第五話「空腹の贈り物 〜〜朝食は一日の源〜〜」
ザックは目を覚まして周囲の景色に一瞬驚いた。そして、自分の今いる場所を思い出して納得した。
ザックの寝ていたベッドは、一人で寝るには大きすぎる大きさだった。さらに、藁でなく綿のベッドにはリンネルのシーツが掛けられている。ついでに、身体にかかっていたのは虫の湧いていないふわふわの羊毛でできた毛布であった。
こんな寝具を使えるのは、かなり裕福な貴族ぐらいである。下手すると王族レベルかもしれない。
部屋の大きさはザックの住んでいた家と比べて四倍以上はあった。
シミ一つない白い壁には保温のためのタペストリーが飾られてあり、床には毛足の長い絨毯が敷き詰められていた。窓も高級な透明なガラスがはめられているのを、ザックは最初、戸板が開いていると勘違いしたぐらいであった。
さらに驚いたことに、ザックも噂でしか聞いた事のない、水道がついていた。蛇口の栓を緩めると水が出てくる仕組みに昨夜はかなり驚いた。手や顔を洗うだけでなく、簡単な調理ぐらいはできるように熱魔法を組み込んだ七輪まで置いてあった。
当然のように、部屋の明かりはろうそくや油ではなく、魔法の明かりであった。
それらの備品に関する説明の書かれた紙がテーブルの上になければ、ザックは何がなにやら理解するのに夜中まで起きていなければならなかっただろう。
その説明書の置いてあったテーブルをみると、ガラス製の水差しにグラスが置いてあった。
「これだけでも売ったら、半月分の生活費になるな」
ザックは貧乏性の習いか調度品の値踏みをした。そして、この部屋が特別でないというのであれば、魔物たちの世界と人間の世界での生活水準の格差は雲泥ほどあることを思い知った。
「人間の勝てる相手じゃないな」
親魔物国家に暮らしているザックですら、驚愕する部屋であった。
実際、昨晩、この部屋に入ってから、その豪華さに驚き、何かに騙されているのではないかと真剣に考え込んでいた。しかし、竜騎士団が、候補生という身分にもかかわらず、これだけの待遇をしてくれることは、それだけ国にとって重要な組織であり、これに見合うだけの重責と危険があるのだと理解した。
「早まったかもしれないが、なるようになるか」
ザックはベッドから降りると、水道の栓を緩め、水盆に水を溜めると顔を洗い、それまで着ていたツギハギだらけの服ではなく、部屋に用意されていた服に着替えた。
綿のシャツは生成りではなく、白く漂白されていて、少しまぶしいぐらいであった。一瞬、袖を通すのがためらわれたが、着ないわけにはいかないので、柔らかな袖に腕を通した。
ズボンは、厚手の綿生地で、こちらは黒く染色されていた。ただ、内股と尻の部分には革が当てられていた。
幅広の革のベルトを締めて、位置を少し調整した。ベルトには色々と金具があり、説明書きには、騎竜に乗る時に命綱などをつけるものや、装備品をぶら下げるためのものだと書かれていた。
ザックは服と一緒に置いてあった短刀をベルトに下げた。ザックも護身用の短剣を持ってはいたが、ナマクラすぎて使い物にならないので置いてきた。
「この金具は……自分の愛用の剣などを下げるのにご使用ください。って書いてあるけど、そんなものはないしな……あ、そうだ」
ザックは持ってきた数少ない荷物を思い出し、その中から鉈を入れておく革製の鞘を取り出した。鞘の中には鉈は入っておらず、一本の薄汚れた安物の笛が入っていた。
「何もぶら下げないよりかは格好がつくな」
給料が出たら、自分が扱えそうな剣を街の武器屋にでも探しにいこうと思いつつ、鞘をベルトの金具に固定した。
ジャケットは、臙脂色のコーデュロイで保温性が高そうな生地で、丈は尻の下ぐらいまでのやや長めになっている。左胸には竜と槍が一体となったデザイン――竜騎士団の紋章が金色の刺繍糸で刺繍されてあった。袖口にも金の輪が一本入っていた。
大きな鏡に自分の姿を映すと、その見慣れない自分の姿に違和感しかなく、照れ隠しのように苦笑いを浮かべた。
ザックは、先日の晩餐会のようなところで給仕などの仕事もしていた。その時は衣装を貸し出されるので、綺麗な服を着た自分の姿には比較的見慣れている方だが、鏡の中にいる自分は給仕を受ける側、まるで貴族の子弟のような格好をした自分が映っていた。
「そのうち、慣れるといいんだけどな」
黒髪をかいてため息をついたが、いつまでも恥ずかしがるわけにはいかないと気分を切り替えた。
とにもかくにも、準備を万端に整え終えて、ザックは廊下に出る扉を開いて東の空を確認した。ようやく白み始めて、空がほのかに明るくなってきていた。
