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吸血鬼と司教(前) |
人類圏は常に魔王との対立の歴史と言っても過言ではなかった。
魔王は幾度となく人類に対して牙を向き、その配下である魔族を中心とした魔物達の軍団は人類国家に対して数え切れぬほどの戦乱を巻き起こした。 人類対魔物。 善対悪。 神対悪魔。 そんな単純な理屈、しかし分かりやすい理屈。 そうして大きなお題目を掲げて人類大同盟と魔王軍が熾烈な最終戦争を行ったのも、今はもう昔話になろうとしている。 魔王は倒れ、人類に束の間の平和が訪れ、そうして人々は剣を捨て鍬を、槌を、ペンを取った。 そして彼らは備えた、新たなる魔王の誕生に。 歴史上、幾度となく魔王は滅び、そしてそのたびに新たな魔王が人類抹殺の最終目標を掲げて立ち上がってきた。人々は確信していた、そう遠くないうちに新たな魔王が即位するだろう、そしてまた人類は襲い来るおぞましき怪物たちとの戦争に駆り出されるのだと。 そんな確信が、疑惑に変わり、人々が困惑とともに首を捻るのにそう時間はかからなかった。 魔物達のヒューマノイド化――より詳しく正確に言うのならば、雌性一極化が突然に始まったのである。 それと共に聞こえる新魔王即位の一報、そして新魔王が前魔王軍に於いて一軍団長を務めていたサキュバスクイーンであるという情報に、各国中枢の識者たちは注意深くその推移を見守った。 5年も経った頃、識者たちは新魔王の狙いをようやく見抜いた。女体化した魔物の多くは人類との交配が可能であり、また総じて好色で、そしてこれがもっとも重要なファクターであるが――生まれる子供はほぼ10割の確率で魔物である。 これは、目に見えぬ侵略に違いない。 恐ろしく狡猾で、気の長い、そしてそれゆえに対抗策が見つけにくい。 識者たちは絶望の呻き声を上げた。何故ならば、彼らにはこれからの人類の未来が簡単に想像出来たからである。 今はまだいい、彼らの世代――全魔王との熾烈な生存戦争を生き抜いた世代が生きているうちは。だがしかし、彼らとていつかは年老い、朽ち果て、その記憶は記録となり果て、警告は老人の繰り言となり、そして全ては風化していく……。 そんな時、魔物との激烈な闘争を経験しないままの世代がトップに立ったとき、そんな時、世界は一体どうなってしまうのだろうか? 嗚呼、考えただけでも恐ろしい! この状態が後10年も続けば、人類は魔王との戦争など忘れ、やがては太古の昔、小国家が乱立して相争う戦国の世が到来してしまうだろう。魔王という絶対確実な外敵によって辛うじて纏まっていた人類国家は、それほどまでに危ういバランスの上に成り立っていたのだから。 だが、彼らの予想は覆された。完全に悪い方へと。 ティラキア連邦、ノーモース領国へ軍事侵攻。 その一報が全世界を激震させた。 ノーモースはサラフデン帝国の領国であり、当然ながら同国に対する軍事行動に大してサラフデン帝国はティラキアに対して戦線を布告。それに引きずられる形でサラフデン帝国の同盟国たる聖王国が戦線に加わると、当初静観を決め込んでいた世界中の人類国家がその尻馬に乗る形で世界各国で戦端を開いた。 血で血を洗う、世界戦争の始まりである。 戦線は混迷を極め、複雑な利害関係ゆえに敵味方が節操なく入れ替わった。 大陸中が血で溢れかえり、魔王のことなど誰の頭からも抜け落ちたまま、同胞同士の醜い争いは留まる事を知らない。 膨大な――あまりにも膨大な鉄と命の意味なき損耗。 そして泥沼化した戦争が人々の身と心を蝕み始めた頃、正統教会を治める教皇と枢機卿の連名で停戦命令が出された。 聖界から政界へ、それは余りにも一方的かつ強引な命令であったが、終りの見えない血みどろの戦いに落とし所を探っていた各国は嬉々として――表向きは渋々と、それに応じた。そして教会は今後一切、人類国家圏での同族間戦争を禁ずるとともに、その愚かしい武力闘争に代替手段を差し出してみせた。 それが世にいう「迷宮戦争」の幕開けである。 大陸のほぼ中央、広大な荒地が広がる不毛地帯のど真ん中、古代帝国の栄えたその帝都跡の地下に広がる広大な地下迷宮。古代のアーティファクトが未だ稼働し続けるその遺跡は、今は亡き偉大なる大魔導師の意志を遂行し続けるために、今なおその規模を拡張し続けているという。 