、真の闇にあって、それを確認する術は、果たして、無い。しかしながら、存在しない、大気でない、さらに何も無い空間。無い事すら無い、あらゆる物質の知覚することの能わぬところで、何かが混ざり合い、その無い筈の存在が顕れていた。
見詰め合うことで、心のうちに何物も生じぬ者は居ない。それは、単に視覚の話だけではないのだ。闇にあっても、それは変わらず顕れる。
「まるで、獣よの」
ひとつが、言った。老人の声であった。その一瞬だけ、闇の中に現出する。そして、また暗黒が訪れる。この一言が何かの間違いであったかのごとき、静寂であった。
もうひとつは、答えなかった。答えぬ以上は存在しない。ただ、血の匂いのみがそこにある。
老人の声は、続けるように言った。
「託宣が、あった。儂は山の先をやる。おぬしは、分かっておるな」
老人の声の先にあるものが、不意に現出した。相変わらず、見えるものではない。しかし、確かにそれは顕れたのである。殺意――少なからず命のやり取りをしたことがある者ならばそれを名付けることが出来たかもしれない。濃厚な死の気配が、人型闇にぐっと充ちた。そう表せば、より的確だ。いずれにしても、視覚の外である。それでも、これを知覚することの出来ぬ者は恐らく居ない。それほどの意志が、この真の闇に顕れたのだ。
老人が凄まじい笑みを浮かべた。そういう気配があった。この獣を眼前にして尚居ずまいを改めぬ老人も、只者ではないと言うことだ。
広い空間が、重厚なふたつの気配に充たされていた。そして、強烈な血臭があった。香は、既に無かった。
*
「厭きたわ」
原生林。柔らかなる、大地。倒れ、死に、腐り、解けていったあらゆる生き物たちの残骸。腐葉土と呼ばれるもの。それは、長い時間をかけて積もった、命であった。時間という概念すら、持たぬものであった。
羊歯や苔が生えている。その上に、巨大な岩や樹、動物たちの痕がある。それらは皆、太古から同じように積み重なったものの上に成り立っている。豊穣の土であった。また、屍骸である。
鳥の囀りがある。木々のざわめく声がある。暖かな、木漏れ日がある。今を生きる命が、ある。それらは皆、隠すことなく一様に存在を示す。生きんとし、生きるすべてのものが、歓喜の声を上げている。耳を澄ませば、地下を流れる水脈の音すらも、感じられそうである。自然、そうとしかいえぬものたちであった。
「厭きたわ」
この豊かな自然の外に漏れるものは、存在するだろうか。否、そう、自然は返すであろう。不自然と呼ばれる人工物にせよ、それを生み出した人間というものの存在の原点は、ほかならぬ大地、つまり自然なのである。たとえ自然がそれら人工物に犯され、抹殺されようと、彼らは不満を漏らすまい。自然というものに発声器官は無いのである。それは、そのことが不要である事を示している。この自然は否定することは、決して無い。自然がそうと存在すること自体が、他ならぬ肯定の意なのである。
「厭きたわ」
自然が消えてゆく。人が巨大な建造物を創造する際、言われることである。だが、それは正しいのであろうか。自然、例えば土や樹、動物たちが消えてゆくことは、確かにあるだろう。しかし、それが本当の意味で消滅するかといえば、疑問が生ずる。視覚や感覚、さらには質量としては消えるのだろう。だがそれは形を変えたというだけのことだ。動物は人間に食われ、人間の精気と成る。その精気によって、現存の自然を捻り、新たに作り出されるのが、所謂人工物である。また、それら人工物が消滅したとして、それも自然であろう。すると、本当の意味で自然が消滅すると言うのは、恐らく、消滅したという事実すらない、真の無。つまりは宇宙すら無くなってしまうことを言うのではないか。
「厭きたわ」
如何に形を変えようと、自然はなくなることは無い。だがそれでも、人は自然、こと樹木や動物に対して、不思議な安堵感を得てしまう。それは、郷愁に近いものなのかもしれない。太古から変わらず、進化において、不要にも拘らず残されてきた官能が、自然にあるという満足感を見てしまうのだ。
「厭きたわ」
