ユージン伍長奮闘記


「軍曹、プリニー軍曹、起きてください」
「ううぅん……」

 傍目には水の入った盥に話しかけている変人に見えたのだろうが、その盥から返事があって周囲がどよめく。

「すげぇ……何で分かるんだ?」
「パネェ……!」
「相変わらず無駄な技能だな」
「俺なんかタライがあることすら気付かなかったぜ!」
「いや、それは単なる馬鹿だ」
「テメエ目ん玉ついてんのか?」
「あれぇ!?」

 自分でも何故分かるのか少し首を捻ってしまうが、何となく分かってしまうのだ、それ以外に表現のしようが無い。とにかく今は彼女に起きてもらわなければ……。種族が違うといっても一応異性なので。

「軍曹! 何でこんな所で寝てるんですか!? 男湯ですよ!」
「うう……」

 ズルズルと盥の中の水が人型に盛り上がっていくと、背後で見ていた奴らの間から「おおぉ!」と再度どよめきが上がる。自分も初めてこの光景を見た時には驚きと同時に思わず顔が引き攣った。子供の頃に殺されかかってから、自分はスライムが嫌いだ、嫌悪していると言ってもいい。なのに、衛生兵として配属された先の上官はシースライム族……運命の皮肉というか、神の悪意を感じてしまう。畜生め。

「あーユージンごちょー、なあにー?」
「はぁ…………とりあえず出てって下さい、男湯ですよ」
「んー?」

 きょろきょろと周囲を見回して、首を傾げる。

「ああれぇ? 何でー?」
「知りませんよ、動けますか?」
「うーん」

 それは「うん」なのか「うーん無理かなー」かどっちなのだッ、全くこの間延びした話し方にイライラさせられる。しかしここで怒鳴っても何も解決しない、コツは向こうの言葉を根気よく待つことだ。こんなコツ、習得したくなかったが……。

「あちゃー……ごめんねー、すぐ出て行くからー」
「お願いします」

 盥から出てぐいっと背伸びをした時には、先程までの不定形ではなく完全に細部まで作りこまれた氷像のような、半透明な女性体スライムが出来上がっていた。全て水で出来ているわけではないらしい、実際その髪の毛などは人間のものと変らない質感である。海月の傘をイメージさせるひらひらとした服(?)と帽子(?)は、シースライム族が「海の貴婦人」などという二つ名で呼ばれるのも理解できる。確かに見た目はドレスを着ているように見えた。実際にはそれも体の一部らしいが……。最も、実年齢は知らないがとても貴婦人と呼べるような見た目ではない。人間で言えばようやくハイティーンになったばかりに見えた。

「はいはーいごめんなさいねー」

 ニコニコ笑いながら彼女が通る先を、男の兵士達が股間を隠しながら道を開けていく。やがて彼女が脱衣所からも出て行くと、その場にほっとした空気が充満した。

「やっべぇ、冗談ぬきでマジ分かんなかったぜ」
「パネェ……」
「危なかったな……」
「俺は別に見られても良かったがな!! むしろ見てくれ!!」
「いや、それはお前だけだ」
「見た向こうが気持ち悪くなるだろうがボケ」
「あれぇ!?」
「つうかあの軍曹なんで男湯に??」
「なんかとろくさそうだったし、単純に間違えたんじゃね?」
「うは、ありえねえ」
「けど確かにどんくさそうだったなー」
「…………」

 本来ならば自分の上官が馬鹿にされていれば怒るのが部下の役目なんだろうが、生憎それらの意見には全く反論できなかったので黙っていた。それに、何でわざわざスライムの弁護なぞせねばならないのか? 絶対にごめんだ、ただでさえ今の部隊に配属されてから胃痛薬とお友達になってしまったというのに……。
 溜息をつきながら湯船に浸かると、別の部隊で歩兵をやっている同僚が話しかけてきた。その顔は笑えばいいのか同情すればいいのか分からないと語っている。

「なあ、お前の今いる分隊ってお前以外全員スライムだったか?」
「いや、一応他の種族もいる……」
「人間か?」
「ファンゴノイドだ」
「……………………頑張れ」

 笑いを堪えた顔で言われても全く嬉しくなかった。ちなみにファンゴノイドとは茸が人型をしているような魔物(?)で、森林部に生息している大人しい種族だ。光合成の他に落ち葉や動物の死体などを分解して栄養とするため、その後には森を豊かにする腐葉土が排泄物として残される。何故か生きている生物の傍にいるとその疲労を軽減するという謎な特性があるため、衛生兵として配置されていた。スライムよりは百倍ましだが……そもそも会話が出来ないのが欠点だ。

「嗚呼……転属願いはいつ受理されるんだ?」
「ちょ! お前そのチ●コどうなってんの!? それマジで入んのかよ! それどう考えてもチン●としての規格を超えてるだろ!」
「フゥハハハハハハァ! どうだ俺の攻城槌(バタリングラム)!」
「パネェwwwwwww」
「おい! おい! 俺の方がでかいぞ!」
「はいはい粗●ン粗チ●」
「包茎乙」
「あれぇ!?」
「あぁ…………馬鹿しか、馬鹿しかいねぇ……」

 俺の心からの嘆きは、周囲で馬鹿話をしている声にかき消され、湯煙の中に溶け消えていったのだった……。



■■■



 風呂から上がった俺は談話室内で医学書を読んでいた。一刻も早く軍医昇級試験に合格し、こんな部隊とはおさらばしたかったのだ。軍医になれば少なくともこんな小隊規模の部隊からは外され、最低でも大隊付き軍医として配属されるはずだ。その為にも今は必死になって学ぶのが脱出への近道……! 勝利への、バイパス……! 死ねない、こんな所で……ッ! 死ぬわけには、行かない……ッ!

「そんでよ、その未亡人がどうしてもって言うからさぁ、へへへ……その日は午前様確定。次の日門限破りで営倉入りだったけどよぉ、それぐらいの価値はあったぜ、へっへっへ。アレの具合も上々でよぉ!」
「パネェ!」
「俺なんか《夢幻楼》の主人と知り合いだからな! あの人指名できるんだぜ!」
「ハイハイいいから次お前の番ね、早くしろや早漏」
「妄想乙。粗●ンは黙って一人でマ●掻いてな」
「あれぇ!?」
「…………テメエらッ」

 談話室は皆の空間だ、それは分かる。何を話そうが別に禁止はされていない。
 だがよぉ……!!

「女もいる前で堂々と猥談するんじゃねえ!! 空気読めよ!! あと声でけえようるっせえよ別に聞きたくねえよテメエらの性生活なんざよぉ!! せめて隅でコソコソ話せよ!! テメエら俺の談話室を、心休まる一時をどうするつもりだぁ!? ここは変態共が猥談をする為の部屋じゃねえぞド低能共ぉぉぉ! ドタマかち割って脳味噌引きずり出してやろうかぁゴルァァアァァァアァ!!!!」

 一瞬にして静まり返る談話室内。
 男女種族問わずその場にいた全員が驚愕の視線でこちらを見ている。しまった、またやってしまった。ストレスが限界まで溜まるとこうやって我を忘れて怒鳴り散らしてしまうのだ、前の部隊もこれが原因で飛ばされたのに、全く直っていない。
 暫く凍り付いていた室内だったが、さっきまで未亡人がどうのと騒いでいた兵士が黙って立ち上がり、真剣な顔でこちらに頭を下げた。

「すまん、配慮が足らなかった」
「あ、いや、分かればいい」

 案外素直に頭を下げてきたのでこちらも怒りを納める。分かってくれたようだ。
 彼はそれまで共にカードゲームしていた兵士達に声をかけると、テーブルと椅子ごと部屋の隅に移動する。一体何をしているのかと見ていると……。

「で、その未亡人の名前がだな」(ヒソヒソ)




「そういう事言ってんじゃねぇぇぇぇぇぇえええぇええ!!」




 ふと気が付くと、目の前には血達磨になって床に転がる兵士が6人、そして周囲には砕け散った椅子とテーブルだった物とトランプが散らばっていた。慌てて全員の怪我を診ると、骨折はしていないもののかなり強い力で殴られたあとがあり、全員昏倒していた。どうやら備え付けの椅子でしこたま殴打されたらしい。

