中編
木漏れ日を浴びて立つハダリーの姿を見て、レットはその一瞬、呼吸が止まるかと思った。
遺跡から町へ戻る途中、人里を通るにあたって、レットが気にしたのはハダリーが人目につくことだった。古代遺跡群にほど近いこの里では冒険者の存在は珍しいものではないが、それでも彼女が目立つだろうことは容易に想像できる。なにしろ彼女の顔立ちは整っている。十人とすれ違えば十人が振り返る美貌なのだ。彼女の冒険者然としていない、場慣れしていない立ち振る舞いもその空気に拍車をかけていた。
本人がそうなることを望んでいるわけでもない以上、目立っていいことはあまりない。とりあえず、背中に流れる白い髪だけでも隠せば少しはマシになるかとレットは考えた。彼女のあの服を生み出した能力は、予め記録したいくつかの服装を再現するもので、あまり好きな格好になれるわけではないらしい(ちなみにあれは“旅装”モードだそうだ)。そういうわけで、レットはハダリーを村の外の森に残し、髪を覆う布を買ってきたのだった。
レットが村へ行っている間、彼女は素直に元いた場所で待っていた。森の中でも地盤が岩がちになっているからだろう、その場所は僅かに木々が開け、下草の繁った地面まで日光が届いている。どこか腰掛けていればいいものを、彼女はずっと立っていたらしい。視線は自分の肩に向けられている。なにをしているのかと見れば、小鳥が二匹、視線の先で互いに囀っていた。
なるほど、人形である彼女にはきっと、人間や他の動物のような気配がないのだ。だからこの森に棲む鳥たちも警戒しない。目の前の光景を見て、レットの中の冷静な部分はそう結論づけた。頭の残りの部分は完全に思考を止めている。肩に小鳥を遊ばせる彼女は、絹のような髪に陽光を浴びて、芸術的なまでに綺麗に見えた。
戻ってきたレットの気配を察知して、ハダリーが顔を上げる。鳥たちが羽ばたいて逃げていく。
「お帰りなさいませ、レット様」
◯
「それじゃあ、レットたちのパーティ結成に、」
「あとアタシたちの収穫にぃ」
「微妙だったレットたちの収穫と大漁だったオレらの収穫に」
「おい余計なこと言うなよ」
「乾杯!」
「乾ぱ〜い!」
呑気で陽気な掛け声に合わせて、四人ぶんのジョッキが掲げられた。テーブルについている人間は六人。足りない分は乾杯のノリに付き合う気もなさそうな一人と、それからタイミングを逃したハダリーだ。各人一斉にジョッキを傾け始める。
後日。レットたちと入れ違いに遺跡に入っていった彼らは、本人たちの言う通りかなり満足できるだけの報酬を得て帰還したらしい。あの後しばらくは落ち着いて話すこともなかったが(互いに別々に活動しているのだから仕方がない)、情報の礼ということで、今日はこうして酒を奢ってくれていた。もちろん仲間であるハダリーも一緒だ。彼女は活動に食事を必要としないが、飲もうと思えば酒を飲むこともできる。主人のレットが許せば彼女の方に拒絶する理由はない。
新しくレットと組むことになった──もっとも彼女の認識としてはあくまで「仕えて」いるのだが──ハダリーに、彼らは自分たちのことを紹介した。最年長で一番体格のいい男がリーダーのレラフ。寡黙な性格らしく、最初に挨拶をした後は積極的に会話には入ってこない。その隣でレットに絡んでいるのがジェイスで、こちらは随分とテンションが高い。彼はレットと歳が近いらしく、絡まれているレットの方も嫌がる素振りは見せていない。
そしてハダリーの、レットとは反対側の隣に座っている女性はヤコというらしい。ふわふわした長い金の髪を揺らす彼女は、このテーブルへついて真っ先にハダリーの側の席を取りにきた。今も“新入り”であるハダリーにやたらと甲斐甲斐しく世話を「飲んでるかぁ、ハダリーちん〜」
「はい、いただいております」
「固い、固いぜハダリーちん。もっと飲んでいいんだよぉ、今日はリーダーのオゴリなんだから」
「ちょっと、やめなよ」
その向こうからヤコを咎めたのは黒い短髪のローズだ。このメンバーの中では最年少で、その顔にはまだ子どもの面影すら残している。最初にジェイスにエールを勧められたが、「僕はいいよ」と断って今は一人だけレモネードを飲んでいた。一同の顔を見る限りこれはいつものことらしい。
「それにしてもレット、羨ましいぜ、こんな美人と組めるなんて」
「おぉん? ヤコさんだって美人でしょうが」
「姐さんはリーダー一筋じゃん……。なあハダリーちゃん、こいつに襲われないように気をつけなきゃダメだぜ?」
「だからやめなっ……もういいや」
「ジェイス〜、レットにそんな甲斐性あると思う?」
「あーまあヘタレだからな、レットは」
「怒るぞ、おい」
口々に勝手なことを言う面々に、苦い顔をしながらレットが突っ込む。楽しそうな彼らの様子を視界に捉えながら、ハダリーは口を開いた。
「レット様がそう望まれるなら、私は構いませんが」
「おいおいおいおい」
「いやいやいやいや」
レットとジェイスは揃って首を振った。彼らは既にハダリーがオートマトンと呼ばれる人形であることを聞かされている。そんな彼らからしても、今のハダリーの反応はどうやらよろしくないものだと捉えられるらしかった。もっとも彼女にはそのどこがおかしいのかわからない。横ではヤコがケラケラと笑っている。
「いつでもお申しつけていただければ」
「おいおいおい」
「いやいやいや」
夜も更け、彼らの腹も満たされる頃には、テーブルには二人の人間が潰れて突っ伏していた。かぱかぱとジョッキを重ねていたヤコが潰れるのは自然だ。もう一人、ジェイスの方は、どうやら普段から酒に弱いらしい。
レラフがヤコを抱え上げる。同じようにジェイスの身体を引っ張り上げようとしたローズは、彼の身体を支えきれずによろめいた。レットが手を貸そうと動く前に、ハダリーがすっと間に入る。
「あ……、……ありがとう」
ジェイスの身体を抱え上げた彼女を見上げて、ローズがおずおずと礼を言う。ハダリーは黙ったまま会釈を返した。
潰れた面々を背負い、彼女たちは酒場を後にした。酔っ払いたちの喧騒と熱気が遠ざかり、夜の冷気が彼女たちを包む。ふと、レラフがレットを振り返った。
「そうだ、レット、教団から魔物討伐の依頼が出ていたぞ」
「ああ、いつもの。ありがとうございます」
「礼には及ばん。どのみちこいつがいるせいで、俺たちが受けるわけにはいかないからな」
そう言って彼は肩越しに背負ったヤコを眺めた。リーダーの視線を感じ取ったのか、彼女は目を閉じたまま「ぅにゃ?」と返事とも寝言ともつかない声を上げた。
