読切小説
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木になった男
 その存在は言葉を持たなかった。朝も夜も無く、雨の日も風の日も無く、ただひたすらに、真っ直ぐ伸ばした躰で豊沃の大地から生を吸い上げ、陽のエネルギーとともに更なる生を大地に与え続けるだけの存在であった。栗鼠がその身をくすぐるのにも、啄木鳥がその身を穿つのにも、じっと根を下ろし、耐えるだけの存在であった。生来の能力は他の動物らに比べれば大変に優れたもので、そのかわりに心を持たぬがそれに不自由は全くなかった。
 その存在はしかし、語らないことをしなかった。ただひとつの言葉を以て、動物たちに、大地に、あらゆる意味をもたらした。灼けるような夏の日には、大きな緑の葉で、動物たちを悪い日差しから守った。凍りつくような冬の夜には、新しいかけがえのない命に、大きなくすんだ色の葉で、優しく布団を掛けてやった。またその優しい布団は、春には柔らかな土として、新しい大地へと解けて新しい命の手助けとなった。その存在を、あらゆるものが必要とした。その存在はあらゆるものに、あらゆるものを分け隔てなく与えた。
 ところがある年、その存在は異質なものをその身に宿した。真っ直ぐであった躰は大きくよじれ、与え続けた愛の葉が、遂には毒を孕んだ。栗鼠は触れただけで病に息を止め、啄木鳥の嘴はすぐに腐り落ちた。毒の布団にまかれた命は土とともに永久の死を賜った。その存在はあらゆるものに分け隔てなく死を与えた。次第に誰もがその存在を忘れていった。
 長い年月が過ぎ、誰にも忘れられた頃、死の森に来訪者があった。その存在は、来訪者にも他の生き物にやったように、差別のしない死を与えようとした。ところが来訪者は、死の匂いをすぐに異変と嗅ぎつけた。来訪者はその存在に病を見た。「もうだいぶ広がってしまっている、このままでは本当にこの森は死んでしまう」来訪者はその存在に森の中心とし、先ずはその存在から救うこととした。清らかな土地より土を運び水を引き、悪い病を好んで食べる虫や植物を放した。腐った毒の皮は丁寧に剥き、かわりになる同じ仲間の綺麗な皮を巻いてやった。悪い日差しには特別に編んだ布で守り、凍える風には暖かな藁の布団でくるんでやった。かくてその存在はもとの姿に戻りつつあった。誰もがその存在を記憶の片隅より見つけ出した。
 森が生き返ると、同時に来訪者は役を終えた。その存在は、来訪者の去りゆく後ろ姿を見た。その存在は、寂しいと思った。もっと、彼と一緒に居たいと思った。彼女は、初めて世界を認識した。
 七つの季節の巡りは蜜月であった。彼女は常に彼を求め続けた。彼との交わりは彼女を豊かにした。また大地に振り撒く命も以前の比ではなかった。動物の数も大変に増えた。見たこともない鳥が見たこともない木の種を運んでくることもあった。見る間に森は広がり、豊かな大地を創造した。
 そして八つ目の春、急激に淀む暗い空より、彼女をいくつかの稲妻が、続けざまに通り抜けた。彼女は瞬く間にばらばらに裂かれた。彼女に抱かれた彼も、また同様であった。加えて彼女に同化した来訪者は、今や彼女を抜きにしては呼吸すらも満足に出来ないまでに、彼女に依存していた。『死なせてはいけない』彼女は、自らの破片をひとつ、彼に植え付けると、それきり呼吸をしなかった。それは、何もかもを誰に分け隔てなく与えてきた彼女の、最初にして最後の、彼への贔屓であった。

*
 とある山の森に、一本の人型によじれた木があった。もともとは巨木であったらしいところの、唐竹の如き裂け目より生えている若木であった。巨木のところどころに焦げ目が見えるのは、恐らくは落雷によって今の形に成ったものであろう。そこへ今の若木の種がどこからか飛来し、生長したものと見える。しかも、以前の巨木の影響か、若木は周囲の植物はさることながら、それらに比べてもすこぶる健康そうであった。艶があり、流動体生物の一つも付着していない。夏の青々とした大きな葉の作る木陰は涼しげで、しばしば疲れた動物たちの休息地であった。冬には秋のうちに落とした大きな葉で、春には萌えいずるであろう生命に優しく布団をおろした。止め処なく流れる甘い汁は、小さな生き物たちに極上のレストランを提供した。若木は、あらゆる生き物に、わけ隔てない生を与えていた。
10/02/19 20:55更新 / ロリコン

■作者メッセージ
久しぶりに覗いたらこんなものが出来ていました。これから書いていこうかな。

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