その地で各国はそれぞれ代表の戦力を派遣し、地下迷宮で代理戦争を行うことになった。 迷宮内で領地を広げ、他国の領域をもぎ取れば、その広さに応じた領土を実際の領地として本国が得る。莫大な財宝を、失われた古代の技術を、或いは太古の謎を解き明かす巻物でも遺跡で見つければ、それもまた本国に於いて大きな収入源となった。 表立っての戦争行為が禁じられた今、新たな領土を得るためには迷宮の中で陣取り合戦をするしかない。 人類の終末は回避された。 だが、魔王による人類圏の密かな侵略に何ら有効な手段もないまま、とうとう新魔王即位から15年の月日が経とうとしていた…………。 ―――――――――――――――――――――――――――――――― エドモン・ダヴィヌスは激しく身を揺さぶられる感触に、泥沼のような微睡みから無理矢理引き上げられたことに対して悪態をついた。煩そうに相手を引き離そうとするも、そうすれば相手はさっき以上の熱心さをもって彼の体を揺さぶるのだから始末がおけない。 結局彼は目脂で張り付いた両目を開け、酒で焼けたガラガラ声で返事をした。このクソったれが、起こすなと言っただろうが、ケツに聖力注入棒を突っ込まれてぇか。そう怒鳴り散らした彼の頬を、手加減なしの平手打ちが襲う。 衝撃に驚き、受け流すことも出来ずにエドモンはベッドの上から硬い石床にもんどり打って転がり落ちると、受身も取れずに強かに全身を冷たい床に打ち付けた。 突然の仕打ちに目を白黒させて、彼はこの狼藉を働いた不届きな下手人に倒れたまま食って掛かる。 「いてぇ! な、何しやがる!」 「目が覚めましたか?」 ぎょっと目を向いた彼の目の前には、いっそ神経質なほど手入れの行き届いた革の長靴が一足。そしてそれに繋がる二本の脚は、きっちりと折り目のついた黒いスラックス。そのまま視線をずっと上にやると、氷のごとき無表情が彼を見下ろしていた。 切れ長の双眸から覗くアイスブルーの両目は、何の感情も宿さぬままただじっと彼を見つめ、青白く薄い唇はほんの僅かにため息を付いたきり、それ以上の発話を拒否するかのようにぴったりと閉じた。肩ほどの長さで切りそろえられたプラチナブロンドの髪は、ここに来た当初こそサラサラと絹の如く靡いていたものだが、最近はとみに色艶が薄れているように感じられた。 「ジラルダン、何のつもりだ。俺の聖なるイチモツをケツにぶっこまれてえのか」 「そんな趣味は有りません。仕事の時間です」 「ちっ……相変わらず可愛げのねぇ奴。ふぁ……ぁ……」 大きな欠伸を一つ、ボサボサに散らばった蓬髪を掻き毟りながらエドモンはベッドに腰掛けて、サイドテーブルに置いてあったボトルに直接口を付けるとそのままグビグビと豪快にラッパ飲みをし始めた。 呑みきれずに零れた紅い雫が夜着やシーツを汚すのもそのままに、半分ほど残っていたそれを飲み干してから彼は豪快にゲップを吐いて見せる。 「ぐぁーーきっくぅー! やっぱブランディはティルノドにかぎるな」 「……エドモン閣下」 「分かってるっての、しつけぇ奴だな。で、仕事ってなぁ一体何だ?」 「《夜の貴族》から使いが参っております」 「…………ふん」 その名を聞いた瞬間、エドモンの全身から先程まで漂っていた気怠い空気が抜けきる。果たしてこれが同一人物かと、初めて見るものはそのあまりの変わり様に瞠目することだろう。 彼は立ち上がって口元の汚れを袖で乱暴に拭うと、身に纏っていたヨレヨレの夜着を乱暴に脱ぎ捨てた。 「5分で行く」 「承知いたしました」 あらわになったエドモンの肢体に何の感慨もなく、ジラルダンは背中に定規でも入っているかのような礼をして部屋を出た。 エドモンはまず手始めに床の上に放置したままの水が入った金盥に適当に清潔なタオルを投げ込んで、きっちりと絞ったそれを使って全身をくまなく拭った。とうに人生の下り坂を歩み始めた歳であるが、その体には見た目の不摂生を感じさせない引き締まった筋肉が隈なく張り付いている。 垢じみた相貌をゴシゴシと擦ると、染み付いた汚れがタオルにこそぎ落とされた。 汚れの落ちたその下から現れたのは、一目見れば到底忘れえぬような異相。 まるで子供が戯れに太筆で描いたような太眉の下には、落ち窪んだ凶悪な三白眼がぎょろりと覗き、耳元から顎、鼻下にかけてを覆う髭は、まさに剛毛と言っていい。