当たり前のように、夜に包まれて
口からプカリと煙を吐いて、キセルをコンと一打ち。彼女は問うた。
「で、何の話をしていたンだっけ?」
俺は彼女の言い草に呆れてしまう。
「おいおい、何を話していたかなんて決まってるだろ」
そこまで言って俺は口を噤んでしまう。……アレ、確かに俺たちは何を話していたのだっけ。いや……そもそも、話なんてしていただろうか。
「どうしたイ? さっきまであんなにツラツラ語ってくれていたのに」
「いや、エッと……」
言葉に詰まった俺を見やって、彼女は楽しそうにクツクツと笑った。
「確か、『どうして俺がアイツの尻拭いなんてしなくちゃいけないんだ……聞いてくれよ』じゃ、なかったカィ?」
そうだっけ、……そうだ、そうだった気がする。
「ああ……聞いてくれよ。今日届くはずだった商品が届かなくて、でも…それは発注担当のやつが日付を間違えたせいで。俺が気づいて卸業者に連絡して対応をしていたら、いつの間にか俺が先方に対して謝罪の連絡をするハメになって………」
その後、そいつのミスであるのに俺がフォローどころか前面に出て話を進めることになってしまい、この時間までかかってしまったのだ。
彼女に対して俺は今日の出来事を話す。彼女は時折、「そりゃアひどい」、「いや、よく頑張った」、「大したモンだ」などと相槌を打ってくれるものだから、話している俺もだんだんと興が乗ってくる。ーーただの愚痴だったハズなのに、いつの間にやら同僚のミスを進んで被ってやった武勇伝語りのようにさえなってきている。
話していて気持ちがいい。話し終える頃には俺はまるで自慢話をしたかのように上機嫌になった。気持ちが落ち着くと彼女の隣に座った。その間、彼女は俺をジィッと見ていた。
「話を聞いてくれてありがとう。おかげでスッキリしたよ」
「それァ、よかった。コッチも聞いた甲斐があるってモンだ」
ケラケラと嬉しそうな顔を見せてくる彼女。彼女のその顔を見ていると、今日の疲れなんて吹き飛んでしまう。彼女のはだけた着物からは胸の谷間がのぞいている。
「それじゃあ、メシにしようか?」
「ああ」
俺は彼女に股間を撫でられつつ、頷いた。
俺は小さなちゃぶ台に置いたコンビニの袋から、一人分の弁当を取り出す。彼女は俺のズボンのチャックを下ろして、中から俺のムスコを取り出した。
彼女に撫でさすられたせいで、俺のムスコは硬くなり始めている。
「「いただきます」」
俺たちは口を揃えて言うと、それぞれの食事を始めた。
パクパクムシャムシャ。ジュポジュポチュッチュ。
俺が弁当を食べている下から聞こえてくる淫猥な水音……。
「おいおい、音を立てて食事をするなよ」
「ひゃっ、て、ほのほう、が、ほいひ、く、食べられるダろう」
「ぐっ」
ご飯を飲み込もうとしたタイミングでカリの裏を舐め上げられた。そのせいで、喉に詰まりそうになる。
「おいおい、何するんだよ」
「ナニって、ナニだろう?」
悪戯っぽい彼女の声が聞こえ、俺は彼女の頭を撫でることで答えた。食事中に寄ってきたイヌかネコを撫でるように、自然に、体に染み付いた動きのように。ふふふ、という彼女の満足そうな声を聞きつつ俺は箸を動かす。彼女は吸い付いて、舌を動かしていた。
激しくなっていく水音、食事中に立てられる場違いな音。それでも、いつものことでーーそのハズでーー俺はリモコンをとってテレビをつけた。
テレビの番組は「突撃、お宅の晩ごはん」。この番組、まだ続いてたんだ。「ウチに来られたって大したものないぞ、っと」呟きながら、フライを口に運ぶ。
「いやいや、大したものだゾ、っと」
股間からからかうような声とともに、トタンーー刺激が強くなる。ジュッ、ジュッ。水音が大きくなって、テレビの音が聞き取りにくいし、食事も取りにくい。なんだって今日はこんなにも飯が食いにくいのだろう。食欲よりも別のものが刺激されている気がする。
漬物を食べているのに、俺から出て行こうとしているものがある。
「そろそろアタシにもメシをくれよ」
激しさを増す口淫に、俺は彼女の口内に、……ウァっ、白濁の塊をブチまけていた。
それを彼女は美味しそうに、ングングと音を立てて嚥下していく。俺の尿道から最後の一滴まで吸い尽くして口を離すと、口に残った精液を舌で転がして美味しそうに味わっている。それを飲み下して、「ごちそうさま」というイイ笑顔。
その笑顔にはそのまま「お粗末様でした」と返すほかなかった。
彼女に食事を提供してやっていたせいで、いつもよりも食べる時間が長くなってしまった。
食事をしたはずなのに、なぜだか下半身がスッキリしているのはどういうことだ…。
俺は半分ほど中身の残った弁当の箱をビニール袋にまとめてゴミ箱に捨てる。ペニスを丸出しにしたまま、風呂へと向かうと自然……彼女も付いてきた。
「そうイやあ、さっきの話なんだがな」
「さっきの話?」