◯
魔物の目撃情報があったのは、レットたちが拠点としている町から近隣の都市へと繋がる街道のうち、親魔物領にほど近い峠道だった。行商人や旅人が襲われ姿を消しているというのである。辛うじて生還した目撃者によれば、襲ってきた魔物は小柄な個体が群れを成していたという。口伝てだけで魔物の区別をするというのはこれでなかなか難しいが(なにしろ全部女の姿なのだ)、おそらく今回のはゴブリンだろう。この付近ではこれまでにも何度かゴブリンの被害報告がある。
これはハダリーがレットから教えられたことだが、現代の魔物は人を襲うことはあれど、捕食など殺害にまで至ることはほとんどない。とはいえ町と町の連絡が滞るというのはそれだけで人間の生活圏にとってかなり問題で、極端な話、街道を行く行商人に継続的にチョッカイを出されるだけで致命傷になりかねないのである。町が弱ったところを魔物につけ込まれればまた新しく彼女らの支配圏が増えることもありうる。たかだかゴブリンといえど馬鹿にできない。
で、レットとハダリーはとりあえず、丘の斜面を荒野の側に向かって下った麓の一帯に目をつけた。麓には自然の作用によってできた洞穴がいくつかある。これまでにも出没したゴブリンたちが寝ぐらを作っていた場所だ。果たして。
「……いるな」
灌木の陰に身を潜め、レットは崖の下を覗き込んだ。洞穴の入り口の付近に二人、──いや二匹というべきか──頭から角を生やした女児がたむろしている。ハダリーの情報にある当時のゴブリンの姿とはかなり異なる。さらに彼女の感覚は、洞穴の中にまだ多数の敵の気配を察知していた。
「どういたしますか」
「奴らの群れには必ずリーダーがいるはずだ。そいつを探して、どこかへ行ってもらうよう説得する」
「説得する、なるほど」
「物理でな」
わかりやすい。ハダリーが戦闘もそれなりにこなせることはこれまでの関係で示している。彼女は右腕を前に出し、右の二の腕に埋め込まれた金属部分を光らせた。宙に伸びた光が薄い刃を形作る。レットが短い棍棒(クラブ)を担ぎ上げ、崖に滑り降りるように身を躍らせた。
「!?」
「なんだなん……あっオト──ぐえー」
こちらを見上げたゴブリンたちが声を上げる前に、一匹をレットが気絶させる。もう一匹が彼を振り返ったところを、
「しびびびびび」
ハダリーが光の刃で背中から切り裂いた。
攻撃されたゴブリンが血を流すことはない。代わりに、敵はびくんと身体を硬直させて地面に倒れ込む。とりあえず見張り(?)を黙らせ、彼女たちは洞穴へと向き直った。
作りから考えて、穴がそれほど深いとは考えづらい。それでも入り口からは穴の奥は見えていなかった。もしかしたら、ゴブリンたちが棲みやすいように拡張したのかもしれない。中へ進もうと準備を整える二人の前に、
ひょこっ、と、新たな個体が姿を見せた。
「……ぁあ──っ、オトコだ──っ!!!」
「チッ」
叫ぶや、ゴブリンはレットに向かって飛びかかった。露出の多い装いとは裏腹に、その行動には子どものような無邪気さすら感じられる。しかし彼女たちは人間の大人よりも力が強い。油断するとこのまま押し倒されてしまうだろう。レットは棍棒でゴブリンの攻撃を受け止め、ぶん、とそのまま振り払った。壁に叩きつけられたゴブリンは「きゅう」と口に出して地面に伸びる。
レットは普段は棍棒を使わない。今回あえてその得物を選んでいるのは、これがゴブリン退治という今回の仕事に合っているからだという。頑丈な魔物たちは棍棒で小突いたくらいではそうそう怪我はしない。彼女らを追い払うだけならこれで充分なのだということだった。きちんと仕留めておかなくていいのかと尋ねたハダリーに、彼は人の形をした相手をできるだけ傷つけたくはないと答えた。
「今の、たぶん奥にまで聞こえたよな」
「そう思われます。いかがいたしますか」
「仕方ないな、待とう。全員切り払って進むよりはましだろう」
「リーダーを狙うというお話でしたが、それも来ますか」
「来るだろ。ゴブリンってのはそんなに慎重な奴らじゃない」
そう言っている間にも洞穴の奥が騒がしくなっている。すぐに、わらわらと小柄な魔物の集団が姿を現した。
「ほらやっぱり! なにかあったみたいって言ったじゃん!」
「わざわざ来てくれたってことはやっていいってことだよね? え、そうだよね?」
「ちょっと待ってまずおやぶんに知らせないと」
「おにーさんあたしと気持ちいいことしない? しよーよっていうか逃がさなぎゃー!」
ゴブリンたちは口々に勝手なことを言っている。それからの行動も各自でまちまちだ。レットを襲おうとする者、リーダーに知らせに走る者、襲おうとする者、襲おうとする者。統率が取れていない集団は逆に対処に困る。レットは宣言した通り、纏わりついてくる相手だけを振り払って待ちの姿勢だ。ハダリーも光る刃で手当たり次第に斬りつける。とにかく敵の数が多い。
「あっ、久しぶりー」
と、急にやたらとフレンドリーな声がレットに向かって投げかけられた。声の主は他のゴブリンたちよりもちょっとだけ豪華な装いをしている。察するに群れのリーダーか。レットの馴染みかとハダリーが彼の方を窺うと、彼もまた困惑を顔に浮かべている。
「誰だよ」
「あー失礼だなー。前に会ったじゃん。前にキミがうちら追っ払いにきたときにさ。まああのときはうち下っ端だったけど」
「いや、ゴブリンの顔の区別は正直……つーかお前、いっぺん会ったなら性懲りもなく戻ってくるなよ」
「それじゃ出会いがないじゃん! うちも前の親分みたいにカッコいい旦那さま見つけて寿退群するんだからっ」
ゴブリンの社会ってそういう仕組みなのか。レットが呟く。妙な感心をする彼に、そのゴブリンのリーダーはにまにまと何やら自信ありげな笑みを向けた。
「というわけで今は親分だから、こういうこともできるんだなっと。──行け、したっぱーず!」
「合点!」
「でもしたっぱって言うのやめて!」
「あと後であたしにもちょっと分けて!」
「なっ……くそ、こいつら」
リーダーの合図で一斉に飛びかかったゴブリンたちが、レットの手足にまとわりつく。彼女たちはさっきまで彼に伸されて転がっていた奴らだ。ということは死んだ(そもそも殺していないが)ふりだったのか。慌てて彼のところへ駆け寄ろうとするハダリーに、こちらも数匹のゴブリンが立ちはだかった。
「とおーせんぼ、とーせんぼ」
「よくやったお前たち! さあおにーさん、うちとイイことしよっか。それとも外はやだ?」
「たくっ、こいつら、離せって」
