第三幕
武三はついに三人に指一本触れること無く、家路にとついた。
ほんとうにもうしんぼうたまらんかったが、どうにかこうにか我慢した。
それでも女と、それもおつると同じきのこの精らと、
はだかどうしで一晩中抱き合っていたこと。
そして彼女らの目の前で、あえいで腰をふって
もらしてしまったことにかわりはない。
武三は重たい心もちのまま、重たい足取りで家へと帰った。
背にした塩も味噌も米も、手にした包みも、ずっしりと重く感じた。
おつるには、何があったかはすぐばれることじゃろう。
武三は帰る途中で小さい沢を見つけ、服と体をよく洗ってみた。
こんなことをしてもむだだろうとは思ったが、やらずにはおれんかった。
またぬれてしまったからだにまたぬれた服を来て、足もとの包みをだいじにかかえた。
― どうにもならんかったら、こいつがなんとかしてくれるかもしれん。
そんなことを考えながらぐじゅぐじゅと泥を踏み分け、
どうにかこうにか家の前までやってきた。
そして意を決して、家の戸をからからと開けた。
「おかえりなさいませ」
家の中でちょこんと座っていたおつるが、
ふかぶかと頭を下げて武三を出迎えた。
「お風呂がわけております、寒かったでしょう。
お着替えも用意してありますから、あたたまってきてください」
夜叉が出るか大蛇が出るかとびくついていた武三は、
拍子抜けしてぞうりをぬぎ板間へ上がった。
おつるは伏せたまま、帰ってきた亭主に声をかけた。
「沢の水では冷とうございましょうから」
武三は頭からざあっと冷や水を浴びせかけられたようにおののいた。
おつるは顔を伏せたまま、からだをのろりと上げた。
「しいさま、まつさま、まいさまとごいっしょでらしたのですね」
「そ、それは」
「なにもおっしゃらなくて結構です。 すべて、わかっております。
やむを得ぬことだったことも、おたがいに指一本触れなかったことも。
それに・・・」
おつるの顔のあたりからかすかに、
ぐ ぢ り 。
と、どこかで聞いたような音がした。
― あのかたがたが、あなたをだきしめて、したたらせていたことも。
あなたがそれをかいで、もよおして、こぼしてしまったことも ―
武三の胸がはやがねのように鳴る。
ぐわんぐわんと、耳の中までその音がひびく。
おつるは顔を上げず、すわったまま、ふらりと後ろを向いた。
「あのお三方は、この山のごりっぱなかたたち。
あなたのそそうなど、お気になさらないでしょう」
そして武三に背を向けて、かすれた声でしゃべりながら
よろ、よろ、よろとよろめき立った。
「わたしも、気にしてはおりません。
あのかたがたがそうまでなったということは、
あなたがりっぱであったということ。
あたしの目がねに、くるいはなかったということ ―」
おつるはふらつく足ではたり、はたりと音も無く歩く。
それにまじって、ぽとり、ぴたりと、妙な音がした。
「わたしは、ご飯の用意をしてまいります。
どうかごゆっくり・・・ あっ?!」
武三は、ぐっと、おつるの肩をつかみ、ぐいとひきよせた。
「い、いやあ! はなしてっ!!」
おつるはなえた力で、必死に武三をふりほどこうとした。
けれど武三は、おつるの腕をつかみはずし、その顔を見た。
「いやっ ―」
「・・・おつる、おまえ」
倍にふくれあがり、まつげが抜けきってしまうまで泣きに泣きはらした目。
涙という涙を流しつくし、しおしおとしぼんでしまった顔。
しぼんだ顔は涙と鼻水のあとで真っ白くあれていた。
くちびるも白くがさがさにくずれ、そのはしからは血の筋がつ、つうーと垂れておった。
ぽ と 。 ぴ ち ゃ ・・・
いましがた、くやしさをこらえるために、ぐぢりとかみつぶした頬のうちがわから
だらだらと血がこぼれ、口からたれ、床へぽとりぴたりと落ちていた。
むかし、なんども、なんども見た顔じゃった。
かあ
― お っ 母 !