俺たちがお互いの服を脱がせ合っている時に彼女は尋ねた。彼女の帯を解くと豊かな胸がまろび出た。肉付きのいい太ももが着物の隙間からみえていて、その間からは雌の匂いが漂ってきそうだった。見るからに柔らかそうで、吸い付きたくなるくらいに扇情的で、この体を好きにできたらイイだろうな、と思わずにはいられなかった。
呆けたように彼女の体を見ていた俺を気にせず、彼女は俺のズボンを淀みなく下ろして、続けた。
「同僚の尻拭いをしたッテ話」
「ああ」
「そんな感じのコト、よくあるのかィ?」
「まぁ、それなりにな」
「フゥン、そうか。例えば?」
「例えば……、うーん」
俺は彼女に別の日にあったことも話し出した。俺には愚痴を言う人はいなかったから、初めて話すかもしれない。
すると、出るわ出るわ。彼女がその豊満な肢体に泡を纏って俺を洗ってくれている間中、まくし立てるように喋り続けた。
上司に理不尽な理由で叱られたこと、身に覚えのないミスを自分のせいにされたこと、働いても働いても上がらない給料……。
アレ、これはどうしたことだ。途中から、俺は涙声になって、知らないうちに泣いていた。
「フンフン。辛かったンだねぇ」
変わらない調子で彼女は言いつつ、丹念に俺を洗い続けていてくれる。太ももは彼女のスベスベの太ももで、背中は乳首をこすりつけながら、腕は胸の谷間に挟み込んで。俺はーーついぞ味わったことなどないーー身も心もほぐされていくような感覚に身を委ねていた。
彼女の体全体の柔らかさ、暖かさに包まれた安心感の中で、………どうしてだか俺の股間の本能は臨戦態勢で、ギンギンに天井を向いていた。
俺を洗い終わってシャワーで二人の泡を流すと、彼女は湯船に腰をかけて股を開いて、
「よぅし、抱きしめてやろう。来い」
ニカッと笑った。
どこかの親分みたいな堂々とした態度で、その屈託のない笑顔を向けられて、躊躇うなんて気持ちは全くなくて、俺は彼女に思いっきり抱きついていた。
その時は気がついてはいなかったのだが、不安定な体制のはずなのに彼女は俺をしっかと抱きとめて……受け止めてくれていた。その包容力の大きさに俺はまるで子供みたいにボロボロと泣き出してしまっていた。
「よぅし、よゥし。思いっきり泣きなァ」
彼女は俺の後ろ頭をポンポンとそれこそ子供をあやすように、叩いてくれた。
彼女の呆れたような優しい声が耳元で聞こえる。
「お前なァ、気づいてないだろ。ヒドい顔してたんだぞ。弁当も半分しか食べてねェ、って。ナァ」
痩せた俺の体は、柔らかい彼女の体に抱きとめられている。そうか俺、辛かったんだ……。知らなかった…。
ひとしきり泣いてスッキリとした俺を彼女は微笑みながら見ていた。俺は気恥ずかしくなって俯いてしまう。
「オイオイ、今更恥ずかしがることないだろゥ」
からかう声に怒りは、湧くはずもない。そして、逃げようとしても俺は彼女にしっかりと捕まえられている。
彼女の豊かな胸が俺の貧相な胸板に押し付けられて彼女の鼓動を俺に伝えてきていて……、俺のペニスはまるで体温計のように彼女のナカの体温を教えてくれていて……。
……アレ、いつの間に俺は挿れたのだ。いつの間にか自然に、いつの間にか当然のように。いつの間にかいつの間にかーー俺は腰を振ってーー彼女は腰をクネらせてーー当たり前とばかりに彼女の奥深くに精液を注ぎ込んでいてーー。俺は、優しく夜に包まれた気がした。
目を覚ますと、彼女は俺の隣で寝むりこけていた。
寝ぼけた頭で、彼女は誰だったかと考える。……そうか、昨夜のセックスの相手だ。腰の気怠さが教えてくれた。
「いってきます」
「いってらっしゃイ」
今朝、彼女に見送られて俺はいつになく溌剌とした気分で仕事に向かった。仕事で誰に何を言われようと、何もかまわない。俺には彼女がいる。家に帰れば今日もまた彼女に起こった出来事を話して、スッキリさせてもらえる。
人に何かあったかと聞かれるくらいに俺は浮かれていたようだ。上司には「弛んでいる」と言われたが、弛んでいるのはお前の腹だと答えてやった。……さすがに冗談だ。そんなことを言ってしまったら、理不尽な理由をこじつけて辞めさせられかねない。
彼女を養うためにも職を失うわけにはいかない。そうして珍しく今日は残業もなく帰途に着いた。
帰り道はまるで花道のようにさえ見えた。好きな人がいると、世界がピンク色になると言うが確かなようだ。夜なのにピンクとはおかしな話だ。
夜道を歩くことがどうしようもなく嬉しい。犬に吠えられたところで、ニヤつく顔を不審な目で見られたって気にはならない。早く、早く家に帰ろう。それとも、何かお土産を買って言ったほうが、アイツは喜んでくれるだろうか。そんなことをまるで宝物をいじるかのような気持ちで考える。
アイツはどんな食べ物が好きなのか、そういや聞いていなかったな。
そうして俺は彼女のことを考え続けていて、……ハタと……足を止めた。
彼女、彼女。カノジョ。
あれ? おかしい。なんでソレ思い出せないのか。
ソレに気がついた瞬間、今までピンク色で祝福の鐘まで鳴り響いていそうだった世界が、急に色あせて見えた。
なんで、なんで、なんで。
何故、彼女の名前を思い出せない!?