「場所が変わって、朝、起きれるか不安だったが、寝坊しなくて良かった」
ザックは胸をなでおろしつつ扉を閉めて、椅子に座ってユードラニナが来るのを待つことにした。
「遅いな」
しばらくして、ザックは呟いた。
こちらは西側だが、その空も明るくなって来ているので、もう日は昇っているはずだった。朝に迎えに来ると言っていたのだから、もうそろそろ来てもいい頃だろうと首をかしげた。
「昨日、何かよくわからんが怒らせたみたいだったが」
それで迎えに来ないという可能性もあったが、ザックはすぐさま自分で否定した。
ユードラニナと知り合って二日程度の短い時間しかないが、彼女がそんな自分の感情を優先させるような竜には思えなかった。
「まあ、朝というだけで、何刻というのまで、はっきり聞いていなかったしな。そのうち来るだろう」
そうは言ったものの、部屋の中をうろつきまわり、時々扉を開けては廊下を確認したり、窓の外を眺めたりして、落ち着きなく時間を潰した。
「ユニに何かあったんじゃないか?」
もうそろそろ、朝というには遅い時間になってザックは少し焦り始めた。
しかし、陸の王者であるドラゴンに「何かする」など、かなりの難易度だろうとザックは考え直した。はっきりとは聞いてはいなかったが、ユードラニナの純粋な戦闘力は竜騎士団の中でもトップクラスであることは察することができた。
「ユニが急な任務とかすることになったなら、こっちに連絡があってもおかしくないしな」
ザックは色々と考えを廻らせて、最善手であろう「そのまま部屋で待機」を選択した。
そして、さらに落ち着かない時間を潰し、その選択を後悔して、再びどうするかを考え始めたころ、扉がノックされた。
「ザック、起き――」
ユードラニナが二回目のノックをする前に扉が猛烈な勢いで開けられた。それに驚いて彼女は硬直した。
「朝って、俺の聞き間違いか?」
挨拶もなくザックがちょっと涙目で叫んだ。青い竜は赤い瞳をぱちくりとしていたが、思いあたることに気がついて、立派な鉤爪の手をぽんと叩いた。
「すまない。言い忘れていた」
そういって、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「竜騎士団では一般的な起床時間は十時ごろなのだ。早朝点呼があるのも十時だしな。それで、実際に活動をし始めるのは正午すぎになる。だから、午前中は竜騎士団では早朝という感覚なのだ」
ユードラニナの答えにザックはがっくりと膝に手をついた。
「それは、そうと……竜騎士の服、似合っているな」
ちょっと視線をそらしながら、頬を黒曜石のような爪でかいてザックの姿を褒めた。
「ありがとう。自分ではお仕着せで落ち着かないがな」
ザックは彼女に全身を見せるように、少し身体をひねって後姿も見せた。
本人としては、おかしいところがないかチェックしてもらうつもりだったのだろうが、彼女にとれば、デートに来た相手が「かっこいい?」と自分の姿を見せつけるようにしか見えなかった。
「い、いや。そうしてみると立派な竜騎士に見える。ま、馬子にも衣装というしな」
「それは自分でもわかっている。早く中身も伴うように頑張るよ」
ユードラニナの言葉にザックは苦笑を浮かべた。
素直に褒めている途中で、それが恥ずかしくなってきて悪態をつくのはドラゴンの悪癖の一つとして、よく独身の竜たちが集まって開く女竜会の議題に上がっていた。だが、その対処法は竜の叡智を持ってしても、いまだに回答が出ていない難題だった。
そんな自分の悪癖の発言を後悔しているユードラニナをよそに、その発言をされたザック本人はまったく気にせず、ジャケットの襟を正して気合を入れた。
「さて、こっちは本当の早朝から起きて準備万端だ。どこで何をするかわからんが、出発しようか」
これ以上待たされるのは勘弁して欲しいとユードラニナをせかした。
「い、いや。気合を入れているところすまないが、ちょっと待ってくれ。アリィたちはまだ来ていないのだ。今日はガイダンスをする予定だから、アリィたちが来ないとはじまらん」
ユードラニナはザックの出撃の気合を削ぐことを申し訳なさそうに謝った。
「そうか。なら、仕方ないな」
ザックはそれではどうしようもないと、少し肩を落とした。その瞬間に、どこからか、いい匂いが漂ってくるのを感じて、鼻をひくつかせた。そのいい匂いで自分が昨日の昼から何も食べていないことを思い出した。