―おっ母、しっかり、しっかりしてくんろ ―!
む ち ゅ っ 。
「ふあ?!」
「む、ううっ!」
武三は、おつるのしぼんだくちびるを、まるごと口でくわえこんだ。
そして口のはしから落ちる血を、じゅるとすすった。
「ぐ、じゅるっ、じゅる・・・」
「あ、らあ! らめっ!!」
毒きのこの精であるおつるの血を人がすすってしまったら、どうなるか。
おつるはもちろん、武三だってよくよく知っているはずのことじゃった。
それでも武三は、とりつかれたようにおつるの口をすすった。
胸いっぱいにおつるの血を飲みこんだ武三は、ばっと戸口から外へとかけだした。
おつるは武三を追い、ふらふらと歩く。
「武三さん! 待って!」
おつるはふらり、ふらりと、必死で歩く。
きのこであるおつるは、走るということができない。
自分らが生えている場所から動くことは、きのこにとってたやすくない。
「た、武三っ、さん・・・」
だからおつるはきのう、ずっと小屋の中ですわっておった。
武三のゆくえなどなにひとつわからないまま、たったひとりで。
小屋を吹き飛ばすような雨と風の音で、一晩まんじりともせずに。
そしてそこまで案じた男は、ほかのおんなのにおいをべっとりつけて帰ってきた。
自分だけのものだった顔と声とにおいを、そのおんならにさらしていた。
すべてしかたのないこと。 誰も悪くない。
それでも、どうしようもなく、つらくて、さみしくて。
にくらしくて、くやしくて、みじめで、やるせなくて。
おつるは胸の中でさかまくその心を武三におもいきりぶつけたかった。
けれどそれを、おのが肉を食いちぎってまで、こらえていた。
「おつる! すまん、すまんっっ!!」
武三はおつるの顔を見たとき、それをすべてわかってしまった。
さけび声でおつるにわびながら走り、森に入り、駆けぬけた。
そして森を抜け、山ぎわのがけの上に走り出たところで。
「うぼおおっ!!」
飲みくだしたおつるの血の毒が、とうとう全身にめぐりきった。
おつるにふれてふれられて、中に押し入ったときの、あのとろける感じ。
あれが十重二十重におしかさなって、一気に武三におおいかぶさってきた。
「う・・・ ぐ、ぶあっ!」
痛み苦しみではない。 うちくだかれ、はじけとぶように、きもちいい。
けらく
頭におさまりきらぬ 快 楽 にからだをつきくずされ、武三はもんどりうった。
手から離れた包みが、じゃりっちゃりんと音をたて、崖の下へと落ちていった。
「武三さあああああんっ!」
魔物のむすめである自分の毒で、武三が死ぬことはない。
しかしこのままでは武三までもが、崖から転がり落ちてしまう。
おつるはこけつまろびつ這いながら、必死に武三へと手を伸ばした。
そのときじゃった。
ご お う !
どこからか吹き寄せた、一陣のつむじ風。
それが武三のからだをふわりと浮かせた。
そしておつるのもとへと、ふわりとほうりあげた。
「う・・・おおっ?!」
「武三さんっ!」
おつるは風に乗ってとんできた武三を、泥のなかにすわったまま、はしと受け止めた。
悲しみと怒りで、ぶわっと涙があふれ出す。
その涙ははらはらと武三に降りかかり、口のなかへもぽつりとすべりこんだ。
「う、あっ。 ・・・おつる・・・」
「・・・ばか! ばかあっ!」
おつるの涙は武三のからだから、血の毒をまたたくまに消し去ってしまった。
けれどそれは、血のものとはくらべものにもならぬ、おつるのいちばん強い毒。
その毒は血の毒よりも何倍も、辛くて、痛くて、苦しくて・・・
それでいて、どうしようもなく、甘かったんだと。
17/11/02 21:00更新 / 一太郎
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