「こ、これは酷い! 一体誰がこんな事を!?」
「いや、アンタだアンタ」
「まさか!?」
「いやその返答がまさかだよ!?」

 驚愕の視線をこちらに向けてくるのは、自分と同じ小隊に所属しているライア軍曹だ。しかし彼女の言葉には随分と聞き捨てならない言葉が含まれている。これは訂正せねば。

「自分は衛生兵として誰かの命を助けた事はあっても、害意を持って傷つけた事はありません! ましてや同じく戦場で命を預ける同胞を傷つけるなんて!」
「ああ――そうか、うん、凄いな。アンタは凄いよ、いろんな意味で」
「ははは、衛生兵として当然の事です」
「へ、へぇ。それが当然だったらアタシは今後衛生兵を見る目が変わるなー」
「そうでしょうそうでしょう」

 尊敬の視線でこちらを見るライア軍曹に誇らしげに頷いてみせる。おっと、このまま彼女に衛生兵の偉大さを教えるのもいいが、まずはこの怪我人を何とかしなければ。談話室の壁際にある長椅子に向かって進むと、その前にたむろしていた兵士達がザザッと左右に避ける。丁度退いて欲しかったので好都合だが、何故こんなに素早く退いてくれたのだろうか?
 はてと首を傾げながら長椅子の上、蓋になっている部分を開けると、中から人数分の担架を取り出す。以前談話室で人が倒れた時に担架を用意できなかった教訓を生かして設置したのだ、無断で。早速役に立ってよかった、やはり自分には先見の明がある。

「すみません軍曹、運ぶの手伝ってくれません? あ、あと誰かプリニー軍曹を呼んで来てください」
「サ、サーイエッサー!!」

 ぐるっと見回して視線の合った女性兵士がビクンと激しく跳ね上がると、恐ろしい速度で敬礼をして外に飛び出していった。凄い反応速度だ、流石にライア軍曹の下で猟兵としているだけはある。

「可哀相に……」
「はい?」
「いや、何でもない。おい、ぼさっとしてないでお前らも手伝え。さもないと談話室の主が怒り狂うぞ」
『サー・イエッサ!!』

 テキパキと怪我人を担架に乗せて運び去る兵士達と共に医務室に向かいながら、ふと疑問に思った事をライア軍曹に問いかける。

「「談話室の主」って何です? 都市伝説かなんかですか?」
「――さっきまで都市伝説だと思ってたよ、アタシも、他の兵士も」
「はぁ……?」

 答えになっていない答えを聞いて、思わず首を傾げる。何故か彼女は明後日の方を見たままこちらと目を合わせようとしない。担架を運ぶ他の兵士を見ても、何故か全員冷や汗を掻いたままきょろきょろと視線を泳がせていた。

「まあ、いいか。ベッドに寝かせたらあとは自分が対処しますので」
「止めを刺すつもりじゃないだろうな……」
「はい?」
「な、何でもない」

 何故か異様な緊張感を漂わせながら、負傷した兵士を伴った一行は医務室へと向かったのだった……。



■■■



「全治一週間の打撲傷だな。全く……戦場から離れている時くらい大人しく出来んのかこいつらは」
「全くです」

 溜息をつきながらカルテを書き込んでいる軍医殿の言葉に大きく頷く。今この瞬間にも南方の治安が悪い所や北の大森林地帯で死闘を繰り広げている兵士がいるのだ、こんな後方の安全な所で怪我をするなんて馬鹿らしい。

「プリニー軍曹、そっちはどうだ?」
「このひともー打撲ですねー」

 最後の一人を見ていたプリニー軍曹が軍医殿の言葉に答える。既に打撲傷によく効く塗り薬を塗ってから包帯を巻いてあるのだが、軍医殿が受け持った2人と自分が受け持った3人、そして最後に軍曹が受け持った最後の一人の包帯を見ると明らかに違うのが分かる。彼女のやつが一番汚い巻き方だった。
 あれでは静脈の血が止まってしまうじゃないか……。

「……軍曹、自分が巻き直します」
「うぅ……ごめんねーユージンごちょー」
「いえ、このままだと彼が可哀相なので。このままだと欝血してしまいますよ」
「うう……」

 あからさまに溜息をついて包帯を一度解き、最初から巻き直す。その様子を見ながら、彼女は首を傾げながら軍医殿の方を見た。

「あのー、魔法と生体治療でやったほうが、はやいとおもうんですけどー?」

 確かにその通りなのだが、この軍医殿は確り考えがあってこんな方法をとっているのだ。ちらりと彼の方を見ると、渋い顔で首を横に振っていた。

「確かにその方が治りは早い、だが傷の痛みを体験していなければまたこいつらは同じ事をするかもしれんだろう? 魔法の力は怪我に対する恐怖を麻痺させてしまうのだ、なるべく緊急時以外は使うべきではない。いいな?」
「…………はーい」
「不満そうだな」

 そう言って苦笑を浮かべながら、彼はテーブルの上のコーヒーを一口啜った。彼女は何だか言いたそうな顔をしていたが、彼の言葉には含蓄がある、素直に頷かざるをえなかったのだろう。彼はどこか遠くを見ながら、ここにいない誰かを思い出すかのような表情で語り始める。

「そうやって魔法の力に頼り切ってしまい、魔法の力を過信し、危険な事をやって命を落とした人間を何人も知っている。魔法は確かに強大な力を持っている、医学の力では到底適う事のない万能性も確かにある。だが、魔法は――そして医学の力であっても、死者を生き返らす事は出来んのだ。無茶をやって死ぬ奴が出てからでは遅い……頭の隅にでも置いておくんだな、軍曹。そして伍長、君もだ」
「はい……」
「はっ」

 珍しく真剣な顔をして頷く彼女を視界の隅に入れながら、確かな経験に裏打ちされた彼の言葉に力強く頷いた。そして包帯を綺麗に巻き直すと、それで6人の治療は完了した。軍医殿に頭を下げて医務室を出ると、何故か真剣な顔を維持したまま彼女が話しかけてきた。

「ユージンごちょー、ちょっといーい?」
「なんでしょう」
「あのねー、ふつうの衛生兵ができるようなこと、おしえてほしいの」
「はい?」

 その言葉に思わず首を傾げる。一体この人は何を言ってるんだ?

「軍曹、貴女衛生兵でしょ?」
「うん、でもね、魔法と生体治療でぜんぶおわっちゃうから、ほとんどしらないの」
「は、あ……」

 その言葉に思わず首を傾げる。何故ならその言葉と先程見た光景が矛盾するからだ。

「でも、それだったらどうして包帯の巻き方を知っているんですか? 確かに少し汚かったですけど戦場だったら十分通用する巻き方でした。生体治療があるなら包帯は不要でしょう?」

 生体治療とはスライム族が得意とする治療方法で、自分の生体組織の一部ないし全部を使って血止めと細胞接合・再生を行う治療だ。魔法だけでは千切れた腕や足を元に戻す事は困難だが、生体治療を使えばジェル内で急速に進行させた再生能力によって元通りに繋ぐ事も可能だ。戦場という生傷の耐えない場所ではこれ以上無いほどに便利な能力と言える。つまり、極論を言ってしまえば彼等の治療法方では包帯は必要ないのだ、もっと高性能で使い勝手のいいジェル――つまり自分の体があるから。そう、つまりそのせいでスライムの衛生兵は本来ならば知っていなければならない筈の知識がなかったり、そもそも使わないので忘れてしまっていたりする事がよくある。なのに彼女は拙いなりにきちんと衛生兵としての知識を持っていた、少なくとも何度か任務を共にして確認済みである。

「えーと、それはねー以前うちのぶたいにいた衛生兵のヒトにおしえてもらってたからー」
「その人はどうしたんです?」
「ごちょーが来るまえに……しんじゃった」
「……すみません」

 流石にこれは自分が悪いので頭を下げる。少し考えれば分かる事なのにわざわざ口に出して訊いたのはこちらの落ち度だ。これ以上この話題は引っ張るべきではない、早く結論を出してしまおう。

「私も自分の勉強がありますので直接教えるのは無理です」
「そっかー……」
「ですので、自分が使っていた古い教本を差し上げます。それで勉強して練習してみてください」
「え……」

 驚いた顔で彼女がこちらを見る。何なのだろうこの顔は、確かに自分はスライムが嫌いだが、そんな個人的な好悪の感情で任務にマイナスな事は持ち込めない。そして彼女が衛生兵としての知識と技術を見に付けるというのはプラスの事だ、反対するわけにもいかないし、それを何とかする方法を自分が持っているのだから提供しないという選択肢は無い。…………まあ、自分に時間があったとしても彼女とマンツーマンで教えるというのは絶対に御免被るが。

「ありがとーごちょー」

 満面の笑みを浮かべる彼女に若干鼻白みながら答える。

「いえ、どうせもう使いません。宿舎に来てください、お渡しします」
「うん、わかったー」



■■■



「これです、どうぞ」
「うわーありがとー、だいじにするねー」
「いえ、汚しても構わないので確り学んでください」
「わかったー、じゃあおやすみー」
「良い夜を」

 軽く敬礼をして室内に戻ると、ドアを閉めるその瞬間までその向こうで彼女が手を振っているのが見えた。戸を閉めて、左右の壁にある二段ベッドの右側下段に腰掛ける。そうしてバッグから談話室で読んでいた医学書を取り出すが、数行読んだところで全く集中出来ないことに気がつき、枕元に放り投げる。

「はぁ……」

 彼女がその緩い言動とは裏腹に非常に優秀である事は理解している、そして自分の力が全く持ってそれに及ばない事も……。正直な所、スライム族の生体治療は非常に優秀だ。しかもうちの部隊にいるスライムは全員それに加えて回復魔法も取得しているから、大抵の傷はそれで済む。それらで治療できないものとなれば、病気か、或いは生まれた時から持っている疾患くらいのものだ。自分より階級の低い衛生兵の方が治療が上手い、これほど屈辱的な事が他にあるか? しかも、よりにもよってスライムなのだ! 人間でもオークでもエルフでもハーピィでもなく、星の数ほど異種族がごた混ぜになった北方軍なのに、その中でわざわざスライム!