「ユニ、もし、時間があるなら食堂の場所を教えてくれないか? 昨日の昼から何も食っていないんだ。空腹には慣れてるが、さっきからいい匂いがしていて空腹を忘れるのがちょっと辛い」
ザックはおなかのあたりを押さえた。それと同時に腹の虫が鬨の声を上げた。
「それも言い忘れていたな。食堂は一階の南端、騎士団本部の建物側にある」
「今、やっているのかな? ちょっと行ってみる」
ザックが表に出ようとするのをユードラニナが翼と手を広げて彼の行く手をふさいだ。
「しょ、食堂は、いつでも候補生たちに食事を用意してくれている。だが、その……もし、ザックがよければだが、お前の嗅いでいる、いい匂いの正体がここにある。それを食べないか?」
そういって後ろに隠し持っていたバスケットをザックの目の前に差し出した。そこから肉を焼いた香ばしい香りが漂ってきて、ザックの胃袋は降伏の白旗を揚げた。
「ありがとう。わざわざ持ってきてくれたのか?」
ザックは心底嬉しそうに笑顔になってお礼を言いつつ、バスケットを受け取った。
「その……なんだ、昨日は、色々とすまなかった」
ユードラニナは少しばかりバツが悪そうにザックに謝った。
「何が? 俺の方が迷惑をかけてたかと思ったんだが」
ユードラニナの謎の謝罪にザックは困惑しつつ首をかしげた。
「ザックは何も悪くはない。ザックが竜騎士について知らないのもわかっていたことだ。それを私はきつく言ってしまった」
「なんだ。そんなことか」
謝罪の理由を聞いてザックは苦笑した。
「そんなこと、などでは――」
「それぐらいでへこたれたりするほど軟弱じゃないし、怒ったりするほど狭量じゃないよ。俺を誰だと思ってる? ザック様だぞ」
ザックはナルシストなキザっぽくポーズを決めておどけて見せた。だが、ユードラニナの反応がイマイチでザックは急に恥ずかしくなって、ポーズを取るのをやめた。
「と、とにかくだ。俺は気にしていない。そっちが気にするなら、お互い様ということにしよう。まあ、この謝罪はありがたく頂くけどな」
そういって、笑顔でバスケットを掲げた。
「そうだな。同じ竜騎士団の仲間となったことだしな」
ユードラニナは神妙に頷いてザックの提案を受け入れた。
「玄関で立ち話もなんだし、入ってくれ。といっても、何も持って来てないから水ぐらいしか出せないけどな」
ユードラニナを部屋の中に招き入れ、テーブルの椅子を勧めた。
「ここがザックの部屋か……」
ユードラニナは中に入ると周囲をものめずらしそうに見渡していた。
「ははは、部屋と言っても昨日の晩からだから実感はないけどな。こっち側の独身寮の中に入ったことはないのか? それとも、この部屋って、何か他と違うのか?」
ザックは水差しからグラスに水を注いで彼女に出しながら、この部屋だけ実は豪華なつくりになっていたのかと、昨晩からの驚きの連続を特別室ということで納得しかけた。
「いや、こちら側の独身寮の部屋は何度も入ったことがある。この部屋も他の部屋と同じだ。そ、それを確認しただけだ」
「そうなのか。それはすごいな」
ザックはここが普通の部屋だと確定して、改めて素直に驚いた。
「あ、いや。入ったことがあるのは、誰かいる部屋でなく、空き部屋で、そこのメンテナンスのために入っただけだ。だから、その、すごくはない」
ユードラニナはザックが感心しているのは、「幾人もの男性の部屋に入ったことがあるモテモテ竜」だと思われたことだと勘違いして弁解し、出された水を一気に飲み干した。その様子にザックは苦笑を浮かべた。
「もっと、お強いお酒をお持ちしましょうか?」
ザックが悪戯っぽく言うと、ユードラニナは「ばかもの」と顔を真っ赤にした。それをにこやかに見ながら、水差しから彼女のグラスにもう一杯、水を注いだ。
「さて、それじゃあ、朝飯をいただこうか。ところで、これはなんていう料理なんだ?」
ザックはバスケットの中から油紙に包まれたものを取り出した。
香ばしくタレをかけて焼き上げた肉と、何かに漬け込んだ炎のような形をした葉野菜が小麦粉をうすく焼いた生地に巻かれていた。
「それは、パムムというドラゴニア料理だ。そこの峡谷を渡った先に『ラブライド』という先代の騎士団長夫妻がやっている有名な料理店があって、そこの名物料理の一つだ」
ザックはユードラニナの説明を聞いてから、一口かぶりついて口に頬張った。
「これは美味いな」
そう言って、あっという間にパムムを平らげた。
「そうか、それはよかった」
ユードラニナは胸に手を当てて、ほっとした表情をした。
