魔物娘には勝てなかったよ
その部屋はみるからに表沙汰にできない部署だった。
いくつもの電子機器が立ち並び、それぞれの前で真剣な顔つきの職員たちが、逐一状況を把握、更新、対応していた。
奥にはひときわ大きなデスクが置かれ、その席に座している男は、五十代を越えたところだろうか。ポマードでオールバックに髪を固め、顔を構成するパーツは岩でできているのではないかと思えるまでに厳つく、この男の表情は変わるのだろうか、と疑問を呈させるまでに厳然としていた。
眉間に深く刻まれたシワは、今現在のものか、それともこれまでの彼の人生で刻まれたものか。岩肌のクレバスのような粛々具合である。
男は諸手を組み、口元を隠し、事態の推移を見守っていた。
彼の視線の先には大スクリーンのモニターが表示されている。
逐次の衛星写真が隅に配置され、画面の中央には何やら研究所らしきものの構造が、透過形式で表示されている。そこにいくつもの点滅する赤い光点が、持ち場についた。
「全部隊の配置、完了しました」
部下の一人の報告に、彼は重々しい口を開く。まるで重厚な扉が軋みをあげて開くかのような有様だった。
「状況開始」
『了解!』
部屋にはまるで一つの大きな生き物しかいないかと思わせるような、一糸乱れぬ返答。職員、司令室詰めの隊員たちも、実働部隊には変わりない。
状況は開始された。
この任務は失敗できない。
これは我が国を侵略者の魔の手から守る、まさしく、人類の防波堤とも言える役目なのだから。
岩のような司令官は、凝然とことの推移を見守る。
◇
魔物娘。
はじめその報告を受けたとき、あまりの荒唐無稽さに、〇〇部統括〇〇〇〇は、岩のような表情が剥がれ落ちそうになった。
何を馬鹿な、と言う言葉がまず心中に湧いた。だが、
本当なのだな、と言う自律機構が働いた。
長年の訓練による賜物だ。それがまるで自分に搭載されたプログラムのようになる頃には、すでに本当の名前は失っていた。この平和な我が国に、存在しないはずの部署を統括する、存在しない男だ。
だが名前がなければ不便だから、便宜上Mr.ロックと呼ばれている。自分としては顔に似合わずJポップが好きなのだが、さすがにMr.Jポップよりはロックの方がしっくり来る(違う、そのロックじゃない。鏡を見ろ、鏡を。と言えるような人間は存在しない。なぜなら彼は存在しないか)。
「そいつらが我が国に入り込んでいると」
Mr.ロックは強面の顔を崩さずにそう言った。
話す相手も、存在しない人間だ。相手がもたらす情報は、正しいか正しくないかではなく、正しかったことになる情報だ。なにせここに話が来た時点で、標的は滅ぼされる運命にあるのだから。その確度をたしかめることは出来なくなる。
ならば運命などと言う蓋然性に欠ける言葉よりも、必然と言った方が相応しいだろう。
魔物娘。
読んで字の通りに人外。
それをどうやって確かめたか、恐らくは口に出すのも憚られる手段を取ったのだろう(いいえ、スマホの画面に奇妙なアプリが出たとある職員がそいつを使用したところ判明した情報です。その職員は現在も在籍中……)。
彼女たち(魔物娘には女性しかいない。それはそうだ。魔物“娘”なのだから)は異世界の存在であり、奇妙なアプリを使って人間の男性を食い物にしていると言う(彼は知らないことだが、性的に。そして金銭的に!)
