君を追うこの胸の高鳴りを
「――フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
鍛える、鍛える、鍛え抜く。己の体が過剰な負荷に悲鳴をあげているが、それは仮初めのものに過ぎないとまた鍛える。
「――フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
腹筋、背筋、上腕二等筋、三角筋、大腿筋……他、様々な筋肉を理想的なバランスを目指して、見栄えと実用性を両立させた機能美溢れるものになるまで鍛えていく。
「――フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
「判代ッ!ペースが落ちているぞッ!どうしたッ!」
筋肉が己に反逆してくる。痛みと緩慢さを以って。だが負けるわけにはいかない。筋肉を制するものは、筋肉だ!
「――フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
一回一回、一回一回を確実に積み重ね、切れそうで切れないギリギリのラインまで研き上げる!全ては――!
「――フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
――あの人に、追いつくために。菜向さんに、告白するために。
********
「――よし、本日の鍛錬はこれで終了だ。判代、仕上がりはどうだ?」
「折葉先輩……」
自慢の黒光りする肉体を惜しげもなく見せ付けつつ、折葉先輩が僕に声を掛けてくれた。その後ろでは、先輩の許嫁であるリャナンシーの網野先輩がプロテイン飲料を作ってくれている。この二人は校内は愚か、校外でも最も有名なボディビル選手とそのトレーナであり……僕の肉体的目標だ。
「後半ペースが落ちていたみたいだが、休息は十分に取れているのかな?休みなしのトレーニングは毒だぞ?」
「そうダそうダ、適度にぶれいく、それが肉体の基本ダ」
「阿乗度先輩、呼男先輩……!」
“鋼の胸筋”阿乗度先輩に、”モンスターポリス”呼男先輩。二人とも校内では知らない人が居ない程の有名人だが、それでも僕の、正確には僕の筋肉を気にしてくれて、アドバイスまで頂けるとは……!
「――ふむ、仕上がりとして悪くないな。機能美に溢れたキレ方だ。油断しない限り早々崩れなさそうだ。
よく、ここまで鍛え上げ、安定させたと思う」
折葉先輩が僕の腕や脚や腰の状態を見て、こう評してくれた。それだけで僕は報われた、と思ってしまいそうになる。が、そこはまだスタートラインだ。まだクラウチングポーズすらとっていない。
「ありがとうございます――わわっ!!」
心からの礼を告げた僕の背を、阿乗度先輩がバン、と軽く叩いた。
「全く、本当に見違えるようになったと思うよ。君がこの”マッシ部”の門を叩いた時は、これが全て脂肪だったからなぁ」
「僕自身、よくここに入れたなと今でも思います」
あの人に追いつくにはどうしたら良いか。当時、運動もさして行っていなかった僕に足りていなかったものは、筋肉。コカトリスの脚力には自分は到底追いつくことができず、さらに彼女の家が執り行う”婚姻のためのしきたり”は、当時の僕の肉体では挑むことすら無謀でしかなかったからだ。
土下座、契約、自律、トレーニング、休息、自律、トレーニング……今までの過去は容易に思い出せる。その成果を見せるのはまだ、少し先だけれども。
「でも、叩いてよかったと思います。自分が変わりたいと願ったその思いを、真正面から受け止めてもらえましたから。だから、どんな結果に――」
いや。
「――必ず、追いついてみせます」
この筋肉燃え尽きようとも、どんな壁が立ちはだかろうとも、僕は走りぬく。
「応、頑張りな」
「「「マッシ部一同、健闘を祈る!」」」
折葉先輩の声、三者斉唱の激励と同時に、三人ともポーズを決める。オリバーポーズ、サイドチェスト、モストマスキュラー……限界までパンプアップされた肉体に光る銀の汗。ここまで来るのに流した汗と涙はどれ程のものだろうか。
『涙は明日の筋肉になる』
部室に飾られたその標語通り、僕は自分のだらしなさに幾度も涙を流し、その思いを活力と筋肉に変え、ここまで頑張ってきたのだ。先輩達と共に。その頑張りに報いるためにも、何より、自分の頑張りに報いるためにも、僕は。