いや、そもそも彼女は誰だ? どこで出会っていつからいる?
俺はいてもたってもられなくて、人目も憚らずに駆け出していた。
確かに俺は、昨日……彼女を抱いた。日頃の鬱憤を口にして、更には溜まっていた欲望をコレでもかと彼女の胎内に吐き出して……。
………エ? どうして俺は彼女を抱いたんだ。あんなにワンワン泣いて、その後アンアン啼かせてーー。
そこまで考えて俺は叫び出したいような気持ちになった。外から見ればゆでダコのようになっていたかも知れない。
ちょっと待て、俺は童貞だったはずだ。それに、あの時のアレは彼女が処女だったということを表していて。その彼女のナカに躊躇いもなくブチまけて……。サァーー、と血の気が引く音がした。ヤバイヤバイヤバイ、色々な意味でヤバイ。
彼女がただの女性だったらいいのだがーーそれでも何が良いのか分からないーーもしも美人局だったりしたら、家出の未成年だったりしたらーー。家に帰ったらそこには黒服の男達だったり、ポのつく青服の人達だったりがいたりなんだり、うんたり、したらぁ!?
嫌な想像ばかり描きながら、俺は脇目も振らずに家に向かって走り続けた。
貧弱な俺の体で全力疾走したものだから、もう死んでしまうのではないかってくらい息を切らせて、むしろ誰もいませんようにーーと俺は家のドアを恐る恐る開いた。
「よう、おかえりィ」
居た。彼女は仰向けになっただらしの無い姿で俺を出迎えてくれた。
「どゥした? そんなに息を切らせて」
寝転んだ彼女の着物の裾からは美しい足がニョッキリと艶やかに伸びて、ハダけた胸元からは豊かな胸が今にも零れ落ちそう。そんな格好なのに、彼女の切れ長の目に見つめられて、鮮やかな唇の赤を見ていたら……。
「いや……なんでも無い」
どうして彼女がいることを不思議に思ったのだ、と不思議に思ったーー。
昨日のように彼女にペニスに吸い付かれながら、今日は不思議なことがあったのだ、と彼女に話した。
「確かに不思議だナァ。嫁のアタシを忘れるなんて……これはたっっっぷりと体に覚えこませなくチャいけないナァ」
ヒヒヒ、とオモチャを見つけたような彼女の瞳に覗き込まれて。ーーこの日の俺の記憶はそれまで。彼女から吹き出した夜の陽炎の中に飲み込まれてしまった。夜闇の中で、艶やかな花が咲いている。そんな記憶も朧の彼方。
それからナニしたのか、されたのか。確かなものはーー俺の肉棒を蕩かし尽くすようなエゲツのない肉筒の感触でーー乾涸びるのでは、と思うまでに搾られ続けたということだ。
それからしばらくはそんな日々が続いた。
仕事から帰るくらいの時間に彼女の存在を疑問に思って。家に帰るとそれを忘れて。彼女にそれを話すと、忘れさせられて。
徐々に、彼女のことを疑問に思う頻度が少なくなっていって、間隔も長くなっていって……。
毎日、夜が来るのを待ち遠しく思いながら、のらりくらりと彼女と過ごす時間が増えていく。
やがてーー彼女のことを疑問に思うなんてことはなくなり、俺は良心的な会社に転職して、彼女と一緒に幸せな日々を過ごしていた。いつまでも続く、彼女とだけの幸せな日々。
だが、そんなものはひょんな事で崩れ去る。
彼女は誰だ?
それはノートの隅に書かれた走り書き。
何だコレ? 俺はその紙の切れ端を拾い上げた。コレは俺の字のようだ。
だが、記憶にない。この彼女というのは誰のことだ?
……ぬらり、と何か忘れていた記憶が蠢いた気がした。なんだろう……思い出したいけれども、思い出してはいけないような……。
「どゥしたィ?」
呆けた方に立ち尽くしていた俺を見つけた妻が声をかけてきた。朧げな陽炎が輪郭を持ったように、ゆらりと現れてーーいつまでも若々しい姿のまま、出会った時の姿のまま微笑んでくる彼女。
はだけた着物は煽情的だが、シャナリとアヤメのような立ち姿は艶やか。そうしてキセルを燻らせる姿は相も変わらず堂にいったもので、どこかの姐さんだといっても通用する。俺の自慢の妻。いつまで経っても年をとらず、魔性の美貌をもって俺を飽きさせない女。
魔性、魔性、魔物ーーー。
そんな、彼女の名前は?