「畜生……」

 ポツリと呟き、両手で顔を覆う。劣等感と屈辱感、そして自分とスライムに対する嫌悪感に吐き気が収まらない。プリニー軍曹が素晴らしい治癒能力の使い手であることは理解している、部下のスライムたちもそうだ。だが、彼女達を目の前にするたびに体の奥底から震えが湧き上がって来る。必死にそれを押し隠して鉄の仮面を被り、自分自身に言い聞かすのだ、「彼女達はあのスライムとは違う」と、何度も何度も。だが、無理だ、際限なく溜まっていくストレスは徐々に体と心を蝕み始めていた。

「………………」
「………………ん?」

 ふと視線を感じて顔を上げると、そこには直立した茸のような物体。ファンゴノイドのアルガスが立っていた。彼(彼女?)は同じ部隊で同室である唯一の相手である。頭部はドクツルタケのような白くて丸い形をしており、目も鼻も耳も見当たらない。また、口はあるが声帯がないのか一切話ができない。両手の指は三本しかなく、両足は二本どころか下に行くにつれて際限なく枝分かれしている。移動する時は全く音を立てずにするするとと地面の上を移動するのだ。ちなみに話せないのに何故名前があるのかと首を傾げたのだが、自分がこの部隊に来た時から皆がそう呼んでいたのだからしょうがない。恐らく筆談でもしたのだろう。
 彼とは会話をした事はないが、時々自分がこうしてストレスと自己嫌悪に押しつぶされそうになっていると、いつの間にか傍に佇んで体の疲れを吸い取っていてくれた。その言葉を聞けない限りこちらが想像するしかないが、恐らく心配をしてくれているのだろうというのは理解出来る。

「悪い、アルガス。だいぶ楽になったよ」
「……」

 彼は黙って頷くと、そのまま梯子を上って二段ベッドの上に登っていった。構造的に人間が使う梯子は使えないので、梯子と言うよりギザギザの付いた滑り台といった方がいい。スルスルと彼が上に登って行ってからも、体の芯からじんわりと温かくなるような感覚が続いている。ファンゴノイドが生物から疲労を取り除く時に起きる現象だった。

「ありがとう…………」
「…………」

 相変わらず彼は何も答えなかったが、その優しさに涙が零れ落ちた。



■■■



「湿地の奥に進んではならない」

 それはこの村に住んでいる全員が口を酸っぱくして子供達に教えている事だった。村のすぐ傍にある湿地帯は様々な富を与えてくれたが、それと同時に様々な不利益をももたらした。その大きな理由の一つは、豊かな生態系に潜む魔物たちの姿である。水源近くに住む大小様々な蟲系モンスターに続き、それを捕食する爬虫類・両生類系のモンスター、そしてそれらを更に捕食する大型のモンスターたち。特に「溝に潜むもの」と言う二つ名で恐れられるトレンチワームは、それ一匹で小さな村が壊滅する程の危険性を秘めていた。
 そんな危険性を十二分に知っている大人たちは、毎日の様に子供達に言い聞かせるのだ、「湿地の奥に進んではならない」と。しかし駄目と言われれば行ってみたくなるのがヒトの性か、子供らしい無謀な度胸と好奇心に突き動かさされたユージンは、あれほど行ってはならぬと言われていた湿地帯の奥に分け入ってしまった。

「すげぇ……」

 そして目の前に広がった光景に息を呑む。豊かな水源を抱える大湿地帯には種々様々な水生生物たちが住み、鷺や鶴を代表とする水鳥達がそれを狙って集まっている。生い茂った葦の影から、カワウソやテンといった水辺に住む哺乳類たちが魚や鳥を狙っている。豊かな自然と、動植物。村の近くの湿地とは大きく様変わりしたその光景に胸が高鳴った。そして、村の大人達の言葉は、これを子供達から隠して独り占めする為に紡がれた方便なのだと勝手に解釈する。
 この時点で引き返していれば、何事も無かっただろう。勝手に奥に入った罰をたっぷり受けて、仲間達に自らが体験した光景を語って注目を浴びる――だが、彼はそこで引き返すような事などしなかった。夢中で魚を釣り、狩猟用の手弓を使って鳥を射落とす。村の周囲では3日かかって漸く集まるような獲物があっと言う間に集まってしまった。

「へへへ……大量大量」

 ホクホク顔で踵を返し、村に戻る道を進む。
 そして、彼は次の瞬間思い知る。なぜ、あれ程までに大人達が行ってはならぬと言い聞かせていたのか、その理由を……。

「うおっ何だ?」

 突然右足がズボリと地面にはまって動かなくなる。湿地帯ではよくあることだった、彼は小さく舌打ちをして足を抜こうとするも、何故か抜けない。嵌まった先にある泥は何故か粘性が高く、しかも徐々にその水位が上がってきているように感じられた。

「あ? なんだこ――ぎゃああぁぁあぁぁあ!!」

 突如として右足を襲った激痛に、彼は悲鳴を上げて地面に倒れる。静かな湿地帯に響き渡った少年の悲痛な叫びに、周囲でたむろしていた水鳥達が一斉に飛び立った。まるで炎の中に足を突っ込んだかのような痛みが脳髄を突き刺し、そしてその痛みは徐々に右足を伝って膝から太腿の上に這い上がってくる。

「ひっ、ひっ! い、痛い、なんだ、これ!?」

 生まれて初めて味わう苦痛に涙を流した彼の目に飛び込んで来たのは、右足全体を覆う暗褐色の粘性生物。スワンプスライムと呼ばれる下等スライムの一種で、沼地や湿地に潜んで獲物がかかるのを待つ狡猾なモンスターだった。
 既に右足の靴とズボンは全て解かされ、皮膚が溶かされ始めていた。しかもそれだけに留まらず、相手はズルズルと這いずって身体を登って来ている。自分を食うつもりだ、そう直感した彼は、引き攣った悲鳴を上げながら這いずって逃げ始める。だが、彼の右足に食らいついたスライムは、獲物が逃げ出そうとしているのを感知した瞬間、それまでののろのろとした動きが嘘のように瞬時に動いた。
 彼が最後に見た光景は、がばりと扇状に広がったスライムがこちらに飛び掛り、スライムの身体で真っ暗になった視界だった。



■■■



「――っはっ! ぁッ!」

 ガバッと布団を跳ね上げて飛び起きる。全身から滝のような汗が流れ落ち、下着も寝巻きも汗を吸ってぐっしょりと濡れていた。ハァハァと獣の様な息遣いと共に、まるで全力疾走の後の様に心臓は暴れ回っている。

「はぁはぁはっぁ、く……ッ!」

 服の上から心臓を掴む。この夢を見た後はいつもこんな状態だった。もっと小さい頃は毎晩のように魘され悲鳴を上げながら飛び起きていた。15で成人してからは回数も減り、夢の内容もおぼろげな物が続いていたのだが……今回のはかなり鮮烈で、当時の情景をまざまざと思い出してしまった。

「…………」
「アルガス……いや、大丈夫だ、少し夢見が悪かっただけさ」
「…………」

 上のベッドから覗き込んでいたアルガスにそう答えると、彼は黙って頭を引っ込めた。他の同室の兵士はすやすやと眠っている事から、どうやら悲鳴は上げなかったようだ。
 喉はからからに渇いており、唾すら出てこない。震える手つきで水差しからコップに水を注ぎ込み、一気に呷った。ごくごくと喉を鳴らして水が胃の中に入っていく感覚と同時に、喉の渇きが癒えていく。続けて数杯同じように飲んだ後、濡れて気持ちの悪い服を着替えた。

