『己(おれ)の夢』
剣戟は、遠い。今となっては遠い。耳に届くのは時が置き去った代物でしかない。生温さすら拭い去られた清涼な風は、既に全てが過去となったことを伝えるのに十分であった。
唾液すらなく渇いた口の中、その渇いたという感情すらとうに渇いてしまった。凭れる木の凹凸すらあやふやとなり、自らの身が木と一体となってしまったような気すらした。いや、もはやそれが現実となるのも時間の問題であろう。唇を歪ませたところで、渇いた笑いのひとつすら出て来はしない。己(おれ)の体すら最早己のものではないのだな。内心の自嘲は、しかしその心からすらどこか幽離して感じられた。
じくり。痛みが蚯蚓のように蠢動する。前も後ろもなく己を虫食むそれに顔はさらに歪む。痺れが既に彼方此方に広がりつつある顔だが、痛みには反応せざるを得なかったようだ。尤も、反応しなくなるのも時間の問題であり、その際が来るのがそう遠くはないことは、ぼやけつつある視界の中に収まる、刃毀れし、血糊が乾き切った愛刀からも理解できた。
――これが、力無き者が覇道を歩もうとしたことの報いか。
刃の先、自ら踏み荒らした芒と、点々と続く血の跡に、己は、己にとってほんの数刻前の事のように感じられる出来事を思い出していた。
†‡†‡†‡†‡
――世は戦国。先の幕府の威権の失墜から、各地を治める頭領達が武に物を言わせ天下統一を掲げ争う時代。
己は主に仕える武者の一人として、日々鍛錬と勉学に明け暮れる日々を送っていた。周辺の領主らに戦勝し、それなりに有力な大名の一人として名を上げた領主の下、敵を斬り、功を積み、一軍の将を任されるまでになっていた己。全ては天下を獲るため。それこそが己に示された一筋の光ある道であるが故に。
その為には何を省みることがある。寧ろ省みる暇すら、己には与えられる資格などない。故郷の父や母への便りなど、父母自身が望むものではない。未だ厄に塗れたこの身。祓う為には天を戴かねばならないのだから。自らが出来る事は、己を鍛え、敵を倒し、何としてでも天下を獲り、名を、力を……。
故に、力を見誤った。
延江長鶴(のぶえ ながつる)。天下に名だたる大虚け(おおうつけ)として周辺大名に愚名を轟かせる傾奇者にして数寄者。地方平定の際に、目下進路の邪魔となりうるかの領地を獲るべく、己達は日々策を練り、侵攻に向けて兵を鍛錬していた。力の差はあると侮ることはせず、確実に攻め落とすつもりで採った作戦は、しかし、相手に筒抜けとなっていた。
野望を持つのは己だけではない。大名に仕えし他の将もまた野望を持ち、その成就には仕える大名が足枷となる、そのように判断した者がいた。警戒に警戒を重ねども、その心胆が全て透かせるわけではない。見透かせる者こそが天下人と称することが出来るというのであらば、残念ながら己も、己が仕えていた大名もまたその器ではなかったのだろう。作戦を長鶴側に漏らしていた将は、大名一族とその領地を手土産に長鶴に取り入ろうとしていた。……いや、例え将が漏らさずとも結果は同じであっただろう。
気付いた時には、もう遅かった。強化された長槍と銃の隊列を前に、己は部下に退転の命を出し――体を血に染めた。灼ける痛み、破裂音、倒れ臥した己に群がる、己の首を求めし人の形をした獣達。己達の同類。只では死なぬと刀を振り、槍を回し、銃をへし折り……我に還ると、鈍と見紛うばかりに朽ちた刀を手に、血を点々と地に垂らす自分の姿があった。背には痛み、腹にも痛み。それすらも鈍くなりゆく中、途方もなく歩き、歩き、歩き……そして今に至る。
†‡†‡†‡†‡
「……」
風に、生臭さとは違った生温さが混ざり始める。がらんどうになりつつある眼の先に映る風景に、己は、天は救いを与える気など更々無いと知った。全てを洗い流し清めんとする鈍色の入道が、清風を身を凍らす暴風へと変じさせた。びょう、びょうと耳を撫でる音。しばしの時すら待たず降る、傷に開く皮を剥ぐような雨に、己の足跡も、道程も、未だ刀に残る兵を仕留めた血も全て流されていく。なけなしの体力すらも、”天恵”とやらに全て奪われ尽くしていく。