じたじたとレットは暴れるが、いちど複数人がかりで押さえつけられてしまえばもう腕一本を動かすのも困難だ。周囲のゴブリンたちは全身を使って彼を拘束している。彼女たちの小さな胸が彼の身体に押しつけられている。そして瞳を輝かせたリーダーが、期待に頬を上気させて彼に近づいて、そのまま、
「──」
ハダリーは無言で両腕に手甲を実体化させた。
両肩にも薄いプロテクターが現れる。さらに腰に鎧のような装甲を追加し、代わりに身体に纏った邪魔な布地を消して動きの制限をなくす。額の眼と角のようなパーツは行動をより精密にするためのものだ。素肌をパルスのように呪紋が走る。“戦闘”モードに移行したハダリーは、立ち塞がるゴブリンたちを瞬く間に斬り払った。
「……えっ!?」
予想外の事態に呆然とするリーダーまで一瞬で距離を詰め、レットを守るように間に立つ。そしてハダリーは右手の刃を、正面の彼女にまっすぐに突き立てた。
彼女の得物は攻撃した相手を傷つけたりはしない。ただ無力化するためのものだ。リーダーがガクリと膝をつく。
「おっ……おやぶ──ん!!」
「撤退っ、てったいーっ。ちくしょーお手付きかよーあんまりだー」
「まあそんな気はしてたけどねー!」
途端、強気だったゴブリンたちがおろおろと騒ぎ始めた。正直リーダーがおらずともこのまま数に任せれば致してしまえそうな気がしないでもないが、そういう話でもないらしい。彼女たちは気絶している仲間を抱え上げるや、驚くようなスピードで逃げていった。その中の一匹がリーダーの身につけていた装飾品を手に取り、ハダリーたち二人に向かって投げつける。
「ドロップ品だ、持ってけーっ」
「……マジで退治され慣れてやがんな、あいつら……」
投げられた耳飾りをまだ地面に腰をついたままの状態で受け止めて、レットが呆れたように言った。彼の言うところによれば、冒険者は魔物討伐の証拠として、教団になにか戦利品を提出する必要があるのだそうだ。ゴブリン製の耳飾りなら証拠として申し分ない。ドロップ品という言葉の意味はわからないが……。
耳飾りを矯めつ眇めつするレットに近づいて、ハダリーは頭を下げた。
「申し訳ございません、レット様」
「ん?」
「レット様を危険に晒してしまいました」
「ああ、そんなこと。あれはむしろ俺の油断だよ。お前がいなきゃ危なかった」
そう言ってハダリーを見上げ、彼は笑った。
「助かったよ、ありがとう」
「っ……、はい、いえ、はい」
「さて、と。それじゃあ次行くか」
レットが尻を払って立ち上がる。同じような地形の場所はこの周辺に何箇所かある。そちらも見て回れば、それでこの仕事は終了だ。歩き出す彼にこれまで通りついていこうとして、
がくん、踏み出したハダリーの脚から、力が抜けた。
「あ……」
「……え?」
パチン、と小さな音を立てて焚火がはぜる。
頭上でざわざわと梢が揺れている。今、この空間に起きているのはハダリー一人。周囲にも人や魔物の気配はない。夜風が寒さを知覚させるが、それも彼女にとっては耐えられないほどではない。
他のゴブリンの寝ぐらを当たるという当初の予定を変更して、二人は町への帰途を選んでいた。理由はひとつ、ハダリーの動力制御の不調だ。昼間、ゴブリンたちが逃げていった後にいちど強い脱力を感じた、あれからは普段と変わらず動けてはいるが、それでも動力は依然不安定なままだ。原因はやはり最後の戦闘行動だろう。本来であれば大気中の魔力を吸収して使用するところ、どういうわけか現在はその回復が滞っているのだった。
ゴブリンたちの寝ぐらのあった場所から町までの距離は徒歩で二日。今夜は途中で野宿となる。夜の間の見張りについては、最初レットは交代でしたいと主張した。ハダリー一人に任せるわけにはいかないと。だが、彼女はこれに反対した。主従関係を別にしても、そもそも彼女は夜に眠らなくともよい身体なのだ。戦闘行動と比べれば普段の魔力消費は微々たるものだから敢えて休息をとることもない。そのことを考えれば、レットがわざわざ睡眠の時間を減らす必要はないはずだ。彼は気がかりそうてはあったが、結局はその正しさを認めたのだろう、大人しく見張りをハダリーに任せて眠りについた。
意識の一部を周囲の警戒に割いて、ハダリーは自己の精査(スキャン)を行っていた。
基礎運動機関、異常なし。伝達機関、異常なし。循環機関、循環魔力量低下──既知の異常。
思考経路精査。……未知の経路を確認。問題のそれを他の経路から切り離して、彼女は経路の検証を行った。実のところ、この経路は既に幾度か実行されている。例えばそれは、馴染みの仲間たちと楽しげに話す彼を見たとき。例えばそれは、足手纏いとなってしまった自分を彼が責めようとしなかったとき。例えばそれは、彼がこちらに向かって笑いかけたとき。
本来であれば、正体の知れない思考経路(プログラム)は削除されて然るべきだろう。それでも、彼女はどうしてもこれを消してしまう気にはなれなかった。今もまた、未知の思考が起動する。
「……」
焚火の向こう、眠る主に向けて、ハダリーは手を伸ばす。もちろん届かないその手を、彼女はやがて胸元に引き寄せ、そっと握りしめた。
◯
酒場が一番盛況になる時間は夜だと思われるかもしれないが、こと冒険者たちがたむろする店に話を限ったらそんなこともない。町の人間たちと違って時間に縛られない彼らにとっては町にいるときが休養の時間なのだ。そういうわけでその日の昼間、いつもの酒場には、馴染みのパーティの面々とテーブルにつくレットの姿があった。
「いいのかぁ、ハダリーちゃん姐さんに任しといて」
「まあな。ヤコなら無茶はしないだろ」
「うーん、そうかなあ。姐さん結構とんでもないけどな」
レットの左隣、ジェイスがエールのジョッキを片手で揺らしながらぼやく。今、この場にハダリーはいない。彼らが席を見つけた段階で、「女子は女子会」とヤコに連れていかれてしまったのだった。今は店の向こう側のカウンターで二人で話している。
レットがカウンターの彼女の方を眺めていると、横からジェイスがぐっと腕を回してきた。
「で? どうなのよ彼女とは」
「どうってなんだよ」
「決まってるだろ。その後進展はあったのか?」
「進展ってな……」
ジェイスの腕を首から剥がしつつ、レットは苦笑する。彼がこの手の話題に食いつきがいいのはいつものことだ。反応の悪いレットの様子を見て、ジェイスはふと真顔になった。真顔というか、半分くらいは咎めるような表情だ。