「畜生……絶対こんな部隊、出て行ってやる」

 歯を食い縛ってそう呟いてからベッドに入る。また悪夢を見はしないかとビクビクしながら、その日の夜は更けていった……。



■■■



 それから数週間がたった。
 基地での待機は終わり、精鋭部隊たる第七特務警邏隊は新たな任務を与えられて北西方面の森林部へと向かう。敵は異常繁殖したスカラベスライムだと聞いた時、足が竦まなかったと言えば嘘になる。あれ以来毎晩のようにあの夢を見るようになってしまい、悲鳴こそ上げないもののその精神的疲労は積もり積もっていた。待機任務中ならまだしも、作戦行動中はどうしたって部下のスライムに指示を出したり、上司のプリニー軍曹と打ち合わせをする必要が出てくる。その度に理性を総動員して無表情を貫いているうちに、いつの間にか能面のような無表情がぴたりと張り付いて取れなくなってしまった。
 自分が上司や部下、同僚達から心配されている事には気が付いていたが、それらに気を配るような余裕は既に失われていた。ひたすら事務的に受け答えをし、部下に指示を出し、仕事に没頭する。そうでもしなければ、到底耐えられなかった。後で聞いた話によると、この時の自分はまるで幽鬼さながらの様子だったらしい。
 被害報告のあった村に入り、空き家を借りて下士官が集う。全員が揃ったのを見て取って、ペンカラ軍曹が声を発した。

「よし、作戦内容を説明する。謹聴!」

 ペンカラ軍曹の号令と共に、彼の部下がテーブル上に周辺地図を広げた。中心部に現在自分たちがいる村がある。そして北から南西にかけての範囲に扇状に広がった赤い点は、村人達がスカラベスライムを目撃・撃退もしくは被害にあった箇所である。その予想以上の広範囲に、全員の目が鋭くなる。それを確認してから小隊長のラシャンプ少尉が口を開いた。

「見ての通り敵は広範囲にばらけている。戦力の分散は本来ならば愚策であるが、今回は敵の脅威度がそれほど高くない事、村がすぐ傍にある為に撤退と補給が容易な事、そして既に村人から被害が出ている事を鑑みて小隊を三つに分ける。編制内容を」

 その言葉に、ペンカラ軍曹がすぐさま反応した。

「ハハッ! それぞれの分隊から戦力を抽出し、偏りがないように均一に分散する。最も複雑な地形を有する北にはライア軍曹とラシャンプ少尉が、西にはガルニア軍曹とカチュア曹長が、南西は一番敵の数が少ない故、各分隊の副分隊長が指揮を執るように。プリニー軍曹と某(それがし)、各分隊から出たあまりの一人は予備戦力として村に配置する。北から順に第一・第二・第三部隊とこれらを呼称する、質問は?」

 すぐさま手を上げる。

「ユージン伍長、どうした」
「自分よりプリニー軍曹の方が治療技術に優れています、彼女が前線に出ていた方が即応性が増すのではないでしょうか?」

 スライムと戦いたくない。その思いから発せられた姑息な意見だったが、意外と的を射ていたのかペンカラ軍曹はもっともらしく頷いた。

「確かに一理ある。だが、予備戦力とは危機に陥った味方の元にすぐさま駆けつけ、それを助ける事が役目だ。確かに前線にいれば駆けつける間も無く助けられるだろうが、今回のように戦線が延びてしまっている場合は自分がいる部隊しか助けられん。臨機応変に対応する為にもこの布陣は必要な事なのだ。それに――」

 そこで彼は意味ありげにこちらを見た。

「ユージン伍長、お主の指示は的確で淀みなく、部下からの評判も上々だ。プリニー軍曹は生憎と腕は良いが指揮官としてはあまり優秀でない、第五分隊は実質君が率いている状況だ――そんな事では、困るのだがなぁ……」
「うう…………」

 若干呆れたような視線を投げかけられたプリニー軍曹は、何も言い返せないのか唸ってしょんぼりと頭を垂れる。辺りに苦笑が満ちて空気が弛緩するが、自分だけは黙って頭を下げて「了解しました」と返した。理路整然と説明されて、全くそんな気はないのだろうが、まるで自分の浅ましい考えを見透かされたような気がしてならなかった。

「よし、他に質問はないな? 予備戦力を呼び出す時は魔術師の念話通信を利用せよ、符丁はいつもの通りだ。では今から編制内容を読み上げる、各分隊長は覚えておくように。まず第一部隊の編成は――」



■■■



「えーと、えーと、それで、第二部隊は……」

 ちらりと彼女がこちらを見る。
 やっぱり、覚えられなかったのだ、このひとは。溜息をついて、彼女の代わりに指示を出す。まあ、第一部隊の編成を覚えていただけでも驚きだったのだが。

「ブリュアー、シフティ、コンプトン! 第二部隊に配置!」
『イエッサ!』
「デュークマン、ヘフロン、リーブゴットは第三部隊に配置! ペルコンテは予備!」
『サー・イエッサ!』
「作戦開始、愚図愚図するな!」

 パッと彼らが散って行く横で、彼女は申し訳無さそうに頭を下げた。

「ごめんね……ごちょー」
「……指揮官が」
「え?」

 駄目だ、黙れ。
 そう自分に言い聞かせるも、どす黒い感情に後押しされた言葉が口から溢れ出た。

「指揮官が軽々しく部下に頭を下げないで下さい、士気に関わります。それに謝るくらいならこれくらい御自分でなさってください、メモぐらいしたらどうですか。自分はあなたの子守をしに軍人になったのではありませんっ」

 必要以上に刺々しい、侮蔑の感情を込めた言葉。
 いつもなら、絶対に口にしないような皮肉に、彼女は目を見開いた。

「う……ぁ、ごめ――」
「………………」
「あ……」

 彼女は思わず口を付いて出そうになった謝罪の言葉を飲み込んだようだった。軽々しく謝るなと、今さっき忠告したから。
 これ以上ここにいられない、作戦開始まで時間がないのもあったが、ショックを受けた顔の彼女をこれ以上見ていられなかった。思わず口を付いて出そうになる罵詈雑言を無理矢理飲み込んで踵を返す。確かに指揮官としては誉められた人物ではない、だがそれ以上に優秀な分野で活躍しているのだ、誰も感謝こそすれ責める謂れはない。これは単なる八つ当たりだった、見苦しく、不様だ。

「デュークマン、ヘフロン、リーブゴット! 装備が整い次第南門に集結! 遅れるな!」

 背後に彼女の視線を感じながら南門に向かって歩いていく。心がちくちくしてイライラが積もっている、大丈夫だ、戦闘が始まればまたいつものように頭を切り替えられる。そう信じ、部下と共に第三部隊へと合流した……。



■■■



「上から来るぞ、気をつけろ!」
「重歩兵前に出ろ、ハンマーで叩け!!」

 第二分隊から配属された重歩兵の一撃が、身の丈数メートルに達した巨大なスライムを叩き潰す。前衛にオーガ、トロル、人間から構成された重歩兵と、ドラゴノイドの戦士が3人ずつ。その後ろには弓を構えた人間、エルフで構成された猟兵隊員が3人。そしてその後ろからエルフと人間の魔術師が3人、常に援護の為に魔法をフル稼働させていた。

『LOR(ラーザンメレー)TO(ターザンメ) 吹き荒れよ刃の暴風 風の乙女達よ踊り狂え 我らが敵を切り刻め!』

 唱和された呪文が発動し、真空の刃が遅い来る敵の群を細切れにする。それだけでは後で復活する為、すぐさま発動される「発火」の呪文で焼き潰した。戦闘が始まって既に30分が経過、そして若干梃子摺りながらも順調に敵はその数を減じていた。

「衛生兵!」
「ドーク!」

 前線から悲痛な叫び声がこだまする。
 出番だ。

「ヘフロン、来い!」
「ハッ!」

 ストーンスライムと呼ばれる、体表面に岩の皮膚が出来ている種類のスライムであるヘフロンを伴って駆け出す。悲鳴を上げていたのは人間の猟兵隊員、確かジャクソン。焼け爛れた右腕を地面に投げ出して座り込んでいる。

