その2 - 土曜日 AM -
○
アイス ここあ
○
シュゴーっと電気ケトルが雄叫びを上げる。手早くお湯を沸かすにはこれ以上なく優秀な道具だが、ウチのは少々やかましい。替え時というやつかも知れないが、騒音に目を瞑れば十分に役立ってるのでいまいち手が出ないのだ。
「便利だね」
背後のカオルが関心した風な声を上げる。帽子とカーディガンを脱いだ彼女は今、俺のベッドに腰かけていた。どこに背を預けるでもなく、ベッドのヘリに手をつけ、所在無げに脚を遊ばせている。
(なんでベッドに座るかね……この子)
落ちついた声や振る舞いからして隙の無さを思わせるくせに、どうにも警戒心皆無な態度だ。素っ裸で立ち尽くしたり、胸チラさせながら髪を乾かしたり。今だって、肩を押してしまえばそのままインザベッドである。
(誘ってる、のか?)
桃色妄想まで湧いて出る始末だ。これはいけない。
立ち上がり、コップの用意をするついでに何か軽く摘まむものでもないかと台所を伺う。一通り漁るがものの見事に何もなかった。冷蔵庫が空な時点で予想はしていたけども。とりあえず砂糖と氷は確保。
「せめて牛乳でもあればな……」
「牛乳があると良いの?」
「うぉ」
いきなりの声にびくりとする。いつの間にか、カオルがすぐ後ろに立っていた。音も立てずにというわけではなく、俺がちょっと散漫なのだろう。美少女が家に居て平静を保てるはずがありません。
「いや、何ていうか、ココアがね。ミルクで作ったほうが美味しいっていうか、混ぜてもいいんだけど」
「へえ。ミルクね」
近い。距離が。
ここまで寄ってみて初めてわかる。カオルの瞳は、どちらも微妙に違う色をしていた。いわゆるオッドアイ。黒を基調として、それぞれ別の色味が混じっている。やはり日本生まれではないのだろうか。いよいよ聞いてみても良いような気がしてきた。
何でか、じっと見つめてしまう。
カオルの瞳が鏡のように俺の姿を映していた。
眠り込む寸前の吸い込まれるような感覚が膨れ上がってくる。
そしてあの匂いが、どこからか漂って……、
パチン
電気ケトルが音を鳴らした。お湯の沸いた合図だ。
その音で我に返った。
「あ、っと」
何のために立ち上がったのか忘れるところだった。カオルから目を背け、食器棚に手を伸ばす。
ガラスコップ2つ、スプーン1つ、計量カップ1つ。台所下の棚からは純ココアの袋を取り出す。実家から送られてきたやつで、幸いにもまだ期限内であった。
定められた分量で純ココアと砂糖をお湯で混ぜ合わせる。カオルはその動作を、俺のすぐ横から覗き込んでいた。相も変わらず、何を考えているのかよく分からない表情だ。
混ぜ合わせて出来たシロップを氷と水で割り、完成である。
「ほい。どうぞ」
コップを差し出すと、カオルは物珍しそうに目をパチパチさせた。おずおずと、両手で受け取る。
手が軽く触れあったくらいでドギマギなんてしないが、自分より一回り小さい指に胸がざわつく。まだ子供じゃないかと、現実をつきつけられたような気さえした。居間に戻り、テーブルに並んで座ると、自分より頭一つ低い座高も気になってくる。
自分のしでかしている状況がどんなかを改めて考えた。やっぱダメだろこれ、と、じわじわした焦りが湧く。ホント今更だな……。成人しているようには見えないし、未成年に手を出したら危険が危ない。
(つっても「これ飲んだら帰れよ」ってさすがに感じ悪すぎだよな。なんか適当なとこに出かけて、そのまま送ってく方向で行くか……?)
