没落少年貴族の冒険 その5
クノイチは、ジパング地方を発祥とする女性のみの隠密集団である。
人間のくノ一一派と、魔物としてのクノイチ一派が存在するようだが、何といっても隠密集団であるため、実際のところははっきりしていない。
魔物としてのクノイチ一派は、現魔王の思想を広めるために世界中で暗躍しているが、これに異を唱え、一派から抜け出し、自らの認めた主人にのみ従うものも少数だが存在する。
時として魔王にさえ刃を向ける彼女らを、クノイチ達は裏切り者と忌み嫌い、「抜け忍」と呼んで明確に敵として区別している。
そしてアリーシャも、この「抜け忍」の一人であった。それは、彼女が親魔物派の貴族に刃を向けたという時点で揺るがない事実なのであった。
☆
クノイチ、アリーシャが虚空に跳ねた。
弧を描きながら、無数の手裏剣を動けないエミール少年に向けて投擲する。
ミーファが少年を庇うように前に立ち、影の蔦で全ての手裏剣を叩き落とす。
クノイチはジパング地方原産のサキュバスの一種であるが、他のサキュバス種には見られない極端に発達した身体能力で有名である。鍛錬に鍛錬を重ねた暗器の扱い、何代にも渡り磨き抜かれた隠密としての技術を含めれば、種族としての強さは魔物の中でも指折りと恐れられるが、数少ない欠点として翼が退化してしまったせいで飛行能力を持たないことが挙げられる。
如何に身のこなしが素早いクノイチとて、空中では急に体制を変えることは出来まい。
ミーファは蔦の内一本を、弾丸の如き勢いで空中のアリーシャに向けて発射した。
が、命中すると思ったその時、アリーシャが蔦を蹴って再び闇に溶ける。
ミーファは反射的に周囲の蔦を全て背後に回す。
ほぼ同時に背後からアリーシャが切りかかってくる。
だが今度は押し込まれない。蔦の数も先程よりもずっと多い。それでも互角鍔迫り合いではあるが、こちらは変幻自在の影の蔦。切りかかってきた刀身と刀を握る手を絡み取れば、素早い動きを制限できる。
「ほう、ファミリアにしては随分と勘がいい。魔力も濃いし、動きも早い。さらには度胸もあるようですね。余程強力な執念を込めて生み出されたと見ました」
「アリーシャ! 信じてましたのに! 最初から、シェルドン家を貶めるために送り込まれた刺客だったのですね!」
アリーシャの目に一瞬不信の色が浮かんだ。
だが怒りに震えるミーファの様子の、開いた瞳孔、そして髪が逆立ったことでピンと上を向いた猫の耳を見て、合点がいったようである。
「成程、ミーファ……。シェルドン家で飼っていた猫の名前でしたね」
まるで今思い出したかのように、自分には関係のない話であるかのように放った言葉には、なんの感慨も含まれていない。
ミーファにとって、これはある種の因縁の戦いであった。
アリーシャの密告により、シェルドン家は失墜し、旦那様も奥様も、坊ちゃまも全てを失った。そして、それは飼い猫であった自分も同じであった。
だが、地に落ち泥を啜ろうと、アリーシャを責める気持ちにはなれなかった。やはり、普通の人間にとって魔物というのは恐ろしい。今や自分も魔物であるからよくわかる。仮に魔物側に敵意が無かったとしても、腕力、魔力、共に人間を遥かに凌駕し、人とは異なる理に生きる。生物であるならば、警戒してしかるべき存在。アリーシャがサバトを恐ろしく思い、ついつい外部の誰かに相談してしまったとして、誰が彼女を責められようか?
だがしかし、当の彼女が魔物であったなら。もとよりシェルドン家の失脚を望む何者かによって送り込まれた刺客であったのならば。なによりも、それを見抜けずのうのうと世話を受けていた自分自身が許せない!
ミーファは、蔦で刀と腕を絡め捕りアリーシャの動きを封じつつ、もう一つの策の準備を進めていた。今、周囲の蔦は全て防御に向けている、しかし、自分の生み出せる蔦はもう一本ある。最初に空中のアリーシャを攻撃しようとしてかわされたあの一本。
あれを鋭く研ぎ澄まされた棘に変形させ、串刺しにしてくれる! 足元の影の中で魔力を練り込み、今まさに、必殺の一撃が放たれようとしていた。
「反撃の機会を伺っているようですが、大事な大事なお坊ちゃまの方は大丈夫ですか?」
アリーシャの腰から、先端が矢尻のように尖った尻尾が勢いよく伸びた。その先には、地に伏したエミール少年。
「!!」この尻尾、こんなにも早く動かせるのか! しかも伸縮自在、その切っ先は、迷いなくエミール少年の喉元を捕えている!
