六畳一間ぬらりひょん付き
街灯の照らす没個性の夜道を歩き、小さな二階建てのアパートにたどり着いた。
帰る途中で買ったコンビニ弁当を傾けないように気を付けながら、アパートの一階、端から二つ目の扉の鍵を開けた。
「ただいま」
独身で恋人もいないので部屋で待つ人などいないのに、つい習慣で帰宅を告げてしまう。
「おかえり。ずいぶんと遅かったのお」
見慣れた六畳一間の部屋に、和服を遊女のように着こなした妖艶な美女がキセルをくゆらせながら返事をした。
「え? あ、す、すいません! 間違えました」
靴を脱ごうとしていたのを慌てて履きなおし、扉の外に飛び出した。
連日の激務で疲れているとはいえ、部屋を間違えるなんて情けない。しかし、同じアパートにあんな色っぽい美女が住んでいたなんて全く知らなかった。
ラッキースケベ未満を喜びながら、今度はしっかりと部屋の番号を確認した。
「俺の、部屋だよな?」
そういえば、玄関の鍵も開いたことを思い出し、頭に疑問符が飛び交った。
「何をしておる。外は寒かろう? 早う、中に入れ」
呆然ととしているところに扉が開いて美女が顔を出すと、部屋の中に引っ張り込まれた。
中は確かに見慣れた自分の部屋だった。畳んで部屋の隅に押しやっている布団、クローゼット代わりにしているカバー付きハンガーレール、ホームセンターで買った樹脂製のタンス、それとテレビに折り畳み式のちゃぶ台。独身男性の一人暮らしの部屋基本セット。
そんな部屋で、まるでこの部屋の主人かのように堂々と美女がくつろいでいる。
「なんじゃ? ぼーっと突っ立っておって。自分の部屋に帰ってきたのじゃ。ゆっくりくつろいではどうだ?」
訳が分からず立ち尽くしていると、美女はキセルをくゆらせながら、妖しく微笑んだ。
部屋は彼女がくゆらせるキセルの紫煙で少し艶めかしく薄暗く感じる。
そんな中、長い艶やかな黒髪を結い上げて、白く細い首が露わになってなんとも色っぽい。
襟をはだけた和服から豊満な胸の谷間がいやらしく目の毒だ。半分着物に隠れているが、紫桔梗の刺青が覗いている。刺青をする女性は好みではないが、彼女に限っては、それがひどく魅力的に見えて仕方ない。
「どうした? 妾の顔に何かついとるのか?」
余裕たっぷりな微笑みを浮かべる赤い口紅を塗った唇がとても淫靡でしょうがない。秋波を送る切れ長の目は、少し潤んでこちらの欲情を誘っている。
こんな扇情的な美女など一度見たら忘れるはずがない。一体、誰なのだと思うと、ふっと思い出した。
「桔梗さん。ああ、桔梗さんだ。ただいま」
思い出した名前を確かめるように口にした。どうして忘れていたのかわからない。
「何を呆けたことを。疲れておるのか?」
「そうかもしれません」
呆れたように言われて苦笑を浮かべて玄関で靴を脱いで家に上がった。
「また、このようなもので夕餉を済まそうとしおって。しょうのないやつじゃ」
背広を脱ぐためにテーブルの上にコンビニの袋を置いた中を覗かれて文句を言われた。
「はは、勘弁してくださいよ。仕事で疲れて自炊する気力もないですよ」
ハンガーに背広をかけて、ワイシャツを脱いで、部屋着のスエットに着替えた。
「おぬしに作らせるわけが無かろう。ほれ、用意しておいたからたんと食べるがよい」
テーブルの上に湯気と香り立つご飯、温かい豆腐と揚げの味噌汁、カレイの煮つけとタコと胡瓜の酢の物が並んでいた。
「これは? 桔梗さんが?」
「そんなに驚くことでもあるまい。妾でも、この程度の料理ぐらいはできるぞ」
座布団の上に座らされ、目の前に並ぶ家庭料理に目を白黒していた。
「何をしておる? 稲荷に教えてもろうたから、味は確かじゃ。早う、食べい。冷めてまで美味いとは保証せんぞ」
悪戯が成功したような表情をされた。確かに言うとおりだと、箸を持って「いただきます」と桔梗さんに言ってご飯を口に運んだ。
炊き立てのご飯がこんなご馳走だったとは。
温かいお味噌汁も心にしみる。ああ、甘辛いカレイの煮つけでご飯が進む。酢の物で口の中をさっぱりさせると、いくらでも食べれそうだ。
「本当は香の物も付けたかったのじゃが、漬けたばかりじゃからな。おぬしは古漬けが好きであろう?」
「え? そんなものまで? はい。古漬けが好きです」
酸味の利いた白菜の漬物に香りづけ程度の数滴の醤油をかけて食べるのは、俺にとっての究極の家庭の味だ。
「楽しみにしておれ、よく漬かっておる。自信作じゃ」
そういいながら、買ってきたコンビニ弁当を桔梗さんが開けていた。
「き、桔梗さん?」
「ん? おぬしは妾の作った夕餉を食べて、この弁当まで食べるつもりか? いくら若いとはいえ、それはいささか食いすぎじゃろう?」
コンビニ弁当のご飯を割りばしで、ひょいひょいと口に運んで食べ始めた。