適当なとこ。近場でいえば、ショッピングモールだろうか。お詫び的なあれと言いながら服の1つでも買ってあげればナイスな気がする。まだそれくらいなら健全なお付き合いで済むだろう。
そうして物思いにふけっていたせいで、カオルが何やら動いたのを見逃していた。
彼女はコップをテーブルに置くと、体格のわりに結構な主張を放つ尻を突きだした体勢で、のそのそとクローゼットを引き開けた。中に手を伸ばし、何やら掴んで引っ張り出す。
俺が気づいたのは、なんかゴソゴソしてんな、と視線を左後方に流したときだった。
「……なにそれ」
「色は私の趣味じゃない。母さんが勝手に買ってきちゃって」
いや色でなく。
ちょっと気恥ずかしそうな、初めて見る顔で、カオルが手に握っていたのはビビッドピンクな旅行鞄だった。ボックスフレーム型のキャリーケース。サイズは4kgほどだろうか。俺の家には存在しなかったものだ。当たり前だが。
鞄のファスナーを開けるカオルの姿を見ていて、ぼんやりしていた俺にぴしゃりと天啓がひらめく。
「家出……? え? 家出?」
よもやである。
旅行鞄+未成年=家出 という極めてシンプルなロジック。
すさまじくベタな展開だった。
○
えづけ こころづけ
○
「べつに家出とかじゃない」
鞄から取り出した両手大の缶をテーブルに置くと、カオルは自分のコップを手に取った。
「ちょうど時間があったから。外を見ようと思って」
「いや、だったら宿をとったりするでしょ。普通」
「それは……」
言いよどむカオルの顔は、何か逡巡しているようだった。言いにくいことがあるには構わないが、先の一言で、彼女には保護者がいるということも察せられる。加えて近場に出かけるときにこんな大荷物を転がす女子などいない。
ここに来てようやく、俺は自分の立場と彼女の立場を把握した。
連れ込み野郎と家出少女である。
ならば俺が行動すべきことは自明だった。
「いや、家出をどうこう言う気はないよ。俺もひとりになりてーとかどっか行きてーとか思うことあるし」
自意識が固まってきて、将来とか人間関係とか、楽しいばかりじゃない窮屈さみたいなものを実感し始めた時期があった。そんな時は決まって、ここじゃないどこかに行きたいと思ったものだ。今だってたまに、そんな時がある。
「ただ、親御さんは絶対心配してるって。かわいい娘なんだから」
だからと言って、こんな可愛らしい女の子がこうも無防備であっていいはずがない。ここは、大人として、俺がキチンとするべきだ。
「連絡とった方がいいよ。俺も親御さんに頭を下げるべきだし、なんなら、俺を出汁にしたっていい。一発くらい殴られても構わないしさ。それでも帰りにくいって言うなら、宿くらいは用意するよ」
正直、何がベストでベターなのかもわからない。それでも断言できるのは、彼女はここにいるべきじゃないってことだ。野郎一人の下宿に、出会って間もない女の子が居ていい道理などない。俺が軽率過ぎたのだ。
幸い、ボーナスも来たばかりだった。女子ひとりの寝食くらいなら一週間だって余裕である。
「……ん」
カオルは戸惑った目をしていた。何か迷っているというより、俺の勢いに面食らっているように思える。まあ、見知らぬ男が急にこんな話をしだしたら無理もない。自分で言っておいてなんだが、胡散臭さ極まれりである。
「まあ、なんだ。いきなり言われても困るわな。今日のところは気楽にいこう。近くにショッピングモールとかあるし、お兄さんとデートでもしようぜ」
ついでに俺もちょっと恥ずかしくなった。ただ、お互いの立場が明確になったおかげで、心の隅にあった気まずさというか、しこりが取れたような気がする。
彼女のミステリアスさが薄らいだこともあるだろう。年相応の表情も悩みもあるのだと、どこかに安心感が生まれた。今朝からこっち、手玉を取られ気味だったからな。
カオルは俺の言葉に、少し視線を彷徨わせたあと、こてんと首を傾げた。
「デート?」
あれ、そっち?
「えっとそれは言葉の綾っていうか調子乗ってましたっていうか。とにかく出掛けようってこと」
「……そう」
得心がいったのか、能天気なセリフに呆れたのか。カオルは短い相槌を打つと、コップに口を寄せた。
「ん。デートする」
冗談に乗った風に、わずかに口元を綻ばせてみせる。俺も自然と頬が緩んだ。
「ココアもおいしい。ありがとうね」
「おう」
あんまり手間を掛けたものではないが、言われて嬉しくならないわけがない。美少女スマイル、プライスレス。
「私からも。おやつ、どうぞ」
そう言って、彼女はテーブルに置いた缶を指差した。パッケージからして外国産だろうか。ダークピンクな逆さハートマークが乱舞する、なんというか、原色バリバリ感溢れるデザインだった。文字も見たことがないものだ。
「こういうの久しぶりだなぁ」
親父の海外出張が頻発していた頃、こういうお土産が実家に溢れていたことがあった。親父はせっかくだからと買ってくるのだけど、家族の誰の口にも合わず、中途半端に開けた状態で放置されるのである。マズイわけでなく、なんとなく手が出にくい味というか。まあ、それも込みでお土産というやつだ。
