幸せのかたち
昨日と変わらない明日が必ず来ると信じていた。
そして、それが平和。それが幸せだと信じていた。
日中はまだ暖かいが、陽が沈むとめっきりと冷え込んできた。
私は人目を忍んで、駅馬車の厩舎の横にある飼葉を貯め込むための質素な小屋を訪れていた。
薄暗い小屋では、私の友人のライオネスがすっかり旅支度を整えて待っていた。
ライオネスは背は低いが、がっちりとした体格で、昔から力自慢の男だった。荷運びの仕事をして、さらに鍛えられて、今では荷運びの他にも用心棒っぽいこともしていた。
機転も利くし、男気もあるいい男だが、顔は友人の贔屓目を付加しても、愛嬌のあるジャガイモか、知的な岩石という感じなので、女性にモテたという話は聞いたことがない。女性にフラれるたびに、私によく愚痴っていた。
「ライオネス、考え直す気はないのか?」
私は彼の出立を思いとどまらせようとしていた。確かに、生活は苦しいかもしれないが、生きていけないわけではない。
「約束だからな。そういうわけにはいかない。それに、この国はもうダメだ」
何度となく口にした私の言葉への答えは今回も同じだった。
最初からライオネスの意志が固いことはわかっていた。幼い頃から一緒だった友人の性格からして、途中で考えを改めることなどしないことは分かっていた。
私が生まれ育ったザイステン王国は、小さな街が三つと、その周辺の村が十数個ほどしかない。王国と名乗っているが、とても狭い小さい国だ。しかも、これといって特筆する産業も産物も無かった。だから決して豊かではない。
そんな小さな貧乏国、ザイステン王国は昔から教団の力が強い国だった。
教団の加護のおかげで、弱小国でも周辺国に侵略も併合も属国化もされず生きながらえてこれたからだ。
教団は加護を与える代わりに、数年に一度の割合で、魔物と戦う聖戦のために出兵するようにと要求してきた。
そのたびに王様は国の若い男たちを教団に差し出した。
ライオネスも一年前の出兵に駆り出された一人だった。
そこでライオネスは、この国のカラクリを知ったのだという。
出兵すれば、王国は教団から多額の支度金をもらえる。このお金で王様や貴族たちはぜいたくな暮らしをしているのだ。
この国の税金は確かに高い。だが、貧乏人たちをいくら絞っても、乾いた雑巾から水は滴らない。王様や貴族たちがどうやって、不釣り合いな豪華な王宮や屋敷を建てられたのか? その理由が教団からの支度金だった。
支度金は本来、聖戦に参加する兵士の装備を整えたり、訓練をするための費用らしいのだが、王様たちはそんなことには使われない。教団もそれを見て見ぬふりをしている。
兵士たちは、布の服のまま、尖った石を木の棒の先に括り付けた槍を渡され、戦場へと送り込まれる。
訓練は行われず、戦場では貴族の上官が鞭を振り回し、その上官の従者たちが兵士たちを木の棒で追い立てるのだという。
ライオネスは「牧羊の羊の方がまだマシな扱いをされている」と聖戦を振り返っていた。
聖戦が終わって国に帰ってこれるのは、いつもだいたい出兵した半分ほどだった。
そんなやり方で半分も無事に帰れていたことに驚く。これこそが教団の奇跡と言っていい。
「それに魔物って、教団が言っているようなものじゃない」
ライオネスが聖戦で知ったことを教えてくれた。
魔物たちは、その誰もが驚くほど美女ぞろいで、一人として人並みの容姿のものはいないらしい。しかも、その容姿で兵士たちを誘惑してくるのだという。
私は、そうやって誘惑して連れ帰って、食い殺すのではないかと心配した。
「実はそうかもしれない。でも、それでもいいと思えるぐらい、いい女ばかりなんだ。それに、実力差がありすぎるから、そんな面倒なことをするとも思えない」
ライオネスが言うには、戦場で貴族の上官と従者たちに追い立てられていたライオネスたちを何度も助けてくれたらしい。
鞭を切り裂き、木の棒を手でへし折り、蹴散らかしてくれたり、鞭打たれて怪我していた兵士に治癒魔法をかけてくれたりしたようだ。そんな魔物の魔物らしからぬ優しさに絆されて、魔物の軍に投降する兵士が大勢いたらしい。
実際のところ、行軍中の事故や貴族の癇癪で殺された以外は、戦場で死んだ兵士はいないということだった。魔物の攻撃は気絶するだけで、相手を殺さない武器だそうだ。
「俺も残るつもりだったんだがな。帰ってきたのは、しょうがなくなんだよ」
ライオネスも一時は魔物の軍に投降しようと思ったが、国に家族を残して帰りたがっていた者たちもいたので、教団軍本隊から置き去りにされた彼らを率いて戻ってきた。
そして、その武勲と名誉は、彼と同名の第二王子であるライオネス王子が全て横取りした。それについては、ライオネスは構わないと言っていた。
ただ、そうして英雄となり、勇者となって、その名を使って、この国を国民たちが幸せになれる国にするのであれば、と思っての「構わない」だった。
しかし、一年経っても何も変わらない。それどころか、いつもの聖戦よりも多く帰還できたと、また魔物討伐戦争を計画しているという。
「もう、この国の未来はない」
それがライオネスの結論だった。
度重なる徴兵は若い働き手を奪う。働き手を失った家は、生活の苦しさから畑や家を売り、緩やかに貧民への坂を転げ落ちていく。まだ大丈夫と思っていたら、もうどうにもならないところにいることをある日気が付く。
そして、貧民に落ちた者たちに手を差し伸べるのが教団なのだ。
その日の糧を無料で配り、地べたにひれ伏して貧民たちは教団の人たちに感謝していた。そうなった原因を作ったのが教団だと理解もできず。
そして、教団の聖戦に夫を、子供を、父を、兄を差し出す。
教団の運営する孤児院は聖戦の戦士を育てる場所になり、そこでは女も兵士として戦場に送られる。
その一方で王侯貴族は、立派な王宮や屋敷を建てて、美味しい食事を食べて、綺麗な服を着て、豪華な調度品に囲まれて暮らしている。
支度金をもらってもなお、より贅沢な暮らしをするために税金は高いまま、民衆に還元されることはない。
それでも、私たち民衆は不満の声を上げることはなかった。
それが当たり前と思っていたし、生活は苦しいけど、ちょっとの我慢で乗り越えることができたから。
苦しくても何とかなっている今を潰して、どうなるかわからない新しいものに賭けようなどいう勇気は無かった。
それが王様たちの狙いで、私たちは王様たちにとって、都合のいい家畜のようなものだろう。
だから、ライオネスはこの国に見切りをつけた。
ライオネスは、ジャガイモのような容姿で粗野に見えるし、わざとそう振舞っているが、本当は知的な男なのだ。私も彼に何度も勉強を教えてもらった。
「それよりも、お前の方こそ、一緒に来ないか、アーノルド?」
ライオネスが私を誘ったのは、何度目だろう? 多分、私がライオネスを思いとどまらせようとした回数以上だろう。
「すまないが、私は行くことはできないよ」
私は寂しく微笑んでいつもと同じように誘いを断った。
「フローラちゃんか……」
「ああ。あいつを一人残して行くことはできないよ」
私には年の離れた妹がいる。正確に言うと、従姉妹になるが、妹は小さいときに両親を流行り病で喪って、私の親に引き取られて一緒に育ってきた。
「じゃあ、一緒に連れてくればいいじゃないか」
ライオネスのあっさりとした反論に私は怒りを覚えた。
「バカなことを言うな! 男はいいかもしれないが、女はどんな目に合わされるか、わからないんだ。そんなところに連れていけるわけがないだろ」
「ああ、確かに、女はどうなるか知らない。でも、俺はここにいるよりもいい気がするんだ」
ライオネスは私の怒りにバツ悪そうにした。
魔物たちは愛情にあふれ、エロく優しかったらしいが、それは男に対してだけかもしれない。魔物たちは例外なく女性の姿をしていたそうだ。
魔物たちが女にはどういう態度をするかは、ライオネスも見ていないので、わからないと言っていた。
最悪を考えると、男を奪う邪魔になると女は殺すかもしれない。
かわいい妹をそんな危険に晒すなんて考えるだけで死にそうだ。
「だいたい、旅させること自体が無茶だよ」
私は怒りを少し抑えて首を振った。
妹は身体が弱い。妹の両親が流行り病にかかった時、妹も同じ病を患った。そのせいで、一見、健康そうだが、体力が極端に低いのだ。少し無理をすると、すぐに熱を出して寝込んでしまう。
まともに仕事もできない妹のことを、私の両親は厄介者扱いしているが、私にとってはかわいい妹であり、愛すべき家族だ。
「お前がその気なら、俺が背負っていってもいいぞ」
ライオネスなら人を一人背負って旅するのも可能かもしれない。
「馬鹿を言うな。かわいい妹をお前に触れさせるぐらいなら、私が背負っていくよ」
身内の贔屓目を差し引いても、私の妹は可愛い。美人で近所の男衆の憧れの存在になっている。それらの獣の群れから妹を守るのは大変なことなのだ。だから、シスコンなどでは断じてない。
「相変わらずだな。だが、残念だ。フローラちゃんのオッパイの感触を背中で味わえるチャンスだったのに」
ライオネスがおどけて言った。それが冗談だとわかっているが、怒りの視線を向けてしまっていた。
「悪かった」
ライオネスは私が妹がらみの冗談を受け入れないことをわかっていて、冗談を言ったことに謝ってくれた。私も自分の狭量に反省して頭を軽く下げた。
「でも、本当に残念だ。お前が一緒に行けないことがな」
ライオネスは私に向かって手を差し出した。私は仕方なく、それを握った。
「私も残念だ。お前とこうして馬鹿話をするのは、私の楽しみだったからな。じゃあ、元気でな。ライオネス」
「お前こそ、ちゃんと食って体鍛えておけよ、アーノルド」
ライオネスに比べれば、私は貧弱かもしれない。はっきり言えば、一般男性に比べても、少し力は弱いかもしれない。なので、鍛えたところでたかが知れている。
「そのうちにな」
私の返事に友人は苦笑して、旅の道具が詰まった袋を手にして、隠れ家にしていた厩舎の飼葉置き場の小屋を後にした。私も友人との別れをかみしめながら家に戻ることにした。
私の父親は染色の雇われ職人だ。親方になる技術はあるが、お金が無い。自分の工房を構えられなければ、いくら腕がよくても親方にはなれないのがギルドの決まりなのだ。
私自身は代筆屋で見習いとして働いている。
代筆屋というのは、商店や役所で文字の書けない人のために代筆などをする仕事だ。
私は、小さい時に読み書きなどを習っていたライオネスが、私にも習ったことを教えてくれたおかげで、読み書きができる。そのおかげでこの職に就くことができた。
代筆の仕事は多いのだが、代筆ギルドで値段を決められているので、あまり儲けにはならない。特に私のような見習いとなると、親方のピンはねが大きいから尚更だ。
代筆よりも本の筆写の方がお金になる。
だが、それは見習いがするのは違法なので、危ない橋を渡ることになる。だが、見習いの大半が金に困って筆写に手を出し、捕まっては罰金を支払わせられていた。
いくらお金になっても、一度捕まれば儲けは無くなる。罰金を払えなければ、指をどれか一本、切り落とされる刑を受ける。おかげで、左手の小指がなければ代筆屋という冗談があるぐらいだ。
そんな代筆屋の一番の栄達は、教団書記になることだ。
教団書記になれば、かなりの収入があるし、地位も低くない。
だが、その椅子は少ない。はっきり言えば、コネがなければ、なれるものでもない。皆が指を落とされても本の筆写するのは、そのコネを掴むためのお金を稼ごうとしてのことというのもある。
この小さな貧乏国で豊かな生活をしようとすると、危ない橋を渡らなくてはいけない。
「私は今の暮らしで十分だよ」
おなかは空くが、飢え死にするわけじゃない。欲しいものがあるが、無ければ死ぬわけじゃない。
自分の我慢でどうにかなるのなら、我慢さえすれば、全てが問題なくなる。どうして、それができないのだろう? 私はいつもそう思う。
ライオネスに言わせれば、それがこの国を終焉に向かわせていると言っていた。
だが、一介の代書屋見習いに何ができるというのだろう?
私は彼のようにすべてを捨てて旅立てるほど身軽でもなく、頭もよくないし、勇気もない。
ただ、昨日と同じ明日がくるのは幸せなことだと思う。
昨日、我慢できたことなら、明日だって我慢できる。ただ、それだけで私は幸せに生きていける。
所々がひび割れたレンガを積み上げて固めた壁に、木の屋根板の上に石を乗せて押さえてあるだけのあばら家が続く中、その一軒の扉を開けた。
「ただいま」
家の中は、暖炉の火と油皿の火がほんのりと部屋を照らしていた。そんな中、物陰で横になっていびきをかいて寝ている父と、薄明りの中でせっせと糸をつむいでいる母がいた。
「おかえり。ずいぶんと遅かったじゃない?」
母が糸を紡ぎながら私に言った。
「ああ、ちょっと仕事が立て込んでね」
私はあいまいに答えながら暖炉の上に置いてある鍋の中を覗き込んだ。
国を勝手に出て行くことは犯罪で、それに協力するのも罪になる。ライオネスが街を出るのを通報しなかっただけでも、おそらく罰せられる。
「いい人でもできたのだと思ったのだけど。そろそろ、お前も結婚して所帯を持つにはちょうどいい歳だよ」
母はそれから、働き者で評判の近所の娘たちの名前を挙げていった。母のいい女の基準は、働き者ということだ。
私は母の話に生返事しながら、鍋の中にあった豆と塩漬け肉のスープを椀によそい、固くなったパンをナイフで切り落として、スープに浸して食べた。不味くはないが美味しくもない。だが、空腹を満たしてはくれる。それで十分だ。
「いくら別嬪でも、水汲みも満足にできない嫁なんて、何の役にも立ちはしないからね」
私はその言葉が妹に向けられていることに気付いてむっとしたが、言い返すことはしなかった。そうしても、結局は私がいない間、妹が母に嫌味や嫌がらせを受けるだけだからだ。
私が夕食を食べ終わると、母は糸をつむぐのを止めた。
「食べたら、早く寝なさい。明かりを灯しているだけもったいないんだから」
母はそういうと、父が寝ている藁にリネンのシーツをかけたベッドに入っていった。
私は明かり皿を金具で挟むと、暖炉のある部屋の奥にある扉を開けた。
ひんやりとした夜の空気が部屋から感じた。この部屋は元々は納屋として使われていたので暖房がないのはしょうがない。むしろ、ここを部屋と使っている方が間違っている。
「兄さん?」
私の持ち込んだ明かりに気付いて妹が目を覚ました。獣脂の燃える焦げ臭い匂いのする明かりの中、妹は天使のようだった。
まるで、妹自体が光を放っているかのように真っ白い肌がまぶしい。
すっきりとした面立ちの中で、大きく黒い瞳が黒曜石のようにきらめいている。青黒い艶のある髪の毛は肩のあたりで切りそろえられていた。去年までは腰のあたりまで伸びていたが、母が妹の髪を切って、カツラ屋に売ってしまった。
ベッドから身を起こしている体のラインはすっかりと女性らしく、そして、小枝のように華奢だった。まるで、どこかの国のお姫様のような、妹はそんな雰囲気があった。
「どうしたの、兄さん?」
妹が心配そうに私を見つめた。私は見とれていたということをごまかしつつ、妹のベッドの横に置いてある椅子に座った。
「具合はどうだ? 顔色は、少しは良くなったようだが」
妹はここ数日、体調を崩していた。
母が妹に無理に水汲みをさせて、転んで桶の水をかぶったのが原因だ。
母の気持ちもわからなくはないが、これだけ長く家族でいるのだから、そろそろ妹のことを理解してほしいものだ。
「ええ、もう、すっかり良くなったわ」
明るく笑って、元気だというアピールをして見せたが、すぐに暗い顔になった。
「でも、水汲みも満足にできないなんて、私って、本当に役立たずだわ」
しょんぼりと落ち込んだ妹の頭を、私は優しくなでてあげた。
「フローラにはフローラにしかできないことがきっとある。水汲みができないなら、私が代りにするよ。だから、そんなに落ち込まないでくれ」
「兄さん……」
妹は大きな黒い瞳を潤ませた。
私がいない間に母に色々と言われているのだろう。無茶をさせないで寝かせていてくれるのは優しさではない。これ以上悪くなって薬代などがかかると嫌だからだ。
「今日はフローラにお土産があるんだ」
私は懐から布の包みを取り出した。その包みをほどくと、黄金色の半透明をした指先ぐらいの塊がいくつか入っていた。
「これ……」
妹が驚いて目を見張っていた。それはそうだろう。中に入っていたのは、砂糖を煮詰めて作った飴である。貴族が食べる高級嗜好品だ。
「こんなもの、どうしたの?」
妹は私の身を案じてくれた。
確かに、代筆屋見習いが買えるようなものではない。何か悪いことをしているのではないかと心配するのも無理はない。
「何の心配もいらないよ。これは、ここ最近、私のいる代筆屋のお客さんがくれたものだ。見てごらん。形があまりよくないだろう? お客さんが使用人に作らせたもののなかで、できの悪いものを私たちにくれたんだ」
飴は親方や他の同僚たちにも配られていた。
全員が驚き、早速、口に放り込む奴もいたり、拝んだりするやつもいた。
それも無理はない。飴は、庶民にとっては数年に一度、小さなかけらを食べれれば幸運というほどの貴重品だ。
「それなら、兄さんが食べないと」
「私は職場でたくさんいただいたから、これはフローラが食べてくれ。ああ、これは父さんたちには内緒でね」
私は片目をつぶって笑った。
母に見つかれば換金すると騒ぎ出すかもしれない。そんなことをしてお客さんの耳にそのことが入れば、せっかく割のいい仕事を回してもらっているのが打ち切られることになりかねない。
それに、妹への仕打ちを考えると、この飴を両親にも分けようという気も起きなかった。
「ありがとう。兄さん」
妹はその中で一番小さいひとかけらを口に含んだ。そして、幸せそうに顔をほころばせた。
「とっても甘い。こんなに甘いものが世の中にあったなんて。それに、とっても、おいしい」
妹は恍惚とした表情を浮かべた。その艶めかしい表情に私は汚れた感情が沸き上がりそうになったが、すぐにその感情を振り払った。
それにしても、飴でこれほど喜ぶなら、少し無理してでも、買ってあげれないだろうかと少し思案した。
妹は一粒を食べ終わると、少し名残惜しそうにして大事に残りの飴を包みなおした。それから、ベッドの隙間にそれを隠した。
「見つからないようにね」
「うふふ。まかせて。私、隠すのは得意なの」
妹は少女のように微笑んだ。昔、ライオネスたちと無邪気に遊んだ頃の笑顔を久々に見た気がする。そういえば、最近はこんな風に笑うことはなかったと、今更ながらに思った。
「ああ、そうだったね」
私は愛おしそうに妹の頭をもう一度、撫でてあげた。
ライオネスが街を出て行ってから、一週間ほどが経った。
一度だけ、ライオネスの両親が私のところに行方を知らないかを聞きに来た。知らないと答えると、肩を落として、あっさりと帰っていった。
ライオネスは聖戦に徴兵されて、無事に帰還したから、両親たちもこの失踪も覚悟していたのだろう。
聖戦に参加した兵士は、無事に戻ってきても、数年のうちに失踪することがよくあった。
皆は魔に魅入られたのだろうと言っていたが、ライオネスの話を聞いて、それがある意味、正しかったようだ。
ただ、この国が小さな貧乏国なのに王侯貴族が贅沢三昧できるのは、教団の聖戦に兵士を多く出しているからである。なので、その商品である兵士候補が逃げ出すのは嬉しくない。
そのため、国外逃亡は厳罰にして、連座制にしている。
多分、ライオネスの失踪の罪で、次の出征ではライオネスの父親が徴兵されるだろう。
「おい。レディ様がお前をお呼びだ。早く行け」
私がそんなことを考えながら、仕事をしていると、親方が呼びに来た。
私は代筆をしている途中だが、ペンを置いて急いで応接室に急いだ。
応接室には、深緑の絹のドレスに身を包んだ美しい女性がいた。
絹のドレスなど、この国の貴族でも一着持っているかどうかの高級品である。それをこんな街歩きに使うのだから、何者かと噂になっている。
もっとも、彼女の身に着けているものが高級品であることよりも、その妖艶な美しさの方が話題になっているが。
ウェーブした白銀の髪が腰のあたりまで伸び、大きく膨らんだボリュウムたっぷりの胸と、それを強調するかのようなくびれたウェスト。
血色のいい肌艶で、ふっくらと肉付きのいい卵形の顎のラインに、男の欲情を煽るような濡れた赤い唇がほほ笑みを浮かべている。
顔を隠すためにつけているマスク越しに、紅い瞳は、まるで火山の火口を覗き込んでいるようで不安になりつつも、一度目を合わすと目が離せなくなる。
同僚たちの中には、彼女と目を合わすだけで、仕事机から立てなくなってしまう奴もいた。その気持ちは分からなくもない。私も気を抜けばそうなりそうになる。
「元気にしてた、アーノルド?」
彼女は貴族にしては随分と砕けたものの言い方をするが、私にとってはありがたい。
「はい、レディ。おかげさまで」
彼女は自分の名前を決して教えてくれなかった。自分のことは「レディ」と呼ぶようにと言っていた。しかも、呼ぶときは「様」をつけさせてくれない。
名前を教えない代わりに、ギルドの設定している代金の二倍払うということで、親方は納得した。
値段はギルドで決まっているが、客が納得して支払っているなら、それ以上の報酬をもらっても問題はない。
そんなおいしい仕事がかなりの量、彼女は頼みにやってくる。そのおかげで、店は最近、羽振りが良くなった。
ただ、親方としては、レディが見習いの私を贔屓にしているのが気に入らないようだ。だが、そんな不満はお金の前では飲み込まれる。
あと、彼女の持ってくる仕事は少しばかり奇妙だった。
彼女の依頼で一番多いのは、結婚式の招待状なのだが、それ自体は貴族と繋がりのある店なら、時々ある仕事で奇妙ではない。ただ、その文面が少しばかり――いや、かなり淫らなのだ。
先日、納品したものだと――
『私の蜜壺にぴったりの肉棒をやっと見つけることができました。私の子袋は彼の肉棒が放つ子宝汁の匂いに染まって、その喜びに歓喜の蜜を垂らして喜んでいます。
たくましくも荒々しく、彼に私の身も心もすべてを求められてしまいました。私は喜んですべてを差し出し、彼もまた、彼のすべてを私に下さるとおっしゃってくださいました。
私を抱きしめてくれる腕も、勃起した乳首を舐めてくれる舌も、あふれ出る蜜をすする唇も、何よりも、私の一番奥深くの大切でもっとも淫らな場所を、たっぷりと穢して汚して犯してくれる肉如意棒と肉宝珠も、私に下さると仰ってくださいました。
つきましては、私の旦那様を皆様方に披露して思いっきり自慢したく思います。
ぜひ、夫婦同伴でお披露目会においでくださいませ』
ほぼ全て、こんな調子である。
ただ、この招待状が彼女のものではないことはわかっている。なぜなら、招待主の名前が毎回違うのだ。
偽名を使っているにしても、こんなたびたび結婚式の招待状を作ることは考えにくい。例え、彼女が結婚詐欺師でももう少し間隔は空くだろうし、同じ店に注文するのもリスクが高い。
だから、彼女はこの淫らな招待状を仲介している人なのだろう。
こちらも仕事なので、いくら文面が淫らでも断りはしない。料金も上乗せされているなら、なおさらだ。
問題があるとすれば、教団はこういった風紀を乱すようなことにはうるさい。
教団の教えは、慎ましく穏やかに生きることこそ人の道と説いているからだ。それ自体には私も同感である。
そういう教義なので、こんなハレンチな招待状を見つかれば、異端審問会に呼び出されてもおかしくない。当然、それを代筆した私たちもお咎めはあるだろう。
だが、多分、それほど罪は重くはないだろう。貴族からの仕事を断ることは平民には難しいし、ギルドから手を回して情状酌量してくれるだろう。
そのためにギルドに少なくない上納金を納めなければいけないだろうが、それは親方の考えることで、見習いの私が考えることではない。
話はそれたが、彼女の依頼は普通の依頼とは毛色が違っている。
中でも、一番奇妙なのは、私個人を指名しての手紙の代筆だ。
結婚式の招待状は数も多いので、他の同僚たちも仕事を割り振られる。
だが、ある手紙の代筆だけは私以外にはさせない。
しかも、この手紙というのが、文面はこちらに任されて、誰かに恋い焦がれる想いを書いてほしいという注文なのだ。
この注文はレディが最初に店に来たとき、私以外の、親方や他の同僚たちにも出された。
そして、その中でレディのお眼鏡にかなったのは、私の書いたものだけだったらしい。
相手の姿や人となりがわからないのでは書きようがないと、親方がレディに言ったところ、「今まであったことのある一番美しい人」という返事が返ってきたそうだ。
それで私は妹を想像して手紙を書いた。
私の中で一番美しいと思える女性と言えば妹だ。それはレディと会った後も変わりない。
とはいえ、家族相手にラブレターなんて書けるはずがないと思っていた。
だが、ペンを取れば、びっくりするほどスムーズに書けた。今まで、彼女を家族と自分自身を言い聞かせていた枷が、架空と思うことでなくなって、素直に文字に、文章にすることができたようだ。
レディは、定期的に私にこのラブレターを書くように仕事を依頼してきた。
レディからの条件は、「難しい言葉はできる限り使わないこと」と「教養を必要とする詩の引用をしないこと」二つだけだった。
それ以外は私の思うように書いていいとのことだった。
ちなみに、その手紙には、通常の代金と比べられない金額が支払われているようだ。親方は教えてくれないが、私がそれの仕事をすることを最優先させているから間違いないだろう。
「この間、あなたに書いてもらった手紙、とってもよかったわ」
彼女はうっとりとした表情で、軽く身を震わせていた。その恍惚とした表情を見て、私の股間が反応しそうになり、慌てて視線を逸らした。
彼女はごく当然のように私の隣に座ってくる。あまりに自然な動きなので、私は反応することもできず、彼女に腕をからまされてしまった。
柔らかい胸の感触が私の二の腕に感じた。わざと腕に胸を押し当てているのは、童貞の私でもわかる。
「こ、困ります、レディ。私は、しがない代筆屋の見習いです。からかいにならないでくださいませ」
自分でも今の顔が真っ赤なのがわかる。
彼女から漂う甘い香りが頭をしびれさせる。きっと、毒が入っているのだろう。そういえば、神殿の神官様が、男を誘惑する女は甘い香りで男を骨抜きにする毒を盛るのだと言っていた。多分、その毒を盛られたんだ。
「お願いでございます。私には、私には守ってやらなくてはいけない家族がいるのです」
私は必死に哀願した。泣きそうだと思っていたが、実際に泣いていた。
「ふふ、かわいい人。心配しないで。私は悪戯が好きなだけよ」
彼女は私の元気になった股間の上に、シルクのリボンをかけた布の包みを置いた。
「この間の飴がやっと完成したの。あなたのおかげよ。だから、お礼に完成品をあなたにあげようと思ったの」
彼女は私の耳元に口を寄せた。吐息が耳と首筋にかかる。股間が痛いぐらいに勃起している。いつ射精してもおかしくない。今なら、顔面凶器のライオネスと見つめあいながら股間を撫でても射精してしまうだろう。
「これは完成品ですごく高価になったから、全員には配れないわ。あなただけ特別よ。みんなにばれないように持って帰ってから楽しんで」
私は首を縦に振った。もう、何が何かわからないぐらい激しくうなずいた。
「いい子ね」
頬に触れるか触れないギリギリのところで、「チュッ」と唇を鳴らした。
その音だけで、私は果てそうになった。
もし、果てていれば、私は神殿に籠って、神様に許しを請わなければいけなかっただろう。
レディは私をからかって満足したのか、また割のいい仕事を親方に依頼して、店を後にしていった。
私は、彼女にもらった飴の包みを、他の人にばれないように仕事の道具を入れる袋の中に押し込んで隠した。
確かに、彼女のおかげで、私の給料はよくなった。だが、私は彼女が苦手である。
同僚たちは、あれほどの美女に懇意にしてもらえることを羨ましがっていたが、できることなら代わってほしい。
淫乱に男を惑わすような女性は好ましくない。女性は清楚で貞淑であるべきだ。妹のように。
「ああ、そうだ。これは妹にあげよう」
妹はここ数日、体調が悪いと言って、私との会話もほとんどしてくれなかった。
前に飴をあげたあとは、血色もよくなって、元気になっていたから、この飴をあげれば、また元気になってくれるだろう。
そう思うと、家路につく足も早まった。
家に帰ると、父が上機嫌でワインを飲んでいた。
テーブルの上に並んでいる食事は、いつもよりもかなり豪勢だった。そして、珍しく、妹がテーブルについていた。
いつもは妹は部屋で食事をとらされている。
病弱な人間は病気を呼び込むから、一緒に食事をすると健康な人も病気になるという言い伝えで、妹はよほど元気な時しか同じテーブルで食事させてもらえなかった。
しかも、母が妹に優しくしている。椅子に座ったままの妹に母が食事や飲み物を勧めている。そんな光景を初めて見た私は、目をこすって二度見したほどだ。
「おかえり。待っていたんだけど、我慢できずにはじめたよ」
私の帰宅に気付いた母が上機嫌で手招きしている。
「ついに俺にも運が向いてきた。神のおぼしめしに感謝だ」
父が赤ら顔を上機嫌にして下品に笑っていた。
「おかえりなさい、兄さん」
妹だけがいつもと変わら様子でほほ笑んでいた。
「ただいま」
私は訳も分からぬまま、とにかくテーブルについた。
「それにしてもどうしたんだ? こんな贅沢したら、週末までの食費どころか、借金しなくちゃいけなくなるだろう?」
テーブルに乗っているものを改めて見て驚いた。これだけで一週間どころか、二週間分の食費は使っている。
我が家にも税金を払うために蓄えている分はあるが、それに手を付ければ、今年の税金を払えなくなってしまう。
「金はある。これぐらいの飯なんて屁でもない」
酔っぱらった父が私に言った。酔っていなければ、実直で仕事熱心な父だが、酒が入ると気が大きくなる悪い癖がある。そのせいで何度も失敗しているというのに。
「今日は父さんの言うことは本当よ。お金ができたの」
いつもは父の暴走を止める母が、上機嫌で妹の後ろに回り込んで肩を抱いた。
その動きに私は嫌な予感がした。
「フローラを妾にしたいって、ルドー商会の旦那様が言ってきてくれたのよ。その支度金だって、こんなにくれたのよ」
皮袋に詰まった銀貨をテーブルの上に広げた。ざっと見て、私と父が二人で半年働いて稼ぐのと同じぐらいの銀貨が積み上げられた。
「しかも、三日後にフローラを迎えに来るとき、この二十倍のお金を出すと言ってくれた。ははは、まったく、親孝行な娘だ。これまで育てた甲斐があった」
「まったくよね。神様が私たちの優しさにご褒美をくれたんだわ」
「それだけあれば、工房を開けるな。ははは、俺もやっと親方だ」
「まあ! それなら、あたしは女将さんだね。もう、内職なんてしなくていいのね」
「おうよ! 俺の腕なら注文殺到間違いなしだ。今の工房なんて、俺でもってるようなものだからな」
「さすが、父さんだわ」
両親が身勝手な未来予想図を描いているのを聞いて、私は拳を握りしめた。
私を育ててくれた両親だが、こんなに下衆な人間だったことを、今まで私は知らなかった。
確かに、今までも妹を厄介者にしていた。それでも妹が病気になった時は蓄えを切り崩して薬を買っていた。服だってちゃんと買って、みすぼらしい恰好はさせていない。食事も別々のテーブルだが、私たちと同じものを食べさせてくれていた。
口では何かと言いながらも、妹を大事な家族と思ってくれていたのだと思っていた。
「兄さん。いいの。私は、みんなの役に立てることがあって、それがうれしいの。だから、いいの」
痛いほど握りしめたこぶしを振り上げようとした私を妹が止めた。
すべてを悟り、全てをあきらめた。そんな妹の目が私は恨めしかった。
ここで、妹が抗ってくれたのなら、私は両親を叩きのめして、妹を連れてどこかへ逃げることだってできただろうに。
だが、私以外、誰も今を受け入れていた。父も母も妹も、心の中で何かを思っても、それを我慢することにしていた。そして、私が我慢すれば、今は幸せに変わる。
私は浮かしかけた腰を椅子に落とした。
「ありがとう。兄さん」
妹の言葉に私は泣きながら豪華な夕食を食べた。
夕食が終わり、両親は妹に暖炉のある部屋で寝るように勧めたが、妹はそれを断り、いつもの寒い部屋に戻った。私もその後を追った。
「いいのか?」
私は我慢できずに訊いた。その問いかけが残酷なものだということも気づきもせずに。
「兄さんが言ってたでしょ? 私にしかできないことがあるって。これがそうなのよ。きっと――」
「違う! 俺はそんなつもりで言ったんじゃない」
私は怒鳴った。久々に怒鳴った気がする。いつ以来だろう?