「――はいっ!」
フロントラッドスプレッドで返し、来たる日に備えるのであった。
********
「――さぁやって参りました、菜向家恒例、町内巡回婚姻の儀!朝八時だというのに、ここ仁天町には多くの人が集まっております!それだけ注目されているということでしょうか解説の和田さん!」
「ええ。今代の菜向令嬢は肉体に関して歴代トップクラス、下半身重点型のコカトリスにしては珍しく上半身もきっちりキレた良い肉体をしています。今まで求婚してきた並居る筋肉達から大差をつけて逃げ切っておりますからね」
「成る程。そんなサラブレッドに挑む今回の挑戦者は一体!?」
「判代君。いやー、よくここまで鍛えたと思いますよ実況の新立さん。これが入学時の彼の写真です」
「……ぇ、べっ、別人――!?えー、失礼いたしました。和田さん、これ本当に当人なんですか!?失礼ながら替え玉という可能性は!?」
「本当に失礼ですね新立さん。筋肉は嘘を許しませんよ。まぁそう疑うのは無理もないので、マッシ部の方より彼の肉体の変遷がよく分かる写真を頂きました。どうぞ」
「し、失礼いたしました。では拝見。……ほう、これはまさに当人です!皆さん、紛れも無く当人です!一体、どれ程の思いで体を虐め抜いてきたのかぁ!」
「虐めていいのは己の筋肉だけです。それ程に、それ程までに相手の事を思っていたのでしょう。
――と、壁の設置が終わったようですね。土建部、マッシ部、ウェイトリフティング部の皆さんお疲れ様です」
「準備は完了!お二方はスタート位置についてくださーい!」
********
「――ついに、この時が来たのね」
後ろ10mにいる、鍛え抜かれた黒光りする肉体。あれが三年前、不意をつかれて襲われ、脚が恐怖ですくんでいた私と、私を襲って腹筋擦りを試みようとしていた(警察発表)不良三人の間に立ち、不良達に向かって震えながら叫んでいた小太りの彼だった。その時は不良が油断して私から目を離した隙に、不意をつき返して彼を捕まえたまま逃げた。その後、安全な位置で彼を開放し、私のフェロモンに当てられた彼からも逃げた。
その後暫くして、筋肉を鍛えても心胆を鍛え切れなかった事を恥じて訓練を行う中、私は使用人から彼がマッシ部に入った事を、その動機も含めて聞いた。私を思って入ったと聞いて、彼のことが気になり始めた。母やばあやから紹介される有象無象の相手よりも、ずっと。
彼になら負けてもいい。でも、手を抜くのは彼にも、何より自分にも失礼だ。互いに対する侮辱だ。
だから――私は本気で走る。
「今、本当にほしい物。それは、私と君の二人だけの時間」
だから、壁を越えて、私に追いついてきて。
********
熱狂に溢れる空気、伝わる人いきれ。飛び交う声、声、声。菜向家の婚姻の儀は地域の祭りのようなもの、というより祭りそのものだ。幾人もの屈強な男達が壁の前に倒れ、或いは引き離されて敗れていくのを見てきて、その時でも盛り上がりだけは変わる事はなかった。恐らく賭けでもやっているのだろう。実際学校でも刑部狸の生徒が胴元をやっているのを目にした事はある。将来的に自分がその対象になる事も覚悟していたし、実際に自分を買った人物から応援されたこともある。本命か大穴かには、興味ない。
「……スゥ……」
深呼吸。逸るな。逸ってはいけない。逸ると弱気が出てくる。逃げ出したくなってしまう。重圧、威圧、運命を決する空気の重さとはこれ程のものか。
逃げ出してしまうのは簡単だ。この場で棄権を告げ、去ればいい。けれど、それをしてしまえば、僕は負け犬にすらなれない。救いすらない。
『壁はぶつかってナンボ』
マッシ部の先輩方は常々そういっていた。だから僕も……それに倣う。
「限界まで、限界までただひたすら君を追いかける。いくよ」
スタートまでは、あと一分。集中、力を溜め、スタートの合図であるピストルの音を待つ。そして……。
「用意!……(火薬の爆ぜる音)」
――解き放つ。
「さぁ、開始のピストルが鳴り響きました!二者一斉に走り出した!この町を二周する間に、果たして判代君はゴールインする事は出来るのか!」
「スタートはほぼ同時、ですが加速は彼女の方が上ですね」
「流石コカトリス!加速力は人間の倍以上を誇っている!まさに生来のスピードスター!
