左、左、左右。
見渡す限りの荒野。初代ジョイレイン領主が移り住んで幾分か改善したとはいえ、この領の周辺は未だ環境としては良いとは到底言えない地域が広がっている。回復地点の見えない荒野、それがジョイレイン領攻略の困難さの一つを象徴しているがそれはさておき。
その荒野を一人、軽い足取りで縦断している存在があった。
「……左、左、左右。左、左、左右。左……」
拳を胸の前に構えつつ、突き出しては引く、いわゆるシャドーと呼ばれる行為を謎の呪文と共に荒野をジョギングしながら行うそれの外観は、分厚い砂除けのコート以外は何も分からないという不審な存在ではあった。時折見える足の形状から、それがリザードマンであるとは理解できる。恐らく後ろから見ることが出来れば、マントから飛び出た尻尾が見て取れるだろう。
「……左、左、左右。左、左、左右。左……っと」
そんな彼女を囲むように、荒野の岩陰から暴漢が五人、獲物を手に出現する。とある鞭持ちの御者には手を出さないが、それ以外の旅人や商人を襲ってきた筋金入りの悪漢だ。テンプレートな脅し文句を口にしつつ、刃物をちらつかせる男達に、フードの魔物は何も話さず、身を屈めた。
抵抗する気か、男達はそのフードの――丸腰の存在を内心嘲笑しつつ、包囲網を縮めていく。確実に奪い尽くすために……。
――一瞬だった。
驚きの表情を浮かべたまま、口をパクパクと動かす事すら出来ずに固まる暴漢。その鳩尾には、深く、深く抉れるようにめり込んだ渾身のブローが突き刺さっていた。
何が起こったのか、暴漢の仲間達は理解できなかった。いつの間に距離を詰めたのか、そして何より、それなりに場数を踏んできた筈の自分たちの仲間の一人が、既に白目を剥き口から泡を噴いているのか……。
ずるり、と拳から横に滑り落ち床に伏せる暴漢。既に意識は闇の淵底であるそれを一顧だにせず、一撃でのした"それ"は、そのまま半身を引きつつ、胸の前で両拳を握り、構えた。
その両手はしっかと握られ、バンデージが巻かれている。白い布の隙間から見える肌の色は、緑。魔物であると判断した暴漢は、咄嗟に対魔物用の札を取り出そうとするが、一足早く魔物は動いていた。
「ぐ、ごぉっ!」
利き腕にフック、鳩尾にブローを受けた暴漢は先程のそれと同様に地面に倒れ伏していく。そのまま再び構えを取る魔物に、仲間を二人やられた暴漢達は視線を交錯させ、背後から謎のフードに向けて襲いかかる。
奇声と共に振り下ろされた剣は、しかし互いの金切り音を響かせるだけだった。
「なっ!?」
避けられるタイミングだったとは思えない剣による一撃が避けられたことにより、男達は致命的な隙を晒すことになる。それを見逃さず、男の一人は横頬に裏拳を食らい、吹き飛ばされて荒野に強か頭をぶつけ、意識を深淵の縁に置いた。
そして、剣を取り直す隙を与えられたもう一人はそれを生かすことが出来ず地に沈み……最後の一人を前にして彼女は身を屈め、左右に体を振った。
暴漢はそれを攻め倦ねていた。いや、剣を横薙ぎにすれば銅を狙うことも出来たかもしれない。しかし袈裟にするにしろ、反射神経、反応速度、全てが違うのだ。逃げるにしても、一太刀を浴びせなければそれすら不可能だろう。
浴びせようにも、左右に振れる的の体には狙いを定め辛かった。どこか煽られているようにすら感じられる仕草……しかし、多人数の時ならまだしも、今は自分一人である。感情的に突っ込む愚は、痛いほどに理解していた。
正眼に構えたまま、最後の暴漢は"奴"を打ちのめすべく動きを注視し、間合いを取ろうと足を後ろに引く。
それはあまりに迂闊な行為であった。
「……ッ」
重心が幽かに後ろに向かったのを理解したフードのリザードマンは、身を屈めたまま一瞬で懐へと潜り込んだ。反撃しようと暴漢が振り下ろす剣よりも速く――拳は振るわれる!
