老人と蜂
私はその煌びやかな宝物殿の中で、たった一つだけ異彩を放つそれを見る。それは半ばから折れ飛んだ槍で、穂先は鉄ではないがなにやら固い物質で出来ており、柄の方は何の変哲もない木材だった。
「何故こんな物を飾っているのか」
そう問いかけた私に向かって、カムラン公国の主たるヴォルド・カムラン公爵はこう応える。
「それは私の親友が持っていたものだ。たとえこの宝物庫にある全ての宝と同じ量のものを用意されても、決してそれだけは譲る事はないだろう」
何故こんな壊れた汚らしい槍にそこまで執着するのか。驚き呆れた私がそう問いかけると、カムラン公国の主たる大公爵(ハイ・ヴェステリオン)はその立派な白髯をしごきながら、在りし日の思い出を語り始めた………………。
―――――――――『東西街道膝栗毛』「迷宮都市編」マルセル・デュシャン
■■■
「ひぃ……ふぅ……すまん、ちょいと休まんかの?」
「おい! さっき休んだだろ!」
「そうは言うても、体力がはなから違うじゃろ」
「チッ……しょうがないな」
あからさまに舌打ちをして、彼女はどっかとその場に腰を下ろした。わしは溢れ出る汗を拭き取りながら、彼女と背中合わせになるように腰を下ろす。こうして視界を確保して、急な敵襲に備えるのだが……わしは魔術士だ、もしこちら側から襲われでもすれば一巻の終わりである。その辺りのフォローは、背後の彼女がしてくれるのではないかと淡い期待を寄せているが、はてさてどうなる事やら。
雑嚢から取り出した水筒の蓋を開け、中に満たされている清浄な水を一口含んだ。あまり大量に飲むと今度は逆に疲れてしまう、何事も程々が良いのである。そうして何とかさっきまで激しくダンスを踊っていた心臓が落ち着き始めた頃、背中合わせになった彼女が口を開いた。
「おい人間、本当にこっちでいいんだな?」
「おう、おう、生体感知(センス・クリーチャー)の魔法は正常にはたらいとる。ゆるーく迂回してから、お前さんがはぐれた仲間と合流できるぞ」
「……なら、いい」
「その代わり、約束は守っておくれよ」
そう言ってちらりと背後を振り返ると、キリッしたと吊り目の美しい横顔がこちらを見ていた。顔だけ見れば美しい人間の女性に見えたかもしれなかったが、その頭頂部から飛び出る触覚と、背中から生える薄い羽、そして臀部――仙骨から飛び出た蜂の腹部は、彼女が人外の化生であると知らしめている。彼女は昆虫特有の凄まじく固いキチン質から作り出した長槍を肩に立て掛けて、いつでも瞬時に立ち上がれる格好でその場に控えていた。
ホーネットと呼ばれる凶暴な昆虫属の魔物、しかもその身に装備した頑丈そうな篭手と具足、そしてその槍はホーネットの中でも特に戦闘に特化した兵隊蜂で、「キラービー」と呼ばれ、外敵を排除する役割を担う種類。本来ならばこんなふうに語り合う事など考えも出来ない手合いのはずだが、ひょんな事からこの「消極的協力者」とでも名付ける、奇妙な関係が続いていた。
彼女はこちらと目が合うと、「ふん」と鼻で笑って向こうを向いた。
「分かっている、無事に本隊と合流して巣に帰還できればお前の欲しがってる物を渡す」
「それを聞いて安心したわい、この老骨に何度も耐えられる道のりではないからの」
「…………私は人間の生態にそれほど詳しいわけではないが、爺にしては随分健脚に思えるが?」
訝しげにそう問いかけられて、わしは少しの自負心と大きな羞恥に顔を赤らめながらその問いに答えた。誰でも自分のやんちゃだった恥ずかしい過去には目を瞑りたいものである。
「はは、なぁに昔取った杵柄というものだ。これでも昔は冒険者をしとったからの」
「昔……? じゃあ今は何なんだ、こんな辺鄙な所まで1人でやって来るなんて、冒険者以外に考えられないぞ」
「今はカムラン公国で公職についておるよ」
「カムラン……?」
背後で彼女が首を傾げるのが分かる。
その動作に、思わず苦笑が漏れた。
「小さな小さな国だ、トルトリア帝国の東方、外れの外れ、黒龍連山にへばりつくようにしてある、戦略的に何の価値もない事でかろうじて自治を保っているだけの小国にすぎん。知らんのも無理はなかろう」
「公職……安定収入の身で何故こんな無謀なまねを」
「おや、わしを心配してくれとるのか?」
そう冗談交じりに問いかけると、彼女は舌打ちをしてざっと立ち上がった。
「お喋りは終わりだ、すぐに追いかけるぞ」
「ふぅ……やれやれ、人生にもっとゆとりを持たんといかんぞ?」
「知るか、とっとと案内しろ、爺」
イライラした様子で彼女は此方を睨みつけた。もともと造形が整っていて、更に生来の吊り目も相まってか、かなりキッツイ印象を見る者に与えそうな表情だった。しかし、わしからしてみれば、ちょっと余裕のない若造を相手にするのと同じだ、生憎と恐怖の感情よりも可愛らしさが先に立つ。
……孫がおったらこんな感じだろうか。
「これ、爺ではなくてヴォルドだ。もしくはヴォルド爺さんとでも呼べばよかろう。そんな態度では嫁の貰い手がないぞ、フィーナちゃん」
「ちゃんを付けるな! あと余計なお世話だ!」
「フィーナちゃん、北北東に進路変更。ほれほれ、はよせんかい。それと、わしの名前を呼ばん限りずっと「フィーナちゃん」だぞ」
「くっ……! 覚えていろよ……」
ギリギリと歯軋りしそうなほど怒りで真っ赤になったフィーナは、わしの左後方に控えながら共に歩き始める。
こんな関係が、今日でちょうど一週間ほど続いていた。
■■■
カムラン公国は元々地方都市に毛が生えたほどの領地しか持たず、その権勢も国主と言うよりも村長や町長と同レベルのものだった。それでも代々カムラン家の人間はそのちっぽけな領地を守って来たし、またそれ以上を望む事もなかった。遥か昔の先祖が帝国初代皇帝と結んだ盟約に従い、カムラン公国はその小さな領地とは裏腹に「帝国からの絶対不可侵」「永世中立」「干渉不可」の三原則が成り立っていた。
そして自分が領地を継いだ時、父や祖父、曽祖父たちのように、緩やかに、しかし確実に職務を果たしてこの世を去るのだと、そう思っていた。
だが、不幸にもそうはならなかった。
齢20の時に突如として公国を襲った暗雲、それは恐ろしい力を持った死霊術師ヴェルグロイだった。ヴェルグロイは公国首都カムラディアに死霊軍団を用いて攻め込むと、住民を虐殺、王族たちを殺して宮殿に居座った。一説によると、奴は悪魔王シュナウクァーの使徒とも、或いは北方海を越えた先にあるゲクラン大陸で猛威を振るう魔王の手先とも言われている。真相は分からん、だが奴が公国以外の人間世界にも多大な損失を与えたのは確かだった。
辛うじて難を逃れたわしとその側近達数人は、何とか奴を倒す術を求めて世界を放浪する。帝国の軍部はあてに出来なかった。狡賢く陰険な元老院は、「絶対不可侵」の約定を盾に一兵たりとも出す気がないであろう事は目に見えていたから。
そうして6年後。旅先で知り合った光明神の大司教と、偽りの命を持つ存在を滅ぼす魔法のオーブの力を用いて、我々は苦難の果てにヴェルグロイを滅ぼした。だが、やつはその死の瞬間に恐るべき呪いを残して息絶える。
「忌々しき光明神の下僕共! 貴様等に呪いあれ!!」
断末魔の絶叫と共に、黒い雷が首都近郊の丘の上に落ちた。
調べてみると、そこには奈落に続くかのような暗黒の大穴が口を開き、中からは恐ろしい量の瘴気が際限なく溢れ出ていた。その奥には夥しい数の亡者共が徘徊し、数え切れぬほどの罠と、神話や御伽噺の中にしか居ないと思われて来た伝説級の怪物達、そして――眩くばかりの宝物と値のつけられぬほど貴重な魔法の品々がそこにはあった。
誰が名付けたか「ヴェルグロイの呪いの穴」
それから31年、カムラン公国は一攫千金を狙う冒険者と、ただ己が力を磨こうという武芸者達によって大いに賑わい、首都カムラディアは「迷宮都市」の異名を冠するようになる…………。
■■■
「ちょっと待った」
「うん?」
そこまで語って、彼女から待ったがかかった。
ぱちぱちと火の粉が爆ぜる焚き火の向こうでオレンジ色に輝く彼女の顔は、胡散臭げに顰められている。大体何を考えているのか分かるが、そもそもわしの国の話を聞きたいと言ってきたのは彼女の方だ、出来れば最後まで聞いて欲しかったのだが……。
「……今の話だと、お前はカムラン公国国主で、救国の英雄ということになるぞ」
「うむ。わしの肩書きはカムラン公国公王、ヴォルド・アルデバランズ・カムラン4世。しかし救国の英雄はわしではなくて、最後の戦いで命を落としたミルダ大司教だな……素晴らしいお方だった、あの方がいなければわしは今頃この世におらんかっただろう。カムラン公国も、地図から消滅しておったに違いない」
「……法螺も大概にして置けよ、じじ――ヴォルド」
爺、と言い掛けて彼女は咄嗟に名前を読んだ。どうやらちゃん付けがよっぽど腹に据えかねたらしい。そんな彼女の顔を見ながら、からからと笑う。
「ほっほっほ! 法螺かどうかなんぞこの場では重要ではなかろう、ようはお主が楽しめればよいのだから。寝物語が聞きたかったのであろう?」
「ちっ……嫌なやつだ」
数日前からフィーナが不眠症で悩まされているのは分かっていた。何度かそれとなく睡眠導入剤を勧めてみたのだが、弱みを見せたくないのか頑として承知しなかった。今晩は寝ずの番をわしが勤めるのだが、やはり寝付けないらしく起きていた彼女が手持ち無沙汰な様子で話しかけ、そして今に至るのである。恐らく老人の繰言を聞いていれば眠気も出てくると思っていたのだろう。
「フィーナ、体調が悪いのであろう。これでもわしは薬師の資格を持っておる、軽い睡眠薬で無理にでも寝た方がよいぞ。それとも、何か持病があるなら言って見せよ、もしかすると対応する薬があるかも知れん」
「………………」
真摯な態度でそう話しかけると、彼女は居心地悪そうに身じろぎし、視線を逸らせた。
「べつに……大丈夫だ」
「とてもそうは見えんから、ずっとこうして話しかけとるんだ」
立ち上がり、焚き火を回り込んで彼女の隣に腰掛ける。
フィーナは動揺した様子で一瞬腰を浮かしたが、すぐに諦めたような溜息をついてまた腰を下ろした。ふと見ると、左手が軋み音を立てそうなほど強く握り締められている。右手は位置的に見えないが、恐らくそちらも力が入っているのだろう。わしは雑嚢から薬入れを取り出し、彼女に見えるようにして様々な薬包を出して見せた。