ミーファはアリーシャの首に向けて照準を合わせていた攻撃を、急遽エミール少年に向かって伸びる尾の先端に向けて発射する。そして。間一髪で尾をはじきとばす。
だが次の瞬間、今度はアリーシャの腰の後ろ辺りの服がはじけ飛び、背後から二本の紅い刃が飛び出す。
場所としては、丁度サキュバス種の翼がある辺りだ。
「うぇ!? ありですのそれ!?」
「翼は退化したものだと思いましたか? 空は飛べずとも、使い方は色々あるんです」
ミーファは咄嗟に、自ら呼び出した蔦を蹴って背後に飛ぶ。
が、避けきれない!
空を飛ぶための翼から退化……いや、この場合は進化と呼ぶべきか。細く鋭い凶刃へと進化を遂げた、かつて翼だったものが、影の蔦ごとミーファの右腕を切り裂いた。
肘から先が、宙を舞う。
☆
体感時間が細分化され、目前の事象がコマ送りで流れていく。
ミーファは遠くに飛んでいく自分の腕を掴もうと、もう片方の、まだ胴体に繋がっている左の腕を動かそうとする。
誰かが叫ぶ声が聞こえるが、時間が間延びしているせいで、誰の声か分からない。坊ちゃまだろうか?
その時、視界の端に赤い刃が映った気がした。
☆
時間の速さが元に戻る。
ミーファは切られた蔦を菖蒲の葉の形に再構成し、闇雲に振り回した。
アリーシャは後ろに跳ねてそれをかわし、またも闇に溶ける。
「ミーファァァ!」
エミール少年が、絶叫に近い声を上げる。
「あら、残念です。首か、せめて胴体でも、一思いに切断しようとしたのですが」
暗闇の向こうから、アリーシャの声がする。
「ミーファ! 腕が! 腕が!」
足元では地に伏せたエミール少年が涙ながらに叫んでいる。
「ご安心下さい、坊ちゃま。私とて魔術由来の魔物です。この程度の負傷は想定して作られていますわ」
事実、右腕の痛覚と魔力循環を遮断したので、既に痛みは無いし、魔力の漏洩も最低限に抑えられている。
が、クノイチであるアリーシャがこのような好機を逃すはずが無かった。
暗闇に紛れ、四方からから飛んでくる手裏剣。そして意識の隙をつく様に切りかかっては再度身を隠すヒットアンドアウェイ。
クノイチは夜戦が本業。しかも市街戦となれば、まさに専門中の専門である。
影の属性を持つミーファにとって夜戦は得意分野であるが、それは相手も同じこと。地の利において一切の有利は存在しないのだ。
本来ならば一度身を隠し、右手の再生も兼ねて体制を整えるべき状況であるが、動けないエミール少年を抱えてではそれもかなうまい。
多少無理をしてでも攻勢にでて戦いの流れを引き寄せる必要がある。ミーファは影の蔦を次々と繰り出すが、建物と建物の間を自在に跳ね回るアリーシャを捉えることができない。最低限の体捌きで攻撃を回避され、弾かれ、時に踏み台にされる。
そして少しでも深追いしようものなら、エミール少年に向けて容赦なく手裏剣の雨が降り注ぐ。
突如、ミーファは立ち眩みのような感覚を覚えた。魔力の消耗が危険域に達している。
ただでさえ腕を斬られているというのに、魔力を派手に使いすぎたのだ。
ふわふわと宙に浮遊していたミーファが崩れるように地に膝をつく。
と、同時に足に衝撃が走る。
何かと思って足元を見れば、自分の影がトラバサミのように変形し、足を挟み込んでいる。
(――!! 影縫い!?)
「ようやくですか。やはり、血を流さないモノは総じてしぶとい」
暗闇からアリーシャの声がした。虚空にぽうっと小さな火が灯る。
火は次々と増えていき、集まり、連なり、空中に魔方陣を描く。
その陣の中心で、アリーシャが何やら複雑な印を結び詠唱をしている。
(最初からこれが狙いでしたのね……!)
