戻る / 目次 / 次へ

侍と魔女(中)

 目的地のエリザベート館は、地下都市の収まる大空隙を北東から南西に横切る銀糸川の始点に構えてある、やけに尖った意匠の目立つ西洋風のお屋敷であった。
 この辺は彦十郎もお役目の関係でなんども巡った覚えがあるが、館の住人とは余り出くわしたことが無い。
 聞き込みにやって来た時も、やけに暗い顔つきをした初老の使用人が玄関先でぼそぼそと聞き取りにくい声で受け答えするだけで、その中まで入ったことも無いし、そもそも館の主であるエリザベート某という人物がどういった手合いなのかもよく知らなんだ。
 何度か御用聞きの名目で中に押入ってみるかという意見も出たが、館の主人は帝国の大物が囲った愛妾か何からしく、奉行所の干渉を嫌った帝国が横槍を入れてくるので実現した試しが無い。
だが、それ故に怪しさはいや増した。
 やれ、もしや館の中に御禁制の品でも隠しておるのではなかろうか、それとも兇状持ちの悪党でも匿っておるのではなかろうか。
 そんなふうに勘繰る者もあとを絶たなかったが、なにせ地下町奉行所は朝から晩まで大忙しの所である、有るか無いかもよく分からぬ罪業よりも目の前にいる盗人を引っ捕える方が先決であった。
 そんな経緯もあり、エリザベート館と言うところはある意味、奉行所の連中にとってはポッカリと地図の上にある空白のような所であった。
 彦十郎も何度かその館の前を通りかかる度に「目」を開いて様子を伺ってみるも、鎮静と停滞を現す灰色がかった青白いモノが揺らめいているだけであった。およそ、人の暮らしている建物が漂わす気配ではない、それは人が離れて朽ち果てた廃墟の気配である。
 故に、いま彦十郎の背で寝息を立てている少女がエリザベート館に泊めて貰っていると聞いた時、彼は戦慄と共に少しの安堵も覚えたのである。
 ああ、あの死んだような館にもちゃんと住むべき人がいたのだと。
 少しだけずり落ちてきたリリーを背負いなおして、帯に取っ手を挟んで固定している提灯の位置を調節する。
 少女が持っていた棒杖は、彼女の小柄なの身体と彦十郎の背中の間に挟まっていた。
 そうして、彦十郎はリリーにだけ聞こえる小さな声で子守唄を歌いながら、とうとう街を縦断してエリザベート館の前までやって来た。
 提灯の薄明かりで屋敷の門扉がぼんやりと照らされると、彦十郎はいまだ眠りこけている背中の童女を起こそうと、身体を揺さぶった。

「おい、おい、着いたぞ。そろそろ起きんか」
「ぅ…………」
「これ、着いたっちゅうに」
「……」

 やれやれ参ったと溜息を付いて、彦十郎は左手だけで肉付きの残念な少女の尻を支えると、右拳でどんどんと扉を叩いた。

「御免、奉行所の者である。夜道で難儀しておった家人を連れ申した、開けよ。誰かおらぬのか」

 何度も扉を叩くが、一向に誰か出てくる気配がない。
 「目」を使って覗いてみても、やはり屋敷全体に悄然と、いっそ不気味なほどの静かな気配が充ち満ちていた。
 この屋敷はおかしい、これが本当に人の住まわる場所か。これに比べれば墓場か処刑場でももう少し騒がしいと言うものだ。
 彦十郎はゴクリと生唾を飲み込んで、もう一度戸を叩こうと拳を振り上げた。
 が、それが振り下ろされる前に、扉についた覗き窓がかたりと開く。

「……こんな時間に、どちら様で」

 その陰気な声色は、彼自身も何度か聞いたことのあるこの屋敷の下男の声であった。
 初老の使用人は相も変わらぬ陰気臭い目で、突然の訪問客をじっとりと死んだような目で見つめている。

「奉行所の者である。扉を開けよ」
「……此度はどういった御用の筋で」
「御用の筋ではない、道に迷ったそちらの家人を連れ帰って参ったのだ」
「はて……家の者は全て揃っておりますが」
「何をたわけた事を、コヤツがここで世話になっていると言っておったぞ」