っと、ここで第一の壁だ!彼女はどのような形に貫いていくのか!?」
「彼女の今までの傾向だと、まず小手調べのポーズを持ってくるところでしょうか。いや、両腕を上げましたね。これは本気のようです」
「さぁ!最初のポーズは――フロントバイセップスだ!」
「上腕二等筋を強調するポーズですね。アマゾネスである当番組のディレクターもよく行っております」
「そして判代君、いや判代!これを難なくクリア!現在の距離の差、9m!加速分を安定した最高速でねじ伏せてきた!」
「縮まりましたね。しかしながらナイスバルク。非常にキレております。この調子です」
*******
婚姻の儀のルールはこうだ。
・菜向の令嬢と挑戦者は10m離れて同時にスタート。
・コースは町内一周。それを二周。
・そこかしこに特殊な壁があり、菜向の令嬢がとったポーズに合わせてくり貫かれる。挑戦者は同じポーズで通り抜けなければならない。
・穴のサイズ?は壁自身が調整するらしい(そうでなければ小柄低身長であれば有利ということになってしまう)。挑戦者が通り抜ける頃には挑戦者の肉体サイズになっている。
・残り2〜3mくらいの距離になったら壁は消える。
・町内二周の間に令嬢を抱きしめられれば挑戦者の勝ち。
・できなければ負け。
・一回限り、再チャレンジ可能。但し、令嬢が望む限りは何度でも再チャレンジ可能。
ポイントとしては、とにかく壁通過を正確に行う事、そして脚を止めない事。壁を抜く際に、両腕の羽にかかる空気抵抗も含めて速度を落とさざるを得ない令嬢との距離をいかに詰めるかに掛かっているが、それら全て、兎に角筋肉がモノを言う。全ては筋肉だ。
前方で優雅に羽を広げつつ力強くポーズをとるあの人。コカトリスらしからぬ、と評される上腕筋、三角巾。あの時よりもキレ具合が上がっている、強く鍛えた証が見える。あの人もまた鍛えてきたんだ、と強く感じる。逆光気味にポーズを太陽の光で照らされたら肉体美の女神が光臨したかのような錯覚を受けたかもしれない。
だからこそ、追いつきたい。
レフトバイセップス。……あと8m。一壁ごとにじりじりと距離は詰めていける。逸るな。だが慢心するな。
フロントラットスプレッド。……あと7m。まだだ、まだ遠い。本当の力はまだこんなものじゃないだろう?自分。
アブドミナル・アンド・サイ。……6m。酸素が徐々に減っていく感覚。だが吸い過ぎは良くない。体に自然な範囲で、酸素を肉体に送り続けるんだ……!
モストマスキュラー……5m……!ようやく、近づけた、この距離。その証が、僕の鼻腔を擽る。あの日、あの時、あの瞬間に嗅いだ、彼女の香り。記憶と共に胸が高鳴り、心臓がギアを上げる。二周目に差し掛かり、焦りも心に生まれてくる。
「――!!」
理性を保て!理性を!まだだ!まだ壁は消えていない!壁に一度でも捉われれば終わるんだ!明日を繋ぐ為に、僕は、僕は……!
「――フンッ!!!」
……オリバーポーズ!あと4――いや、3m!!!