「ふふ、兄さんの俺。久しぶりに聞いた。兄さんが今の仕事を始める少し前だっけ? 遊んでいた私が怪我をして、おぶって帰ってきてくれたライオネスさんを怒鳴った時以来ね」
妹は懐かしむように、そして、楽しそうに思い出を脳裏にめぐらせていた。
そういえば、そういうこともあった。妹が怪我をしたのをライオネスが助けて、家まで背負ってきてくれたのだ。
ライオネスも妹を助け上げる時に怪我をしていたのに。それを私は誤解して、ライオネスを怒鳴って、殴ったんだった。後で誤解とわかって、平謝りしたんだが。
「兄さん、落ち着いているように見えて、結構、おっちょこちょいなのよね。ふふ、そんな兄さんを知っているのは、妹の特権よね」
くすくすと笑う妹に、私はバツの悪い顔しかできなかった。
「フローラにはかなわないよ」
「私のために怒ってくれてありがとう。兄さん。でも、もう、私、決めたの」
妹の目を見て、私は何も言えなくなった。
病弱で何もできない妹ではなく、強い一人の女性としての目をしていた。
私が一番、妹を侮っていたのかもしれない。妹も自分で人生を歩む年になったのだ。たとえ、それが悪徳商人の妾であっても。
「すまない」
私はそれだけしか言えなかった。
私にお金があれば、力があれば、妹につらい決断をさせることはなかった。
私には、何もない。それはそうだ。私は今まで何も欲しなかった、お金も力も。ただ、妹の幸せだけを欲していた。それには、お金も力も必要だというのに。
ふと、私は昼間にもらった飴のことを思い出した。仕事道具を入れた袋を開き、飴の入った包みを取り出した。
「前にお前にあげた飴の完成品らしい。これからは、これぐらいのものは好きに食べれるようになるかもしれないが……」
妹の手にその包みを乗せた。細くて華奢な指をしている。この指がルドー商会のヒヒ爺のものを握ることになるのかと思うと、怒りを通り越して絶望が広がる。
「ううん。そんなことはないわ。これは兄さんがくれたもの。たとえ、どんな高級なお菓子でも、これに勝るものはないわ」
妹が大事そうに包みを抱きしめた。そして、ベッドに隠していた以前に渡した飴の包み紙を取り出して、私にそれを渡してきた。
中身はなくなった包みに文字が書いてあった。
『親愛なるアーノルド兄様 あたなの妹になれたコウ運を神に感シャいたましす。私はそのコウ運のオン返しができることがうれしいです。私は、シワアセですた。ありがとうございました。そして、さようなら。 あなたの妹 フローラ』
少したどたどしく、かなり綴りが怪しいところはあったが、私が教えた文字を練習していたとわかった。
そして、妹の言葉を受け取り、私はそれを抱きしめて、恥も外聞もなく泣いた。妹が、いつもと逆に私の頭を優しくなでてくれた。
その夜から二日後の朝、妹は支度金で買った綺麗なドレスを着て、ルドー商会からの迎えの馬車に乗って、街の中心へと消えていった。
私はいつまでも、馬車の消えた方を見つめ続けていた。
ルドー商会はこの国きっての豪商である。
どういう商人かと言うと、いい噂は耳にしないが、悪い噂は耳にする。そういう商人だ。
だが、金持ちであることは疑いようがない。ルドー商会に借金をしている貴族は大勢いるというレベルではない。名のある貴族は全員がしているという。もちろん、その中に王様も含まれている。
ルドー商会は数年前までは、そこそこ大きな商いをするが、裏を返せばその程度の毛織物の商人だった。
ところが、ハンスという男が番頭になった途端、上質な毛織物や珍しい品々を扱うようになって、急に羽振りがよくなった。
そして、それで稼いだお金で金貸しを始めた。これは豪商と言われる人間の定番コースらしい。
そして、あれよあれよという間に色々な特権を得て、財を蓄え、今ではこの国一番の金持ちとなった。今では外国とも商売をするほどらしい。
あくどい商人でも、妹はその庇護に入った。そのお金の力はきっと妹を守ってくれる。
妹を見送った後、私は家にいるのが辛くなり、街に出て昼間から酒場で飲んでいた。「ルドー商会の会長がまた妾を囲ったらしいな」
どれだけ飲んでも酔えそうになかったところへ、隣のテーブルからそんな話が聞こえてきた。
「ああ、そうらしいな。なんでも、庶民の娘らしいぞ」
もう噂になっているのかと驚いたが、妹のことを少しでも知ろうと聞き耳を立てた。
「庶民の娘か。可哀そうにな」
「まあ、親は多分、何年も遊べる金をもらっただろうから、孝行娘さ」
「そうかもしれないがなー。あそこの会長の妾なんて、正直、おもちゃだぞ。庶民の娘なんて、人間扱いするか?」
「あー、まあ、よくて人形扱いかな? 噂だと、やばい薬で狂わされるんだとよ」
「狂うって?」
「お前、そんなの決まってるじゃないか。淫乱になる媚薬で清楚な聖女もあばずれにするんだよ。チンコのことしか頭にない淫乱によ」
噂話をしていた男たちがドッと笑って盛り上がっていた。
「今の話は本当か?」
私はそのテーブルで話していた男たちに思わず問いただした。
男たちは怪訝に思ったみたいだが、私の迫力に圧されてか、噂話だが、信憑性があることを教えてくれた。
妹の前に囲われた娘たちは薬漬けにされて、妾になって数か月後には、どこか遠い外国に捨てられるのだという。
私は家に帰ると、妹が心変わりしたら、いつでも一緒に逃げれるようにと準備していた旅の用意を背負って、ルドー商会に向かった。
私はバカだった。
何も知らずに、何も調べずに、妹を魔窟に送り込んだ。
何が守るべき家族だ。何が可愛い妹の幸せだ。私は彼女のために何もしていないじゃないか。
ルドー商会の屋敷は、この街の中心にある貴族の館が集まっている区画にある。
高い塀と大勢の用心棒に守られていて、人並み以下の腕っぷししかない私が侵入できるはずもない。こういう時に、ライオネスの「鍛えておけ」という言葉が身に染みた。
「穴を掘って……そんな道具も時間もない。ロープを塀にかけて……登れるかもしれないけど、登っている間に見つかるだろうな。木に登って……そもそも、周りに木がないじゃないか」
私はがっくりとうなだれた。これほど無力な自分を思い知らされるとは情けなくて死にそうだ。
「何をなさっていらっしゃるの?」
背中から私は突然、声をかけられた。驚いて振り返ると、そこにはマスクをして、扇で顔を隠しながらほほ笑んでいる深緑色のドレスを着た美しい女性がいた。
「レディ!」
私は思わず大声を出した。例の謎の依頼人、レディだった。
「お店に行っても、ここ数日、休んでばかりで、つまらなかったわ。こんなところで油を売っていたなんて」
レディは拗ねたような視線を私に向けてきた。
「申し訳ありません」
妹との最後の三日だったので、親方に無理を言って仕事を休ませてもらっていた。
「それで、アーノルドはこのお屋敷に何か用事がおありなの?」
「え?」
レディはにこやかに私の目的を見抜いた。そんなにも、私の行動は怪しかったのだろうか?
「とりあえず、ここは目立ちますから、私の馬車にいらしゃい」
手招きされて付いていくと、四頭立ての立派な馬車が止まっていた。王様の使う馬車よりも豪華かもしれない。
いつも店に来るのは一頭立ての簡素なものだが、あれはお忍び用なのだろう。もっとも、それでも私が雇われている程度の店では馬車で乗り付けられること自体が目立つのだが。
馬車に乗るのは初めてで、これがどのレベルかははっきり言えないが、職人の勘で最高ランクだと感じた。
見たこともない美しいビロードが張られた座席に、自分の汚れたズボンで座っていいものかどうか迷った。
「座席は座るためのものよ。汚れたら、買い替えればいいだけだから、気にすることはないわ」
世界が違い過ぎて頭が変になりそうだった。私は覚悟を決めて座った。お尻に柔らかい弾力を感じて、何か落ち着かない気分だ。
「それじゃあ、お話。聞かせてもらって、よろしいかしら?」
レディが興味深げに私にここにいる理由を尋ねてきた。私は恥も外聞もなく、これまでのことをレディに包み隠さずに話した。
「あなたは妹さんがお好きなのね。素晴らしいわ。近親相姦ではないですけど、その純愛は心ふるえますわ」
レディが色っぽく頬を染め、目を細めて、自分自身の身体を抱きしめて身もだえしている。
「い、いえ、そういうわけでは――」
私はレディの勘違いを解こうと口を開くと、扇の先端で鼻の頭を軽く突かれた。
「ふふふ、この期に及んで往生際が悪いわ。妹さんが好きなのは、最初から匂いで知っていたわよ」
私はレディの言葉に驚いた。匂いで感情を読み解ける人がいることをはじめて知った。
「でも、何故だか、あなたからはとてもいい匂いがして、ついつい、悪戯したくなっちゃったの。ごめんなさいね」
レディは悪びれずに謝り、微笑んだ。その微笑みが妖しく、私の背筋に甘い電流が走りそうになる。
しかし、私はすべきことがある。こんなことをしている間に妹が危ない目に合っている。そう思うと、レディの誘惑もすぐにはねのけられた。
「レディ、申し訳ありません。そういうわけなので、私は急がないと――」
「ええ、そうね。そんなあなたを呼び止めたお詫びに、私があなたをあのお屋敷の中に入れてあげるわ」
「え? いったい?」
私が驚いているのを気にも留めず、レディは御者に何か伝えた。
すると、馬車が動き出してしまった。
私の頭の整理を終える前に馬車はすぐに止まり、はっきりとは聞こえてこないが、門番と御者が何かを話しているのが聞こえた。
やがて馬車はまた走り出した。
「外を覗いてみて」
馬車の窓からおそるおそる外を見ると、そこはルドー商会の屋敷の敷地内だった。
「ふふふ。ここの会長たちとはお友達なの」
驚いている自分を見て、悪戯が成功したような子供っぽい笑みを浮かべているレディがいた。
「馬車は正面玄関につけたあと、馬車置き場に回されるわ。そこで馬車をこっそり降りれば、誰にも見つからずに屋敷に潜り込めるわ。あとは自分で頑張ってね」
私は椅子から飛び降り、床に頭を擦り付けてレディにお礼を言った。
「これからの方が大変なんだから。お礼は結構よ」
レディは私を立たせて、優しく言った。
「レディに差し上げられるようなものは何も持っていないですが、もし、妹を救い出せたなら、この身体だろうが、命だろうが、レディに差し上げます」
「それは、うれしいお言葉ね。でも、あなたのすべては妹さんに差し上げるべきよ。だから、遠慮しておくわ」
レディが微笑みを浮かべると、馬車は正面入り口に着いたらしく再び止まった。
私は急いで座席の陰に身を隠すと、御者によって扉が開かれた。レディは何事も無かったかのように平然と馬車を降りていった。
ちらりと外を覗くと、慌てて迎えに出てきたルドー商会の会長らしき初老の男にエスコートされ、レディは館の中に消えて行った。
しばらくしてから再び馬車が動き始め、ほどなく停車した。ちょっとばかり鈍い物音がしてから馬車の扉が開いた。
「今なら、誰にも見られずに屋敷の中に入れる。急げ」
扉を開いた御者が無愛想に私に言った。御者はてっきり男性だと思っていたが、胸のあたりが膨らんでいて、よく見ると線も細い女性だった。
「ありがとう、お嬢さん」
私は彼女にお礼を言うと、荷物を持って降りようとすると、彼女にそれを取り上げられた。
いくら非力でも、私は一応、男だ。それなのに、女性の彼女はいとも簡単に私から荷物を奪われ、情けなくなってくる。
「荷物は置いていけ。ただでさえ腕力も体力も無いお前が、こんな荷物を持って侵入しても、すぐに邪魔になるだけだ」
「だけど、この荷物が無いと逃げるときに困るんだ」
彼女の言うことは正論だが、私の目的は妹と会うだけではない。その後のことも考えなければならないのだ。
「この屋敷から妹君を救出することの方が難易度が高い。ここで失敗すれば、先の逃亡などやってこない。目の前の課題の成功率を上げることだけ考えろ。それが成功の秘訣だ。それに屋敷にも入ることができなかったお前に先読みする戦略眼は無い」
私の無謀を指摘されると返す言葉も無い。私は肩を落として、彼女の言うとおり、手ぶらで馬車を降りた。
「荷物は預かっているのだから、ここに戻ってくるといい。我が主なら、屋敷を出る時にお前も連れて出てくださるだろう」
とぼとぼと歩く私の背中に、彼女は優し気な声で告げた。私は驚いて振り返ると、彼女は何も言っていないかのように無表情で御者台へと戻っていった。私は彼女に一礼して屋敷の中に侵入した。
馬車を停めておく場所から使用人用の入り口のようなものがあり、そこを通って建物の中に入った。
よく知らないが、こういう場所には見張り代わりに使用人などがいると思ったが、うまい具合に不在だった。どうやら、私はついているようだ。
屋敷の中はびっくりするぐらい豪華だった。
廊下にすら絨毯が敷いているし、誰もいない廊下なのに明かりが灯してあった。漆喰の壁が真っ白で、灯火の明かりがまぶしく感じる。貧乏な小国でもお金はあるところにはあるのだなと変に感心してしまった。
おっと。そんなことより、私は妹を探しに来たんだ。……しかし、どこにいるのだろう?
しまった。妹がどこにいるか私は知らない。
一つ一つ部屋を開けて探すか? いや、そんなことをすれば、別の人間に見つかる。
妹のいる部屋以外は下手に扉を開けるのは危険だ。妹のいる部屋でも、妹以外の誰かが一緒にいるかもしれない。
「その時は仕方ない……」
私は荷物の中に入れておいた短剣を取り出そうとしたが、荷物を持っていないことに気が付いた。
……そうだ。荷物の中に短剣を入れていたのを忘れていた。
そんな物騒なものを上手く扱う自信はないが、無いよりはマシだろう。
私は短剣を取りに馬車に戻ろうとした。その時、廊下の向こうに人影が見えた。私は慌てて柱の陰に隠れた。
「どうか、神様。人がこちらに来ないようにしてください」
私はありったけの信心で祈りを捧げた。
神殿にお祈りに行くのも欠かさなかったし、少ないながらも家計をやりくりして寄付もしている。こんなときぐらい、神様に頼って何が悪い。
しかし、私の信仰心程度では神の奇跡は起こりようがないようだ。だんだんと靴音が近づいてきた。
こうなれば、私に気づかずに行き過ぎてくれることを祈るしかない。
あと十歩ぐらい……あと数歩……私は目をつぶって息をひそめて祈った。靴音が私の前を通り過ぎた。
やった。神よ。あなたに感謝します。
だが――
「おまえ、こんなところで何やってるんだ?」
通り過ぎた靴音が止まり、声をかけられてしまった。
神は無慈悲だ。私は神への信仰を捨てることにした。どれだけ祈ろうと、救いを求めても何もしてくれない神など崇めるなんて馬鹿らしい。
私は私の力で未来を掴む。そのために、私を見つけた人間に殴りかかった。
幸い、相手は私よりも身長は低いようだ。上手くすれば、私でも倒せるかもしれない。
気合と共に私は渾身の力をこめて殴りかかった。多分、火事場の馬鹿力が発揮して、魔物でも殴り殺すことのできる威力があるはずだ。きっとそうに違いない。
「ちょ、何するんだ?」
だが、現実は無慈悲だ。
私の腕力などひ弱すぎた。渾身の拳はあっさりと受け止められ、挙句に口をふさがれて壁に押し当てられた。
「くっ! 殺せ」
私は妹を救い出せないのなら、この命は無駄だと覚悟を決めていた。というか、レディに援けてもらって屋敷の中に侵入できたが、最初の廊下で使用人に見つかって捕まえられるとは、情けなくて死にたい気分だ。
「騒ぐなよ。誰か来たら面倒だろ? まったく、少しは落ち着いて、俺をよく見ろ、アーノルド」
私を押さえ込んでいる人物を見た。
「ライオネス!」
口を押さえられていなかったら、屋敷中にこだまする声を上げていただろう。
「頼むから、静かにしてくれ」
私はやっと落ち着いて頷いた。それを見て、ライオネスが私を抑えていた手を離した。
「こんなところで何をやってるんだ?」
「それはこっちが聞きたい。おまえ、街を出たんじゃないのか?」
彼とは十日ほど前に今生の別れを済ませたはずだ。
「知ってるか? 旅をするのはお金がかかるんだ。それと、無断で街を出たら犯罪者になる」
友人は私を馬鹿だと思っているのだろうか?