「いってぇぇえ! くそ! 指が!」
「落ち着け、俺の目を見ろジャクソン。負傷は右腕だけか?」
「そうだよ、畜生あんにゃろう発火で燃え上がりながら突っ込んで来やがった!」
「ヘフロン、生体治療と回復魔法。弓を引けるくらいまで回復させろ」
「ハッ!」
「まて、俺はクロスボウだ、血を止めて痛みが無くなればいい」
「よし、軽傷段階まで持っていけ」
「了解しました!」

 ヘフロンが負傷者の右腕をジェルで被い、すぐさま回復魔法を唱える。今回の任務は戦力が分散している、たった一人の戦線離脱で戦局が大きく変わるような戦闘だ、悠長に完全回復まで治療していられない。

「衛生兵ー! 来てくれ!」
「待っていろ! リーブゴット! 行け!」
「ハイ!」
「メディック! 来てくれ!」
「すぐに行く!」

 目まぐるしく展開する戦場を右に左に捌きながら、この忙しさに内心安堵する。スイッチに切り替えは出来ている、自分はまだ大丈夫だ。
 そう必死に言い聞かせながら、やけどを負ったドラゴノイドに駆け寄って治療をする。確か名前はゲンシュウとかいったか。肌にこびり付いたスライムの残骸は脱水剤を振りかけて殺す、そして鱗を溶かして焼け爛れた皮膚に化膿止めのサルファ剤を振りかけてガーゼをあて、素早く包帯を巻いていく。この間約20秒の早業だ、これに関しては部隊内の誰にも負けない自身がある。

「俺は魔法が使えないんでこれで勘弁してくれよ、ゲンシュウ!」
「支障ない! この程度の痛み、むしろあった方が身が引き締まる!」

 ドラゴノイドらしい武張った言い方に思わず笑みが零れ落ちる。

「そいつは頼もしい、そろそろ終わりが見えて来たぞ。もうひと踏ん張りだ」
「応!! 世話になったな、ユージン!」

 彼は確か炎竜系のドラゴノイドだ、その証拠に敵を大剣で薙ぎ払った後に火炎のブレスを浴びせかけている。山火事にならない程度に威力を抑えているが、本気で吹けばわざわざ剣で切り刻むまでもなく焼き殺せるだろう。

「伍長! 魔術師が呼んでいます!」
「すぐに行く!」

 後方にとって返すと、魔術師の一人がぜえぜえと息を荒げて蹲っている。あの年中青白い顔のエルフは確かムース・ハイリガー、まずい、やつは喘息持ちだ。慌てて彼の傍に滑り込んで介抱する。

「薬はどうした!?」
「ヒュー、ゴホッ! すまん、さっきの戦闘でどっかに飛んでった、ゲホッ! ぜっはっ! 予備は、ないか?」
「クソッ! あんな薬持ってくるかよ…………デュークマン! 来い!」
「ハッ!」

 思いついた事を試してみる、それが効かなければ後送するしかない。

「生体組織を親指の先くらい出せ、この天秤皿の上だ」
「ハッ!」

 雑嚢から取り出した鉄製の小皿の上に生体組織を乗せる。それに雑嚢から取り出した薬包を解いて、中から出したステロイド剤を捏ねて溶かす。

「ハイリガー、ヒートの魔法を使え、このジェルが蒸発して霧になるから、それを吸い込むんだ。咳は我慢しろ、一気に吸い込め」
「ひゅー、ひゅー……分かった」

 彼が呪文を発動させた途端、皿の上のジェルは一気に気化した。ハイリガーは必死に咳を我慢しながらそれを一気に吸い込む。

「ぐ……は、あ、れ? 楽になった……」
「よし……効いたみたいだな」
「すげぇ……」
「これに懲りたら次からはもっと薬は大事に扱えよ」
「すまん、恩にきる!!」

 ハイリガーは立ち上がると、すぐさま戦線に復帰した。

「デュークマン、左翼後方に控えていろ」
「イエッサ!」

 既に戦闘は終わりの兆しを見せていたが、念には念を入れる必要があった。



■■■



 戦闘は終了した。今は残敵の掃討に移り、第三部隊は散開して残りの敵を潰して回っていた。

「やれやれだな……」

 溜息をついて木に寄りかかると、雑嚢から紙巻煙草を取り出して「着火」の呪文で火をつける。この程度の魔法とも呼べない魔法なら、自分でも使う事が出来た。暫くそうして紫煙をくゆらせていると、腕に包帯を巻いたゲンシュウがこちらに歩み寄って来た。

「戦闘中は世話になったな」
「もっかい見せろ、包帯を巻きなおす」
「すまぬ、助かる」

 煙草を咥えながら手早く包帯を解いていくと、応急処置と言って差し支えない状態で戦闘を続けた為にまた血が滲み出ていた。すぐさま蒸留水で洗い流してからガーゼで拭い、止血剤を振り掛けてから新しいガーゼを当てて包帯を巻く。

「手早いな」
「それだけが取り得なもんで」
「謙遜する事はない、これだけ種族がバラバラの部隊にいながら全員に的確な治療が出来るのはお前ぐらいのものだ」
「ま、バラバラっつっても基本人型だからな」

 そんな無駄話をしているうちに包帯が巻き終わる。最後にぽんと傷口を叩くが、流石にドラゴノイドは痛みに顔を顰める事もなかった。包帯の巻き終わった腕を感心しきりながら見つめ、その上から篭手をはめている。

「では、そろそろ俺は捜索に戻る」
「おう、確りやれよ。もう俺の仕事増やすなよ」

 そう言って手を振ると、彼はその場を立ち去って苦笑しながらこちらを見た、そして、その顔が驚愕に凍りつく。

「ユージン!! 危ない!!!」
「へ?」

 ぼとり、もしくはべちゃりと表現するような感触と共に、右半身に何かがへばり付いてきた。その衝撃で、煙草が地面に落ちる。ああ、高いやつなのに。そんな間抜けな思考をした次の瞬間、突き刺すような痛みが右半身を襲った。

「クソッ!! 誰か来てくれ!!」


「ぎゃああぁぁあぁあぁぁぁあっぁああああぁ!!??」


 熱い! 熱い熱い熱い痛い!! 体が、体が溶けていく!!

「ユージン!! クソ、この下等生物がぁ!!」
「止めろゲンシュウ、ユージンごと焼き殺すつもりか!?」
「衛生兵! ハイリガー! 速く来てくれ、ユージンが!!」

 周囲にいた仲間が大慌てで魔術師と衛生兵を呼んでいる。ゲンシュウと重歩兵のトロル兵が必死に体からスライムを引き剥がそうとするが、右半身を完全に覆ったそれを取り除く事は用意ではない。

「あ、がぁっ、いたい、痛い!」
「伍長!」
「ユージン!?」

 駆けつけて来たハイリガーと部下の衛生兵が驚愕の表情で滑り込んでくる。ハイリガーはこちらの様子を見て取るなり素早く背後の魔術師に命令を飛ばす。

「ラズ! 予備隊に通信、プリニー軍曹を呼べ!!」
「イエッサ! 緊急、緊急、予備隊応答せよ、こちら第三部隊、緊急事態!!」

 右半身がぐずぐずと溶けていくのが分かる、死ぬ、このままだと間違いなく死ぬ。

「畜生どうすりゃいいんだ!?」
「魔法で焼き殺せないか!?」
「無茶です、身体も焼いちまいますよ!!」
「だっ……すぃ」
「なに!?」

 引きつった喉を何とか動かして、傍らのゲンシュウに声を届ける。

「脱水、剤、を」
「っ! 脱水剤をかけろ! あるだけ全部だ!」
「了解!」
「分かった!」

 衛生兵がバッグから取り出した白い粉末をかける。さらに全員が配給されているそれをバッグやポーチ、印籠から取り出して振り掛け始めた。いつの間にか、周囲には第三部隊全員が集まっている。

「クソ、足らない、どうすりゃいい!?」
「もっとないか!? 誰も持ってないのかよ!」
「ユージン、教えてくれ、どうすればいいんだ!?」
「ユージン!!」

 痛い、体が熱い、思考が散り散りに乱れて纏まらないいたい、いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!!!!!!

「し……く、ぃ」
「なに!?」
「しにたく、ない……」
「ッ!!」

 ゲンシュウが自分の手が焼け爛れるのも構わずにスライムを引き剥がし始める。

「死なせるか! お前は死なない! 絶対に生きて帰れる!!」
「いたい、いたい……ちくしょう、こんな所で、しにたく、ない」
「手伝え!」
「応!!」
「頑張れユージン! 負けるな!」

 周囲に集まる、顔、顔、顔。皆知っている、名前も覚えた、戦場を走り回っているうちに覚えてしまった。

 その全員が、必死になってスライムを引き剥がそうと悪戦苦闘している。

 痛みと熱で朦朧とし始めた意識の中、ふと長年疑問に思っていた事が脳裏をよぎる。





 そういえば自分はあの時、どうやってあのスライムから逃れたのだったか?





