真夜中の訪問者
いつもより暗い夜だった。月は雲に隠れていたが、雲は薄く、ぼんやりと月が見えた。不思議なことに、完全な暗闇よりも今にも消えそうなか細い光の方が、人に不安を煽るようだ。何か、嫌な予感がした。月の隠れた夜くらい何度だって経験してきたが、なんというか、たまに第六感が反応することがあるのだ。経験上、そういう日はいつもより早く寝た方がよい。
家のろうそくを消して、いざ寝ようとした時。コンコンと、家の戸を叩く音がした。月を見たとき感じた嫌な予感が、再びよぎる。しかしそうでなくても、灯りが消えている家の戸を無言で叩くなんて、怪しいなんてものじゃない。僕じゃなくたって、戸を開ける者はいないだろう。
「す、すいません……あの、ええと」
鈴を鳴らしたような女性の声が聞こえてきて、僕の心は揺れた。流石に女というだけで手放しで信用するほど、僕はだらしがない男じゃない。やけに冷静だったり、逆にあまりに弱々しい声なら、さらに怪しんだかもしれない。しかしその声は、単純に困っていた。どう言えばいいか分からないといった風に、あわあわとなにごとかを呟いている。その様子に、少なくとも偽りの気配は感じられなかった。
「あの、心中お察ししますが、戸を開けていただけませんか?」
やけに丁寧な調子でお願いされた。やはり緊張しているようだ。僕は、そっとベッドから降りて、忍び足で戸の近くまで寄って彼女のことばに耳を傾けた。
「わ、私、物乞いじゃありません。亡命者でもありません。貴方に会いたくて、来たんです」
……はて? 僕は首をかしげた。こんな美しい声を持つ女性が、知り合いにいただろうか。なんにしても、女性から「貴方に会いたい」なんて言われて嬉しくならない男はいない。さっきまで「女というだけで手放しで信用するほど……」などと考えていた僕だが、詐欺師がむしろ常套句として使うその言葉に、心の揺らぎは激しくなった。
「……失礼ですが、あなたは一体誰ですか?」
「あ、いやその、あ、怪しい者ではないのですが、でもまだ、誰かは言えないというか」
声はしどろもどろに返答した。今の時点で相当に怪しい者だとは思うが、敢えてそれは言わずに話を進めることにする。
「用件は何ですか?」
「えと、私はあなたに会いに来たんです」
「それは聞きましたけど、私のようなしがない村人に会って、何をするおつもりなんです?」
「そ、それはそのっ。……約束を、果たしに?」
なにがなんだか分からない。むりやり押し入るつもりはないようだし、このまま寝てしまおうか、と思い始めた。しかし、
「……お願いします、開けてくださいぃ」
消え入るような嗚咽が聞こえてきて、さすがに罪悪感が芽生えた。なんだこれは、開けなきゃ僕が悪人みたいじゃないか。僕は至極正しいことをしているはず、なのだが。……なのだが。
「……分かりましたよ、今開けます」
ぱぁっと戸の向こう側が明るくなった気がする。
まあ、冷静に考えてみれば、夜中、灯りが既に消えている家の戸を叩く盗人はいないだろうし。そんなあからさまに怪しい真似はしないはずだ、きっとそうだ、と自分に言い聞かせる。
ろうそくを持ってきて、戸をゆっくりと開ける。もし本当に盗人だったら、なんて不安が再びよぎるが、ここでやっぱり開けないなどと言ったら、一寸先にいる声の主は朝まで泣き続けるかもしれない。ここまできたら、どちらにせよ開けるしかないのだ。
僕が外にろうそくを向けると、そこには、先程の声に似つかわしい、秀麗な少女が立っていた。年は、十七か八くらいで、まだ若干のあどけなさが残る。しかしながらその体つきは、思わず生唾をのんでしまうほどに豊満だった。そして、それによって彼女が本来持つであろう艶やかさを、年相応の無邪気な笑顔が取り払っていた。