「……なあレット、お前本当になにもないのか? だってあんな美人と四六時中一緒にいるんだぜ、もうちょっとなんかあるもんだろ」
「まあ、彼女と組むことを決めたときに、そういう下心がなかったとは言わないよ」
「だよな? やっぱそうだよ」
「……意外。レットさんでもそういうこと考えるんだ」
横合いからローズが口を挟んだ。ちなみにローズもヤコから誘われていたのだが、「冗談」と断ってこの場に残っている。
そう、下心がなかったと言えば嘘になる。なにしろ──ジェイスも言っているが──あの美貌なのだ。見つめられたら心は動くし、慕われれば嬉しいに決まっている。冒険者として彼女と組むメリットを計算した中に、仕事とは関係のないレット個人の欲求は確かにあった。
どこか不満そうなローズに、ジェイスが「男ってのはそんなもんだ」と自慢げに言う。そんな彼を横目で見ながら、レットはジョッキを口に運んだ。
「まあそうはいっても、今はもう彼女とどうこうなろうって気はそんなにないんだけどな」
「なんでだよ、もったいねぇなあ。お前が望めばハダリーちゃん相手してくれると思うぜ?」
「っていうか、実際にそう言ってたしね」
「けど、それは彼女がそう作られてるってだけの話だろ」
目覚めてから幾度か見せた、主人を求めるハダリーの仕草。誰かに仕えるオートマトンとしての本能がそうさせるのだろう。レットに身体を許そうとしたことも、おそらくはその使命感の延長だ。ただそれだけのこと、主人として登録された彼を──愛、しているわけでは別にない。
「愛がなきゃ嫌だなんてピュアなことないだろ?」
「無理強いはしたくないってことさ」
揶揄ってくるジェイスに答えて、レットは店の向こう側を窺った。ヤコが何事かハダリーに話しかけているのが見える。カウンターに並んで座る彼女たちの会話は、喧騒に遮られて彼のいる場所からでは聞こえない。
「失敗しちゃったんだって?」
カウンターに寝かせた腕に頬をのせて、ヤコはそう言ってハダリーを見上げた。長い髪がカウンターの上に広がっている。
そして、その手にはまた酒が握られていた。ハダリーが気づいたことによれば、どうやらこの時代の酒はどれもあまり強くないらしい。昼間から飲んでも問題ないというわけだ。かくいう彼女も同じものを飲んでいる。もっとも、ハダリーは酒に酔うようなことはないが。
どこか労わるようなヤコの言葉に、ハダリーは僅かに項垂れた。ヤコの言う通りだった。あのゴブリンたちを蹴散らすのに消費した動力は、今に至るまで回復できていない。おかげでレットが次の仕事を選ぶのに支障が出る有様だ。自分の存在がむしろ足を引っ張っている。
「まあ、そんなにへこまないでもいいんじゃない?」
「情けない限りです。従者が主人の妨げとなるなど」
「忠実だねえ。でも、本当にそれだけかにゃ〜?」
「……どういう意図でしょうか」
「ハダリーちんさあ」
相変わらずののんびりした口調を崩さないまま、彼女は、にま、と笑った。
「魔物でしょ」
「……」
視線を一度だけ彼女の方へ向けて、すぐに正面へ向き直る。ざわざわと客たちの喧騒が聞こえている。ハダリーが返事をしないでいると、ヤコは身体を起こしてこちらを向いた。
その口から、さらにハダリーの予想しない台詞が飛び出す。
「アタシもなんだぁ〜」
言うと、彼女は両手をおもむろに自分の頭の上に持っていった。ふわふわした髪に手を埋める。そして、ヤコはその手をぱっと開いた。
ぴょこん、と、髪と同じ金色の毛に覆われたふたつの耳が、頭の上に現れていた。
ハダリーは無言のまま、彼女の頭上の耳に手を伸ばした。そのまま指でやわやわと摘む。ヤコが「痛っ、痛いよハダリーちん」と抗議している。
「これは──犬、ではない、……狐でしょうか」
「正解〜。しっぽもあるんだよぉ、二本。知ってるかな? 妖狐(ヨウコ)っていうんだぁ」
「妖狐。主に東方のジパングという地方に棲息する魔物ですね。尾の数が多いほど魔力が多く、二本から最大で九本──」
「かっ、かわいくねぇ……」
彼女は頬を引き攣らせた。その後で腕に顎をついて「レラフが相手してくれないから」とぶーたれているのは、彼女の“つがい”が彼らのリーダーなのだろう。現代の魔物たちが人間のつがいを作り、その精を吸って強くなるという話はレットから聞いている。……とすると、彼の魔物についての知識はこのヤコから聞いたものなのか。彼らが仲がいいらしいことはこの短いつき合いでもわかる。
言いようのない思考──感情がハダリーの胸の中を走り、もやもやとした不快感を生み出した。あの遺跡を出てからこちら、何度か経験した思考経路だった。本来の彼女には存在しないはずのものだ。自分の身体が変容しつつある、そのことに彼女は気づいていた。原因にも心当たりはある。
オートマトンであるハダリーは、メインの動力の制御に必要な魔力を大気中から取り入れている。その魔力によって自覚のないうちに身体が変質させられているとすれば、確かに現在のハダリーは……
「魔物……と、いえるのかもしれません」
「魔物ってのはカレシが一番だからね〜。ハダリーちんのレットへの気持ちもよくわかるってもんよ」
「いいえ、それは誤解です。己が何者であろうと私は従僕としてレット様に仕えるのみですから。そこに不埒な意図はあり得ません」
「強情だにゃあ」
おっと、にゃあじゃなくてコン、などと彼女は軽口を叩いた。
「でもさ〜、魔物な以上本能ってのは抑えられないものだよ? ちょっとレットの奴が愛を囁いてくるとこ想像してみ?」
「……」
想像、してみる。シミュレーションは彼女にも備わった基本的な機能だ。処理は一瞬、さっきとは異なる種類の感情が彼女の中に生まれる。その感情を、顔には出さず、
「……不埒な意図はありません」
「強情だコン。……言いにくぅ」
意見を変えないハダリーに諦めたのか、ヤコはハダリーから顔を離してグラスの中身を飲み干した。「マスターおかわり」と叫ぶ彼女の声を聞きながら、ハダリーは独り思案に沈む。
ヤコの言うことは正しいのだろう。その正しさは、胸を走るこの感情がなによりも証明している。それでも、ハダリーはその感情に身を任せるわけにはいかない。自分の存在意義は主人に仕えること──それが果たせるなら、己が魔物であろうと人形であろうと関係ないのだ。
魔物としての本能(リビドー)と、オートマトンとしての本能(プログラム)。そのふたつが矛盾なく存在できる条件はひとつだけ。
レットの方からハダリーを求めてきたときだけだ。