伸ばし放題の髪と違い、髭はこまめにカットしているようで、短めに切り揃えて手入れが行き届いていた。顔の中央にでんと居座る大きな鷲鼻は、まさに猛禽さながらの鋭さで中空に向かって突き出ている。 はるか東方の国で工芸品として名高い「達磨」という置物が人間になったとしたら、まさにこんな感じだろう。 「…………これにするか」 長持を開けて、中に収まった服の中から比較的良好な状態のものを選んで身につける。 長持の一番底で横たわっていたそれは、正統教会の司教服。黒一色に赤抜の十字架は、本来であれば喪に服す時などに着るはずの代物であるが、むしろこの状況には相応しいと、彼は躊躇いなく袖を通した。 果たしてその着こなしは堂に入ったもので、先程までベッドに横たわっていた浮浪者一歩手前とは、同一人物だと信じられぬほどの変わり様である。 そうして襟元を正しながら彼が前に立つ一枚作りの大鏡は、この部屋の中で最も高価な調度品であった。かつては洒落者で通したエドモンは、今となっては過去の姿など想像出来ぬほどに落ちぶれたとは言え、この一枚鏡だけはどうしても処分出来ずにいた。 伸ばし放題になっている髪に櫛を入れて梳かすと、やや乱暴ながら手早く後ろで纏めて見せる。 そうして鏡の前で最後の調整をすると、最後に軽く香水を使って体臭をごまかした。 「よし……行くか」 最後に、ベッドの下に放置してあった聖杖を手にとると、ビショップ・エドモン・ダヴィヌスは部屋を出た。 そして一歩踏み出した途端に目の前にあった鉄面皮に、思わずぎゃあと品のない叫び声を上げる。 「ジラルダン! ビビらせんな! 一言くらい声をかけろよ!」 「…………そんなに驚くような顔でしょうか」 「誰が顔の話をしている」 「ならば、良いのです。参りましょう」 「何がどういいんだ、おい、まだ話は終わってねぇぞ、いや、終わるどころか始まってすらいない。ジラルダン、黙っていつの間にか俺のそばに立つなとあれほど――」 大の大人が「ぎゃあ」などと恥ずかしい悲鳴を上げてしまったのがよほど頭に来たのか、エドモンはぶちぶちと文句を言いながら、先導するジラルダンに続いた。 こちらの抗議の声など柳に風といった風情で、右から左に受け流す様子にエドモンはイライラしながらジラルダンの隣に並んだ。そうすれば、彼よりも頭ひとつぶん小柄なジラルダンの味気ない無表情が殊更目についた。エドモンはその横顔に向かってしつこく文句を垂れるが、まるで膠で固めたようにその表情は寸毫足りとも揺るがない。 いい加減に自分のやっていることが不毛に思えてきたエドモンは、小さな溜息と共に言葉を切って、建設的な話をしようかと頭を切り替える。 「で、やつら何て?」 「閣下と直接お話になるようです」 そう素早く返したジラルダンに、平素は欠片も見せぬ苛立の感情を微かに匂わせ、そのことにエドモンは瞠目した後に揶揄うように笑みを零した。 「何だ、ジラルダン。気に入らねぇみたいだな」 「ええ、少なくとも閣下がアレらを気にいらない程度には」 「言うじゃねぇの」 思わず苦笑を漏らして、エドモンは傍らの参謀の背中を励ますように叩いた。 「ま、籤運が悪かったなぁ。これも神の思し召しって奴だ」 「神という輩は……」 そこで珍しく、ジラルダンは言葉に一瞬詰まった。 「神という輩は、本当に嫌な奴ですね」 「なんだお前、今更気がついたのか?」 この場で最も激しく反論せねばならぬはずのエドモンは、その不埒な言葉に欠片も怒りを見せないどころか、むしろ同意と諦観を滲ませながら肩を竦めてみせた。 「神ってのはよ、俺たちがどう足掻いても手の届かない高みから虫ケラどもを見下ろして、時々その演目に手を加えてはニヤニヤ笑いでほくそ笑む糞共のことさ」 「閣下がおっしゃると説得力が有ります」 「だろう?」 そう言って、エドモン・ダヴィヌスはやけっぱちの笑い声を、さして大きくもない石切り詰めの廊下に響かせた。 ―――――――――――――――― 迷宮戦争の最も初めの試練は、出発地点を決める籤引きである。そして最も初歩にして最終の要素――即ち「運」がこの時に試される。 この迷宮戦争においてこの時決められた「本拠地」は、余程の事がない限り変更できない。その本拠地を落とされてしまえばいくらその他に広大に領域を手にしていたとしても一撃で負け、それがルールである。 