「ほれ、色々あるぞ、どんな薬がいい?」
「――ぅ」
「ん?」
掠れた様な声をよく聞こうと顔を近づけると、ばっと音を立てて彼女が顔を上げた。その両目は薄っすらと涙で潤み、頬は焚き火の熱とは無関係な何かで火照っている様子だった。いつもはキリリと吊り上がっている両目と眉はへの字に垂れ下がり、小刻みに震えながら唇を噛み締めていた。
気の強い彼女が初めて見せるその顔に、不覚にもドキリと心臓が鳴る。60近くにもなって棺桶に片足を突っ込んだ歳になり、とうに枯れてしまったと思っていた「男」の部分がほのかに疼くのを感じた。何とかその感情を顔に出さぬようにして言葉を待つと、彼女はつっかえながら話し始めた。
「ち……鎮静剤、とか、あ、あるか?」
「……鎮静剤、か。ふぅむ、確かその効果は……」
「あ、あるのか、ないのか、どっちだッ!」
「お、おお、落ち着かんか」
両手で襟首を掴んでがくがくと揺すられながら、二つの薬包を取り出した。
「これじゃ、朝晩に一包ずつ飲めばよい」
「ッ――!」
殆どひったくるようにして薬包を受け取ると、彼女はその中に詰まっていた白い粉薬を口の中にさらさらと流し込み、携帯用薬缶に直接口をつけてごくごくと中のぬるま湯を飲み干した。よほど慌てていたのか、口の端から溢れ出た水が顎を伝い首筋を流れ、最後にはその豊満な胸を覆っている薄い木綿生地の鎧下を濡らした。日中は無骨なブレストプレートに覆われていたその場所は、今なお溢れ出る水と汗に濡れて徐々に透け始めていた。薄っすらと見える肌色と火照った肌、そして鎧下の上からでも分かるほどピンと立った乳首が扇情的で――――いかんいかん、じろじろ見るのは止そう。
くるりと後ろを向いて彼女が落ち着くの待つ。すると数瞬の後、はぁと大きく息をつく音が聞こえてきた。
「どうだ、即効性だろう?」
「……だいぶ、楽になった、礼を言う」
「何の何の、同行者が倒れてしまってはわしも困るからの。ギブアンドテイクだ」
「ああ、じゃあ今度は私がお返しをする番だな」
「うん?」
訝しげにそちらを見ると、彼女は素早い手つきでそれまで外していた篭手や具足を装着し始めた。突然の動きに驚いていると、彼女は最後に槍を持って立ち上がった。
「寝ずの番は私がやろう。ヴォルドは寝ておけ、爺は体力がないからな」
「ほ、そうか、ならお言葉に甘えるとしようかの」
「ああ、その代わり明日は今日みたいに何度も休憩はなしだぞ」
「えー…………」
「…………」
冗談でそう言うと、ギロリとその鋭い目つきで睨みつけられてしまう。
わしは「冗談冗談」と笑って返しながら毛布を手繰り寄せ、さっきまで彼女が座っていた場所に寝転がった。背後は切り立った崖になっており、焚き火を挟んで向こう側――つまりさっきまでわしがいた場所はそのすぐそばに鬱蒼と生い茂る森が迫っている。この場所なら、片方のみに集中して警戒が出来るのだ。ちなみに野営の知識は殆どわしが彼女に教えた。群単位で行動し、日が暮れれば巣に帰る彼女達にとって「夜の森でサバイバル」という知識に乏しいのは、そうそう不思議ではない。
彼女は焚き火をぐるっと回ってその向こうに腰を下ろすと、わしに背を向けて森の向こうを見張り始めた。蟲系の魔物は赤外線視が可能なものが多いと聞くから、たぶん彼女にとって寝ずの番は人間と違って楽勝だろう。
「それではわしは寝るが…………薬で誤魔化せるのは一時的なもの、もし酷かったら遠慮なく起こしなさい、今寝るべきなのはわしではなくてお前さんだからの」
「…………黙って寝ろ」
「ほっほっほ、了解了解」
そう言って毛布を頭のあたりまで被りながら、彼女に気付かれないようにして小声で呪文を唱える。唱えた魔法は危険生物感知(アラーム)と獣除けの魔法。ここらで気をつけるべきなのは成体で体長3メートル近くにもなる森狼と、ゴブリンだ。前者は獣除けの魔法で半径100メートルには近づいて来れず、後者は半径100メートル以内に入ってくればわしが気付くようにアラームを仕掛けた。
ホーネットが居ればその両方は警戒して近づいて来ないだろうが念の為、ゴブリンは徒党を組むと時として驚くべき大胆さを見せる事もあるのだった。そして最後に彼女に向かってごく弱い眠りの霧(スリープフォッグ)の魔法を唱える。目に見えぬ魔法の霧は、そっと彼女の鼻腔をくすぐって虚空に消えた。
「お休み、フィーナ」
「……」
残念ながら、返事はなかった。
■■■
「………………はぁ」
ちらりと背後を振り返ると、毛布を頭まで被った彼はすやすやと寝息を立てて眠ってしまっていた。この寝つきのよさを見るに、到底貴族――しかも王族などと言われても信じられない。野宿の知識やその卓越した魔法といい、歳経た熟練冒険者と言われた方がまだ納得出来る。いままで自分達が襲って巣に連行した獲物たちの中に、何度か人間の貴族が居た事があった。そのどれもが無様に泣き叫び、命乞いをし、最後の最後まで見苦しく助けを求めていた、例外などなかった。外見は中々整った奴等が多かったが、その中身は全くそそられない代物で、一部の面食い以外は女王が貴族に飽きて放り出してからも手を出さなかった。そいつ等と比べて、なんとも違いすぎる。
「ちっ…………」
仲間達の事を思い出して、ついでに彼女達の乱行を同時に思い出してしまい、思わず苛立った舌打ちが漏れる。
そもそも、自分は獲物を襲ってその場でつまみ食いをする事が殆どないし、その後も女王様が飽きて放り出したお下がりを持っていく事もない。時々、どうしてもこの身を焦がす淫毒の疼きに耐えられなくなってしまった時に、本当に時々、適当に見繕った相手と交わる事はあっても、部下や同僚達のように気に入った男を自分の部屋に引っ張り込んで朝から晩まで――何て事はした事が無いし、これからする予定も無い。
男の上で腰を振るより、槍を振るって鍛錬していた方が何百倍もましだ。日ごろからそう公言して憚らない私を、同僚は「変わり者」と苦笑を浮かべながらも口出しはして来ない。部下達は私の事を「偽ホーネット」「鉄の女」「前世は蜥蜴人の戦士」「いやいやあの凶悪さはきっと赤帽子」などと陰口を叩いてはクスクスと笑っている。噴飯物の中傷だが、私自身その異端性は十分に痛感していた。ホーネットの中でも戦闘を担う兵隊蜂だといっても、その根本は働き蜂とそう変わるところが無い――本来なら、であるが。
物心ついた頃から、私が興味を示したのは異性ではなく無骨な武具。同年代の少女達が色気づいて行く中、私はたった一人で槍を、剣を、弓を、鎧を磨いて体を動かしていた。
もともとホーネットは奔放で強い気性の者が多いが、その性格が発揮されるのは概ね異性との情交の最中で、戦いの場ではその凶暴性に任せた行き当たりばったりな物しか出来なかった。しかも兵隊蜂はなりたがる者が少なく、女王に任命される最低限度の人数が漸く確保出来ているのが現状…………そんな中で自ら志願して兵隊蜂になった私は相当変わり者だった。
今でも思い出す、10歳の頃に全員に回ってくる意思確認の儀式で、私は同期でたった一人だけ働き蜂から兵隊蜂への転向を望んだ。母は――女王様は目を丸くして驚いた、周りにいた同期たちも大いに驚いた。友人達は必死になって思い直すように説得して来たが、私は聞く耳を持たなかった。女王様も困惑顔で「何か不都合でもあったかしら?」と問いかけてきたが、私の返事は決まっていた。
「母上、貴女の統治は概ね問題なく進行しています。生まれてこの方10余年、生活に困った事も、貴女の統治に不満を抱いた事もありません。しかし……しかし、これだけは自信を持って言えます。私には働き蜂など絶対勤まりません、だから、兵隊蜂に任命してください」
女王様は困ったように笑ったが、結局私の願いは受理された。理由は単純だ、兵隊蜂は年中人手不足に喘いでいるから。
そうして兵隊蜂になった私がいの一番に着手したのは、兵隊蜂の組織をきっちりと明文化して編成し直すことだった。人間から略奪した宝物の中、誰もが見向きもせずに倉庫で埃を被っていた武器、鎧、そして兵法書を引っ張り出した私は、まず部下達に鎧を着せ、武器を統一し、分隊・小隊・中隊といった人間の軍隊で使われる軍団規模を導入した。
戦闘を行わない者は訓練を義務付け、交代制を敷いて巡回と偵察を行い、前衛・中衛・後衛・偵察・兵站――各種専門に分かれた細かい兵種を設けた。これだけの事を行える権限を一気に与えられたのには最初驚いたが、ある日報告に参上した私に女王様は優しい笑みをを浮かべながらこう零した。
「皆が皆、貴女を異端だと言って遠ざけ、変わり者だと笑いながらも、どこか心の中で頼っている、期待しているのよ…………他ならぬ貴女に。フィーナ、皆心の中では感謝しているわ、貴女がいるお陰で戦って死ぬ子達が激減したもの……有難う、皆を代表して私からお礼を言わせて貰うわ……本当に有難う、フィーナ」
その会見から後、私がより一層職務に励んだのは言うまでもない。
そうして巣の防衛と獲物の襲撃を一手に任された私は、つい一週間ほど前にとある襲撃計画を立てた。獲物は40余人からなる人間のキャラバンで、その大掛かりな馬車と物々しい護衛の数からかなりおいしい積荷であろうと推測された。何度も斥候を出して獲物の進路を特定し、私自ら精鋭50名の部下を率いて襲撃計画は実行に移された。全ては順調だった――いざ、襲撃したその瞬間までは。
最初の誤算は、その獲物を狙っていたのが私達だけではなかったことだった。ゴブリン・ロードに率いられたホブゴブリンとゴブリン80匹が、私達と全く同じ相手を全く逆の方角から襲撃したのだ。二つ目の誤算は、連日の大雨によって飛行が出来ずに行軍の足が鈍ってしまい、キャラバンが街道を予想以上に進んであの忌々しいハニービーの領域に達してしまった事だ。当然ながら、縄張りに侵入した私達を警戒した奴等は徒党を組んで私達に抵抗した。そして三つ目、最大の大誤算は、そのキャラバンの馬車に詰め込まれていたのは金銀財宝でも奴隷でも食料でもなく、完全武装の傭兵と冒険者たちであった。
我々と、ゴブリンと、ハニービーと、そして完全武装の人間達。
拙い!!