「だから、ルドー商会のキャラバンに、荷運び係兼護衛として雇ってもらったんだ。こうすれば、給料をもらえるし、キャラバンで移動すれば、その間の旅費はいらない。適当なところでキャラバンとはぐれて、新天地を目指す。完璧な計画だろう?」
友人は頭がいい。少なくとも、私よりかは先を考えている。
「今度はそっちの番だぜ」
私はライオネスにいきさつを話した。
「フローラちゃんが……お前がいながら!」
ライオネスは私の胸倉を掴んだ。だが、すぐに手を離した。
「すまん。お前がいても、俺がいても、どうしようもなかった」
「妹のために怒ってくれて、ありがとう。私はこの命に代えても妹を救い出す。だから頼む。見逃してくれ」
私はライオネスに頭を下げた。ここで私を見逃せば、彼の立場が悪くなるのは分かっているが、そんな自分勝手なお願いをしてでも、私は妹を、フローラを助けたい。
「馬鹿言うなよ」
ライオネスの言葉に私は奥歯を噛んだ。
「俺にも協力させろ。お前にこういう荒事は向いてない。ここに入れただけでも驚きなぐらいだ」
愛嬌あるジャガイモ顔がニカリと笑って、愛嬌ある割れたジャガイモになると、私の腕を叩いた。
私は妹がどこにいるか知らないことを告げると、ライオネスに少し呆れた顔をされた。
「昔から、お前って、賢そうで抜けてるというか、無鉄砲というか……まあ、なんとかしよう」
ライオネスは少し考えてから、置物の小瓶を手に取り、中に花瓶の水を入れた。
私は彼が何をするつもりなのかわからないが、彼を信じてついていった。
しばらく廊下を歩くと、粗野な男たちが下品な笑い声をあげているのが聞こえてきた。どうやら、どこかの部屋に用心棒のような男たちが集まっているようだ。
「そこの廊下の柱の陰に隠れてろ」
ライオネスはそう私に指示すると、笑い声の漏れる扉をノックした。
「忙しいところ、すいやせん、兄さん方」
「おう! なんだ、新入り?」
ライオネスは扉を開けて、中の男たちに声をかけた。
もしかして、私をだまして、彼らに引き渡すつもりだろうか? いや、ライオネスを信じよう。私は彼のことをいつも疑ってばかりだ。
「新しく入った旦那様の妾がどこにいるか知りやせんか?」
「あぁん? おめー、旦那様の妾に手を出すつもりじゃねえだろうな?」
ドスの利いた声に離れている私すらも肝が冷える。
「そんな、滅相もない! 旦那様に急なお客様で、旦那様が持って行くつもりだったクスリを届けるように頼まれたんでさぁ。なんでも、その妾、身体が弱いとかなんとかで」
ライオネスが平謝りになって言い訳している。多分、このために小瓶を用意したのだろう。あの一瞬で考えたとしたら、大したものだ。
「ああ、そういうことか。確かに、かなりの美人だが、病弱とか言ってたしな」
「へ、へい。それで、知りやせんか?」
「どの部屋にいるかは知らねえが、新しい妾なら、東の棟に入るのがいつものことだから、そっちに行って聞いてみな」
「ありがとうございやす」
詳細の部屋までわからなかったが、これでかなり絞り込めた。
「しかし、身体が弱いねぇ。くくく、旦那様も言うねぇ」
部屋を後にしようとしたライオネスに、なにやら卑猥な笑い声が聞こえてきた。
「新入り。その薬、女を狂わせる薬かもしれねえから、飲ませたらすぐに退散しろよ。旦那様の妾が誘ったとしても、それに手を出したら、妾ともども消されるぜ」
「何人か、それで消えたからな」
「まあ、媚薬でおかしくなっても、ジャガイモには発情しねえだろうがな」
「そうですよねー。それじゃあ、ありがとうごぜえやす」
用心棒たちが大笑いをしていたが、ライオネスはお礼を言って扉を閉めた。
「すまない」
私のところにやってきたライオネスに謝った。
「気にするな。俺は慣れてるよ。それに、フローラちゃんのいる場所もわかったしな」
「わかったって、東の棟って言ってたが、部屋数は少ないのか?」
「いや、三十はある。だが、昨日、メイドたちが大勢で支度していた部屋は知っている。二階の手前から三つ目の部屋だ。おそらく、そこだろう」
ライオネスが言うのを私は驚きの視線を向けた。
「そういうのが目について、憶えていてしまうんだよ。まあ、性分だ」
私の友人は、私が思っている以上にすごい男なのかもしれない。
そう思っていると、背後で扉の開く音がした。
「おーい、新入り! 俺も一緒に行ってやるよ」
ライオネスが訪ねた部屋から盗賊まがいな男が出てきて、ニヤニヤしながら声をかけてきた。
「あ? なんだ、その一緒の男は?」
しかし、私の存在に気が付いて、凄みのある声を出した。
「なんだと言われても、ただの使用人ですぜ、兄貴」
ライオネスが困ったように首を傾げた。その自然な演技力に感心した。私の方は膝が震えている。
「ああ、そうか。そうだよな」
盗賊まがいの男が、ぱっと表情を気軽なものにした。私は安堵の息が漏れた。
「なあ、新入り。俺はな、この館の使用人の顔は全員憶えてるんだよ。だから、旦那様も新しい使用人を入れる時は、最初に俺に面通しさせるんだ」
盗賊まがいの男が何かを投げつけてきたのを、ライオネスが剣を抜いて甲高い音を立ててそれを弾いた。壁にナイフが刺さっている。
「走れ! ここは俺に任せろ!」
ライオネスが言う言葉に私はすぐに反応できなかった。固まっていると、彼が持っている小瓶の水をかけられた。
「助けたいんだろ! しっかりしろ!」
その水の冷たさと怒鳴り声で私はやっと走り出せた。背後では金属の打ち合う音が聞こえるが、私はとにかく走った。
東の棟へとつながる渡り廊下を見つけ、そこを駆け抜け、ライオネスに教えてもらった部屋を目指して階段を駆け上がった。
途中で何人かのメイドとすれ違ったが、特に止められることもなかったのは幸いだった。
使用人全ての顔を憶えているなんて反則は、あの盗賊まがいの男ぐらいのものなのだろう。
「手前から三つ目。ここだ」
私はやっとのことで目的の部屋にたどり着いた。立派な扉を乱暴に開けて、中に転がり込んで、すぐに扉を閉じた。
部屋の中はカーテンが閉められているせいか薄暗くて、よく見えなかった。ただ、部屋の広さはこの一部屋で我が家よりも大きいかもしれない。
足元の絨毯は毛足が長く柔らかで、うっかり足を取られそうになる。
徐々に目が暗さに慣れてきて、部屋の奥に天蓋付きの大きなベッドがあるのを見つけた。
そこから小さなうめき声が聞こえる。
「フローラ!」
私は何の確認もせずにベッドのそばへと駆け寄った。
私の本当の両親は、私が小さい時に流行り病にかかって死んでしまった。
私もその病気にかかったが、なんとか死なずにすんだ。
それを幸運だったと言う人は、きっと幸せで裕福なのだろう。
住んでいた村の住人は半分以上が病気で死んでしまった。どこの家も自分たちが生きるだけで必死だった。
そんな村で、小さい私は雑草を、木の根を食べて、飢えをしのいでいた。
地べたに這う虫のように生きるより、死んだほうが楽になれることに気付いて、死のうとした日に兄さんたちがやってきた。
兄さんは、私のお父さんのお兄さんの子供、従兄で、両親が生きていた時は何度も会って、遊んでくれた優しい人だ。
兄さんは枯れ枝のようになった私を抱きしめて、泣いてくれた。私のために泣いてくれる人がまだいるなんて、全然、想像できなかた。だから、私も泣いてしまった。
でも、兄さんの両親は、私を引き取りたくないということは、幼いながら感じていた。
私をすぐに孤児院に入れるつもりだった。でも、兄さんが体力が回復するまでと、自分の食事の量を減らしてまでお願いしてくれた。
そして、兄さんは、私を引き取るために両親を説得したいとライオネスさんに相談した。
ライオネスさんは、近所の人たちや教団の神官に、兄さんの両親を「慈善の人」と吹聴してまわった。外面が良くて、見栄っ張りな兄さんの父親は、近所の人たちに称賛されて、いい気分になって、私を引き取ると言ってくれた。
兄さんの母親は反対したみたいだけど、教団の神官に大勢の前で褒められて、私を捨てられないと悟ったようだ。
ライオネスさんは、顔は……だけど、頭がいいし、優しいし、さすが兄さんの親友だと思う。
それから兄さんは私を大事にしてくれた。病気のおかげで、丈夫でない私をいつも気遣ってくれた。心から優しくしてくれた。
私は嬉しかったけど、同時にどんどん不安になった。
兄さんは優しくて格好いい。女の人が兄さんに惚れないなんてありえない。
兄さんが恋人を作って、結婚してしまうことが怖くて仕方なかった。
できることなら、私が兄さんの恋人になって、お嫁さんになって、奥さんになりたい。
でも、兄さんはいつも私のことを妹としてしか見てくれていなかった。
嬉しくもあり、悲しかった。
そんなある日、寒い部屋に戻ると、ベッドの中に封筒が置いてあった。差出人も宛名もない封筒が。
私はその封筒を開けて、中の手紙を読んだ。兄さんに字を教えてもらって、読むことはできる。
文字を見て、すぐに兄さんの字だとわかった。兄さんは代書屋で働いているだけあって、とても知的できれいな字を書くから。
内容はラブレターだった。
兄さんに好きな人ができたのかと胸が苦しくなった。
どんな人かを知ろうと、読み進めていくと、すごくきれいな人らしいことが分かった。
私と同じ黒髪で黒い瞳をしている女の人。年齢も私と同じぐらいだった。私と同じく、あまり丈夫じゃないみたい。
読み進めるうちに、なんだか、私のことを言われているような気分になってきた。勘違いと思っても、顔が熱くなる。
そして、気が付いた。
私のベッドにわざわざ他人に出すラブレターを入れるだろうか?
これは、私に宛てた、兄さんからのラブレターなのだと。
私はそれに気づいて、顔がさらに真っ赤になった。
兄さんも私のことが好きなのだ。それだけで、天にも昇る気持ちになった。
私への宛名のないラブレターは、その後も届いた。
いつの間にか服のポケットに入っていたり、物入に入っていたり、一度など、私の使っている皿の下にあったこともあった。
でも、兄さんはラブレターをくれるだけで、それ以上はなにもしてこなかった。
それは仕方ないことだ。
私は病弱でまともに働くことができない。家事を満足にこなせるかも怪しい。兄さんの給料だけで生活するのは苦しいのはわかっている。
私が兄さんと結婚するには、兄さんの給料がすごく上がるか、私が働けるぐらい元気になるかしかない。でも、そのどちらも望み薄だ。だから、兄さんはラブレターに宛名を書かないし、名前も書かないのだろう。
兄さんはある日、仕事場でもらったと飴をくれた。
そんな高価なものをくれるなんて、何か悪いことをしているんじゃないかと心配してしまった。
話を聞くと、お金持ちのお客さんによくしてもらっているみたいだ。女の勘でお客さんは女性だと思う。
兄さんに気があるから、こんな高価なものをくれたのだろう。
兄さんさえその気なら、お金持ちの夫人をパトロンにして裕福に暮らすなんて、楽勝だと思う。そうしないのは、私がいるからだろう。
私は、私が兄さんの幸せを邪魔していると思った。
役立たずの私が、素敵な兄さんの恋人になんてなれるわけがないのに。
口に入れた飴はすごく甘かったけど、私には苦かった。
飴を舐めるたびに、体の芯が疼いてしょうがなかった。そのたびに、兄さんの姿を瞼の裏に映して、ベッドの中で息を殺した。
身体の火照りが治まると、私は自己嫌悪する毎日だった。
兄さんにもらった飴を食べただけで、兄さんを想ってはしたないことをするなんて、私はどんなに淫乱なんだろう。神殿にお祈りに行くのを欠かさない兄さんは、こんな私を知ったら、きっと軽蔑するだろう。
それなのに、兄さんにもらった飴を食べるのを止めることができない。
飴を食べて、兄さんを感じたくなる。
やっぱり、私はふしだらで、兄さんにふさわしくない女なんだと泣きたくなった。
兄さんからもらった飴がなくなった日の昼間、兄さんの母親に二人っきりで大事な話があると言われた。
「あんたも、いい年頃になったね」
兄さんの母親は私を値踏みするような目で見てきた。なんだか、すごく気持ち悪い視線だ。
「お母様たちのおかげです。ありがとうございます」
そんな目で見られても、私はその態度を出さずに頭を下げてお礼を言う。
私は兄さんへの恋心も、兄さんの両親たちへの不快さも、何もかも隠して生きるしかない。
「それで、これからどうするつもりだい?」
兄さんの母親の言いたいことはわかる。
女は結婚する時、相手の家に持参金を渡すしきたりがある。一般家庭の場合、両親が用意した分に、結婚する娘が内職して積み立てた分を上乗せする。
私の場合は、兄さんの両親は私の持参金を用意するつもりがなく、私自身も内職で稼げるお金は少ない上に、全部を生活費として没収されている。
持参金のない女を嫁にもらう人など、よほどでないといない。私に言い寄ってくる近所のうっとうしい男たちでも、持参金がないと知れば結婚を断るだろう。
「いつまでも、この家に居られても困るのは分かっているよね?」
私は小さくうなずいた。小さい子供でないから、私を追い出しても近所の人たちは彼女らを悪く言わないだろう。
「普通は修道女になるしかないんだけど、あんたの場合は体力がないから、それも勤まらないだろうね」
兄さんの母親は厄介者を見るような目で私を見て、困りごとの塊のようにため息をついた。
「だけど、あんたは運がいいよ」
兄さんの母親は突然、笑顔を浮かべた。その顔に隠していた不快感が表に出そうになった。
「あんたを妾にしたいって言ってきた金持ちの商人がいるんだよ。あんたは見た目だけはいいからね。美人と言うのは、それだけで得だねー」
同じ女からこういうセリフを聞くのがたまらなく嫌だ。でも、表情を出さないように我慢した。
「しかも、ルドー商会だよ。あの、国一番の大金持ちの。はは、まったく、あたしゃ、名前を聞いたときは驚いて腰を抜かしたよ」
ルドー商会は知っている。あまりいい噂を聞かないけど、よく聞くとやっかみなことも多いみたい。噂の真偽はわからないけど、お金持ちなのは間違いない。
「こんなチャンスはもうないよ。決めちゃいな」
私の一生に関わることなのに、少しの考える時間もくれない。こういう人なのだ。
育ててくれた恩は感謝しているけど、本当は嫌いで仕方ない。兄さんの両親でなければ、どれほど罵倒しただろう。
「何を悩む必要があるんだい? あんたに選択肢なんてものがあるのかい?」
悔しいけど、この女の言う通りだ。だけど、兄さんと離れ離れになるのに、どうしても踏ん切りがつかない。
「あんたが片付かないと、アーノルドが結婚できないんだよ」
私は金づちで頭を叩かれた気分だった。
「古着屋のベティって娘を知ってるだろ? アーノルドはあの子と来年には結婚する話になっているんだよ。それなのに、あんたがこの家に残ってたら……わかるよね?」
私は呆然としたまま、小さくうなずいた。
「私、ルドー商会の妾になります」
ショックを受けたまま、私はそれだけしか言えなかった。
「そうかい、そうかい! あんたは見た目だけはいいからね。多分、旦那様もかわいがって、大切にしてくれるよ。はあ、あんたを娘として育てた肩の荷が下りたよ」
兄さんの母親が上機嫌で何かを言っていたが、私の耳に入っても、頭までは届いてこなかった。
兄さんが結婚する。
いつかはと思っていた。でも、まだと思っていた。思いたかった。
いつの間にそんな話になっていたのだろう? 兄さんはベティといつの間に恋人になったのだろう? 私にくれたラブレターは何だったのだろう? あれはベティにあてたもの? ベティは赤毛で青い目の娘なのに。
私は悲しくて泣いた。兄さんと話すことが辛くて、体調が悪いと嘘をついて、兄さんを部屋から追い出した。
兄さんと居られる時間はあとわずかなのに、今思えば、なんと私はバカなんだろう。
そんなふうに私が落ち込んでいる間に、私が妾になる話はびっくりするぐらい早く話がまとまった。
ルドー商会の番頭だと名乗った若い男がやってきて、契約書にサインすると支度金を置いていった。
私がこの家にいられるのは、あと三日しかない。もう、泣いている時間はない。
兄さんと居られる時間はあとわずかしかない。
最初にしたことは、兄さんからもらったラブレターの返事を書くことだった。
字を書くのも兄さんに教えてもらっていた。でも、読むよりも難しいし、練習する紙もない。
何度も地面に木の棒で練習した。そして、もらった飴を包んでいた紙に一生懸命に返事を書いた。
兄さんのようにきれいな字じゃないし、すごい文章じゃない。所々、間違ってすらいる。けど、私の気持ちを兄さんに形として渡したかった。本当の気持ちは伝えられないけど、これも私の気持ちの一部なのは変わりない。
兄さんのそばに何か私を残しておきたかった。あげられるものはないし、物だと捨てられるかもしれない。でも、言葉なら、文字なら捨てられない。
兄さんは私の手紙を気取って、泣いてくれた。嬉しかった。本当に愛されていたことが分かった。それだけで十分、幸せだ。
兄さんは私が妾になるまでの三日、仕事を休んで家にいてくれた。まさか、そんなことをしてくれるなんて思ってもいなかったので、私は幸せな三日間を過ごせた。
これから一生分の幸せを私は前借したのだろう。でも、この三日間の思い出で、私は一生生きていけると思う。
楽しい幸せな三日間はあっという間に過ぎ去り、私はルドー商会から迎えに来た馬車に乗り込んだ。
持って行く荷物は小さなカバン一つの中に納まった。
支度金で用意した着替えが数着、それと両親の遺髪を入れた小さな袋が二つ、兄さんが買ってくれた綺麗な青いリボン、兄さんが新しくくれた飴、そして、兄さんからのラブレター。
十年ぐらいこの家に住んでいるのに、私のものがこれだけなのは、なんだかおかしかった。
「フローラ、身体に気を付けるんだよ」
兄さんが涙を我慢しながら私に別れの挨拶をした。
「兄さんも。無理しないでね」
私は上手く笑えただろうか? ちっとも自信がない。涙をこぼさないだけで精一杯。
走り出す馬車を兄さんは少し追いかけて、すぐに引き離された。兄さんは格好いいけど、あんまり運動は得意じゃなかった。
そんなことを思い出すと、くすっと笑みがこぼれて、涙があふれだした。
さよなら、兄さん。
馬車はルドー商会の立派な屋敷に到着して、立派な部屋に案内された。
「最初は慣れないかもしれないが、すぐに慣れる。用事があればメイドにいえば、してくれる。今日はゆっくり休むといい」
ルドー商会の会長という初老の男の人は、見た目は性悪そうな顔をしているのに温かく微笑み、しわがれた声なのに優しい口調で私にそういって、部屋から出て行った。
すぐに夜伽を命じられるのかとおびえていたが、拍子抜けだった。
それから、すごくきれいなメイドの人たちが身体を洗ってくれたり、着替えをさせてくれた。いきなりのお姫様扱いで庶民の私の頭が働かなかった。
だけど、荷物の整理だけは自分でしたいと言って、メイドの人たちには下がってもらった。少し、一人でいたかった。
荷物などほとんどないので、整理は一瞬で終わった。
そのあと、信じられないほどフカフカのソファーに座っていたけど、落ち着かなくなって、まだ明るい時間だったが、寝間着に着替えてベッドの中に潜り込んだ。
私はベッドの中に入って、兄さんの手紙を読み返して、兄さんを思い出していた。
さっき別れたばかりなのに。いや、だから、鮮明に思い出して、頭に心に刻みつけたかった。
兄さんからもらった飴を一つ、取り出した。飴はハートの形をしている。なんだか、とても皮肉に思えた。そのハートの飴を口の中に入れた。
前にもらった飴よりも甘く身体の中に染み込んできた。
身体中が敏感になって、服やシーツが肌に擦れるだけで、甘い刺激に襲われる。内側からも熱のこもった疼きが沸き上がり、身体中が切なくなる。
「兄さん、兄さん……」
家では声を出すことはできなかった。ここに来て、唯一嬉しいのは、声に出せることかもしれない。
兄さんと呼ぶたびに、私の高ぶりは上がっていった。身体の火照りは身を焦がすほどに熱く、頭の中は兄さんでいっぱいになった。
私がどれだけ兄さんを愛しているのか、私の頭と身体がそれを証明しようとしているかのように。
いやらしい乳首を硬くとがらせても、それは兄さんに恋している証拠。
媚びるような声で兄さんを呼んでも、それは兄さんを求めている証拠。
はしたなくオマンコを濡らしてても、それは兄さんを愛している証拠。
「兄さん、兄さん……」
私のオッパイを兄さんに揉んで欲しい。
「兄さん、兄さん……」
私のオマンコに兄さんのおチンポが欲しい。
「ああ、兄さん、兄さん……どうして、あなたは兄さんなの?」
どうして、私は股を開いて、兄さんに処女を差し上げなかったのだろう?
どうして、私は兄さんを押し倒して、兄さんの童貞を奪わなかったのだろう?
私はもう、色々なタガが外れていた。
抑え込んでいた感情が恋慕が愛情が噴き出して、身体中を駆け巡り、私は私に従順に素直になっていくのを感じた。
今ここに兄さんがいたなら、私はすべてを打ち明けて、兄さんに全てを差し上げて、兄さんのすべてを奪うのに。
「フローラ!」
幻を見ているのだろうか? ベッドに駆け寄ってくる兄さんがいた。
でも、幻でももう離しはしない。
「兄さん!」
私はベッドを飛び降りて、その兄さんの幻に抱き着いた。
うめき声が聞こえたベッドに駆け寄ると、そこから裸の女性が飛び降りてきて私に抱き着いてきた。
私は目を白黒させた。
「私、兄さんが好き! 大好き! 愛してる!」
その女性は妹の声で私に愛の告白をした。
「……フローラ?」
私は恐る恐る確認した。
「そうよ! 兄さんの妹のフローラよ。でも、兄さんの妹だけじゃ、もう我慢できないの。私は兄さんの恋人にも、愛人にも、妻になりたいの! 兄さんのすべてになりたいの!」
女性はそういって私をより一層、抱きしめた。
柔らかい大きな胸が私に押し当てられ、鼻腔をくすぐる甘い香り、すべすべとした肌、吐き出される熱い吐息、全てが私の欲望を刺激する。
妹そっくりの、角と翼、尻尾が生えた美しい魔物の女性が。
「フローラは、私の妹は人間だ! フローラをどこにやった!」
私は理性を総動員して、魔物を引きはがした。
「兄さん、私よ。私がフローラよ」
「妹の声で、妹の顔で、悲しそうに私を見るな!」
「信じて。私はフローラよ」
「違う! お前はフローラじゃない!」
私は全力で頭を振った。本能が目の前の魔物がフローラと認めている。だけど、それを認めれば、フローラが魔物になってしまったと認めてしまうことだ。
魔物は神に反する者たちで、人類の敵だ。フローラが魔物になったら、教団が彼女を殺してしまう。
私に否定された魔物は悲しそうに目を伏せて、静かに首を横に振った。
「私、わかったの。神様なんて何もしてくれない。祈っても、寄付しても、戦っても、何もしてくれない。それなのに、何をしたらダメとか、何をしろとかだけは言ってくる。兄さんは、今まで、神様に祈って、信じて、崇めて、何かいいことがあった?」
「そ、それは……」
魔物の問いかけに私は言葉を詰まらせた。ここに来る途中、信仰を捨てたところだ。
「だから、私は神様なんて信じない。神様を捨てて、自分の思うように生きると決めたの。だから、魔物になったんだと思う。ねえ、兄さん。私と一緒に堕ちましょう。私たちを不幸にする神様のいない世界に」
妖しく微笑みを浮かべる妹そっくりな魔物が私に手を伸ばした。
妹は私が知る中で一番の美人だ。だが、魔物になった妹は、さらに美しくなっている。
すっきりとした面立ちはさらに整い、大きく黒い黒曜石のような瞳が潤んで私を見つめている。青黒い艶のある髪の毛は母に切られる前のように腰まで伸びている。貴族のお姫様のような華奢な肢体でありながら、豊かな胸とふくよかなお尻、くびれた腰、すらりと曲線が美しい脚、それらをすべて際立たせる白く火照った肌。
もし、彼女に欲情しない男がいたとすれば、その股間のものを切り落とせばいいと思う。多分、他の誰にも反応しないだろうから。
「私、兄さんと一緒じゃないなら、生きている意味はないの」
魔物は魔道具の照明スタンドを軽く手刀で切り、尖った棒にして、私に手渡してきた。
「もし、私と一緒に来てくれないなら、それで私を殺して。兄さん以外の人に私の身体を触れられたくないから」
尖った棒の先端を自ら乳房の上に導き、彼女は目を閉じた。すべてを受け入れ、覚悟した表情で。
私の手の中の棒は震えた。
これで、妹を刺す? これで、妹を殺す?
