モスマンの恩返し?(第二話)
あの遭遇の翌日、俺はポケットに入れた指輪のことを思い出した。
正直、山で拾ったものを身近に置いておくことが怖かった。
だから、すぐに村の商店に売りに行った。
店主は怪訝そうな目つきで指輪を確認し、俺にこの指輪をどうやって手に入れたのかと聞いてきた。
俺は正直に、山で拾ったと答えた。
店主は訝しむ様な目で俺を見た後、
「この指輪は相当な価値がある。買い取りたいところだが、店の持ち合わせでは足りない」
と言って突き返してきた。
俺は店主に泣きついた。
「これが売れないと、冬が越せないんです!」
事実だった。まだ山には食べられる木の実がなっているだろうが、あの芋虫赤子のことを考えると、とても踏み入る勇気はなかった。
俺の必死さが伝わったのか、店主は分割でもいいならと、手形を持ってきてくれた。
適切な鑑定もできないため、買値は相当落ちるとのことだったが、提示された金額は俺にとっては目が飛び出すような大金だった。
俺は、二つ返事で了承した。
契約の内容は、毎月一回来年の夏までかけて、店主が俺に買い取り金を分割で支払うというものだった。
月一の受取金も、一人で暮らすならば十分な金額だった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
かくして、俺は冬を超えた。
商店から入った金を使って、干し肉を大量に購入し、今まで同様部屋から出ずにだらだらと過ごした。
冬が終わり、春になった。
まだ少し肌寒さが残るが、だいぶん暖かくなってきた。
だが、商店から金を受け取る以外の用事で外に出ることのない俺にとっては、関係のない話だった。
ある晩、いつもの通り夕飯の干し肉を齧っていると、
「トントン」
と誰かが家の裏口を叩いた。
――――――裏口を、叩いた?
そのことに気が付いた瞬間、一瞬で体中の筋肉が強張る。
あの日の恐怖が、奴の恐怖が俺の中に蘇る。
虚の中の暗がり、そこから俺の顔を観察する異形の赤子。
俺に手を伸ばし、にたりと笑いかけて発した「あぁ〜」という耳に残る声。
「トン、トン」
また、裏口が叩かれる。
「ど、どなたですか……?」
声を振り絞って訪ねてみた。
「……」
返事はない。
「表の……玄関に、玄関に回ってください……」
我ながら間抜けなことを言ったものだが、裏口に誰かがいる、ということが怖かった。
しばらく間をおいて、
「トン、トン」
と玄関が叩かれる。
もう、開けるしかない。
少なくとも、玄関に回ってくれという要望は聞いてくれた。
例の怪物という線はだいぶ薄れている。
「お待たせしました……」
俺は、ゆっくりと扉を開けた。
だれも、いない。
おかしいと思った俺は、周囲を確認しようとさらに扉を開けた。そして次の瞬間――。
「わっ!!」
上から、女の上半身が逆さまに降ってきた。
「うわぁーーーーーー!?」
俺は尻餅をついて驚いた。
女は屋根に登っていたらしい。
逆さまのまま、口に手を当て、クスクスと笑っている。
「そんなに驚かれるなんて、ちょっとした冗談のつもりでしたのに」
逆さま女が屋根の上からふわりと飛び降りた。
体を覆うふわふわの体毛。
頭から生えた、二本の揺れる触覚。
そして、まるでマントのようにふんわりと広がる四枚の翅……。
「ま、魔物!?」
俺は混乱のあまり上手く起き上がることができず、地面でもがいていた。
「ええ、いかにもその通り、魔物でございます」
魔物が、真っ白でふわふわした手をこちらに差出し、起き上がるのを手伝ってくれる。
そして、改めて淑やかに頭を下げる。
「裏手の山より参りました、モスマンでございます。今朝方羽化いたしまして、先秋の御恩を返しに参りました」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「御恩?」
俺には何のことだかさっぱり分からなかった。
裏手の山、先秋の御恩と言ったが、山には例の芋虫赤子に遭遇して以来、恐ろしくて近づいてもいないし、そもそも俺に魔物の知り合いなどいない。
「人違いでは……?」
モスマンは大きくかぶりを振った。それに合わせて、長い触覚もふるふる震える。