そう悟った次の瞬間には全てが遅かった。あっと言う間にその場は四つの勢力が入り混じる乱戦状態となってしまう。唯一の幸運は、罠を準備した人間達にとってもこの大乱戦は完全に想定外の出来事であったことだろうか。
即座に撤退の指示を出すも、それに反応出来たのはせいぜい数人。その他大勢は否応無しにこの混沌とした状況に飲み込まれ、各自の判断での戦闘に巻き込まれていった。
私も特製の槍とカイトシールドを手にして戦った。一体何人の敵を切ったか覚えていないが、10や20ではきかないだろう。混沌とした乱戦の最中、最も初めに秩序だった行動を取り出したのは案の定人間だった。彼等人間が我等魔物と同等以上に戦える大きな利点の一つ、それがこの徹底した集団行動と連携である。
最低二人、多い場合は四人一組になって咄嗟に円陣を組み防御戦術を取る者や、或いはその数の有利をもって敵を多対一の状況に持っていく者が出始める。そんな中、私は三人の人間によって追い詰められていた。
仲間を逃がす為に殊更目立つように立ち回っていたお陰で、人間達は私を最も脅威だとみなして執拗に襲い掛かって来ていた。その間、何とか統率が回復できた者からすぐさま撤退して行き、とうとうその場に残っているホーネットは私一人となっていた。散々彼等の仲間を切ったせいだろう、私を追い詰めた男達の目はギラギラと怒りと殺意に光り、そしてその後の展開を容易に読めるケダモノのような視線を私の全身に投げかけて来た。
「よくもやってくれたなぁ……」
「クソッタレの雀蜂が、武器を捨てやがれ!」
「へっへっへ……どうした、その槍で俺達を突いて見せろよ」
「く…………!」
乱戦の最中に放たれた毒矢に貫かれ、私の四肢は思うように動かなくなっていた。
最早これまで、かくなる上は一人でも多く道ずれにして果てるのが私の役目。
そう心に決め、痺れる手足に力を込めた、その次の瞬間だった。
「ほっほ、残念だがそうはいかんのう」
そんなひょうげた声と共に、私の視界を真っ赤なローブが覆った。
「んな……!?」
「じ、ジジイ! どういうつもりだ!」
「何してやがる、爺さん!」
「どういうも何も、こういう事だ」
そう言って彼が右手を振ると、何か小石のようなものがパラパラと地面に撒かれる。
「汝等虚ろなる心持つ忠実なる兵士 そは竜の牙より生まれ出 やがて風と土になりてマナへと帰らん SO(シーンザンメ)CO(チューザンメ)R(レー)DI(ダールイ)!」
瞬きする間に五体の骸骨兵士がその場に現れた。
右手に曲刀、左手にバックラーを装備した骸骨達は、現れた次の瞬間には洗練された素早い動作で私と目の前の赤いローブ姿を守るように半円陣を組んだ。
「ひっ骸骨兵士(スケルトンソルジャー)……このジジイ、ネクロマンサーか!?」
「いや、違う、こいつら竜牙兵(ドラゴントゥース・ウォーリア)だ! 迂闊に切り結ぶな、返り討ちにあうぞ!」
「てめぇ! 裏切りやがったな!!」
「おや? 何ぞ勘違いしとるな、そもそもわしはお主等の仲間になった覚えなんぞ爪の垢ほどもありゃあせん。たまたま行く先が同じだから、便乗させて貰っただけだがのう? あと、ネクロマンサー扱いは不愉快だ、訂正してもらおうか」
そう言って飄々と肩を竦める紅い人影。
その様子にリーダー格らしい傭兵が激昂した。
「まさか……この襲撃も!」
「おっと、それは違う、わしはこの――」
そう言って振り返った人影は、老年の男性だった。
彼は私を見てからすぐに前に向き直る。
「ホーネットの方々に野暮用があっての、もともと最初からこの辺りで降ろしてもらう予定だったが……向こうから来たからのう、さっきまで怪我人の治療でてんてこ舞いで、気が付いたらこの嬢ちゃん1人しかホーネットが残っておらん……こりゃいかんと思うてこうなった」
「……信じられないな、てめえが手引きしたって言われた方が納得いくぜ」
「やれやれ、頭の悪い餓鬼だ」
「なんだと!?」
三人の中でも一番頭の弱そうな男が真っ赤な顔で切りかかって来た。
リーダーが慌てて「よせ!」と声をかけたが、男は無視してこちらに向かってくる。
「ほう、問答無用か。ま、その方が話が早いがの」
次の瞬間、突っ込んできた男は骸骨共に阻まれ、刃を返した曲刀と左手のバックラーによるシールドスマイトによって見るも無残な様子に成り果てていた。四肢の骨は容赦なく折られ、顔面に思い切り叩きつけられたバックラーによって顔の造形をグシャグシャになり、ボロ雑巾のような状態で地面に叩きつけられた。
「あ、アンゾン!」
「く……!」
「ネクロマンサー扱いした代償はそれで勘弁してやろう。さて、わしはこの辺で失礼させてもらうぞ」
いきなり始まった超展開についていけず、ポカンと阿呆のように固まっていた私に向かい、彼は短く呪文を唱えた。
その瞬間、私の体はふわりと空中に浮き上がり、ふわふわと森の中に向かって勝手に進み始めた。老年の魔術士はくるりと傭兵達に背を向けると、私と共に歩き始める。その無防備な背中はあの恐ろしい手練の骸骨達が守っていた。
「さらばだ、もう会う事もなかろう」
「くそっ」
悔しげに歯噛みする傭兵達を尻目に、私とその魔術士は森の奥へと進んだ。
やがて戦闘の喧騒も聞こえぬ距離までやってくると、彼は私を地面に降ろし、私に背を向けて骸骨達に向き直った。
「今やその身に科せられた任を解く 死を恐れぬ戦士達に暫しの休息を」
短くそう唱えたかと思えば、五体の骸骨達は一瞬にして虚空に解け消え、後には最初に彼が地面に撒いた小石のようなものが残っていた。彼はそれを大事に拾い上げてローブの内側に仕舞いこむと、そこで漸く私に向かって向き直った。
「さて、まずは自己紹介と行こうか。わしの名はヴォルド、見ての通り魔術士だ」
「……私に、いや、私達(ホーネット)に何の用だ」
「ほっほ、何、お前さん方がつい最近キャラバンから奪ったとある積荷について聞きたい事があっての」
「…………」
「おっと、その前に……」
警戒しながらゆっくりと姿勢を整える私を見ながら、ヴォルドと名乗った魔術士は短く呪文を唱えた。何か魔法をかけられる、そう確信した私が体を固くした時には、あれほど全身を苛んでいた痺れが嘘のように消えていた。驚きを隠せずに彼を見ると、その顔には人好きのする笑顔が浮かんでいる。
「体が痺れたままでは受け答えもままならんだろう。どうかな?」
「……礼を言う」
「ふむ、では改めてビジネスの話といこうかの」
それから腰を落ち着けて話し、私と彼との間で結ばれた契約内容は以下の通り。
1.ヴォルド(甲)は本隊からはぐれたフィーナ(乙)を助け、無事本隊と合流するための手助けをする。また、人間その他の敵対勢力と交戦状態になった場合、甲は乙を助けることを義務付ける。
2.乙は無事本隊と合流できた場合、甲の要求する物品を供出しなければならない。また、甲が要求する物品は一つのみとし、その品物についての詳しい説明を甲は乙に対してする義務を負う。
3.甲が危機に陥った時、乙は助けねばならない。
4.甲を乙の同族から保護する義務を乙は負うものとする。
5.甲は今回の契約内容の遂行中において得た情報(巣の位置、規模、人員の編成)などの一切を口外しない事をここに明記する。
人間と契約をする――いや、そもそも契約書を交わして交渉すること事態が初めてで、本当にこの契約内容が不公平な物ではないのかどうかすら私には判断が出来ない。しかしながら、彼の力を借りなければこの領域を無事に出る事など不可能である事は、ほかならぬ私自身が痛感していた。
乱戦の最中に私は右の触角を切り落とされてしまい、昆虫族特有の生体レーダーが機能不全に陥ってしまっていた。いつもならば目を閉じていても把握出来る巣の位置と仲間の存在が全く感知出来なくってしまっているのだ。こんな状態でこの領域を歩いては、良くて遭難、悪くてハニービーによって捕まる。……最悪なのは人間に捕獲されて売り飛ばされてしまう事だろう、入手した人間の書物にはそうやって捕まえた魔物の雌を専門に扱う娼館があると書いてあった。全くゾッとしない。
「ふむ、それではこれで契約成立だ。……ま、ひとまずはお互いに協力しようではないか」
そう言って彼が右手を差し出す。