「そんなことできるわけがないだろうが!」
棒を投げ捨てて、妹に抱き着いた。
「俺が、妹を、フローラを、愛するフローラを殺せるわけがないだろうが! 俺は、フローラを妹としてじゃなく、一人の女性として、愛してる!」
私はフローラを抱きしめたまま泣きじゃくった。
「うれしい、兄さん。私も愛してる♥」
フローラも泣いていた。
柔らかい女体を抱きしめて、吸い付くような肌と、そこから立ち上る甘く痺れる匂いに身体が興奮していた。
「兄さん……」
フローラが申し訳なさそうに私を呼んだ。それはそうだろう。アレが当たっている。
「すまん」
私は謝って、身体を離そうとした。しかし、それに反して、フローラが身体を押し当てて、私をベッドに押し倒した。
「フ、フローラ?」
「私、もう、我慢できないの。兄さんのチンポが欲しくて、しょうがないの。ねえ、入れていいでしょう? 兄さんに私の処女をあげるから、兄さんの童貞を私にちょうだい♥」
私の身体にまたがるように膝立ちになったフローラは、愛液で濡れて糸を引く股間を自分の指で広げて、興奮して充血している淫靡な粘膜を見せつけてきた。
「フ、フローラ!」
「大丈夫♥ 初めては痛いというけど、それは女だけだから、兄さんはきっと、気持ちいいはず。私、処女なのに、どうすれば気持ちよくなってくれるか、すごくわかるの」
フローラが私のズボンに手をかけて脱がした。
私は何とかフローラの下から這い出ようとしたが、フローラとは思えない力で押さえつけられた。
「落ち着くんだ、フローラ」
「落ち着いてるわ。大丈夫。失敗なんてしないから。きっと、気持ちいいわ。ああ、想像するだけで、いっちゃう♥」
十年近く一緒にいるのに今まで見たことのない蕩けた表情を見せて、股間をますます濡らしている。そこから漂う香りだけで、私は頭がくらくらするほど興奮していた。
「兄さんも、準備万端じゃない」
私は顔をそむけた。節操のない股間のものはフローラの痴態に反応して、期待に満ちて硬くなっていた。いや、頭の半分以上もフローラを犯すことしか考えられないでいた。
「兄さんのチンポ。夢にまで見た、兄さんのチンポ。ずっと、ずっと、これが欲しかったの♥」
フローラは目の瞳孔をハートにして、口は半開きにして、呼吸荒くして、私のものの上に腰を落としていく。
「ひやうぅっ!」
「フ、フローラ!」
粘膜同士が触れた瞬間に、フローラが身体をのけぞらせて、私のお腹のあたりにおしっこよりも透明な液体を噴出した。
「この、チンポ、しゅごいぃ……触れただけで、いっちゃうぅ……こんなの、入れたら、きっと、おかしくなりゅう♥」
フローラはさっきよりも理性が抜け落ちたメスの顔で少しろれつの回らない口調でよだれを垂らしていた。
「そ、そう思うなら、止めよう」
「あははは、ここまでして、止められるわけないじゃない。男なら、わかるでしょう? 兄さん♥」
私の提案はフローラに一笑されて却下され、フローラの腰が落とされた。
私のものが熱い柔らかなものに包まれていくのを感じた。
「ひぃ、はぁぁあああぁ! はぁあんっ♥ ああぁ……いいぃいぃいいいぃ!」
何度も締め付けながら、絡みつきながら、うごめく中を包まれて、我慢できずに吐き出した。
「あはぁっ! 兄さんのチンポ汁ぅ♥ そんなの、発射されたらぁ、またイッちゃうぅ!」
フローラは髪を振り乱して、身体をのけぞらせて、いやらしく身もだえている。
その動き一つ一つが興奮させる。声が聞こえればさらに興奮し、息を吸えば匂いで興奮し、汗の一滴でも口に入れば、その味に興奮する。そして、フローラと触れるすべての場所が気持ちいい。特に、彼女の大事なところに入っている部分が。
やがて、何か先端に引っ掛かりを感じる。
「あはぁ……兄さんのチンポが、私の処女膜に引っかかっちゃったぁ♥」
腰をくねらせて妖しく笑うフローラが私を見下ろしている。
「兄さんのチンポが入ってくるのに邪魔する処女膜なんて、いらないのぉ!」
そんなことを言いながら、自分で一気に腰を下ろした。何か抵抗を感じて突き抜ける感触がして、股間のものを締め上げられた。
見上げると、私の上でフローラが痙攣しながら、小水を噴出していた。
「あはあはぁはぁ……痛いけど、それ以上にぃ……嬉しくて、気持ちよくて、おしっこもらしちゃったぁ♥」
フローラは私の上で快感に身もだえながら、尻を振り、腰をくねらせ、膣を締め上げ、愛液を垂らして、何度も何度も私に射精をねだった。
「わたしぃ、わたしにしか、できないことみつけたのぉ。それは、にいさんを、気持ちよくすることぉなのぉ♥ わたし、にぃさんのぉ、肉壺でいいからぁ♥ わたしを使って、きもちよくなってぇ♥」
私は一生懸命に腰を振るフローラの腕をつかんで、自分の方へと引き寄せた。
「フローラ!」
「ふえぇ? にいさん?」
突然のことで驚いているフローラを抱きしめて、キスした。
「に、兄さん♥」
キスよりもエッチなことをしているのに、フローラは私からの軽いキスに生娘のように顔を真っ赤にして驚いていた。
「愛してる、フローラ」
私は改めて、そういった。今更だろうが、言わないといけない気がした。
「わ、私も愛してるぅ」
フローラは最初にあった時のように泣きながら抱き着いてきた。私はその頭を優しくなでながら、私のものを締め上げる彼女の中に何度目かの射精をした。
「素晴らしい!」
しわがれた老人の声がして、拍手する音が聞こえた。
その声と音で、私は蕩けた時間から現実に戻った。
フローラから自分のものを抜いて、彼女と位置を入れ替えるようにしてベッドの前で彼女をかばうように立った。運動が得意でない私にしては上出来な動きだろう。
ズボンが脱げて下半身丸出しの間抜けな恰好だが、今はそんなことよりも、侵入者から妹を守ることが重要だ。
侵入者は見るからに性悪そうな顔をした初老の男だった。
「そんなに警戒しないでください。怪しいものではないです。私はここの屋敷の主の、ルドーというものです」
彼の自己紹介を聞いて、私は万事休すと思った。なんとしても、フローラだけでも逃がさないと。
「旦那様。それを言って警戒を解くものがいたら、よほどの馬鹿でしょう」
呆れた口調で若い男がさらに現れた。
「ええと、アーノルド君。抵抗しなければ、君の妹の安全は保障しよう」
若い男が続けた言葉に私はピクリと反応した。
「本当か?」
「嘘は言わないよ。でも、信じた方が賢明なのは理解してくれるとありがたい」
私は彼の言いようで信じることにして、構えを解いた。
「では、一つお願いがある。ズボンを穿いてくれないか? 下半身丸出しでは、どうも真面目な話はしにくい」
彼に言われて、私は顔を赤くしながらずり落ちたズボンをあげた。後ろでフローラが「あっ」と残念そうな声を出しているのが聞こえたが、聞こえなかったことにする。
「じゃあ、あっちのソファーで話をしようか」
応接用のソファーを勧められた。
フローラは裸なので席を外していてもらおうかと思ったが、いつの間にか服を着ていた。ただ、大事なところを最小限に隠している下着のような姿だが。
フローラは私の腕に腕を絡めて、嬉しそうに寄り添って、私と一緒にソファーに座った。
若い男――ハンスと名乗った――は、その様子に大きなため息をついた。
「君がうらやましいよ。僕は妹に選ばれなかったのに」
深く大きくため息をついているのが、彼の本音をこぼしているように感じて、私は苦笑を浮かべてしまった。
「ハンス殿。今はそれよりも、このお二人に説明をしなくては」
初老の男性――ルドー会長がハンスの袖を引いた。たしか、ハンスというのはルドー商会のやり手の番頭と同じ名前だ。それにしては、主従が反対のように見える。
「そうですね。まずは、お仕事を片付けましょう」
ハンスは姿勢を正した。
「まず、このルドー商会は、魔物の活動拠点です」
「は?」
最初から大魔法をくらわされて、目を見開いてしまった。
「まあ、信用できませんよね? ――すいません。お願いします」
ハンスが苦笑いを浮かべながら、いつの間にかに部屋に入ってきていて、何も言わずにお茶を用意していたメイドさんに何か頼んだ。
すると、そのメイドはふっと姿が揺らいで、角と翼、尻尾を生やした姿になった。フローラと同じ魔物の姿に。
「魔物になってすぐに旦那ゲットなんて、フローラちゃん、いいわねー」
メイドだった魔物は、なんとはなしにスケベそうにかわいらしく文句を言った。
「とっちゃ、ダメですからね!」
私の腕にしがみついて、フローラがメイドさんを威嚇した。
「はいはい。そんなに見せつけられたら、誰も取りませんよー」
メイドさんは肩をすくめて、魔物の姿のまま、お茶の用意を続けた。
「――というわけで、信用してくれると思います」
ハンスの言葉に私は頷くしかなかった。
「私は見ての通り、性悪そうな顔つきをしているだろう? 自分で言うのもなんだが、商売はやり手な方で、競り負けた相手が私のありもしない悪評を流すので、すっかり悪役になってしまっていてね」
ルドー会長が少し懐かしそうに語りだした。
「そんな商売仲間や世間に嫌気がさしていたところ、取引のため街道を移動している途中で魔物に襲われて、愛に目覚めたんだ。そして、この素晴らしさを広めなければと使命を感じたのだよ」
熱く語り始める会長に私は生返事しか返せなかった。
「会長の要望を受けて魔王軍から私が紹介されて、拠点作りをしたわけです」
「拠点と言っても、魔物に人間の男性を紹介したり、魔物に会いに行く男性をサポートしたり、迫害されていたり、困窮している女性や家族を魔界や親魔物国へ亡命させたりぐらいだがね」
会長は何か謙遜するように照れ笑いを浮かべていた。
「亡命……もしかして、庶民の娘を妾にして捨てているというのは……」
私は彼らの話で話が繋がった気がした。
「ああ、そんなふうに世間では噂されているようだね。まあ、仕方ないね。実際にいなくなってしまうから。でも、そんな噂があるのに金のために妾に差し出すような保護者なら、遠慮なしに攫って亡命させれるから、こちらとしてはちょうどいい判断材料になっているんだよ」
会長は顔に似合ったどす黒い笑みを浮かべた。
「それなら、そう言ってくれればいいのに」
フローラが隣で頬を膨らませていた。
「ああ、すまない。すぐに説明するつもりだったのだけど、突然、リリム様がおいでになられてしまってね」
会長は申し訳なさそうにフローラに頭を下げた。
「リリム様?」
「リリムというのは、魔王様の娘、魔物の王女というべきかな? そういう種族というか、称号ですよ。今、来られている方は、真名を旦那になる人にしか教えたくないという方なので名前は知りませんが」
ハンスの説明に私は背筋が寒くなった。魔王の娘なんて、超大物がこの国にいるなんて、もう、この国は滅んだも同じだ。
昔、最大の軍事力を誇った教団最大の戦力を担った国が一夜にして魔物に滅ぼされたという話をライオネスから聞いたことがあった。その時に現れたのが、魔王の娘だと言っていた。今もその国のあった場所は深い魔界に沈んでいるという。
「そんなに怯えなくてもいいですよ」
私が震えているのを見て、ハンスが苦笑した。いくら侮ってくれてもいい。怖いものは怖いのだ。
「リリム様は去年の戦争の時に、この国の第二王子のライオネス王子が気に入ったらしくてね。どうも彼に娶ってほしいらしく、私らにその協力を頼みにおいでなだけだからね」
ライオネス王子は教団に勇者の祝福をしてもらった公認勇者だったはずだ。金髪碧眼の色男で、誰もが思い描く王子様がそのままなので、女性を中心にすごい人気のある王子だ。
「さすがに小国とはいえ、王族でしかも勇者を堕とすとなると、大事になってしまう。うまく事を運ぶには、それなりの段取りも必要だから私たちが協力することになったんだよ。だから、この国を攻め滅ぼそうとかいう気はないみたいだよ」
ただ、友人のライオネスの手柄を横取りするなど、あまり私は好感はもてない人物だが。
「まあ、正直、顔はいいけど人間性はアレだと私も思うよ。でも、魔物の好みは人間にはわからないからね。顔なのか、性格なのか、アソコなのか……」
ハンスは何かまたため息をついていた。「私も彼よりはハンサムだったと思うんだけど」などと俯いてぶつぶつと呟いていた。
「ハンス殿。それはまた、別の機会に。――それで、そちらのフローラ嬢も迫害されている話を聞いていたので、魔界への亡命を勧めるつもりでいたのですが、どういうわけか、魔物化しているようで……」
「えー? 違いますって、誰もまだ手を出してないから!」
会長がメイドの方に視線をやると、メイドが音が鳴りそうな勢いで首を振った。
「となると、屋敷の魔物の魔力の濃度が濃くなったせいか、フローラ嬢の魔力感受性が高いせいか……」
ハンスが首を捻っていた。しかし、私にとって原因なんてどうでもいい。
「フローラは、どうなるんですか? 人間に戻れるんですか?」
身を乗り出して二人に問い詰めた。
「いいえ。一度魔物になると、人間には戻ることは不可能です」
会長が静かに首を横に振った。
「そんな!」
私は思わず大きな声を上げた。
「私は全然、構わないよ。兄さんと一緒に愛し合えるなら、魔物になっても全然、平気。それに、この体の方が、兄さんをいっぱい気持ちよくしてあげられそうだもの」
フローラは私に甘えるように抱き着いてきた。柔らかい全身が押し当てられ、それだけで私の股間が反応しそうになる。
「本当に、どうにかならないのですか?」
なんとか私は理性を総動員させて、会長とハンスに食い下がった。
「そうですね。魔物になっても、人化の魔法を使えば、この国のような反魔物国家でも生活はできます。ですが、正直なところ、あまりお勧めしません。人化の魔法が解けることもありますから、少なからず危険もあります。お勧めとしては魔界への移住ですね」
ハンスの説明に私は苦い顔になった。
「魔界にと言っても、私はしがない代書屋の見習いです。魔界で暮らすなんて……」
私の唯一の特技である読み書きは、言葉が変われば役立たずだ。
「ああ、それなら心配いりません。魔界は、働かずに二人が愛し合うだけで生活できますから」
ハンスの説明に私は顔をしかめた。逆にフローラは顔を輝かせた。
「すごい! そんな夢の国があるの?」
「フローラ。駄目だよ。そんなうまい話には裏があるんだ」
フローラが腰を浮かせるのを腰を抱いて、自分の方に引き寄せた。
「信じられないのも無理もないんですけどね。魔界にはマナ・ケージというものがありましてね。愛し合う二人がセックスすると、マナが増えてあふれ出るんです。そのあふれたマナをマナ・ケージが吸収して濃縮するんです。その濃縮されたマナを売れば生活費が稼げるんです。おかげで、魔物の仕事は旦那とセックスすることと言われています」
私にはますます眉唾に思えた。しかし、隣から袖を控えめに引っ張られた。
「兄さん。兄さんは私と一緒に、魔界に行くの、いや?」
口に軽く握った手を当てて、上目遣いに私を見上げてくる妹がいた。
私の家に引き取られてすぐのころ、おどおどしながらも私にお願いする時の妹の必殺技だ。ああ、これをされるのは、何年ぶりだろう? 聞き分けのいい妹だから、すぐにこの必殺技は自分で封印して、このかわいい姿を見ることができずにいた。
「それをされて、断れるわけないだろ」
私は妹を抱きしめた。
「兄さん!」
妹も私を抱きしめ返してきて、私はまた気持ちが昂るのを感じた。
「あー……それじゃあ、魔界に移住ということで、準備を進めておきますね」
ハンスの乾いた声が聞こえて、私は少しだけ現実に戻った。
「そうだ! ライオネスという新人の用心棒が私の友人で、私がフローラを探すために他の用心棒たちを足止めしてくれているんです。助けてやってください」
フローラを愛しあうことに一生懸命すぎて、ライオネスのことをすっかり忘れていたことを思い出した。
「ふむ……それはおそらく、新人の一人がスパイを紛れ込ませようとして、それが見つかって戦闘になっていると報告が来ていた件だな」
「おそらくは。でも、その報告があってから随分と時間が経っているが……」
……すまない。ライオネス。お前の分まで私は幸せになるよ。
窓の外の空にライオネスのジャガイモ顔を思い浮かべた。
しかし、会長が私の想像を首を振って否定した。
「うちの用心棒たちの武器は魔界銀製だから、死んではいないはずだよ。安心しなさい。すぐに開放するように言っておこう」
「ありがとうございます。あ、それと、先ほど、この屋敷に訪問された深緑色の絹のドレスを着た貴族の御婦人がいらっしゃったと思うのですが、その方にも、協力いただいておりまして……」
私がもう一つ思い出して口にすると、二人の目がまん丸に見開かれた。
「……わかりました。その方には事情を説明しておきます」
「……ええ、ご心配いりません。その方は誰よりも、魔物に理解のある方ですから」
二人は何か遠い目をしながらそう言って、部屋を後にしていった。
一体、なんなのだろう?
「兄さん……」
私が物思いにふけっていると、腕を引っ張られた。
「どうかし――うわぁ!」
私はまた、フローラに押し倒された。今度はソファーの上に。
「兄さん、しよ?」
私の馬乗りになって、フローラがその黒い瞳を妖しく輝かせ、物欲しそうに人差し指をくわえつつ、上気した頬で、短く私に言った。
「フ、フローラ。落ち着きなさい。するなら、ベッドへ――」
「そんな、遠くまで、がまんできなーい」
私とフローラの愛の営みはソファーの上で再開された。
抱き合い、愛し合うとフローラの気持ちが伝わってくる。きっと、フローラにも私の気持ちが伝わっているだろう。
私はもう二度とフローラを離したりしない。
昨日と同じ明日が来なくても、フローラがいれば、それが幸せなのだ。
愚かな私はそのことにやっと気が付いた。
「愛してるよ、フローラ」
「私もよ、兄さん」
「まったく、しつけえな!」
俺は階段の上に陣取って、階段を上ってきた用心棒を槍で突き落とした。
もう、これで十人近く階下に落としている。
正直、俺は弱くはないが、とびっきり強くもない。多数を相手に何とかできているのは、階上の有利な場所を取っているからできる芸当だ。
損害無視で俺を仕留めるつもりなら、弓矢の一斉射で終わりだ。だが、それをすれば、俺の背後の壁にある高そうな名画はハリネズミになってしまう。新人一人を仕留めるのにそんなことはできないだろう。
今のところは、壁に立派な絵がある階段に陣取ることで、弓矢や投げナイフの攻撃を封じることができている。
当然、馬鹿正直に階段を登らずに、他の階段から登ってきた奴らもいたが、隠れるところのない長い直線の廊下では、こちらから動きが丸見えだ。
この屋敷でちょろまかした爆発魔法を仕込んだ魔道具で、廊下から来た奴らは二回ほど吹き飛ばした。
実はその魔道具は二個しかちょろまかせなかったので弾切れなのだが、ブラフ用に石に塗料を塗って、それっぽく作っておいたニセ魔道具がある。それを見せておいたので、廊下から攻めるのを用心棒たちはためらってくれている。
でも、そろそろ、階段での損害が大きくなりすぎて、多少の損害を出しても、廊下から攻めて、数で押しつぶすことを考えるだろう。
「新人一人に何をてこずってやがる!」
用心棒の隊長が苛立たし気に怒鳴っている。それで、何人かが階下のホールから移動を始めた。
左右の廊下の先で気配を感じる。
「新人にしては頑張ったが、それもここまでだ」
隊長が勝ち誇った顔をしている。
この隊長は腕っぷしはいいが、指揮するのは向いていない馬鹿だと思っていたが、本当にバカだったようだ。
俺は廊下から攻めてくる気配を気づいているが、それでも敵に何かあると教えてどうする?
ともあれ、俺はこれを待っていた。
俺は持っていた槍を隊長に向かって投げつけて、剣を抜いて階段を駆け下りた。そして、左手にありったけに持ったニセ爆発魔道具を空中に放り投げた。
「うっ、うわぁ!」
魔道具を避けようと階下の用心棒たちが右往左往する。その隙をついて包囲を崩して駆け抜けた。
「よし、あとは適当に撒いてアーノルドたちと合流――」
そう思って廊下を駆けようとした瞬間、前から飛んできた投げナイフを寸でのところで避けて廊下を転がった。
「あれを避けるとは、なかなかの手練れですね」
廊下の先から身なりのいい商人が初老の男を連れ立って姿を現した。
「番頭のハンス! それに会長のルドー!」
姿を現した二人に思わず舌打ちした。この二人は俺の勘が、まともに敵対してはいけないと言っている。俺にそう思わせるのは、あの聖戦で出会った魔物の指揮官以来だ。
「今日は大事なお客様がおいでになっているというのに。こんな騒ぎをすぐに収められないとなると、私の顔が潰れてしまいますよ」
「すいやせん! 今すぐ始末しますんで」
ルドーに叱責されて隊長が平伏しそうになっている。馬鹿だが、野生の勘はあるようだ。
廊下に転がっている俺を剣を手にした用心棒たちが囲む。
一か八か、タイミングを合わせて、仕留めに来る瞬間に一人に体当たりして、包囲を突破しよう。
俺は心を静かにその時を待った。
「へへ、やっと大人しくなりやがった。そのまま、死んでけ!」
一人が無駄口叩いて、突きつけていた剣を振り上げてくれた。
俺はその隙を逃さずに、その馬鹿に体当たりして押し倒すと、包囲を抜けて走り出した。
「っ! 待て! この野郎!」
まっすぐ走りたいが、時折、横にステップを踏んでジグザグに走る。こうしないと、ハンスに投げナイフを背後から投げられておしまいになってしまう。
何としても逃げきって、アーノルドとフローラちゃんを救出するんだ。それが俺が今日までこの国に残っていた使命なのだろう。
俺は、この不可能にも思えることを出来ると信じた。まずは信じなければ、何も叶わない。
しかし、次の瞬間、自分が進む廊下の先の闇の中に、とてつもない力を持つ存在がいるのを感じて、足が止まった。いや、止められた。
「な、なんだ……」
感じる重圧とは場違いな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
この香りは知っている。聖戦の時に嗅いだ、戦場の匂いだ。それも、とびっきり濃厚な、あの指揮官が漂わせていた匂いだ。
俺の足が石化の呪縛を受けたように固まって動かない。同時に股間のものも勝手に石化するように硬くなっていた。
「も、申し訳ありません、リリム様!」
「御身がおいでのところ、このように騒がせてしまい、不徳の致すところでございます」
ハンスとルドーが飛んできて、俺のすぐ後ろで跪いて首を垂れていた。
この二人がこの態度を示す大物に俺の背中に甘い稲妻が走る。
闇の中からハイヒールの踵が床を突く音を響かせ、深緑色のドレスに身を包んだ美女が姿を現した。
腰まで届く白髪、燃えるような赤い瞳、ふくよかな胸とくびれた腰をした絶世の美女。
「お前は……」
「お久しぶりですね。一年ぶりかしら?」
美女がスカートをつまみ上げて、貴婦人の礼をした。
「そうだな。あの戦場で別れて以来だな」
置き去りにされた敗残兵をまとめて撤退している時に会った、魔物の指揮官だった。
今は魔法か何かで人の姿をしているが、その美貌は忘れられないし、間違えることもできない。
「戻ってくるとおっしゃったのに、一向に戻ってこられないのだもの。心配しましたわ」
眉を下げ、口を結んで不満顔をしていても、美貌を損なうどころか、彼女の不満を命を懸けても取り除きたいと願ってしまう。こういうのを傾国の美女というのだろう。
もっとも、こんな傾国の美女は俺には無縁だが。
「それは、すまなかった。思い残すことはあるが、二度も見逃してくれというのは、さすがに虫が良すぎるだろうしな。こうなっては仕方ない。約束通り、煮るなり焼くなり、好きにしてくれ」
俺は剣を捨てて、その場に座り込んだ。心の中で、アーノルドとフローラちゃんに謝りながら。
一年前の聖戦で撤退する時、俺は敗残兵を集め、魔物のはびこる戦場を抜けて、あと少しで教団が作った魔物を退けるという魔法の防衛ラインというところまでたどり着いた。しかし、そこで彼女の指揮する魔物の軍勢に捕捉され包囲された。
それまで遭遇した強いが、自由気ままな統率のない部隊ではなく、規律と統率のある精鋭部隊だった。そんな部隊による包囲を突破するのは、装備も訓練も士気も低い寄せ集めでは不可能だった。
そこで俺は軍使として敵陣に赴き、自分の首で残りの者たちを見逃してくれるように交渉に行った。一兵卒の俺の首がそんな価値はないかもしれないが、やれるだけはやるつもりだった。
「魔界に行きたいという人を無理やり連れ帰っているのではないのなら、見逃してあげますよ」
指揮官と名乗った彼女は、なんとも簡単に包囲を解いてくれた。罠を仕掛ける意味がないのに、罠かと疑いたくなるぐらい、あっさりと。
とはいえ、彼女にも立場があるだろう。俺はそのまま、彼女のところに残って、首を差し出すつもりだった。だが、彼女は、敗残兵たちは俺が指揮しないと目と鼻の先の防衛ラインにもたどり着けないだろうと、彼女に言われて、自陣に戻された。
「でも、彼らを国に返したら、あなただけは戻っていらしてね」
自陣に戻るときに彼女にそう言われた。
「わかった。少し、時間がかかるかもしれないが、必ず戻ると約束する」
約束をして、俺は敗残兵と共に防衛ラインにたどり着いた。
両親と親友のアーノルド兄妹と別れを済ませたら、約束通り、首を差し出しにすぐに魔界に行くつもりだった。
だが、俺の手柄を横取りした王族が、俺が不穏なことを企てないかと見張られて動きが取れずにいた。
「しかし、まさか迎えに来られるとはな」
俺は思わず苦笑した。
「もしかして、迷惑でした?」
彼女は不安そうに俺に聞いて来た。生殺与奪は彼女の手にあるというのに、そんな不安そうな顔をされると、抱きしめたくなってしまう。これだから、美女は困る。
「いや。戻ると約束して一年もほったらかしにしていた俺が悪い。ただ、あなたのところに行く前に童貞ぐらいは捨てたかったなと思ってな」
彼女のところに行くまでに、だれか物好きな魔物を見つけて、童貞ぐらいは捨てれるかもと、一縷の望みをかけていたが、世の中そううまくはいかないようだ。
とはいえ、魔物たちが美女ぞろいとはいえ、彼女と比べてしまって俺の方が食指が動かなくなっていたかもしれないが。絶世の美女とは童貞の性欲すらも凌駕する魅力があるようだ。
「ええっ! まさか、誰か、想う人がいらっしゃるの?」
驚きの声を上げる彼女に俺は少しムッとした。
「こんな顔だが、想う人がいたらおかしいか?」
「そんなお顔だからです!」
俺以上に彼女の方が語気を荒げたので驚いて、目を見開いた。
「あなた様のように、男らしくごつごつとした顔立ち。奥まったつぶらな瞳。情に厚そうな分厚い唇。男らしさがあふれ出たニキビ面。男性の力が強くて頭頂部が薄くなった頭髪。服を着ていても香る胸毛。がっしりと丈夫な身体。太く逞しい手足。武骨な指。そして、何よりも、女を求めてやまない性欲があふれる、ア・ソ・コ。こんな素敵なオスに想われて、堕ちないメスなんていません」
うっとりしながら彼女は俺のことを言っているが、これは褒められているのか、貶されているのかどっちだ?
「ああ、やっぱり、あの時、格好つけて、人間界に返したのが間違いだったわ。絶望的な窮地から知略を駆使して残された人たちを救った英雄として男を上げてもらいたかったの! そんなことをしちゃったから、ライオネス様の素晴らしさに気が付く女性が出てしまったのもしょうがないわ。この国でのライオネス様人気はそこのハンスから聞いてます」
人違いなんじゃないかと俺は後ろにいたハンスの方を振り返った。ハンスは何か、青い顔で出してはいけない汗を出していた。
……ああ、王子のライオネスと勘違いして報告しちゃってたのか。まあ、普通、お慕いしているライオネスと言われたら、王子だわな。
「私のライオネス様が素晴らしいのを知ってもらうのは嬉しいけど、まさかそれで、私のライオネス様でなくなるなんて、本末転倒もよいところよ。私のバカ! ああ、でも、いいの。私は二号でも。V3でも。アマゾンでも。ライオネス様の女になれるのなら、何だっていいの」
俺らのことは放置され、傾国の美女の独り舞台が続いていた。
「ライオネス様! 一生のお願い! 私を、ライオネス様のお嫁さんにして」
両手を組み合わせて、懇願のポーズで俺の前に跪き、目を潤ませ、頬を紅潮させた美女がそこにいた。しかも、俺、求婚されている?
常日頃から色々な場面を想定して鍛えていたが、この場面の想定はなかった。だから、思わず問うてしまった。
「……マジ?」
「マジもマジです! 本気と書いてマジと読むマジです! あなたのことが、ライオネス様が好きなのです。愛しているのです。あなたが私の愛を疑うなら、あなたを想う気持ちだけで、オマンコから愛液を溢れさせ、ここを湖にして証明いたします!」
美女がスカートをたくし上げて、白い脚を見せつける。
「いや、それは止めて」
俺は色っぽい脚を見たい欲望よりも本能的な危機感で彼女を止めた。
「どうしてですの! 私がライオネス様を好きになってはいけないのですの? そんなの、無理です。不可能です。主神がお母様に勝つぐらい不可能です!」
美女が子供のように泣きじゃくって、イヤイヤをしている。美人の上にかわいいだと? なんだ、この反則じみた存在は。
「いや、そうじゃなくて、湖にするのは止めてって」
泣き顔は見ていたい気もするが、水分の出所が違うだけで、結果が同じになりそうな予感がして、泣き止むように訂正した。
「じゃあ、私はどうやって、愛を証明したらいいのですか? 身体を火照らせて、周囲をマグマの海に変えればいいのですか? それとも、高鳴る胸の鼓動で全てを粉々に粉砕すればいいのでしょうか? 溢れる妄想で異界を作って、ライオネス様の造形であふれたライオネスワールドを作ればよいのでしょうか?」
「いや、信じるから! あなたが俺を好きなのを信じるから!」
半分ぐらい何を言っているかわからなかったが、色々と規格が違いすぎて、世界が危ない気がする。特に最後のは、俺も正気を保てる自信がない。
「じゃ、じゃあ……」
美女が生娘のように顔を赤らめて、もじもじとしながら上目遣いで俺を見てきた。
「ライオネス様は、わ、私のこと……好き?」
かわいいな、こんちくしょう!