ただ、彼女が普通の女性とは違うところが一つ。彼女は鎧を着て、剣を腰に差していた。物々しいその装備に、少したじろぐ。
「あっ、この装備はですね、私達の正装というか。気になさらないでください」
「……騎士様か、何かですか?」
「あはは、ちょっと違いますよー」
笑いながら手を振る彼女。なかなか気軽に笑い返せない状況だ。ひょっとすると、とんでもないことに巻き込まれたのではないか、という不安がじわじわと浸水してくる。つい目的を焦って尋ねてしまう。
「それで、約束っていうのは何です?」
「あっ……それは、その」
彼女はうつむいて、再びさっきの泣きそうな調子に戻ってしまった。話が一向に進まない。でも、その約束を果たしに来たというのだから、答えられないということはないだろう。それほどまでに話しづらいことなのだろうか。いや、それは夜更けに突然知らない少女がやってきた時点で分かっていた。
とにかく、僕からはもう何も言えない。彼女が何か言ってくれない限りには、僕には何も分からないままだ。少女からの返答を待つ。
「えっと、……や、約束というのは」
しばらくして、ようやく口を開いてくれた。今にも泣きそうな少女をじっと見つめる時間は、ひたすら長く感じられた。肝心の要件は声には未だ出ず、しかし下手に答えを急かせばまた振り出しに戻るかもしれない。ここは何も言わず、ゆっくりと待とう。釣りでもしている気分だ。
「あ、あなたをさらいに来ましたっ!!」
唐突に叫んで、「見事言い切った」とでも言うように満足気な顔をする彼女。呆けながらも、どんな聞き間違いをしたかを考える僕。しかし、間違えようがない。この上ないほどはっきりと、彼女は叫んだのだ。「さらいに来た」と、鈴のような声で。
「あ、あの……それってどういう?」
「噛まずに言えたよ……」と呟き、すっかり気がゆるんでしまっている少女に、たどたどしく問いかける。これではさっきの逆だ。
「あっ、そうです、私はですね、約束通りあなたをさらいに来ました」
無邪気な顔で笑う彼女。しかし、言ってることは邪悪極まりない。とたんに、腰に差す物々しい剣が現実味を帯びてきた。やっぱり強盗の類だったのか。いや、人売りか。それにしても、約束したってどういうことだ。そんな恐ろしげな約束をすぐに忘れるほど、僕は能天気じゃない。
「約束、覚えてないですか? 15年前の」
「すみませんが、記憶にないです……15年前!?」
予想外に長い年月をさかのぼった約束。15年前なら僕はまだ、5歳か6歳だ。そんな頃にどうやら僕は、この少女にそそのかされて、とんでもない約束をしてしまったらしい。待てよ、そもそもこの子は明らかに僕より年下だぞ。15年前ならまだきっと赤ん坊だろう。
「ほ、ほら、あなたが森で迷っていた時のことです! 覚えてませんか!」
「そ、そんなこと言われても、15年前の記憶なんて……!」
覚えているはずがない、と思った。しかし意外なことに僕の記憶は、そのキーワードを手がかりに、とある思い出を引っ張り出してきた。
幼い頃に一度だけ、森の深くまで行ってしまい迷ってしまったことがある。当時の僕は、このまま死ぬんじゃないかと、酷く怯えていた。大人だって一度迷い込んだら簡単には抜け出せないような森なのだから。
しかし、そんな中で、倒れている女性を見つけたのだ。歳は16ほどで、当時の僕からしてみれば大人も同然だった。
僕は悟った。この人は、このまま放っておいたら死んでしまうと。だって、森には危険な動物がいるし、魔物が出るという噂もあった。だから僕は決心した。怯えている場合じゃない、この人を助けなければ、と。
『お姉さん、だいじょうぶ?』
『……へっ? え、私、ですか?』