飛沫く水が、ぼやけた視界をさらに歪ませる。不思議と痛みを感じない。自らに潤いを与えているのかもしれない。まさか、このような形で”天恵”による死化粧が施されるとは、そう己は笑おうとしたが、顔はもう動かなかった。
「……」
もう、終わり、か。墓も何も無きまま、何も残せぬままの終わりか。悔悟も妄執も動く体があってこそ。最早何も為すことの出来ぬまま、己は滅びを待つことしか出来なかった。
あぁ、音も、熱も、何も、かもが、遠い……。
†‡†‡†‡†‡
『――――』
「……?」
……歌声。光も音も消えた闇の中を伝うように、細くも凛と伝わる女子の声が、己の中に響いてくる。優しい、まるで真綿に顔を埋めるような優しさ。それでありながら、真綿の先端がちりちりと水に萎んでゆくような、儚い哀しさが伝わってくる。何と歌っているのか、音は認識できているが、言葉はまだ認識できていなかった。節回しはどこか懐かしく、それでいて新鮮味が感じられる。己はその音を、とても綺麗だと感じていた。懐かしさを覚えたその心は、綺麗さを掬い取り、闇の中に拙くも風景を描いていく。水溜りに移る空模様の如くぼやけたそれは、徐々に輪郭を、形を確かにしていく。次第に、己は、その風景が何か、認識できるように、分かるようになってきて……!?
「――!?」
――目に映る、柳。枝垂れの先には、屋敷を取り囲む樫の木塀。その中間くらいに墓のように打ち立てられた、襤褸切れを巻いた丸太。その襤褸切れすら繊維がぐちゃぐちゃに断ち切れており、衝撃を和らげる効果などとうに消えてしまっている。
忘れもしない。己の訓練場だ。
柳の陰に隠れれば、誰にも見つからない。見られるだけで顔を顰められ、恨みと侮蔑を込めた瞳を向けられる私、己だったからこそ、誰にも見られない事は必要だった。誰にも見られず、只、剣の腕を磨き、己を鍛えることしかして来なかった。
……いや、しか、というのは己を偽るための嘘だ。
この場所に来たのは、木塀の隙間から眺める、外の風景に心惹かれていたからだ。
往来を行き交う商人。
元気良く駆けていく、襤褸を纏った子供達。
そして、それを眺める、膨れたお腹を持つ母親“という存在”……。
それが堪らなく羨ましく、然しながら己には決して手に入らぬ物であると目にする度に目を逸らしていたのだけれども、この場所に来るたびに、塀の隙間から眺めることは止められなかった。
あぁ、そうか。先に耳にしたあの歌は、その母親が歌っていた童歌であったのか。己に、私に向けて終ぞ、歌われることがなかった歌。歌声代わりに聞かされた言葉ばかりが頭に残っている。
何故産まれたのが女だったのか。
お前は母親の命を奪って生まれてきた忌み子だ。
お前の所為で我が家はお取り潰しの憂き目に遭うのだ。お前など産まれなければ良かった。
親族は愚か、親族に仕えていた乳母からすらも、愛など与えられる事が無かった。父は一族と一人の親としての立場の板挟みになり、物心ついた頃には窶れ果てていた。
果たして親族が詰るとおり家は荒れ果て、それを見てまた親族が詰る。言葉は呪いとなり、澱となり、私の上に降り積もっていった。
私の所為で、私が産まれなければ。私の家は滅びに瀕することが無かった。
私が女として産まれてこなければ、世継ぎが出来たとして家が存続できた。
私さえ、私さえ女でなければ……。
――生きるためには、私が私を捨て、己となって、己として生きていかねばならないと知り、己は呪いで出来た鎧と仮面を付け、己が生きられるよう、お家再興のために刀を振るい、男達を打ち負かし、学を修め、実力を示し、成り上がり、罵声を猫撫で声へと変えた親族に富が行くことも承知で名声を高め、只ひたすらに名誉を、名声を、証を……!
