憧れと始まり
はぁっ、はぁ。ーーやった、ついに手に入れた。
両腕いっぱいに大きな一つの卵を抱えて少年は息を切らして山道を駆けていた。
少年が息を切らせながら大事に持っているのは、ワイバーンの卵。
少年は……竜騎士になりたかった。しかし、大人のワイバーンを従えるなんて自信は無い。だから、幼いワイバーンとの出会いやワイバーンの卵を手に入れる機会を狙っていた。そうしてついに、その時が訪れたのであった。
彼女を見つけたのは本当に偶然。
騎士学校からの帰り道、今の少年のように、いや、もっと大事そうに卵を抱えて空を飛ぶ彼女を見つけた。ワイバーンの手は翼となっているので、体にベルトで卵を固定していた彼女は、北の空を目指していた。彼女を見つけたとき、少年は彼女から目を離すことができなかった。
夕日の赤を反射させて輝く緑の鱗。紅天の中、力強く宙を打つ羽ばたきに目を奪われた。
ぐんぐん遠ざかっていくその姿を見て、少年は思わず駆け出していた。
思えば、その時は卵を手に入れて竜騎士になろうとしていたなんて、忘れていたと思う。
もしかしたら彼女にパートナーになって欲しいと思ったのかもしれないし、それとも単に彼女に近づきたいと思ったからだったかもしれない。
本当に思わずといった体で、向こう見ずにも少年は駆け出していた。
少年の足で空を飛ぶワイバーンに追いつけるはずなどないが、幸運にも彼女は少年に見える範囲の山に降りてくれた。
その山に住んでいるワイバーンのことは近くの村の住人には周知の事実であったようで、尋ねると村人は意味ありげな顔で「頑張れよ」なんて声をかけてくれるものもいた。
まさか卵を盗みにいくなんてことを村人が知っているわけはないので、何を頑張るのだろう、と少年は首をかしげるだけであったのだが……。
嬉しそうな顔で少年を泊めてくれて、ワイバーンの住処も教えてくれた村人にお礼を言って少年は彼女の元に向かった。さらに、何も持たず、着の身着のままであった少年に村人たちは親切にも食料や魔物よけのお守りと言って、蒼緑色の鱗までくれたものだった。
効果は確かなもので、彼女の寝ぐらだと教えられた場所まで魔物に出会うことは無かった。それでも、時折り、「え、なんであの子からアイツの匂いがするの?」「そんなぁ……」なんて声が聞こえてはいた。
そうして、少年は彼女の寝ぐらにたどり着き、彼女の隙をついて卵を盗むことに成功したのだった。
ここまで離れれば大丈夫だろうと、ホッと一息をついて、思ったよりも簡単だったな、と少年は思う。
あんなにも大事そうに運んでいたのに、机の上に卵をおいたまま、彼女はあろうことか奥の部屋へと消えてしまったのだ。彼女の寝ぐらは洞窟やお城なんてものではなく、可愛らしい木造りの一軒家である。イメージにあるワイバーンの寝ぐらとは違っていて、少年は面食らったものだが、そっと近づいて窓から中を伺うと、奥の部屋へと消える彼女のシッポが見えた。
このチャンスを逃してはいけない、と少年は家に入り込んで卵を抱えると一目散に森に向かって駆け出して、ようやく今、座り込んで息をついている。
少年は息を整えて、汗を拭いながら大事そうに抱えた卵を撫でる。
「これからよろしくね」
嬉しさのあまりまだ聞こえているのかどうかも、わからない卵に向かって声をかけていた。
これで、僕も竜騎士になれる。ワイバーンの背中に乗って空を共に空をかける成長した自分の姿を想像して、思わず頬がニヤけてしまう。
ギュッと卵を抱き寄せる。と、
「あれ?」
フンワリとした甘い香りが少年の鼻に届いた。
「……いい匂い。なんだか甘いお菓子のような」
鼻をヒクつかせながらあたりを見回すのだが、少年の目にはそれらしきものは見当たらない。キョロキョロとして、少年はやっと匂いの出所に気がつく。卵から匂いがしている。
少年は卵に鼻を近づけるとその匂いを嗅いだ。
「うん、やっぱりここから匂いがする」
少年は確信を持つが、どうしてこんな固そうな卵からこんな甘い匂いがするのか、ともすれば美味しそうな……。
「あっ!!」
考えて、気づいた。さっきまでこの卵に触れていたであろう彼女に。これはもしかしたら彼女の匂いなのではないだろうか。