********
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
3m後ろに、彼が居る。それだけで私の胸は高鳴り、もっとこっちに来てほしいと脚の動きを緩めてしまいそうになる。それを押し留めるのは、コカトリスとしての本能と、そして私の本心。
もっと、この時を続けていたい。本気で、私に追いついて欲しい。
ライトバイセップス……いや、もう、その必要はない。その証拠に、私の眼前から壁が消滅した。背中には、叫び声を上げながら懸命に走る彼の姿。その熱が、吐息が、私に伝わってくる錯覚すら感じる……♪
早く……早くぅ……♪
********
「――あーっと!残り1/2周となったところで壁が消えた!両者ラストスパートに入る!繰り返します!壁が消えました!残り……およそ2m!」
「いいペースです。そして二人ともナイスバルク。いい感じにパンプアップされています」
「凄いです!懸命に腕を振るい!足で大地を蹴り!着実に距離を縮めています判代!その体の乳酸は今どれだけ溜まっているのか!?」
「いやー、ここまで白熱したレース展開になるとは思いませんでした」
「まさに現代の少年漫画的サクセスストーリー!腕が届くぎりぎりのライン!1mにまで近づきました!」
********
「――ぅぅぅぅぅぅぉぉぉぉおおおおおおおああああああああああああああああ!!!!!!!!」
周りの音が聞こえない。自分の息遣いと、叫びによる震え、地面を蹴る音だけが体を通して伝わってくるだけだ。
僕が何を叫んでいるか、僕自身も理解していない。ただ、叫ばなければ、彼女に追いつけないと、筋肉が僕に叫んできたんだ。重く、鈍くなりつつある乳酸を弾き出してくれと、筋肉が僕に叫ばせていた。
僕の目の前には彼女。憧れの人。手が届きそうで届かない。腕を伸ばせば届くかもしれない。否、まだだと本能が伝え、腕をより激しく振らせてくる。もっとだ。もっと近付くんだ。彼女の香りが濃くなり、汗と体温の気配が感じられるほどに近付くんだ。
この胸の高鳴りを、全て鍛え上げた大腿筋に託し……焦るな……追い立てられるな……今だ!
「――うおおおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」
この想い、上腕に乗せ――届けッ!!!!
********
――その瞬間、私の体に伝わってきたのは、力強くも優しく、そして確かな熱を持った彼の両腕が、きっちりと抱きしめてくる感触だった。足から地面の感触が消え、そのまま重力から解き放たれたような錯覚に陥りながら仰向けになる私。
そこでようやく、耳に音が戻ってきた。
ずざざざざ、と音がするのは、彼の背筋が安全マットの上を滑る音だ。熱と濃厚な汗、そして迸らん限りの精の香りが、彼の全身からムンムンと漂ってくる。走っている時にも徐々に湿り始めていた私のお○んこも、潤んで、潤んで、物欲しそうにきゅんっきゅんっと私に急かしていく。
これが、母様も感じたという、喜びなのかもしれない……♪
筋肉式逆リュージュが終わり、安全になったところで彼は、私を開放した。息が荒いのは、直前までの猛勝負が原因か、それとも彼も準備万端という事なのだろうか。互いに肉体に負荷をかけすぎないようにゆっくり起き上がり、見つめ合う。
彼は私の顔を、少し恥ずかしそうに見つめながら、すぅ、と息を吸った。
「――貴女と出会って幾年、ようやく、貴女に追いつく事が出来ました。
菜向さん!僕と、判代と――結婚してください!」
――その言葉を耳にした瞬間、私の中で何かが爆ぜたような、そんな感覚がした。瞳からは涙が溢れて、体はふるふると震え、それでいて力は溜まっていくような、そんな不思議で、懐かしい感覚。
気付けば、地面を蹴り、私は彼の、いや貴方の厚い胸板に跳び込みつつ、唇目掛けて――!!
********
「――ゴオオオオォォォォォォォォォォォオォォオオオオオオオオオオオオオル!!!」
「いやー、見事なトライからの告白、そしてゴールインですよ!やはり青春っていいですねぇ……おや?」
「おおっと菜向家令嬢、判代とキスを交わしたあと、誘いかけるように後ろを向く!そして――再度ゴォォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオル!!!!!!」
「いやぁ、青春ですねぇ」
「解説の和田さん。このまま二人の営みを放映して大丈夫なのでしょうか!?」
「大丈夫とのことです。菜向家に確認済み、ディレクターからのゴーサインが出ております。あ、ディレクターは私の妻です」
「それなら納得!では、放映終了までの間、二人の初めての肉感溢れる営みと、お二方のトレーニング風景、そしてマッシ部の皆さんと菜向家の当主様より提供いただきましたお二方のポージング集をお楽しみください!
実況は私、新立がお送りいたしました!それでは!」
Fin.