「いただきます」
蓋を開け、中に手を伸ばす。クッキーやらチョコやらグミやら、どうやら複数の種類の菓子が一緒くたになっているようだ。ある種の豪快さ、潔さすら覚える。どれもこれも、目に優しくない色が混じっているのが特徴的だ。
適当に、紫の渦巻き模様なクッキーを手に取る。みっちりと生地が練りこんであるのか、見た目以上のボリューム感だ。半分ほど口にし、噛む。
「お。旨い」
サックリとした感触のなか、ブドウのような濃い甘みが染み込む。わずかにスパイスが練りこんであるのか、甘みの中にピリリとした酸味というか、辛味が混じった。断面を見れば、わずかに青い筋が混じっているのが見える。
「それ、ちょっと辛い」
「おお。でもなんか癖になるというか、ちょうどいい辛さだな」
あくまで例えるなら、ミントのような清涼感のともなった刺激というやつだ。今まで食べたことのない味である。
「他にも食べて。グミとか食べやすいかも」
「そうか」
目についた、発光オレンジ色のグミらしきものに狙いを定める。親指と人差し指で摘まむには大きすぎて、中指も参戦した。
見た目だけならまんまオレンジなのだが、果たして味は、と半分を齧る。
「ん、んん!?」
「あはは」
ぷつりと膜を破った瞬間、ドロリとした、粘り気の強い果汁が溢れてきた。たまらず、一息に口へ放り込む。危うく床に零すところだった。
抗議の目でカオルを見るが、面白げに目じりを下げた美少女の前には怒りなど微塵も湧いてこない。むしろちょっと嬉しいまである。ずるいぜ。
「味はどう?」
楽し気に聞いてきた。返事をしようにも、口いっぱいの粘り汁で、比喩でなく口があかない。噛みながら唾液と混ぜ、どうにか飲み込んでいった。
始めは味わう余裕などなかったが、徐々に落ち着くにつれ、酸味十二分の果汁に病みつきになる。味は食べ慣れたオレンジなのだが、強烈な粘り気のおかげで、さながら食べ応えのあるオレンジジュースだ。面白い。
「んまいな」
「そう、良かった」
いたずらっぽい顔がたまりませんね。こっちもご馳走様である。
しかしこうも外れがないと、逆に外れみたいなやつも食べたくなる。缶を覗き込み、見るからにアレそうなのを手に取った。
「これ、どんな味なんだ?」
感触的にチョコだろうか。しかしその色は茶でもなく黒でもなく、灰色である。極めつけはてっ辺の、血で描いたようなおどろおどろしいドクロマーク。見るからに不健康そうだ。味は想像もつかない。
はたしてカオルは、驚きに目を見開いていた。まさか手に取るとは思わなかったという風情である。
「味、は、ビターチョコだったと思う」
「あんまり食べないやつか?」
「食べないっていうか、食べちゃダメっていうか……」
気まずそうに語尾を濁す。わりとガチなやつか。
「食べるとマズイかな、これ」
「うん。たぶん死ぬ」
「死ぬの!?」
驚きの冗談である。しかし冗談にしてはガチっぽい。
そんなのを他のと一緒に入れていいのかと思ったが、カオルに了解を貰い、缶の中に戻した。
それから後も、カオルと軽く談笑しつつ、ココアもお代わりを入れて、1時間ほど駄弁りながら過ごした。
この時すでに俺の頭の中は、どうやって彼女の助けになろうかで占められていた。彼女からすればお節介かもしれないが、悩める若人の力になりたくもあり、ちょっと下心もありで、迷いはない。
それとなく訊いてわかったことは、カオルは学校には行っていないということ。ただそれは地域的にそういう感じらしく、他の友達も家の手伝いやバイトをすることが主らしい。子供の頃に義務教育みたいなものはあったというから、およそ高校生といったところか。
カオルの両親は研究家で、しょっちゅうフィールドワークに出かけるという。だから彼女は基本放任気味で、親戚や友達といることの方が多かったそうだ。ちなみに、このお菓子缶は友達の家で作っている商品らしい。外に出ると言ったとき、餞別に貰ったそうだ。誰にも言わずに出てきたわけではないようで少し安心した。
どうでもいいが、家出JKという言葉の攻撃力やばい。
○
でいと デート
○
11時より少し前。
俺とカオルは、近場のショッピングモールに訪れていた。カオルのキャリーバッグは俺の家に置き放しだが、ビジネスホテルのチェックインはおよそ14時くらいなため、仕方がない。映画を観るなり、服を見るなり、とにかく外で時間を潰すことが重要だ。さすがにずっと俺の家では間が持たない。
隣のカオルを見る。
彼女は案内板を眺めていた。言うには、故郷は「地球の反対側」だが、実家は国内らしい。だから日本人離れした容姿のわりに日本語が達者なのだと納得した。
しかし今の彼女は、看板の読めない外国人と同じ目つきをしている。何が引っかかるのだろうか。
「キタガミ。これ、なんて意味?」
「ん?」
彼女が指さしたのは、青と赤の人型マーク。ユニバーサルデザインなあれである。なぜに?