 そう言って、覗き窓から見える位置にリリーの顔を持っていく。

「…………」
「どうだ、見覚えがあるか」
「……はい……確かに……今開けまする」

 妙に引っかかりのある物言いだなと彦十郎は感じたが、いちいち突っ込んでいては埒があかぬ。
 それに早いところこの少女を預けて他の仕事に取り掛かりたいと言うことも有り、彦十郎は扉を開けて姿を現した下男にリリーを預けた。
 よほど疲れていたのか、ここに至っても少女は目を覚まさない。
 下男は眠ったままの彼女を横抱きに受け取ったまま、彼に対して頭を下げた。

「わざわざ……有難うございました……いずれ、探しに行こうと……思っていたところです」
「ほう、それにしては最前、家人は揃っているなどとぬかしよったが? あれはどういう意味だ」
「家人は揃っております……ただ、これは客人ゆえ……」
「ふん、詭弁臭い物言いをしよる。なんぞ知られたくないことであるのではないか」

 事此処に至り、彦十郎は最前までしていた固い口調を崩して、町人風の物言いでじろりと男を睨みつけた。
 彼にしてみれば、この陰気臭い男がどうにも気に入らず、意趣返しのつもりで少々脅しつけただけである。
 しかし男は彦十郎の凄みに眉ひとつ動かさず、無言で扉の奥に消えた。
 ち、なんじゃ、去り際の愛想の一つもなしか。そんな風に舌打ちを隠すこともせず、彦十郎は踵を返して館をあとにする。
 数歩離れて振り返ってみると、やはり館は人の気配もなく、まるで物言わぬ石仏のように黙然と闇の中に屹立していた。

「けったくそ悪い、帰ったら捕物話を肴に一杯呑み直しじゃ」

 そう言えば、餅を焼き網の上に置きっぱなしじゃったろうか、誰ぞ気を利かして除けてくれていればよいが。其れこそ三郎太が除けてくれれば……いやいや、あのチュー公め、除けたはいいものの「このまんまじゃ冷めて固くなっちまう、せっかくだから食っちまおう」などと考えるのではないだろうか。
 そんな風につらつらと考えながら、提灯を片手に夜道を進んだ。


――――――――――――――――


 尾けられていると気がついたのは、エリザベート館から歩いてほんの十間ばかり歩いたところであった。
 最初こそ隠れて様子を見ているふうであったのが、夜回りの手薄な場所に来た途端に殺気も剥き出しで距離を詰め始めた。
 御用の二文字が入った提灯を持って、一目で日の本出身と分かる姿格好をしている彦十郎を襲おうというのだ、過去に痛い目を見た悪人か、或いはその縁者であるなと彦十郎は当たりを付けると、御用提灯を地面に置いてから十手を引き抜いた。

「いつまでわしのケツを眺めとる気じゃ、早う出晒せ!」

 啖呵を切って身構えると、振り向いた視界の中にゆらり、と如何にも怪しい覆面黒装束が現れた。
 最初は自分と同じく乱破素破の類かと思うが、ようよう見てとればその服は砂塵と照りつける太陽から身を守るため、徹底して露出を抑える帝国人の民族衣装である。
 肌の露出を最低限に抑え、顔は黒い覆面で覆われて、更には身体の曲線を最低限にするゆったりとした布地のせいで男か女かも判断出来ない。
 そして何より、彦十郎の目を引いたのは、その右手に持った刀の存在である。
 刃渡り約四尺三寸、帝国の武人が良く腰に佩いている曲刀で、それだけ見れば早々真新しい得物ではない。
 しかし、彦十郎はその刀に見覚えがありすぎた。
 瞬時に「目」を全開まで見開いて、敵を睨みつける。
 刀の周りに纏わり付く、死と狂気を熟成させたどす黒い怨念と、一体どれ程の相手を切り殺せばそこに達するものか、吐き気を催す程に染み付いた血の穢れ。
 そして、刀を握る怪人の、まるでそれしか知らぬ狂人のごとく殺意一色に染まった感情の波は、まるでそっくりそのままあの時の再現である。

「テメェ、そりゃわしの腹を掻っ捌きやがった妖刀じゃろう。奉行所に収めてあるはずが、盗みよったか」
「……」
「だんまりか、ええじゃろう、地下町奉行所の吟味を受けてもそれが続くか、見ものじゃ!」