〜〜”〜”。それに気づいて、少年は耳まで真っ赤にしてしまった。
あんなに綺麗にな女の人の匂いを、こんなにも熱心に嗅いでいてしまったなんてーー。自分のしていたことに気がついたからだ。
緑の鱗に覆われた勇壮な肢体で赤い空を駆け抜けていった彼女。少年が思わず追いかけずにはいられなかった彼女。
その彼女が大事そうに抱えていた卵ーーー。
そこまで考えて……少年はやっと自分のしてしまった事を省みることができた。
「……あ、…あ」
僕は何てことをしてしまったのだ。今までは彼女から逃げるのに夢中で気がつかなかったが、僕は彼女の大切な卵、赤ちゃんを誘拐したのだ。
竜騎士を夢見て卵を手に入れようとばっかり思っていて、やっと見つけたチャンスに体が動いてしまった。でも、卵を大事そうに抱く彼女の姿を想像して、卵が本当はどういったものであるのかに気がついたのだ。
己のしでかしてしまった事に気がついて、少年は恐ろしくなった。陽も傾いて徐々に冷えていく気温も相まって、寒気がしてきた。
ガチガチと歯を鳴らしながら、少年は、どうしよう、どうしよう、と呟いた。
あれだけ大切にしていた卵を盗んだのだ。反省したので返します、といったところで簡単に許してもらえる訳がない。
どこかの国では犯罪者に対して鞭打ちの刑や、腕を落としたりするところもあるそうだ。いくら彼女が人間に危害を加えない魔物娘だといっても、大切なものを盗まれて怒ってしまえば、どんなことをするかわからない。最悪、殺される事だって……。
ゾクっとして思わず二の腕を握りしめてしまった。もういっそこのまま逃げてしまおうかーー。
ムクムクとそんな考えさえ、首をもたげ始めてしまう。
あぐらをかいた足の真ん中では卵は素知らぬ顔で鎮座している。少年が逡巡していると、
「? あったかい……」
お守りにと渡されて、懐にしまっていた蒼緑色の鱗が仄かに熱を持っていた。その温もりはまるで少年を慰めているかのようで、ちゃんと謝りなさいと諭しているかのようで。その鱗はうっすらと……温かな光も放っていて、少年の目の前で光は穏やかに揺れている。
ーー少年は決意した。
この卵はあのお姉さんに返そう。
少年は再び卵を大事に抱えると立ち上がった。
ちょうど少年が決意したその時、歩み出そうとした少年の頭上から声がかかる。
「み〜つ〜け〜た〜ぞ〜!!」
底冷えのするような、まるで地の底から響いてくるかのような声。
少年の頭の上ではごうごうと風が音を立て、木々は風圧によってグングンと振り回されている。心臓を鷲掴みにされたような感覚に少年は生きた心地もせずに恐る恐る上を見た。
少年はーーー終わった、と思った。
夕焼けで紅く染まった空の中、強靭な翼をいっぱいに広げたワイバーンがいた。血走った眼を真っ直ぐに少年に向けて、少年が初めて彼女を見たときの姿ではなくーー旧魔王時代の姿で彼女はいた。
真っ赤な空の中、緑に輝く体躯。夕日を浴びて輝くだけではなく、怒気によって彼女自身も燐光を発しているようだ。
あんまりにも急いで来たのだろう、雲が真っ直ぐに引き裂かれて彼女の通った道が見て取れた。まるで空にできた雲の道はまるで自分を招く天国への道のようだ、でも、あの真っ赤な血のような道は天国ではなく地獄に続いているのだとも、少年は感じた。
彼女の姿は惚れ惚れするほどに立派だ。こんなにも格好の良くて美しいワイバーンに殺されてしまうのであれば、まだいいのかな、という諦めの気持ちまで少年の心には浮かんでしまった。
その爪の一振りは少年なんてたやすく引き裂くだろう。その牙の一噛みで少年はバラバラになってしまうだろう。
真っ赤に染まった空の中、あんまりにも美しい緑の翼竜は瞳を爛々と輝かせて少年を見つめている。もう怒りすぎているのか心なしか頬あたりの鱗にも赤味が差している気もする。
少年はガクガクと震える足で跪いて、卵をそっと地面に下ろして謝った。
「ごめんなさい。あなたの大切なものを盗んでしまって……」
本当は相手を見て謝りたいのにーーワイバーンが怒っている姿が怖いということもあるのだがーーその姿は綺麗でかっこ良くて、罪を犯してしまった自分が見るのは畏れ多くて憚られてしまう。