「い、いえ、桔梗さんはもう食べられたのかと……」
「一人の食事など味気ない。そう思わぬか?」
「それは、そうですけど……」
時間は日付が変わりかけている。今まで食べずに待っていてくれたと恐縮してしまう。
「気にするでない。だが、いくら遅くなっても、このようなものはもう必要ないと憶えておくとよいぞ。同じ食卓を囲んで、違う飯を食うのはいささか寂しいからの」
割りばしで俺の好物の鶏のから揚げをつまみ上げると、こちらの口元に運んできた。
「ほれ。あーん♥ じゃ」
くすっと笑う桔梗さんに顔を赤らめながら、雛のように口を開けて、唐揚げを食べさせてもらった。食べ飽きたコンビニのから揚げがこれほどおいしく感じることはない。まるで別物だ。
ご飯を食べていると妙に体が火照り始めた。絶世の美女と卓を挟んで食事をしているのだから、そうなってもおかしくはない。
部屋の中に充満する桔梗さんのキセルの煙が甘く煙たく空気に混ざり、やたら喉が渇く。煙に身体をまさぐられるようで、股間のものが反応する。
「ご馳走様」
綺麗に完食して箸をおいて手を合わせると、桔梗さんが満足そうに微笑んで「お粗末様」と返してくれた。
「ほれ。片付けておくから、さっさと風呂に入って来い」
食後の休みもなく風呂に追い立てられた。
当然のように風呂も沸いて、久しぶりに湯船に身を沈めた。風呂場は一畳ほどのスペースなので風呂桶は一人でも窮屈だが、それでも湯につかると疲れが取れる気がした。
身体を拭いて風呂を上がると、布団が敷いてあり、その横で煙草盆をそばに置いて脇息にもたれかかりながら桔梗さんがくつろいでいた。
部屋はほんのりと紫がかった薄暗さで、桔梗さんの白い肌がその闇の中で艶めかしく輝いていた。
「ずいぶんと長湯だったの」
お見通しとばかりに微笑を浮かべる桔梗さんに、ぞくりとしたものが背筋に走った。さっき風呂場で一回、抜いて来たのに、股間はもう臨戦態勢を整えていた。
「どうした? そんなところで、突っ立っておっても、妾には触れられぬぞ」
触れられないということは、近づけば触れてもいいということだよな?
「一人でするのが好きと言うのであれば、そこでしておっても構わぬが?」
もう、我慢の限界だった。押し倒すようにして、覆いかぶさり、その豊満な胸を揉んだ。
指を押し返す弾力が揉み応えがある。手に吸い付くような肌も心地よい。まるで手が性感帯になったかのように、この胸をいつまでも揉んでいたい。
「まったく、いつの世も、どこの土地でも、男というものは女子の乳が好きじゃのう」
呆れたような声が聞こえ、顔を上げると目の前に桔梗さんの顔があった。
「こういう時は、まずは口吸いをするものじゃぞ」
赤い唇が半開きになり、中の舌がチロリと覗く。艶めかしく妖しい吐息に煙草の甘辛い香りが混ざり、それを直接吸いたくなる。
「んっ♥……」
唇を押し当て、小さな口に舌を差し込む。乱暴に差し込んだ舌を優しく迎え入れてくれる小さな舌が自分の舌に絶妙に絡みつく。
「んっ♥ ん……んん……♥」
桔梗さんの唾液が、度数の強いお酒を口に含んだようで快感の刺激で脳髄が痺れる。灰色の脳細胞を桃色に染めていくのを感じた。
キス一つで、女を知らない頃のように股間が熱く猛り、余裕なく、女体をむさぼりたくなる。
「んあぁ……はぁ……」
息苦しさに呼吸するのも忘れていたことを思い出す。少しだけ口を離して空気を吸う。
その空気すらもいやらしい香りを含み、媚薬のように身体をうずかせる。
「吸いたい場所は他にもあるんじゃろ?」
桔梗さんの指先が襟にかかり、ギリギリだった着物が危険領域を超えて解禁される。
柔らかな白い丘の上に桃色の突起がぷっくりと、何かを期待して膨らんでいた。
「あ、ああ……」
もはや言語中枢も快感の処理に追われて、うめき声しか発せられず、その突起にむしゃぶりついた。
「ひぃあっ♥」
食いつくと同時に桔梗さんのびくんっと体が震え、白かった肌が淡い桜色に色づく。それとともに、胸の弾力が柔らかさに変わり、揉めば手のひらの中で形を変える。
この女を、誰もがうらやむ絶世の美女を、自分の手で変えれることが、ひどく興奮した。俺の女に作り変える。そんな黒い欲望が遠慮なく湧いてくる。
「ふあぁ♥ ああっ♥」
揉むたびに反応し、吸い付くたびに痙攣する。反応の良さにも男の自信を刺激される。
「そんなに……がっつくで、ない♥」
たしなめる声も感じて、蕩けているのがわかると、もともとなかった歯止めが加速する側に回った。
舌の先で突起をもてあそび、そのたびに嬌声が耳に届く。甘えるような女の鳴き声に耳が中毒になる。もっとその声を聞きたくて、もっとこの女を啼かせたくて、自分の全身全霊を目の前の女体にのみ注ぎたくなる。