故にこの籤引きでどれだけ落とされにくい地点で始められるか、その一点が序盤から終盤まで大きく関係することになるのだ。 そんな運試しに、エドモン・ダヴィヌスの加わったポンティア王国は見事に蹴躓いた。 いや、あるいは見方を変えれば見事に引き当てたと言うべきか。彼らの引いた拠点は歪な形をした大広間の中心にどんと構えた地下城砦で、その周囲を流れる水堀と空堀は三重に、砦内には井戸や厩舎まで完備され、複数の矢来や見張り塔のキューポラは今はもう耐えて久しい古代帝国の高い土木水準を匂わせる逸品であった。 本拠地という一言で見るならば、これ以上ないほどに高水準。鉄壁と言って差し支えない城砦――ただし、それを維持出来る兵数があればの話。遺憾ながら、ポンティアは国というのも恥ずかしいほどの弱小勢力。それだけ立派な砦を維持出来る余力もなければそのノウハウもまた当然のごとく貧弱であった。 しかも、その立地は最悪といって余りあった。 その広間には大小合わせて12にも及ぶ進行ルートが存在し、その内の4本を目下最大規模の勢力である聖王国が握り、3本をそれに追随する形で強大なティラキア連邦が握っていた。 残りのルートはそれぞれ別々の中小国家が握り、まさに四面楚歌、どう足掻いても絶望状態でのスタートである。 余人に曰く「始まる前から終わってた」。 それを知った途端にエドモンが司祭帽を地面に投げつけて「これでどうしろってんだよ!」と怒鳴り散らしたのを、その場にいた面々は責めることなど出来なかった。最初から詰んでいたのである、むしろ捨て鉢になってしまわなかっただけ見直される有様だ。 そうして連日喧々諤々の大論争が会議室でなされ、何ら有効な手立てが見つからないうちに一週間が立った頃、そんな緊急事態にも相変わらず鉄面皮でジラルダンがこう言った。 「閣下、同盟を結びたいと申し出ている勢力が有ります」 その申し出自体は珍しいものではなかった。如何にも攻め落とすのに難が有りそうな堅城を同盟を結んで楽に手に入れるなら、その隙を突かれて敵国に攻められる心配もない。そう考えて同盟の打診はこれまで幾つもの勢力から引っ切り無しに届いていた。 だが、それらの申し出は今のところ保留にすると最初の会議で決まったはず。 訝しげな視線に促され、ジラルダンは会議室に特大の爆弾を放り投げた。 「同盟を希望しているのは自称《夜の貴族連合》――――これは魔王の派遣した吸血鬼の勢力です、閣下」 会議はそれまで以上に紛糾した、だが調べてみれば、吸血鬼たちの申し出は決して荒唐無稽なものではなかった。 彼女たちは気まぐれな魔王が「面白そうだから」という理由でこの迷宮戦争に派遣されており、申請書類や何から何まで偽造と暗示で無理矢理ねじ込んだらしい。そうして意気揚々と籤を引いて、そして彼女たちも彼ら同様その一歩で躓いた。 ヴァンパイア達が手に入れた本拠地は、一方通行のどん詰まりにある小さな砦で、そしてその通路の行き着く先はポンティアが既に本拠地としてしまったあの城砦がでんと構える大広間。ここを陥としたとして、そうすれば次は自分たちが詰みである。彼女たちにもこの城砦を維持出来るだけの力がない。これまた彼女たちも頭を悩ませていた。 そして何より、彼女たちは本国からのバックアップが絶望的であると言うことが大きな理由だった。 聞く所によると、大小幾つもの魔物の集団を「国」と偽って投入したあと、事もあろうか魔王本人が「飽きた」と言って企画自体を側近に放り出してしまっていた。 ああ、分かる分かる、遠足って準備してる時が一番楽しいよね――。 「って、ふざけるな!」 と彼女たちが激怒したかどうかはともかく、派遣された魔物達の集団は完全に本国からの本格的な支援から見放され、それぞれが必死になって生き残りを賭けた方策を練っていた。 ある勢力は早々に自力で生き残る事を諦め、近くの国に保護の対価に身体を差し出した。 またある勢力は破竹の勢いで勢力を広げ、幾つもの弱小勢力を併呑して危険視されだしている。 そして、ヴァンパイア達は小国ながらしっかりと支援体制の整ったポンティアに、同盟相手として白羽の矢を立てたのであった。 |
10/05/14 02:27 spooky
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