「許してくださいとは、………言いません。僕は竜騎士に、なりたくて……ワイバーンの卵を手に入れようと思って……、あなたが飛んでいる姿を見て綺麗だと思って思わず追いかけて……、そのあなたが卵を持っていて………えっと、あなたの娘なら同じように綺麗だとも思って………、………ごめんなさい」
思ったことをしどろもどろになりながら、ワイバーンに向けて俯きながら語る少年。
だから、いつの間にか風が止み木々も落ち着き、穏やかに雲が流れる空から、彼女が少年の前に降りて来ていたことには、気がつくわけがなかった。
「……………」
沈黙したままの少年を見据えた彼女はおもむろに、
「…………てぃっ」
「アイタァっ!?」
彼女のチョップを受け、突然頭に降りかかった衝撃に驚いて少年は顔を跳ね上げた。目に入ったのは真っ赤な顔をして腕を組んで、そっぽを向いたワイバーンのお姉さんの姿だった。
驚いたまま眼を白黒とさせる少年の耳に彼女の消え入るようなか細い声が届いた。先ほどのような怖い声ではない、澄んだ清流のような声だった。
「……………違うわよ、私はまだ独身だモン」
先ほどまでとは打って変わった彼女の様子に、今度は少年は別の意味で驚いてしまう。そして、素直に可愛い、と思ってしまった。
「で、でもこの卵はあなたのじゃ……」
「そうよ。私の卵よ。でも、私の……………産んだ卵………じゃないわよ」
ソッポを向いたまま真っ赤な顔でボソボソと彼女は言う。
「え、じゃあ、誰の?」
少年は訳が分からず、混乱してしまうが、ふと思い当たる。
「………あっ!?」
「きゃっ!? な、何よ、急に大きな声なんて出したりして……」
ビクッとして身をすくめて飛び退る彼女。少年よりも背丈も大きく、力だって……強いに決まっているのに、そんな仕草をされて少年はますます困惑しながら、
「もしかして、あなたの妹、ですか?」
彼女に向かって問いかける。
「…………、違うわ」
むぅ、という顔をして言葉を続けようかどうか彼女は迷っているようだ。
「えっと、じゃあ………」
申し訳ない顔で自分を見つめてくる少年を見て、うぐっ、という表情を浮かべ、うぅぅぅ、と彼女は低い唸り声を上げ始め………、意を決して叫んだ。
「だーかーらー、それは卵だけど、本当の卵じゃないの!! 卵型の容器に入ったプリンな、のーーー!!」
もう湯気が出るのではないかというくらいに顔を真っ赤にして彼女は叫んだ。
「えっ、………ぷりん?」
聞きなれない単語を少年は理解できなかった。少年のいる地域では領主さまぐらいでなければ口にすることはない嗜好品を少年が知る由もない。だから、どうして彼女がそんなにも恥ずかしそうにしているのかワカラナイ。
全然わかっていなさそうな少年に、ワイバーンのお姉さんは体をプルプルと震わせてもどかしそうにしている。
「プリンは、プリンよ。もうっ! お菓子! それ、私が先月からずっと楽しみにしていたお菓子なの! サバトが作った特製のお菓子で、温めると孵化するみたいに殻が割れて中のお菓子を食べられるっていう特別製なのよ! 私の翼で全速力で飛ばして3日はかかるところにあって、やっと家に戻って食べようと思って、トイレに行って戻ったら、君が持っていっちゃってて!! 楽しみにしてたのにーー!!」にー、にー、にー(エコー)
彼女の声が山に木霊していく……。シビレを切らしてまくし立てた彼女の剣幕と内容に、少年は呆然としてしまう。一息に言い切った彼女は、ゼェゼェと肩で息をしながら真っ赤な顔をして少年をジト目で睨みつけている。
「………お、お菓子、コレが……?」
少年は足元に置いたデッカい卵をみて見て、「おっきくない?」と素直な感想を漏らしてしまった。
ガァン、とショックを受けたようにワイバーンが揺らめく。
「ふ、……ふふふ。だから、だから言いたくなかったのよーー!!」
涙目になりながら、彼女は赤い空に向かってドカーンと雄叫びをあげる。
「そうですよ、どうせ私は甘いもの好きの大食らいのワイバーンですよー。このプリンを手に入れるために、必死で痩せて飛べるようになるまではブクブクでしたよーだ。何よ! 誰が、オークですか? よ!? 私はワイバーンよ、この鱗と翼を見ればわかるでしょーーがぁーーーっ!!」