エミール少年だけを殺すならば簡単であった。
だがそうすれば、逆上したミーファが命を使った自爆攻撃にでるかもしれない。最悪の場合、主人の仇を取るために、アリーシャのその裏にいる黒幕、アリーシャの主人に危害を加えようとするだろう。
ミーファを殺してからエミール少年を手に掛けようにも、自らの死を悟ればミーファはどんな手を使ってでもエミール少年を逃がすだろう。彼が保身を考えずに衛兵の元に駆け込みでもしたら、アリーシャの主人の暗躍が明るみに出る可能性がある。少なくとも、彼は魔物であるアリーシャを自分の駒として使っているし、人身売買パーティに出席していた。当然エミール少年は逮捕されるが、彼女の主人も道連れだろう。
だから、二人纏めて始末する必要があった。
エミール少年の足を奪い、彼を使ってミーファの動きを制限し、その魔力を削ぎ落とす。そうして初めて、彼女の任務は完璧に遂行されるのだ。
アリーシャの術が徐々に大きくなっていく。魔方陣を描く炎の群れも、最初は蝋燭の火ぐらいの大きさだったのに、いまや一つ一つが焚き火程の火力になっている。
ミーファは思考を巡らせた。
攻撃を防げないか? だめだ、ただでさえミーファは火の魔力と相性が悪いのに、目の前の術はどんどん大きくなっている。
先制攻撃を仕掛けるのは? 仮にそうしたとして同じこと。簡単にかわされ、もっと魔力を消耗させてから術を撃ち込んでくるだろう。
影縫いを解除できないか? 無理だ。目の前に術者がいるのだ。解除はまず間に合わない。
いっそ捕まっている足ごと切り落とすのは? 只でさえ魔力を消耗している上、既に片腕を失っているのだ。そんなことをすれば、本当に消滅してしまう。
坊ちゃまだけ遠くに逃すのは? 坊っちゃまはまだ毒のせいで動けない。遠くに逃す方法も、蔦で放り投げる位しかない。だが、これ以外に策もない! 少なくとも時間は稼げる! その間に、何か、何でもいいから奇跡が起これば!
ミーファが渾身の魔力を込めて、蔦を召喚しようとする。
が、その時!
「姉御ーーーー!!」
何者かが路地から飛び出し、今まさに術を撃とうとしているアリーシャに飛びかかった。
ミーファのことを「姉御」なんてヤクザな呼び方をするのは一人しかいない。ラージマウスのサラであった。
☆
クノイチは気配を消したり察知したりすることにかけては、特殊な例外を除けば間違いなく魔物一と言えるだろう。
これは種族としての特性以上に、日々の修行に裏打ちされた技術であり、訓練も積まずに彼女達の不意を突こうというのは、クノイチの歴史に対する侮辱に他ならない。
だから、アリーシャも当然サラの存在には気が付いていた。
こちらの様子を伺っているようだが、もし邪魔をしてくるようなら鋭い尻尾で喉を一突きにしてやろう。
術の用意をしながら、来るなら今かと思っていると、案の定間抜けが飛び出してきたので、バネを縮める要領で尻尾をぐぐっと引いた。
闇を見通すクノイチの瞳が、飛びかかってくる阿呆の姿を捉える。
丸くて大きな灰色の耳。大きく発達した前歯。細くて毛のない長い尻尾。
「ね、鼠ぃ!?」
クノイチは生まれた時から影の者であり、適正に関わらず全員が血を吐くような特殊訓練を受け、闇に生きて闇に死ぬ。
だがしかし、彼女達も生きているのだ。
苦手な物の一つや二つ、あったっていいではないか。
☆
とは言っても、「苦手なので任務を遂行できませんでした」では当然お話にならない。
アリーシャとて、鼠への苦手意識の克服ぐらい済ませている。
だがしかし、全ては間が悪かった。
アリーシャは目の前の戦闘に集中していたし、隠れているのが大した相手でないことは気配で分かっていたため、意識はしつつも「何が出てきてもいいように」心の準備まではしていなかった。
そのせいで、反射的に発射した尻尾の切っ先が、微かにぶれた。
サラが、アリーシャに飛び掛かろうと地を蹴った瞬間、一瞬足を縺れさせてしまったのも良くなかった。むちゃくちゃな体勢で体を捻りながら飛び掛かってきたせいで、飛び掛かった本人も予想していない奇怪な動きを披露することになった。
結果、アリーシャの尻尾攻撃はサラの首を捉えきれなかった。肩の肉を僅かに抉り取ったが、既に踏み出したサラの勢いは止まらない。
サラは、アリーシャの露出した二の腕に噛み付いた。
「ぐう!」
アリーシャの目に、若干苦痛の色が浮かぶ。
それでも彼女はサラを腕の一振りで振り払うと、強烈な蹴りでサラの身体を吹き飛ばした。
「サラ!!」
ミーファが悲壮な声で叫ぶ。
なんという事だ。なぜ飛び出してきたのだ。これでは彼女も巻き添えだ!