「そんなはずはごさいません! あなた様のお顔、忘れた日などございません! あの日、虚の中で震えていた幼い私に、優しく微笑んでくれたではごさいませんか!」
「虚の中で……!?」
恐ろしい心当たりが、胸の中で自己主張を始める。
モスマンは余程俺に思い出して欲しいのか、必至な様子で話を続ける。
「はい! わたくし、あの時ご慈悲を頂きました、芋虫にございます!」
――頭がクラクラしてきた。
俺の記憶にある芋虫赤子は、なんというか、もっと邪悪でグロテスクな存在だった。
だが目の前にいるモスマンは人間の俺から見ても美しく、非常に人当り穏やかで、所作の端々からは気品さえ感じる。
彼女が、あの芋虫赤子の成長した姿だというのか。
「虚の中というと、あのねじくれた木の……」
モスマンの顔がパッと明るくなる。
「やはり、あなた様があの時の……! 覚えていて下さったのですね!」
涙目になって、全身の体毛を震わせる。これは喜んでいるということなのだろうか?
しかし、その節はありがとうございましたと繰り返し頭を下げる彼女に、やはり人違いなのではないかという疑念は、ますます加速するのであった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
俺は台所のテーブルにちょこんと腰かけ、何とも言えない居心地の悪さを感じていた。
目の前には、かまどで火を焚き、鼻歌交じりに湯を沸かすモスマンの背中。
立ち話もなんだからと家の中に入れたところ、お茶を淹れさせて頂きます! と台所を占有されてしまった。
純白であると思っていた彼女の体毛だが、明るいところで見ると微かに紫がかった色彩が混じっていることが分かる。
また、彼女の最大の特徴でもある四枚の翅には不思議な模様が浮かんでおり、見ていると吸い込まれそうな気分になる。
「ふふ、そんなにまじまじ見つめられては、照れてしまいますよ♪」
ティーカップに茶を注ぎながら、照れくさそうに可愛げのあることを言うモスマンであるが、俺は彼女が振り返りもせず、こちらの様子を察したことに驚く。
その様子も察したのか、彼女は得意げな笑顔と共に、俺と自分、二人分の紅茶を配膳する。
「モスマンは、複眼で四方の様子が見えるのです」
そして、自身の頭部側面にある、アメジストのように輝く球体にそっと触れる。
「ぼんやりとしか見えませんが、なんとなく何が起こっているのかは分かります。これと正面にある二つの単眼、頭の触覚で、周囲の状況を探るんです」
そう言うと、彼女はさっそく触覚をぴくぴくと動かす。
どうやら紅茶の湯気に触れているらしい。
「あぁ、いい香り♪」
そして、幸せそうにカップに口をつけた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それから俺達は、俺が芋虫赤子に会ったあの日いったい何が起きたのか、互いの見解を照合させた。
俺が自分の事情を話し終えると、モスマンは目を瞑ったまま静かに頷き、語り始めた。
「実はあの時、私は大変な危機に陥っており、正に死を待つばかりであったのです」
モスマンの隠れ家であった木の虚、その真下の虚に、あろうことか鳥が営巣を始めてしまったことが、すべての発端だったという。
「私は恐ろしくて恐ろしくて、来る日も来る日も虚の中で震えておりました」
朝、あの鳥の恐ろしげな声で目を覚ますのです。そして、その声が私という獲物を見つけた喜びの声でないことを確認し、安堵するのです。と、彼女はさも恐ろしげに語った。
「当然外に出ることも出来ず、満足に餌を取ることも出来ない私は、日に日に衰えていきました。虚の中の木の壁を齧り飢えを凌ごうかとも思いましたが、私は顎の力が弱く、それも叶いませんでした」
このままでは仮に生き残ったとしても、冬までに繭を作るだけの栄養を蓄えられない。
いよいよ死を覚悟したとき、転機が訪れたという。
「外に、あの憎き鳥の悲痛な声が響きました。何か起こったのかと思いましたが、身を乗り出し確かめる勇気はありませんでした。すると、誰かが私のいる虚を覗き込みました。そう、あなた様です。あなた様は驚く私に、ただにっこりと笑いかけてくれました。……私は直感しました。この方があの邪悪な鳥を追い払ってくれたのだと!」