少年を置いてきぼりにして聞いてもいないことまで、喚き出す見目麗しいワイバーンである彼女。
「えっと……、いっぱい食べる女の子は可愛いと思うよ……?」
「何よ! その取って付けたような慰め!? それに疑問形?!」
再び、ぬがぁ、っと彼女は声を上げる。そんな発言をされた後では、ヌガー(お菓子)を欲しがっているように見えなくもない……。
彼女の様子を見ていた少年は思わず、
「ふふっ」
「あー、笑ったー!! ひどいぃぃ…」
目尻に涙を浮かべながら抗議する彼女に向けて、少年はポケットから村人にもらった飴玉を差し出した。
「あげるよ。……僕が持っているものはこれだけでゴメンね」
「ちょっと、君、私のこと馬鹿にしているでしょ?」
貰うけど……。と少年から飴玉を受け取って彼女は口に放り込んだ。彼女が口を開けた時にチロリと覗いた赤い舌に、少年がドキリとしたのは内緒だ。
口の中で飴玉をコロコロと転がしながら、ワイバーンは落ち着きを取り戻したようだった。
「それで、そのぷりんって、どんなお菓子なの?」
「んぅ? んー、卵と砂糖の優しい甘さが最高で、プルプルした食感が口の中で爆発するのよ!」
「爆発ぅ!?」
彼女は美味しさが爆発すると言いたかったようだが、爆発する食感ではではただの危険物だ。
あまり心が惹かれていない様子の少年を見て彼女は、
「じゃあ、君も食べてみる? 美味しいよ」
少年を誘う。本当は自分一人で食べたかったのだが、プリンの素晴らしさを知らないまま帰すわけにはいかないと、彼女の中の食魂(フードソウル)がそれを上回った。決して性欲が膨れ上がったわけではない。
うーん、と迷う少年に卵を抱えさせると、彼女はポーイと少年を宙に投げ上げる。
「う、うわぁぁぁぁ!?」
突然のことに叫ぶことしかできなかった少年は、そのままーー空を飛んだ。
彼女は竜の形態に変化して、少年を背中でキャッチし夕焼け空の中に飛び出したのだ。
少年の視界を流れていくのは、ーーー夢にまで見た景色。グングンと空が雲が近くなり、代わりに夕日に染まる森の木々が遠ざかっていく。
少年は言葉も忘れて目の前の景色に、肌に触れる上空のひんやりとした風に身を包まれていた。
抱えさせられた卵……型のプリン容器をしっかりと抱きしめて、感動に身を震わせていた。
「ふふん、私が人を背中に乗せるのなんて初めてなんだから、感謝しなさい」
下からは得意そうな声が聞こえる。声は風に運ばれて雲と一緒に後ろに流れていくのに、その心地の良い響きは少年の耳に残った。
「……ありがとう」
思わぬ形で夢が叶って、素直に彼女への礼を口にする少年。
少年のそんな様子を知ってか知らずか。
「そう言えば、あなた、竜騎士になりたいって言ってたわよね。……だ、だったら………、私が、……パートナーになってあげてもいいわよ。………綺麗って言ってくれたし、………私の娘とかなんとか。…………」
「え? うん、僕は竜騎士になるのが夢だけど、その後、なんて言ったのーー!?」
ヒュウヒュウと鳴っている風の音で、後半のゴニョゴニョとしたところは少年には聞こえなかったようだ。
「だぁーーっ、私! が! あなたのパートナーになってあげるって言っているのよ。竜騎士のパートナーになれば、運動もできるし食べてもこの体系を維持できるはず!! 拒否は許さないからっ!! いい!? いいなら返事ッ!!」
「はっ、はい!?」
彼女にまくし立てられて思わず少年は返事をしてしまう。
「よろしいっ!!」
勢いで押し切るワイバーンの顔は少年には見えてはいないが、きっと夕焼け空よりもよっぽど真っ赤になっていることだろう。
……まぁ、いいか。少年は思う。こんな形にはなってしまったけれどもパートナーが出来て、竜騎士の夢には一歩近づけた。
「プ〜リンっ♪ プ〜リ〜ン〜〜っ♪」
下からはすでに楽しそうな鼻歌が聞こえている。相手が大人だとは言っても、こんなお姉さんだったら仲良くやっていけそうな気がする。
甘い匂いがする卵を抱えなおす少年と楽しげに歌うワイバーンが赤く染まる空の中、明日へと向かう太陽を追いかけて飛んでいく。
心地の良い風が頬をなで身体中を吹き抜けていく。二人は生まれ変わる前の眩しく赤い世界で一緒に目を瞬かせていた。