岩男、メアリー、ミラベル、ヨハン。四人は、山の中を歩いていた。緩やかな斜面を歩き続けて、もう五日目に突入しようとしていた。向かうは東。山脈の向こう側である。人の力の及ばぬ、魔物の世界である。そこに、岩男の求めるものがある。
先頭を歩く岩男の足は、獣道ですらない藪を掻き分けながらも、淀みなく動く。五日間歩いて、未だ森林限界に至る事はない。山と山の間の谷を縫うようにして歩く。水に欠くことはない。一時間程度歩行をすると、必ず一本立て、そのたびに岩男が水場に案内するか、あるいは大きな岩を退かすと綺麗な水が流れていた。無論、他の三人に水の場所は分からない。またその中に超えられる程度の小さな沢はあっても、そうはいかない大きな沢はなかった。その確実さを、ヨハンが問うて見たところ、満足する答えは返ってこなかった。山の動物、あるいは植物が水に渇くかと、つまりはそういうことらしい。三人は感心するほかに思うことはなかった。
「厭きたわ」
何度目にもなる呟きを、ミラベルが漏らす。三日目あたりから、風呂に入れないことへの不満が募り、そうぼやき続けている。四人のいずれも、常人には及びも着かぬ体力を備えているため、五日間の山行程度では疲労の片鱗も見せないが、ミラベルはただ退屈だと言う。ヨハンはミラベルがいずれ不満を漏らすであろう事を予見していたのか、苦笑するばかりであった。
「うるさいぞ、人間の女。大体、風呂に入れないくらい、なんだっていうんだ。ね、あなた」
メアリーは、ミラベルを突っぱねたのち、岩男の方を向くと熱い視線を送った。視線の行く先は、迷わず岩男の股間であった。人間も動物である限り、風呂に入らねば当然臭いが立つ。その臭いのことを、ミラベルも、メアリーも言っているのである。但し、意味合いは全く異にしていた。
メアリーが、こそこそと岩男に近づく。そして、匂いを嗅いだ。内股気味になり、自らの股間に手をやる。それら一連の流れも、この山行が始まって以来見慣れた光景だった。ヨハンとミラベルは、もう突っ込もうともしない。岩男も気付いているものの、全く相手にしていなかった。
粘着質な水分に塗れた指は、当然のように岩男に向かっていった。マーキング。こうした行為は人間より動物に近い魔物ならば当然のものである。だが、岩男は背を向けたまま、その指を躱した。岩男はメアリーの求愛を一行に受け付けようとしない。ヨハンはその様子を見て感心するしかなかった。ここまで魔物に言い寄られ、拒む自信を己は持てない。他にそんなものを持つ人間が居るとも思わない。慣れたとはいえ、気になるものは、気になる。発情したメアリーの気を受けると、頭が変になりそうだった。ミラベルもそれは同じのようで、呟くのも忘れ頬を若干赤らめている。平常でいるのは岩男だけだった。
のんびりとした、豊かな旅であった。水にも、食料にも困らない。仕事ではなく、全くの善意で岩男に協力する三人は、この自由な旅を心から楽しんだ。
山に入って、凡そ二十日。背の高い植物は、殆ど見られなくなっていた。あってもその高さは岩男の肩程度のものであり、それから採取できる木の実も、極端に量を減らしていた。無論、動物も殆ど見あたらない。ヴィンセントから譲り受けたトウモロコシ粉と乾肉のほかに、食べ物と言えば木の皮や岩塩程度のものだ。一番堪えるのは水分である。水脈が見つからないので一度引き返し、熊の毛皮で作った袋に大量の水を入れて再び登った。大量の水は恐ろしく重かった。初めは岩男とヨハンが交互に持ったものの、次第にヨハンの持っている時間が短くなり、ついには岩男が持つ事となった。
その上、気温もかなり下がってきている。雪は降らぬまでも、地面は硬く凍っており、粉を吹いた様に霜が表面を覆っていた。低い場所で仕留めた猪や熊の毛皮がなければ、凍えていたに違いない。内臓を抜いただけの毛皮も、腐らない。また腐ったとしても臭いなど気にならないだろう。岩男以外の三人は、疲労を隠せなかった。
