連載小説
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前編
 古代遺跡に潜る冒険者にとって、警戒しなければならない危険はいくつかある。
 まず、魔物──これはもちろん最重要の警戒対象だ。特に都市などの人の生活圏から遠い遺跡では、実は男の冒険者の最期は負傷による死亡よりも魔物娘の手による行方不明の方が多い。とはいえ、(一般には知られていないことだが)彼女たちは少なくとも人間を傷つけることはしない。
 他に挙げられるものとしては、魔王の魔力に感化されない普通の獣、そしてなにより罠(トラップ)がある。遺跡から主人が姿を消した後も稼働し続ける一部の罠は、現在でもアンデッドのように忠実に侵入者の排除を遂行している。……むしろアンデッドはそれほど忠実ではないかもしれないが。

「クソッ……」

 壁に背中を預けて、レットは低く呻いた。押さえた右の手首は血が滲み、指を伝って地面に滴っている。
 油断していたつもりはなかった。単純に純粋に、罠の隠蔽精度がレットの探知技術を超えていたのだ。扉の取っ手に仕掛けられていた派手な針は、数分前に不用意にそれを回したレットの右手を差し貫いた。利き手をやられたのは文字通り死ぬほど痛い。しかも、

「うー……ん、ハズレか」

 周囲を見回して言う。罠の先にはお宝があるのがセオリーだ。だというのに、この場所にはそういったものはほとんど期待できそうもなかった。途中でルート選びをミスったか。彼が転がり込んだこの部屋は、どうやら昔は研究施設かなにかだったものらしい。部屋のあちこちに遺されているのは研究文書がほとんどで、あまり貴重なものはなさそうだ。この時代の資料もツテがあれば捌けないことはないが、やはり魔法のアイテムや宝飾品なんかと比べたら価値は数段落ちる。……だが、文句を言っていても始まらない。レットは傷を乱暴に縛って立ち上がった。
 資料みたいな古い文献のなにが厄介といって、一番は素人が一見しただけでは価値の検討がつけられないということだ。仕方ない、雰囲気で選んで手当たり次第に貰っていくか……。そう思い、行動に移し始めたところで、

「おっ?」

 彼は、更に奥へと続く扉を発見した。
 扉の感じからして向こうもまた部屋、それも小部屋だろう。こんな部屋の中の扉に罠を仕掛けるとは思えないが、それでもさっきのこともあり、レットは慎重に扉を調べた。取っ手にそっと右手をかけ、傷の痛みに顔を顰めながらゆっくりと回す。
 ……開かない。鍵が掛かっている。

「……」

 彼が部屋の隅から鍵を見つけ、扉の奥に進んだのは、それから少し時間が経過したのちのことだった。

「お、おおー……」

 扉を薄く開いて、レットは曖昧な感動の声を上げた。
 向こうの部屋からは淡い青色の光が漏れ出ていた。顔だけ出して中の様子を覗き込む。散らかり放題だった前室とは違って、奥の部屋にはほとんど物が置かれていない。あるのは一定距離を離して二つ、腰かけほどの高さの歪んだ長方形の箱だけだ。箱というか、これは……

「……棺、か?」

 壁や床と同じ石の棺。そして、光はどうやらその棺みたいなものの一方から漏れているようだった。上面が硝子のように透き通った材質でできているらしい。もう一方は空だ。近寄っていって中を覗き込み、レットははっと息を呑んだ。
 “棺”の中に横たわっていたのは、一人の裸の女だった。一糸纏わぬ肌は白磁のようにつややかで、すらりと伸びた脚の付け根は子供のように無毛だ。形よく膨らんだ胸元で細い指が組み合わせられている。目を閉じていてもその整った顔立ちは疑いない。肌と同じ抜けるように白い髪が、棺の底に満ちる青く光る液体に漂っていた。

(ホムンクルス……いや……)

 最初の衝撃とその姿に目を奪われていた瞬間が過ぎると、レットはすぐに彼女の身体を観察し始めた。よく見ると彼女の関節の部分は継ぎ目のようにパーツに分かれ、隙間から時計の駆動部(ムーブメント)のような歯車が見えている。……とすると、これは。