「ああ♥ あぁ、いいぃ……♥ いっ……あっ……あぁああ♥」
自分の頭を抱く細い腕、背筋を這う柔らかな指、時折、食い込む小さな爪。
腰が艶めかしく動き、内太ももをこすり合わせる動きに着物の裾がはだける。
女の色香が白い肌から滲み出て、紫煙をなし、周囲の空気を淫靡なものへと変えていく。
こちらが手を体に沿わせて股間へと這わせると、ほんの少しだけ、太ももを閉じて抵抗して見せる。その抵抗に自分の中の嗜虐心に火が付く。
なんとしても、この女を犯さなければ、その火は消えない。
普段の優しさも、思いやりも、今この時は、沸き上がる獣欲に逆らえない。
太ももの間に手を強引に割り込ませると、力任せに股間を開かせた。軽い抵抗をしただけで、太ももを開き、指先が秘所に当たる。
「っ!」
湿気ているどころか、濡れそぼった女陰の感触に意地悪な笑みが漏れる。
「……やぁ♥」
対照的に顔を赤く染めて、恥ずかしそうに顔をそむける女に征服欲が満足して、もっと満足させろと沸き上がる欲で興奮が高まる。
さっきまでひょうひょうとして、こちらを煙に巻く、余裕綽々だった女が、今は自分の下で快感に顔を赤らめ、喘ぎ声を漏らし、股間を濡らしている。男としては最高の自信を与えてくれる。
「こんなに濡らして、イヤらしい女ですね」
「こんなにも、期待に膨らまされたら、応じてしまうのが、女というものじゃ」
指で女陰をなぞりあげて意地悪をささやくと、スエットの上からガチガチになった男根を指でひと撫でされた。
その一撃だけで背骨に甘い刺激が走り抜け、発射しそうになる。それを何とか堪えたのは、風呂場で一発抜いておいたおかげだろう。
「妾の準備はとうに整っておるぞ。あとは、おぬしのそれだけじゃ♥」
顔を赤らめながらも、足を開いて、自分の指で広げて見せた。濡れて微かな光に浮かび上がる粘膜のひだの奥に、見ているだけで達してしまいそうな穴がよだれを垂らしながら、こちらを待っていた。
「もう、俺、止まりませんよ?」
最初から止まるつもりも、止まれる自信もないくせに、そんなことを口にしてしまう。無茶苦茶に犯しても文句を言わせないために。
「ふふ、言いおるわ。それなら、妾を満足させるまで止まらせぬぞ♥」
腰を軽くくねらせると、妖しく笑みをこぼす桔梗さんの顔は淫らに美しかった。獣欲に支配された心にすらも、美しいと感じさせるほど。
「ああ、もう、本当に!」
様々な感情が頭の中でこんがらがって、混ざり合い、最後にできたものは、快感と快楽に従い、着ているものを脱ぎ捨て、目の前で自分を誘う最高の女に覆いかぶさることだった。
「あっ……♥」
「ぐぅっ……」
怒張したものの先端が粘膜に当たる。それだけなのに、腰が蕩けそうなほどの甘い刺激に全身の鳥肌が立つ。
呼吸を荒くして、腰を前へと突き出すことに集中する。桔梗さんの手がそっと添えられ、入口へと優しく導く。その指先に触れられることですら、達してしまいかねないほどの快感だった。
血液の大半が男性器に集中しているのだろう。脳が働いていない。いや、男性器で快感を吸収した血液が全身に回っているからだろうか? 呼吸ができなくなるほど快感に溺れ、無限に女体をむさぼりたくなる。
気づけば、挿入してすぐに発射していた。
「ずいぶん、堪え性のない、わんぱく坊主じゃな♥」
くすりと微笑む桔梗さんだが、一回出したぐらいで萎える気はしない。実際、発射する前と同じ硬度を保っている。
「その、わんぱく坊主に、啼かされてください」
快感に少し慣れたか、腰を動かした。腰を動かすたびに、熱い肉襞が絡みつき、壁の表面の微細な突起や繊毛のようなさらに細かい襞が亀頭を、カリを、裏筋を絡みついて締め上げ脈動する。
三擦り半など甘い。半擦りで一度射精する。
ただ、射精しても萎えることなく、疲れを知らずに益々たぎってくる。
性欲旺盛な高校時代でも、これほどのことはなかった。
射精して敏感になったものが強制的に勃起を維持されている。快感を超えて、激しい苦痛に近い快感に神経が焼き切れるような感覚がする。だが、腰を振ることは止められない。
このまま腰を振り続ければ、死んでしまうかもしれない。本能が恐怖しながらも、口が開き、よだれが垂れ流され、腰を振って、女を犯し続けた。
「あっ、あっ、あんっ♥ んっ、あ、ああぁ、あぁぁぁっ……♥ いいっ、その、その調子じゃぁっ♥」
自分の下で同じように快感に飲まれて、体をくねらせ、妖しくいやらしく身もだえる女を見ると、このまま死んでも悔いはないと思う。ただ、死ぬどころか、ますます元気になってくる気がするので、死なないことは分かる。だが、死んでもいいと思うのは本気だ。
胸の桔梗の刺青が紫の赤みが増して興奮で赤みを指した肌に映える。