モスマンの言葉に強い感情がこもり始める。
「しかし、あなた様はすぐに顔を引っ込めてしまった。私はせめてお名前だけでもと思い、後を追うように虚を出ました。虚から顔を出すと、真下には破壊された鳥の巣の残骸……。私は感動のあまり、変な声が出てしまいました」
モスマンが椅子から立ち上がる。あまりに真に迫った喋り方に、俺は少し身を引いてしまった。
「『ありがとうございます! せめてお名前だけでも!』私が言おうとした時には、貴方は既に走り去ってしまった後でした。お礼の一つも言えなかったことに愕然としていると、どこからか甘い匂いを感じることが出来ました。木の下を見ると、籠に山盛りの果物が置いてありました。……比喩ではなく、私は泣きました。危機を救って下さっただけでなく、食べ物まで恵んで下さった! 私は夢中で果物を食べました。そして、無事に繭を作り越冬することが出来たのです!」
モスマンが、バッと私の手を取り、地面に片膝をつく。
「成虫になり、発達した触覚の感覚器官を使うことで、あなた様の居場所を見つけることが出来ました!お願いします! あの時受けた御恩、返させて下さい!」
俺は、正直戸惑っていた。あまりに異なる見解、そして先程までの穏やかでふわふわした様子から一変した彼女の雰囲気に。
「いや、だからさっき話した通り、その話は全部誤解なんだよ!」
モスマンは首を横に振る。
「誤解でも何でも構いません! 今私が生きているのは全てあなた様のお蔭です! 繭の中で眠りについている間、あなた様のお役に立つことだけを夢に見てきました! この命、あなた様の為に使わせてください! お願いします!」
彼女は、少し自分の世界に入り込みやすい気性の持ち主なのかもしれない。
彼女の目からは、何が何でも俺に恩を返すという気迫が感じられた。
もし断るなら、ここで死んでやるとでも言いたげな、物騒な気迫が。
俺は、それに押し負けた。
「わ、分かったよ」
モスマンの顔がぱっと輝く。
「本当ですか!」
「ああ、でも、いつまでもモスマンじゃ呼び難くてしょうがないから、そろそろ名前を教えておくれよ」
突然、モスマンが動揺した様子を見せる。
「私、名前、無いんです」
卵の時に親とはぐれたから、と彼女は続けた。
「ですので、適当に呼びやすいように読んで頂ければ……」
俺は暫し思案する。そういえば彼女の白くて大きな翅は、昔山で見かけた天蚕(ヤママユ)という蛾によく似ている。
「それじゃあ、マユはどうかな」
正直、ただの思い付きだった。
モスマンはきょとんとした顔で俺を見る。
「マユ、ですか? それは、名前……?」
「まあ、名前というか、あだ名というか……」
俺はここまで口に出して、彼女の頬をぽろぽろと涙が伝っていることに気が付き、言葉を詰まらせる。
「おい、ちょっと……」
様子のおかしい彼女をどうにかしようと声を掛けた瞬間、モスマンががばっと抱き着いてきた。
そして、俺の体を万力のような力で締め上げる。
「ぐうぅううう!?」
「ありがとうございます! マユは、マユはあなた様に、旦那様に頂きました名前を一生大切にさせて頂きます!」
「旦那様!?」
「はい! 今日からマユは、貴方のためにこの命、使わせていただきます! 今日から貴方がマユのご主人様です! 旦那様です!」
あ、なんだそういう意味の旦那様か。
「一生、尽くさせて頂きます!」
こうして、俺とマユの生活が始まったのだった。
正直、山で拾ったものを身近に置いておくことが怖かった。
だから、すぐに村の商店に売りに行った。
店主は怪訝そうな目つきで指輪を確認し、俺にこの指輪をどうやって手に入れたのかと聞いてきた。
俺は正直に、山で拾ったと答えた。
店主は訝しむ様な目で俺を見た後、
「この指輪は相当な価値がある。買い取りたいところだが、店の持ち合わせでは足りない」
と言って突き返してきた。
俺は店主に泣きついた。
「これが売れないと、冬が越せないんです!」
事実だった。まだ山には食べられる木の実がなっているだろうが、あの芋虫赤子のことを考えると、とても踏み入る勇気はなかった。
俺の必死さが伝わったのか、店主は分割でもいいならと、手形を持ってきてくれた。
適切な鑑定もできないため、買値は相当落ちるとのことだったが、提示された金額は俺にとっては目が飛び出すような大金だった。