彼が何をしているのか分からずに首を傾げる私に向かって、苦笑いを浮かべた彼はそれが「握手」と呼ばれる人間同士の親愛の挨拶だと説明するのだった……。
■■■
「やれやれ……ようやく眠りよったか……」
さっきまでうつらうつらと船を漕いでいたフィーナだったが、とうとう眠気に負けて眠りこけた。いくら効力を緩めたとは言え、眠りの霧の効力からは逃れられなかったようだ。
毛布をどけて立ち上がり、彼女を抱きかかえてさっきまで自分が寝ていた場所に横たえる。肩の辺りまで毛布をかけると、彼女はムズムズとむずがるようにして動いた後、安らいだ笑顔を薄っすらと浮かべながらすぅすぅと寝息を立てた。その寝顔は柔らかで、覚醒時の険のある顔とは大違いだ。
「ふふ……いつもそんな顔をしとればよいのにのぉ」
「ぅん…………」
蜂蜜色をした髪の毛を梳って頭を撫でて、さっきまで彼女が見張りの為に座っていた場所にどっかりと座って腰を落ち着ける。
「さてさて、そろそろ連絡を取るとするか。予定より随分間が空いてしまったの」
懐から遠見の水晶を取り出し素早く合言葉を唱えると、一瞬だけぼんやりと水晶が光ったかと思えば、そこにゆっくりと幻像が浮かび上がってくる。
「こちらヴォルド、聞こえておるか?」
《ッ!! 陛下! カムラン陛下! い、今何処におられるのです!?》
「これこれ、大声を出すでない。例の品を手に入れたらすぐに帰るから、心配せんでもよろしい」
《例の品――まさか、ニルダールの宝玉ですか!? ま、まさか、まさかその場所は》
水晶の中に写る大臣は顔が蒼白となっている。
全く……いつになっても心配性の男だ。しかも背景でざわざわとなにやら大勢が騒ぎ立てる声が聞こえる。……この馬鹿者が、せっかく事を最小限で済まそうとしたのを台無しにしてしまいおってからに。
「おうおう、今わしは帝国領の北方樹海、その外れにおる。宝玉も奪還する見込みが出たぞ」
《あ、が……な、なに、なにを……ッ!?》
「それと」
ジロリと水晶の中の大臣を睨みつける。
「まかり間違っても救援をよこしたり、捜索隊を組織してはならんぞ。この時期の帝国を刺激してもなんら良い事など何一つないわい。まさか奴等もわし自ら共も付けずにこんな僻地にやって来るとは思わんだろうて。王宮内では替え玉を使って誤魔化すように」
《そ、それは、弁えておりまする。帝国は南方戦争にかかりきりでピリピリしておりますからな。いま下手に動いては翻意ありと断じられて踏み潰されます。それに、民衆や下級官吏には公務の疲れが祟って寝込んでおられると伝えておりまする》
「うむ、分かっているのならよい。幸運にもわしの方はトントン拍子に事が進んでおる、このまま上手くいけば一月とかからずに帰還出来るだろう」
その言葉に、大臣はあからさまにホッとした。
《それは……ようございました。魔導師の見立てでは、あともって三ヶ月と宣告されましたから。正直なところ、このままでは帝国の不況を買うのも承知で部隊を編成するところでありました》
その言葉に、思わず眉間に皺がよるのが分かる。
「三ヶ月……そこまでとはな……」
《は……げに恐ろしきは彼奴の呪いと執念の凄まじさかと……》
「うぅむ…………」
迷宮都市カムラディア。
その富の源泉たる大迷宮「ヴェルグロイの呪いの穴」、本来ならば国家と国土に甚大な被害をもたらすそれが、たかが帝国辺境の弱小国をここまで有名にする利益をもたらすにはそれなりの理由があった。その際たるものが光明神の力を借りて張られた光の大結界、別名「カムランの守り」である。ミルダ大司教の遺品である聖杖を使い、数十人の神官の協力によって張られたその結界は穴から常時溢れ出る瘴気を封じ込め、更には恐ろしい怪物共を穴倉の中に押し込める事となる。これがなければカムラディアは瘴気に腐り落ち、溢れ出た怪物によって蹂躙されていただろう事は想像に難くない。
そうして出来上がった「危険で安全なダンジョン」は、遺跡荒しや冒険者、はたまた武芸者達の格好の的となった。当初は勝手に中に入って生きも絶え絶えになって保護される(もしくは息絶える)馬鹿共が続出したので、中に入るには許可が必要となるギルド制を導入し、それが元となって今の繁栄が――いや、これは今はどうでもいい。
閑話休題。
盛者必衰、その理を示すかのように結界がその効力を弱め始めたのは、確か去年の今頃か。当然ながら我々は大いに慌てた、なにせ結界の要たる聖杖に込められた聖なる力を補充しようにも、それを試みた神官たちは皆一様に力なく首を横に振るばかり。それも当然だった、それの持ち主だったミルダ大司教は光輝教会において次期教皇と目されていた程の大神官であったのだ。死後すぐさま列聖申請がなされ、一週間と経たずに聖人指定される異例のスピード審査は後にも先にも彼だけであろう。
日に日に結界から漏れ出す瘴気の濃度が濃くなって行く。我々は必死になって代替手段を探した。そうして見つけ出したのがさっき話に出た「ニルダールの宝玉」である。黒龍連山を越えた東方の地でとある城塞都市を守っていたといわれるその宝玉は、あらゆる魔術と奇跡を減衰させ、悪しき意思の介入をはねつけ、外的から完全に都市を守り抜いたといわれる。今は帝都に住む好事家が個人的に所有していると聞いた我々は粘り強く交渉を繰り返し、ついには根負けした好事家から買い取る事に成功した。
そして、その宝玉を乗せた輸送隊が魔物の襲撃によって壊滅したと報じられたのが一月前。それがホーネットの集団だったと発覚したのはそれから更に一週間経ってからだった。
「安心せよ、今のところ事態は順調に推移しておる。定期的な連絡は出来ぬだろうが、手に入れた時には真っ先に連絡を入れるから待っておれ」
《おお……お待ちしておりまする。……どうか、御身を損なわれませんよう》
「ふん、分かっておるわい」
心配性が過ぎる忠臣に少々うんざり気味にそう返す。
「さて……明日も日が昇らんうちから歩かんといかん。そろそろ切るぞ」
《ハハッ! 後武運をお祈りしておりまする!》
「吉報を待っておれ」
水晶球に回していた魔力をカットして懐にしまいこむ。ふと背後を見る、そこではすやすやと安らかな寝顔で彼女が眠りこけていた。何度か大臣が大声を出してしまったために少し冷や冷やしたが、どうやらよほど疲れが溜まっていたらしい。
無理もなかろう、彼女はその感覚器たる触角を欠損しているのだ、我々人間で言えば目と耳と鼻と三半規管が不随になっているようなもの。ただ歩くのにも今までと勝手が違って難儀していたに違いない。そんな状態で今まで必死に弱みを見せまいとしていたのだ、疲れて当たり前である。
実は彼女の傷は癒そうと思えば今すぐにでも癒せる。しかしそれをしてしまうとあの契約通りに事が進まない恐れがあったし、何より相手は魔物、契約書だけではなく実際にわしがいなければ巣に帰還出来ぬという恐れを抱いてもらわなければ、まず信用など出来ぬ…………。
「と、思っておったのだがな……いやはや、一般論ほど当てにならん物はないわい」
話に聞いていたホーネットと随分違う。
四面四角で武張った言動といい、そのきびきびとした軍人然とした風情はまるで故国で見知りあった蜥蜴人の戦士団、それを率いる百人隊長を思い起こさせた。首都カムラディアに大小いくつもあるギルドのうち、最大勢力を誇る「緑麟騎士団」を率いるリザードロードのゲルニード…………そう言えば隊商襲撃時に一番統率が取れていたのもフィーナの率いるホーネットだったような……。
今までそばで見ていて確信したが、彼女が途中で約束を破って裏切る事は万に一つも有り得なさそうである。悪態はつきつつもキッチリ約定を遵守するその姿勢からもよく分かる。
「むぅ……魔物でなければうちの軍に欲しいのぉ」
まあ、もし実現に至ったとしてもまたぞろ大臣が泡を吹いて倒れてしまうだろうから、夢物語にもならんだろうが……。
「おっと……余計な事は考えずに一眠りするか」
夜襲があったとしてもアラームが知らせてくれる。それに長年の冒険者生活で身についた慣習は中々抜け切らず、短い時間でぐっすり眠りさらに敵意に反応して飛び起きれるように眠りは浅い。しかも歳を経るごとにドンドン睡眠時間が短くなっている。
「明日は肉薄できるか……正念場だな」
移動している群集団も、現在は移動を停止している事は感知している。