 黒装束が踊りかかる。
 あの時と同じ、瞠目せんばかりの素早い切り込みであった。

「エェイ!」

 繁二郎直伝の十手術を駆使して、彦十郎は袈裟懸けに斬り下ろされた斬撃の横合いを叩いて軌道をずらすと、そのまま相手の小手先を狙って鋭い打ち込みを叩き込んだ。
 しかし相手も心得たもので、十手が手元に振り下ろされる瞬間に手首を返すと、鍔元で素早く一撃を受け止めて見せる。
 ガチン、と提灯明かりの中に鋭い火花が散った。
 退くか、攻めるか。
 思考は刹那のうちに、彦十郎は果敢に攻めきる戦術に賭けた。
 原因は、今しも自分が切り結ぶこの妖刀に腹を切り裂かれたせいで、今この瞬間もジクジクと血の滲み出した傷跡である。
 長引けば死ぬ、瞬時に其れを悟った彦十郎は、両「目」を限界まで開いて果敢に十手を振り回す。

「ッ……!」
「リャァ!!」

 殆ど手を伸ばせば触れ合うような至近距離での戦闘では、相手の持つような得物はかえって振るい難い。
 そもそも十手は刀の持てぬ町人出身の同心や、刃物を持たせるのを躊躇わせるような元犯罪者である岡っ引の得物で、武士階級の出身である彦十郎はやっとう(剣術)の心得も当然あった。
 しかしながら彦十郎は十手を使うことを殊更好んだ、いや、拘ったと言ってもいい。
 何故なら彼は浄眼持ちであるゆえ、人斬庖丁を腰にぶら下げることで、彼にしか見えぬ血風に酔ってしまうからであった。

「ぐっ……」

 逆袈裟から素早く切り返してきた一撃を巧みに弾きながら、傍目には得意の距離に持ち込んで優勢に見えて、その実彦十郎の内心は驚愕と焦りで一杯になっていた。
 さきほどから傷の痛みが無視出来ぬものになってきていることも、その一因であったが、其れ以上に…………。
 
(コヤツ……手強い!)

 惣兵衛から聞かされてはいたが、これ程とは思わなかった。
 凡百のやっとう使いなどあっと言う間にねじ伏せてみせる自信が彦十郎にはあったが、今相対しているこの敵は、一山幾らの雑兵など一呼吸のうちに斬り殺せる、そんな次元違いの実力の持ち主である。
 彦十郎は視界の中をスッと横切る赤黒い線に合わせて十手を振るう、するとまるで相手がその動きに合わせたように刀を振って弾かれた。
 敵の殺気が視界の中で幾重にも視覚化され、その中でも最も色の濃いモノに焦点を当てながら戦う。
 その線こそ正しく「死線」と呼んで差し支えない、彼にだけ見ることの出来るモノであった。
 これがある限り、敵の手の内をすべて詳らかにしながら戦っているようなもので、早々負けはしない。しかし当然ながら弊害もある、それは余りにも強力な見鬼としての力は、相手の感情をつぶさに感じてしまうのである。

『死斬死憎痛憎憎殺死死呪死斬恨痛恨恨斬死殺死斬死殺死死呪死斬斬死殺殺呪斬呪殺殺死死斬死斬斬斬斬死死死殺殺殺憎憎死死呪死死死死呪呪死痛斬死痛死憎憎斬殺呪斬憎痛痛憎憎憎呪殺殺死恨死恨斬死斬憎憎憎斬死斬死殺死恨恨死呪死斬斬死殺殺呪斬呪恨憎殺殺死死斬死斬斬憎斬斬死死死殺痛殺殺痛死死呪死死憎死死呪呪痛痛痛痛死斬憎痛死死恨恨恨殺憎痛痛憎痛斬斬斬恨死憎痛恨恨恨恨死死殺恨憎恨恨恨痛殺殺死死呪痛恨痛死痛死死痛死斬死恨恨殺痛恨痛恨恨死憎死呪死斬斬憎憎死恨殺殺呪斬呪殺憎殺死痛痛死斬死憎斬斬憎斬斬死死死殺殺憎痛殺死死恨恨憎呪死憎憎痛死死痛死憎恨呪呪死斬死殺死死呪死斬斬死殺殺呪斬呪殺殺死死斬死斬斬斬斬死死死殺殺殺死死呪恨死死痛死死呪呪痛斬死死殺斬死斬死死殺斬死呪呪死斬死死殺斬』