「――はぁっ!」
強烈な、顎を砕くアッパー。
グローブという鞘から抜かれたままの拳という刀から放たれるそれをモロに受けた暴漢は、名状し難き痛みと共に脳を揺らされ、意識を吹き飛ばされる。
だが、その寸前、アッパーによって外れたフード、その下に隠されていた顔を見たとき……彼は己等の迂闊さを十二分に理解してしまった。
「(……!しまった……"サー"ロージーだったか……)」
宙に浮き、意識を失う刹那、暴漢の一人は今し方自分たちを壊滅させたこのリザードマンの名前を思い出してしまった。
"サー"=ロージー=レックス。
『剣を持たぬ男爵』として有名であり、武器無しと油断して一撃でのされるものが後を絶たないという類稀な戦闘能力とそれを証明する戦果を持つ一流の戦士である。
その一人になるとは……。それが彼の意識が途切れる前に思った事であった。
荒野に伏せる暴漢数名を背に、ロージーは手にバンデージを巻き直すと、再びフードを被り、ジョイレイン領へとシャドーをしながらのジョギングを始めるのであった……。
「……左、左、左右。左、左、左右。左……」
その後、ロージーはその腕を見込まれ、格闘家として数々の強者と渡り合い――引退試合の"サー"コーク=ディドリーに喫した一敗を除いて、対男性戦では一度も負けることがなかった。
対魔物戦でもそれは顕著であり、戦績は123戦92勝5敗26引き分け。しかも敗北数は全て、たった一名――'空手熊'ポーラとの戦いによって築かれたものである。
今もなお、ゴッブール商会主催の、'空手熊'ポーラとの異種格闘技戦は伝説の一戦として、格闘ファンの間では語り草になっているという。
fin.
その荒野を一人、軽い足取りで縦断している存在があった。
「……左、左、左右。左、左、左右。左……」
拳を胸の前に構えつつ、突き出しては引く、いわゆるシャドーと呼ばれる行為を謎の呪文と共に荒野をジョギングしながら行うそれの外観は、分厚い砂除けのコート以外は何も分からないという不審な存在ではあった。時折見える足の形状から、それがリザードマンであるとは理解できる。恐らく後ろから見ることが出来れば、マントから飛び出た尻尾が見て取れるだろう。
「……左、左、左右。左、左、左右。左……っと」
そんな彼女を囲むように、荒野の岩陰から暴漢が五人、獲物を手に出現する。とある鞭持ちの御者には手を出さないが、それ以外の旅人や商人を襲ってきた筋金入りの悪漢だ。テンプレートな脅し文句を口にしつつ、刃物をちらつかせる男達に、フードの魔物は何も話さず、身を屈めた。
抵抗する気か、男達はそのフードの――丸腰の存在を内心嘲笑しつつ、包囲網を縮めていく。確実に奪い尽くすために……。
――一瞬だった。
驚きの表情を浮かべたまま、口をパクパクと動かす事すら出来ずに固まる暴漢。その鳩尾には、深く、深く抉れるようにめり込んだ渾身のブローが突き刺さっていた。
何が起こったのか、暴漢の仲間達は理解できなかった。いつの間に距離を詰めたのか、そして何より、それなりに場数を踏んできた筈の自分たちの仲間の一人が、既に白目を剥き口から泡を噴いているのか……。
ずるり、と拳から横に滑り落ち床に伏せる暴漢。既に意識は闇の淵底であるそれを一顧だにせず、一撃でのした"それ"は、そのまま半身を引きつつ、胸の前で両拳を握り、構えた。
その両手はしっかと握られ、バンデージが巻かれている。白い布の隙間から見える肌の色は、緑。魔物であると判断した暴漢は、咄嗟に対魔物用の札を取り出そうとするが、一足早く魔物は動いていた。