これは異世界からの侵略に他ならない。
やつらは堂々とぽんぽこ商事などと言う珍妙な名のフロント企業を抱え、裏ではアプリを配信して男性を次々と陥れているらしい。
普段は人間同士のきな臭いイザコザに応対していると言うのに、今回はまさか人外から人間を守るための戦い……。まるで映画のような状況だったが、彼の岩のような顔は微塵も動くことなく、粛々と任務を承諾した。
フロント企業であるぽんぽこ商事は街中に存在する。ご丁寧に不夜城と称されるまでの商業ビル群の只中だ。世界規模で展開されるビジネスには、時間の概念は遅いか速いかしか存在しない。夜も昼もない。その財力を鑑みるに、やつらは随分人間社会に食い込んでいるらしい。そこを強襲したいところだが、ないはずの部署がそのようなビルに侵入するには多大なリスクが存在する。しかも相手は人外なのだ。思わぬ抵抗を受けることも考えられる。
ゆえに、まずは郊外に作られていると言う運営部の建物を強襲し、出来たのならば魔物娘とやらを捕縛し、交渉に使う。もしくは生態調査……。おそらくは人類を守ると言う名目の他に、未確認生物を他国との交渉材料に使いたいと言う高度な政治的判断もあるのだろう。
しかしそれ以上は考える必要はない。他国の諜報拠点を潰すことはあるが、今回の自分たちの任務は別なのだからーー。
部隊は展開され、状況は開始された。
あとは化け物どもを始末させてもらうだけだ。
相手がいくら人外と言えども、科学兵器にひれ伏すことになるだろう。
大スクリーンで、Mr.ロックに応えるように赤い光点が瞬いた。同じ地上だと言うのに、まるで遠い星のような煌めきだった。
◇
全身を暗色の装備で覆い、顔もすべて隠して暗視ゴーグルを装着した部隊員たちが、一つの扉の前に左右に分かれて位置取った。彼らの卓越された技巧と装備は、人間をワーバットと見まごう暗やみでの機動性を与えていた。だが建物内に侵入した彼らは少々肩すかしを覚えた。
防犯カメラも警報装置、防犯装置の類も、自分たちに気づいて向かって来る魔物娘もいない。
灯りの消えた建物の廊下は、まるで病院の廊下のように寒々しく不気味な印象を与えるが、それは肩すかし感も含め、覚えた途端になかったものとして消え去る。
感情抑制(エモーションブロック)機構は万全だ。
任務に支障をきたすような余計な感情は、片っ端から粛殺される。
自分たちは機械だ。一糸乱れず目的を遂行する。それは犬の群れと言うには無機質で、蜂の群れといった方が、例えとしては言い得て妙だ。
彼らが展開したドアの中からは気配がしていた。
人外との遭遇。
汗が滲んでもおかしくないシチュエーションであるが、機械に徹する彼らは汗一つすらかかない。
手のジェスチャーで合図し、行動のタイミングを計る。
3、2、1、GO!
スッとドアを開け、最小限の隙間からスプレー缶のようなものを投げ入れ、ドアを閉めた。
カッと真昼の太陽よりも鋭い閃光がドアの隙間から漏れた。中からは何かのくぐもったような呻き。
よし、効いた。
少々の感情の振れ幅を置き去りにして、彼らは室内へと突入した。
だが、さすがの彼らでも、はじめて目の当たりにした“そいつ”にはーー。
/
司令室はザワついた。そのさざめきは余韻を残して電子機器の立てる無機質な音に絡め取られる。司令室の人間にも感情抑制はかかる。つまりはすぐに引き波のようにさざめきは消えた。
だがMr.ロックですらも岩のような顔面筋を動かし、眉を寄せそうになった。
大スクリーンに映し出されたのは半透明緑色の女性。女性の形は取っているが、ぷるぷるとしたボディーはまるでスライムのようで……否、彼女はまさしくスライムなのだろう。
人間がこの閃光弾を受ければ、反射的に体を丸め、まるで胎児のようになって倒れ込んでしまうはずだ。だと言うのに、この人外は……。
「あへぇええ……。眩しかったぁ……パチパチぱっちんお星さまが飛んでるぅ……」