ああ、気がついてしまった。……俺はずっと彼女の名前を知らない。
気がついたからには尋ねずにはいられない。
お前は誰だ、俺は真正面から彼女に尋ねた。
彼女は玲瓏な眉を片方、オヤ、とばかりにあげると、
「気づいちまったかィ」
愉しそうにクツクツと笑った。彼女の着物の裾からは夜を思わせる真黒な闇が漏れてきて、ゆぅらゆら。彼女の白い着物を炙る陽炎のように揺らめいている。
俺が気がついことを何でもないことのように、ヒッヒと笑ってあっさりと正体を明かす。
「アタシはぬらりひょん。妖の総大将。簡単にイッちまえば、魔物だネェ」
彼女は艶やかな口からプカリと煙を吐き、キセルをコンと鳴らした。
彼女の態度は今日の天気は曇りでした。と言うのと変らない気軽さがある。
「ぬらりひょん」
俺は彼女の種族名を繰り返す。彼女は飄々とした態度を崩さない。夜の陽炎を風がただ揺らして過ぎていく。
「ソ、ぬらりぃ、ひょん。どこにでもいつの間にかいる。そんな妖怪さ」
彼女はあぶくが浮かんで弾けるようなジェスチャーを両手ですると。「ヨロシク」、彼女はケラケラと笑った。
「で、どうする? 私が妖怪だったと気づいて、ほっぽり出すかィ? 旦那はそんなヒドいコトをするのかィ?」
彼女はまるで他人事のように愉しそうに唄う。
俺の答えを知っているからだろう。当たり前にーーいつの間にかーー。
「そんな事出来るわけがないだろう。お前は俺の嫁だ。最愛の嫁だ。いつからか、どうやってかなんて関係ない。もうお前はずっと俺の心にいたし、これからもいてもらう」
当たり前にーーいつの間にかーーいつまでもーー。
「フ、アッハハハハハ。嬉しいねェ、泣いちまうヨ。アタシの胸の中でワンワン泣いていたあの坊がコンナに立派になって」
「それを言うんじゃない!」
俺は慌てて言うが、彼女の笑い声は止まない。俺もムキになって止めることもしない。
プッハハハ。いつの間にか俺も笑い出して、二人して笑いあっていた。
そうして彼女はひとしきり笑って目端に溜まった涙を拭うと、
「ヨシ。それならば、これから改めてヨロシクだ。旦那サマ、いや、総大将♡」
「ん、総大将はお前だろ?」
「いやいや、それがサァ。違うんだナァ」
彼女の言葉の意味がわからず、困惑するだけの俺に彼女がしなだれかかってくる。ヘラっと笑って、頑張れ、と軽く宣う。
「ぬらりひょんの旦那になった男はネェ、妖怪にとっちゃァ、とうっても魅力的に見えるのサ。あんたに惹かれた妖怪が集まって……そイであんたは百鬼夜行の主になる。だから、皆ちゃんあんと可愛がって犯んなくちゃダメだよ」
「何を言っているんだ。そんなの体が持つわけないだろ! それに、俺はお前だけを……」
「そんな小さいこと言うなイ。それに旦那サマ、あんた気づいちゃいないようダケど。あんただってもう、魔物なんだヨ」
「は? ……何を…言、って」
そう言いながら彼女は懐から取り出した鏡で俺を写した。そこにいたのはーー彼女と出会った当初から変わらない姿のままの俺だった。
絶句する俺の唇を彼女の唇がさらに塞ぐ。
ン、ちゅ。チュ。彼女の瞳がトロンとして、愉しそうに歪んでいた。
「オヤオヤ、気付いたねェ。じゃあ、他にも気付こうか。そんナ姿のあんたをナンデ、今の会社は不審に思わないンだィ」
確かに、そうだ。ずっと勤めていれば、歳をとらない俺なんて不気味に思われるはずだ。それなのに、周りは何も言わなかった。
そして、周りも変わらないことに、俺も気づかなかった。
「いつ、から?」
「さぁネェ、いつからだと思う?」
俺に体を擦り付けながら、ぐねんとした返答。どうやら答える気はないらしい。
そうか。俺はやっと気が付いた。
ーー手遅れだ。当たり前にーーいつの間にかーー。
俺が今働いているこの屋敷は自分の家。俺は勝手に自分は人事部の人間だと思っていたのに、……その実彼女と俺に惹かれて寄ってきた妖たちを管理していた魔物の夫(インキュバス)だったのだ。彼女たちを派遣する会社……、俺は彼女たちを人間だと信じ込んでいたのであった。そういわれれば、おかしな所もあったし、時折妙な視線も感じていた気もする。
そんなことに気がつかず、全てが当たり前だと思っていた。これが、彼女、か。化け物の総大将。不自然を不自然と思わない……思わせない。
頭の中でグルグル思考が渦巻いているのに、疑問に思うこともなく、俺は彼女の後ろからペニスを突き入れて腰を振っていた。
対処すらさせてもらえない。全てが彼女の手のひらの上の出来事、それを別にいいやと思っている俺。もう追い出すどころか、俺が彼女の家に住み着いている始末だ。
そういえば、最近起きている時間はいつも夜だ。いつからか日の光を浴びていない。外はとっぷりと日が暮れて、人じゃないものの気配でザワザワしている。
腰をぶつける度に彼女の淫らな嬌声が大きくあがる。激しく水音を立てながら彼女は俺に跨って腰を振っている。勝てる、ワケがない。
俺の視界の中、彼女の身体に咲いた墨の華が汗で濡れている。
そう思いながら、俺は彼女の胎内に己の全てを委ねていた。自分では逆立ちしたって勝てやしない大妖怪が、手放すつもりもなく傷つけるつもりもなく俺を愛でている。なんて甘くーーー絶望的なまでの安心感。蕩けて惚けた俺の顔を彼女は満足そうに見下ろしていた。