「ユージンごちょー!!!!」

 聞き覚えのある舌足らずの声を聞きながら、自分の意識は闇の中に沈んでいった。



■■■



 誰か助けて。
 そう叫んだはずの口からは、ごぼりと空気の固まりが吐き出された。吐き出された空気の代わりにスワンプスライムの体が鼻と口を犯して侵入してくる。中と外から溶かされ食われる、その恐怖に怯え、無茶苦茶に暴れ回る。しかしか弱い人間族の、しかも10にしかならない少年の力では到底振り払えるものではなかった。
 自分は死ぬのか、愚かにも大人達の忠言を無視したばかりに……。やがて間断なく襲い繰る痛みが麻痺し始め、酸欠から思考能力が低下する。緩々と迫り来る明確な「死」を甘受し始めた瞬間、突然体の自由が戻った。

「ごっほ! がはっうえっ!」

 肺と胃の中に入ったスライムを思い切り吐き出す。外気に当たった肌はひりひりと痛みを訴え、溶けてぐずぐずになった皮膚がずるりと剥がれ落ちた。本来ならば正気を失うほどの痛みは、危険を感じた脳内の働きによって幸運にもカットされている。

「大丈夫? すぐに治してあげるからね」
「あ…………」
「よく耐えたわ、偉いわね」

 誰かに抱きかかえられて上を向くと、その視界に入って来たのは美しい妙齢の女性。だが、その肌は澄んだ水の色をしており、身に纏った服はひらひらとレース飾りの付いた豪奢な水色のドレス。心なしか向こうが透けて見えるような身体だった、まるで水で出来ているような――。
 水辺で死に掛けた人間をそっと助け、静かに見守ってくれる水の貴婦人……彼はその人ならざる相手に該当する存在を思い出した。両親が寝物語に語ってくれたその美しい相貌と、豪奢なドレスがその考えを補強する。

「ウンディーヌさま…………」
「え?」

 ポツリと彼が呟いた言葉に、その貴婦人はキョトンとした顔をしたあと、苦笑を浮かべた。

「参ったわね、上位精霊と間違われるなんて恐れ多いわ」
「ぅ、っ……ウンディーヌ様、ありがとう……」

 傷の痛みに引き攣りながらのその言葉に、彼女は優しく微笑みかけた。

「無理して喋らないで、今治療してあげる」
「あ……」

 彼女の口がぼそぼそと何かを呟くと、彼女のドレスがスルスルと紐解かれ、彼の体を覆っていく。その時点で漸く彼は既に全身の衣服が溶け消え、全裸になってしまっている事に気がついた。そして、最初に取り付かれた右足の惨状をも。

「ひ、あっ……」
「大丈夫、私が全部治してあげるから、ね?」
「で、も、ほ、骨が」

 彼の右足は既に骨と神経と血管がむき出しの状態で、どう見ても手遅れの状態だった。しかもそれだけ酷い状態になっているにも拘らず、自分の体が全く痛みを訴えない事に恐怖する。こんな状態の足が治るなんて到底彼には信じられなかった。

「ほら、御覧なさい……」
「あ……」

 スルスルと身体を覆った彼女のドレスがピタリと彼の肌に張り付くと、目にも止まらぬ速さで体中の皮膚が再生していく。そして最も重傷だった右足にそれらが巻きつくと、目の前で時間が巻き戻るかのように筋肉が、脂肪が、そして皮膚が再生していく。彼にとってはまさしく神の如き所業に見えた。

「すごい……!」
「はい、元に戻ったわ。でも服は戻せないの、ごめんなさいね」

 そう言って悪戯っぽくウィンクをされて、彼は自らが下着も纏わぬ全裸である事を思い出し、赤くなって股間を隠した。

「あ、あの、その、ありがとう! ウンディーヌ様!」
(うーん……違うんだけどなぁ……)

 だが、目を輝かせてこちらを見ている少年の夢を壊す事もないかと思い直した彼女は、あえて否定はしない事にした。少年を地面に降ろして、確り立てることを確認すると、彼女は足元に置いてあった自分の雑嚢から灰色のマントを取り出して少年にかけてやった。

「これをあげるわ。裸では戻り難いでしょう」
「あ、ありがとう!」
「じゃあ、村の傍まで送ってあげるから、案内してくれるかしら?」
「はい!」

 村に戻る道中、少年は御伽噺の中の住人に会い、しかもその相手に命を助けてもらった事に興奮仕切りであった。自分の村の事や、両親、友達、果ては隣の家が家畜を何頭飼っているだとか三軒隣の旦那さんが浮気をしているだとか、どうでもいいような事まで矢継ぎ早に話して聞かせる。だが、なにぶん子供の話す事だ、まだまだ10年ぽっちしか生きていない彼に会話のボキャブラリーは乏しく、何度も同じ話をしてしまう事もあった。だが、彼女はそんな話の一つ一つに律儀に驚き、感心し、笑って見せた。その様はまるで仲の良い姉弟が語らっているかのように見える。

「ウンディーヌ様の魔法、凄いな、もう全然痛くないよ。おれ、怪我するばっかりで誰かに治してもらってばっかりだ、情け無いよ……」
「ふふふ、有難う。でも、貴方も頑張れば誰かを癒してあげる事は出来るわ」
「ほんとう?」
「ええ、ようは努力の問題よ。貴方が本気になって誰かを救いたいと願い、そしてそれに向かって努力するなら……きっと、その願いは叶うわ」

 そう言って彼女は翳りのある笑みを浮かべた。偉そうな事を言って、自分は一体何様なのだろうか、どの口がそんなことを言うのか、そんな自嘲的な考えが脳裏を駆け巡る。だが、少年はそんな彼女の表情になど気付かずに、希望と憧れに目を輝かせて彼女を見ていた。そんな視線が、彼女には眩しく、痛かった。

「じゃあさ、じゃあさ! おれ、医者になるよ! 自分が助けてもらったぶん――いや、その何倍も誰かを助ける! そんで、いつかウンディーヌ様にも恩返しするよ!」
「あらあら、それは楽しみね。期待して待ってるわ」
「待ってて! 15になって村を出る許可が出たら、すぐに街に出て勉強するから! 帝国一の名医になってみせるよ!」
「ふふふ、随分とまあ気の早いこと」

 元気で少し無鉄砲な弟と、それを優しく見守るしっかり者の姉は、やがて少年の住む村からすぐの場所まで戻って来ていた。見慣れた景色に足取りも軽く、彼は傍らの彼女を仰ぎ見て楽しそうに口を開いた。

「もうすぐ村だ、父ちゃんと母ちゃんにウンディーヌ様を紹介したら、きっと驚くだろうなぁ」
「そうね……でも、私はここでお別れだわ」
「え……?」

 突然の別れの言葉に、少年は驚きの視線を彼女に向ける。彼の心の中では、当然ながら彼女も共に村に来てくれると考えていたからだ。だが、彼女はこれ以上進む事は出来なかった。元々自分は追われる身、今は追っ手を撒いているとは言え長く一箇所に留まれば彼らにも害が及ぶ恐れがあった。

「それと、残念だけど私に会った事も忘れてもらうわ。世の中には知らない方が安全に暮らせる情報もあるの」
「そ、そんな……!」
「ごめんね、貴方の為なの」

 暫し困惑し、忘れたくないと彼女に泣きつくが、真剣な顔で諭されては頷かざるをえなかった。流石に自分だけではなく村全体に迷惑がかかるかもしれないと言われては、我侭を通す事など出来ない。まだ幼いとは言え、彼は共同体の一員としての意識をしっかり持っていた。

「分かった……」
「良かった、いい子ね」
「…………」

 黙って俯いてしまった少年に良心を痛めながら、彼女は忘却(オブリビオン)の魔法を唱える。せめてもの餞別として、彼がスライムに襲われていた時の記憶もその効果範囲に設定する。10歳の少年が体験するには、あまりに惨く鮮烈なその記憶は、いずれこの少年を害するだろうと思っての事だった。
 そうして呪文を唱え終わり、その効果を発動させようとした瞬間、意を決したかのように少年が顔を上げて彼女を見た。その相貌には決意と焦燥が表れ、思わずといった感じで彼女のドレスを掴んだ。

「俺、俺、ユージン! ユージン・ザニテーターっていうんだ!」

 彼の言葉に、彼女はふわりと笑って答えた。

「私の名前はプリニー。プリニー・アウレリア・サイフォゾア。……それと、私は精霊じゃなくてシースライム族なの、ごめんね」
「え?」

 パチリと悪戯っぽくウィンクをしてから、彼女はそっと少年の唇に口付けをした。その瞬間発動した忘却の魔法が、彼の記憶を洗い流していく。そうしてそのまま彼は湿地であった全ての事を忘れ、無事に村の人間達に保護される――はずであった。この時、彼女にとって大きな誤算だったのは、この幼い人間族の少年にとって彼女との出会いは酷く鮮烈で、そして少年の精神力が並外れたものだったということ。冷静に考えてみればその片鱗はあったのだ、スライムに全身を食われながらも発狂せずにいた事や、明らかに正体不明の彼女に対して物怖じせずに受け答えをする様など。

(嫌だ、忘れたくない。この人のことを、ずっと覚えていたい!!)