 衝撃すら伴うような、激烈極まりない呪怨の気配。
 狂気に支配された、妖刀魔剣使い特有のおぞましい感情の波動は、今まさにそれと切り結ぶ彦十郎の精神を確実に蝕んでいる。
 一合切り結ぶ度、常人ならば百回は狂い死ぬような狂気の感情を叩きつけられ、食いしばった歯と腹の傷跡から血を垂れ流し、彦十郎は頭の血管が千切れそうなほど集中をして、とうとう勝負に出た。
 相手の一撃をわざと無理な姿勢で弾いて隙を見せると、今まで何十にも散らばっていた死線が瞬時に一つへ収束した。
 即ち、彼の首筋に。
 必殺の一撃を電光石火の勢いで振り下ろした敵は、今まさに一瞬だけ隙だらけの姿を彼に晒す。
 そこだ! 彦十郎は防御を捨てて十手を相手の鳩尾に捻り込んだ。

「なに!」

 しかし、その決死の一撃は「がちり」と金属質の音に阻まれた。
 驚愕から立ち直る暇もなく、鋭い膝蹴りが彼の顎を蹴り飛ばし、仰け反ったところをまるで石の塊のように固い左拳で殴り飛ばされた。
 血反吐を吐きながら背後へ倒れ込んだ彦十郎は、防火用の水樽に激しく打ち付けられて呻き声を上げる。
 朦朧とした顔で正面を見ると、敵の破れた衣服の下には黒光りをする胴丸が存在していた。彦十郎の一撃を防いだカラクリは、黒装束の下に着込まれた鋼鉄製の鎧であった。

「くそ……なんじゃそら……。反則じゃろ」
「……」

 斬り合いに反則も糞もあるか、そんな風に彼は言われたように感じた。
 しかし、彼が反則といったのは鎧を着ていたことではない、鎧を着ていて尚、彦十郎と切り結べるその化け物じみた膂力であった。相手は重りを背負って戦っていたのに、こっちは其れですら五分の速さだったのだ。
 これを反則と言わずどうするって言うのだ? そんな風に朦朧とした意識で彦十郎は考えながら、思わずくすりと笑った。
 ああ、確かにさっき、死ぬなら捕物の途中がいいと考えた、それをこんなに素早く叶えてもらえるなど、可笑しくて堪らない。
 神仏の類は信じていなかったが、この瀬戸際で彦十郎は信じてもいいような気がしていた。
 嗚呼、確かに神仏鬼神の類はいるのだろう、なにせ、こんな願いだけは素早く叶えてもらえるのだ、反吐が出るほど性格の悪い悪神だろうが……。
 そうして彼の命を刈り取ろうとその魔剣を振り上げた瞬間、黒衣の怪人はピタリとゼンマイの解けた絡繰り人形のように動きを留めると、突然とある方角を仰ぎ見た。

「……」

 暫くそちらを見つめたあと、突然、何の前触れもなく、拍子抜けするほどあっさりと敵は身を翻してその場を去っていった。

「な……なんじゃ……」

 突然の事に唖然とした彦十郎は、何とか立ち上がろうとしてぎょっとした、己の着物が腹の辺りから袴の裾に到るまで真っ赤な血で染まっている事に気がついたのだ。
 それを見た瞬間に、今の今まで興奮して気がついていなかった強烈な痛みと、血を大量に失ったせいでの貧血に、彦十郎は立ち上がることが出来ずに再度石畳に倒れ伏した。
 腹の傷は完全に開いてしまっており、そこから際限なく血潮が溢れ出しているのが分かった。
 なんじゃ、首を刈られずとも死ぬではないか。
 死に損ないの自分など殺すまでもないということか、そんなふうに考えた瞬間、かっと全身の血が頭に昇った。