俺は返事の代わりに、抱きしめてキスをした。
彼女の顔が真っ赤になり、赤い瞳が蕩けて、彼女の小さい唇が俺の分厚い唇を求め続け、舌と唾液を絡まり合わせた。
いつまでも続けられるキスだったが、大事なことを訊くのを忘れていたことに気が付いて唇を離した。
少し不満顔をする彼女に俺は尋ねた。
「そういえば、あなたの名前、聞いてなかった」
彼女は俺の質問ににっこり微笑んだ。
「私の名前は――です」
彼女の真名を聞いたが、それは俺以外に知られたくない。
俺が彼女を愛する時だけ、彼女の名を呼びたいから、名前は伏せさせてもらう。
こうして、俺は生まれて初めて、そして、最高の女性と結ばれた。
どんなブ男でもモテ期は来るというのは本当だったようだ。
小国ながらも、教団の影響の強いザイステン王国がある日突然、魔界に沈んだ。
それはかつて、レスカティエ教国が一夜にして滅んだがごとくだった。
親魔物国家経由の情報では、王国の第二王子ライオネス王子が魔物に寝がえり、魔王の娘リリムを娶った結果だという。
教団はこの事実を重く受け止め、ライオネス王子の勇者称号をはく奪し、主神の敵である魔人として討伐対象とした。
ただ、ザイステン王国があった教団教区内の国々では、魔物討伐軍に一番協力的だったザイステン王国が魔物によって滅ぼされた事実を危惧した。周辺の国々は、教団に積極的協力をすれば、次は自分の国の番かもしれないと、教団と一定距離を取るようになった。
こうして、その教区は弱体化し、積極的魔物討伐を推進していた派閥が主流だった教区だったが、魔物へ戦争を仕掛けることはできなくなった。
そして、ザイステン魔界は今日も平和に、人と魔物の愛の営みを続けるのであった。
そして、それが平和。それが幸せだと信じていた。
日中はまだ暖かいが、陽が沈むとめっきりと冷え込んできた。
私は人目を忍んで、駅馬車の厩舎の横にある飼葉を貯め込むための質素な小屋を訪れていた。
薄暗い小屋では、私の友人のライオネスがすっかり旅支度を整えて待っていた。
ライオネスは背は低いが、がっちりとした体格で、昔から力自慢の男だった。荷運びの仕事をして、さらに鍛えられて、今では荷運びの他にも用心棒っぽいこともしていた。
機転も利くし、男気もあるいい男だが、顔は友人の贔屓目を付加しても、愛嬌のあるジャガイモか、知的な岩石という感じなので、女性にモテたという話は聞いたことがない。女性にフラれるたびに、私によく愚痴っていた。
「ライオネス、考え直す気はないのか?」
私は彼の出立を思いとどまらせようとしていた。確かに、生活は苦しいかもしれないが、生きていけないわけではない。
「約束だからな。そういうわけにはいかない。それに、この国はもうダメだ」
何度となく口にした私の言葉への答えは今回も同じだった。
最初からライオネスの意志が固いことはわかっていた。幼い頃から一緒だった友人の性格からして、途中で考えを改めることなどしないことは分かっていた。
私が生まれ育ったザイステン王国は、小さな街が三つと、その周辺の村が十数個ほどしかない。王国と名乗っているが、とても狭い小さい国だ。しかも、これといって特筆する産業も産物も無かった。だから決して豊かではない。
そんな小さな貧乏国、ザイステン王国は昔から教団の力が強い国だった。
教団の加護のおかげで、弱小国でも周辺国に侵略も併合も属国化もされず生きながらえてこれたからだ。
教団は加護を与える代わりに、数年に一度の割合で、魔物と戦う聖戦のために出兵するようにと要求してきた。
そのたびに王様は国の若い男たちを教団に差し出した。
ライオネスも一年前の出兵に駆り出された一人だった。
そこでライオネスは、この国のカラクリを知ったのだという。
出兵すれば、王国は教団から多額の支度金をもらえる。このお金で王様や貴族たちはぜいたくな暮らしをしているのだ。
この国の税金は確かに高い。だが、貧乏人たちをいくら絞っても、乾いた雑巾から水は滴らない。王様や貴族たちがどうやって、不釣り合いな豪華な王宮や屋敷を建てられたのか? その理由が教団からの支度金だった。
支度金は本来、聖戦に参加する兵士の装備を整えたり、訓練をするための費用らしいのだが、王様たちはそんなことには使われない。教団もそれを見て見ぬふりをしている。
兵士たちは、布の服のまま、尖った石を木の棒の先に括り付けた槍を渡され、戦場へと送り込まれる。
訓練は行われず、戦場では貴族の上官が鞭を振り回し、その上官の従者たちが兵士たちを木の棒で追い立てるのだという。
ライオネスは「牧羊の羊の方がまだマシな扱いをされている」と聖戦を振り返っていた。
聖戦が終わって国に帰ってこれるのは、いつもだいたい出兵した半分ほどだった。
そんなやり方で半分も無事に帰れていたことに驚く。これこそが教団の奇跡と言っていい。
「それに魔物って、教団が言っているようなものじゃない」
ライオネスが聖戦で知ったことを教えてくれた。
魔物たちは、その誰もが驚くほど美女ぞろいで、一人として人並みの容姿のものはいないらしい。しかも、その容姿で兵士たちを誘惑してくるのだという。
私は、そうやって誘惑して連れ帰って、食い殺すのではないかと心配した。
「実はそうかもしれない。でも、それでもいいと思えるぐらい、いい女ばかりなんだ。それに、実力差がありすぎるから、そんな面倒なことをするとも思えない」
ライオネスが言うには、戦場で貴族の上官と従者たちに追い立てられていたライオネスたちを何度も助けてくれたらしい。
鞭を切り裂き、木の棒を手でへし折り、蹴散らかしてくれたり、鞭打たれて怪我していた兵士に治癒魔法をかけてくれたりしたようだ。そんな魔物の魔物らしからぬ優しさに絆されて、魔物の軍に投降する兵士が大勢いたらしい。
実際のところ、行軍中の事故や貴族の癇癪で殺された以外は、戦場で死んだ兵士はいないということだった。魔物の攻撃は気絶するだけで、相手を殺さない武器だそうだ。
「俺も残るつもりだったんだがな。帰ってきたのは、しょうがなくなんだよ」
ライオネスも一時は魔物の軍に投降しようと思ったが、国に家族を残して帰りたがっていた者たちもいたので、教団軍本隊から置き去りにされた彼らを率いて戻ってきた。
そして、その武勲と名誉は、彼と同名の第二王子であるライオネス王子が全て横取りした。それについては、ライオネスは構わないと言っていた。
ただ、そうして英雄となり、勇者となって、その名を使って、この国を国民たちが幸せになれる国にするのであれば、と思っての「構わない」だった。
しかし、一年経っても何も変わらない。それどころか、いつもの聖戦よりも多く帰還できたと、また魔物討伐戦争を計画しているという。
「もう、この国の未来はない」
それがライオネスの結論だった。
度重なる徴兵は若い働き手を奪う。働き手を失った家は、生活の苦しさから畑や家を売り、緩やかに貧民への坂を転げ落ちていく。まだ大丈夫と思っていたら、もうどうにもならないところにいることをある日気が付く。
そして、貧民に落ちた者たちに手を差し伸べるのが教団なのだ。
その日の糧を無料で配り、地べたにひれ伏して貧民たちは教団の人たちに感謝していた。そうなった原因を作ったのが教団だと理解もできず。
そして、教団の聖戦に夫を、子供を、父を、兄を差し出す。
教団の運営する孤児院は聖戦の戦士を育てる場所になり、そこでは女も兵士として戦場に送られる。
その一方で王侯貴族は、立派な王宮や屋敷を建てて、美味しい食事を食べて、綺麗な服を着て、豪華な調度品に囲まれて暮らしている。
支度金をもらってもなお、より贅沢な暮らしをするために税金は高いまま、民衆に還元されることはない。
それでも、私たち民衆は不満の声を上げることはなかった。
それが当たり前と思っていたし、生活は苦しいけど、ちょっとの我慢で乗り越えることができたから。
苦しくても何とかなっている今を潰して、どうなるかわからない新しいものに賭けようなどいう勇気は無かった。
それが王様たちの狙いで、私たちは王様たちにとって、都合のいい家畜のようなものだろう。
だから、ライオネスはこの国に見切りをつけた。
ライオネスは、ジャガイモのような容姿で粗野に見えるし、わざとそう振舞っているが、本当は知的な男なのだ。私も彼に何度も勉強を教えてもらった。
「それよりも、お前の方こそ、一緒に来ないか、アーノルド?」
ライオネスが私を誘ったのは、何度目だろう? 多分、私がライオネスを思いとどまらせようとした回数以上だろう。
「すまないが、私は行くことはできないよ」
私は寂しく微笑んでいつもと同じように誘いを断った。
「フローラちゃんか……」
「ああ。あいつを一人残して行くことはできないよ」
私には年の離れた妹がいる。正確に言うと、従姉妹になるが、妹は小さいときに両親を流行り病で喪って、私の親に引き取られて一緒に育ってきた。
「じゃあ、一緒に連れてくればいいじゃないか」
ライオネスのあっさりとした反論に私は怒りを覚えた。
「バカなことを言うな! 男はいいかもしれないが、女はどんな目に合わされるか、わからないんだ。そんなところに連れていけるわけがないだろ」
「ああ、確かに、女はどうなるか知らない。でも、俺はここにいるよりもいい気がするんだ」
ライオネスは私の怒りにバツ悪そうにした。
魔物たちは愛情にあふれ、エロく優しかったらしいが、それは男に対してだけかもしれない。魔物たちは例外なく女性の姿をしていたそうだ。
魔物たちが女にはどういう態度をするかは、ライオネスも見ていないので、わからないと言っていた。
最悪を考えると、男を奪う邪魔になると女は殺すかもしれない。
かわいい妹をそんな危険に晒すなんて考えるだけで死にそうだ。
「だいたい、旅させること自体が無茶だよ」
私は怒りを少し抑えて首を振った。
妹は身体が弱い。妹の両親が流行り病にかかった時、妹も同じ病を患った。そのせいで、一見、健康そうだが、体力が極端に低いのだ。少し無理をすると、すぐに熱を出して寝込んでしまう。
まともに仕事もできない妹のことを、私の両親は厄介者扱いしているが、私にとってはかわいい妹であり、愛すべき家族だ。
「お前がその気なら、俺が背負っていってもいいぞ」
ライオネスなら人を一人背負って旅するのも可能かもしれない。
「馬鹿を言うな。かわいい妹をお前に触れさせるぐらいなら、私が背負っていくよ」
身内の贔屓目を差し引いても、私の妹は可愛い。美人で近所の男衆の憧れの存在になっている。それらの獣の群れから妹を守るのは大変なことなのだ。だから、シスコンなどでは断じてない。
「相変わらずだな。だが、残念だ。フローラちゃんのオッパイの感触を背中で味わえるチャンスだったのに」
ライオネスがおどけて言った。それが冗談だとわかっているが、怒りの視線を向けてしまっていた。
「悪かった」
ライオネスは私が妹がらみの冗談を受け入れないことをわかっていて、冗談を言ったことに謝ってくれた。私も自分の狭量に反省して頭を軽く下げた。
「でも、本当に残念だ。お前が一緒に行けないことがな」
ライオネスは私に向かって手を差し出した。私は仕方なく、それを握った。
「私も残念だ。お前とこうして馬鹿話をするのは、私の楽しみだったからな。じゃあ、元気でな。ライオネス」
「お前こそ、ちゃんと食って体鍛えておけよ、アーノルド」
ライオネスに比べれば、私は貧弱かもしれない。はっきり言えば、一般男性に比べても、少し力は弱いかもしれない。なので、鍛えたところでたかが知れている。
「そのうちにな」
私の返事に友人は苦笑して、旅の道具が詰まった袋を手にして、隠れ家にしていた厩舎の飼葉置き場の小屋を後にした。私も友人との別れをかみしめながら家に戻ることにした。
私の父親は染色の雇われ職人だ。親方になる技術はあるが、お金が無い。自分の工房を構えられなければ、いくら腕がよくても親方にはなれないのがギルドの決まりなのだ。
私自身は代筆屋で見習いとして働いている。
代筆屋というのは、商店や役所で文字の書けない人のために代筆などをする仕事だ。
私は、小さい時に読み書きなどを習っていたライオネスが、私にも習ったことを教えてくれたおかげで、読み書きができる。そのおかげでこの職に就くことができた。
代筆の仕事は多いのだが、代筆ギルドで値段を決められているので、あまり儲けにはならない。特に私のような見習いとなると、親方のピンはねが大きいから尚更だ。
代筆よりも本の筆写の方がお金になる。
だが、それは見習いがするのは違法なので、危ない橋を渡ることになる。だが、見習いの大半が金に困って筆写に手を出し、捕まっては罰金を支払わせられていた。
いくらお金になっても、一度捕まれば儲けは無くなる。罰金を払えなければ、指をどれか一本、切り落とされる刑を受ける。おかげで、左手の小指がなければ代筆屋という冗談があるぐらいだ。
そんな代筆屋の一番の栄達は、教団書記になることだ。
教団書記になれば、かなりの収入があるし、地位も低くない。
だが、その椅子は少ない。はっきり言えば、コネがなければ、なれるものでもない。皆が指を落とされても本の筆写するのは、そのコネを掴むためのお金を稼ごうとしてのことというのもある。
この小さな貧乏国で豊かな生活をしようとすると、危ない橋を渡らなくてはいけない。
「私は今の暮らしで十分だよ」
おなかは空くが、飢え死にするわけじゃない。欲しいものがあるが、無ければ死ぬわけじゃない。
自分の我慢でどうにかなるのなら、我慢さえすれば、全てが問題なくなる。どうして、それができないのだろう? 私はいつもそう思う。
ライオネスに言わせれば、それがこの国を終焉に向かわせていると言っていた。
だが、一介の代書屋見習いに何ができるというのだろう?
私は彼のようにすべてを捨てて旅立てるほど身軽でもなく、頭もよくないし、勇気もない。
ただ、昨日と同じ明日がくるのは幸せなことだと思う。
昨日、我慢できたことなら、明日だって我慢できる。ただ、それだけで私は幸せに生きていける。
所々がひび割れたレンガを積み上げて固めた壁に、木の屋根板の上に石を乗せて押さえてあるだけのあばら家が続く中、その一軒の扉を開けた。
「ただいま」
家の中は、暖炉の火と油皿の火がほんのりと部屋を照らしていた。そんな中、物陰で横になっていびきをかいて寝ている父と、薄明りの中でせっせと糸をつむいでいる母がいた。
「おかえり。ずいぶんと遅かったじゃない?」
母が糸を紡ぎながら私に言った。
「ああ、ちょっと仕事が立て込んでね」
私はあいまいに答えながら暖炉の上に置いてある鍋の中を覗き込んだ。
国を勝手に出て行くことは犯罪で、それに協力するのも罪になる。ライオネスが街を出るのを通報しなかっただけでも、おそらく罰せられる。
「いい人でもできたのだと思ったのだけど。そろそろ、お前も結婚して所帯を持つにはちょうどいい歳だよ」
母はそれから、働き者で評判の近所の娘たちの名前を挙げていった。母のいい女の基準は、働き者ということだ。
私は母の話に生返事しながら、鍋の中にあった豆と塩漬け肉のスープを椀によそい、固くなったパンをナイフで切り落として、スープに浸して食べた。不味くはないが美味しくもない。だが、空腹を満たしてはくれる。それで十分だ。
「いくら別嬪でも、水汲みも満足にできない嫁なんて、何の役にも立ちはしないからね」
私はその言葉が妹に向けられていることに気付いてむっとしたが、言い返すことはしなかった。そうしても、結局は私がいない間、妹が母に嫌味や嫌がらせを受けるだけだからだ。
私が夕食を食べ終わると、母は糸をつむぐのを止めた。
「食べたら、早く寝なさい。明かりを灯しているだけもったいないんだから」
母はそういうと、父が寝ている藁にリネンのシーツをかけたベッドに入っていった。
私は明かり皿を金具で挟むと、暖炉のある部屋の奥にある扉を開けた。
ひんやりとした夜の空気が部屋から感じた。この部屋は元々は納屋として使われていたので暖房がないのはしょうがない。むしろ、ここを部屋と使っている方が間違っている。
「兄さん?」
私の持ち込んだ明かりに気付いて妹が目を覚ました。獣脂の燃える焦げ臭い匂いのする明かりの中、妹は天使のようだった。
まるで、妹自体が光を放っているかのように真っ白い肌がまぶしい。
すっきりとした面立ちの中で、大きく黒い瞳が黒曜石のようにきらめいている。青黒い艶のある髪の毛は肩のあたりで切りそろえられていた。去年までは腰のあたりまで伸びていたが、母が妹の髪を切って、カツラ屋に売ってしまった。
ベッドから身を起こしている体のラインはすっかりと女性らしく、そして、小枝のように華奢だった。まるで、どこかの国のお姫様のような、妹はそんな雰囲気があった。
「どうしたの、兄さん?」
妹が心配そうに私を見つめた。私は見とれていたということをごまかしつつ、妹のベッドの横に置いてある椅子に座った。
「具合はどうだ? 顔色は、少しは良くなったようだが」
妹はここ数日、体調を崩していた。
母が妹に無理に水汲みをさせて、転んで桶の水をかぶったのが原因だ。
母の気持ちもわからなくはないが、これだけ長く家族でいるのだから、そろそろ妹のことを理解してほしいものだ。
「ええ、もう、すっかり良くなったわ」
明るく笑って、元気だというアピールをして見せたが、すぐに暗い顔になった。
「でも、水汲みも満足にできないなんて、私って、本当に役立たずだわ」
しょんぼりと落ち込んだ妹の頭を、私は優しくなでてあげた。
「フローラにはフローラにしかできないことがきっとある。水汲みができないなら、私が代りにするよ。だから、そんなに落ち込まないでくれ」
「兄さん……」
妹は大きな黒い瞳を潤ませた。
私がいない間に母に色々と言われているのだろう。無茶をさせないで寝かせていてくれるのは優しさではない。これ以上悪くなって薬代などがかかると嫌だからだ。
「今日はフローラにお土産があるんだ」
私は懐から布の包みを取り出した。その包みをほどくと、黄金色の半透明をした指先ぐらいの塊がいくつか入っていた。
「これ……」
妹が驚いて目を見張っていた。それはそうだろう。中に入っていたのは、砂糖を煮詰めて作った飴である。貴族が食べる高級嗜好品だ。
「こんなもの、どうしたの?」
妹は私の身を案じてくれた。
確かに、代筆屋見習いが買えるようなものではない。何か悪いことをしているのではないかと心配するのも無理はない。
「何の心配もいらないよ。これは、ここ最近、私のいる代筆屋のお客さんがくれたものだ。見てごらん。形があまりよくないだろう? お客さんが使用人に作らせたもののなかで、できの悪いものを私たちにくれたんだ」
飴は親方や他の同僚たちにも配られていた。
全員が驚き、早速、口に放り込む奴もいたり、拝んだりするやつもいた。
それも無理はない。飴は、庶民にとっては数年に一度、小さなかけらを食べれれば幸運というほどの貴重品だ。
「それなら、兄さんが食べないと」
「私は職場でたくさんいただいたから、これはフローラが食べてくれ。ああ、これは父さんたちには内緒でね」
私は片目をつぶって笑った。
母に見つかれば換金すると騒ぎ出すかもしれない。そんなことをしてお客さんの耳にそのことが入れば、せっかく割のいい仕事を回してもらっているのが打ち切られることになりかねない。
それに、妹への仕打ちを考えると、この飴を両親にも分けようという気も起きなかった。
「ありがとう。兄さん」
妹はその中で一番小さいひとかけらを口に含んだ。そして、幸せそうに顔をほころばせた。
「とっても甘い。こんなに甘いものが世の中にあったなんて。それに、とっても、おいしい」
妹は恍惚とした表情を浮かべた。その艶めかしい表情に私は汚れた感情が沸き上がりそうになったが、すぐにその感情を振り払った。
それにしても、飴でこれほど喜ぶなら、少し無理してでも、買ってあげれないだろうかと少し思案した。
妹は一粒を食べ終わると、少し名残惜しそうにして大事に残りの飴を包みなおした。それから、ベッドの隙間にそれを隠した。
「見つからないようにね」
「うふふ。まかせて。私、隠すのは得意なの」
妹は少女のように微笑んだ。昔、ライオネスたちと無邪気に遊んだ頃の笑顔を久々に見た気がする。そういえば、最近はこんな風に笑うことはなかったと、今更ながらに思った。
「ああ、そうだったね」
私は愛おしそうに妹の頭をもう一度、撫でてあげた。
ライオネスが街を出て行ってから、一週間ほどが経った。
一度だけ、ライオネスの両親が私のところに行方を知らないかを聞きに来た。知らないと答えると、肩を落として、あっさりと帰っていった。
ライオネスは聖戦に徴兵されて、無事に帰還したから、両親たちもこの失踪も覚悟していたのだろう。
聖戦に参加した兵士は、無事に戻ってきても、数年のうちに失踪することがよくあった。
皆は魔に魅入られたのだろうと言っていたが、ライオネスの話を聞いて、それがある意味、正しかったようだ。
ただ、この国が小さな貧乏国なのに王侯貴族が贅沢三昧できるのは、教団の聖戦に兵士を多く出しているからである。なので、その商品である兵士候補が逃げ出すのは嬉しくない。
そのため、国外逃亡は厳罰にして、連座制にしている。
多分、ライオネスの失踪の罪で、次の出征ではライオネスの父親が徴兵されるだろう。
「おい。レディ様がお前をお呼びだ。早く行け」
私がそんなことを考えながら、仕事をしていると、親方が呼びに来た。
私は代筆をしている途中だが、ペンを置いて急いで応接室に急いだ。
応接室には、深緑の絹のドレスに身を包んだ美しい女性がいた。
絹のドレスなど、この国の貴族でも一着持っているかどうかの高級品である。それをこんな街歩きに使うのだから、何者かと噂になっている。
もっとも、彼女の身に着けているものが高級品であることよりも、その妖艶な美しさの方が話題になっているが。
ウェーブした白銀の髪が腰のあたりまで伸び、大きく膨らんだボリュウムたっぷりの胸と、それを強調するかのようなくびれたウェスト。
血色のいい肌艶で、ふっくらと肉付きのいい卵形の顎のラインに、男の欲情を煽るような濡れた赤い唇がほほ笑みを浮かべている。
顔を隠すためにつけているマスク越しに、紅い瞳は、まるで火山の火口を覗き込んでいるようで不安になりつつも、一度目を合わすと目が離せなくなる。
同僚たちの中には、彼女と目を合わすだけで、仕事机から立てなくなってしまう奴もいた。その気持ちは分からなくもない。私も気を抜けばそうなりそうになる。
「元気にしてた、アーノルド?」
彼女は貴族にしては随分と砕けたものの言い方をするが、私にとってはありがたい。
「はい、レディ。おかげさまで」
彼女は自分の名前を決して教えてくれなかった。自分のことは「レディ」と呼ぶようにと言っていた。しかも、呼ぶときは「様」をつけさせてくれない。
名前を教えない代わりに、ギルドの設定している代金の二倍払うということで、親方は納得した。
値段はギルドで決まっているが、客が納得して支払っているなら、それ以上の報酬をもらっても問題はない。
そんなおいしい仕事がかなりの量、彼女は頼みにやってくる。そのおかげで、店は最近、羽振りが良くなった。
ただ、親方としては、レディが見習いの私を贔屓にしているのが気に入らないようだ。だが、そんな不満はお金の前では飲み込まれる。
あと、彼女の持ってくる仕事は少しばかり奇妙だった。
彼女の依頼で一番多いのは、結婚式の招待状なのだが、それ自体は貴族と繋がりのある店なら、時々ある仕事で奇妙ではない。ただ、その文面が少しばかり――いや、かなり淫らなのだ。
先日、納品したものだと――
『私の蜜壺にぴったりの肉棒をやっと見つけることができました。私の子袋は彼の肉棒が放つ子宝汁の匂いに染まって、その喜びに歓喜の蜜を垂らして喜んでいます。
たくましくも荒々しく、彼に私の身も心もすべてを求められてしまいました。私は喜んですべてを差し出し、彼もまた、彼のすべてを私に下さるとおっしゃってくださいました。
私を抱きしめてくれる腕も、勃起した乳首を舐めてくれる舌も、あふれ出る蜜をすする唇も、何よりも、私の一番奥深くの大切でもっとも淫らな場所を、たっぷりと穢して汚して犯してくれる肉如意棒と肉宝珠も、私に下さると仰ってくださいました。
つきましては、私の旦那様を皆様方に披露して思いっきり自慢したく思います。
ぜひ、夫婦同伴でお披露目会においでくださいませ』
ほぼ全て、こんな調子である。
ただ、この招待状が彼女のものではないことはわかっている。なぜなら、招待主の名前が毎回違うのだ。
偽名を使っているにしても、こんなたびたび結婚式の招待状を作ることは考えにくい。例え、彼女が結婚詐欺師でももう少し間隔は空くだろうし、同じ店に注文するのもリスクが高い。
だから、彼女はこの淫らな招待状を仲介している人なのだろう。
こちらも仕事なので、いくら文面が淫らでも断りはしない。料金も上乗せされているなら、なおさらだ。
問題があるとすれば、教団はこういった風紀を乱すようなことにはうるさい。
教団の教えは、慎ましく穏やかに生きることこそ人の道と説いているからだ。それ自体には私も同感である。
そういう教義なので、こんなハレンチな招待状を見つかれば、異端審問会に呼び出されてもおかしくない。当然、それを代筆した私たちもお咎めはあるだろう。
だが、多分、それほど罪は重くはないだろう。貴族からの仕事を断ることは平民には難しいし、ギルドから手を回して情状酌量してくれるだろう。
そのためにギルドに少なくない上納金を納めなければいけないだろうが、それは親方の考えることで、見習いの私が考えることではない。
話はそれたが、彼女の依頼は普通の依頼とは毛色が違っている。
中でも、一番奇妙なのは、私個人を指名しての手紙の代筆だ。
結婚式の招待状は数も多いので、他の同僚たちも仕事を割り振られる。
だが、ある手紙の代筆だけは私以外にはさせない。
しかも、この手紙というのが、文面はこちらに任されて、誰かに恋い焦がれる想いを書いてほしいという注文なのだ。
この注文はレディが最初に店に来たとき、私以外の、親方や他の同僚たちにも出された。
そして、その中でレディのお眼鏡にかなったのは、私の書いたものだけだったらしい。
相手の姿や人となりがわからないのでは書きようがないと、親方がレディに言ったところ、「今まであったことのある一番美しい人」という返事が返ってきたそうだ。
それで私は妹を想像して手紙を書いた。
私の中で一番美しいと思える女性と言えば妹だ。それはレディと会った後も変わりない。
とはいえ、家族相手にラブレターなんて書けるはずがないと思っていた。
だが、ペンを取れば、びっくりするほどスムーズに書けた。今まで、彼女を家族と自分自身を言い聞かせていた枷が、架空と思うことでなくなって、素直に文字に、文章にすることができたようだ。
レディは、定期的に私にこのラブレターを書くように仕事を依頼してきた。
レディからの条件は、「難しい言葉はできる限り使わないこと」と「教養を必要とする詩の引用をしないこと」二つだけだった。
それ以外は私の思うように書いていいとのことだった。
ちなみに、その手紙には、通常の代金と比べられない金額が支払われているようだ。親方は教えてくれないが、私がそれの仕事をすることを最優先させているから間違いないだろう。
「この間、あなたに書いてもらった手紙、とってもよかったわ」
彼女はうっとりとした表情で、軽く身を震わせていた。その恍惚とした表情を見て、私の股間が反応しそうになり、慌てて視線を逸らした。
彼女はごく当然のように私の隣に座ってくる。あまりに自然な動きなので、私は反応することもできず、彼女に腕をからまされてしまった。
柔らかい胸の感触が私の二の腕に感じた。わざと腕に胸を押し当てているのは、童貞の私でもわかる。
「こ、困ります、レディ。私は、しがない代筆屋の見習いです。からかいにならないでくださいませ」
自分でも今の顔が真っ赤なのがわかる。
彼女から漂う甘い香りが頭をしびれさせる。きっと、毒が入っているのだろう。そういえば、神殿の神官様が、男を誘惑する女は甘い香りで男を骨抜きにする毒を盛るのだと言っていた。多分、その毒を盛られたんだ。
「お願いでございます。私には、私には守ってやらなくてはいけない家族がいるのです」
私は必死に哀願した。泣きそうだと思っていたが、実際に泣いていた。
「ふふ、かわいい人。心配しないで。私は悪戯が好きなだけよ」
彼女は私の元気になった股間の上に、シルクのリボンをかけた布の包みを置いた。
「この間の飴がやっと完成したの。あなたのおかげよ。だから、お礼に完成品をあなたにあげようと思ったの」
彼女は私の耳元に口を寄せた。吐息が耳と首筋にかかる。股間が痛いぐらいに勃起している。いつ射精してもおかしくない。今なら、顔面凶器のライオネスと見つめあいながら股間を撫でても射精してしまうだろう。
「これは完成品ですごく高価になったから、全員には配れないわ。あなただけ特別よ。みんなにばれないように持って帰ってから楽しんで」
私は首を縦に振った。もう、何が何かわからないぐらい激しくうなずいた。
「いい子ね」
頬に触れるか触れないギリギリのところで、「チュッ」と唇を鳴らした。
その音だけで、私は果てそうになった。
もし、果てていれば、私は神殿に籠って、神様に許しを請わなければいけなかっただろう。
レディは私をからかって満足したのか、また割のいい仕事を親方に依頼して、店を後にしていった。
私は、彼女にもらった飴の包みを、他の人にばれないように仕事の道具を入れる袋の中に押し込んで隠した。
確かに、彼女のおかげで、私の給料はよくなった。だが、私は彼女が苦手である。
同僚たちは、あれほどの美女に懇意にしてもらえることを羨ましがっていたが、できることなら代わってほしい。
淫乱に男を惑わすような女性は好ましくない。女性は清楚で貞淑であるべきだ。妹のように。
「ああ、そうだ。これは妹にあげよう」
妹はここ数日、体調が悪いと言って、私との会話もほとんどしてくれなかった。
前に飴をあげたあとは、血色もよくなって、元気になっていたから、この飴をあげれば、また元気になってくれるだろう。
そう思うと、家路につく足も早まった。
家に帰ると、父が上機嫌でワインを飲んでいた。
テーブルの上に並んでいる食事は、いつもよりもかなり豪勢だった。そして、珍しく、妹がテーブルについていた。
いつもは妹は部屋で食事をとらされている。
病弱な人間は病気を呼び込むから、一緒に食事をすると健康な人も病気になるという言い伝えで、妹はよほど元気な時しか同じテーブルで食事させてもらえなかった。
しかも、母が妹に優しくしている。椅子に座ったままの妹に母が食事や飲み物を勧めている。そんな光景を初めて見た私は、目をこすって二度見したほどだ。
「おかえり。待っていたんだけど、我慢できずにはじめたよ」
私の帰宅に気付いた母が上機嫌で手招きしている。
「ついに俺にも運が向いてきた。神のおぼしめしに感謝だ」
父が赤ら顔を上機嫌にして下品に笑っていた。
「おかえりなさい、兄さん」
妹だけがいつもと変わら様子でほほ笑んでいた。
「ただいま」
私は訳も分からぬまま、とにかくテーブルについた。
「それにしてもどうしたんだ? こんな贅沢したら、週末までの食費どころか、借金しなくちゃいけなくなるだろう?」
テーブルに乗っているものを改めて見て驚いた。これだけで一週間どころか、二週間分の食費は使っている。
我が家にも税金を払うために蓄えている分はあるが、それに手を付ければ、今年の税金を払えなくなってしまう。
「金はある。これぐらいの飯なんて屁でもない」
酔っぱらった父が私に言った。酔っていなければ、実直で仕事熱心な父だが、酒が入ると気が大きくなる悪い癖がある。そのせいで何度も失敗しているというのに。
「今日は父さんの言うことは本当よ。お金ができたの」
いつもは父の暴走を止める母が、上機嫌で妹の後ろに回り込んで肩を抱いた。
その動きに私は嫌な予感がした。
「フローラを妾にしたいって、ルドー商会の旦那様が言ってきてくれたのよ。その支度金だって、こんなにくれたのよ」
皮袋に詰まった銀貨をテーブルの上に広げた。ざっと見て、私と父が二人で半年働いて稼ぐのと同じぐらいの銀貨が積み上げられた。
「しかも、三日後にフローラを迎えに来るとき、この二十倍のお金を出すと言ってくれた。ははは、まったく、親孝行な娘だ。これまで育てた甲斐があった」
「まったくよね。神様が私たちの優しさにご褒美をくれたんだわ」
「それだけあれば、工房を開けるな。ははは、俺もやっと親方だ」
「まあ! それなら、あたしは女将さんだね。もう、内職なんてしなくていいのね」
「おうよ! 俺の腕なら注文殺到間違いなしだ。今の工房なんて、俺でもってるようなものだからな」
「さすが、父さんだわ」
両親が身勝手な未来予想図を描いているのを聞いて、私は拳を握りしめた。
私を育ててくれた両親だが、こんなに下衆な人間だったことを、今まで私は知らなかった。
確かに、今までも妹を厄介者にしていた。それでも妹が病気になった時は蓄えを切り崩して薬を買っていた。服だってちゃんと買って、みすぼらしい恰好はさせていない。食事も別々のテーブルだが、私たちと同じものを食べさせてくれていた。
口では何かと言いながらも、妹を大事な家族と思ってくれていたのだと思っていた。
「兄さん。いいの。私は、みんなの役に立てることがあって、それがうれしいの。だから、いいの」
痛いほど握りしめたこぶしを振り上げようとした私を妹が止めた。
すべてを悟り、全てをあきらめた。そんな妹の目が私は恨めしかった。
ここで、妹が抗ってくれたのなら、私は両親を叩きのめして、妹を連れてどこかへ逃げることだってできただろうに。
だが、私以外、誰も今を受け入れていた。父も母も妹も、心の中で何かを思っても、それを我慢することにしていた。そして、私が我慢すれば、今は幸せに変わる。
私は浮かしかけた腰を椅子に落とした。
「ありがとう。兄さん」
妹の言葉に私は泣きながら豪華な夕食を食べた。
夕食が終わり、両親は妹に暖炉のある部屋で寝るように勧めたが、妹はそれを断り、いつもの寒い部屋に戻った。私もその後を追った。
「いいのか?」
私は我慢できずに訊いた。その問いかけが残酷なものだということも気づきもせずに。
「兄さんが言ってたでしょ? 私にしかできないことがあるって。これがそうなのよ。きっと――」
「違う! 俺はそんなつもりで言ったんじゃない」
私は怒鳴った。久々に怒鳴った気がする。いつ以来だろう?