「男性トイレが青、女性トイレが赤って意味。両方あるのはどっちもあるよってこと」
「じゃあこれは? 緑と白の」
「非常口」
「じゃあこれは――」
それから一通り、カオルにマークの意味を教えた。看板によってはちゃんと説明も添えてあるのだが、たまたまここには無かったのだ。
しかし、どうにも妙な具合である。エレベーターは分かってるのに、エレベーターのマークが分かってない。お上りさんとは少し違う奇妙さがあった。
カオルは苦し紛れに「抽象的な形は変換されないから」と言っていた。アンドロイドか何かだろうか。
ひとまず映画は置いておいて、ショッピングをすることにした。
大抵、こういう場所はレディースの種類が豊富だ。彼女の気に入る店がひとつはあるだろうと歩き回った。
シーズンは夏真っ盛りである。自然、露出の多い服がちらほら目につく。肩が丸出しとか、ヘソが丸出しとか。ファッションに詳しくない俺からすればそういうところにしか目がいかない。普段なら無感情に眺めているだけなのだが、今日は違った。
となりにカオルがいる。
するとどうだろう。ちょっと大胆な格好のマネキンの頭にカオルの顔が浮かびあがるではないか。背中を大胆に開いたカオル、胸元の英字を内側から歪ませるカオル。なにせ服の下の肌を目にしてしまったのである、妄想のリアルさが当社比2割増しだ。不謹慎だが、ちょっと楽しくなってくる。
マネキンのプロポーションは、女性の理想を形にしているのだろう。しかし俺の脳裏に焼き付いたカオルの肢体の前には霞む。胸はひと回りボリュームがあるし、腰のくびれはもっと深いし、骨盤はサイズからして違う。有り体に言えば巨尻である。
それに改めて気づいたのは、彼女が店に入っていくのを後ろから眺めたときだった。思い返せば、始まりのラッキースケベは正面からだったし、背中からじっくり見る機会はそうなかった。
(……パッツンパッツンですね)
パツンでなくパッツンである。「ッ」の織り成す狭間には、丸みとか凹みとか男の夢とかが詰まってる。
服を物色する彼女を横から観察すると、普通に立っているだけなのに、尻を突き出すようになっていた。これぞ女体の神秘。眼福。
カオルは白いワンピースを手に取り、鏡の前で具合を見ていた。中々似合っているが、色違いも見てみたい。
「こっちの色もいいんじゃないか?」
水色を手に取ってみた。生地がめっちゃさらさらだ。破くにはちょうどいい柔さである。
「水色はわりと持ってる」
「そうか」
言われてみれば、いま羽織っている薄手のカーディガンも水色だし、目を凝らせば、白シャツの下も水色っぽく透けているのが分かる。お気に入りの色なのだろう。清廉そうな彼女のイメージにぴったりだ。
それだけに、特別いやらしく実った肢体のなんと淫猥なことか。
下の棚に商品を戻すため、カオルの身体がぐぐっと前のめりに折れ曲がる。必然的に突き出された下半身は、うっすらと下着の皺が浮かぶほど、みちみちとした質量があった。ウェストサイズとヒップサイズに差があり過ぎて、ちょうどいいボトムスがないのかもしれない。これも脳内シャッターに保存した。
(叩いてよし、埋もれてよし。どっちがいいかな……――っ?)
ぞくりと、自分の発想に総毛だった。おい、俺いま、何を考えた?
(目じりに涙をためながら期待で尻を振るわす彼女の谷間に肉棒を挟むか、舌なめずりしながら捕食者の目で尻をパクパクさせた彼女に顔面に押し付けられるかをだな、)
いや、だから、そうじゃなくて、
(我慢できなくて舌を目いっぱい突き出して唾液を顎まで垂らして、ハッハハッハと犬みたいに服従するのはカオルと俺のどっちにするかって話だろ?)
ちがう、なんだ、お前は。
(俺だよ。キタガミアツシ)
「ちがうだろッ!」
思わず叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。
店中の視線が俺に集まる。我に返った俺の目の前には、カオルが、驚きに目を見開いて立っていた。その手にはワンピースの白と黄。どちらがいいのかを訊きに来たのだろうか。
「キタガミ……?」
怯えたように眉を寄せるカオル。初めて見る表情だ、可愛らしい。たまらない。めちゃくちゃにしたい。
「――ごめん。トイレ行ってくるわ。なんか腹痛い」
早口にまくしたて、店を駆け出た。痛いほど張り詰めたもののせいでひどく走りにくい。誤魔化すように動こうとすると、ひどく不格好な姿になってしまう。構うものか。
北上厚志は、彼女をそんな目で見てなどいない。
俺が見ているのは、清廉な少女だ。未成年だ。そんな目で見ていい道理などどこにもない。
俺がなりたいのは、未成年を見守る保護者だ。かつて、俺がそうされてきたように。
決して、そんなものが混じってはいけない。
いいわけがないのだ。
アイス ここあ
○
シュゴーっと電気ケトルが雄叫びを上げる。手早くお湯を沸かすにはこれ以上なく優秀な道具だが、ウチのは少々やかましい。替え時というやつかも知れないが、騒音に目を瞑れば十分に役立ってるのでいまいち手が出ないのだ。
「便利だね」
背後のカオルが関心した風な声を上げる。帽子とカーディガンを脱いだ彼女は今、俺のベッドに腰かけていた。どこに背を預けるでもなく、ベッドのヘリに手をつけ、所在無げに脚を遊ばせている。
(なんでベッドに座るかね……この子)
落ちついた声や振る舞いからして隙の無さを思わせるくせに、どうにも警戒心皆無な態度だ。素っ裸で立ち尽くしたり、胸チラさせながら髪を乾かしたり。今だって、肩を押してしまえばそのままインザベッドである。
(誘ってる、のか?)