(自動人形、か)

 オートマトン。遥か古代に作られた、精密な絡繰と極めて高度な魔術で動くゴーレムの一種だ。といってもレットにこれまで見た経験があるわけではない。仲間の冒険者や拠点にしている町の人間でも実際に見たことがあるのは一握りだろう。そのぐらいには珍しい存在なのだった。
 冷静になったレットの頭に初めに浮かんだのは、「これは値打ち物だ」ということだった。遺物を前に値踏みを始めるのは彼ら冒険者にとっては自然なことだ。見たところ非稼働で瑕もない。だが──すぐに、売ったこの人形がその後どう扱われるのかに思考が及んだ。極めて精巧な女性型の人形。作製の意図は知るべくもないが、それでも容易に想像できることはある。機械とはいえ人の形をしているものを、あまり酷い目に遭わせたくはない。
 というか、そもそも。

(これ、動かせるのか?)

 その棺みたいなものは、どう見ても床に固定されているようだった。そもそも動いたとしてどうやって持って帰るのか。ロープでも掛けて引っ張るか? 馬鹿な想像をしながら棺の周囲を見回し、なんとはなしに上面に手を置いた、その瞬間。
 ぱちんっ、と。
 まるでシャボンの膜が破れるように、棺の内と外を隔てていた透明な蓋が弾けて消えた。手に触れた感触もなかった。

「やべっ……」

 思わず手を引っ込めるレットの視線の先で、人形がゆっくりと瞼を開いていく。紫に輝く瞳が覗く。そのまま、彼女は棺の底に手をついて身を起こした。
 白い姿が立ち上がる。
 レットはごくりと唾を呑み込んだ。さっきまで目の前にいたのは、人を象った人形だった。材質はわからないが人工の腕、人工の脚。だが今そこにいるのは──女、だった。胸を、局部を露にした女。レットが動揺も顕わに後退ると、彼女は棺の壁を跨いで床に素足をつけた。

「 、α、a、ァ……あ:……おはようございます。私は──」
「ちょっ……と待った!!」

 口を開いた彼女の言葉を全力で遮る。慌てて荷物の中から防寒用のマントを取り出して、レットはそれを彼女の肩にかけた。そんな彼の様子を彼女は顔だけで追っている。

「邪魔して悪い、けどどうしても気になって。今こんなものしかないけど──ってだから!」

 レットがかけたマントを、彼女はあっさりと剥いで片手に畳んだ。それだけの所作でもまるで訓練されたような品が垣間見えるのはすごいと思うが、今重要なのはそこではない。マントを突き返そうとする彼女になんとかわかってもらおうと、レットは必死に頭を絞った。なんだ? 気に入らなかったか?
 と、マントを持つ彼女の左手、その肩口に埋め込まれていた金属質な部品が、急に強く光を放った。

「……え?」

 光は空中に伸び、凝集して薄い板のような幻影を作り出す。カシン、カシン、カシン、と、そんな音が聞こえそうな風に板は展開して体積を増していき、やがて広がりながら被膜のように彼女に纏わりついた。灼けた金属が冷めるように光が消え、後にはちょうどレットのものとよく似た服を着た彼女が残される。野外に耐えられそうなしっかりとした布地、ただし下は歩くのに邪魔にならない程度に脚を隠したスカート姿。無骨になりすぎない程度に慎ましく、綺麗な白い髪とよく調和している。

「失礼致しました。お見苦しいものを」
「ああ……いや……、便利だな……」
「恐縮です」

 彼女が深々と頭を下げる。ここまで来てようやく、レットは彼女の声を落ち着いて聞くことができた。
 綺麗な声だと思った。


    ◯


「   と、申します」
「……なんだって?」
「   と申します」

 尋ね返したレットに、彼女は淡々と繰り返した。……聞き取れない。旧い時代の発音だろうか。

「きみの名前か?」
「識別符号です。ですが、お好きなようにお呼びください」

 彼女は言う。呼べる名前がないのは確かに不便だ。だが……これは後回しにした方がいいだろう。ともかく、相手が名乗ったからにはこちらも名乗るのが礼儀というものだ(聞き取れなかったとはいえ)。こんなところで自己紹介とは奇妙にも程があるが、いずれにせよ彼は自分の名前を口にした。
 