「あ」と思わず声が漏れた。確かにいた。目の前に立っている女性が、そのままの姿で、15年前の僕の記憶に現れてきた。
『あ、あの、私、本当に大丈夫ですから……』
『いこう! 早くしないと日がくれちゃうよ! オオカミが来るよ!』
『…………はい』
ここからの記憶はさだかではない。とにかく僕は、気合いで森を抜け、村へ戻ってきたのだ。しかし、その女性はいつの間にかいなくなっていた。当時は不思議に思ったものの、成長するにつれて、そんな記憶は薄れていった。
……まさか、こんな形で思い出すことになるとは。
「私は元々森で住んでましたし、森の中で寝ることなんてごく普通のことでした。しかし、幼いあなたが私を助けようとしてくれているのだと思うと、とっても嬉しくて。その日、私は生まれて初めて恋をしました。幼い男の子に」
『て、つなご。はぐれちゃダメだよ』
『ふえっ……あ、ありがとう』
彼女はさきほど思い出した記憶を語り出した。一つ、会話を思い出す。
「だけど、さすがにそれは駄目です。あなたはあまりに幼すぎました。ですから、私はその衝動をぐっと抑えました。そして、約束したんです」
『いいの? 私なんかと一緒にいて。き、気味悪くない?』
『おねえさんはきれいなおねえさんだよ』
『えっ? そ、そっか。……ありがとう』
一つ、また一つとつぎはぎの記憶が繋がっていく。
「『15年後の今日、あなたをさらいにまた来ます』って!」
『? うん、また会おうね!』
そして、ついにその記憶を探し当ててしまった。
「……しました。確かに、しました」
「思い出して、くれたんですね。よかった」
鮮明に蘇った15年前の記憶と、今、目の前にいる少女の姿は完全に一致する。そして、この約束。
僕はこの記憶探しで、思い出さない方がよかった記憶まで探し当ててしまった。幼い頃、よく言われていたことだ。『森の奥には入るな、あそこには魔物が住んでいる』と。そして、その魔物に気に入られた人は、魔物に食べられてしまう……と。
「ちょっと、こっち向いてくれますか?」
「は、はいっ。なんですか?」
その魔物はとても強い。まともに戦っても、大の男だってとても敵わない。
だけど唯一、魔物には弱点がある。
「……へ?」
その魔物は――首が取れやすい。
「ひゃあぁぁぁ!?」
頭をとると、少女は面白いくらいに慌てふためきだした。腕の中から聞こえる彼女の悲鳴が胸に響く。
魔物は首が取れたら必死に頭を取り返そうとするから、頭を放り投げて、魔物が頭を探している間に逃げればいいというのがその話のオチなのだが、それはできそうにない。取ってみたはいいが、逃げるも何もここが僕の家だし、何よりこんなきれいな女の子の顔に、傷をつけるのは憚られる。
「な、何するんですか! 怒りますよ!」
「ごめんなさい、今返します」
「え、あ、どうもご丁寧に……いやっちがいます! だめですよ、許しませんよ!」
自分の首を元の位置に戻して、仕切り直すように軽く咳払いしてから、彼女は続けた。
「と、とにかく。察しの通り、私はデュラハンです。デュラハンとして、あなたをさらいに来ました!」
「どこへ連れて行く気なんですか?」
「森の中です」
まあ、森の中に住んでいるのだから当然のことだ。
しかし、確かに約束はしたものの、森の中で暮らすなんていうのは御免だ。とはいえ、15年越しの約束を、やっぱり嫌ですと反故にするのはいくらなんでも可哀そうだ。
しかし、幼かったとはいえとんでもない約束をしてしまったものだ。要するに、一緒に住む約束を交わしてしまったわけだから。とんだ色男だ。
「こ、困った顔をしても無駄ですよ。デュラハン族は昔から、好きな男の人を何が何でも手に入れるのです。ですから、私もあなたを強引にさらいます。あなたは既に、私のものなのです!」