「おきゃあがれ、ド畜生がッ」

 こんな無様な死に様、異国の地にて晒せるものか。
 ギラギラと憤怒の色と生への渇望に双眸を輝かせ、彦十郎は血塗れの身体を家々の壁にもたれかからせながら立ち上がる。

「六波羅の髑髏は、何処に逃げてもテメェを見逃しやしねぇ……必ず追い詰めて……閻魔に裁きを下してもらうぜ……」

 歩行も満足にままならぬ様子ながら、彦十郎の歩みは確実に一歩一歩、詰所に向かって進んでいた。



――――――――――――――――


 これは夢だ、彦十郎はすぐに気がついた。


 それはほんの三週間前、彦十郎が町廻りの途中に茶店で休憩を取っている時であった。
 岡っ引きで鼠人の三郎太と共に、こちらでは一般的な焼き菓子やカステラ風の菓子を頬張りながら、紅茶(なんと、赤いお茶だ!)をすすって一息つく。
 三郎太は元が鼠の妖だからか、食い意地がはってしかも大層な大食いである。
 その小さな体にどうやってそれほど入るのかと、思わず首を傾げたくなるような健啖ぶりであった。
 椅子の後ろから出したちょろりと長い尻尾がゆらゆらと機嫌良さ気に揺れていることを見るに、この店の甘味がお気に入りという噂はどうも本当らしかった。

「うん、うん、うめぇな。兄い、どうした、手が止まってるぜ」
「うへぇ、わしはもうええ、甘みで舌が馬鹿になりそうじゃ。わしは茶を啜っておるからオメェは好きに食えばええぞ」
「本当かい? へへ、じゃあお言葉に甘えて」

 牛の乳を使って作るらしい「くりいむ」という泡か綿のような甘味がたっぷりと掛かったカステラを、彼女は次から次に切り分けては口の中に放り込んでいく。
 確かに甘くて美味しいのであるが、彦十郎は故郷の餡子やきな粉の甘みが懐かしかった。
 こちらの甘味は良く言えば濃厚で、悪く言えばくどすぎる。
 それをこんなに大量に食べれば胸焼けがしてたまらないだろうに、それとも鼠は腹を壊すなどと言う心配は無用であるか。

「まあ、オメェはドブネズミだからな、腹なんか壊すはずねぇか」
「あ、ひでぇ。あっしだって腹ぐらい壊したことあるんですぜ」
「ほう、そりゃいったいいつの話じゃ。わしが京から江渡に来た時からの付き合いだが、オメェさんが腹痛で飯を抜いたことなどなかったぜ」
「そりゃそうだ、あっしが腹を壊したのは兄いと会う前の、まだこんな格好になる前の話。いや、あの時は本当に死ぬかと思った」
「けっ、そん時死んでりゃお江渡の界隈からドブクセェ鼠が一匹消えたのによ、惜しかったな。わしがその場にいれば介錯してやったのに」
「ちょいと、そりゃひでぇよ兄い」

 はたから見ればなんとも酷い言い草であるが、いつもの冗談であるのでどちらも本気にはとらない。
 舌が蕩けそうに甘い菓子をヒョイヒョイと口の中に放り込む様を見て、彦十郎は自分の口の中まで甘くなってくる心持ちでうんざりしながら、甘さ控えめの焼き菓子を一つ噛み砕いた。
 皿に大盛りになった菓子がとうとうなくなりかけて、さてそろそろ勘定を済ませるかと店の者を呼ぼうとしたその時であった。
 店の外から絹を裂くような悲鳴が聞こえ、その瞬間に彦十郎は椅子を蹴倒して店の外に飛び出していた。

「どうした!」

 十手を抜き放って飛び出した彦十郎の目に映ったのは、血塗れで倒れ伏す何人もの人影。
 そして血の海の中心に立っているのは、一目で尋常のものではないと分かる禍々しい抜き身の血刀をぶら下げた男が一人。
 明らかに正気を失っており、その虚ろな両目は何処か遠いところに焦点を合わせて、ぶつぶつと何かを呟いている。

「御用である!! 神妙にいたせ!」
「せ……ろ…………せ」
「刀を捨てよッ!」
「こ……せ……ころ……殺せッ!」

 カッと、今まで呆けていたのが嘘のように男は両目を見開いて刀を振り上げながら疾駆した。
 その足の向かう先は、彦十郎の方ではなく、今しがた曲がり角をこちらにやって来た一台の馬車。