リーダーたる彼女が欠けている為か、その動きは鈍く、さらに合流もようやく昨晩全員揃ったといったところか。それから暫く当該地をウロウロしていたのは、恐らくフィーナを捜索していたのだろうが、敵地で悪戯に時間を浪費するのは愚の骨頂。それに気が付いたのか、はたまたフィーナ自信が居なくなった時を考えて指揮権の委譲と緊急時の行動をキッチリ厳命しておいたのか、それは分からない。
ともかく、ホーネットの一団は巣の方角に向かって移動し始めているのは確かであった。
■■■
「――――ッ!?」
鼻腔をくすぐる臭いにハッと気が付くと、目の前では焚き火にかけた鍋でスープを作っているヴォルドの姿。そして自分が地面に横たわり毛布を身に纏っている事に遅ればせながら気付くに至り、漸く寝ぼけた頭に現状が理解できた。
「あ、わ、私。す、すまな――」
「ほれ、朝飯が出来たぞ」
「ぁ――――」
「なにを呆けとる、今日は一気に進んで合流するぞ」
にかりと笑って彼は背嚢から取り出した木椀に鍋の中身をよそい始めた。
彼はそれだけ言って、自分の分もよそい始めた。
それだけ、それだけだった。見張りを買って出て眠りこけた私に対する叱責も皮肉も何もなく、ただ笑って五穀粥のたっぷり入った椀にスプーンを差し込んでこちらに差し出すと、我関せずといった風情で自分の分の粥を食べ始める。
彼なりの気遣いに、我ながら不甲斐なさで顔が赤くなるのが分かる。あれだけ自信満々で見張りに立っておきながらこの体たらく、恥ずかしすぎる。
「……ありがとう」
「なんの、これくらいの調理はお手の物だ」
その事ではない。
彼も承知の上でその返事をしたのだろう。
私は出来立ての五穀粥を胃の中に流し込みながら、心の中で一人静かに誓いを立てる。必ず、どんな事があろうと、絶対に彼との約束は守ってみせる、と。
■■■
「これは……少々まずい。急ぐ方がよかろう」
「どうした」
食事を終えて数時間歩いた頃、突然彼が立ち止まりそう言った。
わずかに緊張で引き攣った彼のその言葉に、すぐさま問い返す。
彼は口の中で素早く呪文を唱えると、ふわりと体を浮かせて答えて来た。
「ホーネットが何かと交戦しておる、しかも劣勢だ!」
「なに!?」
「飛ばすぞ、着いて来れるか!」
彼の全身にはつむじ風が渦巻き、視覚化出来るほどの風の乙女達が乱舞している。彼ほどの魔術士が「飛ばす」と言っているのだ、その速度は並大抵のものではないだろう。だが……。
「誰に物を言っている。魔術を使わねば身を浮かす事も適わぬ人間風情に遅れは取らん!」
不適に笑ってそう返すと、彼は心底愉快だと言わんばかりに笑った。
「ほっほう! そりゃあええわい、では、一気に行くぞ!!」
「応!」
ふわりと浮き上がった彼の体が瞬く間に加速し、森の木々を飛び越えてぐんと飛び立つ。それと同時に私も背中の翅を高速で震わせて体を浮かせ、彼に追従する――否、むしろ追い越すような加速を持ってその横に並んだ。
「……!! ……、…………!?」
横に並んだヴォルドが驚いたような顔で何かを話しているが、私の体も彼の体も風の精霊が障壁を張っているために声は聞こえない。だが、なにを話しているのかは大体分かる、この速度を私が出している事に驚愕しているのだろう。……最も、彼の顔には驚きよりも興味深そうな色が濃かったが。
ホーネット族の飛行は厳密には翅を使っているわけではない。常識的に考えて、この大きな体を蟲の薄い翅で浮かす事など適わない。我々がこの翅で空を飛ぶのは、この翅を震わせて大気を振動させ、風の精霊が好む音を出して「飛ばさしてもらっている」から――――らしい。この手法でマッハを超える速度を叩き出す魔物に同じ蟲族のベルゼバブがいるが、ベルゼバブの場合は風の精霊だけではなく生まれ持った魔術的方法を無意識のうちに行使している――――らしい。
らしいらしいと余計な一言は、この知識すら私はホーネットではなく人間の魔術士が書いた書物に教えてもらったからである。自分の事の筈なのに他の種族にこんな事を教えてもらうというのは当時かなり恥ずかしかったが、他のホーネットはそれを聞いても「ふーん」「へぇ」で済ました。彼女達は「使えればそれでいい」らしい、つくづく自分は彼女達と違うのだと痛感した事例の一つだ。
「…………!!」
ヴォルドが驚きと共に前を指差した。
彼の指の先を見た瞬間、私の両目は驚愕に押し開いた。
「不死族(アンデッド)だと! 何故こんな場所にッ!?」
骸骨戦士(スケルトンソルジャー)を筆頭にアンデッドコボルド、ゾンビ、グールの群が前線を構築し、その後ろに弓を装備した骸骨戦士が控え、文字通り矢継ぎ早に矢の雨を降らせている。森の中にぽっかりと開いた円形の広場、その中心に私の部下達は追い込まれていた。
必死になって円陣を組み、雲霞の如く迫り来る敵を捌いているが多勢に無勢、今しも新たに前線で戦っていた一人がアンデッドコボルドの持つ鈍器の一撃を頭部に受け、真っ赤な花を戦場に咲かせた。その光景に思わず悲鳴染みた叫びが漏れる。
「馬鹿な、何故飛ばない、地べたで戦うな!」
聞こえるはずなどないのに、我慢出来ずに私はそう叫んでいた。
森の中ならともかく、あのように頭上が開けた場所ならば飛んで逃げればいいはず。
そう考えた瞬間だった、今まで順調に私を導いていた精霊達が突然悲鳴を上げたかと思えば、あっと言う間に霧散してしまう。風の精霊の加護を放れた私の体は本来ならばその速度のまま空中に投げ出され、地面か大木に叩きつけられてグシャグシャになるはずだった。
「おっと……!」
「くっ」
「すまん、痛かったか」
「いや、問題ない。何が起こった?」
彼に背後から脇に両腕を差し込まれ、ちょうど後ろから羽交い絞めにされるかのような形になったまま問いかける。本来ならば助けて貰った礼をするべきなのだろうが、今はそんな悠長な事を言っている暇はない。
「精霊抑制(サプレス・エレメンタル)の魔術だ、この領域内では精霊魔法は使えん」
「く……その所為か、飛ばないのではなく飛べないから」
「うむ、逃げる事も出来ずに消耗戦になっておる」
「くそっ」
「このままでは不味い、円陣の中心に突っ込むぞ。指揮権の掌握は頼んだ」
「わかった!」
その言葉と同時に彼の速度が更に加速する。
視界の中の部下達が動き出す、どうやら傷ついた前線を下げてその後ろの無傷な部隊と交代しようとしている。だが、動きが悪い、この動きは一糸乱れず一斉に行わなければ敵に詰め寄る隙を与えるというに!
そう思った瞬間だった、ぐんぐんと近づいていく地表の光景の中、前線の円陣を突破した森狼のゾンビが一直線に中心向かって走りよって行く。無様な交代の所為で、緩んだ前線を食い千切られたのだ。
その中心には、必死になって指揮を執る副官のカリスの姿があった。
彼女の視線は、ちょうど反対方向で暴れまわるトロールゾンビに向けられている。
駄目だ、気付いていない!!
「急げ、急げ! 急いでくれ!! 間に合ってくれ!!」
悲鳴のような私の懇願にヴォルドは黙って速度を上げた。
■■■
「ああぁああ!」
「ミシェイル!」
「いたい、痛いいた痛い痛いっ!!」
「畜生がぁぁ!!」
下がらせろ、そう叫んで負傷者を円陣の奥に下がらせる。アンデッドコボルドの一撃は、骨だけの体から放たれたとは思えないほどに重くて鋭い。意思の感じられぬ虚ろな眼窩で迫り来る敵に、知らず背筋が震える。正面から頭部に一撃を貰ったミシェイルは、溢れ出す鮮血に真っ赤になりながら引きずり込まれて来た。もし兜がなければ即死だったろうと思い、ゾッとする。これを装備するように言い出したのは、隊長だった。当初は触角が隠れると不評で、現に私も不満だった…………飛んできた矢に兜が貫通し側頭部を傷つけた、ついさっきまでは。
「副長! 六時方向、アンデッドトロール!」
「だ、第四小隊を向かわせろ、油壺をあてて焼き殺せ!」
なんだこれは。
「第六小隊、限界です!」
「下げろ、第七小隊と交代!」
一体どうなっている?
「っ!? て、敵増援! 三時方向から更に三個小隊規模の骸骨騎士(スケルトンナイト)です!」
「な……!? え、援護をっ」
知らない、こんなもの知らない。
「副長! どうするんですか!?」
「指示を、指示を下さい!」
「副長!!」
こんな、こんなに辛いものだったなんて。
こんなにも困難なものだったなんて!