「レットだ。その、よろしく」
「よろしくお願いいたします、レット様」
「様はいらないよ。俺はきみの主人じゃない」

 主、そう、レットは彼女の主人ではない。それどころか彼女を作った者たちからすれば外敵に等しいだろう。彼らの遺産を持ち出して売り捌こうとしているのだから。知られたらどんな反応をされるか──そう内心で身構えるレットをある意味で裏切って、彼女は彼の言葉に答えた。

「それは失礼いたしました。では、私がお仕えすべき方はどちらでしょうか」
「ああ、いや……」

 そういうことではない。これはレットが今思いついたことだが、もしかしたら彼女は、あの棺から出たときにその場にいる者を主として認識するように命令を受けていたのかもしれない。この遺跡が実際に生きていた当時はその仕組みで問題なかったのかもしれないが。今のこの状況をどう説明したものか、レットはしばし思案に暮れた。
 それからしばらく時間をかけて、レットは今の時代のこと、彼女が作られてからおそらくはかなりの年月が過ぎているであろうこと、そして自分たち冒険者という存在について彼女に説明した。ある程度印象が和らぐように言葉を選びはしたが、それでも遺跡荒らしという彼らの仕事は隠しようがない。ただの自動人形であればその怒りを買ったところでどうにかなるだろうとたかを括っていたところはある。果たして、彼女の反応はレットの予想を裏切るものだった。
 レットの右手に目を止め、彼女は徐に言った。

「怪我を、されていますね」
「え、ああ、さっきちょっと……えっ?」
「失礼いたします」

 彼女に指摘され、レットは自分の右腕を持ち上げた。さっき巻いた布には今も血が滲んでいる。あれだけ深い傷だったのだから当然ではあるが、まだ指を動かすこともできない。……そのはずだった。
 彼が宙に差し出したままの右手に、彼女はスッと手をかざした。戸惑うレットの目の前で、傷口に触れるか触れないかの距離で彼女の手のひらが光る。彼女が眠っていた棺の底の、あの液体が放っていたような青い光。やがて、レットは傷口に変化を感じ取った。痛みが引いていく。

「……おお」
「治癒を施しました。傷を塞ぎ、肉の炎症をできるだけ防ぎます」
「凄いな! ありがとう、恩に着る」
「完全に治ったわけではございませんので、無理に使用されることのないようご注意ください」

 どうやら説明の最中から気になっていたらしい。怪我人の治療が最優先というわけか。レットは尋ねた。

「なあ、俺を咎めないのか?」
「私はこの建物の管理者でも、管理者に仕えているわけでもありません。私にその権限はありません」
「なるほど、じゃあ例えば、俺が向こうの部屋の本なんかを持っていっても構わないわけか」
「私にそれを止める権限はありません。……それに、これは私の判断ですが……ここでただ埋もれているよりも、世に出て人々に役立てられた方が、元の持ち主も本望であると考えます」

 なるほど。まあ実際は、冒険者によって持ち出された古代の知識が市民に還元されるとは限らないのだが。ある程度はそうなることもあるか。ともかく、今現在においてこの遺跡に存在する唯一の人物の許可は取れた。

「レット様。私の方からも、ひとつお願いをさせていただいても構わないでしょうか」
「なんだ? この怪我分くらいは聞くよ」
「レット様はこの後、この場所を離れられると思われます。その際に、……私を、連れていってはいただけないでしょうか」
「ああ……なるほど、そうだな」

 彼女の依頼は、考えてみれば当然のことだった。レットに強制的に目覚めさせられた彼女もいつまでもこの遺跡の中にいるわけにもいかないだろう。どうせ同じ道行きだ、彼女一人を町まで送り届けるくらい無理なことではない。