 魔法の力とは、詰まるところ精神の力である。つまり精神の力で放たれた力は、同じく精神の力で相殺する事が出来た。彼の心が土壇場で振るった強い想いは、彼女の魔法を打ち破った――ただし、不完全な状態で。忘却の魔法は確かに発動した。しかしその効果範囲は半分だけ、しかもその効果の及んだ半分も、消し去るまでは行かずに記憶の奥底に沈めるだけにとどまった。
 そして、なんという皮肉だろうか。心の底の底に押し込められたのは、あろう事か少年が忘れたくないと願った彼女の記憶。そしてあの湿地帯でスライムに襲われた忌まわしい記憶だけが彼の記憶野表層に残された。
 村の入り口で呆然と立っている所を保護された彼は、勝手に湿地の奥へ入った事、そしてそこで巨大なスライムに襲われて命を落としかけた事は覚えていた。だが、到底助からないその状況で何故か彼は生きていた、そして、彼の持ち物ではない見覚えのないマント。村の人間は、恐らく少年は偶々通りかかった冒険者に助けられたのだろうと推測した。現に、少年も「確か誰かに助けてもらったと思う」と言っていた。だが、その容姿はおろか種族すら満足に思い出せず、村の人間は死にかけたショックであろうと無理矢理思い出させるような事はしなかった。
 少年はショック状態で、結局誰に助けて貰ったのか最後まで思い出せず、毎晩悪夢に魘されて飛び起きては「大切な事を忘れてしまった」と大声で泣きながら両親に縋り付いた。何かを忘れている、凄く大切な、忘れてはいけない何かを忘れてしまった。そんな強迫観念に日々突き動かされながら、彼はいつの間にか村の呪い士に師事して村一番の薬師になっていた。「何故かそうしなければいけない気がする」と、それまでの活発で身体を動かすのが好きだった少年の変わり様に疑問を持った両親の質問に、彼はそう答えた。やがて彼は成長し、成人年齢である15歳に達した時、「医者になる」と両親を説得してリーデルに上京する。



 そして、紆余曲折あった少年は成長し、人を殺す組織にいながら人を助ける、衛生兵という職についていた……。



■■■



 思い出した。全て思い出した。

 あの時、どうやって、誰に助けて貰ったのか、ずっとずっと謎だった。

 そしてそれと同時に、今の部隊に任官した時の事を同時に思い出した。小隊長のラシャンプ少尉に挨拶をしてから、分隊長のプリニー軍曹に引き合わされたのだ。今でも思い出せる、彼女はこちらを見た瞬間少し驚いた顔をしてから、首を傾げ「ユージン・ザニテーター伍長であります。本日付けでこの部隊に配属となります」と自分が言った途端、目を見開いたのだった。彼女は「人間の衛生兵が配属されて来るのは久しぶりだったから」と言っていたが、あの顔の意味が今なら分かる。医者になると言っていた少年が軍人になって目の前に現れたのだ、驚いただろうし、恐らく…………失望しただろう。衛生兵と言う兵科ではあるものの、殺しを生業とする組織に属している事には変わりないのだから。
 嗚呼……こうして考えてみても、自分は彼女に対して随分冷たい事をして来た。今すぐ過去に戻ってその時の自分を殴り倒したい気分だ。書類が上手くかけないと泣きべそをかいている時には、呆れた溜息などつかずに優しく教えればよかった。部下の編制について聞かれた時も、皮肉など言わずに丁寧に説明すべきだった。衛生兵の勉強がしたいと言われた時も、面倒臭がらずに直接教えてあげればよかった。貴女には威厳が足りないと、あんなに刺々しく悪意に満ちた事を言う必要は無かったのに!! ずっとずっと探していた、自分の命を助けてくれた「誰か」は、自分が転任して来た2年も前からすぐ傍にいて、自分の上司をしていたのだ!!
 悔恨と興奮の感情が湧き上がって来ると同時に、徐々に暗闇の世界に光が満ちてくる。ああ、もう朝だ、早く目を覚まさないと。そして、彼女に会って話をしよう。大事な、大事な話だ…………。



■■■



「ぅ…………」
「あ…………」

 薄らと開いた視界の隅に、見覚えのあるひらひらとした服が映った。彼女だ、そう認識した途端、自然に言葉が溢れ出た。

「ユージンごちょ――」
「ありが、とう」
「え……」
「ありがとう、ウンディーヌ様」
「ッ――!?」

 ガターンと椅子を蹴倒す音と共に、彼女が立ち上がった。まだ光になれない視界の中で、彼女の姿がぼんやりと見える。その表情までは見る事は出来ないが、恐らく驚愕で染まっている事だろう。そのおぼろげな姿に、右手を伸ばす。

「プリニー・アウレリア・サイフォゾア……貴女の、本名です。違いますか?」
「あ、え……うそ、どうして」
「貴女に、ぐ……貴女に会って、話したい事があったのです」
「ッ!? だめ! まだねてなきゃ!」

 右半身を襲う激痛に歯を食い縛りながら上半身を起こす。慌ててそれを支えてくれた彼女に、半ば掴みかかるかのように凭れ掛かった。あの時とは似ても似つかぬ幼い体格と言動、そして当時と比べて明らかに低下している治癒能力。だが、彼には分かる、いや、今になって漸く分かった。彼女は確かにあのウンディーヌで、そして「プリニー」なのだと。

「貴女にッ……貴女に話したい事が、グッ……あるのです」
「きくから、ちゃんとあとできくから! いまはだめ!」
「今しかないんだ!!」
「ッ!」

 彼女はあの時言っていたのだ、知らない方がいい情報があると。自分が今もっている記憶は知らない方がいい物なのだろう、だとしたら、彼女はもう一度自分の記憶を消すかもしれない。そんな強迫観念に取り付かれ、我武者羅に気力を引き出して彼女に縋り付いた。

「ずっと……ずっと貴女を探していた、誰を探しているのか、どんな相手かも思い出せない、なのに、なのに……! ずっと、探していたんだ、他でもない貴女を!! この13年間、ずっと、ずっと探していたんだ!」
「う、そ……おぼえてるはず、ない、のに……」

 呆然とした様子の彼女の顔を覗き込みながら、13年間分の思いを今解き放つ。

「リーデルに行けば、会えるんじゃないかと、若い自分はそう考えた。あれ程の状況から助け出し、そして恐らく全身に負っていたであろう傷を癒すほどの人物だ、強力な魔術師である可能性が高かった。それも、生半可な力では無い回復魔法を持った魔術師だ」
「……」
「俺は何人もの腕利き魔術師や魔法医に入門しては学び、そこで貴女を見つけられずに辞めて行った。後に残ったのはやはり此処には居なかったのかという絶望感と徒労感、そしてちぐはぐに身についた医療技術だった。その頃には、もう自分を使おうと言う酔狂な医者はいなかった。馬鹿な俺は、貴女と交わした約束も忘れ、自ら志した医者への道を自ら絶ってしまった」
「そ、んな。そんなことまで、おぼえて――」

 彼女は驚愕の視線をこちらに向けたまま、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

「ごめん、ごめんねユージン。わたしがあのとき魔法にしっぱいしたんだ、だからつらいことまでおぼえてて、こんな、こんなことに――!」
「貴女の所為ではない、俺が馬鹿だったんだ。それに、それ自体はもう過去の事です、重要じゃない。今重要なのは――」

 そうだ、医者なら軍医という道もある。だが、そんな事は今は二の次だ。もっと重要で、優先すべき事がある。

「貴女に、こうしてもう一度会えたこと」
「え――?」
「ずっと、貴女に会いたかった。ずっと、貴女を探していた。貴女に会う為だけに、俺は今まで生きて来たんだ。大人になって、もう一度貴女に会って、そうしてどうしても言いたい事があった」
「――――」