いつだったか、フィーナ隊長が真面目な顔でこんな事を言っていた。「味方の三割が戦闘不能になれば、それは全滅とする」。私はその言葉を神妙な顔をして聞きながらも、内心ではせせら笑っていた。三割だと? もし十人いれば、そのうち三人が戦えなくなったとてあと七人もいるではないか。現に私が十人ほどの仲間と共に人間を襲撃し、そのうち三人が負傷しても最終的には勝利できた。
隊長は机上の空論を言っている。本の中だけで通用する馬鹿げた理論だ、その時はそう内心で思いながらも真面目に講義を聞いていた。
ずっと、そう思っていた。
あんな物、馬鹿馬鹿しい妄想だと、そう嘲笑していた。
だが、その馬鹿にしていた理論が、悪夢のごとく演じられていた。
「副長!! しっかりして下さい! どうすればいいんですか!?」
「駄目だ……もう駄目だ、私達ここで死ぬんだわ」
「うぁ……うわぁぁぁ!」
「待て、勝手に下がるな、戦うんだ!」
「きゃぁぁぁああ!」
「アリー!! ちくしょおおおお!!」
「副長! 指揮を執って!」
「怯んでは駄目よ!!」
「イタイイタイイタイ! イヤァァァァ!!」
「暴れるな、誰か、足を押さえて!!」
「痛いよ! 誰か、誰か助けてよぉ!!」
三割、確かに三割動けずとも七割がいる。
だが、その動けない三割を助けるために一割が減り、抜けた穴を塞ぐために予備の一割は遊撃させる。そうして実質正面戦力は五割ないし場所によっては四割近くにまで落ち込む。そして、それに伴う士気の低下は避けられず、一度崩れ始めればあとは雪崩の如く押しつぶされる。
隊長の言っていた事は本当だった。今はまだ被害は二割程度に収まっている、その状況でさえ、目に見えて士気が低下している。この状況で、もし、三割の部下が動けなくなれば……!
「ッ! 傷ついた部隊を一旦下げろ、比較的無傷な部隊を前面に押し出して交代するんだ」
「はい!」
「負傷者を担架に乗せろ、九時方向が一番包囲が薄い、再編後に突破する!!」
「副長! トロールが!!」
「なに!? ぁっ――! しまった!!」
背後を振り返って驚愕した。全身を業火に包まれ、黙々と黒煙を吹き上げながらもトロールゾンビは暴れまわっていたのだ。ゾンビに痛覚などという上等なものはない、そんな基本的な事すら私達の頭から抜け落ちていたのである。眼球が焼かれたのか、滅茶苦茶に暴れまわるトロールは他のゾンビやスケルトンをも巻き込みながら突っ込んでくる。あんな物がもしこのまま突っ込んできたら!
「ろ、ロープを使え! 引き倒す――」
「副長! 十二時方向ッッ!!」
空気を切り裂いて飛んだ警告に振り返った私の眼に映ったのは、今にも跳躍しようとしている森狼のゾンビだった。
体長二メートルにもなる体躯が飛翔し、私の咽元目掛けて飛びかかって来る。
ああ、死んだ。
その瞬間浮かんだのは死の恐怖でも後に残される部下達の心配でもなかった。
「申し訳ありません、隊長」
たった一度だけ見た事のある、上司の不器用な笑い顔だった。
■■■
「はぁあぁぁぁあぁ!!」
目にも止まらぬ加速が付いたまま、腰溜めに構えた槍を突き込む。
刃渡り1メートルの刃を持ったその槍は、槍と言うより長い柄の付いた剣といった方がいい。その根元の部分までを今にもカリスに飛びかかろうとしていた森狼の腹に突き刺して突っ込む。
恐ろしい勢いで突き刺さった槍はそのまま柄の半ばまでずぶりと敵の腐った肉に込み、加速の付いたショルダータックルで地面に叩きつけて押し潰す。ぐしゃりと敵の骨と肉がひしゃげる音と共に、哀れなクソ狼に二度目の死をくれてやる。高速飛行のまま、減速も何もせずに突っ込んだのだ、もしゾンビがクッションになっていなければ今頃私も全身骨折と内臓破裂で死んでいただろう。
「ちっ折れたか」
だが、私が耐え切れても槍は耐え切れなかった。恐らくショルダータックルの時に変に力が入ったのだろう、柄の部分がぽっきりと折れてしまっていた。
私はすぐさま振り返り、ポカンと呆けたまま地面に座り込んでしまったカリスの手から槍をもぎ取って大声を張り上げた。
「全体集結! 円陣を縮小しろ! 微速後退!」
ついさっきまで死に体だった部隊に息を吹き込む。きびきびと動き出す部下達を横目に、相変わらず呆けたままのカリスに声をかける。
「カリス、遅れてすまない」
「ぅ…ぁ……たい、ちょう」
「指揮は私が引き継ぐ、休んでいろ」
「たいちょう……ッ」
へたり込んだ彼女の瞳がじわりと潤み、つつっと二筋の涙がその頬を伝った。
呆けたままで涙を流す彼女を見て、罪悪感が襲う。私が駆けつけるまで必死になって指揮を執っていたのだろう、そうでなければ持たなかったに違いない。そして、元はと言えば私の見通しの甘さがこの事態を招いたのだ。
私は兜が無くなってしまっているカリスの頭をクシャリと撫でて、何とか笑みのようなものを浮かべて語りかける。私と違って毎日手入れをしているその小奇麗な顔は、右半分が血に濡れてひどい有様だった。
「後は私に任せろ……よく、頑張ってくれた。ありがとう、カリス。下がって治療を受けろ」
「うっうぅっ隊長……ッ!」
泡を食って走り寄って来た衛生兵に彼女を任せて振り返ると、ちょうど空からヴォルドが降りて来るところだった。
「ひぃー! やれやれ、無茶苦茶しよるわい! 死んだらどうするつもりだ」
「死ななかった」
「ほっ! そりゃ確かに! しかし心臓に悪いから次からは事前に言ってくれるとありがたいのう」
「生憎と二度とあんなまねをする予定はない」
突然現れた魔術士に一瞬だけ周囲が殺気立ったが、私が彼と親しげに会話するのを見て矛を収める。円陣を縮小し、部隊を再編する。敵にとってはこのタイミングが一番好機であるが、それに漬け込ませる気はない。それにどうやらヴォルドが上空から魔法を何発か叩き込んだようで、敵の戦線にも乱れが出ていた。
「よし、円を狭めたぞ」
「うむ、わしがでかいので薙ぎ払うからそれまで時間を稼いでくれんか」
「どれくらい」
「5分」
その言葉に鼻で笑う。
「楽勝だ」
「ほっほっほ! 頼もしいのう!」
スッと紅いローブが背後に滑り、朗々とした声で詠唱が始まる。
「全員持ち場を死守しろ! 敵は頭が鈍い、連携を組んで戦えば恐れる事はない!」
大気に満ちたる無限のマナよ 我が身に満ち 我が手に集え
「最小二人単位(ツーマンセル)で当たれ! 第五小隊、クロスボウで敵後衛を狙え! ボルトは盾破壊用に切り替えろ、通常矢ではスケルトンを砕けんぞ!!」
煉獄にて燃え盛る青白き炎 奈落にて這う漆黒の業火よ
「タワーシールドを持て! そうだ、敵のを奪え、両手で持って壁を作れ!」
その光から逃れる術なし 破滅の閃光よ 全てを焼滅させよ
「よし、一歩も引くな! 仲間を守れ!! 曲射に注意しろ!」
今こそその力を解き放つ 来たれ焼滅の閃光 TIL(ターイラー)TO(ターザンメ)WA(ウォウアリフ)IT(イェーター)!!!