桃色妄想まで湧いて出る始末だ。これはいけない。
立ち上がり、コップの用意をするついでに何か軽く摘まむものでもないかと台所を伺う。一通り漁るがものの見事に何もなかった。冷蔵庫が空な時点で予想はしていたけども。とりあえず砂糖と氷は確保。
「せめて牛乳でもあればな……」
「牛乳があると良いの?」
「うぉ」
いきなりの声にびくりとする。いつの間にか、カオルがすぐ後ろに立っていた。音も立てずにというわけではなく、俺がちょっと散漫なのだろう。美少女が家に居て平静を保てるはずがありません。
「いや、何ていうか、ココアがね。ミルクで作ったほうが美味しいっていうか、混ぜてもいいんだけど」
「へえ。ミルクね」
近い。距離が。
ここまで寄ってみて初めてわかる。カオルの瞳は、どちらも微妙に違う色をしていた。いわゆるオッドアイ。黒を基調として、それぞれ別の色味が混じっている。やはり日本生まれではないのだろうか。いよいよ聞いてみても良いような気がしてきた。
何でか、じっと見つめてしまう。
カオルの瞳が鏡のように俺の姿を映していた。
眠り込む寸前の吸い込まれるような感覚が膨れ上がってくる。
そしてあの匂いが、どこからか漂って……、
パチン
電気ケトルが音を鳴らした。お湯の沸いた合図だ。
その音で我に返った。
「あ、っと」
何のために立ち上がったのか忘れるところだった。カオルから目を背け、食器棚に手を伸ばす。
ガラスコップ2つ、スプーン1つ、計量カップ1つ。台所下の棚からは純ココアの袋を取り出す。実家から送られてきたやつで、幸いにもまだ期限内であった。
定められた分量で純ココアと砂糖をお湯で混ぜ合わせる。カオルはその動作を、俺のすぐ横から覗き込んでいた。相も変わらず、何を考えているのかよく分からない表情だ。
混ぜ合わせて出来たシロップを氷と水で割り、完成である。
「ほい。どうぞ」
コップを差し出すと、カオルは物珍しそうに目をパチパチさせた。おずおずと、両手で受け取る。
手が軽く触れあったくらいでドギマギなんてしないが、自分より一回り小さい指に胸がざわつく。まだ子供じゃないかと、現実をつきつけられたような気さえした。居間に戻り、テーブルに並んで座ると、自分より頭一つ低い座高も気になってくる。
自分のしでかしている状況がどんなかを改めて考えた。やっぱダメだろこれ、と、じわじわした焦りが湧く。ホント今更だな……。成人しているようには見えないし、未成年に手を出したら危険が危ない。
(つっても「これ飲んだら帰れよ」ってさすがに感じ悪すぎだよな。なんか適当なとこに出かけて、そのまま送ってく方向で行くか……?)