「――あ……」
頬を、伝う、筋。その源泉は眦より、目尻より、只只重力に導かれ、落ちていく。一滴に留まらない。二滴、三滴。涸れた筈の瞳より、熱き雫が滴り落ちていく。
声も出ない筈なのに、その喉はしゃくり上げ始めている。
「――あ……ああ……」
嗚咽。内に秘めていたのであろう本心が喉へと競り上がるも、震えた喉はただああ、うう、と呻く事しか出来ない。ようやく言えそうだというのに。唇が思うように動かない。
「――お……己……」
崩落していく。呪いの上に築いてきた己という存在が。私という存在を覆ってきた鎧が、帷子が、面頬が。死によって風化し、ぱらぱらと砂と化していく。
「――お、己、いや、わ、私、私は――!」
そうして、匿われて、己に閉じ込められていた、私が。
今一度の産声のように、どろりと口から漏らし叫び呟いた。
「――唯、女として、生きていていいと、忌み子としてではなく、唯の女としての生を、歩みとうござった……!」
†‡†‡†‡†‡
――しゃらん。
錫杖の鈴の音。風も葉の音すらも感じ取れない中、その音ははっきりと私の耳へと届いていた。ついで届く経文の声。紬ぐのは、深く、深淵にまで響くほどに重い男の声。それは闇の中を幾度も幾度も反響し、私の中に染み入ってくる。その感覚を、私は熱として捉えていた。寺社で聞いたどの経とも違う。体に一寸一寸刻まれ、肉を為し、骨を繋ぎ、体を再び形成していくような経文。
「――ふむ。骸が涙を流す場に居合わせるとは、何たる巡り会わせかの。殿君よ」
男の紬ぐ経文に、ぬらりと滑り絡む少女の声。けれどもその音には声色に似つかわしくないほどの心地よい重みが感じられた。
「旅をするには儂のみじゃ心許無いと口にすればこれじゃ。全く、殿君は大した言霊遣いじゃの!」
女は男に語りかけているようだが、男は声で応じる素振りすら見せない。只只経文を唱えるのみである。私は、その経に心を縛られ、心惹かれていくのを感じていた。
閉ざされた瞼に、いつの間にか近付いてきた少女の手が被せられる。暖かい、筈なのにどこか冷たく、柔らかく小さい、筈なのにどこか力強い。ふわり、と少女の纏う煙管と抹香と、それとどこか甘美なるそれが混ざった香りが、私の鼻孔を擽り、体に広がっていく。
私は死に瀕していた。そして雨曝しで死んだ筈だった。だのに何故、などと思うことは無かった。瞼が動き、頬が動き、口が動き、首が動き、肩が腕が胸が腰が太腿が脚が足が爪先が動き繋がる感覚。心の臓は不動のまま、という自体にも気付かなかった。意識が向くことは無かった。香りが増すにつれ、瞼の下の眼球は自然と前に焦点を合わせ、少女の誘導のままに首は動かされていく。
「――主よ、涙の故は問わぬ。悔い無き某は浮世に留まることはなし。じゃが悔いも憂いもこの場に留まりては消せはせぬ、満たせはせぬ。
迷える者を導くも儂等が役目。もし光を得た瞳が先に在りし者、主が求むるに値するものならば――!」
そう、少女は瞼に被せられた手を退かす。重しが外されたように独りでに開く瞳が捉えた、その存在、いや僧侶、いや、殿君は――!!
†‡†‡†‡†‡
「ほほ、殿君よ、お盛んじゃのう。よいよい、全て抱いてこそ妖の主たる儂の殿君じゃ。思うがまま満たそうぞ。
主よ。今はただ貪るがよい。満ちたならば――」
「――ゆるりと参ろうぞ、儂等と共に」
――宵闇の国に、また一人住人が増える――
Fin.