両腕いっぱいに大きな一つの卵を抱えて少年は息を切らして山道を駆けていた。
少年が息を切らせながら大事に持っているのは、ワイバーンの卵。
少年は……竜騎士になりたかった。しかし、大人のワイバーンを従えるなんて自信は無い。だから、幼いワイバーンとの出会いやワイバーンの卵を手に入れる機会を狙っていた。そうしてついに、その時が訪れたのであった。
彼女を見つけたのは本当に偶然。
騎士学校からの帰り道、今の少年のように、いや、もっと大事そうに卵を抱えて空を飛ぶ彼女を見つけた。ワイバーンの手は翼となっているので、体にベルトで卵を固定していた彼女は、北の空を目指していた。彼女を見つけたとき、少年は彼女から目を離すことができなかった。
夕日の赤を反射させて輝く緑の鱗。紅天の中、力強く宙を打つ羽ばたきに目を奪われた。
ぐんぐん遠ざかっていくその姿を見て、少年は思わず駆け出していた。
思えば、その時は卵を手に入れて竜騎士になろうとしていたなんて、忘れていたと思う。
もしかしたら彼女にパートナーになって欲しいと思ったのかもしれないし、それとも単に彼女に近づきたいと思ったからだったかもしれない。
本当に思わずといった体で、向こう見ずにも少年は駆け出していた。
少年の足で空を飛ぶワイバーンに追いつけるはずなどないが、幸運にも彼女は少年に見える範囲の山に降りてくれた。
その山に住んでいるワイバーンのことは近くの村の住人には周知の事実であったようで、尋ねると村人は意味ありげな顔で「頑張れよ」なんて声をかけてくれるものもいた。
まさか卵を盗みにいくなんてことを村人が知っているわけはないので、何を頑張るのだろう、と少年は首をかしげるだけであったのだが……。
嬉しそうな顔で少年を泊めてくれて、ワイバーンの住処も教えてくれた村人にお礼を言って少年は彼女の元に向かった。さらに、何も持たず、着の身着のままであった少年に村人たちは親切にも食料や魔物よけのお守りと言って、蒼緑色の鱗までくれたものだった。
効果は確かなもので、彼女の寝ぐらだと教えられた場所まで魔物に出会うことは無かった。それでも、時折り、「え、なんであの子からアイツの匂いがするの?」「そんなぁ……」なんて声が聞こえてはいた。
そうして、少年は彼女の寝ぐらにたどり着き、彼女の隙をついて卵を盗むことに成功したのだった。
ここまで離れれば大丈夫だろうと、ホッと一息をついて、思ったよりも簡単だったな、と少年は思う。
あんなにも大事そうに運んでいたのに、机の上に卵をおいたまま、彼女はあろうことか奥の部屋へと消えてしまったのだ。彼女の寝ぐらは洞窟やお城なんてものではなく、可愛らしい木造りの一軒家である。イメージにあるワイバーンの寝ぐらとは違っていて、少年は面食らったものだが、そっと近づいて窓から中を伺うと、奥の部屋へと消える彼女のシッポが見えた。
このチャンスを逃してはいけない、と少年は家に入り込んで卵を抱えると一目散に森に向かって駆け出して、ようやく今、座り込んで息をついている。
少年は息を整えて、汗を拭いながら大事そうに抱えた卵を撫でる。
「これからよろしくね」
嬉しさのあまりまだ聞こえているのかどうかも、わからない卵に向かって声をかけていた。
これで、僕も竜騎士になれる。ワイバーンの背中に乗って空を共に空をかける成長した自分の姿を想像して、思わず頬がニヤけてしまう。
ギュッと卵を抱き寄せる。と、
「あれ?」
フンワリとした甘い香りが少年の鼻に届いた。
「……いい匂い。なんだか甘いお菓子のような」
鼻をヒクつかせながらあたりを見回すのだが、少年の目にはそれらしきものは見当たらない。キョロキョロとして、少年はやっと匂いの出所に気がつく。卵から匂いがしている。
少年は卵に鼻を近づけるとその匂いを嗅いだ。
「うん、やっぱりここから匂いがする」
少年は確信を持つが、どうしてこんな固そうな卵からこんな甘い匂いがするのか、ともすれば美味しそうな……。
「あっ!!」
考えて、気づいた。さっきまでこの卵に触れていたであろう彼女に。これはもしかしたら彼女の匂いなのではないだろうか。
〜〜”〜”。それに気づいて、少年は耳まで真っ赤にしてしまった。