「構わないぜ。じゃあ悪いけど、ここの資料を持ち出すのを手伝ってくれないか。分け前は出す」
「かしこまりました」
「どのぐらい運べそうだ?」
「容れ物さえあれば、30  は」

 ……聞き取れない。それは重さの単位か。

「おおよそここにある書物の半分ほどです」
「マジか」


    ◯


 ぴくり、と彼女が視線を動かした。
 鞄と背負い袋に価値のありそうな書物を詰めるだけ詰め込み、用のなくなった部屋を後にして少し。彼らはレットが元来たルートを逆向きに辿っている。

「どうか──」

 したか、と問いかけようとしたとき、レットの方でも彼女が捕らえた気配に気づいた。通路の向こうから数人分、人の足音が近づいてくる。レットは壁際に張りつき、彼女にも同じことを促した。おそらく相手は人間だとは思うが、人間にだって魔物よりも性質の悪いのはいるのだ。
 待つことしばし。相手の声が聞き分けられるくらいまで近づいて、ようやく彼は警戒を解いた。

「大丈夫、知り合いだ」

 言って、近づいてきた者たちの前に姿を晒す。相手は一瞬だけ身構えたが、すぐにこちらの正体に気づいたようだった。

「あれ〜、レットじゃ〜ん。久しぶり〜」
「ようレット、元気かー?」

 相手は四人組の冒険者だった。レットとは以前からの馴染みで、たまに組んで依頼をこなすこともある。こちらのことを認識した途端、早速パーティの中のかしましい方の二人が走り寄ってきた。レットも笑って応じる。

「久しぶり、元気だよ。さっきちょっとやられたけどな」
「ありゃりゃん」
「うわ、痛そう。それで引き返すとこなのか?」
「ああ。……先の情報ありますけど、いりますか」

 後半は彼らのリーダーに向かって言ったものだ。レットたちの会話を後ろで聞いていたリーダーのレラフは、彼のその提案に頷いた。

「そうだな、貰おう。……いくらか払うか」
「いいですよ、これぐらい」
「それならありがたくいただこう。代わりといってはなんだが、その手の傷は治した方がいいか」
「ああこれ……。ありがたいですけど、どちらにせよひと段落ついて帰るところだったので。血も止まってますし、皆のために取っといてください」
「そうか」

 それから少しの間、レットは自分が通ってきたルートの情報を彼らに教えた。こういうのは持ちつ持たれつだ。大方の情報を伝え終わった頃、レラフはレットの方を見て言った。

「……そんなところか。そうだな、では、もうひとつ訊いてもいいか」
「はい」
「彼女は?」

 彼の視線はレットの後ろに向けられていた。視線を追ってレットも振り返る。もちろんそこには、レットに待たされたオートマトンの女がこちらを窺って立っている。
 もちろん忘れていたわけではない。彼らに出会えば彼女のことについて問われるのも予想していた。けれどこうして実際に質問されると、彼女についての説明は想像以上に難しかった。改めて彼女の立ち姿を眺める。服装や荷物なんかは彼らと同じ冒険者に見えなくはないが、その振る舞いというか雰囲気が明らかに違っている。なんというか、品があるのだ。彼女の存在に気づいた一人が「うわ、美人じゃん!」と叫び、そのまま自己紹介を始めようとして仲間に蹴っ飛ばされている。

「この遺跡の中で会いまして」

 結局、レットはそれだけを言った。ぼかそうという意図があるのは明らかだっただろうが、彼らは特に追及してこなかった。この辺りは信頼関係か。同じパーティでもない相手の事情を詮索しないという意識の方が大きかったかもしれない。
 追及しない代わりに、レラフは端的に尋ねた。

「組むのか」
「……うーん、どうでしょう」

 なにレットやっとパーティ組むの? 一人も悪くないけど心配だもんね、でもそれならオレらのとこに入ればよかったのになあ、ワイワイと騒ぐ仲間に笑って、レットは奥へと進む彼らと別れた。