「ふふ、兄さんの俺。久しぶりに聞いた。兄さんが今の仕事を始める少し前だっけ? 遊んでいた私が怪我をして、おぶって帰ってきてくれたライオネスさんを怒鳴った時以来ね」
妹は懐かしむように、そして、楽しそうに思い出を脳裏にめぐらせていた。
そういえば、そういうこともあった。妹が怪我をしたのをライオネスが助けて、家まで背負ってきてくれたのだ。
ライオネスも妹を助け上げる時に怪我をしていたのに。それを私は誤解して、ライオネスを怒鳴って、殴ったんだった。後で誤解とわかって、平謝りしたんだが。
「兄さん、落ち着いているように見えて、結構、おっちょこちょいなのよね。ふふ、そんな兄さんを知っているのは、妹の特権よね」
くすくすと笑う妹に、私はバツの悪い顔しかできなかった。
「フローラにはかなわないよ」
「私のために怒ってくれてありがとう。兄さん。でも、もう、私、決めたの」
妹の目を見て、私は何も言えなくなった。
病弱で何もできない妹ではなく、強い一人の女性としての目をしていた。
私が一番、妹を侮っていたのかもしれない。妹も自分で人生を歩む年になったのだ。たとえ、それが悪徳商人の妾であっても。
「すまない」
私はそれだけしか言えなかった。
私にお金があれば、力があれば、妹につらい決断をさせることはなかった。
私には、何もない。それはそうだ。私は今まで何も欲しなかった、お金も力も。ただ、妹の幸せだけを欲していた。それには、お金も力も必要だというのに。
ふと、私は昼間にもらった飴のことを思い出した。仕事道具を入れた袋を開き、飴の入った包みを取り出した。
「前にお前にあげた飴の完成品らしい。これからは、これぐらいのものは好きに食べれるようになるかもしれないが……」
妹の手にその包みを乗せた。細くて華奢な指をしている。この指がルドー商会のヒヒ爺のものを握ることになるのかと思うと、怒りを通り越して絶望が広がる。
「ううん。そんなことはないわ。これは兄さんがくれたもの。たとえ、どんな高級なお菓子でも、これに勝るものはないわ」
妹が大事そうに包みを抱きしめた。そして、ベッドに隠していた以前に渡した飴の包み紙を取り出して、私にそれを渡してきた。
中身はなくなった包みに文字が書いてあった。
『親愛なるアーノルド兄様 あたなの妹になれたコウ運を神に感シャいたましす。私はそのコウ運のオン返しができることがうれしいです。私は、シワアセですた。ありがとうございました。そして、さようなら。 あなたの妹 フローラ』
少したどたどしく、かなり綴りが怪しいところはあったが、私が教えた文字を練習していたとわかった。
そして、妹の言葉を受け取り、私はそれを抱きしめて、恥も外聞もなく泣いた。妹が、いつもと逆に私の頭を優しくなでてくれた。
その夜から二日後の朝、妹は支度金で買った綺麗なドレスを着て、ルドー商会からの迎えの馬車に乗って、街の中心へと消えていった。
私はいつまでも、馬車の消えた方を見つめ続けていた。
ルドー商会はこの国きっての豪商である。
どういう商人かと言うと、いい噂は耳にしないが、悪い噂は耳にする。そういう商人だ。
だが、金持ちであることは疑いようがない。ルドー商会に借金をしている貴族は大勢いるというレベルではない。名のある貴族は全員がしているという。もちろん、その中に王様も含まれている。
ルドー商会は数年前までは、そこそこ大きな商いをするが、裏を返せばその程度の毛織物の商人だった。
ところが、ハンスという男が番頭になった途端、上質な毛織物や珍しい品々を扱うようになって、急に羽振りがよくなった。
そして、それで稼いだお金で金貸しを始めた。これは豪商と言われる人間の定番コースらしい。
そして、あれよあれよという間に色々な特権を得て、財を蓄え、今ではこの国一番の金持ちとなった。今では外国とも商売をするほどらしい。
あくどい商人でも、妹はその庇護に入った。そのお金の力はきっと妹を守ってくれる。
妹を見送った後、私は家にいるのが辛くなり、街に出て昼間から酒場で飲んでいた。「ルドー商会の会長がまた妾を囲ったらしいな」
どれだけ飲んでも酔えそうになかったところへ、隣のテーブルからそんな話が聞こえてきた。
「ああ、そうらしいな。なんでも、庶民の娘らしいぞ」
もう噂になっているのかと驚いたが、妹のことを少しでも知ろうと聞き耳を立てた。
「庶民の娘か。可哀そうにな」
「まあ、親は多分、何年も遊べる金をもらっただろうから、孝行娘さ」
「そうかもしれないがなー。あそこの会長の妾なんて、正直、おもちゃだぞ。庶民の娘なんて、人間扱いするか?」
「あー、まあ、よくて人形扱いかな? 噂だと、やばい薬で狂わされるんだとよ」
「狂うって?」
「お前、そんなの決まってるじゃないか。淫乱になる媚薬で清楚な聖女もあばずれにするんだよ。チンコのことしか頭にない淫乱によ」
噂話をしていた男たちがドッと笑って盛り上がっていた。
「今の話は本当か?」
私はそのテーブルで話していた男たちに思わず問いただした。
男たちは怪訝に思ったみたいだが、私の迫力に圧されてか、噂話だが、信憑性があることを教えてくれた。
妹の前に囲われた娘たちは薬漬けにされて、妾になって数か月後には、どこか遠い外国に捨てられるのだという。
私は家に帰ると、妹が心変わりしたら、いつでも一緒に逃げれるようにと準備していた旅の用意を背負って、ルドー商会に向かった。
私はバカだった。
何も知らずに、何も調べずに、妹を魔窟に送り込んだ。
何が守るべき家族だ。何が可愛い妹の幸せだ。私は彼女のために何もしていないじゃないか。
ルドー商会の屋敷は、この街の中心にある貴族の館が集まっている区画にある。
高い塀と大勢の用心棒に守られていて、人並み以下の腕っぷししかない私が侵入できるはずもない。こういう時に、ライオネスの「鍛えておけ」という言葉が身に染みた。
「穴を掘って……そんな道具も時間もない。ロープを塀にかけて……登れるかもしれないけど、登っている間に見つかるだろうな。木に登って……そもそも、周りに木がないじゃないか」
私はがっくりとうなだれた。これほど無力な自分を思い知らされるとは情けなくて死にそうだ。
「何をなさっていらっしゃるの?」
背中から私は突然、声をかけられた。驚いて振り返ると、そこにはマスクをして、扇で顔を隠しながらほほ笑んでいる深緑色のドレスを着た美しい女性がいた。
「レディ!」
私は思わず大声を出した。例の謎の依頼人、レディだった。
「お店に行っても、ここ数日、休んでばかりで、つまらなかったわ。こんなところで油を売っていたなんて」
レディは拗ねたような視線を私に向けてきた。
「申し訳ありません」
妹との最後の三日だったので、親方に無理を言って仕事を休ませてもらっていた。
「それで、アーノルドはこのお屋敷に何か用事がおありなの?」
「え?」
レディはにこやかに私の目的を見抜いた。そんなにも、私の行動は怪しかったのだろうか?
「とりあえず、ここは目立ちますから、私の馬車にいらしゃい」
手招きされて付いていくと、四頭立ての立派な馬車が止まっていた。王様の使う馬車よりも豪華かもしれない。
いつも店に来るのは一頭立ての簡素なものだが、あれはお忍び用なのだろう。もっとも、それでも私が雇われている程度の店では馬車で乗り付けられること自体が目立つのだが。
馬車に乗るのは初めてで、これがどのレベルかははっきり言えないが、職人の勘で最高ランクだと感じた。
見たこともない美しいビロードが張られた座席に、自分の汚れたズボンで座っていいものかどうか迷った。
「座席は座るためのものよ。汚れたら、買い替えればいいだけだから、気にすることはないわ」
世界が違い過ぎて頭が変になりそうだった。私は覚悟を決めて座った。お尻に柔らかい弾力を感じて、何か落ち着かない気分だ。
「それじゃあ、お話。聞かせてもらって、よろしいかしら?」
レディが興味深げに私にここにいる理由を尋ねてきた。私は恥も外聞もなく、これまでのことをレディに包み隠さずに話した。
「あなたは妹さんがお好きなのね。素晴らしいわ。近親相姦ではないですけど、その純愛は心ふるえますわ」
レディが色っぽく頬を染め、目を細めて、自分自身の身体を抱きしめて身もだえしている。
「い、いえ、そういうわけでは――」
私はレディの勘違いを解こうと口を開くと、扇の先端で鼻の頭を軽く突かれた。
「ふふふ、この期に及んで往生際が悪いわ。妹さんが好きなのは、最初から匂いで知っていたわよ」
私はレディの言葉に驚いた。匂いで感情を読み解ける人がいることをはじめて知った。
「でも、何故だか、あなたからはとてもいい匂いがして、ついつい、悪戯したくなっちゃったの。ごめんなさいね」
レディは悪びれずに謝り、微笑んだ。その微笑みが妖しく、私の背筋に甘い電流が走りそうになる。
しかし、私はすべきことがある。こんなことをしている間に妹が危ない目に合っている。そう思うと、レディの誘惑もすぐにはねのけられた。
「レディ、申し訳ありません。そういうわけなので、私は急がないと――」
「ええ、そうね。そんなあなたを呼び止めたお詫びに、私があなたをあのお屋敷の中に入れてあげるわ」
「え? いったい?」
私が驚いているのを気にも留めず、レディは御者に何か伝えた。
すると、馬車が動き出してしまった。
私の頭の整理を終える前に馬車はすぐに止まり、はっきりとは聞こえてこないが、門番と御者が何かを話しているのが聞こえた。
やがて馬車はまた走り出した。
「外を覗いてみて」
馬車の窓からおそるおそる外を見ると、そこはルドー商会の屋敷の敷地内だった。
「ふふふ。ここの会長たちとはお友達なの」
驚いている自分を見て、悪戯が成功したような子供っぽい笑みを浮かべているレディがいた。
「馬車は正面玄関につけたあと、馬車置き場に回されるわ。そこで馬車をこっそり降りれば、誰にも見つからずに屋敷に潜り込めるわ。あとは自分で頑張ってね」
私は椅子から飛び降り、床に頭を擦り付けてレディにお礼を言った。
「これからの方が大変なんだから。お礼は結構よ」
レディは私を立たせて、優しく言った。
「レディに差し上げられるようなものは何も持っていないですが、もし、妹を救い出せたなら、この身体だろうが、命だろうが、レディに差し上げます」
「それは、うれしいお言葉ね。でも、あなたのすべては妹さんに差し上げるべきよ。だから、遠慮しておくわ」
レディが微笑みを浮かべると、馬車は正面入り口に着いたらしく再び止まった。
私は急いで座席の陰に身を隠すと、御者によって扉が開かれた。レディは何事も無かったかのように平然と馬車を降りていった。
ちらりと外を覗くと、慌てて迎えに出てきたルドー商会の会長らしき初老の男にエスコートされ、レディは館の中に消えて行った。
しばらくしてから再び馬車が動き始め、ほどなく停車した。ちょっとばかり鈍い物音がしてから馬車の扉が開いた。
「今なら、誰にも見られずに屋敷の中に入れる。急げ」
扉を開いた御者が無愛想に私に言った。御者はてっきり男性だと思っていたが、胸のあたりが膨らんでいて、よく見ると線も細い女性だった。
「ありがとう、お嬢さん」
私は彼女にお礼を言うと、荷物を持って降りようとすると、彼女にそれを取り上げられた。
いくら非力でも、私は一応、男だ。それなのに、女性の彼女はいとも簡単に私から荷物を奪われ、情けなくなってくる。
「荷物は置いていけ。ただでさえ腕力も体力も無いお前が、こんな荷物を持って侵入しても、すぐに邪魔になるだけだ」
「だけど、この荷物が無いと逃げるときに困るんだ」
彼女の言うことは正論だが、私の目的は妹と会うだけではない。その後のことも考えなければならないのだ。
「この屋敷から妹君を救出することの方が難易度が高い。ここで失敗すれば、先の逃亡などやってこない。目の前の課題の成功率を上げることだけ考えろ。それが成功の秘訣だ。それに屋敷にも入ることができなかったお前に先読みする戦略眼は無い」
私の無謀を指摘されると返す言葉も無い。私は肩を落として、彼女の言うとおり、手ぶらで馬車を降りた。
「荷物は預かっているのだから、ここに戻ってくるといい。我が主なら、屋敷を出る時にお前も連れて出てくださるだろう」
とぼとぼと歩く私の背中に、彼女は優し気な声で告げた。私は驚いて振り返ると、彼女は何も言っていないかのように無表情で御者台へと戻っていった。私は彼女に一礼して屋敷の中に侵入した。
馬車を停めておく場所から使用人用の入り口のようなものがあり、そこを通って建物の中に入った。
よく知らないが、こういう場所には見張り代わりに使用人などがいると思ったが、うまい具合に不在だった。どうやら、私はついているようだ。
屋敷の中はびっくりするぐらい豪華だった。
廊下にすら絨毯が敷いているし、誰もいない廊下なのに明かりが灯してあった。漆喰の壁が真っ白で、灯火の明かりがまぶしく感じる。貧乏な小国でもお金はあるところにはあるのだなと変に感心してしまった。
おっと。そんなことより、私は妹を探しに来たんだ。……しかし、どこにいるのだろう?
しまった。妹がどこにいるか私は知らない。
一つ一つ部屋を開けて探すか? いや、そんなことをすれば、別の人間に見つかる。
妹のいる部屋以外は下手に扉を開けるのは危険だ。妹のいる部屋でも、妹以外の誰かが一緒にいるかもしれない。
「その時は仕方ない……」
私は荷物の中に入れておいた短剣を取り出そうとしたが、荷物を持っていないことに気が付いた。
……そうだ。荷物の中に短剣を入れていたのを忘れていた。
そんな物騒なものを上手く扱う自信はないが、無いよりはマシだろう。
私は短剣を取りに馬車に戻ろうとした。その時、廊下の向こうに人影が見えた。私は慌てて柱の陰に隠れた。
「どうか、神様。人がこちらに来ないようにしてください」
私はありったけの信心で祈りを捧げた。
神殿にお祈りに行くのも欠かさなかったし、少ないながらも家計をやりくりして寄付もしている。こんなときぐらい、神様に頼って何が悪い。
しかし、私の信仰心程度では神の奇跡は起こりようがないようだ。だんだんと靴音が近づいてきた。
こうなれば、私に気づかずに行き過ぎてくれることを祈るしかない。
あと十歩ぐらい……あと数歩……私は目をつぶって息をひそめて祈った。靴音が私の前を通り過ぎた。
やった。神よ。あなたに感謝します。
だが――
「おまえ、こんなところで何やってるんだ?」
通り過ぎた靴音が止まり、声をかけられてしまった。
神は無慈悲だ。私は神への信仰を捨てることにした。どれだけ祈ろうと、救いを求めても何もしてくれない神など崇めるなんて馬鹿らしい。
私は私の力で未来を掴む。そのために、私を見つけた人間に殴りかかった。
幸い、相手は私よりも身長は低いようだ。上手くすれば、私でも倒せるかもしれない。
気合と共に私は渾身の力をこめて殴りかかった。多分、火事場の馬鹿力が発揮して、魔物でも殴り殺すことのできる威力があるはずだ。きっとそうに違いない。
「ちょ、何するんだ?」
だが、現実は無慈悲だ。
私の腕力などひ弱すぎた。渾身の拳はあっさりと受け止められ、挙句に口をふさがれて壁に押し当てられた。
「くっ! 殺せ」
私は妹を救い出せないのなら、この命は無駄だと覚悟を決めていた。というか、レディに援けてもらって屋敷の中に侵入できたが、最初の廊下で使用人に見つかって捕まえられるとは、情けなくて死にたい気分だ。
「騒ぐなよ。誰か来たら面倒だろ? まったく、少しは落ち着いて、俺をよく見ろ、アーノルド」
私を押さえ込んでいる人物を見た。
「ライオネス!」
口を押さえられていなかったら、屋敷中にこだまする声を上げていただろう。
「頼むから、静かにしてくれ」
私はやっと落ち着いて頷いた。それを見て、ライオネスが私を抑えていた手を離した。
「こんなところで何をやってるんだ?」
「それはこっちが聞きたい。おまえ、街を出たんじゃないのか?」
彼とは十日ほど前に今生の別れを済ませたはずだ。
「知ってるか? 旅をするのはお金がかかるんだ。それと、無断で街を出たら犯罪者になる」
友人は私を馬鹿だと思っているのだろうか?