唾液すらなく渇いた口の中、その渇いたという感情すらとうに渇いてしまった。凭れる木の凹凸すらあやふやとなり、自らの身が木と一体となってしまったような気すらした。いや、もはやそれが現実となるのも時間の問題であろう。唇を歪ませたところで、渇いた笑いのひとつすら出て来はしない。己(おれ)の体すら最早己のものではないのだな。内心の自嘲は、しかしその心からすらどこか幽離して感じられた。
じくり。痛みが蚯蚓のように蠢動する。前も後ろもなく己を虫食むそれに顔はさらに歪む。痺れが既に彼方此方に広がりつつある顔だが、痛みには反応せざるを得なかったようだ。尤も、反応しなくなるのも時間の問題であり、その際が来るのがそう遠くはないことは、ぼやけつつある視界の中に収まる、刃毀れし、血糊が乾き切った愛刀からも理解できた。
――これが、力無き者が覇道を歩もうとしたことの報いか。
刃の先、自ら踏み荒らした芒と、点々と続く血の跡に、己は、己にとってほんの数刻前の事のように感じられる出来事を思い出していた。
†‡†‡†‡†‡
――世は戦国。先の幕府の威権の失墜から、各地を治める頭領達が武に物を言わせ天下統一を掲げ争う時代。
己は主に仕える武者の一人として、日々鍛錬と勉学に明け暮れる日々を送っていた。周辺の領主らに戦勝し、それなりに有力な大名の一人として名を上げた領主の下、敵を斬り、功を積み、一軍の将を任されるまでになっていた己。全ては天下を獲るため。それこそが己に示された一筋の光ある道であるが故に。
その為には何を省みることがある。寧ろ省みる暇すら、己には与えられる資格などない。故郷の父や母への便りなど、父母自身が望むものではない。未だ厄に塗れたこの身。祓う為には天を戴かねばならないのだから。自らが出来る事は、己を鍛え、敵を倒し、何としてでも天下を獲り、名を、力を……。
故に、力を見誤った。
延江長鶴(のぶえ ながつる)。天下に名だたる大虚け(おおうつけ)として周辺大名に愚名を轟かせる傾奇者にして数寄者。地方平定の際に、目下進路の邪魔となりうるかの領地を獲るべく、己達は日々策を練り、侵攻に向けて兵を鍛錬していた。力の差はあると侮ることはせず、確実に攻め落とすつもりで採った作戦は、しかし、相手に筒抜けとなっていた。
野望を持つのは己だけではない。大名に仕えし他の将もまた野望を持ち、その成就には仕える大名が足枷となる、そのように判断した者がいた。警戒に警戒を重ねども、その心胆が全て透かせるわけではない。見透かせる者こそが天下人と称することが出来るというのであらば、残念ながら己も、己が仕えていた大名もまたその器ではなかったのだろう。作戦を長鶴側に漏らしていた将は、大名一族とその領地を手土産に長鶴に取り入ろうとしていた。……いや、例え将が漏らさずとも結果は同じであっただろう。
気付いた時には、もう遅かった。強化された長槍と銃の隊列を前に、己は部下に退転の命を出し――体を血に染めた。灼ける痛み、破裂音、倒れ臥した己に群がる、己の首を求めし人の形をした獣達。己達の同類。只では死なぬと刀を振り、槍を回し、銃をへし折り……我に還ると、鈍と見紛うばかりに朽ちた刀を手に、血を点々と地に垂らす自分の姿があった。背には痛み、腹にも痛み。それすらも鈍くなりゆく中、途方もなく歩き、歩き、歩き……そして今に至る。
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「……」
風に、生臭さとは違った生温さが混ざり始める。がらんどうになりつつある眼の先に映る風景に、己は、天は救いを与える気など更々無いと知った。全てを洗い流し清めんとする鈍色の入道が、清風を身を凍らす暴風へと変じさせた。びょう、びょうと耳を撫でる音。しばしの時すら待たず降る、傷に開く皮を剥ぐような雨に、己の足跡も、道程も、未だ刀に残る兵を仕留めた血も全て流されていく。なけなしの体力すらも、”天恵”とやらに全て奪われ尽くしていく。