何度目か憶えていない射精をして、愛液と混ざったものが中からあふれ出て、いやらし音楽をかき鳴らす。
奥に突っ込み、子宮を押し込み、浅いところで離すまいと締め上げる膣を感じ、延々と続く射精をしながら、快楽の脳内麻薬の海に沈んでいく。
昔、女は何度も絶頂できるから男よりも気持ちいいという話を聞いたことがある。だが、今、何度も絶頂して、射精するたびに快感が上がっていく。これは、女の快感と同じ以上だ。
「やぁっ! あっ、あ、そんな、はげしくっ♥ かんじるっ♥ あっ、いいっ、くぅ、いいぃ!」
犯している女の快感すらも自分に流れ込んでくるようだ。もう、どっちがどっちなど関係ない。二人でつながり、魂さえも溶け合い、一つになっている。
いつ果てるない交わりが終わったのは、気を失ったから何時だったかは覚えていない。
ただ、朝、目を覚ました時、身体が嘘のように軽く、疲労感も全くないどころか、気力充実していた。
「目が覚めたか? なかなか、気持ちよかったぞ♥」
キセルから紫煙をたなびかせ、桔梗さんは煙草盆を脇に置いて目を細めていた。
彼女は昨夜の情事など無かったかのように、昨夜の初めて見たときと同じようにいやらしく着物を着ていた。
一瞬、夢かと思ったが、精液と愛液でぐしゃぐしゃになったシーツと布団、そして、それらの匂いをぷんぷんさせている自分の下半身を見て、現実であったことを再確認した。
「朝餉の用意を整えておくから、風呂にでも入ってこい。妾たちは気にはせんが、おぬしら人間は気にするのであろう?」
俺は顔を赤くして、風呂場に向かった。
桔梗さんと、あんな美女としたことを思い出すと、昨夜、気を失うほどに吐精したにも関わらず、股間のものが起き上がってきた。
「どんだけ元気なんだよ」
苦笑しつつ、頭を冷やそうと風呂場に入ると、湯気が立ち込めていた。見ると、しっかり湯船にお湯が張られている。しかも、昨日の残り湯でなく、新しく沸かしたものである。
その心遣いを無駄にできず、身体の汗と精液などをシャワーで流して、湯船につかった。
風呂から上がると、真新しい浴衣がおいてあった。部屋着のスエットも見当たらないので、それに袖を通した。
「すごく着心地がいい」
風呂上がりでかいた汗を吸っているのに、肌触りはサラサラで心地よかった。
食卓を見ると、炊きたてのご飯に温かい長ネギの味噌汁、焼いた鮭の切り身とサラダまでついていた。
「なんだか、ダメ人間になりそうだ」
食卓に座ってそう感想を漏らすと、テーブルをはさんで座っている桔梗さんがおかしそうに笑った。
「朝寝朝酒朝湯が大好きで身上をつぶしたものがおったのお」
「まさに、今そんな感じです」
三つの中で朝湯ぐらいしかしていないが、贅沢すぎる朝の時間に貧乏性な性分が落ち着かない。
「なら、つぶれんようにしっかり働くがよい」
桔梗さんは笑って答えると、朝食をおいしそうに食べはじめる。自分も「そうします」と答え、朝食をいただいた。
人間らしい朝の時間を過ごし、余裕をもって身支度を整えて、出社の時間となった。
こんなゆっくりした朝は生まれて初めてかもしれない。昨日までの生活では考えられない。
昨日まで……
玄関で靴を履いた時、ふと不安がよぎった。
「あ、あの、桔梗さん。まだ、うちに居てくれますよね?」
「ん? なんじゃ、藪から棒に」
お見送りに出るまでもなく、部屋の中で脇息にもたれ、キセルをふかしている桔梗さんが首をかしげた。
「いえ、その……なんというか、とらえどころがなくて、突然いなくなる気がして」
自分の感じたことを口にしてみるが、なんとももどかしい。
「そうじゃのお……こういう言葉があるじゃろ? 信じる者はすくわれる、と」
「じゃあ、信じて帰ってきていいんですね?」
上がりかまちを踏み越えそうな勢いで確認した。
「さあて、どうかの? すくわれるのは、足元かもしれんぞ」
イタズラっぽく笑みを浮かべられた。
「そんな……」
「この世は一寸先は闇夜じゃよ。どうなるものか、誰にもわからん。ならば、最善と思えることを、なすべきことをするだけよ。おぬしの最善は、ここで女々しく妾に抱き縋るか? それとも、男を挙げに七人の敵を倒しに行くか?」
情けない声を出す自分に桔梗さんは何事もなさげに問いかけてきた。
多分、試されているのだろう。いや、桔梗さんはどっちでもいいのかもしれない。
桔梗さんの質問と答えには意味はないのが正解だろう。
なら、答えは一つ。
「……行ってきます」
「うむ。夜の元気を残して帰ってくるのじゃぞ」
明るく桔梗さんが微笑んでくれた。それだけで、今日一日戦える。
扉を開けて、厳しい現実と辛い日常の世界へと踏み出した。
「さーて、今日も一日、頑張るか!」
紫の桔梗の花言葉