「まずい!」

 彦十郎はすぐにその後を追う。
 全身返り血で真っ赤になり、血刀をぶら下げながら猛然と迫り来る明らかに正気と思えぬ男と、その後ろから追いすがる彦十郎の姿を見て事情を察したのか、御者の男は引き攣った悲鳴を上げながら手綱を引き絞って馬車を返そうとした。
 しかし、人間とは思えぬ俊足で迫った辻斬りは、一刀のもとにバサリと馬の首をはねた。
 そしてそのまま常人離れした脚力で跳ね上がると、恐怖に引き攣る御者の首を切り飛ばす。
 
「野郎ッ、やりやがったな!」

 何の躊躇いもなく人を斬ったその所業に、彦十郎はすぐさまお縄の線を捨てた。
 これは現世で裁きを下すような輩ではない、地獄で閻魔に裁いてもらう類だ。
 殺す、そのつもりでかからねばならない。
 彦十郎は使い慣れた長十手を振りかぶり、今しも馬車の扉を無理矢理破ろうとしていた辻斬りの背中から打ち掛かる。
 その時の彦十郎の頭には、声もかけずに背中から襲いかかることに卑怯だなどという考えは微塵もなかった。
 完全に決まると思われたその一撃は、しかし突然振り上げられた刀によって阻まれる。
 火花を散らして長十手を弾くと、下手人はようやくその時彼の姿に気がついたような様子で、馬車を背にしてこちらへ振り返った。
 こやつ、出来る。
 あの体勢から防いでみせた身体のこなしから、彦十郎は敵が油断のできぬやっとう使いであると看破するや否や、すぐさまその「目」を見開いて目前の敵を睨みつけた。
 すると、痩せこけた男の顔に初めて感情らしきものが浮かんだ。
 それは、恐怖と驚き。
 その感情の振れを見て、彦十郎はすぐさま男の状態を察した。
 この辻斬り、妖刀に飲まれて悪鬼羅刹の類になりつつある。
 「目」を開いた自分を正面から見てこの反応をするとなると、それしか考えられぬ。
 常人ならば、今の彦十郎の両目が薄青く光り輝いているように見えただろうが、この男の目には、彦十郎の両目がまるで髑髏の眼窩のようにぽっかりと黒く虚ろな深淵を覗かせているように見えているに違いなかった。
 人の道から外れた外道畜生、そして魍魎妖怪の類にはそう見えるらしい。

「ぅ……が……こ…せ……殺せぇ!!」

 そう男が叫んだ瞬間、妖刀が怪しく揺らめいた。 
 その怪しい光に一瞬だけ気を取られた瞬間に、男は目にも留まらぬ素早い踏み込みと共に刀を振り下ろしてくる。
 はっと忘我の境地から抜け出して、間一髪、唐竹割りにされるのを防いだが、まるで手妻のように目にも止まらぬ早業で翻った刀は、彦十郎の下腹をずぶりと突き刺した。
 カッと灼熱の痛みが腹を裂いた瞬間、彦十郎は痛みに呻く暇もなく、無意識のうちに長十手を相手の手首に向かって振り下ろしていた。
 ぐしゃりと骨を砕く鈍い音と共に、豚のような悲鳴を上げて男は剣を手放す。
 しかし彦十郎はそれきり追い打ちをかけることも出来ず、脳髄を突き刺すような激しい痛みに膝をついた。
 男は意味の取れぬ喚き声を上げながら、目の前で跪いた彦十郎に止めを刺そうと、その腹に突き刺さったままの刀を左手で掴んだ。
 が、それを抜き放つ前に、横合いからすっ飛んできた三郎太が懐から取り出した一尺五寸のなえし*を使い、一切の容赦無しに男を滅多打ちに叩き伏せた。
 顔の原形が分からぬほどまでにしてから、止めに股間へ蹴りを一発入れて蹴倒して、もう知ったことかと言わんばかりに背中を向けるや否や、死にそうなほど真っ青の顔で彦十郎の肩に掴みかかった。
*(なえし……岡っ引きが十手や刀の代わりに身につける護身用の鉄鞭)