俺は、二つ返事で了承した。
契約の内容は、毎月一回来年の夏までかけて、店主が俺に買い取り金を分割で支払うというものだった。
月一の受取金も、一人で暮らすならば十分な金額だった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
かくして、俺は冬を超えた。
商店から入った金を使って、干し肉を大量に購入し、今まで同様部屋から出ずにだらだらと過ごした。
冬が終わり、春になった。
まだ少し肌寒さが残るが、だいぶん暖かくなってきた。
だが、商店から金を受け取る以外の用事で外に出ることのない俺にとっては、関係のない話だった。
ある晩、いつもの通り夕飯の干し肉を齧っていると、
「トントン」
と誰かが家の裏口を叩いた。
――――――裏口を、叩いた?
そのことに気が付いた瞬間、一瞬で体中の筋肉が強張る。
あの日の恐怖が、奴の恐怖が俺の中に蘇る。
虚の中の暗がり、そこから俺の顔を観察する異形の赤子。
俺に手を伸ばし、にたりと笑いかけて発した「あぁ〜」という耳に残る声。
「トン、トン」
また、裏口が叩かれる。
「ど、どなたですか……?」
声を振り絞って訪ねてみた。
「……」
返事はない。
「表の……玄関に、玄関に回ってください……」
我ながら間抜けなことを言ったものだが、裏口に誰かがいる、ということが怖かった。
しばらく間をおいて、
「トン、トン」
と玄関が叩かれる。
もう、開けるしかない。
少なくとも、玄関に回ってくれという要望は聞いてくれた。
例の怪物という線はだいぶ薄れている。
「お待たせしました……」
俺は、ゆっくりと扉を開けた。
だれも、いない。
おかしいと思った俺は、周囲を確認しようとさらに扉を開けた。そして次の瞬間――。
「わっ!!」
上から、女の上半身が逆さまに降ってきた。
「うわぁーーーーーー!?」
俺は尻餅をついて驚いた。
女は屋根に登っていたらしい。
逆さまのまま、口に手を当て、クスクスと笑っている。
「そんなに驚かれるなんて、ちょっとした冗談のつもりでしたのに」
逆さま女が屋根の上からふわりと飛び降りた。
体を覆うふわふわの体毛。
頭から生えた、二本の揺れる触覚。
そして、まるでマントのようにふんわりと広がる四枚の翅……。
「ま、魔物!?」
俺は混乱のあまり上手く起き上がることができず、地面でもがいていた。
「ええ、いかにもその通り、魔物でございます」
魔物が、真っ白でふわふわした手をこちらに差出し、起き上がるのを手伝ってくれる。
そして、改めて淑やかに頭を下げる。
「裏手の山より参りました、モスマンでございます。今朝方羽化いたしまして、先秋の御恩を返しに参りました」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「御恩?」
俺には何のことだかさっぱり分からなかった。
裏手の山、先秋の御恩と言ったが、山には例の芋虫赤子に遭遇して以来、恐ろしくて近づいてもいないし、そもそも俺に魔物の知り合いなどいない。
「人違いでは……?」
モスマンは大きくかぶりを振った。それに合わせて、長い触覚もふるふる震える。
「そんなはずはごさいません! あなた様のお顔、忘れた日などございません! あの日、虚の中で震えていた幼い私に、優しく微笑んでくれたではごさいませんか!」
「虚の中で……!?」
恐ろしい心当たりが、胸の中で自己主張を始める。
モスマンは余程俺に思い出して欲しいのか、必至な様子で話を続ける。
「はい! わたくし、あの時ご慈悲を頂きました、芋虫にございます!」
――頭がクラクラしてきた。
俺の記憶にある芋虫赤子は、なんというか、もっと邪悪でグロテスクな存在だった。
だが目の前にいるモスマンは人間の俺から見ても美しく、非常に人当り穏やかで、所作の端々からは気品さえ感じる。
彼女が、あの芋虫赤子の成長した姿だというのか。
「虚の中というと、あのねじくれた木の……」
モスマンの顔がパッと明るくなる。
「やはり、あなた様があの時の……! 覚えていて下さったのですね!」
涙目になって、全身の体毛を震わせる。これは喜んでいるということなのだろうか?