遺跡から町へ戻る途中、人里を通るにあたって、レットが気にしたのはハダリーが人目につくことだった。古代遺跡群にほど近いこの里では冒険者の存在は珍しいものではないが、それでも彼女が目立つだろうことは容易に想像できる。なにしろ彼女の顔立ちは整っている。十人とすれ違えば十人が振り返る美貌なのだ。彼女の冒険者然としていない、場慣れしていない立ち振る舞いもその空気に拍車をかけていた。
本人がそうなることを望んでいるわけでもない以上、目立っていいことはあまりない。とりあえず、背中に流れる白い髪だけでも隠せば少しはマシになるかとレットは考えた。彼女のあの服を生み出した能力は、予め記録したいくつかの服装を再現するもので、あまり好きな格好になれるわけではないらしい(ちなみにあれは“旅装”モードだそうだ)。そういうわけで、レットはハダリーを村の外の森に残し、髪を覆う布を買ってきたのだった。
レットが村へ行っている間、彼女は素直に元いた場所で待っていた。森の中でも地盤が岩がちになっているからだろう、その場所は僅かに木々が開け、下草の繁った地面まで日光が届いている。どこか腰掛けていればいいものを、彼女はずっと立っていたらしい。視線は自分の肩に向けられている。なにをしているのかと見れば、小鳥が二匹、視線の先で互いに囀っていた。
なるほど、人形である彼女にはきっと、人間や他の動物のような気配がないのだ。だからこの森に棲む鳥たちも警戒しない。目の前の光景を見て、レットの中の冷静な部分はそう結論づけた。頭の残りの部分は完全に思考を止めている。肩に小鳥を遊ばせる彼女は、絹のような髪に陽光を浴びて、芸術的なまでに綺麗に見えた。
戻ってきたレットの気配を察知して、ハダリーが顔を上げる。鳥たちが羽ばたいて逃げていく。
「お帰りなさいませ、レット様」
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「それじゃあ、レットたちのパーティ結成に、」
「あとアタシたちの収穫にぃ」
「微妙だったレットたちの収穫と大漁だったオレらの収穫に」
「おい余計なこと言うなよ」
「乾杯!」
「乾ぱ〜い!」
呑気で陽気な掛け声に合わせて、四人ぶんのジョッキが掲げられた。テーブルについている人間は六人。足りない分は乾杯のノリに付き合う気もなさそうな一人と、それからタイミングを逃したハダリーだ。各人一斉にジョッキを傾け始める。
後日。レットたちと入れ違いに遺跡に入っていった彼らは、本人たちの言う通りかなり満足できるだけの報酬を得て帰還したらしい。あの後しばらくは落ち着いて話すこともなかったが(互いに別々に活動しているのだから仕方がない)、情報の礼ということで、今日はこうして酒を奢ってくれていた。もちろん仲間であるハダリーも一緒だ。彼女は活動に食事を必要としないが、飲もうと思えば酒を飲むこともできる。主人のレットが許せば彼女の方に拒絶する理由はない。
新しくレットと組むことになった──もっとも彼女の認識としてはあくまで「仕えて」いるのだが──ハダリーに、彼らは自分たちのことを紹介した。最年長で一番体格のいい男がリーダーのレラフ。寡黙な性格らしく、最初に挨拶をした後は積極的に会話には入ってこない。その隣でレットに絡んでいるのがジェイスで、こちらは随分とテンションが高い。彼はレットと歳が近いらしく、絡まれているレットの方も嫌がる素振りは見せていない。
そしてハダリーの、レットとは反対側の隣に座っている女性はヤコというらしい。ふわふわした長い金の髪を揺らす彼女は、このテーブルへついて真っ先にハダリーの側の席を取りにきた。今も“新入り”であるハダリーにやたらと甲斐甲斐しく世話を「飲んでるかぁ、ハダリーちん〜」
「はい、いただいております」
「固い、固いぜハダリーちん。もっと飲んでいいんだよぉ、今日はリーダーのオゴリなんだから」
「ちょっと、やめなよ」
その向こうからヤコを咎めたのは黒い短髪のローズだ。このメンバーの中では最年少で、その顔にはまだ子どもの面影すら残している。最初にジェイスにエールを勧められたが、「僕はいいよ」と断って今は一人だけレモネードを飲んでいた。一同の顔を見る限りこれはいつものことらしい。
「それにしてもレット、羨ましいぜ、こんな美人と組めるなんて」
「おぉん? ヤコさんだって美人でしょうが」
「姐さんはリーダー一筋じゃん……。なあハダリーちゃん、こいつに襲われないように気をつけなきゃダメだぜ?」
「だからやめなっ……もういいや」
「ジェイス〜、レットにそんな甲斐性あると思う?」
「あーまあヘタレだからな、レットは」
「怒るぞ、おい」
口々に勝手なことを言う面々に、苦い顔をしながらレットが突っ込む。楽しそうな彼らの様子を視界に捉えながら、ハダリーは口を開いた。
「レット様がそう望まれるなら、私は構いませんが」
「おいおいおいおい」
「いやいやいやいや」
レットとジェイスは揃って首を振った。彼らは既にハダリーがオートマトンと呼ばれる人形であることを聞かされている。そんな彼らからしても、今のハダリーの反応はどうやらよろしくないものだと捉えられるらしかった。もっとも彼女にはそのどこがおかしいのかわからない。横ではヤコがケラケラと笑っている。
「いつでもお申しつけていただければ」
「おいおいおい」
「いやいやいや」
夜も更け、彼らの腹も満たされる頃には、テーブルには二人の人間が潰れて突っ伏していた。かぱかぱとジョッキを重ねていたヤコが潰れるのは自然だ。もう一人、ジェイスの方は、どうやら普段から酒に弱いらしい。
レラフがヤコを抱え上げる。同じようにジェイスの身体を引っ張り上げようとしたローズは、彼の身体を支えきれずによろめいた。レットが手を貸そうと動く前に、ハダリーがすっと間に入る。
「あ……、……ありがとう」
ジェイスの身体を抱え上げた彼女を見上げて、ローズがおずおずと礼を言う。ハダリーは黙ったまま会釈を返した。
潰れた面々を背負い、彼女たちは酒場を後にした。酔っ払いたちの喧騒と熱気が遠ざかり、夜の冷気が彼女たちを包む。ふと、レラフがレットを振り返った。
「そうだ、レット、教団から魔物討伐の依頼が出ていたぞ」
「ああ、いつもの。ありがとうございます」
「礼には及ばん。どのみちこいつがいるせいで、俺たちが受けるわけにはいかないからな」
そう言って彼は肩越しに背負ったヤコを眺めた。リーダーの視線を感じ取ったのか、彼女は目を閉じたまま「ぅにゃ?」と返事とも寝言ともつかない声を上げた。
◯