「ぐ、ごぉっ!」
利き腕にフック、鳩尾にブローを受けた暴漢は先程のそれと同様に地面に倒れ伏していく。そのまま再び構えを取る魔物に、仲間を二人やられた暴漢達は視線を交錯させ、背後から謎のフードに向けて襲いかかる。
奇声と共に振り下ろされた剣は、しかし互いの金切り音を響かせるだけだった。
「なっ!?」
避けられるタイミングだったとは思えない剣による一撃が避けられたことにより、男達は致命的な隙を晒すことになる。それを見逃さず、男の一人は横頬に裏拳を食らい、吹き飛ばされて荒野に強か頭をぶつけ、意識を深淵の縁に置いた。
そして、剣を取り直す隙を与えられたもう一人はそれを生かすことが出来ず地に沈み……最後の一人を前にして彼女は身を屈め、左右に体を振った。
暴漢はそれを攻め倦ねていた。いや、剣を横薙ぎにすれば銅を狙うことも出来たかもしれない。しかし袈裟にするにしろ、反射神経、反応速度、全てが違うのだ。逃げるにしても、一太刀を浴びせなければそれすら不可能だろう。
浴びせようにも、左右に振れる的の体には狙いを定め辛かった。どこか煽られているようにすら感じられる仕草……しかし、多人数の時ならまだしも、今は自分一人である。感情的に突っ込む愚は、痛いほどに理解していた。
正眼に構えたまま、最後の暴漢は"奴"を打ちのめすべく動きを注視し、間合いを取ろうと足を後ろに引く。
それはあまりに迂闊な行為であった。
「……ッ」
重心が幽かに後ろに向かったのを理解したフードのリザードマンは、身を屈めたまま一瞬で懐へと潜り込んだ。反撃しようと暴漢が振り下ろす剣よりも速く――拳は振るわれる!
「――はぁっ!」
強烈な、顎を砕くアッパー。
グローブという鞘から抜かれたままの拳という刀から放たれるそれをモロに受けた暴漢は、名状し難き痛みと共に脳を揺らされ、意識を吹き飛ばされる。
だが、その寸前、アッパーによって外れたフード、その下に隠されていた顔を見たとき……彼は己等の迂闊さを十二分に理解してしまった。
「(……!しまった……"サー"ロージーだったか……)」
宙に浮き、意識を失う刹那、暴漢の一人は今し方自分たちを壊滅させたこのリザードマンの名前を思い出してしまった。
"サー"=ロージー=レックス。
『剣を持たぬ男爵』として有名であり、武器無しと油断して一撃でのされるものが後を絶たないという類稀な戦闘能力とそれを証明する戦果を持つ一流の戦士である。
その一人になるとは……。それが彼の意識が途切れる前に思った事であった。
荒野に伏せる暴漢数名を背に、ロージーは手にバンデージを巻き直すと、再びフードを被り、ジョイレイン領へとシャドーをしながらのジョギングを始めるのであった……。
「……左、左、左右。左、左、左右。左……」
その後、ロージーはその腕を見込まれ、格闘家として数々の強者と渡り合い――引退試合の"サー"コーク=ディドリーに喫した一敗を除いて、対男性戦では一度も負けることがなかった。
対魔物戦でもそれは顕著であり、戦績は123戦92勝5敗26引き分け。しかも敗北数は全て、たった一名――'空手熊'ポーラとの戦いによって築かれたものである。
今もなお、ゴッブール商会主催の、'空手熊'ポーラとの異種格闘技戦は伝説の一戦として、格闘ファンの間では語り草になっているという。
fin.
13/07/09 21:00更新 / 初ヶ瀬マキナ