三人のうち、最も疲労の色が濃く見受けられたのは、意外な事に魔物であるメアリーであった。少し歩いては息切れを起こし、僅かな食料を口に含んでもすぐに吐くか、胃に落としたとしても殆ど消化できずに下した。吐き、下したとしても、それはまだ栄養を含んでいる。糞や胃液に塗れた乾し肉は、岩男が食べることとなった。それを見たメアリーは胸を熱くしたが、反応するだけの気力と体力はなく、申し訳なさそうにそれを見るだけだった。メアリーは下痢や嘔吐のほか、しきりに頭痛を訴えた。脈は遅く、体温も著しく下がっている。そのか細い声に、ごろごろとした異音を聴いたとき、珍しく岩男が表情を変えた。
肺水腫――そう呼ばれているものだった。岩男はその名を知らぬまでも、経験からその存在を知っていた。肺に水が溜まり、呼吸が困難になるのだ。体全体に酸素が行き渡らなくなり、終には死に至る。加えて酸素の薄い高山である。危険は何乗にも膨れ上がった。
こうなれば、これ以上登ることは不可能である。もとより装備や体調に不完全なものが多く、すべきではなかった。本来ならば高度順応を経てから登らねばならぬところであるが、岩男は己の体のみを信じ、他を省みず無茶をした。岩男は初めて己の浅慮による他人への禍を自覚した。少なくとも、メアリーの体調が完全になるまでは、低いところでやり過ごすしかなさそうだった。
岩男は背負った体の重さを悔いた。人との関わりとは、こういうことなのだ。様々な思いが生じる中、岩男はゆっくりとした速度で、黙々と凍った土の上を歩いた。
高度を下げる毎に、メアリーの体調は良くなっていった。岩男の採取した薬草を食わせ、大量の水を飲ませると頻繁に尿をするようになり、次第に呼気の異音も消えていった。完治とはいえぬまでも、呼気が正常に戻った時点で一行は降りる事を止め、そこでしばらくキャンプを張ることとした。木の枝と羊歯で出来た簡易的なテントであったが、多少の風程度であれば、崩れる心配はなさそうだった。
キャンプ地は、寒いことは寒いが、上よりは植物があり、またささやかながら水もあった。動物がいないのは仕方が無いものの、食物に関しては草根や樹液を採ればさしたる問題は無い。だが養生のためにはやはり肉が必要不可欠であった。岩男はヨハンとミラベルに食べられる植物とその採り方を教えると、ひとり狩りをするために動物を探し下っていった。
岩男が離れてからしばらくして、メアリーが目を覚ました。気がついたミラベルが脈を取り、熱を測った。脈は速く、高熱であった。だがそれでも、低体温よりはずっと良い。ミラベルは岩男が残していった薬草をすりつぶし、トウモロコシ粉と混ぜてを水に溶かしたものをメアリーに飲ませた。今度は吐かなかった。一息ついたところで、メアリーが口を開いた。
「ごめん」
メアリーは、それきり口を結んで涙した。悔し涙であった。ミラベルは黙ってその頭を撫でた。
その晩、久しぶりに火を焚いた。メアリーが倒れ、ここまで下りて来るのに丸一日半殆ど休まずに歩き通しであったため、流石にくたびれていた。貧弱な羊歯の屋根と気持ち程度の小さな炎は、それだけで大変な安心感を抱かせた。炎を囲んだ三人は思い思いに語り合った。
山の中を、黒い颶風が走っていた。熊の毛皮である。正確には、熊の毛皮を着た人間である。人間とは思わせぬ速度と体躯が、暗い山を駆け抜ける。
岩男であった。岩男は己の体の軽さに驚いていた。いや、軽いのは体だけではあるまい。考えてみれば、本当に久々に一人になったのだ。これまではワーラビットが居て、その後すぐにヨハンミラベルと出会った。ワーラビットと暮らす以前の記憶は曖昧である。だが、この開放感には覚えがあった。
走る。跳ぶ。這う。驚くべき速度であった。四人一列に並んだ山行の五倍、十倍の速度はある。それでも、わずかな呼吸の乱れもない。岩男は歓喜した。早く獣を仕留めたい。自分の力をフルに使って、獣を捕まえてみたい。
気持ちが良い。岩男は思った。こんなに気持ちがいいのはどれくらいぶりだろうか。憶えていない。しかし、これだけはわかる。おれは獣だ。自由な獣だ。好きに山を駆け、獣を獲り、食うのだ。