魔物の目撃情報があったのは、レットたちが拠点としている町から近隣の都市へと繋がる街道のうち、親魔物領にほど近い峠道だった。行商人や旅人が襲われ姿を消しているというのである。辛うじて生還した目撃者によれば、襲ってきた魔物は小柄な個体が群れを成していたという。口伝てだけで魔物の区別をするというのはこれでなかなか難しいが(なにしろ全部女の姿なのだ)、おそらく今回のはゴブリンだろう。この付近ではこれまでにも何度かゴブリンの被害報告がある。
これはハダリーがレットから教えられたことだが、現代の魔物は人を襲うことはあれど、捕食など殺害にまで至ることはほとんどない。とはいえ町と町の連絡が滞るというのはそれだけで人間の生活圏にとってかなり問題で、極端な話、街道を行く行商人に継続的にチョッカイを出されるだけで致命傷になりかねないのである。町が弱ったところを魔物につけ込まれればまた新しく彼女らの支配圏が増えることもありうる。たかだかゴブリンといえど馬鹿にできない。
で、レットとハダリーはとりあえず、丘の斜面を荒野の側に向かって下った麓の一帯に目をつけた。麓には自然の作用によってできた洞穴がいくつかある。これまでにも出没したゴブリンたちが寝ぐらを作っていた場所だ。果たして。
「……いるな」
灌木の陰に身を潜め、レットは崖の下を覗き込んだ。洞穴の入り口の付近に二人、──いや二匹というべきか──頭から角を生やした女児がたむろしている。ハダリーの情報にある当時のゴブリンの姿とはかなり異なる。さらに彼女の感覚は、洞穴の中にまだ多数の敵の気配を察知していた。
「どういたしますか」
「奴らの群れには必ずリーダーがいるはずだ。そいつを探して、どこかへ行ってもらうよう説得する」
「説得する、なるほど」
「物理でな」
わかりやすい。ハダリーが戦闘もそれなりにこなせることはこれまでの関係で示している。彼女は右腕を前に出し、右の二の腕に埋め込まれた金属部分を光らせた。宙に伸びた光が薄い刃を形作る。レットが短い棍棒(クラブ)を担ぎ上げ、崖に滑り降りるように身を躍らせた。
「!?」
「なんだなん……あっオト──ぐえー」
こちらを見上げたゴブリンたちが声を上げる前に、一匹をレットが気絶させる。もう一匹が彼を振り返ったところを、
「しびびびびび」
ハダリーが光の刃で背中から切り裂いた。
攻撃されたゴブリンが血を流すことはない。代わりに、敵はびくんと身体を硬直させて地面に倒れ込む。とりあえず見張り(?)を黙らせ、彼女たちは洞穴へと向き直った。
作りから考えて、穴がそれほど深いとは考えづらい。それでも入り口からは穴の奥は見えていなかった。もしかしたら、ゴブリンたちが棲みやすいように拡張したのかもしれない。中へ進もうと準備を整える二人の前に、
ひょこっ、と、新たな個体が姿を見せた。
「……ぁあ──っ、オトコだ──っ!!!」
「チッ」
叫ぶや、ゴブリンはレットに向かって飛びかかった。露出の多い装いとは裏腹に、その行動には子どものような無邪気さすら感じられる。しかし彼女たちは人間の大人よりも力が強い。油断するとこのまま押し倒されてしまうだろう。レットは棍棒でゴブリンの攻撃を受け止め、ぶん、とそのまま振り払った。壁に叩きつけられたゴブリンは「きゅう」と口に出して地面に伸びる。
レットは普段は棍棒を使わない。今回あえてその得物を選んでいるのは、これがゴブリン退治という今回の仕事に合っているからだという。頑丈な魔物たちは棍棒で小突いたくらいではそうそう怪我はしない。彼女らを追い払うだけならこれで充分なのだということだった。きちんと仕留めておかなくていいのかと尋ねたハダリーに、彼は人の形をした相手をできるだけ傷つけたくはないと答えた。
「今の、たぶん奥にまで聞こえたよな」
「そう思われます。いかがいたしますか」
「仕方ないな、待とう。全員切り払って進むよりはましだろう」
「リーダーを狙うというお話でしたが、それも来ますか」
「来るだろ。ゴブリンってのはそんなに慎重な奴らじゃない」
そう言っている間にも洞穴の奥が騒がしくなっている。すぐに、わらわらと小柄な魔物の集団が姿を現した。
「ほらやっぱり! なにかあったみたいって言ったじゃん!」
「わざわざ来てくれたってことはやっていいってことだよね? え、そうだよね?」
「ちょっと待ってまずおやぶんに知らせないと」
「おにーさんあたしと気持ちいいことしない? しよーよっていうか逃がさなぎゃー!」
ゴブリンたちは口々に勝手なことを言っている。それからの行動も各自でまちまちだ。レットを襲おうとする者、リーダーに知らせに走る者、襲おうとする者、襲おうとする者。統率が取れていない集団は逆に対処に困る。レットは宣言した通り、纏わりついてくる相手だけを振り払って待ちの姿勢だ。ハダリーも光る刃で手当たり次第に斬りつける。とにかく敵の数が多い。
「あっ、久しぶりー」
と、急にやたらとフレンドリーな声がレットに向かって投げかけられた。声の主は他のゴブリンたちよりもちょっとだけ豪華な装いをしている。察するに群れのリーダーか。レットの馴染みかとハダリーが彼の方を窺うと、彼もまた困惑を顔に浮かべている。
「誰だよ」
「あー失礼だなー。前に会ったじゃん。前にキミがうちら追っ払いにきたときにさ。まああのときはうち下っ端だったけど」
「いや、ゴブリンの顔の区別は正直……つーかお前、いっぺん会ったなら性懲りもなく戻ってくるなよ」
「それじゃ出会いがないじゃん! うちも前の親分みたいにカッコいい旦那さま見つけて寿退群するんだからっ」
ゴブリンの社会ってそういう仕組みなのか。レットが呟く。妙な感心をする彼に、そのゴブリンのリーダーはにまにまと何やら自信ありげな笑みを向けた。
「というわけで今は親分だから、こういうこともできるんだなっと。──行け、したっぱーず!」
「合点!」
「でもしたっぱって言うのやめて!」
「あと後であたしにもちょっと分けて!」
「なっ……くそ、こいつら」
リーダーの合図で一斉に飛びかかったゴブリンたちが、レットの手足にまとわりつく。彼女たちはさっきまで彼に伸されて転がっていた奴らだ。ということは死んだ(そもそも殺していないが)ふりだったのか。慌てて彼のところへ駆け寄ろうとするハダリーに、こちらも数匹のゴブリンが立ちはだかった。
「とおーせんぼ、とーせんぼ」
「よくやったお前たち! さあおにーさん、うちとイイことしよっか。それとも外はやだ?」
「たくっ、こいつら、離せって」