飛沫く水が、ぼやけた視界をさらに歪ませる。不思議と痛みを感じない。自らに潤いを与えているのかもしれない。まさか、このような形で”天恵”による死化粧が施されるとは、そう己は笑おうとしたが、顔はもう動かなかった。
「……」
もう、終わり、か。墓も何も無きまま、何も残せぬままの終わりか。悔悟も妄執も動く体があってこそ。最早何も為すことの出来ぬまま、己は滅びを待つことしか出来なかった。
あぁ、音も、熱も、何も、かもが、遠い……。
†‡†‡†‡†‡
『――――』
「……?」
……歌声。光も音も消えた闇の中を伝うように、細くも凛と伝わる女子の声が、己の中に響いてくる。優しい、まるで真綿に顔を埋めるような優しさ。それでありながら、真綿の先端がちりちりと水に萎んでゆくような、儚い哀しさが伝わってくる。何と歌っているのか、音は認識できているが、言葉はまだ認識できていなかった。節回しはどこか懐かしく、それでいて新鮮味が感じられる。己はその音を、とても綺麗だと感じていた。懐かしさを覚えたその心は、綺麗さを掬い取り、闇の中に拙くも風景を描いていく。水溜りに移る空模様の如くぼやけたそれは、徐々に輪郭を、形を確かにしていく。次第に、己は、その風景が何か、認識できるように、分かるようになってきて……!?
「――!?」
――目に映る、柳。枝垂れの先には、屋敷を取り囲む樫の木塀。その中間くらいに墓のように打ち立てられた、襤褸切れを巻いた丸太。その襤褸切れすら繊維がぐちゃぐちゃに断ち切れており、衝撃を和らげる効果などとうに消えてしまっている。
忘れもしない。己の訓練場だ。
柳の陰に隠れれば、誰にも見つからない。見られるだけで顔を顰められ、恨みと侮蔑を込めた瞳を向けられる私、己だったからこそ、誰にも見られない事は必要だった。誰にも見られず、只、剣の腕を磨き、己を鍛えることしかして来なかった。
……いや、しか、というのは己を偽るための嘘だ。
この場所に来たのは、木塀の隙間から眺める、外の風景に心惹かれていたからだ。
往来を行き交う商人。
元気良く駆けていく、襤褸を纏った子供達。
そして、それを眺める、膨れたお腹を持つ母親“という存在”……。
それが堪らなく羨ましく、然しながら己には決して手に入らぬ物であると目にする度に目を逸らしていたのだけれども、この場所に来るたびに、塀の隙間から眺めることは止められなかった。
あぁ、そうか。先に耳にしたあの歌は、その母親が歌っていた童歌であったのか。己に、私に向けて終ぞ、歌われることがなかった歌。歌声代わりに聞かされた言葉ばかりが頭に残っている。
何故産まれたのが女だったのか。
お前は母親の命を奪って生まれてきた忌み子だ。
お前の所為で我が家はお取り潰しの憂き目に遭うのだ。お前など産まれなければ良かった。
親族は愚か、親族に仕えていた乳母からすらも、愛など与えられる事が無かった。父は一族と一人の親としての立場の板挟みになり、物心ついた頃には窶れ果てていた。
果たして親族が詰るとおり家は荒れ果て、それを見てまた親族が詰る。言葉は呪いとなり、澱となり、私の上に降り積もっていった。
私の所為で、私が産まれなければ。私の家は滅びに瀕することが無かった。
私が女として産まれてこなければ、世継ぎが出来たとして家が存続できた。
私さえ、私さえ女でなければ……。
――生きるためには、私が私を捨て、己となって、己として生きていかねばならないと知り、己は呪いで出来た鎧と仮面を付け、己が生きられるよう、お家再興のために刀を振るい、男達を打ち負かし、学を修め、実力を示し、成り上がり、罵声を猫撫で声へと変えた親族に富が行くことも承知で名声を高め、只ひたすらに名誉を、名声を、証を……!