サラが肩から血を流しつつ、地面に転がって悶える。
だがどうしたことか、苦しそうにしているのは彼女だけではなかった。
サラの噛み付き攻撃を受けたアリーシャが、地に両手と両膝をつき、ぶるぶると体を震わせている。
この距離からでも、呼吸が荒くなっているのが分かる。
瞳孔は開き切り、額に浮かんだ脂汗が玉となってぽたぽたと地に落ちる。
サラが何か毒でも仕込んだのだろうか?
サラに目線をやると、なんとか起き上がろうとしているところだった。見た目ほど重症ではないらしい。
彼女もアリーシャの異常に気が付いたようだが、自分はなにもしていないと、ぶんぶんと首を横に振る。
地に伏したアリーシャが、カタカタと震えながら右手をゆっくり振り上げる。
そして、その手で地面を殴りつける。
どごん! という派手な音と共に彼女の周囲の地面が陥没した。
「貴様ぁ……」
そうして、そこからゆらりと上半身を起こす。
様子のおかしいアリーシャを見て「何かしらの奇跡が起こったのでは?」と安易な希望を持ち始めていた三人であったが、身を起こした彼女の異様に凍り付く。
まるで首が座っていないかのように頭はかくかくと左右に揺れ、瞳孔の開き切った目は焦点が定まっておらず、脂汗はなおもだらだらと、滝のように顔を伝う。
そしてどういうわけか、空気が熱い。彼女を中心に、気温がどんどん上がっていく。
「貴様ぁあぁ!! 私にいったい何をしたあぁあああああぁぁああぁぁあぁ!!!!」
アリーシャの身体から、巨大な火柱が噴出した。
人間のくノ一一派と、魔物としてのクノイチ一派が存在するようだが、何といっても隠密集団であるため、実際のところははっきりしていない。
魔物としてのクノイチ一派は、現魔王の思想を広めるために世界中で暗躍しているが、これに異を唱え、一派から抜け出し、自らの認めた主人にのみ従うものも少数だが存在する。
時として魔王にさえ刃を向ける彼女らを、クノイチ達は裏切り者と忌み嫌い、「抜け忍」と呼んで明確に敵として区別している。
そしてアリーシャも、この「抜け忍」の一人であった。それは、彼女が親魔物派の貴族に刃を向けたという時点で揺るがない事実なのであった。
☆
クノイチ、アリーシャが虚空に跳ねた。
弧を描きながら、無数の手裏剣を動けないエミール少年に向けて投擲する。
ミーファが少年を庇うように前に立ち、影の蔦で全ての手裏剣を叩き落とす。
クノイチはジパング地方原産のサキュバスの一種であるが、他のサキュバス種には見られない極端に発達した身体能力で有名である。鍛錬に鍛錬を重ねた暗器の扱い、何代にも渡り磨き抜かれた隠密としての技術を含めれば、種族としての強さは魔物の中でも指折りと恐れられるが、数少ない欠点として翼が退化してしまったせいで飛行能力を持たないことが挙げられる。
如何に身のこなしが素早いクノイチとて、空中では急に体制を変えることは出来まい。
ミーファは蔦の内一本を、弾丸の如き勢いで空中のアリーシャに向けて発射した。
が、命中すると思ったその時、アリーシャが蔦を蹴って再び闇に溶ける。
ミーファは反射的に周囲の蔦を全て背後に回す。
ほぼ同時に背後からアリーシャが切りかかってくる。
だが今度は押し込まれない。蔦の数も先程よりもずっと多い。それでも互角鍔迫り合いではあるが、こちらは変幻自在の影の蔦。切りかかってきた刀身と刀を握る手を絡み取れば、素早い動きを制限できる。
