読切小説
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木になった男エピローグ
 眼は風に曝され樫のように堅く、耳は根の如く道管が流れるばかりである。肌に貼り付くのは自然なれど、今や人であったころの名残のように、けれども果てぬ性感ばかりがあった。
 幾度目の白い季節を迎えたか、そろそろ記憶も曖昧だ。七つまでの雨と雪を数え、その後一つの落雷をもって、わたしをここに閉じ込めた張本人は、わたしを一人ここに置き忘れたまま、光と共にこの宿を去った。そのときにわたしは、申し分程度の動物性と植物性を持て余し、かわりに人間性を取り戻した。
 植物性を律するのは無論人間性にはなく、いくら人間性たるわたしが死を願うも――この苦痛は言葉にならない――、植物性たるわたしの意志はたちまちにして動物性たるわたしを満たした。そして動物性たるわたしは、彼女が残した唯一の機関をもって、彼女に捧ぐはずであったものを虫や動物たちに、惜しみなく与えた。わたしの流す甘い汁は止めどなく、そして自然に吸収されていった。わたしの汁を啜った甲虫が夜鷹に喰われ、遥か力尽きた夜鷹は異国の土に解けていった。わたしはそうして大地に染み渡っていった。しかしこうした感覚は動物性たるわたしではなく、人間性たるわたしをある種叙情的な心持ちにしていった。
 動物性たるわたしは、甘い汁の流れるのに合わせて、わたしに動物的な快感をもたらした。それはかつて彼女がわたしに与え続けたものと似ていた。だが彼女が初めてわたしを抱いたとき、わたしに生まれた感情はそういった動物的なものではなく、深い安堵感であった。先ず重力が失くなり、その次に体を成していた筋が解け、わたしは性とそれを感ずる意識だけの存在となった。手足といった感覚は既に失く、柔らかな温度がわたしを包んだ。微かに残るのは、彼女に包まれる安心と、彼女に溶け合う心地よさだけであった。
 幾度目の白い季節が過ぎ去り、かつてのわたしは既に無く、また彼女の存在もわたしの中に見つからなかった。わたしは暑さ寒さを感じず、人であったころの心と動物の性感を持ち、無償の生を動物たちに与え続け、動物たちは土と解けて、無償の生をわたしに捧げ続ける。生は循環し、そしてまた白い季節が訪れる。けれども今のわたしは彼女のためにはなかった。彼女の温度は次第に薄れ、わたしの人間性は増してゆくだろう。わたしは寂しさという人間性を思い出すのを最後に、考えるのを止めた。

*

 ある日、人型の木に強い風が吹きつけ、枯れ葉を巻き込んだ。
 枯れ葉は枯れ葉と擦れ合い、さらに吹いた風に擦れ、たちまちその身に熱をともした。
 熱は火を呼び、火は火事を引き起こした。
 燃え方は激しく、火元と思われる焼け跡には、一本の炭さえ残らなかったという。
10/02/19 20:55更新 / ロリコン

■作者メッセージ
タイトルの通り木になった男のエピローグです。男は幸せだったのでしょうか。

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