「それだと、約束をする意味ないですよね?」
「あうっ。それは、ですね。そのう、私はあんまり、男の人が嫌がってるのにムリヤリさらっちゃうとか、そういうのはしたくないといいますか」
「さっきと言ってること、違いますけど……」
「さ、さっきのはですね、デュラハンの一般論というか……」
うつむいてしまった。また大魚は海の底に潜っていってしまった。振り出しに戻る。ひたすら待ち続ける時間がやってくる。これは、もう勝負に出た方がいいかもしれない。
先ほどよりもうつむく角度が深い。普通に立っていては、彼女の表情をうかがうことができなかった。彼女の頭を見ると、澄んだ青色の長い髪が垂れている。うつむいた彼女の頭は、ちょうど、ろうそくを持つ僕の右手のすぐ側にあった。
だから、そっとろうそくを左手に持ち替え、空いた右手で彼女の頭を撫でた。彼女の体が少しだけびくっとはねたが、それ以外の反応は示さなかった。ただ、じっと撫でられていた。
「落ち着いてください。ね?」
「……はい」
意外にも素直に返事をしてくれた。これで少しでも緊張がほぐれたのなら嬉しい。やっぱり、彼女は歳をとらないといえど、精神年齢は見た目通りの少女のようだ。彼女がまた話してくれるまでは、こうやって撫でていよう――と思っていたが、急に彼女の感触が手から消えた。階段がもう一段あると思って踏み外した時のような、妙な感覚がした。
「ひああぁぁ!」
「うわぁしまった!」
頭が落ちた。
どさっと音がして、顔が地面に直撃した。慌てて拾い上げる。
「だ、大丈夫ですか」
「いたいです……」
「ちょ、ちょっと待っててください、水を持ってきます!」
「あ、はい……」
少女は涙目になりながら咳をしている。その顔は泥だらけで、すこし拭ったくらいではまったく落ちなかった。水で洗わなければどうにもならなそうだ。
泥だらけの状態で胴体と繋げるのは流石に憚られるので、ひとまずは家の中に入り、ベッドの横にある机に彼女の頭を置いて、水と布を取りに行った。
家のろうそくを消して、いざ寝ようとした時。コンコンと、家の戸を叩く音がした。月を見たとき感じた嫌な予感が、再びよぎる。しかしそうでなくても、灯りが消えている家の戸を無言で叩くなんて、怪しいなんてものじゃない。僕じゃなくたって、戸を開ける者はいないだろう。
「す、すいません……あの、ええと」
鈴を鳴らしたような女性の声が聞こえてきて、僕の心は揺れた。流石に女というだけで手放しで信用するほど、僕はだらしがない男じゃない。やけに冷静だったり、逆にあまりに弱々しい声なら、さらに怪しんだかもしれない。しかしその声は、単純に困っていた。どう言えばいいか分からないといった風に、あわあわとなにごとかを呟いている。その様子に、少なくとも偽りの気配は感じられなかった。
「あの、心中お察ししますが、戸を開けていただけませんか?」
やけに丁寧な調子でお願いされた。やはり緊張しているようだ。僕は、そっとベッドから降りて、忍び足で戸の近くまで寄って彼女のことばに耳を傾けた。
「わ、私、物乞いじゃありません。亡命者でもありません。貴方に会いたくて、来たんです」
……はて? 僕は首をかしげた。こんな美しい声を持つ女性が、知り合いにいただろうか。なんにしても、女性から「貴方に会いたい」なんて言われて嬉しくならない男はいない。さっきまで「女というだけで手放しで信用するほど……」などと考えていた僕だが、詐欺師がむしろ常套句として使うその言葉に、心の揺らぎは激しくなった。
「……失礼ですが、あなたは一体誰ですか?」
「あ、いやその、あ、怪しい者ではないのですが、でもまだ、誰かは言えないというか」
声はしどろもどろに返答した。今の時点で相当に怪しい者だとは思うが、敢えてそれは言わずに話を進めることにする。