「永遠の愛」「変わらぬ愛」「気品」「誠実」
帰る途中で買ったコンビニ弁当を傾けないように気を付けながら、アパートの一階、端から二つ目の扉の鍵を開けた。
「ただいま」
独身で恋人もいないので部屋で待つ人などいないのに、つい習慣で帰宅を告げてしまう。
「おかえり。ずいぶんと遅かったのお」
見慣れた六畳一間の部屋に、和服を遊女のように着こなした妖艶な美女がキセルをくゆらせながら返事をした。
「え? あ、す、すいません! 間違えました」
靴を脱ごうとしていたのを慌てて履きなおし、扉の外に飛び出した。
連日の激務で疲れているとはいえ、部屋を間違えるなんて情けない。しかし、同じアパートにあんな色っぽい美女が住んでいたなんて全く知らなかった。
ラッキースケベ未満を喜びながら、今度はしっかりと部屋の番号を確認した。
「俺の、部屋だよな?」
そういえば、玄関の鍵も開いたことを思い出し、頭に疑問符が飛び交った。
「何をしておる。外は寒かろう? 早う、中に入れ」
呆然ととしているところに扉が開いて美女が顔を出すと、部屋の中に引っ張り込まれた。
中は確かに見慣れた自分の部屋だった。畳んで部屋の隅に押しやっている布団、クローゼット代わりにしているカバー付きハンガーレール、ホームセンターで買った樹脂製のタンス、それとテレビに折り畳み式のちゃぶ台。独身男性の一人暮らしの部屋基本セット。
そんな部屋で、まるでこの部屋の主人かのように堂々と美女がくつろいでいる。
「なんじゃ? ぼーっと突っ立っておって。自分の部屋に帰ってきたのじゃ。ゆっくりくつろいではどうだ?」
訳が分からず立ち尽くしていると、美女はキセルをくゆらせながら、妖しく微笑んだ。
部屋は彼女がくゆらせるキセルの紫煙で少し艶めかしく薄暗く感じる。
そんな中、長い艶やかな黒髪を結い上げて、白く細い首が露わになってなんとも色っぽい。
襟をはだけた和服から豊満な胸の谷間がいやらしく目の毒だ。半分着物に隠れているが、紫桔梗の刺青が覗いている。刺青をする女性は好みではないが、彼女に限っては、それがひどく魅力的に見えて仕方ない。
「どうした? 妾の顔に何かついとるのか?」
余裕たっぷりな微笑みを浮かべる赤い口紅を塗った唇がとても淫靡でしょうがない。秋波を送る切れ長の目は、少し潤んでこちらの欲情を誘っている。
こんな扇情的な美女など一度見たら忘れるはずがない。一体、誰なのだと思うと、ふっと思い出した。
「桔梗さん。ああ、桔梗さんだ。ただいま」
思い出した名前を確かめるように口にした。どうして忘れていたのかわからない。
「何を呆けたことを。疲れておるのか?」
「そうかもしれません」
呆れたように言われて苦笑を浮かべて玄関で靴を脱いで家に上がった。
「また、このようなもので夕餉を済まそうとしおって。しょうのないやつじゃ」
背広を脱ぐためにテーブルの上にコンビニの袋を置いた中を覗かれて文句を言われた。
「はは、勘弁してくださいよ。仕事で疲れて自炊する気力もないですよ」
ハンガーに背広をかけて、ワイシャツを脱いで、部屋着のスエットに着替えた。
「おぬしに作らせるわけが無かろう。ほれ、用意しておいたからたんと食べるがよい」
テーブルの上に湯気と香り立つご飯、温かい豆腐と揚げの味噌汁、カレイの煮つけとタコと胡瓜の酢の物が並んでいた。
「これは? 桔梗さんが?」
「そんなに驚くことでもあるまい。妾でも、この程度の料理ぐらいはできるぞ」
座布団の上に座らされ、目の前に並ぶ家庭料理に目を白黒していた。
「何をしておる? 稲荷に教えてもろうたから、味は確かじゃ。早う、食べい。冷めてまで美味いとは保証せんぞ」
悪戯が成功したような表情をされた。確かに言うとおりだと、箸を持って「いただきます」と桔梗さんに言ってご飯を口に運んだ。
炊き立てのご飯がこんなご馳走だったとは。
温かいお味噌汁も心にしみる。ああ、甘辛いカレイの煮つけでご飯が進む。酢の物で口の中をさっぱりさせると、いくらでも食べれそうだ。
「本当は香の物も付けたかったのじゃが、漬けたばかりじゃからな。おぬしは古漬けが好きであろう?」
「え? そんなものまで? はい。古漬けが好きです」
酸味の利いた白菜の漬物に香りづけ程度の数滴の醤油をかけて食べるのは、俺にとっての究極の家庭の味だ。
「楽しみにしておれ、よく漬かっておる。自信作じゃ」
そういいながら、買ってきたコンビニ弁当を桔梗さんが開けていた。
「き、桔梗さん?」
「ん? おぬしは妾の作った夕餉を食べて、この弁当まで食べるつもりか? いくら若いとはいえ、それはいささか食いすぎじゃろう?」
コンビニ弁当のご飯を割りばしで、ひょいひょいと口に運んで食べ始めた。
「い、いえ、桔梗さんはもう食べられたのかと……」