「景色はいいし、飯が上手い。観光客が来るのも納得だな。ラブライドか……落ち着いたら、一度食べに行ってみよう」
ザックはバスケットの中から次の包みを取り出して一人頷いた。
「そうだな。私のは本家の味にはまだ及ばないからな。あの味は先代騎士団長の旦那様が作ったソースが決め手で、なかなか再現できないんだ」
「え? これ、もしかして、ユニが作ったのか?」
ザックは驚いて、もう包みの油紙だけになった二つ目のパムムを指差して驚いた。
「何がそんなに驚くことがある? 私だって料理ぐらいはするぞ」
驚かれたことにムッとして言い返した。
「すまん。そういうキャラに見えなかった。どちらかというと、食材を消し炭にするタイプと思ってた」
「失礼な奴だな。そんな事を言うと、もう食べさせんぞ」
バスケットを取り上げられた。
「ああっ! わるかった。謝るから、ユードラニナさんが作ったおいしい朝ごはんを食べさせてください」
無愛想な顔を精一杯笑顔にして懇願した。その笑顔の力か、ユードラニナはバスケットをテーブルの上に戻した。
「まったく。調子のいい男だ」
「普段はそうでもないんだがな。美味しいものと美味い酒は人生を豊かにしてくれるんで、全力を尽くすことにしているんだ。でも、本当にありがとうな。朝ごはん作ってくれて」
三つ目のパムムを手に取りながらお礼を言うと、ユードラニナはそっぽを向いた。
「礼には及ばない。店で売っている、どこかのワイバーンのブレスで焼かれた肉を食べさせるなど……いや、なんでもない。とにかく、これぐらいは私ぐらいのドラゴンなら朝飯前だ」
照れながら言うのを微笑ましく見つめながら三つ目のパムムを平らげた。貧乏性の習いで、まだ何か入っていないかバスケットの中を覗き込むと、隅に焦げたパンが一つ入っていた。ザックはそれを手に取り、バスケットから取り出した。
「そ、それは!」
横目でそれを見て、ユードラニナは慌てて、それを奪い返そうと手を伸ばしたが、今度はザックが一瞬早くそれを遠ざけて安全圏に避難させた。
「パン……だと思うんだが?」
ザックの問いにユードラニナはがっくりと肩を落とした。
「その通りだ。それはドランスパンという、この地方で食べられているパンだ」
「結構、固いな。それに焦げているみたいだ」
表面をノックをするように叩くと、かなり渇いた音がした。
「本当は表面はパリッとしているが、中はもっちりとしたパンなんだが、私はそれを焼くのが上手くないんだ。今朝も挑戦してみたのだが、そんなものしかできなかった。バスケットに入れないでおいたはずなのに……」
シュンと落ち込んでいるユードラニナをよそにザックは幅広のベルトに差してある短刀を抜いて、パンに突き立てた。支給された短刀がなかなかの切れ味だったおかげで、苦労しつつも口に入る大きさに切り分けることができた。
表面はがっしりと木の皮のように硬くなっていて、中も水分が少なくて、何日も放置していたパンのように乾燥していた。
「この固さは、四日目から五日目ぐらいか。ま、水につければいけるな」
ザックはパンを水に浸して食べ始めた。予想以上の歯ごたえに少し驚きはしたが、粗食で鍛えられたあごの力をフルに発揮して噛み千切り、胃の中に流し込んでいった。
「む、無理をするな。そんな固いパンを食べて、歯でも欠けたらどうする」
明らかに無理をしているのがわかってユードラニナは止めようとした。
「貧乏人を舐めるなよ。これより固いパンだって食べてたよ。でももし、歯が欠けたら、責任取ってもらって、ユニの爪で差し歯でも作ってもらうよ」
ザックの台詞にユードラニナは真っ赤になった。床に転げまわらなかったのは、硬直したおかげだっただけである。
ドラゴニアでは、竜は自分の爪で作ったアクセサリーを夫にプレゼントするのが慣わしになっていた。もちろん、ザックがそのことを知るのはちょっと先の話である。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
岩石のようなドランスパンを漢食してザックは手を合わせた。正直なところ、あごが筋肉痛になりそうであったが、それを見せない男の意地ぐらいは持ち合わせていた。
「次は、ちゃんとスープを持ってくる」
「いや、そこは上手く焼くように努力しろよ」
ちゃっぴり涙目で赤面したままユードラニナが宣言したのを間髪いれずにザックがつっこんだ。それで二人は笑みをこぼした。
「わかった。今度は上手く焼いてみせる」
「じゃあ、また頼むよ」
ザックがお願いするとユードラニナはそれには応えず、少し寂しそうな笑顔を浮かべただけであった。