「用件は何ですか?」
「えと、私はあなたに会いに来たんです」
「それは聞きましたけど、私のようなしがない村人に会って、何をするおつもりなんです?」
「そ、それはそのっ。……約束を、果たしに?」
なにがなんだか分からない。むりやり押し入るつもりはないようだし、このまま寝てしまおうか、と思い始めた。しかし、
「……お願いします、開けてくださいぃ」
消え入るような嗚咽が聞こえてきて、さすがに罪悪感が芽生えた。なんだこれは、開けなきゃ僕が悪人みたいじゃないか。僕は至極正しいことをしているはず、なのだが。……なのだが。
「……分かりましたよ、今開けます」
ぱぁっと戸の向こう側が明るくなった気がする。
まあ、冷静に考えてみれば、夜中、灯りが既に消えている家の戸を叩く盗人はいないだろうし。そんなあからさまに怪しい真似はしないはずだ、きっとそうだ、と自分に言い聞かせる。
ろうそくを持ってきて、戸をゆっくりと開ける。もし本当に盗人だったら、なんて不安が再びよぎるが、ここでやっぱり開けないなどと言ったら、一寸先にいる声の主は朝まで泣き続けるかもしれない。ここまできたら、どちらにせよ開けるしかないのだ。
僕が外にろうそくを向けると、そこには、先程の声に似つかわしい、秀麗な少女が立っていた。年は、十七か八くらいで、まだ若干のあどけなさが残る。しかしながらその体つきは、思わず生唾をのんでしまうほどに豊満だった。そして、それによって彼女が本来持つであろう艶やかさを、年相応の無邪気な笑顔が取り払っていた。
ただ、彼女が普通の女性とは違うところが一つ。彼女は鎧を着て、剣を腰に差していた。物々しいその装備に、少したじろぐ。
「あっ、この装備はですね、私達の正装というか。気になさらないでください」
「……騎士様か、何かですか?」
「あはは、ちょっと違いますよー」
笑いながら手を振る彼女。なかなか気軽に笑い返せない状況だ。ひょっとすると、とんでもないことに巻き込まれたのではないか、という不安がじわじわと浸水してくる。つい目的を焦って尋ねてしまう。
「それで、約束っていうのは何です?」
「あっ……それは、その」
彼女はうつむいて、再びさっきの泣きそうな調子に戻ってしまった。話が一向に進まない。でも、その約束を果たしに来たというのだから、答えられないということはないだろう。それほどまでに話しづらいことなのだろうか。いや、それは夜更けに突然知らない少女がやってきた時点で分かっていた。
とにかく、僕からはもう何も言えない。彼女が何か言ってくれない限りには、僕には何も分からないままだ。少女からの返答を待つ。
「えっと、……や、約束というのは」
しばらくして、ようやく口を開いてくれた。今にも泣きそうな少女をじっと見つめる時間は、ひたすら長く感じられた。肝心の要件は声には未だ出ず、しかし下手に答えを急かせばまた振り出しに戻るかもしれない。ここは何も言わず、ゆっくりと待とう。釣りでもしている気分だ。
「あ、あなたをさらいに来ましたっ!!」
唐突に叫んで、「見事言い切った」とでも言うように満足気な顔をする彼女。呆けながらも、どんな聞き間違いをしたかを考える僕。しかし、間違えようがない。この上ないほどはっきりと、彼女は叫んだのだ。「さらいに来た」と、鈴のような声で。
「あ、あの……それってどういう?」
「噛まずに言えたよ……」と呟き、すっかり気がゆるんでしまっている少女に、たどたどしく問いかける。これではさっきの逆だ。
「あっ、そうです、私はですね、約束通りあなたをさらいに来ました」
無邪気な顔で笑う彼女。しかし、言ってることは邪悪極まりない。とたんに、腰に差す物々しい剣が現実味を帯びてきた。やっぱり強盗の類だったのか。いや、人売りか。それにしても、約束したってどういうことだ。そんな恐ろしげな約束をすぐに忘れるほど、僕は能天気じゃない。