「ほう、ファミリアにしては随分と勘がいい。魔力も濃いし、動きも早い。さらには度胸もあるようですね。余程強力な執念を込めて生み出されたと見ました」
「アリーシャ! 信じてましたのに! 最初から、シェルドン家を貶めるために送り込まれた刺客だったのですね!」
アリーシャの目に一瞬不信の色が浮かんだ。
だが怒りに震えるミーファの様子の、開いた瞳孔、そして髪が逆立ったことでピンと上を向いた猫の耳を見て、合点がいったようである。
「成程、ミーファ……。シェルドン家で飼っていた猫の名前でしたね」
まるで今思い出したかのように、自分には関係のない話であるかのように放った言葉には、なんの感慨も含まれていない。
ミーファにとって、これはある種の因縁の戦いであった。
アリーシャの密告により、シェルドン家は失墜し、旦那様も奥様も、坊ちゃまも全てを失った。そして、それは飼い猫であった自分も同じであった。
だが、地に落ち泥を啜ろうと、アリーシャを責める気持ちにはなれなかった。やはり、普通の人間にとって魔物というのは恐ろしい。今や自分も魔物であるからよくわかる。仮に魔物側に敵意が無かったとしても、腕力、魔力、共に人間を遥かに凌駕し、人とは異なる理に生きる。生物であるならば、警戒してしかるべき存在。アリーシャがサバトを恐ろしく思い、ついつい外部の誰かに相談してしまったとして、誰が彼女を責められようか?
だがしかし、当の彼女が魔物であったなら。もとよりシェルドン家の失脚を望む何者かによって送り込まれた刺客であったのならば。なによりも、それを見抜けずのうのうと世話を受けていた自分自身が許せない!
ミーファは、蔦で刀と腕を絡め捕りアリーシャの動きを封じつつ、もう一つの策の準備を進めていた。今、周囲の蔦は全て防御に向けている、しかし、自分の生み出せる蔦はもう一本ある。最初に空中のアリーシャを攻撃しようとしてかわされたあの一本。
あれを鋭く研ぎ澄まされた棘に変形させ、串刺しにしてくれる! 足元の影の中で魔力を練り込み、今まさに、必殺の一撃が放たれようとしていた。
「反撃の機会を伺っているようですが、大事な大事なお坊ちゃまの方は大丈夫ですか?」
アリーシャの腰から、先端が矢尻のように尖った尻尾が勢いよく伸びた。その先には、地に伏したエミール少年。
「!!」この尻尾、こんなにも早く動かせるのか! しかも伸縮自在、その切っ先は、迷いなくエミール少年の喉元を捕えている!
ミーファはアリーシャの首に向けて照準を合わせていた攻撃を、急遽エミール少年に向かって伸びる尾の先端に向けて発射する。そして。間一髪で尾をはじきとばす。
だが次の瞬間、今度はアリーシャの腰の後ろ辺りの服がはじけ飛び、背後から二本の紅い刃が飛び出す。
場所としては、丁度サキュバス種の翼がある辺りだ。
「うぇ!? ありですのそれ!?」
「翼は退化したものだと思いましたか? 空は飛べずとも、使い方は色々あるんです」
ミーファは咄嗟に、自ら呼び出した蔦を蹴って背後に飛ぶ。
が、避けきれない!
空を飛ぶための翼から退化……いや、この場合は進化と呼ぶべきか。細く鋭い凶刃へと進化を遂げた、かつて翼だったものが、影の蔦ごとミーファの右腕を切り裂いた。
肘から先が、宙を舞う。
☆
体感時間が細分化され、目前の事象がコマ送りで流れていく。
ミーファは遠くに飛んでいく自分の腕を掴もうと、もう片方の、まだ胴体に繋がっている左の腕を動かそうとする。
誰かが叫ぶ声が聞こえるが、時間が間延びしているせいで、誰の声か分からない。坊ちゃまだろうか?