「だから、ルドー商会のキャラバンに、荷運び係兼護衛として雇ってもらったんだ。こうすれば、給料をもらえるし、キャラバンで移動すれば、その間の旅費はいらない。適当なところでキャラバンとはぐれて、新天地を目指す。完璧な計画だろう?」
友人は頭がいい。少なくとも、私よりかは先を考えている。
「今度はそっちの番だぜ」
私はライオネスにいきさつを話した。
「フローラちゃんが……お前がいながら!」
ライオネスは私の胸倉を掴んだ。だが、すぐに手を離した。
「すまん。お前がいても、俺がいても、どうしようもなかった」
「妹のために怒ってくれて、ありがとう。私はこの命に代えても妹を救い出す。だから頼む。見逃してくれ」
私はライオネスに頭を下げた。ここで私を見逃せば、彼の立場が悪くなるのは分かっているが、そんな自分勝手なお願いをしてでも、私は妹を、フローラを助けたい。
「馬鹿言うなよ」
ライオネスの言葉に私は奥歯を噛んだ。
「俺にも協力させろ。お前にこういう荒事は向いてない。ここに入れただけでも驚きなぐらいだ」
愛嬌あるジャガイモ顔がニカリと笑って、愛嬌ある割れたジャガイモになると、私の腕を叩いた。
私は妹がどこにいるか知らないことを告げると、ライオネスに少し呆れた顔をされた。
「昔から、お前って、賢そうで抜けてるというか、無鉄砲というか……まあ、なんとかしよう」
ライオネスは少し考えてから、置物の小瓶を手に取り、中に花瓶の水を入れた。
私は彼が何をするつもりなのかわからないが、彼を信じてついていった。
しばらく廊下を歩くと、粗野な男たちが下品な笑い声をあげているのが聞こえてきた。どうやら、どこかの部屋に用心棒のような男たちが集まっているようだ。
「そこの廊下の柱の陰に隠れてろ」
ライオネスはそう私に指示すると、笑い声の漏れる扉をノックした。
「忙しいところ、すいやせん、兄さん方」
「おう! なんだ、新入り?」
ライオネスは扉を開けて、中の男たちに声をかけた。
もしかして、私をだまして、彼らに引き渡すつもりだろうか? いや、ライオネスを信じよう。私は彼のことをいつも疑ってばかりだ。
「新しく入った旦那様の妾がどこにいるか知りやせんか?」
「あぁん? おめー、旦那様の妾に手を出すつもりじゃねえだろうな?」
ドスの利いた声に離れている私すらも肝が冷える。
「そんな、滅相もない! 旦那様に急なお客様で、旦那様が持って行くつもりだったクスリを届けるように頼まれたんでさぁ。なんでも、その妾、身体が弱いとかなんとかで」
ライオネスが平謝りになって言い訳している。多分、このために小瓶を用意したのだろう。あの一瞬で考えたとしたら、大したものだ。
「ああ、そういうことか。確かに、かなりの美人だが、病弱とか言ってたしな」
「へ、へい。それで、知りやせんか?」
「どの部屋にいるかは知らねえが、新しい妾なら、東の棟に入るのがいつものことだから、そっちに行って聞いてみな」
「ありがとうございやす」
詳細の部屋までわからなかったが、これでかなり絞り込めた。
「しかし、身体が弱いねぇ。くくく、旦那様も言うねぇ」
部屋を後にしようとしたライオネスに、なにやら卑猥な笑い声が聞こえてきた。
「新入り。その薬、女を狂わせる薬かもしれねえから、飲ませたらすぐに退散しろよ。旦那様の妾が誘ったとしても、それに手を出したら、妾ともども消されるぜ」
「何人か、それで消えたからな」
「まあ、媚薬でおかしくなっても、ジャガイモには発情しねえだろうがな」
「そうですよねー。それじゃあ、ありがとうごぜえやす」
用心棒たちが大笑いをしていたが、ライオネスはお礼を言って扉を閉めた。
「すまない」
私のところにやってきたライオネスに謝った。
「気にするな。俺は慣れてるよ。それに、フローラちゃんのいる場所もわかったしな」
「わかったって、東の棟って言ってたが、部屋数は少ないのか?」
「いや、三十はある。だが、昨日、メイドたちが大勢で支度していた部屋は知っている。二階の手前から三つ目の部屋だ。おそらく、そこだろう」
ライオネスが言うのを私は驚きの視線を向けた。
「そういうのが目について、憶えていてしまうんだよ。まあ、性分だ」
私の友人は、私が思っている以上にすごい男なのかもしれない。
そう思っていると、背後で扉の開く音がした。
「おーい、新入り! 俺も一緒に行ってやるよ」
ライオネスが訪ねた部屋から盗賊まがいな男が出てきて、ニヤニヤしながら声をかけてきた。
「あ? なんだ、その一緒の男は?」
しかし、私の存在に気が付いて、凄みのある声を出した。
「なんだと言われても、ただの使用人ですぜ、兄貴」
ライオネスが困ったように首を傾げた。その自然な演技力に感心した。私の方は膝が震えている。
「ああ、そうか。そうだよな」
盗賊まがいの男が、ぱっと表情を気軽なものにした。私は安堵の息が漏れた。
「なあ、新入り。俺はな、この館の使用人の顔は全員憶えてるんだよ。だから、旦那様も新しい使用人を入れる時は、最初に俺に面通しさせるんだ」
盗賊まがいの男が何かを投げつけてきたのを、ライオネスが剣を抜いて甲高い音を立ててそれを弾いた。壁にナイフが刺さっている。
「走れ! ここは俺に任せろ!」
ライオネスが言う言葉に私はすぐに反応できなかった。固まっていると、彼が持っている小瓶の水をかけられた。
「助けたいんだろ! しっかりしろ!」
その水の冷たさと怒鳴り声で私はやっと走り出せた。背後では金属の打ち合う音が聞こえるが、私はとにかく走った。
東の棟へとつながる渡り廊下を見つけ、そこを駆け抜け、ライオネスに教えてもらった部屋を目指して階段を駆け上がった。
途中で何人かのメイドとすれ違ったが、特に止められることもなかったのは幸いだった。
使用人全ての顔を憶えているなんて反則は、あの盗賊まがいの男ぐらいのものなのだろう。
「手前から三つ目。ここだ」
私はやっとのことで目的の部屋にたどり着いた。立派な扉を乱暴に開けて、中に転がり込んで、すぐに扉を閉じた。
部屋の中はカーテンが閉められているせいか薄暗くて、よく見えなかった。ただ、部屋の広さはこの一部屋で我が家よりも大きいかもしれない。
足元の絨毯は毛足が長く柔らかで、うっかり足を取られそうになる。
徐々に目が暗さに慣れてきて、部屋の奥に天蓋付きの大きなベッドがあるのを見つけた。
そこから小さなうめき声が聞こえる。
「フローラ!」
私は何の確認もせずにベッドのそばへと駆け寄った。
私の本当の両親は、私が小さい時に流行り病にかかって死んでしまった。
私もその病気にかかったが、なんとか死なずにすんだ。
それを幸運だったと言う人は、きっと幸せで裕福なのだろう。
住んでいた村の住人は半分以上が病気で死んでしまった。どこの家も自分たちが生きるだけで必死だった。
そんな村で、小さい私は雑草を、木の根を食べて、飢えをしのいでいた。
地べたに這う虫のように生きるより、死んだほうが楽になれることに気付いて、死のうとした日に兄さんたちがやってきた。
兄さんは、私のお父さんのお兄さんの子供、従兄で、両親が生きていた時は何度も会って、遊んでくれた優しい人だ。
兄さんは枯れ枝のようになった私を抱きしめて、泣いてくれた。私のために泣いてくれる人がまだいるなんて、全然、想像できなかた。だから、私も泣いてしまった。
でも、兄さんの両親は、私を引き取りたくないということは、幼いながら感じていた。
私をすぐに孤児院に入れるつもりだった。でも、兄さんが体力が回復するまでと、自分の食事の量を減らしてまでお願いしてくれた。
そして、兄さんは、私を引き取るために両親を説得したいとライオネスさんに相談した。
ライオネスさんは、近所の人たちや教団の神官に、兄さんの両親を「慈善の人」と吹聴してまわった。外面が良くて、見栄っ張りな兄さんの父親は、近所の人たちに称賛されて、いい気分になって、私を引き取ると言ってくれた。
兄さんの母親は反対したみたいだけど、教団の神官に大勢の前で褒められて、私を捨てられないと悟ったようだ。
ライオネスさんは、顔は……だけど、頭がいいし、優しいし、さすが兄さんの親友だと思う。
それから兄さんは私を大事にしてくれた。病気のおかげで、丈夫でない私をいつも気遣ってくれた。心から優しくしてくれた。
私は嬉しかったけど、同時にどんどん不安になった。
兄さんは優しくて格好いい。女の人が兄さんに惚れないなんてありえない。
兄さんが恋人を作って、結婚してしまうことが怖くて仕方なかった。
できることなら、私が兄さんの恋人になって、お嫁さんになって、奥さんになりたい。
でも、兄さんはいつも私のことを妹としてしか見てくれていなかった。
嬉しくもあり、悲しかった。
そんなある日、寒い部屋に戻ると、ベッドの中に封筒が置いてあった。差出人も宛名もない封筒が。
私はその封筒を開けて、中の手紙を読んだ。兄さんに字を教えてもらって、読むことはできる。
文字を見て、すぐに兄さんの字だとわかった。兄さんは代書屋で働いているだけあって、とても知的できれいな字を書くから。
内容はラブレターだった。
兄さんに好きな人ができたのかと胸が苦しくなった。
どんな人かを知ろうと、読み進めていくと、すごくきれいな人らしいことが分かった。
私と同じ黒髪で黒い瞳をしている女の人。年齢も私と同じぐらいだった。私と同じく、あまり丈夫じゃないみたい。
読み進めるうちに、なんだか、私のことを言われているような気分になってきた。勘違いと思っても、顔が熱くなる。
そして、気が付いた。
私のベッドにわざわざ他人に出すラブレターを入れるだろうか?
これは、私に宛てた、兄さんからのラブレターなのだと。
私はそれに気づいて、顔がさらに真っ赤になった。
兄さんも私のことが好きなのだ。それだけで、天にも昇る気持ちになった。
私への宛名のないラブレターは、その後も届いた。
いつの間にか服のポケットに入っていたり、物入に入っていたり、一度など、私の使っている皿の下にあったこともあった。
でも、兄さんはラブレターをくれるだけで、それ以上はなにもしてこなかった。
それは仕方ないことだ。
私は病弱でまともに働くことができない。家事を満足にこなせるかも怪しい。兄さんの給料だけで生活するのは苦しいのはわかっている。
私が兄さんと結婚するには、兄さんの給料がすごく上がるか、私が働けるぐらい元気になるかしかない。でも、そのどちらも望み薄だ。だから、兄さんはラブレターに宛名を書かないし、名前も書かないのだろう。
兄さんはある日、仕事場でもらったと飴をくれた。
そんな高価なものをくれるなんて、何か悪いことをしているんじゃないかと心配してしまった。
話を聞くと、お金持ちのお客さんによくしてもらっているみたいだ。女の勘でお客さんは女性だと思う。
兄さんに気があるから、こんな高価なものをくれたのだろう。
兄さんさえその気なら、お金持ちの夫人をパトロンにして裕福に暮らすなんて、楽勝だと思う。そうしないのは、私がいるからだろう。
私は、私が兄さんの幸せを邪魔していると思った。
役立たずの私が、素敵な兄さんの恋人になんてなれるわけがないのに。
口に入れた飴はすごく甘かったけど、私には苦かった。
飴を舐めるたびに、体の芯が疼いてしょうがなかった。そのたびに、兄さんの姿を瞼の裏に映して、ベッドの中で息を殺した。
身体の火照りが治まると、私は自己嫌悪する毎日だった。
兄さんにもらった飴を食べただけで、兄さんを想ってはしたないことをするなんて、私はどんなに淫乱なんだろう。神殿にお祈りに行くのを欠かさない兄さんは、こんな私を知ったら、きっと軽蔑するだろう。
それなのに、兄さんにもらった飴を食べるのを止めることができない。
飴を食べて、兄さんを感じたくなる。
やっぱり、私はふしだらで、兄さんにふさわしくない女なんだと泣きたくなった。
兄さんからもらった飴がなくなった日の昼間、兄さんの母親に二人っきりで大事な話があると言われた。
「あんたも、いい年頃になったね」
兄さんの母親は私を値踏みするような目で見てきた。なんだか、すごく気持ち悪い視線だ。
「お母様たちのおかげです。ありがとうございます」
そんな目で見られても、私はその態度を出さずに頭を下げてお礼を言う。
私は兄さんへの恋心も、兄さんの両親たちへの不快さも、何もかも隠して生きるしかない。
「それで、これからどうするつもりだい?」
兄さんの母親の言いたいことはわかる。
女は結婚する時、相手の家に持参金を渡すしきたりがある。一般家庭の場合、両親が用意した分に、結婚する娘が内職して積み立てた分を上乗せする。
私の場合は、兄さんの両親は私の持参金を用意するつもりがなく、私自身も内職で稼げるお金は少ない上に、全部を生活費として没収されている。
持参金のない女を嫁にもらう人など、よほどでないといない。私に言い寄ってくる近所のうっとうしい男たちでも、持参金がないと知れば結婚を断るだろう。
「いつまでも、この家に居られても困るのは分かっているよね?」
私は小さくうなずいた。小さい子供でないから、私を追い出しても近所の人たちは彼女らを悪く言わないだろう。
「普通は修道女になるしかないんだけど、あんたの場合は体力がないから、それも勤まらないだろうね」
兄さんの母親は厄介者を見るような目で私を見て、困りごとの塊のようにため息をついた。
「だけど、あんたは運がいいよ」
兄さんの母親は突然、笑顔を浮かべた。その顔に隠していた不快感が表に出そうになった。
「あんたを妾にしたいって言ってきた金持ちの商人がいるんだよ。あんたは見た目だけはいいからね。美人と言うのは、それだけで得だねー」
同じ女からこういうセリフを聞くのがたまらなく嫌だ。でも、表情を出さないように我慢した。
「しかも、ルドー商会だよ。あの、国一番の大金持ちの。はは、まったく、あたしゃ、名前を聞いたときは驚いて腰を抜かしたよ」
ルドー商会は知っている。あまりいい噂を聞かないけど、よく聞くとやっかみなことも多いみたい。噂の真偽はわからないけど、お金持ちなのは間違いない。
「こんなチャンスはもうないよ。決めちゃいな」
私の一生に関わることなのに、少しの考える時間もくれない。こういう人なのだ。
育ててくれた恩は感謝しているけど、本当は嫌いで仕方ない。兄さんの両親でなければ、どれほど罵倒しただろう。
「何を悩む必要があるんだい? あんたに選択肢なんてものがあるのかい?」
悔しいけど、この女の言う通りだ。だけど、兄さんと離れ離れになるのに、どうしても踏ん切りがつかない。
「あんたが片付かないと、アーノルドが結婚できないんだよ」
私は金づちで頭を叩かれた気分だった。
「古着屋のベティって娘を知ってるだろ? アーノルドはあの子と来年には結婚する話になっているんだよ。それなのに、あんたがこの家に残ってたら……わかるよね?」
私は呆然としたまま、小さくうなずいた。
「私、ルドー商会の妾になります」
ショックを受けたまま、私はそれだけしか言えなかった。
「そうかい、そうかい! あんたは見た目だけはいいからね。多分、旦那様もかわいがって、大切にしてくれるよ。はあ、あんたを娘として育てた肩の荷が下りたよ」
兄さんの母親が上機嫌で何かを言っていたが、私の耳に入っても、頭までは届いてこなかった。
兄さんが結婚する。
いつかはと思っていた。でも、まだと思っていた。思いたかった。
いつの間にそんな話になっていたのだろう? 兄さんはベティといつの間に恋人になったのだろう? 私にくれたラブレターは何だったのだろう? あれはベティにあてたもの? ベティは赤毛で青い目の娘なのに。
私は悲しくて泣いた。兄さんと話すことが辛くて、体調が悪いと嘘をついて、兄さんを部屋から追い出した。
兄さんと居られる時間はあとわずかなのに、今思えば、なんと私はバカなんだろう。
そんなふうに私が落ち込んでいる間に、私が妾になる話はびっくりするぐらい早く話がまとまった。
ルドー商会の番頭だと名乗った若い男がやってきて、契約書にサインすると支度金を置いていった。
私がこの家にいられるのは、あと三日しかない。もう、泣いている時間はない。
兄さんと居られる時間はあとわずかしかない。
最初にしたことは、兄さんからもらったラブレターの返事を書くことだった。
字を書くのも兄さんに教えてもらっていた。でも、読むよりも難しいし、練習する紙もない。
何度も地面に木の棒で練習した。そして、もらった飴を包んでいた紙に一生懸命に返事を書いた。
兄さんのようにきれいな字じゃないし、すごい文章じゃない。所々、間違ってすらいる。けど、私の気持ちを兄さんに形として渡したかった。本当の気持ちは伝えられないけど、これも私の気持ちの一部なのは変わりない。
兄さんのそばに何か私を残しておきたかった。あげられるものはないし、物だと捨てられるかもしれない。でも、言葉なら、文字なら捨てられない。
兄さんは私の手紙を気取って、泣いてくれた。嬉しかった。本当に愛されていたことが分かった。それだけで十分、幸せだ。
兄さんは私が妾になるまでの三日、仕事を休んで家にいてくれた。まさか、そんなことをしてくれるなんて思ってもいなかったので、私は幸せな三日間を過ごせた。
これから一生分の幸せを私は前借したのだろう。でも、この三日間の思い出で、私は一生生きていけると思う。
楽しい幸せな三日間はあっという間に過ぎ去り、私はルドー商会から迎えに来た馬車に乗り込んだ。
持って行く荷物は小さなカバン一つの中に納まった。
支度金で用意した着替えが数着、それと両親の遺髪を入れた小さな袋が二つ、兄さんが買ってくれた綺麗な青いリボン、兄さんが新しくくれた飴、そして、兄さんからのラブレター。
十年ぐらいこの家に住んでいるのに、私のものがこれだけなのは、なんだかおかしかった。
「フローラ、身体に気を付けるんだよ」
兄さんが涙を我慢しながら私に別れの挨拶をした。
「兄さんも。無理しないでね」
私は上手く笑えただろうか? ちっとも自信がない。涙をこぼさないだけで精一杯。
走り出す馬車を兄さんは少し追いかけて、すぐに引き離された。兄さんは格好いいけど、あんまり運動は得意じゃなかった。
そんなことを思い出すと、くすっと笑みがこぼれて、涙があふれだした。
さよなら、兄さん。
馬車はルドー商会の立派な屋敷に到着して、立派な部屋に案内された。
「最初は慣れないかもしれないが、すぐに慣れる。用事があればメイドにいえば、してくれる。今日はゆっくり休むといい」
ルドー商会の会長という初老の男の人は、見た目は性悪そうな顔をしているのに温かく微笑み、しわがれた声なのに優しい口調で私にそういって、部屋から出て行った。
すぐに夜伽を命じられるのかとおびえていたが、拍子抜けだった。
それから、すごくきれいなメイドの人たちが身体を洗ってくれたり、着替えをさせてくれた。いきなりのお姫様扱いで庶民の私の頭が働かなかった。
だけど、荷物の整理だけは自分でしたいと言って、メイドの人たちには下がってもらった。少し、一人でいたかった。
荷物などほとんどないので、整理は一瞬で終わった。
そのあと、信じられないほどフカフカのソファーに座っていたけど、落ち着かなくなって、まだ明るい時間だったが、寝間着に着替えてベッドの中に潜り込んだ。
私はベッドの中に入って、兄さんの手紙を読み返して、兄さんを思い出していた。
さっき別れたばかりなのに。いや、だから、鮮明に思い出して、頭に心に刻みつけたかった。
兄さんからもらった飴を一つ、取り出した。飴はハートの形をしている。なんだか、とても皮肉に思えた。そのハートの飴を口の中に入れた。
前にもらった飴よりも甘く身体の中に染み込んできた。
身体中が敏感になって、服やシーツが肌に擦れるだけで、甘い刺激に襲われる。内側からも熱のこもった疼きが沸き上がり、身体中が切なくなる。
「兄さん、兄さん……」
家では声を出すことはできなかった。ここに来て、唯一嬉しいのは、声に出せることかもしれない。
兄さんと呼ぶたびに、私の高ぶりは上がっていった。身体の火照りは身を焦がすほどに熱く、頭の中は兄さんでいっぱいになった。
私がどれだけ兄さんを愛しているのか、私の頭と身体がそれを証明しようとしているかのように。
いやらしい乳首を硬くとがらせても、それは兄さんに恋している証拠。
媚びるような声で兄さんを呼んでも、それは兄さんを求めている証拠。
はしたなくオマンコを濡らしてても、それは兄さんを愛している証拠。
「兄さん、兄さん……」
私のオッパイを兄さんに揉んで欲しい。
「兄さん、兄さん……」
私のオマンコに兄さんのおチンポが欲しい。
「ああ、兄さん、兄さん……どうして、あなたは兄さんなの?」
どうして、私は股を開いて、兄さんに処女を差し上げなかったのだろう?
どうして、私は兄さんを押し倒して、兄さんの童貞を奪わなかったのだろう?
私はもう、色々なタガが外れていた。
抑え込んでいた感情が恋慕が愛情が噴き出して、身体中を駆け巡り、私は私に従順に素直になっていくのを感じた。
今ここに兄さんがいたなら、私はすべてを打ち明けて、兄さんに全てを差し上げて、兄さんのすべてを奪うのに。
「フローラ!」
幻を見ているのだろうか? ベッドに駆け寄ってくる兄さんがいた。
でも、幻でももう離しはしない。
「兄さん!」
私はベッドを飛び降りて、その兄さんの幻に抱き着いた。
うめき声が聞こえたベッドに駆け寄ると、そこから裸の女性が飛び降りてきて私に抱き着いてきた。
私は目を白黒させた。
「私、兄さんが好き! 大好き! 愛してる!」
その女性は妹の声で私に愛の告白をした。
「……フローラ?」
私は恐る恐る確認した。
「そうよ! 兄さんの妹のフローラよ。でも、兄さんの妹だけじゃ、もう我慢できないの。私は兄さんの恋人にも、愛人にも、妻になりたいの! 兄さんのすべてになりたいの!」
女性はそういって私をより一層、抱きしめた。
柔らかい大きな胸が私に押し当てられ、鼻腔をくすぐる甘い香り、すべすべとした肌、吐き出される熱い吐息、全てが私の欲望を刺激する。
妹そっくりの、角と翼、尻尾が生えた美しい魔物の女性が。
「フローラは、私の妹は人間だ! フローラをどこにやった!」
私は理性を総動員して、魔物を引きはがした。
「兄さん、私よ。私がフローラよ」
「妹の声で、妹の顔で、悲しそうに私を見るな!」
「信じて。私はフローラよ」
「違う! お前はフローラじゃない!」
私は全力で頭を振った。本能が目の前の魔物がフローラと認めている。だけど、それを認めれば、フローラが魔物になってしまったと認めてしまうことだ。
魔物は神に反する者たちで、人類の敵だ。フローラが魔物になったら、教団が彼女を殺してしまう。
私に否定された魔物は悲しそうに目を伏せて、静かに首を横に振った。
「私、わかったの。神様なんて何もしてくれない。祈っても、寄付しても、戦っても、何もしてくれない。それなのに、何をしたらダメとか、何をしろとかだけは言ってくる。兄さんは、今まで、神様に祈って、信じて、崇めて、何かいいことがあった?」
「そ、それは……」
魔物の問いかけに私は言葉を詰まらせた。ここに来る途中、信仰を捨てたところだ。
「だから、私は神様なんて信じない。神様を捨てて、自分の思うように生きると決めたの。だから、魔物になったんだと思う。ねえ、兄さん。私と一緒に堕ちましょう。私たちを不幸にする神様のいない世界に」
妖しく微笑みを浮かべる妹そっくりな魔物が私に手を伸ばした。
妹は私が知る中で一番の美人だ。だが、魔物になった妹は、さらに美しくなっている。
すっきりとした面立ちはさらに整い、大きく黒い黒曜石のような瞳が潤んで私を見つめている。青黒い艶のある髪の毛は母に切られる前のように腰まで伸びている。貴族のお姫様のような華奢な肢体でありながら、豊かな胸とふくよかなお尻、くびれた腰、すらりと曲線が美しい脚、それらをすべて際立たせる白く火照った肌。
もし、彼女に欲情しない男がいたとすれば、その股間のものを切り落とせばいいと思う。多分、他の誰にも反応しないだろうから。
「私、兄さんと一緒じゃないなら、生きている意味はないの」
魔物は魔道具の照明スタンドを軽く手刀で切り、尖った棒にして、私に手渡してきた。
「もし、私と一緒に来てくれないなら、それで私を殺して。兄さん以外の人に私の身体を触れられたくないから」
尖った棒の先端を自ら乳房の上に導き、彼女は目を閉じた。すべてを受け入れ、覚悟した表情で。
私の手の中の棒は震えた。
これで、妹を刺す? これで、妹を殺す?