妙に嬉しそうなーー官能的と称してしまっても良いかもしれないーー、そんな貌で仰け反っていた。
状況に合わない反応に、はじめて見る人外、現場の隊員たちに司令部の人間は一瞬筋肉が強張った。が、それはすぐに解けて即応する。
このような不定形の相手……。捕まえられるかと言う疑念はあったが、手錠をかけることができた。
「一室、クリア」
報告には安堵と感嘆の入り混じった、不思議な音色のため息が溢れた。
感情抑制が効くとは言え、過度に感情が揺れ動けば、その波紋は表在化してしまう。だがすぐに感情の波は抑制され、淡々と任務は続けられる。
◇
それは呆気ないものだった。
魔物娘たちが潜むこの建物は順に制圧されていった。あまりにも簡単で、突入時の閃光弾、催涙弾の類以外、一発の弾丸も使ってはいない。
もはやあいてが魔物娘だと言う人外であることも忘れ、普段の任務と変わらず、彼らの方こそ人外ではないのかと思える迅速さ、精密性で着実に進行して行った。そして隠された扉を見つけ出し、合流し、地下へと向かうエレベーターに順次乗り込んで行く。
喜びもなく、怒りも悲しみもなく、ただただ黒づくめの装備が進むその様は、蟻じみていた。
「罠か……」
と訝しむものはMr.ロックだけではなかっただろう。
しかし罠にしては随分と仲間を捕まえさせてくれる。そのすべてがスライムだった。
魔物娘とはスライムしかいないわけではないと聞いていたが……。
地下室。自分たちの侵入はもうバレているに違いない。それならば罠でないわけがない。危険だ。だが感情を抑制された彼らは行く。死んでも変わりがいる。そもそも自分たちは存在しない人間たちだ。もしもここで死んだとしても、情報は逐次発信されている。情報が集まれば次の人間はもっと上手くやるーー。
バックアップも詰めている。
少なくとも、ここにいる魔物娘たちは逃さないーー。
チィンンーー。
エレベーターが、止まった。
「なんだあれは……」
スライムたちに慣れた隊員たちだったが、辿り着いた地下室で、突如として廊下に現れたそのスライムの大きさには目を見張った。天井にコードやパイプの配線が縦横無尽に走る、まるで生き物の体内のような空間だった。
しかも彼女は、優雅に礼まで取ったではないか。感情のさざ波はすぐに黙殺されるが、
「ご機嫌よう、人間の皆様がた、私たちの住処にようこそ」
「しゃべった……」
誰彼ともなく声は重なった。
「するとこいつは上位個体とでも言うのか……」
「はい、お初にお目にかかります。私はクィーンスライム。私の子供たちが随分とお世話になりました」
繁殖している……。その事実に恐ろしいものを感じたものは一人ではない。それならばここはスライムの繁殖場……。それはすぐに感情抑制され得ても、余韻となって漂い続けるほどの衝撃だった。しかし子供なら人質(この場合は人外質とでも言うべきか)として有効であるはずだ。それに、彼女が母体であると言うのなら、彼女を制圧すれば……。
だが人の考えを読めるわけではないだろうが、彼女はそれを見越すようなことを言う。それに、
「無駄ですよ。それにもう、事態は済んでいます」
「なに?」
と誰かが言った時だった。その衝撃は感情抑制の効果を超えた。
廊下の上部に取り付けられていたい配線がはずれ、隊員たちに襲いかかったのだ。まるでのたうつ触手のようだった。だが隊員たちは冷静に、咄嗟に抜き放ったナイフでパッと打ち払った。
「へぇ」
と、クィーンスライムと名乗った美女が艶やかに頬を歪めた。
隊員たちは即座に銃を抜き放ち、射撃した。
バラララララッ!
無慈悲な銃弾が殺戮の礫となって降り注いだ。
だが美女は艶やかな微笑みを崩さず、凝然と立ち尽くしていた。
スライムボディを抜け、悩ましい肢体が穴だらけになって行く。
「無駄です。そんなものでは私は殺せません。それに」
パチンとスライムの指を鳴らした。
びゅるんッ!
新手のコードが隊員たちに襲いかかった!