「約束、覚えてないですか? 15年前の」
「すみませんが、記憶にないです……15年前!?」
予想外に長い年月をさかのぼった約束。15年前なら僕はまだ、5歳か6歳だ。そんな頃にどうやら僕は、この少女にそそのかされて、とんでもない約束をしてしまったらしい。待てよ、そもそもこの子は明らかに僕より年下だぞ。15年前ならまだきっと赤ん坊だろう。
「ほ、ほら、あなたが森で迷っていた時のことです! 覚えてませんか!」
「そ、そんなこと言われても、15年前の記憶なんて……!」
覚えているはずがない、と思った。しかし意外なことに僕の記憶は、そのキーワードを手がかりに、とある思い出を引っ張り出してきた。
幼い頃に一度だけ、森の深くまで行ってしまい迷ってしまったことがある。当時の僕は、このまま死ぬんじゃないかと、酷く怯えていた。大人だって一度迷い込んだら簡単には抜け出せないような森なのだから。
しかし、そんな中で、倒れている女性を見つけたのだ。歳は16ほどで、当時の僕からしてみれば大人も同然だった。
僕は悟った。この人は、このまま放っておいたら死んでしまうと。だって、森には危険な動物がいるし、魔物が出るという噂もあった。だから僕は決心した。怯えている場合じゃない、この人を助けなければ、と。
『お姉さん、だいじょうぶ?』
『……へっ? え、私、ですか?』
「あ」と思わず声が漏れた。確かにいた。目の前に立っている女性が、そのままの姿で、15年前の僕の記憶に現れてきた。
『あ、あの、私、本当に大丈夫ですから……』
『いこう! 早くしないと日がくれちゃうよ! オオカミが来るよ!』
『…………はい』
ここからの記憶はさだかではない。とにかく僕は、気合いで森を抜け、村へ戻ってきたのだ。しかし、その女性はいつの間にかいなくなっていた。当時は不思議に思ったものの、成長するにつれて、そんな記憶は薄れていった。
……まさか、こんな形で思い出すことになるとは。
「私は元々森で住んでましたし、森の中で寝ることなんてごく普通のことでした。しかし、幼いあなたが私を助けようとしてくれているのだと思うと、とっても嬉しくて。その日、私は生まれて初めて恋をしました。幼い男の子に」
『て、つなご。はぐれちゃダメだよ』
『ふえっ……あ、ありがとう』
彼女はさきほど思い出した記憶を語り出した。一つ、会話を思い出す。
「だけど、さすがにそれは駄目です。あなたはあまりに幼すぎました。ですから、私はその衝動をぐっと抑えました。そして、約束したんです」
『いいの? 私なんかと一緒にいて。き、気味悪くない?』
『おねえさんはきれいなおねえさんだよ』
『えっ? そ、そっか。……ありがとう』
一つ、また一つとつぎはぎの記憶が繋がっていく。
「『15年後の今日、あなたをさらいにまた来ます』って!」
『? うん、また会おうね!』
そして、ついにその記憶を探し当ててしまった。
「……しました。確かに、しました」
「思い出して、くれたんですね。よかった」
鮮明に蘇った15年前の記憶と、今、目の前にいる少女の姿は完全に一致する。そして、この約束。
僕はこの記憶探しで、思い出さない方がよかった記憶まで探し当ててしまった。幼い頃、よく言われていたことだ。『森の奥には入るな、あそこには魔物が住んでいる』と。そして、その魔物に気に入られた人は、魔物に食べられてしまう……と。
「ちょっと、こっち向いてくれますか?」
「は、はいっ。なんですか?」
その魔物はとても強い。まともに戦っても、大の男だってとても敵わない。
だけど唯一、魔物には弱点がある。
「……へ?」