「一人の食事など味気ない。そう思わぬか?」
「それは、そうですけど……」
時間は日付が変わりかけている。今まで食べずに待っていてくれたと恐縮してしまう。
「気にするでない。だが、いくら遅くなっても、このようなものはもう必要ないと憶えておくとよいぞ。同じ食卓を囲んで、違う飯を食うのはいささか寂しいからの」
割りばしで俺の好物の鶏のから揚げをつまみ上げると、こちらの口元に運んできた。
「ほれ。あーん♥ じゃ」
くすっと笑う桔梗さんに顔を赤らめながら、雛のように口を開けて、唐揚げを食べさせてもらった。食べ飽きたコンビニのから揚げがこれほどおいしく感じることはない。まるで別物だ。
ご飯を食べていると妙に体が火照り始めた。絶世の美女と卓を挟んで食事をしているのだから、そうなってもおかしくはない。
部屋の中に充満する桔梗さんのキセルの煙が甘く煙たく空気に混ざり、やたら喉が渇く。煙に身体をまさぐられるようで、股間のものが反応する。
「ご馳走様」
綺麗に完食して箸をおいて手を合わせると、桔梗さんが満足そうに微笑んで「お粗末様」と返してくれた。
「ほれ。片付けておくから、さっさと風呂に入って来い」
食後の休みもなく風呂に追い立てられた。
当然のように風呂も沸いて、久しぶりに湯船に身を沈めた。風呂場は一畳ほどのスペースなので風呂桶は一人でも窮屈だが、それでも湯につかると疲れが取れる気がした。
身体を拭いて風呂を上がると、布団が敷いてあり、その横で煙草盆をそばに置いて脇息にもたれかかりながら桔梗さんがくつろいでいた。
部屋はほんのりと紫がかった薄暗さで、桔梗さんの白い肌がその闇の中で艶めかしく輝いていた。
「ずいぶんと長湯だったの」
お見通しとばかりに微笑を浮かべる桔梗さんに、ぞくりとしたものが背筋に走った。さっき風呂場で一回、抜いて来たのに、股間はもう臨戦態勢を整えていた。
「どうした? そんなところで、突っ立っておっても、妾には触れられぬぞ」
触れられないということは、近づけば触れてもいいということだよな?
「一人でするのが好きと言うのであれば、そこでしておっても構わぬが?」
もう、我慢の限界だった。押し倒すようにして、覆いかぶさり、その豊満な胸を揉んだ。
指を押し返す弾力が揉み応えがある。手に吸い付くような肌も心地よい。まるで手が性感帯になったかのように、この胸をいつまでも揉んでいたい。
「まったく、いつの世も、どこの土地でも、男というものは女子の乳が好きじゃのう」
呆れたような声が聞こえ、顔を上げると目の前に桔梗さんの顔があった。
「こういう時は、まずは口吸いをするものじゃぞ」
赤い唇が半開きになり、中の舌がチロリと覗く。艶めかしく妖しい吐息に煙草の甘辛い香りが混ざり、それを直接吸いたくなる。
「んっ♥……」
唇を押し当て、小さな口に舌を差し込む。乱暴に差し込んだ舌を優しく迎え入れてくれる小さな舌が自分の舌に絶妙に絡みつく。
「んっ♥ ん……んん……♥」
桔梗さんの唾液が、度数の強いお酒を口に含んだようで快感の刺激で脳髄が痺れる。灰色の脳細胞を桃色に染めていくのを感じた。
キス一つで、女を知らない頃のように股間が熱く猛り、余裕なく、女体をむさぼりたくなる。
「んあぁ……はぁ……」
息苦しさに呼吸するのも忘れていたことを思い出す。少しだけ口を離して空気を吸う。
その空気すらもいやらしい香りを含み、媚薬のように身体をうずかせる。
「吸いたい場所は他にもあるんじゃろ?」
桔梗さんの指先が襟にかかり、ギリギリだった着物が危険領域を超えて解禁される。
柔らかな白い丘の上に桃色の突起がぷっくりと、何かを期待して膨らんでいた。
「あ、ああ……」
もはや言語中枢も快感の処理に追われて、うめき声しか発せられず、その突起にむしゃぶりついた。
「ひぃあっ♥」
食いつくと同時に桔梗さんのびくんっと体が震え、白かった肌が淡い桜色に色づく。それとともに、胸の弾力が柔らかさに変わり、揉めば手のひらの中で形を変える。
この女を、誰もがうらやむ絶世の美女を、自分の手で変えれることが、ひどく興奮した。俺の女に作り変える。そんな黒い欲望が遠慮なく湧いてくる。
「ふあぁ♥ ああっ♥」
揉むたびに反応し、吸い付くたびに痙攣する。反応の良さにも男の自信を刺激される。
「そんなに……がっつくで、ない♥」
たしなめる声も感じて、蕩けているのがわかると、もともとなかった歯止めが加速する側に回った。
舌の先で突起をもてあそび、そのたびに嬌声が耳に届く。甘えるような女の鳴き声に耳が中毒になる。もっとその声を聞きたくて、もっとこの女を啼かせたくて、自分の全身全霊を目の前の女体にのみ注ぎたくなる。
「ああ♥ あぁ、いいぃ……♥ いっ……あっ……あぁああ♥」