鍛える、鍛える、鍛え抜く。己の体が過剰な負荷に悲鳴をあげているが、それは仮初めのものに過ぎないとまた鍛える。
「――フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
腹筋、背筋、上腕二等筋、三角筋、大腿筋……他、様々な筋肉を理想的なバランスを目指して、見栄えと実用性を両立させた機能美溢れるものになるまで鍛えていく。
「――フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
「判代ッ!ペースが落ちているぞッ!どうしたッ!」
筋肉が己に反逆してくる。痛みと緩慢さを以って。だが負けるわけにはいかない。筋肉を制するものは、筋肉だ!
「――フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
一回一回、一回一回を確実に積み重ね、切れそうで切れないギリギリのラインまで研き上げる!全ては――!
「――フンッ!フンッ!フンッ!フンッ!」
――あの人に、追いつくために。菜向さんに、告白するために。
********
「――よし、本日の鍛錬はこれで終了だ。判代、仕上がりはどうだ?」
「折葉先輩……」
自慢の黒光りする肉体を惜しげもなく見せ付けつつ、折葉先輩が僕に声を掛けてくれた。その後ろでは、先輩の許嫁であるリャナンシーの網野先輩がプロテイン飲料を作ってくれている。この二人は校内は愚か、校外でも最も有名なボディビル選手とそのトレーナであり……僕の肉体的目標だ。
「後半ペースが落ちていたみたいだが、休息は十分に取れているのかな?休みなしのトレーニングは毒だぞ?」
「そうダそうダ、適度にぶれいく、それが肉体の基本ダ」
「阿乗度先輩、呼男先輩……!」
“鋼の胸筋”阿乗度先輩に、”モンスターポリス”呼男先輩。二人とも校内では知らない人が居ない程の有名人だが、それでも僕の、正確には僕の筋肉を気にしてくれて、アドバイスまで頂けるとは……!
「――ふむ、仕上がりとして悪くないな。機能美に溢れたキレ方だ。油断しない限り早々崩れなさそうだ。
よく、ここまで鍛え上げ、安定させたと思う」
折葉先輩が僕の腕や脚や腰の状態を見て、こう評してくれた。それだけで僕は報われた、と思ってしまいそうになる。が、そこはまだスタートラインだ。まだクラウチングポーズすらとっていない。
「ありがとうございます――わわっ!!」
心からの礼を告げた僕の背を、阿乗度先輩がバン、と軽く叩いた。
「全く、本当に見違えるようになったと思うよ。君がこの”マッシ部”の門を叩いた時は、これが全て脂肪だったからなぁ」
「僕自身、よくここに入れたなと今でも思います」
あの人に追いつくにはどうしたら良いか。当時、運動もさして行っていなかった僕に足りていなかったものは、筋肉。コカトリスの脚力には自分は到底追いつくことができず、さらに彼女の家が執り行う”婚姻のためのしきたり”は、当時の僕の肉体では挑むことすら無謀でしかなかったからだ。
土下座、契約、自律、トレーニング、休息、自律、トレーニング……今までの過去は容易に思い出せる。その成果を見せるのはまだ、少し先だけれども。
「でも、叩いてよかったと思います。自分が変わりたいと願ったその思いを、真正面から受け止めてもらえましたから。だから、どんな結果に――」
いや。
「――必ず、追いついてみせます」
この筋肉燃え尽きようとも、どんな壁が立ちはだかろうとも、僕は走りぬく。
「応、頑張りな」
「「「マッシ部一同、健闘を祈る!」」」
折葉先輩の声、三者斉唱の激励と同時に、三人ともポーズを決める。オリバーポーズ、サイドチェスト、モストマスキュラー……限界までパンプアップされた肉体に光る銀の汗。ここまで来るのに流した汗と涙はどれ程のものだろうか。
『涙は明日の筋肉になる』
部室に飾られたその標語通り、僕は自分のだらしなさに幾度も涙を流し、その思いを活力と筋肉に変え、ここまで頑張ってきたのだ。先輩達と共に。その頑張りに報いるためにも、何より、自分の頑張りに報いるためにも、僕は。
「――はいっ!」
フロントラッドスプレッドで返し、来たる日に備えるのであった。