「――あ……」
頬を、伝う、筋。その源泉は眦より、目尻より、只只重力に導かれ、落ちていく。一滴に留まらない。二滴、三滴。涸れた筈の瞳より、熱き雫が滴り落ちていく。
声も出ない筈なのに、その喉はしゃくり上げ始めている。
「――あ……ああ……」
嗚咽。内に秘めていたのであろう本心が喉へと競り上がるも、震えた喉はただああ、うう、と呻く事しか出来ない。ようやく言えそうだというのに。唇が思うように動かない。
「――お……己……」
崩落していく。呪いの上に築いてきた己という存在が。私という存在を覆ってきた鎧が、帷子が、面頬が。死によって風化し、ぱらぱらと砂と化していく。
「――お、己、いや、わ、私、私は――!」
そうして、匿われて、己に閉じ込められていた、私が。
今一度の産声のように、どろりと口から漏らし叫び呟いた。
「――唯、女として、生きていていいと、忌み子としてではなく、唯の女としての生を、歩みとうござった……!」
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――しゃらん。
錫杖の鈴の音。風も葉の音すらも感じ取れない中、その音ははっきりと私の耳へと届いていた。ついで届く経文の声。紬ぐのは、深く、深淵にまで響くほどに重い男の声。それは闇の中を幾度も幾度も反響し、私の中に染み入ってくる。その感覚を、私は熱として捉えていた。寺社で聞いたどの経とも違う。体に一寸一寸刻まれ、肉を為し、骨を繋ぎ、体を再び形成していくような経文。
「――ふむ。骸が涙を流す場に居合わせるとは、何たる巡り会わせかの。殿君よ」
男の紬ぐ経文に、ぬらりと滑り絡む少女の声。けれどもその音には声色に似つかわしくないほどの心地よい重みが感じられた。
「旅をするには儂のみじゃ心許無いと口にすればこれじゃ。全く、殿君は大した言霊遣いじゃの!」
女は男に語りかけているようだが、男は声で応じる素振りすら見せない。只只経文を唱えるのみである。私は、その経に心を縛られ、心惹かれていくのを感じていた。
閉ざされた瞼に、いつの間にか近付いてきた少女の手が被せられる。暖かい、筈なのにどこか冷たく、柔らかく小さい、筈なのにどこか力強い。ふわり、と少女の纏う煙管と抹香と、それとどこか甘美なるそれが混ざった香りが、私の鼻孔を擽り、体に広がっていく。
私は死に瀕していた。そして雨曝しで死んだ筈だった。だのに何故、などと思うことは無かった。瞼が動き、頬が動き、口が動き、首が動き、肩が腕が胸が腰が太腿が脚が足が爪先が動き繋がる感覚。心の臓は不動のまま、という自体にも気付かなかった。意識が向くことは無かった。香りが増すにつれ、瞼の下の眼球は自然と前に焦点を合わせ、少女の誘導のままに首は動かされていく。
「――主よ、涙の故は問わぬ。悔い無き某は浮世に留まることはなし。じゃが悔いも憂いもこの場に留まりては消せはせぬ、満たせはせぬ。
迷える者を導くも儂等が役目。もし光を得た瞳が先に在りし者、主が求むるに値するものならば――!」
そう、少女は瞼に被せられた手を退かす。重しが外されたように独りでに開く瞳が捉えた、その存在、いや僧侶、いや、殿君は――!!
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「ほほ、殿君よ、お盛んじゃのう。よいよい、全て抱いてこそ妖の主たる儂の殿君じゃ。思うがまま満たそうぞ。
主よ。今はただ貪るがよい。満ちたならば――」
「――ゆるりと参ろうぞ、儂等と共に」
――宵闇の国に、また一人住人が増える――
Fin.
16/12/08 18:23更新 / 初ヶ瀬マキナ