自分の頭を抱く細い腕、背筋を這う柔らかな指、時折、食い込む小さな爪。
腰が艶めかしく動き、内太ももをこすり合わせる動きに着物の裾がはだける。
女の色香が白い肌から滲み出て、紫煙をなし、周囲の空気を淫靡なものへと変えていく。
こちらが手を体に沿わせて股間へと這わせると、ほんの少しだけ、太ももを閉じて抵抗して見せる。その抵抗に自分の中の嗜虐心に火が付く。
なんとしても、この女を犯さなければ、その火は消えない。
普段の優しさも、思いやりも、今この時は、沸き上がる獣欲に逆らえない。
太ももの間に手を強引に割り込ませると、力任せに股間を開かせた。軽い抵抗をしただけで、太ももを開き、指先が秘所に当たる。
「っ!」
湿気ているどころか、濡れそぼった女陰の感触に意地悪な笑みが漏れる。
「……やぁ♥」
対照的に顔を赤く染めて、恥ずかしそうに顔をそむける女に征服欲が満足して、もっと満足させろと沸き上がる欲で興奮が高まる。
さっきまでひょうひょうとして、こちらを煙に巻く、余裕綽々だった女が、今は自分の下で快感に顔を赤らめ、喘ぎ声を漏らし、股間を濡らしている。男としては最高の自信を与えてくれる。
「こんなに濡らして、イヤらしい女ですね」
「こんなにも、期待に膨らまされたら、応じてしまうのが、女というものじゃ」
指で女陰をなぞりあげて意地悪をささやくと、スエットの上からガチガチになった男根を指でひと撫でされた。
その一撃だけで背骨に甘い刺激が走り抜け、発射しそうになる。それを何とか堪えたのは、風呂場で一発抜いておいたおかげだろう。
「妾の準備はとうに整っておるぞ。あとは、おぬしのそれだけじゃ♥」
顔を赤らめながらも、足を開いて、自分の指で広げて見せた。濡れて微かな光に浮かび上がる粘膜のひだの奥に、見ているだけで達してしまいそうな穴がよだれを垂らしながら、こちらを待っていた。
「もう、俺、止まりませんよ?」
最初から止まるつもりも、止まれる自信もないくせに、そんなことを口にしてしまう。無茶苦茶に犯しても文句を言わせないために。
「ふふ、言いおるわ。それなら、妾を満足させるまで止まらせぬぞ♥」
腰を軽くくねらせると、妖しく笑みをこぼす桔梗さんの顔は淫らに美しかった。獣欲に支配された心にすらも、美しいと感じさせるほど。
「ああ、もう、本当に!」
様々な感情が頭の中でこんがらがって、混ざり合い、最後にできたものは、快感と快楽に従い、着ているものを脱ぎ捨て、目の前で自分を誘う最高の女に覆いかぶさることだった。
「あっ……♥」
「ぐぅっ……」
怒張したものの先端が粘膜に当たる。それだけなのに、腰が蕩けそうなほどの甘い刺激に全身の鳥肌が立つ。
呼吸を荒くして、腰を前へと突き出すことに集中する。桔梗さんの手がそっと添えられ、入口へと優しく導く。その指先に触れられることですら、達してしまいかねないほどの快感だった。
血液の大半が男性器に集中しているのだろう。脳が働いていない。いや、男性器で快感を吸収した血液が全身に回っているからだろうか? 呼吸ができなくなるほど快感に溺れ、無限に女体をむさぼりたくなる。
気づけば、挿入してすぐに発射していた。
「ずいぶん、堪え性のない、わんぱく坊主じゃな♥」
くすりと微笑む桔梗さんだが、一回出したぐらいで萎える気はしない。実際、発射する前と同じ硬度を保っている。
「その、わんぱく坊主に、啼かされてください」
快感に少し慣れたか、腰を動かした。腰を動かすたびに、熱い肉襞が絡みつき、壁の表面の微細な突起や繊毛のようなさらに細かい襞が亀頭を、カリを、裏筋を絡みついて締め上げ脈動する。
三擦り半など甘い。半擦りで一度射精する。
ただ、射精しても萎えることなく、疲れを知らずに益々たぎってくる。
性欲旺盛な高校時代でも、これほどのことはなかった。
射精して敏感になったものが強制的に勃起を維持されている。快感を超えて、激しい苦痛に近い快感に神経が焼き切れるような感覚がする。だが、腰を振ることは止められない。
このまま腰を振り続ければ、死んでしまうかもしれない。本能が恐怖しながらも、口が開き、よだれが垂れ流され、腰を振って、女を犯し続けた。
「あっ、あっ、あんっ♥ んっ、あ、ああぁ、あぁぁぁっ……♥ いいっ、その、その調子じゃぁっ♥」
自分の下で同じように快感に飲まれて、体をくねらせ、妖しくいやらしく身もだえる女を見ると、このまま死んでも悔いはないと思う。ただ、死ぬどころか、ますます元気になってくる気がするので、死なないことは分かる。だが、死んでもいいと思うのは本気だ。
胸の桔梗の刺青が紫の赤みが増して興奮で赤みを指した肌に映える。
何度目か憶えていない射精をして、愛液と混ざったものが中からあふれ出て、いやらし音楽をかき鳴らす。