あんなに綺麗にな女の人の匂いを、こんなにも熱心に嗅いでいてしまったなんてーー。自分のしていたことに気がついたからだ。
緑の鱗に覆われた勇壮な肢体で赤い空を駆け抜けていった彼女。少年が思わず追いかけずにはいられなかった彼女。
その彼女が大事そうに抱えていた卵ーーー。
そこまで考えて……少年はやっと自分のしてしまった事を省みることができた。
「……あ、…あ」
僕は何てことをしてしまったのだ。今までは彼女から逃げるのに夢中で気がつかなかったが、僕は彼女の大切な卵、赤ちゃんを誘拐したのだ。
竜騎士を夢見て卵を手に入れようとばっかり思っていて、やっと見つけたチャンスに体が動いてしまった。でも、卵を大事そうに抱く彼女の姿を想像して、卵が本当はどういったものであるのかに気がついたのだ。
己のしでかしてしまった事に気がついて、少年は恐ろしくなった。陽も傾いて徐々に冷えていく気温も相まって、寒気がしてきた。
ガチガチと歯を鳴らしながら、少年は、どうしよう、どうしよう、と呟いた。
あれだけ大切にしていた卵を盗んだのだ。反省したので返します、といったところで簡単に許してもらえる訳がない。
どこかの国では犯罪者に対して鞭打ちの刑や、腕を落としたりするところもあるそうだ。いくら彼女が人間に危害を加えない魔物娘だといっても、大切なものを盗まれて怒ってしまえば、どんなことをするかわからない。最悪、殺される事だって……。
ゾクっとして思わず二の腕を握りしめてしまった。もういっそこのまま逃げてしまおうかーー。
ムクムクとそんな考えさえ、首をもたげ始めてしまう。
あぐらをかいた足の真ん中では卵は素知らぬ顔で鎮座している。少年が逡巡していると、
「? あったかい……」
お守りにと渡されて、懐にしまっていた蒼緑色の鱗が仄かに熱を持っていた。その温もりはまるで少年を慰めているかのようで、ちゃんと謝りなさいと諭しているかのようで。その鱗はうっすらと……温かな光も放っていて、少年の目の前で光は穏やかに揺れている。
ーー少年は決意した。
この卵はあのお姉さんに返そう。
少年は再び卵を大事に抱えると立ち上がった。
ちょうど少年が決意したその時、歩み出そうとした少年の頭上から声がかかる。
「み〜つ〜け〜た〜ぞ〜!!」
底冷えのするような、まるで地の底から響いてくるかのような声。
少年の頭の上ではごうごうと風が音を立て、木々は風圧によってグングンと振り回されている。心臓を鷲掴みにされたような感覚に少年は生きた心地もせずに恐る恐る上を見た。
少年はーーー終わった、と思った。
夕焼けで紅く染まった空の中、強靭な翼をいっぱいに広げたワイバーンがいた。血走った眼を真っ直ぐに少年に向けて、少年が初めて彼女を見たときの姿ではなくーー旧魔王時代の姿で彼女はいた。
真っ赤な空の中、緑に輝く体躯。夕日を浴びて輝くだけではなく、怒気によって彼女自身も燐光を発しているようだ。
あんまりにも急いで来たのだろう、雲が真っ直ぐに引き裂かれて彼女の通った道が見て取れた。まるで空にできた雲の道はまるで自分を招く天国への道のようだ、でも、あの真っ赤な血のような道は天国ではなく地獄に続いているのだとも、少年は感じた。
彼女の姿は惚れ惚れするほどに立派だ。こんなにも格好の良くて美しいワイバーンに殺されてしまうのであれば、まだいいのかな、という諦めの気持ちまで少年の心には浮かんでしまった。
その爪の一振りは少年なんてたやすく引き裂くだろう。その牙の一噛みで少年はバラバラになってしまうだろう。
真っ赤に染まった空の中、あんまりにも美しい緑の翼竜は瞳を爛々と輝かせて少年を見つめている。もう怒りすぎているのか心なしか頬あたりの鱗にも赤味が差している気もする。
少年はガクガクと震える足で跪いて、卵をそっと地面に下ろして謝った。
「ごめんなさい。あなたの大切なものを盗んでしまって……」
本当は相手を見て謝りたいのにーーワイバーンが怒っている姿が怖いということもあるのだがーーその姿は綺麗でかっこ良くて、罪を犯してしまった自分が見るのは畏れ多くて憚られてしまう。