こうして俺と彼女とだけの幸せな日々が終わり、俺と百鬼夜行の彼女たちとの騒がしい日々が始まる。
いや、始まっていたのかもしれない。気がつかなかっただけで。問いただしたって、彼女が答えてくれるはずがない。
「ヒッヒ、これからもよろしくネィ、旦那サマ」
乾いた笑いを漏らした俺を、どこからともなく彼女の声が、ーーー夜のように包み込んでいた。
「で、何の話をしていたンだっけ?」
俺は彼女の言い草に呆れてしまう。
「おいおい、何を話していたかなんて決まってるだろ」
そこまで言って俺は口を噤んでしまう。……アレ、確かに俺たちは何を話していたのだっけ。いや……そもそも、話なんてしていただろうか。
「どうしたイ? さっきまであんなにツラツラ語ってくれていたのに」
「いや、エッと……」
言葉に詰まった俺を見やって、彼女は楽しそうにクツクツと笑った。
「確か、『どうして俺がアイツの尻拭いなんてしなくちゃいけないんだ……聞いてくれよ』じゃ、なかったカィ?」
そうだっけ、……そうだ、そうだった気がする。
「ああ……聞いてくれよ。今日届くはずだった商品が届かなくて、でも…それは発注担当のやつが日付を間違えたせいで。俺が気づいて卸業者に連絡して対応をしていたら、いつの間にか俺が先方に対して謝罪の連絡をするハメになって………」
その後、そいつのミスであるのに俺がフォローどころか前面に出て話を進めることになってしまい、この時間までかかってしまったのだ。
彼女に対して俺は今日の出来事を話す。彼女は時折、「そりゃアひどい」、「いや、よく頑張った」、「大したモンだ」などと相槌を打ってくれるものだから、話している俺もだんだんと興が乗ってくる。ーーただの愚痴だったハズなのに、いつの間にやら同僚のミスを進んで被ってやった武勇伝語りのようにさえなってきている。
話していて気持ちがいい。話し終える頃には俺はまるで自慢話をしたかのように上機嫌になった。気持ちが落ち着くと彼女の隣に座った。その間、彼女は俺をジィッと見ていた。
「話を聞いてくれてありがとう。おかげでスッキリしたよ」
「それァ、よかった。コッチも聞いた甲斐があるってモンだ」
ケラケラと嬉しそうな顔を見せてくる彼女。彼女のその顔を見ていると、今日の疲れなんて吹き飛んでしまう。彼女のはだけた着物からは胸の谷間がのぞいている。
「それじゃあ、メシにしようか?」
「ああ」
俺は彼女に股間を撫でられつつ、頷いた。
俺は小さなちゃぶ台に置いたコンビニの袋から、一人分の弁当を取り出す。彼女は俺のズボンのチャックを下ろして、中から俺のムスコを取り出した。
彼女に撫でさすられたせいで、俺のムスコは硬くなり始めている。
「「いただきます」」
俺たちは口を揃えて言うと、それぞれの食事を始めた。
パクパクムシャムシャ。ジュポジュポチュッチュ。
俺が弁当を食べている下から聞こえてくる淫猥な水音……。
「おいおい、音を立てて食事をするなよ」
「ひゃっ、て、ほのほう、が、ほいひ、く、食べられるダろう」
「ぐっ」
ご飯を飲み込もうとしたタイミングでカリの裏を舐め上げられた。そのせいで、喉に詰まりそうになる。
「おいおい、何するんだよ」
「ナニって、ナニだろう?」
悪戯っぽい彼女の声が聞こえ、俺は彼女の頭を撫でることで答えた。食事中に寄ってきたイヌかネコを撫でるように、自然に、体に染み付いた動きのように。ふふふ、という彼女の満足そうな声を聞きつつ俺は箸を動かす。彼女は吸い付いて、舌を動かしていた。
激しくなっていく水音、食事中に立てられる場違いな音。それでも、いつものことでーーそのハズでーー俺はリモコンをとってテレビをつけた。
テレビの番組は「突撃、お宅の晩ごはん」。この番組、まだ続いてたんだ。「ウチに来られたって大したものないぞ、っと」呟きながら、フライを口に運ぶ。
「いやいや、大したものだゾ、っと」
股間からからかうような声とともに、トタンーー刺激が強くなる。ジュッ、ジュッ。水音が大きくなって、テレビの音が聞き取りにくいし、食事も取りにくい。なんだって今日はこんなにも飯が食いにくいのだろう。食欲よりも別のものが刺激されている気がする。
漬物を食べているのに、俺から出て行こうとしているものがある。
「そろそろアタシにもメシをくれよ」
激しさを増す口淫に、俺は彼女の口内に、……ウァっ、白濁の塊をブチまけていた。
それを彼女は美味しそうに、ングングと音を立てて嚥下していく。俺の尿道から最後の一滴まで吸い尽くして口を離すと、口に残った精液を舌で転がして美味しそうに味わっている。それを飲み下して、「ごちそうさま」というイイ笑顔。
その笑顔にはそのまま「お粗末様でした」と返すほかなかった。
彼女に食事を提供してやっていたせいで、いつもよりも食べる時間が長くなってしまった。
食事をしたはずなのに、なぜだか下半身がスッキリしているのはどういうことだ…。
俺は半分ほど中身の残った弁当の箱をビニール袋にまとめてゴミ箱に捨てる。ペニスを丸出しにしたまま、風呂へと向かうと自然……彼女も付いてきた。
「そうイやあ、さっきの話なんだがな」