ザックの寝ていたベッドは、一人で寝るには大きすぎる大きさだった。さらに、藁でなく綿のベッドにはリンネルのシーツが掛けられている。ついでに、身体にかかっていたのは虫の湧いていないふわふわの羊毛でできた毛布であった。
こんな寝具を使えるのは、かなり裕福な貴族ぐらいである。下手すると王族レベルかもしれない。
部屋の大きさはザックの住んでいた家と比べて四倍以上はあった。
シミ一つない白い壁には保温のためのタペストリーが飾られてあり、床には毛足の長い絨毯が敷き詰められていた。窓も高級な透明なガラスがはめられているのを、ザックは最初、戸板が開いていると勘違いしたぐらいであった。
さらに驚いたことに、ザックも噂でしか聞いた事のない、水道がついていた。蛇口の栓を緩めると水が出てくる仕組みに昨夜はかなり驚いた。手や顔を洗うだけでなく、簡単な調理ぐらいはできるように熱魔法を組み込んだ七輪まで置いてあった。
当然のように、部屋の明かりはろうそくや油ではなく、魔法の明かりであった。
それらの備品に関する説明の書かれた紙がテーブルの上になければ、ザックは何がなにやら理解するのに夜中まで起きていなければならなかっただろう。
その説明書の置いてあったテーブルをみると、ガラス製の水差しにグラスが置いてあった。
「これだけでも売ったら、半月分の生活費になるな」
ザックは貧乏性の習いか調度品の値踏みをした。そして、この部屋が特別でないというのであれば、魔物たちの世界と人間の世界での生活水準の格差は雲泥ほどあることを思い知った。
「人間の勝てる相手じゃないな」
親魔物国家に暮らしているザックですら、驚愕する部屋であった。
実際、昨晩、この部屋に入ってから、その豪華さに驚き、何かに騙されているのではないかと真剣に考え込んでいた。しかし、竜騎士団が、候補生という身分にもかかわらず、これだけの待遇をしてくれることは、それだけ国にとって重要な組織であり、これに見合うだけの重責と危険があるのだと理解した。
「早まったかもしれないが、なるようになるか」
ザックはベッドから降りると、水道の栓を緩め、水盆に水を溜めると顔を洗い、それまで着ていたツギハギだらけの服ではなく、部屋に用意されていた服に着替えた。
綿のシャツは生成りではなく、白く漂白されていて、少しまぶしいぐらいであった。一瞬、袖を通すのがためらわれたが、着ないわけにはいかないので、柔らかな袖に腕を通した。
ズボンは、厚手の綿生地で、こちらは黒く染色されていた。ただ、内股と尻の部分には革が当てられていた。
幅広の革のベルトを締めて、位置を少し調整した。ベルトには色々と金具があり、説明書きには、騎竜に乗る時に命綱などをつけるものや、装備品をぶら下げるためのものだと書かれていた。
ザックは服と一緒に置いてあった短刀をベルトに下げた。ザックも護身用の短剣を持ってはいたが、ナマクラすぎて使い物にならないので置いてきた。
「この金具は……自分の愛用の剣などを下げるのにご使用ください。って書いてあるけど、そんなものはないしな……あ、そうだ」
ザックは持ってきた数少ない荷物を思い出し、その中から鉈を入れておく革製の鞘を取り出した。鞘の中には鉈は入っておらず、一本の薄汚れた安物の笛が入っていた。
「何もぶら下げないよりかは格好がつくな」
給料が出たら、自分が扱えそうな剣を街の武器屋にでも探しにいこうと思いつつ、鞘をベルトの金具に固定した。
ジャケットは、臙脂色のコーデュロイで保温性が高そうな生地で、丈は尻の下ぐらいまでのやや長めになっている。左胸には竜と槍が一体となったデザイン――竜騎士団の紋章が金色の刺繍糸で刺繍されてあった。袖口にも金の輪が一本入っていた。
大きな鏡に自分の姿を映すと、その見慣れない自分の姿に違和感しかなく、照れ隠しのように苦笑いを浮かべた。
ザックは、先日の晩餐会のようなところで給仕などの仕事もしていた。その時は衣装を貸し出されるので、綺麗な服を着た自分の姿には比較的見慣れている方だが、鏡の中にいる自分は給仕を受ける側、まるで貴族の子弟のような格好をした自分が映っていた。
「そのうち、慣れるといいんだけどな」
黒髪をかいてため息をついたが、いつまでも恥ずかしがるわけにはいかないと気分を切り替えた。
とにもかくにも、準備を万端に整え終えて、ザックは廊下に出る扉を開いて東の空を確認した。ようやく白み始めて、空がほのかに明るくなってきていた。
「場所が変わって、朝、起きれるか不安だったが、寝坊しなくて良かった」