その時、視界の端に赤い刃が映った気がした。
☆
時間の速さが元に戻る。
ミーファは切られた蔦を菖蒲の葉の形に再構成し、闇雲に振り回した。
アリーシャは後ろに跳ねてそれをかわし、またも闇に溶ける。
「ミーファァァ!」
エミール少年が、絶叫に近い声を上げる。
「あら、残念です。首か、せめて胴体でも、一思いに切断しようとしたのですが」
暗闇の向こうから、アリーシャの声がする。
「ミーファ! 腕が! 腕が!」
足元では地に伏せたエミール少年が涙ながらに叫んでいる。
「ご安心下さい、坊ちゃま。私とて魔術由来の魔物です。この程度の負傷は想定して作られていますわ」
事実、右腕の痛覚と魔力循環を遮断したので、既に痛みは無いし、魔力の漏洩も最低限に抑えられている。
が、クノイチであるアリーシャがこのような好機を逃すはずが無かった。
暗闇に紛れ、四方からから飛んでくる手裏剣。そして意識の隙をつく様に切りかかっては再度身を隠すヒットアンドアウェイ。
クノイチは夜戦が本業。しかも市街戦となれば、まさに専門中の専門である。
影の属性を持つミーファにとって夜戦は得意分野であるが、それは相手も同じこと。地の利において一切の有利は存在しないのだ。
本来ならば一度身を隠し、右手の再生も兼ねて体制を整えるべき状況であるが、動けないエミール少年を抱えてではそれもかなうまい。
多少無理をしてでも攻勢にでて戦いの流れを引き寄せる必要がある。ミーファは影の蔦を次々と繰り出すが、建物と建物の間を自在に跳ね回るアリーシャを捉えることができない。最低限の体捌きで攻撃を回避され、弾かれ、時に踏み台にされる。
そして少しでも深追いしようものなら、エミール少年に向けて容赦なく手裏剣の雨が降り注ぐ。
突如、ミーファは立ち眩みのような感覚を覚えた。魔力の消耗が危険域に達している。
ただでさえ腕を斬られているというのに、魔力を派手に使いすぎたのだ。
ふわふわと宙に浮遊していたミーファが崩れるように地に膝をつく。
と、同時に足に衝撃が走る。
何かと思って足元を見れば、自分の影がトラバサミのように変形し、足を挟み込んでいる。
(――!! 影縫い!?)
「ようやくですか。やはり、血を流さないモノは総じてしぶとい」
暗闇からアリーシャの声がした。虚空にぽうっと小さな火が灯る。
火は次々と増えていき、集まり、連なり、空中に魔方陣を描く。
その陣の中心で、アリーシャが何やら複雑な印を結び詠唱をしている。
(最初からこれが狙いでしたのね……!)
エミール少年だけを殺すならば簡単であった。
だがそうすれば、逆上したミーファが命を使った自爆攻撃にでるかもしれない。最悪の場合、主人の仇を取るために、アリーシャのその裏にいる黒幕、アリーシャの主人に危害を加えようとするだろう。
ミーファを殺してからエミール少年を手に掛けようにも、自らの死を悟ればミーファはどんな手を使ってでもエミール少年を逃がすだろう。彼が保身を考えずに衛兵の元に駆け込みでもしたら、アリーシャの主人の暗躍が明るみに出る可能性がある。少なくとも、彼は魔物であるアリーシャを自分の駒として使っているし、人身売買パーティに出席していた。当然エミール少年は逮捕されるが、彼女の主人も道連れだろう。
だから、二人纏めて始末する必要があった。
エミール少年の足を奪い、彼を使ってミーファの動きを制限し、その魔力を削ぎ落とす。そうして初めて、彼女の任務は完璧に遂行されるのだ。
アリーシャの術が徐々に大きくなっていく。魔方陣を描く炎の群れも、最初は蝋燭の火ぐらいの大きさだったのに、いまや一つ一つが焚き火程の火力になっている。
ミーファは思考を巡らせた。
攻撃を防げないか? だめだ、ただでさえミーファは火の魔力と相性が悪いのに、目の前の術はどんどん大きくなっている。
先制攻撃を仕掛けるのは? 仮にそうしたとして同じこと。簡単にかわされ、もっと魔力を消耗させてから術を撃ち込んでくるだろう。
影縫いを解除できないか? 無理だ。目の前に術者がいるのだ。解除はまず間に合わない。
いっそ捕まっている足ごと切り落とすのは? 只でさえ魔力を消耗している上、既に片腕を失っているのだ。そんなことをすれば、本当に消滅してしまう。
坊ちゃまだけ遠くに逃すのは? 坊っちゃまはまだ毒のせいで動けない。遠くに逃す方法も、蔦で放り投げる位しかない。だが、これ以外に策もない! 少なくとも時間は稼げる! その間に、何か、何でもいいから奇跡が起これば!
ミーファが渾身の魔力を込めて、蔦を召喚しようとする。
が、その時!