「さっきの話?」
俺たちがお互いの服を脱がせ合っている時に彼女は尋ねた。彼女の帯を解くと豊かな胸がまろび出た。肉付きのいい太ももが着物の隙間からみえていて、その間からは雌の匂いが漂ってきそうだった。見るからに柔らかそうで、吸い付きたくなるくらいに扇情的で、この体を好きにできたらイイだろうな、と思わずにはいられなかった。
呆けたように彼女の体を見ていた俺を気にせず、彼女は俺のズボンを淀みなく下ろして、続けた。
「同僚の尻拭いをしたッテ話」
「ああ」
「そんな感じのコト、よくあるのかィ?」
「まぁ、それなりにな」
「フゥン、そうか。例えば?」
「例えば……、うーん」
俺は彼女に別の日にあったことも話し出した。俺には愚痴を言う人はいなかったから、初めて話すかもしれない。
すると、出るわ出るわ。彼女がその豊満な肢体に泡を纏って俺を洗ってくれている間中、まくし立てるように喋り続けた。
上司に理不尽な理由で叱られたこと、身に覚えのないミスを自分のせいにされたこと、働いても働いても上がらない給料……。
アレ、これはどうしたことだ。途中から、俺は涙声になって、知らないうちに泣いていた。
「フンフン。辛かったンだねぇ」
変わらない調子で彼女は言いつつ、丹念に俺を洗い続けていてくれる。太ももは彼女のスベスベの太ももで、背中は乳首をこすりつけながら、腕は胸の谷間に挟み込んで。俺はーーついぞ味わったことなどないーー身も心もほぐされていくような感覚に身を委ねていた。
彼女の体全体の柔らかさ、暖かさに包まれた安心感の中で、………どうしてだか俺の股間の本能は臨戦態勢で、ギンギンに天井を向いていた。
俺を洗い終わってシャワーで二人の泡を流すと、彼女は湯船に腰をかけて股を開いて、
「よぅし、抱きしめてやろう。来い」
ニカッと笑った。
どこかの親分みたいな堂々とした態度で、その屈託のない笑顔を向けられて、躊躇うなんて気持ちは全くなくて、俺は彼女に思いっきり抱きついていた。
その時は気がついてはいなかったのだが、不安定な体制のはずなのに彼女は俺をしっかと抱きとめて……受け止めてくれていた。その包容力の大きさに俺はまるで子供みたいにボロボロと泣き出してしまっていた。
「よぅし、よゥし。思いっきり泣きなァ」
彼女は俺の後ろ頭をポンポンとそれこそ子供をあやすように、叩いてくれた。
彼女の呆れたような優しい声が耳元で聞こえる。
「お前なァ、気づいてないだろ。ヒドい顔してたんだぞ。弁当も半分しか食べてねェ、って。ナァ」
痩せた俺の体は、柔らかい彼女の体に抱きとめられている。そうか俺、辛かったんだ……。知らなかった…。
ひとしきり泣いてスッキリとした俺を彼女は微笑みながら見ていた。俺は気恥ずかしくなって俯いてしまう。
「オイオイ、今更恥ずかしがることないだろゥ」
からかう声に怒りは、湧くはずもない。そして、逃げようとしても俺は彼女にしっかりと捕まえられている。
彼女の豊かな胸が俺の貧相な胸板に押し付けられて彼女の鼓動を俺に伝えてきていて……、俺のペニスはまるで体温計のように彼女のナカの体温を教えてくれていて……。
……アレ、いつの間に俺は挿れたのだ。いつの間にか自然に、いつの間にか当然のように。いつの間にかいつの間にかーー俺は腰を振ってーー彼女は腰をクネらせてーー当たり前とばかりに彼女の奥深くに精液を注ぎ込んでいてーー。俺は、優しく夜に包まれた気がした。
目を覚ますと、彼女は俺の隣で寝むりこけていた。
寝ぼけた頭で、彼女は誰だったかと考える。……そうか、昨夜のセックスの相手だ。腰の気怠さが教えてくれた。
「いってきます」
「いってらっしゃイ」
今朝、彼女に見送られて俺はいつになく溌剌とした気分で仕事に向かった。仕事で誰に何を言われようと、何もかまわない。俺には彼女がいる。家に帰れば今日もまた彼女に起こった出来事を話して、スッキリさせてもらえる。
人に何かあったかと聞かれるくらいに俺は浮かれていたようだ。上司には「弛んでいる」と言われたが、弛んでいるのはお前の腹だと答えてやった。……さすがに冗談だ。そんなことを言ってしまったら、理不尽な理由をこじつけて辞めさせられかねない。
彼女を養うためにも職を失うわけにはいかない。そうして珍しく今日は残業もなく帰途に着いた。
帰り道はまるで花道のようにさえ見えた。好きな人がいると、世界がピンク色になると言うが確かなようだ。夜なのにピンクとはおかしな話だ。
夜道を歩くことがどうしようもなく嬉しい。犬に吠えられたところで、ニヤつく顔を不審な目で見られたって気にはならない。早く、早く家に帰ろう。それとも、何かお土産を買って言ったほうが、アイツは喜んでくれるだろうか。そんなことをまるで宝物をいじるかのような気持ちで考える。
アイツはどんな食べ物が好きなのか、そういや聞いていなかったな。
そうして俺は彼女のことを考え続けていて、……ハタと……足を止めた。
彼女、彼女。カノジョ。
あれ? おかしい。なんでソレ思い出せないのか。
ソレに気がついた瞬間、今までピンク色で祝福の鐘まで鳴り響いていそうだった世界が、急に色あせて見えた。
なんで、なんで、なんで。
何故、彼女の名前を思い出せない!?