「先程の……」

 二人ぶんの足音だけが響く空間に、後ろから彼女が慎ましく声をかけた。レットは歩く速さを緩めて振り返る。
 プラス四人ぶんの会話と別れた直後だと、遺跡の静寂はより際立って感じられる。これまでの彼はその沈黙も嫌いではなかったが、一人ではなく二人だとどうにも気まずさがあるということをレットは知った。背後に人がいるということも慣れない。

「ん、どうかしたか?」
「先程の方が、組むのか、と仰っていましたが」
「ああ、言ってたな」
「どういう意味でしょう。私にも関係のあることだと判断いたしました」
「あー」

 レットは首を捻った。彼女がガラス玉のような瞳で見つめている。

「俺みたいに単独(ソロ)でやってる冒険者ってのは珍しいからな。あの人たちとはかなり長いから、何かあるごとに気にかけてもらってるんだ」
「私は冒険者という職種については詳しくありませんが、一人よりも彼らのように複数で行動する方が安全であると推測できます」
「あー……実際そうだと思うよ。怪我したときとかもそうだし、それに、二人以上でいた方が魔物には襲われにくいって聞くしな。俺は一人の方が性に合ってたけど」

 レットの返事に、彼女は何事か思案しているようだった。絡繰人形なら思考に動きを与える必要性もないだろうに、それを敢えてつけたのは製作者の意図か。その動きは非常に人間的だった。

「冒険者というものは、誰にでもなれるものなのでしょうか」
「そうだな。審査みたいなものがないぶん傭兵よりもいい加減だし、なろうと思えばその時点で冒険者だ。だから素性の怪しいごろつきみたいな奴らもいるわけだけど」
「では、私のような者でも可能だと」
「そうだけど……もしかして、組むつもりなのか、俺と」
「私がいては迷惑でしょうか」
「いや、迷惑なんてことはないよ。ただ」

 レットは言い澱んだ。今はもう彼女を売って金に換えようなどとは微塵も思っていない彼だが、彼女を仲間に加えるという提案には抵抗があった。さっきも言った通り、冒険者というのはまともな職業ではないからだ。彼女を目覚めさせてしまった立場として、彼女がこの時代に居場所を見つける助けになる義務があるとレットは感じていた。それにしたって他にいくらでも道はあるはずだった。冒険者はいわば最後の手段だ。
 迷いを顔に表すレットに、彼女は両手を重ねて自分の胸に当てた。

「私は……主に仕えるように作られています。それが私の存在意義なのです。もし、ご迷惑でないのなら──レット様に仕えることをお許しいただければと思います」
「いや、だから様は」
「ですが……」

 相変わらず表情は変わらないが、彼女が困惑していることは伝わってくる。レットは彼女から視線を逸らして考え込んだ。
 おそらく、彼女たちオートマトンの本能(プログラム)なのだろう。主を求める本能。そうしてあることで彼女が安定するというのなら、あまり拒むのも憚られる。その主が彼である必要はないのだが……。レットは横目でちらりと彼女の顔を見た。
 実際のところ、彼女はレットが組む相手としてかなり理想的だということは確かだった。単純に荷物を運ぶその見た目によらない膂力があるし、なによりもさっきの治癒だ。遺跡や町を離れた場所で傷を治してもらえることがどれだけありがたいかは冒険者でなくとも知っている。この二点だけでも彼らの間で求められるには十分すぎる。ここまでの身のこなしも悪くない。
 一人の方が性に合っているし、背後に人がいることには慣れない。だが……。悩んだ末に、彼は結論を弾き出した。

「……わかった。よろしく頼む」
「ありがとうございます。では初めに──認証登録をさせていただいてもよろしいでしょうか」
「認証、ん、なんだって?」
「お手を失礼いたします」

 そう言って、彼女は両手を差し出した。察するに主従の契約のようなものだろうか。少し迷って、レットは右手を彼女の手に預けた。怪我をしている方の手だが彼女なら痛くはしないだろう。彼女は彼の右手に顔を近づけ、