「許してくださいとは、………言いません。僕は竜騎士に、なりたくて……ワイバーンの卵を手に入れようと思って……、あなたが飛んでいる姿を見て綺麗だと思って思わず追いかけて……、そのあなたが卵を持っていて………えっと、あなたの娘なら同じように綺麗だとも思って………、………ごめんなさい」
思ったことをしどろもどろになりながら、ワイバーンに向けて俯きながら語る少年。
だから、いつの間にか風が止み木々も落ち着き、穏やかに雲が流れる空から、彼女が少年の前に降りて来ていたことには、気がつくわけがなかった。
「……………」
沈黙したままの少年を見据えた彼女はおもむろに、
「…………てぃっ」
「アイタァっ!?」
彼女のチョップを受け、突然頭に降りかかった衝撃に驚いて少年は顔を跳ね上げた。目に入ったのは真っ赤な顔をして腕を組んで、そっぽを向いたワイバーンのお姉さんの姿だった。
驚いたまま眼を白黒とさせる少年の耳に彼女の消え入るようなか細い声が届いた。先ほどのような怖い声ではない、澄んだ清流のような声だった。
「……………違うわよ、私はまだ独身だモン」
先ほどまでとは打って変わった彼女の様子に、今度は少年は別の意味で驚いてしまう。そして、素直に可愛い、と思ってしまった。
「で、でもこの卵はあなたのじゃ……」
「そうよ。私の卵よ。でも、私の……………産んだ卵………じゃないわよ」
ソッポを向いたまま真っ赤な顔でボソボソと彼女は言う。
「え、じゃあ、誰の?」
少年は訳が分からず、混乱してしまうが、ふと思い当たる。
「………あっ!?」
「きゃっ!? な、何よ、急に大きな声なんて出したりして……」
ビクッとして身をすくめて飛び退る彼女。少年よりも背丈も大きく、力だって……強いに決まっているのに、そんな仕草をされて少年はますます困惑しながら、
「もしかして、あなたの妹、ですか?」
彼女に向かって問いかける。
「…………、違うわ」
むぅ、という顔をして言葉を続けようかどうか彼女は迷っているようだ。
「えっと、じゃあ………」
申し訳ない顔で自分を見つめてくる少年を見て、うぐっ、という表情を浮かべ、うぅぅぅ、と彼女は低い唸り声を上げ始め………、意を決して叫んだ。
「だーかーらー、それは卵だけど、本当の卵じゃないの!! 卵型の容器に入ったプリンな、のーーー!!」
もう湯気が出るのではないかというくらいに顔を真っ赤にして彼女は叫んだ。
「えっ、………ぷりん?」
聞きなれない単語を少年は理解できなかった。少年のいる地域では領主さまぐらいでなければ口にすることはない嗜好品を少年が知る由もない。だから、どうして彼女がそんなにも恥ずかしそうにしているのかワカラナイ。
全然わかっていなさそうな少年に、ワイバーンのお姉さんは体をプルプルと震わせてもどかしそうにしている。
「プリンは、プリンよ。もうっ! お菓子! それ、私が先月からずっと楽しみにしていたお菓子なの! サバトが作った特製のお菓子で、温めると孵化するみたいに殻が割れて中のお菓子を食べられるっていう特別製なのよ! 私の翼で全速力で飛ばして3日はかかるところにあって、やっと家に戻って食べようと思って、トイレに行って戻ったら、君が持っていっちゃってて!! 楽しみにしてたのにーー!!」にー、にー、にー(エコー)
彼女の声が山に木霊していく……。シビレを切らしてまくし立てた彼女の剣幕と内容に、少年は呆然としてしまう。一息に言い切った彼女は、ゼェゼェと肩で息をしながら真っ赤な顔をして少年をジト目で睨みつけている。
「………お、お菓子、コレが……?」
少年は足元に置いたデッカい卵をみて見て、「おっきくない?」と素直な感想を漏らしてしまった。
ガァン、とショックを受けたようにワイバーンが揺らめく。
「ふ、……ふふふ。だから、だから言いたくなかったのよーー!!」
涙目になりながら、彼女は赤い空に向かってドカーンと雄叫びをあげる。
「そうですよ、どうせ私は甘いもの好きの大食らいのワイバーンですよー。このプリンを手に入れるために、必死で痩せて飛べるようになるまではブクブクでしたよーだ。何よ! 誰が、オークですか? よ!? 私はワイバーンよ、この鱗と翼を見ればわかるでしょーーがぁーーーっ!!」
少年を置いてきぼりにして聞いてもいないことまで、喚き出す見目麗しいワイバーンである彼女。