一際大きくヴォルドの声が響いた瞬間だった。
背後に小さな太陽が出現したかのような閃光と熱、そして熱風が吹き荒れる。思わず背後を振り返った私の眼に飛び込んできたのは、恐ろしく巨大な光の玉が頭上に飛び上がる姿だった。
飛び上がった光の玉は頭上で四つの玉に分裂し、更にそれがそれぞれ四つに、そして更にそれらが四つに……。数え切れたのはそこまでで、一瞬にして無数の小玉に分裂した光玉が敵に着弾する瞬間、背後から小さく呟くような彼の言葉が聞こえた。
「塵一つ残さぬ」
鼓膜が破れるかと思うほどの大音量と共に、目が潰れそうなほどの閃光が辺りを覆う。思わず目を瞑って手を翳すが、指揮官が戦場を見なくては話にならない。手で遮りながら目を開けようとした私のまぶたを、少し皺の目立つ掌が上から押さえた。
「もう少し待っておれ、今開けると目が潰れるぞ」
「……分かった」
ここは専門家の言葉に大人しく従っておくことにする。
やがてそれから数秒後、彼はその手をそっとどけた。恐る恐る両目を開けた私の目に飛び込んで来たのは、完全に予想外の光景だった。
「な……」
「なに、これ」
「も、森が……」
「森が、ない!?」
あたり一面、見渡す限りの焼け野原。
曲刀を振るう骸骨も、棍棒を振りかぶるゾンビもいない。山火事の時などは黒焦げになった木が林立する光景が見られるが、それすらもなかった。真っ黒に炭化した何かと、完全に灰となった何かが地面に転がり、それがずっと先まで続いている。
部下達も、呆然とした様子で目の前の光景を眺めていた。それもそうだろう、さっきまで生きるか死ぬかの瀬戸際だったと言うのに、目を瞑って開いてみれば辺り一面焼け野原になっているのだから、これで呆けるなと言う方が無茶だ。
「勝った……?」
「うそ……勝った、の?」
「勝った、勝ったんだ!」
いち早く衝撃から立ち直ったのは、最前線で戦っていた部下達だった。わっと歓声を上げて飛び上がり、互いに抱きついて大騒ぎをする。中には涙を流している者までいて、へたり込みながら泣き笑いの様相を呈しているものもいた。
「隊長……」
「あ……カリス」
神妙な顔をしたカリスが声をかけてくる。いつの間にか顔に付いていた血は拭われ、その額に真新しい包帯が巻かれている。ふと気がつくとその肩越しにヴォルドが衛生兵を指揮して負傷者の治療に当たっている姿が目に入った。どうやら、自分がこの中で一番長い間呆けていたらしい。
「隊長、危ない所を助けて下さって感謝します。その、少し、あの、お聞きしたい事が……」
そう言う彼女の視線はチラチラと背後のヴォルドに向けられている。彼はちょうど背嚢からポーションを取り出して、衛生兵に配っている所だった。
「あの人間は問題ない。私と協力関係にある」
「は……しかしあの魔術士、確かあのキャラバンにいたような気がします」
「ああ、しかし積極的に敵対はしなかったはずだ……もししていれば、我々がこうなっていただろうな」
そう言って周囲の不毛の大地をぐるりと見渡す。その言葉に我ながら内心震えが止まらない、それにはカリスも同意見なのか、こちらもぶるりと体を震わせて腕をさすった。その顔は心なしか血の気が引いている。
「……恐ろしい威力です、もし敵だったらと思うとゾッとしますね。まさか歳経た人間の魔術士がこれほど恐ろしいとは……」
「ああ、凄まじい腕の魔術士だが、彼とは契約を結んでいる。こちらからそれを破らぬ限り彼が牙を剥く事はないだろう」
「分かりました」
「……それと、今後は襲撃前に魔術士の有無に注意する事にしよう」
「……同感です」
魔術士と呼ばれる輩は何より契約内容を遵守する傾向にある――と、とある本に書いてあった。嘘か真か知らないが、この期に及んでは信じるしかないだろう。もし彼が土壇場で裏切った場合、我々ホーネットは塵も残さずこの世から消滅するに違いなかった。
漸くなった本隊との合流と、窮地から一転しての勝利。あまりにも目まぐるしい展開に思わず溜息が零れ落ちる。
「魔術……魔法……何故人間達があれほどにもその秘法に憑かれるのか、その真実の一端を垣間見たのだな、私達は……。確かにこれは、一生を賭けてでも手に入れようとするだけの物だ」
「……」
カリスは無言で私に敬礼をして、部下達に指示を下しに行く。
ふと視線を巡らせた私の視界の中には、いつの間にか1人円陣から離れてぽつんと焼け野原に立っている彼の姿だった。
1人黙って佇むその後姿に、じわりと黒い染みのようにある台詞が浮かび上がってくる。
「塵一つ残さぬ」
今となっては空耳のような気がしてならない。
あんな声、彼が出せるはずがない。
何故なら、あの時聞いた声はあまりにも、怨嗟と憎悪にまみれていたから……。
■■■
一斉に歓声を上げるホーネット達の中心、急ごしらえの野戦病院でわしは取り出したポーションと魔法の杖を衛生兵達に配っている。
「緑の小瓶は軽傷者に、青の小瓶は重傷者に、金色の小瓶は死に掛けの者に使え。それと、この杖は傷ついた者に向かって振り下ろせばよい……ああ、お主が良さそうだな」
ざっと見た中で一番マナの扱いが上手そうな個体にそれを差し出す。
どさっと十本ばかり一気に渡されたそのホーネットは、両手一杯に癒しの杖を抱えて目を白黒させている。他のホーネットは地面に山と積んだポーションを我先にと引っ掴んで仲間の下に走り去っていった。
「あ、ああの、こ、これ、どう使えばいいの――ですか?」
「なぁんも考えんとただ怪我人に向かって振ればよろしい」
「そ、それだけ?」
疑わしそうに腕の中の杖を見つめる彼女を安心させるように笑いかける。
「ほっほっほ、それだけで使えんように作らねば魔導具とは言えんのう」
「……あ、ありがとうございます、ソロモン様(デァ=ソロモーン)!」
「ほ?」
古の大魔法使いの名前を尊称で呼ばれ、きょとんと目を瞬かせている内に彼女は深々と頭を下げて踵を返した。そうしてきょときょととこちらを何度か流し見ながら、彼女は恐る恐る軽傷の怪我人に向かって杖を使い始める。
「わ、すごいすごい! ホントに傷がなくなった!!」
「わぁ、なんだそれ!?」
「魔法? 魔法なの?」
「あ、あ、私にも貸して!」
「駄目! 私が任されたの!」
「えぇー、ケチ!」
「こら! 遊ぶな! 負傷者が待ってるぞ!!」
「ハッ!」
きゃあきゃあと姦しい声を上げ始めた彼女達を尻目に、わしはゆっくりと円陣の中心から外に向かって歩き始める。すれ違う彼女達の好奇心に満ちた視線がこちらに向かっているが、それよりもまずは怪我人の救出を優先しているのか声はかけてこない。
後を着いても来ないのは幸運だった。わしはそのまま円陣から出て、ぶすぶすと煙が立ち昇る残骸の中を進む。
やがて、さっきまでは鬱蒼とした森の中で隠れていた場所までやって来る。そこには素人目には周囲の焼け野原となんら変わらぬ場所に思える、だが多少なりとも魔術の心得がある者が見ればその違いは一目瞭然だった。
吐き気を催すような暗黒の臭気、腐った肉と、冷たい墓場の土の臭い。若かりし頃に嗅いだその不吉な臭いに、知らず知らずのうちに体が強張っていく。
「ヴェルグロイ…………!」
グズグズになった残骸の中から拾い上げたそれは、憎き仇が持っていた魔法の護符。奴が「死霊王の紋章」と呼んでいたアミュレットで、奴の配下が身に着けていた代物だった。効果は魔力の増幅と死霊の召喚、そして呼び出したアンデッド共の支配。
「下衆め、死してなお我等に仇なそうと言うのか。いや……」
もしや、あの噂は真実だと言うのだろうか。
いつ頃からか、冒険者達の間でまことしやかに囁かれ始めたとある噂……。
曰く、「ヴェルグロイは迷宮最下層で今も封印されており、奈落の底から虎視眈々と地上の人間達を根絶やしにせんと企んでいる」と。そして現に、ヴェルグロイの紋章を身に着けた、通称「ヴェルグロイの下僕」と呼ばれる死霊術師や不死族の目撃・交戦報告が挙がって来ている。
もし……その噂が本当なら……いや、この場でこの紋章が発見された以上、噂は真実だったと考えざるを得ない。
ヴェルグロイ……あのクソ外道が!! 未練たらしく現世にしがみ付きよって! 忌々しい死にぞこないのド畜生めが、恐らく奴の狙いはわしと同じで宝玉だったのだろう。
「おのれ、今度こそ貴様の好きにはさせんっ」
「何がだ」
「ッ!?」
突然背後からかけられた声に、冒険者時代に培った反射神経は無意識に動いた。
腰に吊るしたダイヤワンドを抜き放ち、一呼吸にも満たない内に体内のマナを練り上げて魔力刃(オーラブレイド)をワンドの先端から放出する。全く剣の重みのない故の神速の斬り払いは、しかしその背後にいた彼女の首を刈る寸前で何とか停止した。
「ぇ…………」
「ッ!?」
ポカンとした顔のフィーナを見て、慌てて魔力を霧散させて魔術を無効化する。危ない所だった、もう少し気付くのが遅かったら彼女を切り殺していた。
「ふぃ……驚かすでない、危ない所だったわい」
「っ、なっ! それはこっちの台詞だ! 何だ今の動きは、お前、魔術士じゃなかったのか!?」
「ぅん? すまん、耳が遠くてのう、もう一度言ってくれんか?」
「都合のいい時だけ爺の特権を使うな!」
「あぶぶぶぶぶぶぶぅぅぅぅ」
「いきなりボケるなぁ!!」
真っ赤になって怒鳴り散らすフィーナの声を聞きつけたのか、彼女の仲間がなんだなんだと言いたげに集まってくる。
「フィーナちゃんや、飯はまだかのう」
「さっき食べたでしょ、って、何をやらすか!!」
「おお! フィーナちゃん、思ったよりノリがいいのう。もしかして滑稽本も読んどるのか?」
「え、な、そ、それは、ふん! 馬鹿な、この私がそんな低俗な読み物を――」
真っ赤になって否定しようとする彼女にニヤリと笑いかける。
「ダルク・グリーンブライトの『東方小噺集』は面白いのう?」
「あ、ああ! しかし落語と講談の特集も面白――ハッ!?」
「ふっ……間抜けは見つかったようだな」
「しまったぁぁぁぁぁ!!」
羞恥で真っ赤になった顔のまま、彼女が両手で顔面を押さえてシャウトする。どうやら滑稽本を読んでいた事がよっぽど恥ずかしかったらしい、鎧の隙間から覗く素肌の部分――顔と耳と首筋の全部が茹蛸のように真っ赤になっていた。
「これこれ、誰しも趣味の一つや二つあるもんだ、恥ずかしいものでもないわい」
「う、うるさいっ」
目の端に涙すら浮かべている。
そ、そこまで恥ずかしいか……。
「ぷっ……」
最初に吹き出したのは、カリスと呼ばれていた指揮官のホーネットだった。我慢出来ないとでも言わんばかりに思わず吹き出した後、何とか堪えようとして失敗する。
「ぷはっ、あはは、あはははははは!」
「っ! か、カリス!? あっ、おお前らいつの間にっ!?」
「は、はははは、い、いつも小難しい顔で、くくく、仕事部屋で何を読んでるのかと、ぷぷ、思ったら!」
「ち、違う! あれは兵法の指南書だ!」
必死になって言い訳するだけ疑惑が深まるのだが、冷静さを欠いた彼女は気がつかない。そうして大慌てで会話をするものだから、黙っていれば少数の間での笑い話で終わったものが一気に周囲の知る所となってしまった。
やがて周囲で聞き耳を立てていた彼女達も一緒になって笑い始め、とうとう収拾がつかなくなる。
やれやれ何とか誤魔化せたと内心溜息をつきながら、真っ赤になってカリスに詰め寄る彼女を見やる。
「なんか……隊長って実は」
「思ったより面白いひとなんだ」
「ふふ……真っ赤になって否定しちゃって」
「かわいいなぁ」
ヒソヒソとそんな事をのたまう周囲に彼女がブチ切れるまで、さてあと何秒かかるだろうか?