ザックは胸をなでおろしつつ扉を閉めて、椅子に座ってユードラニナが来るのを待つことにした。
「遅いな」
しばらくして、ザックは呟いた。
こちらは西側だが、その空も明るくなって来ているので、もう日は昇っているはずだった。朝に迎えに来ると言っていたのだから、もうそろそろ来てもいい頃だろうと首をかしげた。
「昨日、何かよくわからんが怒らせたみたいだったが」
それで迎えに来ないという可能性もあったが、ザックはすぐさま自分で否定した。
ユードラニナと知り合って二日程度の短い時間しかないが、彼女がそんな自分の感情を優先させるような竜には思えなかった。
「まあ、朝というだけで、何刻というのまで、はっきり聞いていなかったしな。そのうち来るだろう」
そうは言ったものの、部屋の中をうろつきまわり、時々扉を開けては廊下を確認したり、窓の外を眺めたりして、落ち着きなく時間を潰した。
「ユニに何かあったんじゃないか?」
もうそろそろ、朝というには遅い時間になってザックは少し焦り始めた。
しかし、陸の王者であるドラゴンに「何かする」など、かなりの難易度だろうとザックは考え直した。はっきりとは聞いてはいなかったが、ユードラニナの純粋な戦闘力は竜騎士団の中でもトップクラスであることは察することができた。
「ユニが急な任務とかすることになったなら、こっちに連絡があってもおかしくないしな」
ザックは色々と考えを廻らせて、最善手であろう「そのまま部屋で待機」を選択した。
そして、さらに落ち着かない時間を潰し、その選択を後悔して、再びどうするかを考え始めたころ、扉がノックされた。
「ザック、起き――」
ユードラニナが二回目のノックをする前に扉が猛烈な勢いで開けられた。それに驚いて彼女は硬直した。
「朝って、俺の聞き間違いか?」
挨拶もなくザックがちょっと涙目で叫んだ。青い竜は赤い瞳をぱちくりとしていたが、思いあたることに気がついて、立派な鉤爪の手をぽんと叩いた。
「すまない。言い忘れていた」
そういって、申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「竜騎士団では一般的な起床時間は十時ごろなのだ。早朝点呼があるのも十時だしな。それで、実際に活動をし始めるのは正午すぎになる。だから、午前中は竜騎士団では早朝という感覚なのだ」
ユードラニナの答えにザックはがっくりと膝に手をついた。
「それは、そうと……竜騎士の服、似合っているな」
ちょっと視線をそらしながら、頬を黒曜石のような爪でかいてザックの姿を褒めた。
「ありがとう。自分ではお仕着せで落ち着かないがな」
ザックは彼女に全身を見せるように、少し身体をひねって後姿も見せた。
本人としては、おかしいところがないかチェックしてもらうつもりだったのだろうが、彼女にとれば、デートに来た相手が「かっこいい?」と自分の姿を見せつけるようにしか見えなかった。
「い、いや。そうしてみると立派な竜騎士に見える。ま、馬子にも衣装というしな」
「それは自分でもわかっている。早く中身も伴うように頑張るよ」
ユードラニナの言葉にザックは苦笑を浮かべた。
素直に褒めている途中で、それが恥ずかしくなってきて悪態をつくのはドラゴンの悪癖の一つとして、よく独身の竜たちが集まって開く女竜会の議題に上がっていた。だが、その対処法は竜の叡智を持ってしても、いまだに回答が出ていない難題だった。
そんな自分の悪癖の発言を後悔しているユードラニナをよそに、その発言をされたザック本人はまったく気にせず、ジャケットの襟を正して気合を入れた。
「さて、こっちは本当の早朝から起きて準備万端だ。どこで何をするかわからんが、出発しようか」
これ以上待たされるのは勘弁して欲しいとユードラニナをせかした。
「い、いや。気合を入れているところすまないが、ちょっと待ってくれ。アリィたちはまだ来ていないのだ。今日はガイダンスをする予定だから、アリィたちが来ないとはじまらん」
ユードラニナはザックの出撃の気合を削ぐことを申し訳なさそうに謝った。
「そうか。なら、仕方ないな」
ザックはそれではどうしようもないと、少し肩を落とした。その瞬間に、どこからか、いい匂いが漂ってくるのを感じて、鼻をひくつかせた。そのいい匂いで自分が昨日の昼から何も食べていないことを思い出した。
「ユニ、もし、時間があるなら食堂の場所を教えてくれないか? 昨日の昼から何も食っていないんだ。空腹には慣れてるが、さっきからいい匂いがしていて空腹を忘れるのがちょっと辛い」