素晴らしい速度で景色が流れてゆく。五感を研ぎ澄ました。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、感覚。いずれも狩猟に欠かすことの出来ぬものたち。その中に獣の気配を察知する。そして追い詰め、獲る。獲って、それから……
ふと、ここで思い至るものがあった。最高の気分に水を注されるが如き不快感。不快感? おれは何故、こんなものを抱くのか。獣を獲るそれは良い。しかし、その後が問題だった。獣を獲った後は、食うのではない。上に持ってゆくのだ。何故か。憶えている。己が弱らせてしまった、仲間のメアリーを助けるためだ。
助けるのか。何故助けるのだ。鬱陶しいあの雌を、何故助けるというのか。流れ行く景色の中、顔にあたる爽やかな風。その中で己に好意を寄せるメアリーの顔を思い描く。笑った顔、媚びた顔、怒った顔、発情した顔、病に罹った青い顔。いずれも鬱陶しいものだ。何故。何故鬱陶しいのか。
そこまで思ったところで、頭に衝撃が走った。転倒。熱い痛みが滲む。突き出した枝に気付かず、頭から突っ込んだようであった。倒れたままで、岩男は考えた。ヨハン、ミラベル、メアリー。そして、名も知らぬ、だが最愛のワーラビット。先ほど、獣だった頃の気持ちを思い出しているとき、そこへ水を注す原因となった者たちだ。開放された自由な獣は、それだけで幸福であった。だがそこに人間が絡んだ瞬間、開放感は失せた。失せ、そして鬱念が顔を出した。何故だろう。
昔を思い出す。記憶としての形がない、曖昧な感覚だけの思い出。獣であった自分。あの頃は、何も考えず、獣を獲り、山に身を任せていれば、それだけでよかった。あの頃と、何が違うのか。
虚空を眺め、岩男は深く思い悩んだ。しかし幾ら悩んだところで、何も見つからなかった。そこへ、一つの音が届いてきた。
草を掻き分ける、微かな音。岩男は殆ど反射的に、その方向へ跳んでいた。そして気がついたときには、右手が温かく湿った物の中にあった。甘い匂いが、鼻をついた。血臭であった。
見れば、大人の男ほどの鹿であった。角はなく、メスであることがわかる。メス鹿は一撃で首を貫かれ、絶命していた。その首が中途で奇妙な方向に折れ曲がっている。恐らくは即死であったろう。数度、小さく痙攣すると、全く動かなくなった。
岩男は鹿を片手で吊るし上げると、鹿の喉から右手を引き抜き、持ってきていた革の袋にその頭を突っ込んだ。血抜きである。こうすると肉が美味くなり、それでいて血液も無駄にはならない。血液が漏れないように、皮袋を紐で吊って樹に固定した。
鹿の全身を扱き、血を抜く。そのとき、鹿の腹に違和感があった。鹿の腹が、少しだけ変に膨れているのである。注意深く触る。何かが居る。直感でそう思った。鹿の腹を掴んで、そのまま裂く。裂いた腹に手を突っ込んだ。違和感の正体は、すぐに分かった。
鹿の腹から、それを抜き出した。それに伴い、内臓のいくつかも出てくる。内臓が腹からぶら下がった。
岩男はそれを見た。毛も生え揃わぬ、小さな鹿がそこにあった。岩男の手に捕まれ、小さく身じろぎする。まだ、生きているようだった。
岩男はそれの頭を咥えると、無造作に食いちぎった。胎児の肉を食うのは初めてだった。柔らかな胎児の骨は簡単に拉げた。美味い。そう思った。
"初めて食った。美味い" 岩男は首のなくなったそれを、再び見た。
――ああ、そうか。
岩男は、漸く思い至った。
――おれは、人間なのだ。
鹿の血抜きは殆ど終わっていた。岩男は鹿を分解し、血の袋とは別の袋に入れると、両方を担いで下りてきた道を登り始めた。
鬱蒼と茂る森を歩けば、踏み跡や折った枝の跡が出来る。岩男は、己がつけたそれらを辿り、キャンプへ戻ろうとしていた。
いち早く肉を持ち帰らねば。その新たに生まれた輝かしい意識の齎す焦りが岩男の注意力を疎かにした。
岩男は気付かなかった。岩男の辿る足跡、あるいは折られた枝の向かう方が皆一様ではないことに。
10/06/29 21:02更新 / ロリコン
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