じたじたとレットは暴れるが、いちど複数人がかりで押さえつけられてしまえばもう腕一本を動かすのも困難だ。周囲のゴブリンたちは全身を使って彼を拘束している。彼女たちの小さな胸が彼の身体に押しつけられている。そして瞳を輝かせたリーダーが、期待に頬を上気させて彼に近づいて、そのまま、
「──」
ハダリーは無言で両腕に手甲を実体化させた。
両肩にも薄いプロテクターが現れる。さらに腰に鎧のような装甲を追加し、代わりに身体に纏った邪魔な布地を消して動きの制限をなくす。額の眼と角のようなパーツは行動をより精密にするためのものだ。素肌をパルスのように呪紋が走る。“戦闘”モードに移行したハダリーは、立ち塞がるゴブリンたちを瞬く間に斬り払った。
「……えっ!?」
予想外の事態に呆然とするリーダーまで一瞬で距離を詰め、レットを守るように間に立つ。そしてハダリーは右手の刃を、正面の彼女にまっすぐに突き立てた。
彼女の得物は攻撃した相手を傷つけたりはしない。ただ無力化するためのものだ。リーダーがガクリと膝をつく。
「おっ……おやぶ──ん!!」
「撤退っ、てったいーっ。ちくしょーお手付きかよーあんまりだー」
「まあそんな気はしてたけどねー!」
途端、強気だったゴブリンたちがおろおろと騒ぎ始めた。正直リーダーがおらずともこのまま数に任せれば致してしまえそうな気がしないでもないが、そういう話でもないらしい。彼女たちは気絶している仲間を抱え上げるや、驚くようなスピードで逃げていった。その中の一匹がリーダーの身につけていた装飾品を手に取り、ハダリーたち二人に向かって投げつける。
「ドロップ品だ、持ってけーっ」
「……マジで退治され慣れてやがんな、あいつら……」
投げられた耳飾りをまだ地面に腰をついたままの状態で受け止めて、レットが呆れたように言った。彼の言うところによれば、冒険者は魔物討伐の証拠として、教団になにか戦利品を提出する必要があるのだそうだ。ゴブリン製の耳飾りなら証拠として申し分ない。ドロップ品という言葉の意味はわからないが……。
耳飾りを矯めつ眇めつするレットに近づいて、ハダリーは頭を下げた。
「申し訳ございません、レット様」
「ん?」
「レット様を危険に晒してしまいました」
「ああ、そんなこと。あれはむしろ俺の油断だよ。お前がいなきゃ危なかった」
そう言ってハダリーを見上げ、彼は笑った。
「助かったよ、ありがとう」
「っ……、はい、いえ、はい」
「さて、と。それじゃあ次行くか」
レットが尻を払って立ち上がる。同じような地形の場所はこの周辺に何箇所かある。そちらも見て回れば、それでこの仕事は終了だ。歩き出す彼にこれまで通りついていこうとして、
がくん、踏み出したハダリーの脚から、力が抜けた。
「あ……」
「……え?」
パチン、と小さな音を立てて焚火がはぜる。
頭上でざわざわと梢が揺れている。今、この空間に起きているのはハダリー一人。周囲にも人や魔物の気配はない。夜風が寒さを知覚させるが、それも彼女にとっては耐えられないほどではない。
他のゴブリンの寝ぐらを当たるという当初の予定を変更して、二人は町への帰途を選んでいた。理由はひとつ、ハダリーの動力制御の不調だ。昼間、ゴブリンたちが逃げていった後にいちど強い脱力を感じた、あれからは普段と変わらず動けてはいるが、それでも動力は依然不安定なままだ。原因はやはり最後の戦闘行動だろう。本来であれば大気中の魔力を吸収して使用するところ、どういうわけか現在はその回復が滞っているのだった。
ゴブリンたちの寝ぐらのあった場所から町までの距離は徒歩で二日。今夜は途中で野宿となる。夜の間の見張りについては、最初レットは交代でしたいと主張した。ハダリー一人に任せるわけにはいかないと。だが、彼女はこれに反対した。主従関係を別にしても、そもそも彼女は夜に眠らなくともよい身体なのだ。戦闘行動と比べれば普段の魔力消費は微々たるものだから敢えて休息をとることもない。そのことを考えれば、レットがわざわざ睡眠の時間を減らす必要はないはずだ。彼は気がかりそうてはあったが、結局はその正しさを認めたのだろう、大人しく見張りをハダリーに任せて眠りについた。
意識の一部を周囲の警戒に割いて、ハダリーは自己の精査(スキャン)を行っていた。
基礎運動機関、異常なし。伝達機関、異常なし。循環機関、循環魔力量低下──既知の異常。
思考経路精査。……未知の経路を確認。問題のそれを他の経路から切り離して、彼女は経路の検証を行った。実のところ、この経路は既に幾度か実行されている。例えばそれは、馴染みの仲間たちと楽しげに話す彼を見たとき。例えばそれは、足手纏いとなってしまった自分を彼が責めようとしなかったとき。例えばそれは、彼がこちらに向かって笑いかけたとき。
本来であれば、正体の知れない思考経路(プログラム)は削除されて然るべきだろう。それでも、彼女はどうしてもこれを消してしまう気にはなれなかった。今もまた、未知の思考が起動する。
「……」
焚火の向こう、眠る主に向けて、ハダリーは手を伸ばす。もちろん届かないその手を、彼女はやがて胸元に引き寄せ、そっと握りしめた。
◯
酒場が一番盛況になる時間は夜だと思われるかもしれないが、こと冒険者たちがたむろする店に話を限ったらそんなこともない。町の人間たちと違って時間に縛られない彼らにとっては町にいるときが休養の時間なのだ。そういうわけでその日の昼間、いつもの酒場には、馴染みのパーティの面々とテーブルにつくレットの姿があった。
「いいのかぁ、ハダリーちゃん姐さんに任しといて」
「まあな。ヤコなら無茶はしないだろ」
「うーん、そうかなあ。姐さん結構とんでもないけどな」
レットの左隣、ジェイスがエールのジョッキを片手で揺らしながらぼやく。今、この場にハダリーはいない。彼らが席を見つけた段階で、「女子は女子会」とヤコに連れていかれてしまったのだった。今は店の向こう側のカウンターで二人で話している。
レットがカウンターの彼女の方を眺めていると、横からジェイスがぐっと腕を回してきた。
「で? どうなのよ彼女とは」
「どうってなんだよ」
「決まってるだろ。その後進展はあったのか?」
「進展ってな……」
ジェイスの腕を首から剥がしつつ、レットは苦笑する。彼がこの手の話題に食いつきがいいのはいつものことだ。反応の悪いレットの様子を見て、ジェイスはふと真顔になった。真顔というか、半分くらいは咎めるような表情だ。
「……なあレット、お前本当になにもないのか? だってあんな美人と四六時中一緒にいるんだぜ、もうちょっとなんかあるもんだろ」