「ッ……!?」

 そのまま、彼の親指をちろりと舐めた。
 彼が思わず手を引こうとしたところを、両手で優しく包んで押し留める。そして彼女は爪の先から脇、そして指の腹へと、順番に舌を這わせていった。ちろちろと濡れた柔らかい肉の感触が肌を走る。長く柔らかい髪が手首に触れている。レットは目を見開いたまま、指一本動かせなかった。
 彼女が目を伏せていたのはまだ良かったかもしれない。これであの瞳に見上げられでもしたら、きっと彼の中の何かが限界を迎えていた。それほどにその光景は背徳的で、そして──目の前の女は、綺麗だった。美しいというのとも異なる、作り物の綺麗さ。その綺麗なかたちをした彼女が、唾液に濡れた舌で自分の指を舐めている。
 最後に彼の親指を口づけるようにその唇の中に含んで、そして彼女はあっさりと顔を離した。どこから取り出したものかレースの布で舌の触れた箇所を拭う。

「終了いたしました」
「……あ、あ、ああ」
「これで、私はレット様の僕(しもべ)です。改めまして、よろしくお願いいたします」

 彼女は深々と頭を下げた。出会ったときと同じだ。堂に入った、洗練された仕草だった。
 特異なことをしたという感覚はなさそうだった。彼女にとって、さっきのことはあくまで主従契約の過程にある普通の行いなのだ。まだ鎮まらない心臓の鼓動を表に出さないように努力しながら、レットは頭を上げた彼女に向かって言った。

「そ、そうだ、名前がいるよな。識別符号、ってのじゃなくて」
「必ずしもなければならないというわけではありません。ご面倒であれば、おいとでも呼んでいただければ私は応えます」
「いや、そういうわけには」

 レットが最初に彼女に呼び名をつけなかったのは、彼の元に彼女が留まることはないと思っていたからだ。彼女が誰のものになるにせよ、あるいはどのような生活を送るにせよ、もうそれきり縁の切れる自分が名前を与えるのはあまりいいことでもないと思っていた。だがこういう経緯になった以上、いつまでも名無しのままでいさせるわけにはいかない。彼女自身になにか望む呼び名があればそれに決めるのだが。

「ですが……」
「ん?」
「ですが、望めるのであれば、レット様に名づけていただきたく思います」
「……そうか。うん、わかった」

 重大な責任を与えられた。彼女の姿を眺め、彼はしばらく頭を捻った。白い肌、白い髪。紫の瞳。青く光る石の棺の中から立ち上がった彼女。オートマトン。

「……ハダリー」
「はい」
「ハダリー、ってのはどうだろう。悪い名前じゃない、と、思うけど……」
「ハダリー」

 二度、三度、彼女は口の中でその名前を繰り返した。やがて彼女は、これまでほとんど表情を上らせなかった口元に、あるかなきかの微笑を浮かべた。

「はい。──私の名前は、ハダリー」


    ◯


 ランタンの灯りだけが辛うじて照らしていた暗闇に白い光が差し始め、やがて通路の向こうにぽっかりと開いた終わりが見えてくる。外の明るさに目が慣れると、眼下に広がるのが木々深い森の端であることがわかる。森を見下ろす崖の中腹に口を開いたこの場所こそ、彼らが潜っていた──そしてハダリーが眠っていた古代遺跡だった。
 遺跡の中には彼女が作られた当時の魔力が残存していた。もちろん僅かながら外部の要素との交換はあるものの、そのほとんどは遥か古代から保存されたものだ。その意味で、彼女は今初めて外の空気に触れたのだ。彼女の精緻な循環器が、現代の魔力を吸収する。
 目覚めたときからハダリーの身体に少しずつ起こっていた変化がいちどきに現れたのはこのときだった。彼女の紫色に輝く瞳に一瞬だけ異なる色の光が混じったことに、前を歩いていたレットは気づかなかった。
23/09/14 17:42更新 /
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■作者メッセージ
努力目標完結、といったところで。
……頑張ります。

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