********
「――さぁやって参りました、菜向家恒例、町内巡回婚姻の儀!朝八時だというのに、ここ仁天町には多くの人が集まっております!それだけ注目されているということでしょうか解説の和田さん!」
「ええ。今代の菜向令嬢は肉体に関して歴代トップクラス、下半身重点型のコカトリスにしては珍しく上半身もきっちりキレた良い肉体をしています。今まで求婚してきた並居る筋肉達から大差をつけて逃げ切っておりますからね」
「成る程。そんなサラブレッドに挑む今回の挑戦者は一体!?」
「判代君。いやー、よくここまで鍛えたと思いますよ実況の新立さん。これが入学時の彼の写真です」
「……ぇ、べっ、別人――!?えー、失礼いたしました。和田さん、これ本当に当人なんですか!?失礼ながら替え玉という可能性は!?」
「本当に失礼ですね新立さん。筋肉は嘘を許しませんよ。まぁそう疑うのは無理もないので、マッシ部の方より彼の肉体の変遷がよく分かる写真を頂きました。どうぞ」
「し、失礼いたしました。では拝見。……ほう、これはまさに当人です!皆さん、紛れも無く当人です!一体、どれ程の思いで体を虐め抜いてきたのかぁ!」
「虐めていいのは己の筋肉だけです。それ程に、それ程までに相手の事を思っていたのでしょう。
――と、壁の設置が終わったようですね。土建部、マッシ部、ウェイトリフティング部の皆さんお疲れ様です」
「準備は完了!お二方はスタート位置についてくださーい!」
********
「――ついに、この時が来たのね」
後ろ10mにいる、鍛え抜かれた黒光りする肉体。あれが三年前、不意をつかれて襲われ、脚が恐怖ですくんでいた私と、私を襲って腹筋擦りを試みようとしていた(警察発表)不良三人の間に立ち、不良達に向かって震えながら叫んでいた小太りの彼だった。その時は不良が油断して私から目を離した隙に、不意をつき返して彼を捕まえたまま逃げた。その後、安全な位置で彼を開放し、私のフェロモンに当てられた彼からも逃げた。
その後暫くして、筋肉を鍛えても心胆を鍛え切れなかった事を恥じて訓練を行う中、私は使用人から彼がマッシ部に入った事を、その動機も含めて聞いた。私を思って入ったと聞いて、彼のことが気になり始めた。母やばあやから紹介される有象無象の相手よりも、ずっと。
彼になら負けてもいい。でも、手を抜くのは彼にも、何より自分にも失礼だ。互いに対する侮辱だ。
だから――私は本気で走る。
「今、本当にほしい物。それは、私と君の二人だけの時間」
だから、壁を越えて、私に追いついてきて。
********
熱狂に溢れる空気、伝わる人いきれ。飛び交う声、声、声。菜向家の婚姻の儀は地域の祭りのようなもの、というより祭りそのものだ。幾人もの屈強な男達が壁の前に倒れ、或いは引き離されて敗れていくのを見てきて、その時でも盛り上がりだけは変わる事はなかった。恐らく賭けでもやっているのだろう。実際学校でも刑部狸の生徒が胴元をやっているのを目にした事はある。将来的に自分がその対象になる事も覚悟していたし、実際に自分を買った人物から応援されたこともある。本命か大穴かには、興味ない。
「……スゥ……」
深呼吸。逸るな。逸ってはいけない。逸ると弱気が出てくる。逃げ出したくなってしまう。重圧、威圧、運命を決する空気の重さとはこれ程のものか。
逃げ出してしまうのは簡単だ。この場で棄権を告げ、去ればいい。けれど、それをしてしまえば、僕は負け犬にすらなれない。救いすらない。
『壁はぶつかってナンボ』
マッシ部の先輩方は常々そういっていた。だから僕も……それに倣う。
「限界まで、限界までただひたすら君を追いかける。いくよ」
スタートまでは、あと一分。集中、力を溜め、スタートの合図であるピストルの音を待つ。そして……。
「用意!……(火薬の爆ぜる音)」
――解き放つ。
「さぁ、開始のピストルが鳴り響きました!二者一斉に走り出した!この町を二周する間に、果たして判代君はゴールインする事は出来るのか!」
「スタートはほぼ同時、ですが加速は彼女の方が上ですね」
「流石コカトリス!加速力は人間の倍以上を誇っている!まさに生来のスピードスター!