適当なとこ。近場でいえば、ショッピングモールだろうか。お詫び的なあれと言いながら服の1つでも買ってあげればナイスな気がする。まだそれくらいなら健全なお付き合いで済むだろう。
そうして物思いにふけっていたせいで、カオルが何やら動いたのを見逃していた。
彼女はコップをテーブルに置くと、体格のわりに結構な主張を放つ尻を突きだした体勢で、のそのそとクローゼットを引き開けた。中に手を伸ばし、何やら掴んで引っ張り出す。
俺が気づいたのは、なんかゴソゴソしてんな、と視線を左後方に流したときだった。
「……なにそれ」
「色は私の趣味じゃない。母さんが勝手に買ってきちゃって」
いや色でなく。
ちょっと気恥ずかしそうな、初めて見る顔で、カオルが手に握っていたのはビビッドピンクな旅行鞄だった。ボックスフレーム型のキャリーケース。サイズは4kgほどだろうか。俺の家には存在しなかったものだ。当たり前だが。
鞄のファスナーを開けるカオルの姿を見ていて、ぼんやりしていた俺にぴしゃりと天啓がひらめく。
「家出……? え? 家出?」
よもやである。
旅行鞄+未成年=家出 という極めてシンプルなロジック。
すさまじくベタな展開だった。
○
えづけ こころづけ
○
「べつに家出とかじゃない」
鞄から取り出した両手大の缶をテーブルに置くと、カオルは自分のコップを手に取った。
「ちょうど時間があったから。外を見ようと思って」
「いや、だったら宿をとったりするでしょ。普通」
「それは……」
言いよどむカオルの顔は、何か逡巡しているようだった。言いにくいことがあるには構わないが、先の一言で、彼女には保護者がいるということも察せられる。加えて近場に出かけるときにこんな大荷物を転がす女子などいない。
ここに来てようやく、俺は自分の立場と彼女の立場を把握した。
連れ込み野郎と家出少女である。
ならば俺が行動すべきことは自明だった。
「いや、家出をどうこう言う気はないよ。俺もひとりになりてーとかどっか行きてーとか思うことあるし」
自意識が固まってきて、将来とか人間関係とか、楽しいばかりじゃない窮屈さみたいなものを実感し始めた時期があった。そんな時は決まって、ここじゃないどこかに行きたいと思ったものだ。今だってたまに、そんな時がある。
「ただ、親御さんは絶対心配してるって。かわいい娘なんだから」
だからと言って、こんな可愛らしい女の子がこうも無防備であっていいはずがない。ここは、大人として、俺がキチンとするべきだ。
「連絡とった方がいいよ。俺も親御さんに頭を下げるべきだし、なんなら、俺を出汁にしたっていい。一発くらい殴られても構わないしさ。それでも帰りにくいって言うなら、宿くらいは用意するよ」
正直、何がベストでベターなのかもわからない。それでも断言できるのは、彼女はここにいるべきじゃないってことだ。野郎一人の下宿に、出会って間もない女の子が居ていい道理などない。俺が軽率過ぎたのだ。
幸い、ボーナスも来たばかりだった。女子ひとりの寝食くらいなら一週間だって余裕である。
「……ん」
カオルは戸惑った目をしていた。何か迷っているというより、俺の勢いに面食らっているように思える。まあ、見知らぬ男が急にこんな話をしだしたら無理もない。自分で言っておいてなんだが、胡散臭さ極まれりである。
「まあ、なんだ。いきなり言われても困るわな。今日のところは気楽にいこう。近くにショッピングモールとかあるし、お兄さんとデートでもしようぜ」
ついでに俺もちょっと恥ずかしくなった。ただ、お互いの立場が明確になったおかげで、心の隅にあった気まずさというか、しこりが取れたような気がする。
彼女のミステリアスさが薄らいだこともあるだろう。年相応の表情も悩みもあるのだと、どこかに安心感が生まれた。今朝からこっち、手玉を取られ気味だったからな。
カオルは俺の言葉に、少し視線を彷徨わせたあと、こてんと首を傾げた。
「デート?」
あれ、そっち?
「えっとそれは言葉の綾っていうか調子乗ってましたっていうか。とにかく出掛けようってこと」
「……そう」
得心がいったのか、能天気なセリフに呆れたのか。カオルは短い相槌を打つと、コップに口を寄せた。
「ん。デートする」
冗談に乗った風に、わずかに口元を綻ばせてみせる。俺も自然と頬が緩んだ。
「ココアもおいしい。ありがとうね」
「おう」
あんまり手間を掛けたものではないが、言われて嬉しくならないわけがない。美少女スマイル、プライスレス。
「私からも。おやつ、どうぞ」
そう言って、彼女はテーブルに置いた缶を指差した。パッケージからして外国産だろうか。ダークピンクな逆さハートマークが乱舞する、なんというか、原色バリバリ感溢れるデザインだった。文字も見たことがないものだ。
「こういうの久しぶりだなぁ」
親父の海外出張が頻発していた頃、こういうお土産が実家に溢れていたことがあった。親父はせっかくだからと買ってくるのだけど、家族の誰の口にも合わず、中途半端に開けた状態で放置されるのである。マズイわけでなく、なんとなく手が出にくい味というか。まあ、それも込みでお土産というやつだ。