「姉御ーーーー!!」
何者かが路地から飛び出し、今まさに術を撃とうとしているアリーシャに飛びかかった。
ミーファのことを「姉御」なんてヤクザな呼び方をするのは一人しかいない。ラージマウスのサラであった。
☆
クノイチは気配を消したり察知したりすることにかけては、特殊な例外を除けば間違いなく魔物一と言えるだろう。
これは種族としての特性以上に、日々の修行に裏打ちされた技術であり、訓練も積まずに彼女達の不意を突こうというのは、クノイチの歴史に対する侮辱に他ならない。
だから、アリーシャも当然サラの存在には気が付いていた。
こちらの様子を伺っているようだが、もし邪魔をしてくるようなら鋭い尻尾で喉を一突きにしてやろう。
術の用意をしながら、来るなら今かと思っていると、案の定間抜けが飛び出してきたので、バネを縮める要領で尻尾をぐぐっと引いた。
闇を見通すクノイチの瞳が、飛びかかってくる阿呆の姿を捉える。
丸くて大きな灰色の耳。大きく発達した前歯。細くて毛のない長い尻尾。
「ね、鼠ぃ!?」
クノイチは生まれた時から影の者であり、適正に関わらず全員が血を吐くような特殊訓練を受け、闇に生きて闇に死ぬ。
だがしかし、彼女達も生きているのだ。
苦手な物の一つや二つ、あったっていいではないか。
☆
とは言っても、「苦手なので任務を遂行できませんでした」では当然お話にならない。
アリーシャとて、鼠への苦手意識の克服ぐらい済ませている。
だがしかし、全ては間が悪かった。
アリーシャは目の前の戦闘に集中していたし、隠れているのが大した相手でないことは気配で分かっていたため、意識はしつつも「何が出てきてもいいように」心の準備まではしていなかった。
そのせいで、反射的に発射した尻尾の切っ先が、微かにぶれた。
サラが、アリーシャに飛び掛かろうと地を蹴った瞬間、一瞬足を縺れさせてしまったのも良くなかった。むちゃくちゃな体勢で体を捻りながら飛び掛かってきたせいで、飛び掛かった本人も予想していない奇怪な動きを披露することになった。
結果、アリーシャの尻尾攻撃はサラの首を捉えきれなかった。肩の肉を僅かに抉り取ったが、既に踏み出したサラの勢いは止まらない。
サラは、アリーシャの露出した二の腕に噛み付いた。
「ぐう!」
アリーシャの目に、若干苦痛の色が浮かぶ。
それでも彼女はサラを腕の一振りで振り払うと、強烈な蹴りでサラの身体を吹き飛ばした。
「サラ!!」
ミーファが悲壮な声で叫ぶ。
なんという事だ。なぜ飛び出してきたのだ。これでは彼女も巻き添えだ!
サラが肩から血を流しつつ、地面に転がって悶える。
だがどうしたことか、苦しそうにしているのは彼女だけではなかった。
サラの噛み付き攻撃を受けたアリーシャが、地に両手と両膝をつき、ぶるぶると体を震わせている。
この距離からでも、呼吸が荒くなっているのが分かる。
瞳孔は開き切り、額に浮かんだ脂汗が玉となってぽたぽたと地に落ちる。
サラが何か毒でも仕込んだのだろうか?
サラに目線をやると、なんとか起き上がろうとしているところだった。見た目ほど重症ではないらしい。
彼女もアリーシャの異常に気が付いたようだが、自分はなにもしていないと、ぶんぶんと首を横に振る。
地に伏したアリーシャが、カタカタと震えながら右手をゆっくり振り上げる。
そして、その手で地面を殴りつける。
どごん! という派手な音と共に彼女の周囲の地面が陥没した。
「貴様ぁ……」
そうして、そこからゆらりと上半身を起こす。
様子のおかしいアリーシャを見て「何かしらの奇跡が起こったのでは?」と安易な希望を持ち始めていた三人であったが、身を起こした彼女の異様に凍り付く。
まるで首が座っていないかのように頭はかくかくと左右に揺れ、瞳孔の開き切った目は焦点が定まっておらず、脂汗はなおもだらだらと、滝のように顔を伝う。
そしてどういうわけか、空気が熱い。彼女を中心に、気温がどんどん上がっていく。
「貴様ぁあぁ!! 私にいったい何をしたあぁあああああぁぁああぁぁあぁ!!!!」
アリーシャの身体から、巨大な火柱が噴出した。
15/03/18 20:32更新 / 万事休ス
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