「あ、兄い!! し、しっかり!」
「う…るせ、え、動かす、ん……じゃ、ねぇ。馬鹿、なんて、顔しやがる、死にそうなのは、こっちじゃ」
「だ、誰か! 医者を呼べ! ぼさっとするな! 兄いが、髑髏目の兄いが死んじまうッ!」
「ちっ……ドブネズミ、騒ぐんじゃ、ねぇや、おい、斑目殿に、宜しく言っといてくれ」
「てやんでぇ、不吉なことえを! 兄い、こんな所で死んでどうするんだよぉ!」
「クソが……だからテメェはドブネズミなんじゃ……見りゃ分かるじゃろ、はらわた、やられちまってらぁ。隠密同心髑髏目も、とうとう年貢の納め時じゃ」

 普通、刺さった刃物を抜かねば出血は抑えられる。しかし、この刀はどう見ても妖刀の類であった。
 刺さった所からじわじわと皮膚が黒ずみ、肉が腐る嫌な匂いがし始めている。
 崩れた肉の隙間からドボドボとどす黒い血液が流れ出し、危険を感じた身体が痛覚を麻痺させ、血が流れすぎたせいで朦朧とし始めた彦十郎の意識は、まるで極上の酒を飲んで眠りに落ちるようであった。
 そこから急速に、彦十郎の記憶は曖昧となり、あの世とこの世の境を行ったり来たりした。
 ただ、ほんの一瞬だけ、明確に覚醒した光景がある。
 間一髪に助けることが出来た、馬車の中。そこから降り立った、ドレス姿の令嬢。
 少女は歯噛みし、青ざめた泣きそうな顔で、地面に仰向けに倒れ伏した彦十郎の顔を覗き込んでいる。
 その……その顔は……っ!


――――――――――――――――


「リリー!?」
「おうわぁ!? な、誰だよ、そりゃあ」
「ドブネズミ? あ? ここは」

 茫然自失の体でぐるりと視線を巡らすと、そこは奉行所に併設された与力同心たちの西洋長屋、その中の一室である彦十郎の部屋であった。
 記憶の前後が繋がらず、混乱するままに死線を動かすと、疲れた様子で肩を落とす三郎太が目に入った。
 始終走りまわっては落ち着かない様子が標準の彼女にとって、そのような姿は珍しいものである。

「なんじゃ、どうした」
「どうしたって…………はぁ」
「溜息なんぞついて、やめんか、辛気臭い」
「……時々考えるんだよ、なんであっしは10年近くもこんな報われない事をしてんだろうかって」
「なんじゃそら、人聞きの悪ぃ事を言うな。オメェには他の岡っ引きと比べ物にならんくらい、ぎょうさん食い扶持をやっとるじゃろうが」
「あー、そうでやんすねー、食い扶持はたらふく貰ってらぁ、けど、髑髏目の兄い、こっちの寺にこんな格言があるの、知ってるかい? 『人はパンのみにて生くるにあらず』って」
「…………どういう意味じゃ」
「それを兄いが分かんねぇから、あっしが報われねぇって、そういう話でござんす。さ、下で斑目のオヤビンがまってますぜ」

 それだけ言って、三郎太はやれやれと首の凝りを解すようにしながら部屋を出て行った。
 ひとり残された彦十郎は、狐につままれたような顔で唖然としていたが、斑目が待っていると聞いては呆けてもいられぬと、寝台から足を下ろし、そこで漸く彦十郎は自分がどんなに間抜けか思い知った。
 寝台の側のテーブルには、水の張った金盥と手拭いが、床には血に濡れてクシャクシャになった布切れと、それに埋もれるようにして放ってある寝袋がある。
 三郎太が、付きっきりの看病をしていてくれたのは、それだけでも一目で分かった。
 彦十郎はバツが悪げに頭を掻くと、謝罪の飯に一体何を奢ればいいだろうかと頭を悩ませるのであった。
 結局、三郎太の言っていた格言の意味は、とんと理解出来ぬまま、彦十郎は寝間着を着替え、いそいそと階下へと降りていくのであった。

戻る / 目次 / 次へ

書けば書くほどドツボにハマるような気がする。
中途半端ですが、中編であげまする。ご容赦下され。

前編、惣兵衛との会話場面を加筆修正しました。
御新造うんぬんのところが説明不足でしたので。

10/05/30 01:20 spooky

top / 感想 / 投票 / RSS / DL

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33