その魔物は――首が取れやすい。
「ひゃあぁぁぁ!?」
頭をとると、少女は面白いくらいに慌てふためきだした。腕の中から聞こえる彼女の悲鳴が胸に響く。
魔物は首が取れたら必死に頭を取り返そうとするから、頭を放り投げて、魔物が頭を探している間に逃げればいいというのがその話のオチなのだが、それはできそうにない。取ってみたはいいが、逃げるも何もここが僕の家だし、何よりこんなきれいな女の子の顔に、傷をつけるのは憚られる。
「な、何するんですか! 怒りますよ!」
「ごめんなさい、今返します」
「え、あ、どうもご丁寧に……いやっちがいます! だめですよ、許しませんよ!」
自分の首を元の位置に戻して、仕切り直すように軽く咳払いしてから、彼女は続けた。
「と、とにかく。察しの通り、私はデュラハンです。デュラハンとして、あなたをさらいに来ました!」
「どこへ連れて行く気なんですか?」
「森の中です」
まあ、森の中に住んでいるのだから当然のことだ。
しかし、確かに約束はしたものの、森の中で暮らすなんていうのは御免だ。とはいえ、15年越しの約束を、やっぱり嫌ですと反故にするのはいくらなんでも可哀そうだ。
しかし、幼かったとはいえとんでもない約束をしてしまったものだ。要するに、一緒に住む約束を交わしてしまったわけだから。とんだ色男だ。
「こ、困った顔をしても無駄ですよ。デュラハン族は昔から、好きな男の人を何が何でも手に入れるのです。ですから、私もあなたを強引にさらいます。あなたは既に、私のものなのです!」
「それだと、約束をする意味ないですよね?」
「あうっ。それは、ですね。そのう、私はあんまり、男の人が嫌がってるのにムリヤリさらっちゃうとか、そういうのはしたくないといいますか」
「さっきと言ってること、違いますけど……」
「さ、さっきのはですね、デュラハンの一般論というか……」
うつむいてしまった。また大魚は海の底に潜っていってしまった。振り出しに戻る。ひたすら待ち続ける時間がやってくる。これは、もう勝負に出た方がいいかもしれない。
先ほどよりもうつむく角度が深い。普通に立っていては、彼女の表情をうかがうことができなかった。彼女の頭を見ると、澄んだ青色の長い髪が垂れている。うつむいた彼女の頭は、ちょうど、ろうそくを持つ僕の右手のすぐ側にあった。
だから、そっとろうそくを左手に持ち替え、空いた右手で彼女の頭を撫でた。彼女の体が少しだけびくっとはねたが、それ以外の反応は示さなかった。ただ、じっと撫でられていた。
「落ち着いてください。ね?」
「……はい」
意外にも素直に返事をしてくれた。これで少しでも緊張がほぐれたのなら嬉しい。やっぱり、彼女は歳をとらないといえど、精神年齢は見た目通りの少女のようだ。彼女がまた話してくれるまでは、こうやって撫でていよう――と思っていたが、急に彼女の感触が手から消えた。階段がもう一段あると思って踏み外した時のような、妙な感覚がした。
「ひああぁぁ!」
「うわぁしまった!」
頭が落ちた。
どさっと音がして、顔が地面に直撃した。慌てて拾い上げる。
「だ、大丈夫ですか」
「いたいです……」
「ちょ、ちょっと待っててください、水を持ってきます!」
「あ、はい……」
少女は涙目になりながら咳をしている。その顔は泥だらけで、すこし拭ったくらいではまったく落ちなかった。水で洗わなければどうにもならなそうだ。
泥だらけの状態で胴体と繋げるのは流石に憚られるので、ひとまずは家の中に入り、ベッドの横にある机に彼女の頭を置いて、水と布を取りに行った。
13/07/29 21:20更新 / 明鏡
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