いや、そもそも彼女は誰だ? どこで出会っていつからいる?
俺はいてもたってもられなくて、人目も憚らずに駆け出していた。
確かに俺は、昨日……彼女を抱いた。日頃の鬱憤を口にして、更には溜まっていた欲望をコレでもかと彼女の胎内に吐き出して……。
………エ? どうして俺は彼女を抱いたんだ。あんなにワンワン泣いて、その後アンアン啼かせてーー。
そこまで考えて俺は叫び出したいような気持ちになった。外から見ればゆでダコのようになっていたかも知れない。
ちょっと待て、俺は童貞だったはずだ。それに、あの時のアレは彼女が処女だったということを表していて。その彼女のナカに躊躇いもなくブチまけて……。サァーー、と血の気が引く音がした。ヤバイヤバイヤバイ、色々な意味でヤバイ。
彼女がただの女性だったらいいのだがーーそれでも何が良いのか分からないーーもしも美人局だったりしたら、家出の未成年だったりしたらーー。家に帰ったらそこには黒服の男達だったり、ポのつく青服の人達だったりがいたりなんだり、うんたり、したらぁ!?
嫌な想像ばかり描きながら、俺は脇目も振らずに家に向かって走り続けた。
貧弱な俺の体で全力疾走したものだから、もう死んでしまうのではないかってくらい息を切らせて、むしろ誰もいませんようにーーと俺は家のドアを恐る恐る開いた。
「よう、おかえりィ」
居た。彼女は仰向けになっただらしの無い姿で俺を出迎えてくれた。
「どゥした? そんなに息を切らせて」
寝転んだ彼女の着物の裾からは美しい足がニョッキリと艶やかに伸びて、ハダけた胸元からは豊かな胸が今にも零れ落ちそう。そんな格好なのに、彼女の切れ長の目に見つめられて、鮮やかな唇の赤を見ていたら……。
「いや……なんでも無い」
どうして彼女がいることを不思議に思ったのだ、と不思議に思ったーー。
昨日のように彼女にペニスに吸い付かれながら、今日は不思議なことがあったのだ、と彼女に話した。
「確かに不思議だナァ。嫁のアタシを忘れるなんて……これはたっっっぷりと体に覚えこませなくチャいけないナァ」
ヒヒヒ、とオモチャを見つけたような彼女の瞳に覗き込まれて。ーーこの日の俺の記憶はそれまで。彼女から吹き出した夜の陽炎の中に飲み込まれてしまった。夜闇の中で、艶やかな花が咲いている。そんな記憶も朧の彼方。
それからナニしたのか、されたのか。確かなものはーー俺の肉棒を蕩かし尽くすようなエゲツのない肉筒の感触でーー乾涸びるのでは、と思うまでに搾られ続けたということだ。
それからしばらくはそんな日々が続いた。
仕事から帰るくらいの時間に彼女の存在を疑問に思って。家に帰るとそれを忘れて。彼女にそれを話すと、忘れさせられて。
徐々に、彼女のことを疑問に思う頻度が少なくなっていって、間隔も長くなっていって……。
毎日、夜が来るのを待ち遠しく思いながら、のらりくらりと彼女と過ごす時間が増えていく。
やがてーー彼女のことを疑問に思うなんてことはなくなり、俺は良心的な会社に転職して、彼女と一緒に幸せな日々を過ごしていた。いつまでも続く、彼女とだけの幸せな日々。
だが、そんなものはひょんな事で崩れ去る。
彼女は誰だ?
それはノートの隅に書かれた走り書き。
何だコレ? 俺はその紙の切れ端を拾い上げた。コレは俺の字のようだ。
だが、記憶にない。この彼女というのは誰のことだ?
……ぬらり、と何か忘れていた記憶が蠢いた気がした。なんだろう……思い出したいけれども、思い出してはいけないような……。
「どゥしたィ?」
呆けた方に立ち尽くしていた俺を見つけた妻が声をかけてきた。朧げな陽炎が輪郭を持ったように、ゆらりと現れてーーいつまでも若々しい姿のまま、出会った時の姿のまま微笑んでくる彼女。
はだけた着物は煽情的だが、シャナリとアヤメのような立ち姿は艶やか。そうしてキセルを燻らせる姿は相も変わらず堂にいったもので、どこかの姐さんだといっても通用する。俺の自慢の妻。いつまで経っても年をとらず、魔性の美貌をもって俺を飽きさせない女。
魔性、魔性、魔物ーーー。
そんな、彼女の名前は?