奥に突っ込み、子宮を押し込み、浅いところで離すまいと締め上げる膣を感じ、延々と続く射精をしながら、快楽の脳内麻薬の海に沈んでいく。
昔、女は何度も絶頂できるから男よりも気持ちいいという話を聞いたことがある。だが、今、何度も絶頂して、射精するたびに快感が上がっていく。これは、女の快感と同じ以上だ。
「やぁっ! あっ、あ、そんな、はげしくっ♥ かんじるっ♥ あっ、いいっ、くぅ、いいぃ!」
犯している女の快感すらも自分に流れ込んでくるようだ。もう、どっちがどっちなど関係ない。二人でつながり、魂さえも溶け合い、一つになっている。
いつ果てるない交わりが終わったのは、気を失ったから何時だったかは覚えていない。
ただ、朝、目を覚ました時、身体が嘘のように軽く、疲労感も全くないどころか、気力充実していた。
「目が覚めたか? なかなか、気持ちよかったぞ♥」
キセルから紫煙をたなびかせ、桔梗さんは煙草盆を脇に置いて目を細めていた。
彼女は昨夜の情事など無かったかのように、昨夜の初めて見たときと同じようにいやらしく着物を着ていた。
一瞬、夢かと思ったが、精液と愛液でぐしゃぐしゃになったシーツと布団、そして、それらの匂いをぷんぷんさせている自分の下半身を見て、現実であったことを再確認した。
「朝餉の用意を整えておくから、風呂にでも入ってこい。妾たちは気にはせんが、おぬしら人間は気にするのであろう?」
俺は顔を赤くして、風呂場に向かった。
桔梗さんと、あんな美女としたことを思い出すと、昨夜、気を失うほどに吐精したにも関わらず、股間のものが起き上がってきた。
「どんだけ元気なんだよ」
苦笑しつつ、頭を冷やそうと風呂場に入ると、湯気が立ち込めていた。見ると、しっかり湯船にお湯が張られている。しかも、昨日の残り湯でなく、新しく沸かしたものである。
その心遣いを無駄にできず、身体の汗と精液などをシャワーで流して、湯船につかった。
風呂から上がると、真新しい浴衣がおいてあった。部屋着のスエットも見当たらないので、それに袖を通した。
「すごく着心地がいい」
風呂上がりでかいた汗を吸っているのに、肌触りはサラサラで心地よかった。
食卓を見ると、炊きたてのご飯に温かい長ネギの味噌汁、焼いた鮭の切り身とサラダまでついていた。
「なんだか、ダメ人間になりそうだ」
食卓に座ってそう感想を漏らすと、テーブルをはさんで座っている桔梗さんがおかしそうに笑った。
「朝寝朝酒朝湯が大好きで身上をつぶしたものがおったのお」
「まさに、今そんな感じです」
三つの中で朝湯ぐらいしかしていないが、贅沢すぎる朝の時間に貧乏性な性分が落ち着かない。
「なら、つぶれんようにしっかり働くがよい」
桔梗さんは笑って答えると、朝食をおいしそうに食べはじめる。自分も「そうします」と答え、朝食をいただいた。
人間らしい朝の時間を過ごし、余裕をもって身支度を整えて、出社の時間となった。
こんなゆっくりした朝は生まれて初めてかもしれない。昨日までの生活では考えられない。
昨日まで……
玄関で靴を履いた時、ふと不安がよぎった。
「あ、あの、桔梗さん。まだ、うちに居てくれますよね?」
「ん? なんじゃ、藪から棒に」
お見送りに出るまでもなく、部屋の中で脇息にもたれ、キセルをふかしている桔梗さんが首をかしげた。
「いえ、その……なんというか、とらえどころがなくて、突然いなくなる気がして」
自分の感じたことを口にしてみるが、なんとももどかしい。
「そうじゃのお……こういう言葉があるじゃろ? 信じる者はすくわれる、と」
「じゃあ、信じて帰ってきていいんですね?」
上がりかまちを踏み越えそうな勢いで確認した。
「さあて、どうかの? すくわれるのは、足元かもしれんぞ」
イタズラっぽく笑みを浮かべられた。
「そんな……」
「この世は一寸先は闇夜じゃよ。どうなるものか、誰にもわからん。ならば、最善と思えることを、なすべきことをするだけよ。おぬしの最善は、ここで女々しく妾に抱き縋るか? それとも、男を挙げに七人の敵を倒しに行くか?」
情けない声を出す自分に桔梗さんは何事もなさげに問いかけてきた。
多分、試されているのだろう。いや、桔梗さんはどっちでもいいのかもしれない。
桔梗さんの質問と答えには意味はないのが正解だろう。
なら、答えは一つ。
「……行ってきます」
「うむ。夜の元気を残して帰ってくるのじゃぞ」
明るく桔梗さんが微笑んでくれた。それだけで、今日一日戦える。
扉を開けて、厳しい現実と辛い日常の世界へと踏み出した。
「さーて、今日も一日、頑張るか!」
紫の桔梗の花言葉
「永遠の愛」「変わらぬ愛」「気品」「誠実」
21/01/29 21:39更新 / 南文堂