ザックはおなかのあたりを押さえた。それと同時に腹の虫が鬨の声を上げた。
「それも言い忘れていたな。食堂は一階の南端、騎士団本部の建物側にある」
「今、やっているのかな? ちょっと行ってみる」
ザックが表に出ようとするのをユードラニナが翼と手を広げて彼の行く手をふさいだ。
「しょ、食堂は、いつでも候補生たちに食事を用意してくれている。だが、その……もし、ザックがよければだが、お前の嗅いでいる、いい匂いの正体がここにある。それを食べないか?」
そういって後ろに隠し持っていたバスケットをザックの目の前に差し出した。そこから肉を焼いた香ばしい香りが漂ってきて、ザックの胃袋は降伏の白旗を揚げた。
「ありがとう。わざわざ持ってきてくれたのか?」
ザックは心底嬉しそうに笑顔になってお礼を言いつつ、バスケットを受け取った。
「その……なんだ、昨日は、色々とすまなかった」
ユードラニナは少しばかりバツが悪そうにザックに謝った。
「何が? 俺の方が迷惑をかけてたかと思ったんだが」
ユードラニナの謎の謝罪にザックは困惑しつつ首をかしげた。
「ザックは何も悪くはない。ザックが竜騎士について知らないのもわかっていたことだ。それを私はきつく言ってしまった」
「なんだ。そんなことか」
謝罪の理由を聞いてザックは苦笑した。
「そんなこと、などでは――」
「それぐらいでへこたれたりするほど軟弱じゃないし、怒ったりするほど狭量じゃないよ。俺を誰だと思ってる? ザック様だぞ」
ザックはナルシストなキザっぽくポーズを決めておどけて見せた。だが、ユードラニナの反応がイマイチでザックは急に恥ずかしくなって、ポーズを取るのをやめた。
「と、とにかくだ。俺は気にしていない。そっちが気にするなら、お互い様ということにしよう。まあ、この謝罪はありがたく頂くけどな」
そういって、笑顔でバスケットを掲げた。
「そうだな。同じ竜騎士団の仲間となったことだしな」
ユードラニナは神妙に頷いてザックの提案を受け入れた。
「玄関で立ち話もなんだし、入ってくれ。といっても、何も持って来てないから水ぐらいしか出せないけどな」
ユードラニナを部屋の中に招き入れ、テーブルの椅子を勧めた。
「ここがザックの部屋か……」
ユードラニナは中に入ると周囲をものめずらしそうに見渡していた。
「ははは、部屋と言っても昨日の晩からだから実感はないけどな。こっち側の独身寮の中に入ったことはないのか? それとも、この部屋って、何か他と違うのか?」
ザックは水差しからグラスに水を注いで彼女に出しながら、この部屋だけ実は豪華なつくりになっていたのかと、昨晩からの驚きの連続を特別室ということで納得しかけた。
「いや、こちら側の独身寮の部屋は何度も入ったことがある。この部屋も他の部屋と同じだ。そ、それを確認しただけだ」
「そうなのか。それはすごいな」
ザックはここが普通の部屋だと確定して、改めて素直に驚いた。
「あ、いや。入ったことがあるのは、誰かいる部屋でなく、空き部屋で、そこのメンテナンスのために入っただけだ。だから、その、すごくはない」
ユードラニナはザックが感心しているのは、「幾人もの男性の部屋に入ったことがあるモテモテ竜」だと思われたことだと勘違いして弁解し、出された水を一気に飲み干した。その様子にザックは苦笑を浮かべた。
「もっと、お強いお酒をお持ちしましょうか?」
ザックが悪戯っぽく言うと、ユードラニナは「ばかもの」と顔を真っ赤にした。それをにこやかに見ながら、水差しから彼女のグラスにもう一杯、水を注いだ。
「さて、それじゃあ、朝飯をいただこうか。ところで、これはなんていう料理なんだ?」
ザックはバスケットの中から油紙に包まれたものを取り出した。
香ばしくタレをかけて焼き上げた肉と、何かに漬け込んだ炎のような形をした葉野菜が小麦粉をうすく焼いた生地に巻かれていた。
「それは、パムムというドラゴニア料理だ。そこの峡谷を渡った先に『ラブライド』という先代の騎士団長夫妻がやっている有名な料理店があって、そこの名物料理の一つだ」
ザックはユードラニナの説明を聞いてから、一口かぶりついて口に頬張った。
「これは美味いな」
そう言って、あっという間にパムムを平らげた。
「そうか、それはよかった」
ユードラニナは胸に手を当てて、ほっとした表情をした。
「景色はいいし、飯が上手い。観光客が来るのも納得だな。ラブライドか……落ち着いたら、一度食べに行ってみよう」
ザックはバスケットの中から次の包みを取り出して一人頷いた。