っと、ここで第一の壁だ!彼女はどのような形に貫いていくのか!?」
「彼女の今までの傾向だと、まず小手調べのポーズを持ってくるところでしょうか。いや、両腕を上げましたね。これは本気のようです」
「さぁ!最初のポーズは――フロントバイセップスだ!」
「上腕二等筋を強調するポーズですね。アマゾネスである当番組のディレクターもよく行っております」
「そして判代君、いや判代!これを難なくクリア!現在の距離の差、9m!加速分を安定した最高速でねじ伏せてきた!」
「縮まりましたね。しかしながらナイスバルク。非常にキレております。この調子です」
*******
婚姻の儀のルールはこうだ。
・菜向の令嬢と挑戦者は10m離れて同時にスタート。
・コースは町内一周。それを二周。
・そこかしこに特殊な壁があり、菜向の令嬢がとったポーズに合わせてくり貫かれる。挑戦者は同じポーズで通り抜けなければならない。
・穴のサイズ?は壁自身が調整するらしい(そうでなければ小柄低身長であれば有利ということになってしまう)。挑戦者が通り抜ける頃には挑戦者の肉体サイズになっている。
・残り2〜3mくらいの距離になったら壁は消える。
・町内二周の間に令嬢を抱きしめられれば挑戦者の勝ち。
・できなければ負け。
・一回限り、再チャレンジ可能。但し、令嬢が望む限りは何度でも再チャレンジ可能。
ポイントとしては、とにかく壁通過を正確に行う事、そして脚を止めない事。壁を抜く際に、両腕の羽にかかる空気抵抗も含めて速度を落とさざるを得ない令嬢との距離をいかに詰めるかに掛かっているが、それら全て、兎に角筋肉がモノを言う。全ては筋肉だ。
前方で優雅に羽を広げつつ力強くポーズをとるあの人。コカトリスらしからぬ、と評される上腕筋、三角巾。あの時よりもキレ具合が上がっている、強く鍛えた証が見える。あの人もまた鍛えてきたんだ、と強く感じる。逆光気味にポーズを太陽の光で照らされたら肉体美の女神が光臨したかのような錯覚を受けたかもしれない。
だからこそ、追いつきたい。
レフトバイセップス。……あと8m。一壁ごとにじりじりと距離は詰めていける。逸るな。だが慢心するな。
フロントラットスプレッド。……あと7m。まだだ、まだ遠い。本当の力はまだこんなものじゃないだろう?自分。
アブドミナル・アンド・サイ。……6m。酸素が徐々に減っていく感覚。だが吸い過ぎは良くない。体に自然な範囲で、酸素を肉体に送り続けるんだ……!
モストマスキュラー……5m……!ようやく、近づけた、この距離。その証が、僕の鼻腔を擽る。あの日、あの時、あの瞬間に嗅いだ、彼女の香り。記憶と共に胸が高鳴り、心臓がギアを上げる。二周目に差し掛かり、焦りも心に生まれてくる。
「――!!」
理性を保て!理性を!まだだ!まだ壁は消えていない!壁に一度でも捉われれば終わるんだ!明日を繋ぐ為に、僕は、僕は……!
「――フンッ!!!」
……オリバーポーズ!あと4――いや、3m!!!