ああ、気がついてしまった。……俺はずっと彼女の名前を知らない。
気がついたからには尋ねずにはいられない。
お前は誰だ、俺は真正面から彼女に尋ねた。
彼女は玲瓏な眉を片方、オヤ、とばかりにあげると、
「気づいちまったかィ」
愉しそうにクツクツと笑った。彼女の着物の裾からは夜を思わせる真黒な闇が漏れてきて、ゆぅらゆら。彼女の白い着物を炙る陽炎のように揺らめいている。
俺が気がついことを何でもないことのように、ヒッヒと笑ってあっさりと正体を明かす。
「アタシはぬらりひょん。妖の総大将。簡単にイッちまえば、魔物だネェ」
彼女は艶やかな口からプカリと煙を吐き、キセルをコンと鳴らした。
彼女の態度は今日の天気は曇りでした。と言うのと変らない気軽さがある。
「ぬらりひょん」
俺は彼女の種族名を繰り返す。彼女は飄々とした態度を崩さない。夜の陽炎を風がただ揺らして過ぎていく。
「ソ、ぬらりぃ、ひょん。どこにでもいつの間にかいる。そんな妖怪さ」
彼女はあぶくが浮かんで弾けるようなジェスチャーを両手ですると。「ヨロシク」、彼女はケラケラと笑った。
「で、どうする? 私が妖怪だったと気づいて、ほっぽり出すかィ? 旦那はそんなヒドいコトをするのかィ?」
彼女はまるで他人事のように愉しそうに唄う。
俺の答えを知っているからだろう。当たり前にーーいつの間にかーー。
「そんな事出来るわけがないだろう。お前は俺の嫁だ。最愛の嫁だ。いつからか、どうやってかなんて関係ない。もうお前はずっと俺の心にいたし、これからもいてもらう」
当たり前にーーいつの間にかーーいつまでもーー。
「フ、アッハハハハハ。嬉しいねェ、泣いちまうヨ。アタシの胸の中でワンワン泣いていたあの坊がコンナに立派になって」
「それを言うんじゃない!」
俺は慌てて言うが、彼女の笑い声は止まない。俺もムキになって止めることもしない。
プッハハハ。いつの間にか俺も笑い出して、二人して笑いあっていた。
そうして彼女はひとしきり笑って目端に溜まった涙を拭うと、
「ヨシ。それならば、これから改めてヨロシクだ。旦那サマ、いや、総大将♡」
「ん、総大将はお前だろ?」
「いやいや、それがサァ。違うんだナァ」
彼女の言葉の意味がわからず、困惑するだけの俺に彼女がしなだれかかってくる。ヘラっと笑って、頑張れ、と軽く宣う。
「ぬらりひょんの旦那になった男はネェ、妖怪にとっちゃァ、とうっても魅力的に見えるのサ。あんたに惹かれた妖怪が集まって……そイであんたは百鬼夜行の主になる。だから、皆ちゃんあんと可愛がって犯んなくちゃダメだよ」
「何を言っているんだ。そんなの体が持つわけないだろ! それに、俺はお前だけを……」
「そんな小さいこと言うなイ。それに旦那サマ、あんた気づいちゃいないようダケど。あんただってもう、魔物なんだヨ」
「は? ……何を…言、って」
そう言いながら彼女は懐から取り出した鏡で俺を写した。そこにいたのはーー彼女と出会った当初から変わらない姿のままの俺だった。
絶句する俺の唇を彼女の唇がさらに塞ぐ。
ン、ちゅ。チュ。彼女の瞳がトロンとして、愉しそうに歪んでいた。
「オヤオヤ、気付いたねェ。じゃあ、他にも気付こうか。そんナ姿のあんたをナンデ、今の会社は不審に思わないンだィ」
確かに、そうだ。ずっと勤めていれば、歳をとらない俺なんて不気味に思われるはずだ。それなのに、周りは何も言わなかった。
そして、周りも変わらないことに、俺も気づかなかった。
「いつ、から?」
「さぁネェ、いつからだと思う?」
俺に体を擦り付けながら、ぐねんとした返答。どうやら答える気はないらしい。
そうか。俺はやっと気が付いた。
ーー手遅れだ。当たり前にーーいつの間にかーー。
俺が今働いているこの屋敷は自分の家。俺は勝手に自分は人事部の人間だと思っていたのに、……その実彼女と俺に惹かれて寄ってきた妖たちを管理していた魔物の夫(インキュバス)だったのだ。彼女たちを派遣する会社……、俺は彼女たちを人間だと信じ込んでいたのであった。そういわれれば、おかしな所もあったし、時折妙な視線も感じていた気もする。
そんなことに気がつかず、全てが当たり前だと思っていた。これが、彼女、か。化け物の総大将。不自然を不自然と思わない……思わせない。
頭の中でグルグル思考が渦巻いているのに、疑問に思うこともなく、俺は彼女の後ろからペニスを突き入れて腰を振っていた。
対処すらさせてもらえない。全てが彼女の手のひらの上の出来事、それを別にいいやと思っている俺。もう追い出すどころか、俺が彼女の家に住み着いている始末だ。
そういえば、最近起きている時間はいつも夜だ。いつからか日の光を浴びていない。外はとっぷりと日が暮れて、人じゃないものの気配でザワザワしている。
腰をぶつける度に彼女の淫らな嬌声が大きくあがる。激しく水音を立てながら彼女は俺に跨って腰を振っている。勝てる、ワケがない。
俺の視界の中、彼女の身体に咲いた墨の華が汗で濡れている。
そう思いながら、俺は彼女の胎内に己の全てを委ねていた。自分では逆立ちしたって勝てやしない大妖怪が、手放すつもりもなく傷つけるつもりもなく俺を愛でている。なんて甘くーーー絶望的なまでの安心感。蕩けて惚けた俺の顔を彼女は満足そうに見下ろしていた。
こうして俺と彼女とだけの幸せな日々が終わり、俺と百鬼夜行の彼女たちとの騒がしい日々が始まる。
いや、始まっていたのかもしれない。気がつかなかっただけで。問いただしたって、彼女が答えてくれるはずがない。
「ヒッヒ、これからもよろしくネィ、旦那サマ」
乾いた笑いを漏らした俺を、どこからともなく彼女の声が、ーーー夜のように包み込んでいた。
17/06/16 19:25更新 / ルピナス