「いただきます」
蓋を開け、中に手を伸ばす。クッキーやらチョコやらグミやら、どうやら複数の種類の菓子が一緒くたになっているようだ。ある種の豪快さ、潔さすら覚える。どれもこれも、目に優しくない色が混じっているのが特徴的だ。
適当に、紫の渦巻き模様なクッキーを手に取る。みっちりと生地が練りこんであるのか、見た目以上のボリューム感だ。半分ほど口にし、噛む。
「お。旨い」
サックリとした感触のなか、ブドウのような濃い甘みが染み込む。わずかにスパイスが練りこんであるのか、甘みの中にピリリとした酸味というか、辛味が混じった。断面を見れば、わずかに青い筋が混じっているのが見える。
「それ、ちょっと辛い」
「おお。でもなんか癖になるというか、ちょうどいい辛さだな」
あくまで例えるなら、ミントのような清涼感のともなった刺激というやつだ。今まで食べたことのない味である。
「他にも食べて。グミとか食べやすいかも」
「そうか」
目についた、発光オレンジ色のグミらしきものに狙いを定める。親指と人差し指で摘まむには大きすぎて、中指も参戦した。
見た目だけならまんまオレンジなのだが、果たして味は、と半分を齧る。
「ん、んん!?」
「あはは」
ぷつりと膜を破った瞬間、ドロリとした、粘り気の強い果汁が溢れてきた。たまらず、一息に口へ放り込む。危うく床に零すところだった。
抗議の目でカオルを見るが、面白げに目じりを下げた美少女の前には怒りなど微塵も湧いてこない。むしろちょっと嬉しいまである。ずるいぜ。
「味はどう?」
楽し気に聞いてきた。返事をしようにも、口いっぱいの粘り汁で、比喩でなく口があかない。噛みながら唾液と混ぜ、どうにか飲み込んでいった。
始めは味わう余裕などなかったが、徐々に落ち着くにつれ、酸味十二分の果汁に病みつきになる。味は食べ慣れたオレンジなのだが、強烈な粘り気のおかげで、さながら食べ応えのあるオレンジジュースだ。面白い。
「んまいな」
「そう、良かった」
いたずらっぽい顔がたまりませんね。こっちもご馳走様である。
しかしこうも外れがないと、逆に外れみたいなやつも食べたくなる。缶を覗き込み、見るからにアレそうなのを手に取った。
「これ、どんな味なんだ?」
感触的にチョコだろうか。しかしその色は茶でもなく黒でもなく、灰色である。極めつけはてっ辺の、血で描いたようなおどろおどろしいドクロマーク。見るからに不健康そうだ。味は想像もつかない。
はたしてカオルは、驚きに目を見開いていた。まさか手に取るとは思わなかったという風情である。
「味、は、ビターチョコだったと思う」
「あんまり食べないやつか?」
「食べないっていうか、食べちゃダメっていうか……」
気まずそうに語尾を濁す。わりとガチなやつか。
「食べるとマズイかな、これ」
「うん。たぶん死ぬ」
「死ぬの!?」
驚きの冗談である。しかし冗談にしてはガチっぽい。
そんなのを他のと一緒に入れていいのかと思ったが、カオルに了解を貰い、缶の中に戻した。
それから後も、カオルと軽く談笑しつつ、ココアもお代わりを入れて、1時間ほど駄弁りながら過ごした。
この時すでに俺の頭の中は、どうやって彼女の助けになろうかで占められていた。彼女からすればお節介かもしれないが、悩める若人の力になりたくもあり、ちょっと下心もありで、迷いはない。
それとなく訊いてわかったことは、カオルは学校には行っていないということ。ただそれは地域的にそういう感じらしく、他の友達も家の手伝いやバイトをすることが主らしい。子供の頃に義務教育みたいなものはあったというから、およそ高校生といったところか。
カオルの両親は研究家で、しょっちゅうフィールドワークに出かけるという。だから彼女は基本放任気味で、親戚や友達といることの方が多かったそうだ。ちなみに、このお菓子缶は友達の家で作っている商品らしい。外に出ると言ったとき、餞別に貰ったそうだ。誰にも言わずに出てきたわけではないようで少し安心した。
どうでもいいが、家出JKという言葉の攻撃力やばい。
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でいと デート
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11時より少し前。
俺とカオルは、近場のショッピングモールに訪れていた。カオルのキャリーバッグは俺の家に置き放しだが、ビジネスホテルのチェックインはおよそ14時くらいなため、仕方がない。映画を観るなり、服を見るなり、とにかく外で時間を潰すことが重要だ。さすがにずっと俺の家では間が持たない。
隣のカオルを見る。
彼女は案内板を眺めていた。言うには、故郷は「地球の反対側」だが、実家は国内らしい。だから日本人離れした容姿のわりに日本語が達者なのだと納得した。
しかし今の彼女は、看板の読めない外国人と同じ目つきをしている。何が引っかかるのだろうか。
「キタガミ。これ、なんて意味?」
「ん?」
彼女が指さしたのは、青と赤の人型マーク。ユニバーサルデザインなあれである。なぜに?