■■■
「では、お確かめ下さいな」
「ははっ」
手渡された宝玉を念の為精査するが、わざわざするまでもなくこれはニルダールの宝玉だ。真の力を解放していないにも拘らず、聖なる力が溢れ出ている。魔術士からすればまさに一目瞭然の品物だった。
「確かに、至宝『ニルダールの宝玉』、受け取りました」
「……本当に、それだけでよろしいのですか?」
ホーネットの女王が首を傾げながらそう問いかけてくる。
豪奢なドレスに身を包んだ彼女は、眉根を寄せて右手を頬に当てている。
「わが子を窮地から救って貰っただけでなく、貴重な魔法の品々を頂いたようではありませんか。貴方のおかげで死を免れたものが大勢いるのですよ? もっと求めても、妾は一向に構いませんのに」
「いえ、女王様、わしはフィーナと契約を交わしました、その内容からして既に私はこれ以外の物を貰わぬと誓っておるのです」
「しかし……それは妾たちが持っていても無用の長物、そんなゴミ同然の物を一つ持って行って終わりとは……」
「ほっほっほ、魔術士にとって契約は絶対ですので」
「そうですか……」
納得がいかなそうな女王に笑いかける。しかし……ニルダールの宝玉を「ゴミ同然」とは……さすが女王、スケールがでかい。
……わしも、一応王族だがのう。
「では、せめてもう少し滞在していてはもらえぬでしょうか? 貴方の為に宴を開きたいのです」
「……申し出は真に嬉しく存じますが……」
「む……すみません、詮無き事を申しました。貴方とその宝の帰りを待つ臣下と国民を思えば、このような所で宴に現を抜かす暇などありませんね」
「は、真に勝手を申します、申し訳ございませぬ」
「いえ、人間の国主と縁を持てただけでも大した収穫です。また改めて参ってください、その時は一族総出で歓迎しましょう」
「はは……」
恭しく一礼をして女王の間を引き下がる。
恐らくだが、この場所に足を踏み入れて無事外の世界に帰るのはわしが初めてだろう。
「ヴォルド様、こちらへ」
「うむ」
恭しい仕草でメイド服を着たホーネットに案内される。巣の中は木と土を使った不思議な建材で出来ており、雨にも風にも火にも強いらしい。どういった技術を使っているの全くの謎だが、素晴らしい技術の結晶であることは見て取れる。
巣の中を歩いてホーネットとすれ違うたびに、彼女達がコソコソと小さく笑いを零しながらこちらを見ている。中には握手を求められたり、部屋に来ないかと露骨に誘いをかけるものもいたが、本気ではないようだった。……当たり前か、こんな60手前の爺相手に励む物好きなどおるまい。
やがて終着点につく。
巣の出口には、あの時わしが助けたホーネットがズラリと完全武装で勢ぞろいしている。わしが見えた途端、あのよく通る凛とした声が辺りに響き渡った。
「儀仗隊! ささげぇ! 槍!」
ザァッ! と音を立てて左右の通路に並んだ兵隊蜂が槍を掲げ、斜め上に突き出したそれでアーチを作る。一糸乱れぬその動きに思わず惚れ惚れしながら、ゆっくりと槍のアーチをくぐって出口までの道を進む。キリッとした顔つきの彼女達だが、わしが通り過ぎる瞬間だけぱちりとウィンクをして見せたり、微笑んで見せたりと中々個性溢れる様子だ。中にはあの時に癒しの杖を渡した者もいて、小さな声で「また来てください、ソロモン様」と声をかけてきた。
そしてその最後には、案の定彼女がすっくと立っていた。
ピカピカに磨いた銀の鎧に身を包み、傷一つない美しい肌が太陽に映えている。右手に持った槍が一度折れた部分を無理矢理包帯で縛っているので、少々そこだけ場違いであるが、それも仕方ない。何故ならその槍は彼女が兵隊蜂になった時に女王から下賜された一品で、彼女の宝だと聞いた覚えがある。
「ヴォルド・アルデバランズ・カムラン4世閣下、数々のご無礼お詫び申し上げ――」
「これ、堅苦しいのはなしだ」
「しかし!」
「ほっほっほ! わしは人間の国の国主だ、ホーネットには身分も何も無効だろうて」
「…………分かった、ではヴォルド、この地を去る前にどうしても言っておきたい事がある」
「ほう?」
彼女は真剣な顔でこちらを見ると、一拍置いてからその口を開いた。
「どうしても、報酬があの宝玉一つだけと言うのは納得出来ない」
「これこれ、契約は絶対だと――」
「ああ、契約は絶対だ」
「うん?」
彼女はわしと交わした契約書を取り出して見せた。
「甲が乙に対して求める物品は一つのみとする……つまり、私達からヴォルドに押し付ける分には問題ないということだな?」
「む……」
しまった、まさかそんなまでして報酬を自分から払うなど考えもしなかったから、わざわざそんな事を禁止する内容は確かに書いていない。やれやれ……人間相手の契約とは勝手が違うわい。
「宝物庫から人間が欲しがりそうな物を持ってきた、どれでもいい、持って行け」
「ぬお……」
バッと覆いを取られたその場所には、馬車ほどもある台車一杯に乗せられた金銀財宝や宝剣・業物の類、或いは魔導書や魔法の護符といった魔導師ならば咽から手が出そうになるほど貴重な品々がごまんとあった。
だが……これを受け取るわけには行かない。人間の欲望には限りがない、わしがこの財宝の一欠けらを貰って満足しても、もし何処からかこの財宝を聞きつけた人間がそれを狙ってこの巣を襲わぬとも限らない。
「むぅ……」
「……」
だが、ここで何も受け取らないと言うのも駄目だ。
彼女の行為は完全に善意からのものであるし、それを無碍に断っては彼女の行為を足蹴にしてさらにその顔に泥を塗るに等しい。それもこれだけの衆人環視の中ではなおさらだ。つまりここはなるべく価値の低そうな物で、尚且つそれ一つで彼女が押し付ける報酬を満足するような物を選ばねばならない。
なんとも無理難題――――でもない。
「ふむ、決まった」
「よし、どれだ? 剣か? 本か? 金貨か?」
問いかける彼女にニヤリと笑いかけ、その手に持った槍を指差す。
「その槍をくれんかのう」
「んなっっ!?」
ギョッとした顔で彼女が固まり、今の今まで黙って控えていた他のホーネットがざわりと動揺する気配がする。
彼女は驚きで一瞬固まった後、慌ててそれを抱き締めて首を振った。
「だ、駄目だ!」
「ふぅむ、ではわしはこれにて」
「あ、ちょ、ちょっとまって!」
さっきまでのキリッとした様子は何処へやら、焦りの所為か赤くなった顔できょろきょろと周囲を見渡した後、彼女は漸くこちらを見た。
「あ、あの、これは、ほら、壊れているだろう? こんな物はあげられない」
「いやいや、記念に貰うんだ、むしろ壊れていた方が味があってよい。あの激戦を物語るいい証拠になるわい。ほれ、早う寄越さんかい」
「うぇ!? ちょ、ま、そんな、まだ心の準備が」
ごちゃごちゃとなにやら言い募る彼女を無視して、その手の中の槍をもぎ取った。
「あぁ!」
「ほっほっほ、もうわしの物だわい!」
「っ……!」
おっと、少しからかい過ぎたか、怒りで真っ赤になった彼女は唇を噛み締めて俯いてしまった。この後爆発する彼女を相手にしていては帰りが遅くなってしまう、わしは慌てて懐から紫色の宝玉が嵌まった首飾りを彼女にかけ、すぐさま帰還(リターンホーム)の魔法を唱える。
「ではさらばだ! その護符は幸運のお守りだ、ではな!!」
「あ……ッ!」
最後に何かを言おうとした彼女が口を開いたが、その口から紡がれる言葉を待つ前にわしの魔法は発動してしまった。
■■■
「行ってしまいましたね」
「……うん」
「あの魔術士に、例の掟を話したんですか?」
「……ううん」
「じゃ、偶然ですか」
「…………うん」
「「もうわしの物」……だそうですよ」
「……………………う、ん」
「しかも返礼の品まで丁寧に……もうこれ、断れませんよ」
「………………………………………………うん」
「この場合、隊長は向こうで皇后陛下ってことになるんでしょうかね……」
「…………」
「えっ……と、おめでとうございます」
「…………」
「…………隊長?」
「ぅっ……くっ……ひっく……」
「隊長!?」
隊長が壊れた! とカリスが思わず叫んでどつかれ、わっと走り寄って来た部下達にフィーナがもみくちゃにされるまで、後10秒。
兵隊蜂の求婚方法が、その槍を相手の男に渡し、そしてオーケーなら相手の男は代わりに何かをプレゼントする……というものだとヴォルドが知るのに、後一ヶ月の月日を要するのだった。
10/04/26 19:20更新 / spooky