しかし、その節はありがとうございましたと繰り返し頭を下げる彼女に、やはり人違いなのではないかという疑念は、ますます加速するのであった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
俺は台所のテーブルにちょこんと腰かけ、何とも言えない居心地の悪さを感じていた。
目の前には、かまどで火を焚き、鼻歌交じりに湯を沸かすモスマンの背中。
立ち話もなんだからと家の中に入れたところ、お茶を淹れさせて頂きます! と台所を占有されてしまった。
純白であると思っていた彼女の体毛だが、明るいところで見ると微かに紫がかった色彩が混じっていることが分かる。
また、彼女の最大の特徴でもある四枚の翅には不思議な模様が浮かんでおり、見ていると吸い込まれそうな気分になる。
「ふふ、そんなにまじまじ見つめられては、照れてしまいますよ♪」
ティーカップに茶を注ぎながら、照れくさそうに可愛げのあることを言うモスマンであるが、俺は彼女が振り返りもせず、こちらの様子を察したことに驚く。
その様子も察したのか、彼女は得意げな笑顔と共に、俺と自分、二人分の紅茶を配膳する。
「モスマンは、複眼で四方の様子が見えるのです」
そして、自身の頭部側面にある、アメジストのように輝く球体にそっと触れる。
「ぼんやりとしか見えませんが、なんとなく何が起こっているのかは分かります。これと正面にある二つの単眼、頭の触覚で、周囲の状況を探るんです」
そう言うと、彼女はさっそく触覚をぴくぴくと動かす。
どうやら紅茶の湯気に触れているらしい。
「あぁ、いい香り♪」
そして、幸せそうにカップに口をつけた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
それから俺達は、俺が芋虫赤子に会ったあの日いったい何が起きたのか、互いの見解を照合させた。
俺が自分の事情を話し終えると、モスマンは目を瞑ったまま静かに頷き、語り始めた。
「実はあの時、私は大変な危機に陥っており、正に死を待つばかりであったのです」
モスマンの隠れ家であった木の虚、その真下の虚に、あろうことか鳥が営巣を始めてしまったことが、すべての発端だったという。
「私は恐ろしくて恐ろしくて、来る日も来る日も虚の中で震えておりました」
朝、あの鳥の恐ろしげな声で目を覚ますのです。そして、その声が私という獲物を見つけた喜びの声でないことを確認し、安堵するのです。と、彼女はさも恐ろしげに語った。
「当然外に出ることも出来ず、満足に餌を取ることも出来ない私は、日に日に衰えていきました。虚の中の木の壁を齧り飢えを凌ごうかとも思いましたが、私は顎の力が弱く、それも叶いませんでした」
このままでは仮に生き残ったとしても、冬までに繭を作るだけの栄養を蓄えられない。
いよいよ死を覚悟したとき、転機が訪れたという。
「外に、あの憎き鳥の悲痛な声が響きました。何か起こったのかと思いましたが、身を乗り出し確かめる勇気はありませんでした。すると、誰かが私のいる虚を覗き込みました。そう、あなた様です。あなた様は驚く私に、ただにっこりと笑いかけてくれました。……私は直感しました。この方があの邪悪な鳥を追い払ってくれたのだと!」
モスマンの言葉に強い感情がこもり始める。