「男性トイレが青、女性トイレが赤って意味。両方あるのはどっちもあるよってこと」
「じゃあこれは? 緑と白の」
「非常口」
「じゃあこれは――」
それから一通り、カオルにマークの意味を教えた。看板によってはちゃんと説明も添えてあるのだが、たまたまここには無かったのだ。
しかし、どうにも妙な具合である。エレベーターは分かってるのに、エレベーターのマークが分かってない。お上りさんとは少し違う奇妙さがあった。
カオルは苦し紛れに「抽象的な形は変換されないから」と言っていた。アンドロイドか何かだろうか。
ひとまず映画は置いておいて、ショッピングをすることにした。
大抵、こういう場所はレディースの種類が豊富だ。彼女の気に入る店がひとつはあるだろうと歩き回った。
シーズンは夏真っ盛りである。自然、露出の多い服がちらほら目につく。肩が丸出しとか、ヘソが丸出しとか。ファッションに詳しくない俺からすればそういうところにしか目がいかない。普段なら無感情に眺めているだけなのだが、今日は違った。
となりにカオルがいる。
するとどうだろう。ちょっと大胆な格好のマネキンの頭にカオルの顔が浮かびあがるではないか。背中を大胆に開いたカオル、胸元の英字を内側から歪ませるカオル。なにせ服の下の肌を目にしてしまったのである、妄想のリアルさが当社比2割増しだ。不謹慎だが、ちょっと楽しくなってくる。
マネキンのプロポーションは、女性の理想を形にしているのだろう。しかし俺の脳裏に焼き付いたカオルの肢体の前には霞む。胸はひと回りボリュームがあるし、腰のくびれはもっと深いし、骨盤はサイズからして違う。有り体に言えば巨尻である。
それに改めて気づいたのは、彼女が店に入っていくのを後ろから眺めたときだった。思い返せば、始まりのラッキースケベは正面からだったし、背中からじっくり見る機会はそうなかった。
(……パッツンパッツンですね)
パツンでなくパッツンである。「ッ」の織り成す狭間には、丸みとか凹みとか男の夢とかが詰まってる。
服を物色する彼女を横から観察すると、普通に立っているだけなのに、尻を突き出すようになっていた。これぞ女体の神秘。眼福。
カオルは白いワンピースを手に取り、鏡の前で具合を見ていた。中々似合っているが、色違いも見てみたい。
「こっちの色もいいんじゃないか?」
水色を手に取ってみた。生地がめっちゃさらさらだ。破くにはちょうどいい柔さである。
「水色はわりと持ってる」
「そうか」
言われてみれば、いま羽織っている薄手のカーディガンも水色だし、目を凝らせば、白シャツの下も水色っぽく透けているのが分かる。お気に入りの色なのだろう。清廉そうな彼女のイメージにぴったりだ。
それだけに、特別いやらしく実った肢体のなんと淫猥なことか。
下の棚に商品を戻すため、カオルの身体がぐぐっと前のめりに折れ曲がる。必然的に突き出された下半身は、うっすらと下着の皺が浮かぶほど、みちみちとした質量があった。ウェストサイズとヒップサイズに差があり過ぎて、ちょうどいいボトムスがないのかもしれない。これも脳内シャッターに保存した。
(叩いてよし、埋もれてよし。どっちがいいかな……――っ?)
ぞくりと、自分の発想に総毛だった。おい、俺いま、何を考えた?
(目じりに涙をためながら期待で尻を振るわす彼女の谷間に肉棒を挟むか、舌なめずりしながら捕食者の目で尻をパクパクさせた彼女に顔面に押し付けられるかをだな、)
いや、だから、そうじゃなくて、
(我慢できなくて舌を目いっぱい突き出して唾液を顎まで垂らして、ハッハハッハと犬みたいに服従するのはカオルと俺のどっちにするかって話だろ?)
ちがう、なんだ、お前は。
(俺だよ。キタガミアツシ)
「ちがうだろッ!」
思わず叫んでいた。叫ばずにはいられなかった。
店中の視線が俺に集まる。我に返った俺の目の前には、カオルが、驚きに目を見開いて立っていた。その手にはワンピースの白と黄。どちらがいいのかを訊きに来たのだろうか。
「キタガミ……?」
怯えたように眉を寄せるカオル。初めて見る表情だ、可愛らしい。たまらない。めちゃくちゃにしたい。
「――ごめん。トイレ行ってくるわ。なんか腹痛い」
早口にまくしたて、店を駆け出た。痛いほど張り詰めたもののせいでひどく走りにくい。誤魔化すように動こうとすると、ひどく不格好な姿になってしまう。構うものか。
北上厚志は、彼女をそんな目で見てなどいない。
俺が見ているのは、清廉な少女だ。未成年だ。そんな目で見ていい道理などどこにもない。
俺がなりたいのは、未成年を見守る保護者だ。かつて、俺がそうされてきたように。
決して、そんなものが混じってはいけない。
いいわけがないのだ。
16/07/09 00:58更新 / カイワレ大根
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