「えっと……、いっぱい食べる女の子は可愛いと思うよ……?」
「何よ! その取って付けたような慰め!? それに疑問形?!」
再び、ぬがぁ、っと彼女は声を上げる。そんな発言をされた後では、ヌガー(お菓子)を欲しがっているように見えなくもない……。
彼女の様子を見ていた少年は思わず、
「ふふっ」
「あー、笑ったー!! ひどいぃぃ…」
目尻に涙を浮かべながら抗議する彼女に向けて、少年はポケットから村人にもらった飴玉を差し出した。
「あげるよ。……僕が持っているものはこれだけでゴメンね」
「ちょっと、君、私のこと馬鹿にしているでしょ?」
貰うけど……。と少年から飴玉を受け取って彼女は口に放り込んだ。彼女が口を開けた時にチロリと覗いた赤い舌に、少年がドキリとしたのは内緒だ。
口の中で飴玉をコロコロと転がしながら、ワイバーンは落ち着きを取り戻したようだった。
「それで、そのぷりんって、どんなお菓子なの?」
「んぅ? んー、卵と砂糖の優しい甘さが最高で、プルプルした食感が口の中で爆発するのよ!」
「爆発ぅ!?」
彼女は美味しさが爆発すると言いたかったようだが、爆発する食感ではではただの危険物だ。
あまり心が惹かれていない様子の少年を見て彼女は、
「じゃあ、君も食べてみる? 美味しいよ」
少年を誘う。本当は自分一人で食べたかったのだが、プリンの素晴らしさを知らないまま帰すわけにはいかないと、彼女の中の食魂(フードソウル)がそれを上回った。決して性欲が膨れ上がったわけではない。
うーん、と迷う少年に卵を抱えさせると、彼女はポーイと少年を宙に投げ上げる。
「う、うわぁぁぁぁ!?」
突然のことに叫ぶことしかできなかった少年は、そのままーー空を飛んだ。
彼女は竜の形態に変化して、少年を背中でキャッチし夕焼け空の中に飛び出したのだ。
少年の視界を流れていくのは、ーーー夢にまで見た景色。グングンと空が雲が近くなり、代わりに夕日に染まる森の木々が遠ざかっていく。
少年は言葉も忘れて目の前の景色に、肌に触れる上空のひんやりとした風に身を包まれていた。
抱えさせられた卵……型のプリン容器をしっかりと抱きしめて、感動に身を震わせていた。
「ふふん、私が人を背中に乗せるのなんて初めてなんだから、感謝しなさい」
下からは得意そうな声が聞こえる。声は風に運ばれて雲と一緒に後ろに流れていくのに、その心地の良い響きは少年の耳に残った。
「……ありがとう」
思わぬ形で夢が叶って、素直に彼女への礼を口にする少年。
少年のそんな様子を知ってか知らずか。
「そう言えば、あなた、竜騎士になりたいって言ってたわよね。……だ、だったら………、私が、……パートナーになってあげてもいいわよ。………綺麗って言ってくれたし、………私の娘とかなんとか。…………」
「え? うん、僕は竜騎士になるのが夢だけど、その後、なんて言ったのーー!?」
ヒュウヒュウと鳴っている風の音で、後半のゴニョゴニョとしたところは少年には聞こえなかったようだ。
「だぁーーっ、私! が! あなたのパートナーになってあげるって言っているのよ。竜騎士のパートナーになれば、運動もできるし食べてもこの体系を維持できるはず!! 拒否は許さないからっ!! いい!? いいなら返事ッ!!」
「はっ、はい!?」
彼女にまくし立てられて思わず少年は返事をしてしまう。
「よろしいっ!!」
勢いで押し切るワイバーンの顔は少年には見えてはいないが、きっと夕焼け空よりもよっぽど真っ赤になっていることだろう。
……まぁ、いいか。少年は思う。こんな形にはなってしまったけれどもパートナーが出来て、竜騎士の夢には一歩近づけた。
「プ〜リンっ♪ プ〜リ〜ン〜〜っ♪」
下からはすでに楽しそうな鼻歌が聞こえている。相手が大人だとは言っても、こんなお姉さんだったら仲良くやっていけそうな気がする。
甘い匂いがする卵を抱えなおす少年と楽しげに歌うワイバーンが赤く染まる空の中、明日へと向かう太陽を追いかけて飛んでいく。
心地の良い風が頬をなで身体中を吹き抜けていく。二人は生まれ変わる前の眩しく赤い世界で一緒に目を瞬かせていた。
16/10/28 00:23更新 / ルピナス