「しかし、あなた様はすぐに顔を引っ込めてしまった。私はせめてお名前だけでもと思い、後を追うように虚を出ました。虚から顔を出すと、真下には破壊された鳥の巣の残骸……。私は感動のあまり、変な声が出てしまいました」
モスマンが椅子から立ち上がる。あまりに真に迫った喋り方に、俺は少し身を引いてしまった。
「『ありがとうございます! せめてお名前だけでも!』私が言おうとした時には、貴方は既に走り去ってしまった後でした。お礼の一つも言えなかったことに愕然としていると、どこからか甘い匂いを感じることが出来ました。木の下を見ると、籠に山盛りの果物が置いてありました。……比喩ではなく、私は泣きました。危機を救って下さっただけでなく、食べ物まで恵んで下さった! 私は夢中で果物を食べました。そして、無事に繭を作り越冬することが出来たのです!」
モスマンが、バッと私の手を取り、地面に片膝をつく。
「成虫になり、発達した触覚の感覚器官を使うことで、あなた様の居場所を見つけることが出来ました!お願いします! あの時受けた御恩、返させて下さい!」
俺は、正直戸惑っていた。あまりに異なる見解、そして先程までの穏やかでふわふわした様子から一変した彼女の雰囲気に。
「いや、だからさっき話した通り、その話は全部誤解なんだよ!」
モスマンは首を横に振る。
「誤解でも何でも構いません! 今私が生きているのは全てあなた様のお蔭です! 繭の中で眠りについている間、あなた様のお役に立つことだけを夢に見てきました! この命、あなた様の為に使わせてください! お願いします!」
彼女は、少し自分の世界に入り込みやすい気性の持ち主なのかもしれない。
彼女の目からは、何が何でも俺に恩を返すという気迫が感じられた。
もし断るなら、ここで死んでやるとでも言いたげな、物騒な気迫が。
俺は、それに押し負けた。
「わ、分かったよ」
モスマンの顔がぱっと輝く。
「本当ですか!」
「ああ、でも、いつまでもモスマンじゃ呼び難くてしょうがないから、そろそろ名前を教えておくれよ」
突然、モスマンが動揺した様子を見せる。
「私、名前、無いんです」
卵の時に親とはぐれたから、と彼女は続けた。
「ですので、適当に呼びやすいように読んで頂ければ……」
俺は暫し思案する。そういえば彼女の白くて大きな翅は、昔山で見かけた天蚕(ヤママユ)という蛾によく似ている。
「それじゃあ、マユはどうかな」
正直、ただの思い付きだった。
モスマンはきょとんとした顔で俺を見る。
「マユ、ですか? それは、名前……?」
「まあ、名前というか、あだ名というか……」
俺はここまで口に出して、彼女の頬をぽろぽろと涙が伝っていることに気が付き、言葉を詰まらせる。
「おい、ちょっと……」
様子のおかしい彼女をどうにかしようと声を掛けた瞬間、モスマンががばっと抱き着いてきた。
そして、俺の体を万力のような力で締め上げる。
「ぐうぅううう!?」
「ありがとうございます! マユは、マユはあなた様に、旦那様に頂きました名前を一生大切にさせて頂きます!」
「旦那様!?」
「はい! 今日からマユは、貴方のためにこの命、使わせていただきます! 今日から貴方がマユのご主人様です! 旦那様です!」
あ、なんだそういう意味の旦那様か。
「一生、尽くさせて頂きます!」
こうして、俺とマユの生活が始まったのだった。
14/12/23 00:46更新 / 万事休ス
戻る
次へ