********
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
3m後ろに、彼が居る。それだけで私の胸は高鳴り、もっとこっちに来てほしいと脚の動きを緩めてしまいそうになる。それを押し留めるのは、コカトリスとしての本能と、そして私の本心。
もっと、この時を続けていたい。本気で、私に追いついて欲しい。
ライトバイセップス……いや、もう、その必要はない。その証拠に、私の眼前から壁が消滅した。背中には、叫び声を上げながら懸命に走る彼の姿。その熱が、吐息が、私に伝わってくる錯覚すら感じる……♪
早く……早くぅ……♪
********
「――あーっと!残り1/2周となったところで壁が消えた!両者ラストスパートに入る!繰り返します!壁が消えました!残り……およそ2m!」
「いいペースです。そして二人ともナイスバルク。いい感じにパンプアップされています」
「凄いです!懸命に腕を振るい!足で大地を蹴り!着実に距離を縮めています判代!その体の乳酸は今どれだけ溜まっているのか!?」
「いやー、ここまで白熱したレース展開になるとは思いませんでした」
「まさに現代の少年漫画的サクセスストーリー!腕が届くぎりぎりのライン!1mにまで近づきました!」
********
「――ぅぅぅぅぅぅぉぉぉぉおおおおおおおああああああああああああああああ!!!!!!!!」
周りの音が聞こえない。自分の息遣いと、叫びによる震え、地面を蹴る音だけが体を通して伝わってくるだけだ。
僕が何を叫んでいるか、僕自身も理解していない。ただ、叫ばなければ、彼女に追いつけないと、筋肉が僕に叫んできたんだ。重く、鈍くなりつつある乳酸を弾き出してくれと、筋肉が僕に叫ばせていた。
僕の目の前には彼女。憧れの人。手が届きそうで届かない。腕を伸ばせば届くかもしれない。否、まだだと本能が伝え、腕をより激しく振らせてくる。もっとだ。もっと近付くんだ。彼女の香りが濃くなり、汗と体温の気配が感じられるほどに近付くんだ。
この胸の高鳴りを、全て鍛え上げた大腿筋に託し……焦るな……追い立てられるな……今だ!
「――うおおおおおおおおおおおおおおおおおあああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!」
この想い、上腕に乗せ――届けッ!!!!
********
――その瞬間、私の体に伝わってきたのは、力強くも優しく、そして確かな熱を持った彼の両腕が、きっちりと抱きしめてくる感触だった。足から地面の感触が消え、そのまま重力から解き放たれたような錯覚に陥りながら仰向けになる私。
そこでようやく、耳に音が戻ってきた。
ずざざざざ、と音がするのは、彼の背筋が安全マットの上を滑る音だ。熱と濃厚な汗、そして迸らん限りの精の香りが、彼の全身からムンムンと漂ってくる。走っている時にも徐々に湿り始めていた私のお○んこも、潤んで、潤んで、物欲しそうにきゅんっきゅんっと私に急かしていく。
これが、母様も感じたという、喜びなのかもしれない……♪
筋肉式逆リュージュが終わり、安全になったところで彼は、私を開放した。息が荒いのは、直前までの猛勝負が原因か、それとも彼も準備万端という事なのだろうか。互いに肉体に負荷をかけすぎないようにゆっくり起き上がり、見つめ合う。
彼は私の顔を、少し恥ずかしそうに見つめながら、すぅ、と息を吸った。
「――貴女と出会って幾年、ようやく、貴女に追いつく事が出来ました。
菜向さん!僕と、判代と――結婚してください!」
――その言葉を耳にした瞬間、私の中で何かが爆ぜたような、そんな感覚がした。瞳からは涙が溢れて、体はふるふると震え、それでいて力は溜まっていくような、そんな不思議で、懐かしい感覚。
気付けば、地面を蹴り、私は彼の、いや貴方の厚い胸板に跳び込みつつ、唇目掛けて――!!
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「――ゴオオオオォォォォォォォォォォォオォォオオオオオオオオオオオオオル!!!」
「いやー、見事なトライからの告白、そしてゴールインですよ!やはり青春っていいですねぇ……おや?」
「おおっと菜向家令嬢、判代とキスを交わしたあと、誘いかけるように後ろを向く!そして――再度ゴォォォォォォォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオル!!!!!!」
「いやぁ、青春ですねぇ」
「解説の和田さん。このまま二人の営みを放映して大丈夫なのでしょうか!?」
「大丈夫とのことです。菜向家に確認済み、ディレクターからのゴーサインが出ております。あ、ディレクターは私の妻です」
「それなら納得!では、放映終了までの間、二人の初めての肉感溢れる営みと、お二方のトレーニング風景、そしてマッシ部の皆さんと菜向家の当主様より提供いただきましたお二方のポージング集をお楽しみください!
実況は私、新立がお送りいたしました!それでは!」
Fin.
16/12/02 08:16更新 / 初ヶ瀬マキナ