「そんなことできるわけがないだろうが!」
棒を投げ捨てて、妹に抱き着いた。
「俺が、妹を、フローラを、愛するフローラを殺せるわけがないだろうが! 俺は、フローラを妹としてじゃなく、一人の女性として、愛してる!」
私はフローラを抱きしめたまま泣きじゃくった。
「うれしい、兄さん。私も愛してる♥」
フローラも泣いていた。
柔らかい女体を抱きしめて、吸い付くような肌と、そこから立ち上る甘く痺れる匂いに身体が興奮していた。
「兄さん……」
フローラが申し訳なさそうに私を呼んだ。それはそうだろう。アレが当たっている。
「すまん」
私は謝って、身体を離そうとした。しかし、それに反して、フローラが身体を押し当てて、私をベッドに押し倒した。
「フ、フローラ?」
「私、もう、我慢できないの。兄さんのチンポが欲しくて、しょうがないの。ねえ、入れていいでしょう? 兄さんに私の処女をあげるから、兄さんの童貞を私にちょうだい♥」
私の身体にまたがるように膝立ちになったフローラは、愛液で濡れて糸を引く股間を自分の指で広げて、興奮して充血している淫靡な粘膜を見せつけてきた。
「フ、フローラ!」
「大丈夫♥ 初めては痛いというけど、それは女だけだから、兄さんはきっと、気持ちいいはず。私、処女なのに、どうすれば気持ちよくなってくれるか、すごくわかるの」
フローラが私のズボンに手をかけて脱がした。
私は何とかフローラの下から這い出ようとしたが、フローラとは思えない力で押さえつけられた。
「落ち着くんだ、フローラ」
「落ち着いてるわ。大丈夫。失敗なんてしないから。きっと、気持ちいいわ。ああ、想像するだけで、いっちゃう♥」
十年近く一緒にいるのに今まで見たことのない蕩けた表情を見せて、股間をますます濡らしている。そこから漂う香りだけで、私は頭がくらくらするほど興奮していた。
「兄さんも、準備万端じゃない」
私は顔をそむけた。節操のない股間のものはフローラの痴態に反応して、期待に満ちて硬くなっていた。いや、頭の半分以上もフローラを犯すことしか考えられないでいた。
「兄さんのチンポ。夢にまで見た、兄さんのチンポ。ずっと、ずっと、これが欲しかったの♥」
フローラは目の瞳孔をハートにして、口は半開きにして、呼吸荒くして、私のものの上に腰を落としていく。
「ひやうぅっ!」
「フ、フローラ!」
粘膜同士が触れた瞬間に、フローラが身体をのけぞらせて、私のお腹のあたりにおしっこよりも透明な液体を噴出した。
「この、チンポ、しゅごいぃ……触れただけで、いっちゃうぅ……こんなの、入れたら、きっと、おかしくなりゅう♥」
フローラはさっきよりも理性が抜け落ちたメスの顔で少しろれつの回らない口調でよだれを垂らしていた。
「そ、そう思うなら、止めよう」
「あははは、ここまでして、止められるわけないじゃない。男なら、わかるでしょう? 兄さん♥」
私の提案はフローラに一笑されて却下され、フローラの腰が落とされた。
私のものが熱い柔らかなものに包まれていくのを感じた。
「ひぃ、はぁぁあああぁ! はぁあんっ♥ ああぁ……いいぃいぃいいいぃ!」
何度も締め付けながら、絡みつきながら、うごめく中を包まれて、我慢できずに吐き出した。
「あはぁっ! 兄さんのチンポ汁ぅ♥ そんなの、発射されたらぁ、またイッちゃうぅ!」
フローラは髪を振り乱して、身体をのけぞらせて、いやらしく身もだえている。
その動き一つ一つが興奮させる。声が聞こえればさらに興奮し、息を吸えば匂いで興奮し、汗の一滴でも口に入れば、その味に興奮する。そして、フローラと触れるすべての場所が気持ちいい。特に、彼女の大事なところに入っている部分が。
やがて、何か先端に引っ掛かりを感じる。
「あはぁ……兄さんのチンポが、私の処女膜に引っかかっちゃったぁ♥」
腰をくねらせて妖しく笑うフローラが私を見下ろしている。
「兄さんのチンポが入ってくるのに邪魔する処女膜なんて、いらないのぉ!」
そんなことを言いながら、自分で一気に腰を下ろした。何か抵抗を感じて突き抜ける感触がして、股間のものを締め上げられた。
見上げると、私の上でフローラが痙攣しながら、小水を噴出していた。
「あはあはぁはぁ……痛いけど、それ以上にぃ……嬉しくて、気持ちよくて、おしっこもらしちゃったぁ♥」
フローラは私の上で快感に身もだえながら、尻を振り、腰をくねらせ、膣を締め上げ、愛液を垂らして、何度も何度も私に射精をねだった。
「わたしぃ、わたしにしか、できないことみつけたのぉ。それは、にいさんを、気持ちよくすることぉなのぉ♥ わたし、にぃさんのぉ、肉壺でいいからぁ♥ わたしを使って、きもちよくなってぇ♥」
私は一生懸命に腰を振るフローラの腕をつかんで、自分の方へと引き寄せた。
「フローラ!」
「ふえぇ? にいさん?」
突然のことで驚いているフローラを抱きしめて、キスした。
「に、兄さん♥」
キスよりもエッチなことをしているのに、フローラは私からの軽いキスに生娘のように顔を真っ赤にして驚いていた。
「愛してる、フローラ」
私は改めて、そういった。今更だろうが、言わないといけない気がした。
「わ、私も愛してるぅ」
フローラは最初にあった時のように泣きながら抱き着いてきた。私はその頭を優しくなでながら、私のものを締め上げる彼女の中に何度目かの射精をした。
「素晴らしい!」
しわがれた老人の声がして、拍手する音が聞こえた。
その声と音で、私は蕩けた時間から現実に戻った。
フローラから自分のものを抜いて、彼女と位置を入れ替えるようにしてベッドの前で彼女をかばうように立った。運動が得意でない私にしては上出来な動きだろう。
ズボンが脱げて下半身丸出しの間抜けな恰好だが、今はそんなことよりも、侵入者から妹を守ることが重要だ。
侵入者は見るからに性悪そうな顔をした初老の男だった。
「そんなに警戒しないでください。怪しいものではないです。私はここの屋敷の主の、ルドーというものです」
彼の自己紹介を聞いて、私は万事休すと思った。なんとしても、フローラだけでも逃がさないと。
「旦那様。それを言って警戒を解くものがいたら、よほどの馬鹿でしょう」
呆れた口調で若い男がさらに現れた。
「ええと、アーノルド君。抵抗しなければ、君の妹の安全は保障しよう」
若い男が続けた言葉に私はピクリと反応した。
「本当か?」
「嘘は言わないよ。でも、信じた方が賢明なのは理解してくれるとありがたい」
私は彼の言いようで信じることにして、構えを解いた。
「では、一つお願いがある。ズボンを穿いてくれないか? 下半身丸出しでは、どうも真面目な話はしにくい」
彼に言われて、私は顔を赤くしながらずり落ちたズボンをあげた。後ろでフローラが「あっ」と残念そうな声を出しているのが聞こえたが、聞こえなかったことにする。
「じゃあ、あっちのソファーで話をしようか」
応接用のソファーを勧められた。
フローラは裸なので席を外していてもらおうかと思ったが、いつの間にか服を着ていた。ただ、大事なところを最小限に隠している下着のような姿だが。
フローラは私の腕に腕を絡めて、嬉しそうに寄り添って、私と一緒にソファーに座った。
若い男――ハンスと名乗った――は、その様子に大きなため息をついた。
「君がうらやましいよ。僕は妹に選ばれなかったのに」
深く大きくため息をついているのが、彼の本音をこぼしているように感じて、私は苦笑を浮かべてしまった。
「ハンス殿。今はそれよりも、このお二人に説明をしなくては」
初老の男性――ルドー会長がハンスの袖を引いた。たしか、ハンスというのはルドー商会のやり手の番頭と同じ名前だ。それにしては、主従が反対のように見える。
「そうですね。まずは、お仕事を片付けましょう」
ハンスは姿勢を正した。
「まず、このルドー商会は、魔物の活動拠点です」
「は?」
最初から大魔法をくらわされて、目を見開いてしまった。
「まあ、信用できませんよね? ――すいません。お願いします」
ハンスが苦笑いを浮かべながら、いつの間にかに部屋に入ってきていて、何も言わずにお茶を用意していたメイドさんに何か頼んだ。
すると、そのメイドはふっと姿が揺らいで、角と翼、尻尾を生やした姿になった。フローラと同じ魔物の姿に。
「魔物になってすぐに旦那ゲットなんて、フローラちゃん、いいわねー」
メイドだった魔物は、なんとはなしにスケベそうにかわいらしく文句を言った。
「とっちゃ、ダメですからね!」
私の腕にしがみついて、フローラがメイドさんを威嚇した。
「はいはい。そんなに見せつけられたら、誰も取りませんよー」
メイドさんは肩をすくめて、魔物の姿のまま、お茶の用意を続けた。
「――というわけで、信用してくれると思います」
ハンスの言葉に私は頷くしかなかった。
「私は見ての通り、性悪そうな顔つきをしているだろう? 自分で言うのもなんだが、商売はやり手な方で、競り負けた相手が私のありもしない悪評を流すので、すっかり悪役になってしまっていてね」
ルドー会長が少し懐かしそうに語りだした。
「そんな商売仲間や世間に嫌気がさしていたところ、取引のため街道を移動している途中で魔物に襲われて、愛に目覚めたんだ。そして、この素晴らしさを広めなければと使命を感じたのだよ」
熱く語り始める会長に私は生返事しか返せなかった。
「会長の要望を受けて魔王軍から私が紹介されて、拠点作りをしたわけです」
「拠点と言っても、魔物に人間の男性を紹介したり、魔物に会いに行く男性をサポートしたり、迫害されていたり、困窮している女性や家族を魔界や親魔物国へ亡命させたりぐらいだがね」
会長は何か謙遜するように照れ笑いを浮かべていた。
「亡命……もしかして、庶民の娘を妾にして捨てているというのは……」
私は彼らの話で話が繋がった気がした。
「ああ、そんなふうに世間では噂されているようだね。まあ、仕方ないね。実際にいなくなってしまうから。でも、そんな噂があるのに金のために妾に差し出すような保護者なら、遠慮なしに攫って亡命させれるから、こちらとしてはちょうどいい判断材料になっているんだよ」
会長は顔に似合ったどす黒い笑みを浮かべた。
「それなら、そう言ってくれればいいのに」
フローラが隣で頬を膨らませていた。
「ああ、すまない。すぐに説明するつもりだったのだけど、突然、リリム様がおいでになられてしまってね」
会長は申し訳なさそうにフローラに頭を下げた。
「リリム様?」
「リリムというのは、魔王様の娘、魔物の王女というべきかな? そういう種族というか、称号ですよ。今、来られている方は、真名を旦那になる人にしか教えたくないという方なので名前は知りませんが」
ハンスの説明に私は背筋が寒くなった。魔王の娘なんて、超大物がこの国にいるなんて、もう、この国は滅んだも同じだ。
昔、最大の軍事力を誇った教団最大の戦力を担った国が一夜にして魔物に滅ぼされたという話をライオネスから聞いたことがあった。その時に現れたのが、魔王の娘だと言っていた。今もその国のあった場所は深い魔界に沈んでいるという。
「そんなに怯えなくてもいいですよ」
私が震えているのを見て、ハンスが苦笑した。いくら侮ってくれてもいい。怖いものは怖いのだ。
「リリム様は去年の戦争の時に、この国の第二王子のライオネス王子が気に入ったらしくてね。どうも彼に娶ってほしいらしく、私らにその協力を頼みにおいでなだけだからね」
ライオネス王子は教団に勇者の祝福をしてもらった公認勇者だったはずだ。金髪碧眼の色男で、誰もが思い描く王子様がそのままなので、女性を中心にすごい人気のある王子だ。
「さすがに小国とはいえ、王族でしかも勇者を堕とすとなると、大事になってしまう。うまく事を運ぶには、それなりの段取りも必要だから私たちが協力することになったんだよ。だから、この国を攻め滅ぼそうとかいう気はないみたいだよ」
ただ、友人のライオネスの手柄を横取りするなど、あまり私は好感はもてない人物だが。
「まあ、正直、顔はいいけど人間性はアレだと私も思うよ。でも、魔物の好みは人間にはわからないからね。顔なのか、性格なのか、アソコなのか……」
ハンスは何かまたため息をついていた。「私も彼よりはハンサムだったと思うんだけど」などと俯いてぶつぶつと呟いていた。
「ハンス殿。それはまた、別の機会に。――それで、そちらのフローラ嬢も迫害されている話を聞いていたので、魔界への亡命を勧めるつもりでいたのですが、どういうわけか、魔物化しているようで……」
「えー? 違いますって、誰もまだ手を出してないから!」
会長がメイドの方に視線をやると、メイドが音が鳴りそうな勢いで首を振った。
「となると、屋敷の魔物の魔力の濃度が濃くなったせいか、フローラ嬢の魔力感受性が高いせいか……」
ハンスが首を捻っていた。しかし、私にとって原因なんてどうでもいい。
「フローラは、どうなるんですか? 人間に戻れるんですか?」
身を乗り出して二人に問い詰めた。
「いいえ。一度魔物になると、人間には戻ることは不可能です」
会長が静かに首を横に振った。
「そんな!」
私は思わず大きな声を上げた。
「私は全然、構わないよ。兄さんと一緒に愛し合えるなら、魔物になっても全然、平気。それに、この体の方が、兄さんをいっぱい気持ちよくしてあげられそうだもの」
フローラは私に甘えるように抱き着いてきた。柔らかい全身が押し当てられ、それだけで私の股間が反応しそうになる。
「本当に、どうにかならないのですか?」
なんとか私は理性を総動員させて、会長とハンスに食い下がった。
「そうですね。魔物になっても、人化の魔法を使えば、この国のような反魔物国家でも生活はできます。ですが、正直なところ、あまりお勧めしません。人化の魔法が解けることもありますから、少なからず危険もあります。お勧めとしては魔界への移住ですね」
ハンスの説明に私は苦い顔になった。
「魔界にと言っても、私はしがない代書屋の見習いです。魔界で暮らすなんて……」
私の唯一の特技である読み書きは、言葉が変われば役立たずだ。
「ああ、それなら心配いりません。魔界は、働かずに二人が愛し合うだけで生活できますから」
ハンスの説明に私は顔をしかめた。逆にフローラは顔を輝かせた。
「すごい! そんな夢の国があるの?」
「フローラ。駄目だよ。そんなうまい話には裏があるんだ」
フローラが腰を浮かせるのを腰を抱いて、自分の方に引き寄せた。
「信じられないのも無理もないんですけどね。魔界にはマナ・ケージというものがありましてね。愛し合う二人がセックスすると、マナが増えてあふれ出るんです。そのあふれたマナをマナ・ケージが吸収して濃縮するんです。その濃縮されたマナを売れば生活費が稼げるんです。おかげで、魔物の仕事は旦那とセックスすることと言われています」
私にはますます眉唾に思えた。しかし、隣から袖を控えめに引っ張られた。
「兄さん。兄さんは私と一緒に、魔界に行くの、いや?」
口に軽く握った手を当てて、上目遣いに私を見上げてくる妹がいた。
私の家に引き取られてすぐのころ、おどおどしながらも私にお願いする時の妹の必殺技だ。ああ、これをされるのは、何年ぶりだろう? 聞き分けのいい妹だから、すぐにこの必殺技は自分で封印して、このかわいい姿を見ることができずにいた。
「それをされて、断れるわけないだろ」
私は妹を抱きしめた。
「兄さん!」
妹も私を抱きしめ返してきて、私はまた気持ちが昂るのを感じた。
「あー……それじゃあ、魔界に移住ということで、準備を進めておきますね」
ハンスの乾いた声が聞こえて、私は少しだけ現実に戻った。
「そうだ! ライオネスという新人の用心棒が私の友人で、私がフローラを探すために他の用心棒たちを足止めしてくれているんです。助けてやってください」
フローラを愛しあうことに一生懸命すぎて、ライオネスのことをすっかり忘れていたことを思い出した。
「ふむ……それはおそらく、新人の一人がスパイを紛れ込ませようとして、それが見つかって戦闘になっていると報告が来ていた件だな」
「おそらくは。でも、その報告があってから随分と時間が経っているが……」
……すまない。ライオネス。お前の分まで私は幸せになるよ。
窓の外の空にライオネスのジャガイモ顔を思い浮かべた。
しかし、会長が私の想像を首を振って否定した。
「うちの用心棒たちの武器は魔界銀製だから、死んではいないはずだよ。安心しなさい。すぐに開放するように言っておこう」
「ありがとうございます。あ、それと、先ほど、この屋敷に訪問された深緑色の絹のドレスを着た貴族の御婦人がいらっしゃったと思うのですが、その方にも、協力いただいておりまして……」
私がもう一つ思い出して口にすると、二人の目がまん丸に見開かれた。
「……わかりました。その方には事情を説明しておきます」
「……ええ、ご心配いりません。その方は誰よりも、魔物に理解のある方ですから」
二人は何か遠い目をしながらそう言って、部屋を後にしていった。
一体、なんなのだろう?
「兄さん……」
私が物思いにふけっていると、腕を引っ張られた。
「どうかし――うわぁ!」
私はまた、フローラに押し倒された。今度はソファーの上に。
「兄さん、しよ?」
私の馬乗りになって、フローラがその黒い瞳を妖しく輝かせ、物欲しそうに人差し指をくわえつつ、上気した頬で、短く私に言った。
「フ、フローラ。落ち着きなさい。するなら、ベッドへ――」
「そんな、遠くまで、がまんできなーい」
私とフローラの愛の営みはソファーの上で再開された。
抱き合い、愛し合うとフローラの気持ちが伝わってくる。きっと、フローラにも私の気持ちが伝わっているだろう。
私はもう二度とフローラを離したりしない。
昨日と同じ明日が来なくても、フローラがいれば、それが幸せなのだ。
愚かな私はそのことにやっと気が付いた。
「愛してるよ、フローラ」
「私もよ、兄さん」
「まったく、しつけえな!」
俺は階段の上に陣取って、階段を上ってきた用心棒を槍で突き落とした。
もう、これで十人近く階下に落としている。
正直、俺は弱くはないが、とびっきり強くもない。多数を相手に何とかできているのは、階上の有利な場所を取っているからできる芸当だ。
損害無視で俺を仕留めるつもりなら、弓矢の一斉射で終わりだ。だが、それをすれば、俺の背後の壁にある高そうな名画はハリネズミになってしまう。新人一人を仕留めるのにそんなことはできないだろう。
今のところは、壁に立派な絵がある階段に陣取ることで、弓矢や投げナイフの攻撃を封じることができている。
当然、馬鹿正直に階段を登らずに、他の階段から登ってきた奴らもいたが、隠れるところのない長い直線の廊下では、こちらから動きが丸見えだ。
この屋敷でちょろまかした爆発魔法を仕込んだ魔道具で、廊下から来た奴らは二回ほど吹き飛ばした。
実はその魔道具は二個しかちょろまかせなかったので弾切れなのだが、ブラフ用に石に塗料を塗って、それっぽく作っておいたニセ魔道具がある。それを見せておいたので、廊下から攻めるのを用心棒たちはためらってくれている。
でも、そろそろ、階段での損害が大きくなりすぎて、多少の損害を出しても、廊下から攻めて、数で押しつぶすことを考えるだろう。
「新人一人に何をてこずってやがる!」
用心棒の隊長が苛立たし気に怒鳴っている。それで、何人かが階下のホールから移動を始めた。
左右の廊下の先で気配を感じる。
「新人にしては頑張ったが、それもここまでだ」
隊長が勝ち誇った顔をしている。
この隊長は腕っぷしはいいが、指揮するのは向いていない馬鹿だと思っていたが、本当にバカだったようだ。
俺は廊下から攻めてくる気配を気づいているが、それでも敵に何かあると教えてどうする?
ともあれ、俺はこれを待っていた。
俺は持っていた槍を隊長に向かって投げつけて、剣を抜いて階段を駆け下りた。そして、左手にありったけに持ったニセ爆発魔道具を空中に放り投げた。
「うっ、うわぁ!」
魔道具を避けようと階下の用心棒たちが右往左往する。その隙をついて包囲を崩して駆け抜けた。
「よし、あとは適当に撒いてアーノルドたちと合流――」
そう思って廊下を駆けようとした瞬間、前から飛んできた投げナイフを寸でのところで避けて廊下を転がった。
「あれを避けるとは、なかなかの手練れですね」
廊下の先から身なりのいい商人が初老の男を連れ立って姿を現した。
「番頭のハンス! それに会長のルドー!」
姿を現した二人に思わず舌打ちした。この二人は俺の勘が、まともに敵対してはいけないと言っている。俺にそう思わせるのは、あの聖戦で出会った魔物の指揮官以来だ。
「今日は大事なお客様がおいでになっているというのに。こんな騒ぎをすぐに収められないとなると、私の顔が潰れてしまいますよ」
「すいやせん! 今すぐ始末しますんで」
ルドーに叱責されて隊長が平伏しそうになっている。馬鹿だが、野生の勘はあるようだ。
廊下に転がっている俺を剣を手にした用心棒たちが囲む。
一か八か、タイミングを合わせて、仕留めに来る瞬間に一人に体当たりして、包囲を突破しよう。
俺は心を静かにその時を待った。
「へへ、やっと大人しくなりやがった。そのまま、死んでけ!」
一人が無駄口叩いて、突きつけていた剣を振り上げてくれた。
俺はその隙を逃さずに、その馬鹿に体当たりして押し倒すと、包囲を抜けて走り出した。
「っ! 待て! この野郎!」
まっすぐ走りたいが、時折、横にステップを踏んでジグザグに走る。こうしないと、ハンスに投げナイフを背後から投げられておしまいになってしまう。
何としても逃げきって、アーノルドとフローラちゃんを救出するんだ。それが俺が今日までこの国に残っていた使命なのだろう。
俺は、この不可能にも思えることを出来ると信じた。まずは信じなければ、何も叶わない。
しかし、次の瞬間、自分が進む廊下の先の闇の中に、とてつもない力を持つ存在がいるのを感じて、足が止まった。いや、止められた。
「な、なんだ……」
感じる重圧とは場違いな甘い香りが鼻腔をくすぐった。
この香りは知っている。聖戦の時に嗅いだ、戦場の匂いだ。それも、とびっきり濃厚な、あの指揮官が漂わせていた匂いだ。
俺の足が石化の呪縛を受けたように固まって動かない。同時に股間のものも勝手に石化するように硬くなっていた。
「も、申し訳ありません、リリム様!」
「御身がおいでのところ、このように騒がせてしまい、不徳の致すところでございます」
ハンスとルドーが飛んできて、俺のすぐ後ろで跪いて首を垂れていた。
この二人がこの態度を示す大物に俺の背中に甘い稲妻が走る。
闇の中からハイヒールの踵が床を突く音を響かせ、深緑色のドレスに身を包んだ美女が姿を現した。
腰まで届く白髪、燃えるような赤い瞳、ふくよかな胸とくびれた腰をした絶世の美女。
「お前は……」
「お久しぶりですね。一年ぶりかしら?」
美女がスカートをつまみ上げて、貴婦人の礼をした。
「そうだな。あの戦場で別れて以来だな」
置き去りにされた敗残兵をまとめて撤退している時に会った、魔物の指揮官だった。
今は魔法か何かで人の姿をしているが、その美貌は忘れられないし、間違えることもできない。
「戻ってくるとおっしゃったのに、一向に戻ってこられないのだもの。心配しましたわ」
眉を下げ、口を結んで不満顔をしていても、美貌を損なうどころか、彼女の不満を命を懸けても取り除きたいと願ってしまう。こういうのを傾国の美女というのだろう。
もっとも、こんな傾国の美女は俺には無縁だが。
「それは、すまなかった。思い残すことはあるが、二度も見逃してくれというのは、さすがに虫が良すぎるだろうしな。こうなっては仕方ない。約束通り、煮るなり焼くなり、好きにしてくれ」
俺は剣を捨てて、その場に座り込んだ。心の中で、アーノルドとフローラちゃんに謝りながら。
一年前の聖戦で撤退する時、俺は敗残兵を集め、魔物のはびこる戦場を抜けて、あと少しで教団が作った魔物を退けるという魔法の防衛ラインというところまでたどり着いた。しかし、そこで彼女の指揮する魔物の軍勢に捕捉され包囲された。
それまで遭遇した強いが、自由気ままな統率のない部隊ではなく、規律と統率のある精鋭部隊だった。そんな部隊による包囲を突破するのは、装備も訓練も士気も低い寄せ集めでは不可能だった。
そこで俺は軍使として敵陣に赴き、自分の首で残りの者たちを見逃してくれるように交渉に行った。一兵卒の俺の首がそんな価値はないかもしれないが、やれるだけはやるつもりだった。
「魔界に行きたいという人を無理やり連れ帰っているのではないのなら、見逃してあげますよ」
指揮官と名乗った彼女は、なんとも簡単に包囲を解いてくれた。罠を仕掛ける意味がないのに、罠かと疑いたくなるぐらい、あっさりと。
とはいえ、彼女にも立場があるだろう。俺はそのまま、彼女のところに残って、首を差し出すつもりだった。だが、彼女は、敗残兵たちは俺が指揮しないと目と鼻の先の防衛ラインにもたどり着けないだろうと、彼女に言われて、自陣に戻された。
「でも、彼らを国に返したら、あなただけは戻っていらしてね」
自陣に戻るときに彼女にそう言われた。
「わかった。少し、時間がかかるかもしれないが、必ず戻ると約束する」
約束をして、俺は敗残兵と共に防衛ラインにたどり着いた。
両親と親友のアーノルド兄妹と別れを済ませたら、約束通り、首を差し出しにすぐに魔界に行くつもりだった。
だが、俺の手柄を横取りした王族が、俺が不穏なことを企てないかと見張られて動きが取れずにいた。
「しかし、まさか迎えに来られるとはな」
俺は思わず苦笑した。
「もしかして、迷惑でした?」
彼女は不安そうに俺に聞いて来た。生殺与奪は彼女の手にあるというのに、そんな不安そうな顔をされると、抱きしめたくなってしまう。これだから、美女は困る。
「いや。戻ると約束して一年もほったらかしにしていた俺が悪い。ただ、あなたのところに行く前に童貞ぐらいは捨てたかったなと思ってな」
彼女のところに行くまでに、だれか物好きな魔物を見つけて、童貞ぐらいは捨てれるかもと、一縷の望みをかけていたが、世の中そううまくはいかないようだ。
とはいえ、魔物たちが美女ぞろいとはいえ、彼女と比べてしまって俺の方が食指が動かなくなっていたかもしれないが。絶世の美女とは童貞の性欲すらも凌駕する魅力があるようだ。
「ええっ! まさか、誰か、想う人がいらっしゃるの?」
驚きの声を上げる彼女に俺は少しムッとした。
「こんな顔だが、想う人がいたらおかしいか?」
「そんなお顔だからです!」
俺以上に彼女の方が語気を荒げたので驚いて、目を見開いた。
「あなた様のように、男らしくごつごつとした顔立ち。奥まったつぶらな瞳。情に厚そうな分厚い唇。男らしさがあふれ出たニキビ面。男性の力が強くて頭頂部が薄くなった頭髪。服を着ていても香る胸毛。がっしりと丈夫な身体。太く逞しい手足。武骨な指。そして、何よりも、女を求めてやまない性欲があふれる、ア・ソ・コ。こんな素敵なオスに想われて、堕ちないメスなんていません」
うっとりしながら彼女は俺のことを言っているが、これは褒められているのか、貶されているのかどっちだ?
「ああ、やっぱり、あの時、格好つけて、人間界に返したのが間違いだったわ。絶望的な窮地から知略を駆使して残された人たちを救った英雄として男を上げてもらいたかったの! そんなことをしちゃったから、ライオネス様の素晴らしさに気が付く女性が出てしまったのもしょうがないわ。この国でのライオネス様人気はそこのハンスから聞いてます」
人違いなんじゃないかと俺は後ろにいたハンスの方を振り返った。ハンスは何か、青い顔で出してはいけない汗を出していた。
……ああ、王子のライオネスと勘違いして報告しちゃってたのか。まあ、普通、お慕いしているライオネスと言われたら、王子だわな。
「私のライオネス様が素晴らしいのを知ってもらうのは嬉しいけど、まさかそれで、私のライオネス様でなくなるなんて、本末転倒もよいところよ。私のバカ! ああ、でも、いいの。私は二号でも。V3でも。アマゾンでも。ライオネス様の女になれるのなら、何だっていいの」
俺らのことは放置され、傾国の美女の独り舞台が続いていた。
「ライオネス様! 一生のお願い! 私を、ライオネス様のお嫁さんにして」
両手を組み合わせて、懇願のポーズで俺の前に跪き、目を潤ませ、頬を紅潮させた美女がそこにいた。しかも、俺、求婚されている?
常日頃から色々な場面を想定して鍛えていたが、この場面の想定はなかった。だから、思わず問うてしまった。
「……マジ?」
「マジもマジです! 本気と書いてマジと読むマジです! あなたのことが、ライオネス様が好きなのです。愛しているのです。あなたが私の愛を疑うなら、あなたを想う気持ちだけで、オマンコから愛液を溢れさせ、ここを湖にして証明いたします!」
美女がスカートをたくし上げて、白い脚を見せつける。
「いや、それは止めて」
俺は色っぽい脚を見たい欲望よりも本能的な危機感で彼女を止めた。
「どうしてですの! 私がライオネス様を好きになってはいけないのですの? そんなの、無理です。不可能です。主神がお母様に勝つぐらい不可能です!」
美女が子供のように泣きじゃくって、イヤイヤをしている。美人の上にかわいいだと? なんだ、この反則じみた存在は。
「いや、そうじゃなくて、湖にするのは止めてって」
泣き顔は見ていたい気もするが、水分の出所が違うだけで、結果が同じになりそうな予感がして、泣き止むように訂正した。
「じゃあ、私はどうやって、愛を証明したらいいのですか? 身体を火照らせて、周囲をマグマの海に変えればいいのですか? それとも、高鳴る胸の鼓動で全てを粉々に粉砕すればいいのでしょうか? 溢れる妄想で異界を作って、ライオネス様の造形であふれたライオネスワールドを作ればよいのでしょうか?」
「いや、信じるから! あなたが俺を好きなのを信じるから!」
半分ぐらい何を言っているかわからなかったが、色々と規格が違いすぎて、世界が危ない気がする。特に最後のは、俺も正気を保てる自信がない。
「じゃ、じゃあ……」
美女が生娘のように顔を赤らめて、もじもじとしながら上目遣いで俺を見てきた。
「ライオネス様は、わ、私のこと……好き?」
かわいいな、こんちくしょう!
俺は返事の代わりに、抱きしめてキスをした。
彼女の顔が真っ赤になり、赤い瞳が蕩けて、彼女の小さい唇が俺の分厚い唇を求め続け、舌と唾液を絡まり合わせた。
いつまでも続けられるキスだったが、大事なことを訊くのを忘れていたことに気が付いて唇を離した。
少し不満顔をする彼女に俺は尋ねた。
「そういえば、あなたの名前、聞いてなかった」
彼女は俺の質問ににっこり微笑んだ。
「私の名前は――です」
彼女の真名を聞いたが、それは俺以外に知られたくない。
俺が彼女を愛する時だけ、彼女の名を呼びたいから、名前は伏せさせてもらう。
こうして、俺は生まれて初めて、そして、最高の女性と結ばれた。
どんなブ男でもモテ期は来るというのは本当だったようだ。
小国ながらも、教団の影響の強いザイステン王国がある日突然、魔界に沈んだ。
それはかつて、レスカティエ教国が一夜にして滅んだがごとくだった。
親魔物国家経由の情報では、王国の第二王子ライオネス王子が魔物に寝がえり、魔王の娘リリムを娶った結果だという。
教団はこの事実を重く受け止め、ライオネス王子の勇者称号をはく奪し、主神の敵である魔人として討伐対象とした。
ただ、ザイステン王国があった教団教区内の国々では、魔物討伐軍に一番協力的だったザイステン王国が魔物によって滅ぼされた事実を危惧した。周辺の国々は、教団に積極的協力をすれば、次は自分の国の番かもしれないと、教団と一定距離を取るようになった。
こうして、その教区は弱体化し、積極的魔物討伐を推進していた派閥が主流だった教区だったが、魔物へ戦争を仕掛けることはできなくなった。
そして、ザイステン魔界は今日も平和に、人と魔物の愛の営みを続けるのであった。
21/02/07 15:17更新 / 南文堂