「まあ、彼女と組むことを決めたときに、そういう下心がなかったとは言わないよ」
「だよな? やっぱそうだよ」
「……意外。レットさんでもそういうこと考えるんだ」
横合いからローズが口を挟んだ。ちなみにローズもヤコから誘われていたのだが、「冗談」と断ってこの場に残っている。
そう、下心がなかったと言えば嘘になる。なにしろ──ジェイスも言っているが──あの美貌なのだ。見つめられたら心は動くし、慕われれば嬉しいに決まっている。冒険者として彼女と組むメリットを計算した中に、仕事とは関係のないレット個人の欲求は確かにあった。
どこか不満そうなローズに、ジェイスが「男ってのはそんなもんだ」と自慢げに言う。そんな彼を横目で見ながら、レットはジョッキを口に運んだ。
「まあそうはいっても、今はもう彼女とどうこうなろうって気はそんなにないんだけどな」
「なんでだよ、もったいねぇなあ。お前が望めばハダリーちゃん相手してくれると思うぜ?」
「っていうか、実際にそう言ってたしね」
「けど、それは彼女がそう作られてるってだけの話だろ」
目覚めてから幾度か見せた、主人を求めるハダリーの仕草。誰かに仕えるオートマトンとしての本能がそうさせるのだろう。レットに身体を許そうとしたことも、おそらくはその使命感の延長だ。ただそれだけのこと、主人として登録された彼を──愛、しているわけでは別にない。
「愛がなきゃ嫌だなんてピュアなことないだろ?」
「無理強いはしたくないってことさ」
揶揄ってくるジェイスに答えて、レットは店の向こう側を窺った。ヤコが何事かハダリーに話しかけているのが見える。カウンターに並んで座る彼女たちの会話は、喧騒に遮られて彼のいる場所からでは聞こえない。
「失敗しちゃったんだって?」
カウンターに寝かせた腕に頬をのせて、ヤコはそう言ってハダリーを見上げた。長い髪がカウンターの上に広がっている。
そして、その手にはまた酒が握られていた。ハダリーが気づいたことによれば、どうやらこの時代の酒はどれもあまり強くないらしい。昼間から飲んでも問題ないというわけだ。かくいう彼女も同じものを飲んでいる。もっとも、ハダリーは酒に酔うようなことはないが。
どこか労わるようなヤコの言葉に、ハダリーは僅かに項垂れた。ヤコの言う通りだった。あのゴブリンたちを蹴散らすのに消費した動力は、今に至るまで回復できていない。おかげでレットが次の仕事を選ぶのに支障が出る有様だ。自分の存在がむしろ足を引っ張っている。
「まあ、そんなにへこまないでもいいんじゃない?」
「情けない限りです。従者が主人の妨げとなるなど」
「忠実だねえ。でも、本当にそれだけかにゃ〜?」
「……どういう意図でしょうか」
「ハダリーちんさあ」
相変わらずののんびりした口調を崩さないまま、彼女は、にま、と笑った。
「魔物でしょ」
「……」
視線を一度だけ彼女の方へ向けて、すぐに正面へ向き直る。ざわざわと客たちの喧騒が聞こえている。ハダリーが返事をしないでいると、ヤコは身体を起こしてこちらを向いた。
その口から、さらにハダリーの予想しない台詞が飛び出す。
「アタシもなんだぁ〜」
言うと、彼女は両手をおもむろに自分の頭の上に持っていった。ふわふわした髪に手を埋める。そして、ヤコはその手をぱっと開いた。
ぴょこん、と、髪と同じ金色の毛に覆われたふたつの耳が、頭の上に現れていた。
ハダリーは無言のまま、彼女の頭上の耳に手を伸ばした。そのまま指でやわやわと摘む。ヤコが「痛っ、痛いよハダリーちん」と抗議している。
「これは──犬、ではない、……狐でしょうか」
「正解〜。しっぽもあるんだよぉ、二本。知ってるかな? 妖狐(ヨウコ)っていうんだぁ」
「妖狐。主に東方のジパングという地方に棲息する魔物ですね。尾の数が多いほど魔力が多く、二本から最大で九本──」
「かっ、かわいくねぇ……」
彼女は頬を引き攣らせた。その後で腕に顎をついて「レラフが相手してくれないから」とぶーたれているのは、彼女の“つがい”が彼らのリーダーなのだろう。現代の魔物たちが人間のつがいを作り、その精を吸って強くなるという話はレットから聞いている。……とすると、彼の魔物についての知識はこのヤコから聞いたものなのか。彼らが仲がいいらしいことはこの短いつき合いでもわかる。
言いようのない思考──感情がハダリーの胸の中を走り、もやもやとした不快感を生み出した。あの遺跡を出てからこちら、何度か経験した思考経路だった。本来の彼女には存在しないはずのものだ。自分の身体が変容しつつある、そのことに彼女は気づいていた。原因にも心当たりはある。
オートマトンであるハダリーは、メインの動力の制御に必要な魔力を大気中から取り入れている。その魔力によって自覚のないうちに身体が変質させられているとすれば、確かに現在のハダリーは……
「魔物……と、いえるのかもしれません」
「魔物ってのはカレシが一番だからね〜。ハダリーちんのレットへの気持ちもよくわかるってもんよ」
「いいえ、それは誤解です。己が何者であろうと私は従僕としてレット様に仕えるのみですから。そこに不埒な意図はあり得ません」
「強情だにゃあ」
おっと、にゃあじゃなくてコン、などと彼女は軽口を叩いた。
「でもさ〜、魔物な以上本能ってのは抑えられないものだよ? ちょっとレットの奴が愛を囁いてくるとこ想像してみ?」
「……」
想像、してみる。シミュレーションは彼女にも備わった基本的な機能だ。処理は一瞬、さっきとは異なる種類の感情が彼女の中に生まれる。その感情を、顔には出さず、
「……不埒な意図はありません」
「強情だコン。……言いにくぅ」
意見を変えないハダリーに諦めたのか、ヤコはハダリーから顔を離してグラスの中身を飲み干した。「マスターおかわり」と叫ぶ彼女の声を聞きながら、ハダリーは独り思案に沈む。
ヤコの言うことは正しいのだろう。その正しさは、胸を走るこの感情がなによりも証明している。それでも、ハダリーはその感情に身を任せるわけにはいかない。自分の存在意義は主人に仕えること──それが果たせるなら、己が魔物であろうと人形であろうと関係ないのだ。
魔物としての本能(リビドー)と、オートマトンとしての本能(プログラム)。そのふたつが矛盾なく存在できる条件はひとつだけ。
レットの方からハダリーを求めてきたときだけだ。
23/09/14 17:48更新 / 睦
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