 彼女はドレスに覆われていない部分を真っ赤にして、目を見開いた。

「こんどは……っ、今度はずっと、貴女の傍にいさせて下さい。貴女が辛い時、悲しい時、挫けそうな時に、今度は俺が、俺が貴女を助けられるようにッ!!」
「ゆー、じん」

 いつの間にか、自分の両目からはボロボロと涙が溢れ始めていた。止められない、大の男が泣きじゃくりながら、13年間溜めに溜めた感情を涙として溢れ出させていた。もう放さない、この人と離れたくない、もう二度と、あんな喪失感は味わいたくない!! そう思った瞬間、体が勝手に動いていた。

「プリニー!」
「あ……ユー、ジン……」

 固く固く抱き締めた彼女は、意外にも人間のように骨格があるように感じられた。そしてその体温も、肌触りも、臭いすら感じられた。ああ、こんなにも彼女は「生きている」!! 記憶の中の存在じゃない、今この腕の中にいるのは、あの時彼が必死になって忘れたくないと願った、プリニーその人だった。

「ユージン……」
「……はい」
「すごいね、あの魔法、にんげんにレジストできるものじゃないのに」
「半分、効いてました。さっき起きるまで、貴女の事は忘れてたんです」
「そっかぁ……すごいね、どうしてだろう。しっぱいしたかんじじゃあ、なかったのに」
「それは」
「それは?」

 今からかなり恥ずかしい事を言う。でも、いまさらだ。

「それはきっと、愛の力です」
「あ、ああ、あいって、そんな」
「俺は貴女を愛しているんだと思います」
「で、でも、13年もまえに、すこしあっただけなのに」
「一目惚れです、一発でやられてました」
「あ、う…………」

 腕の中でゴニョゴニョと意味のない呻き声をあげてから。彼女はそっと腕をこちらの背中に回して抱きついて来た。

「でもわたし、あの時とすがたがちがうよね」
「外見の違いなんて些細な事です。今の姿でも、俺は貴女を愛しています」
「で、でも、ユージンけっこうわたしにつめたかったよね?」
「あれは俺の狭量さがなした馬鹿な行いでした。謝罪します、申し訳有りませんでした。今後は親身になって貴女と向き合います、ずっと支え続けます」
「ぅぁ……え、えっと、えっと」

 オロオロと言葉を捜しながら、やがて彼女はそっと恐る恐るその質問を口に出した。

「でも、ユージン、スライムがこわいんだよね……?」
「それは……」

 初めて言葉に詰まり、視線を下に向けると、腕の中の彼女は不安げな視線でこちらを仰ぎ見ていた。その顔を見た瞬間、確信を持った言葉が口をついて出た。そうだ、何も悩む事なんかない、そんな必要性は一片もないのだ。

「確かに、13年前。そして今も、自分はスライムに殺されかかりました。その恐怖を忘れろと言われても、容易に忘れられるものではないでしょう」
「うん……」

 そう言って彼女は泣きそうな顔で頷いた。ああ、そんな顔をする必要はない。貴女にはずっと笑顔でいて欲しい。そっと彼女の頬に手を添えて、こちらに向けた。

「そして、13年前も今も、俺は貴女に助けられました。確かにスライムは怖いです、今でも夢に見ます。でも、そんな悪夢から助け出してくれた貴女を、どうしたら嫌えると言うんです?」
「あ――」

 そっと添えた手をそのままに、彼女の目を正面から見る。ああ、あのままだ、記憶の中の彼女そのままの、青水晶の瞳。

「貴女を一生、愛します」
「ん――」

 そっと、あの時別れ際に彼女がしたように、その唇に口付けた……。



■■■



 その後色々あって――色々は色々だ、いちいち説明したくない。
 とにかく、色々会って、彼女はいまだに赤みを伴った顔でベッドに座っている。少し激しく動きすぎて傷口が開いてしまったので、彼女に治療してもらっているのだ。無くなったかと思ったその特徴的なドレスは、いつの間にか再度彼女のほっそりとした肢体を覆っている。

「ユージン?」
「はい?」
「なに、みてるの?」

 若干赤らめた顔の彼女に、包み隠さず正直に答えた。

「その服、便利ですよね」
「ッ!」
「ぃいっ! った! 痛い!」

 途端に真っ赤になった彼女は握り拳でこちらの身体を叩いたきた。叩くと言っても「ぽこぽこ」と擬音を付けたくなるような力だが、叩いている場所が傷だらけの右半身なので激しく痛い。

「ば、ばか! ばか! ユージンのばか!」
「すみま、せん! 申し訳ない! 謝ります! 正直に言い過ぎました!」
「う、うぅぅ……」
「あいたたた……」

 真っ赤になって俯きながら、それでも回復魔法を使い始める。微妙にその焦点がさっきまで自分が叩いていた箇所なのが可愛い。…………凄く気になるのだが、どうしてこんなに子供っぽくなってしまったのだろう? あの時とは丸っきり立場が逆転してしまった。

「はい、おしまい」
「有難う御座います」
「う……なんかかたいよ」
「じゃあ――有難う、プリニー」
「ぅ……はずかしい、やめて」

 一体どうしろと!?

「そうだ、この際だから聞いておきたい事があるんだ」
「うん、なあに?」
「何でそんなに……」

 気になっていた問いを発しようとした瞬間、バァンと医務室の扉が開いた。そして間髪いれずに走り寄って来る赤い竜人はゲンシュウ、その後ろに続く顔色の悪いエルフはハイリガー、そして息せき切って付いて来たジャクソン、それに続いて続々と室内に飛び込んで来るのは、あの時共に戦っていた第三部隊の面々だった。

「ユージン!!」
「ユージン伍長!」
「伍長!」
「ユージン!」

 全員が鬼気迫る様子で駆け寄ってくる。
 ああ、そうか彼らも自分の事を心配してあんなに必死になって――。

「こぉの破廉恥漢が!!」
「げふっ!」

 突如としてゲンシュウの怒りの拳が脳天に炸裂した。

「病み上がりでお盛んですなぁ!? この! このぉ!」
「グハッ! ちょま、やめ」
「俺がこのあいだ振られたの知ってるくせに! 畜生! 畜生!!」
「いてぇぇえぇぇ!!」

 胸倉を掴みあげたハイリガーの平手がバシバシと頬を叩き、ジャクソンの私怨が篭った拳骨が肝臓の辺りを直撃した。その後から後から怒りの篭った拳や平手が次々と襲い来る。そんなこちらを呆然と見ていたプリニーは、慌てて止めようとした瞬間に女性隊員によって遠ざけられた。

「プリニー軍曹、大丈夫ですか!?」
「だからあれほど言ったじゃないですか、男はみんなケダモノだって!」
「どこか痛い所無いですか? 乱暴されてません?」
「え? え?」

 全く状況がつかめていない様子の彼女と違い、既に自分は周囲の状況と言動からある程度その理由はつかめた。だが、一体どうやって……。

「ユージン伍長」

 静かに響いたその声に、室内がしんと静まり返る。
 全員の視線の先にいたのは、優しく微笑むカチュア軍曹。
 美しいエルフの魔術師は、ニコリと笑いかけてその口を開いた。

「傷だらけで頑張ったのは認めるけど。初めての相手に三回連続はないんじゃないかなぁ?」
「アンタの仕業かぁぁぁあぁぁあぁぁ!!!」

 思わず近くにあった花瓶を掴み取って飛び上がるも、周囲の奴等に羽交い絞めにされた。

「放せ! 殺す! 殺してやる!!」
「は、早まるな!」
「あれでも一応上官だぞ!」
「軍法会議が何だ、これでキレなきゃ男じゃねえぜぇぇ!! 放せ、放せぇぇぇぇ!」
「うを!? マジで人間かお前!?」
「ゲンシュウ! もっと力込めろよ!」
「ぐ……これで全力だ!!!」

 放せ放せ、いや待て落ち着けと揉み合う横で、何もかも全て聞かれていたと悟ったプリニーが塩の柱になっていた。

「ふふふ……めでたしめでたし」
「テメエが言うのか!? そこになおれぇ!!」
「はうぁ…………」


 世は全て事も無し。

 今日も北方軍は無駄に騒がしかった。


旧図鑑に以前投稿していた内容の転載です。
図鑑世界と言い張るにはちょっと無理があるので、一応「私の世界」カテゴリ。
エロシーン? そんなものは飾りです。

10/04/26 19:44 spooky

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