「そうだな。私のは本家の味にはまだ及ばないからな。あの味は先代騎士団長の旦那様が作ったソースが決め手で、なかなか再現できないんだ」
「え? これ、もしかして、ユニが作ったのか?」
ザックは驚いて、もう包みの油紙だけになった二つ目のパムムを指差して驚いた。
「何がそんなに驚くことがある? 私だって料理ぐらいはするぞ」
驚かれたことにムッとして言い返した。
「すまん。そういうキャラに見えなかった。どちらかというと、食材を消し炭にするタイプと思ってた」
「失礼な奴だな。そんな事を言うと、もう食べさせんぞ」
バスケットを取り上げられた。
「ああっ! わるかった。謝るから、ユードラニナさんが作ったおいしい朝ごはんを食べさせてください」
無愛想な顔を精一杯笑顔にして懇願した。その笑顔の力か、ユードラニナはバスケットをテーブルの上に戻した。
「まったく。調子のいい男だ」
「普段はそうでもないんだがな。美味しいものと美味い酒は人生を豊かにしてくれるんで、全力を尽くすことにしているんだ。でも、本当にありがとうな。朝ごはん作ってくれて」
三つ目のパムムを手に取りながらお礼を言うと、ユードラニナはそっぽを向いた。
「礼には及ばない。店で売っている、どこかのワイバーンのブレスで焼かれた肉を食べさせるなど……いや、なんでもない。とにかく、これぐらいは私ぐらいのドラゴンなら朝飯前だ」
照れながら言うのを微笑ましく見つめながら三つ目のパムムを平らげた。貧乏性の習いで、まだ何か入っていないかバスケットの中を覗き込むと、隅に焦げたパンが一つ入っていた。ザックはそれを手に取り、バスケットから取り出した。
「そ、それは!」
横目でそれを見て、ユードラニナは慌てて、それを奪い返そうと手を伸ばしたが、今度はザックが一瞬早くそれを遠ざけて安全圏に避難させた。
「パン……だと思うんだが?」
ザックの問いにユードラニナはがっくりと肩を落とした。
「その通りだ。それはドランスパンという、この地方で食べられているパンだ」
「結構、固いな。それに焦げているみたいだ」
表面をノックをするように叩くと、かなり渇いた音がした。
「本当は表面はパリッとしているが、中はもっちりとしたパンなんだが、私はそれを焼くのが上手くないんだ。今朝も挑戦してみたのだが、そんなものしかできなかった。バスケットに入れないでおいたはずなのに……」
シュンと落ち込んでいるユードラニナをよそにザックは幅広のベルトに差してある短刀を抜いて、パンに突き立てた。支給された短刀がなかなかの切れ味だったおかげで、苦労しつつも口に入る大きさに切り分けることができた。
表面はがっしりと木の皮のように硬くなっていて、中も水分が少なくて、何日も放置していたパンのように乾燥していた。
「この固さは、四日目から五日目ぐらいか。ま、水につければいけるな」
ザックはパンを水に浸して食べ始めた。予想以上の歯ごたえに少し驚きはしたが、粗食で鍛えられたあごの力をフルに発揮して噛み千切り、胃の中に流し込んでいった。
「む、無理をするな。そんな固いパンを食べて、歯でも欠けたらどうする」
明らかに無理をしているのがわかってユードラニナは止めようとした。
「貧乏人を舐めるなよ。これより固いパンだって食べてたよ。でももし、歯が欠けたら、責任取ってもらって、ユニの爪で差し歯でも作ってもらうよ」
ザックの台詞にユードラニナは真っ赤になった。床に転げまわらなかったのは、硬直したおかげだっただけである。
ドラゴニアでは、竜は自分の爪で作ったアクセサリーを夫にプレゼントするのが慣わしになっていた。もちろん、ザックがそのことを知るのはちょっと先の話である。
「ごちそうさま。おいしかったよ」
岩石のようなドランスパンを漢食してザックは手を合わせた。正直なところ、あごが筋肉痛になりそうであったが、それを見せない男の意地ぐらいは持ち合わせていた。
「次は、ちゃんとスープを持ってくる」
「いや、そこは上手く焼くように努力しろよ」
ちゃっぴり涙目で赤面したままユードラニナが宣言したのを間髪いれずにザックがつっこんだ。それで二人は笑みをこぼした。
「わかった。今度は上手く焼いてみせる」
「じゃあ、また頼むよ」
ザックがお願いするとユードラニナはそれには応えず、少し寂しそうな笑顔を浮かべただけであった。
17/02/02 22:01更新 / 南文堂
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