目に見えるコードはすべて切ってあった。それはどこから……。あらゆる壁の隙間からだった。あまりの数に彼らは……、
ずるん、ずる、ずる……。
クスリ、と。
司令部の画面には艶然と微笑むクイーンスライムの美貌が大写しになった。
「部隊編成は予定通り女の子ばかり。ふふ、労働力、Getー」
◇
「アルファ部隊は全滅か……。ベータ、準備を」
司令室に無味乾燥な命令が走った。
その時だった。
「おかわりくれるなんて太っ腹やなぁ」
標的の建物が映っている大スクリーンに、その場に似つかわしくない可愛らしくコミカルなデザインの、狸の耳と尻尾が生えた女性が現れた。アプリに登場するSD刑部狸、アイテム屋の狸さんだ。だがこの場で彼女が例のアプリ『まもむすGO』に出てくるアコギなマスコットキャラクターであることを知る者はいない。
「侵入された!? この通信はいくつもの秘匿回線を使っている……」
「あはは、そないなこと、無駄や。なにせウチはスーパーコンピューター以上の計算能力に、あっちの魔術体型も応用。この世界面には太刀打ちできる電子はないんやないかなぁ」
狸さんの瞳がニィ、と歪んだ。だがすぐに朗らかに口元も笑みを象る。だがどうにも、それは可愛らしくともぞくりとさせる笑みだった。
「しっかしウチは運営に忙しい、言うんに、社長も人遣いが荒い荒い。いんやぁ、機械遣い、言うべきかなぁ」
彼女は優雅な所作で一礼した。
「はじめまして。ウチ……」止まった。うって変わった、流麗でも、機械音じみた音声に切り替わる。「擬似人格システム停止、これより私自身の声で通告させていただきます。このキャラクターはコミカルですが、然るべき人物には然るべき応対が必要でしょう」
画面上のアイテム屋たぬきのマスコットキャラクターの画像はぶれ、代わりに機械然とした少女のグラフィックが立ち上がった。その姿はデフォルメされたイラストではなく、まさに生身の、いや、この場合は機械身と言うべきかーー、そのままの機械の少女が画面に封入されたかのようだった。彼女には画面越しの機械でありながらも、生身の女よりも艶かしく思わせる部分があった。
「アイテム屋たぬき改め、まもむすGOシステム統括局。ウロボロスシステム搭載オートマータ、たぬギガスと申します。魔導量子コンピュータとでも申しましょうか。私一基でこの星の情報量を計算することも可能となります。私が、このアプリの本体です。以後お見知り置きを、存在しない部署統括Mr.ロック。たぬギガスの名は私もどうかとは思いますが、私は機械、使用者にそのように名称登録されればそう名乗らざるを得ません」
はなはだ遺憾です。
たぬギガスと名乗った彼女は機械とは思えない声音で流々と言った。
「お前が、アプリの本体……」
Mr.ロックが言った。たぬたぬ商事が流したアプリ『まもむすGO』。それがどのようなものかは一応の情報として知っている。
男性に魔物娘を探させ、そのために金銭を要求し、会えたら会えたで男性を奪い去る。
まさに魔のアプリだ。
「はい、すべてのアイテム屋たぬきは、私の循環式演算機構によるインフィニティ分割リソースによってロールされています。私を潰せば制御能力的に、まもむすGOの運営は立ち行かなくなります」
そんなことを言ってしまってよいのだろうか。
良いのだろう。
この行為は、手の内を晒しても痛くも痒くもないと言う、示威行為。そこには純然として大きな実力差があるのだぞ、と彼女は暗黙に語っているのだった。
「驕るなよ。人外」
「いいえ、事実です」
互いの言動の意図を読みあった応答だった。それは彼女が、人の心情、思考をも計測できると言う意味だった。
Mr.ロックは部下の一人を見た。だが相手は首を振った。
システムへの侵入経路を逆探知して相手の位置を割り出す、もしくは反撃を試みようとしたのだが、うまくいかないようだった。
ここの設備に容易く侵入し、反撃も許さない……。
現場だけでなく司令部まで押さえられた。
敗北の味だった。
「人外、なにを望む?」
ロックは問うた。
人類の代表などと言う大それた役目を担ったつもりではなかった。ただ抗う一人の人間として問うた。
「人間との、友好を」
誰もが息を呑んだ。
「なにを、言っている……」
「言葉通りの意味です」
たぬきのマスコットキャラクターはコミカルに動き回ったが、彼女は機械然とした淡々とした、抑揚のない声音でそう言った。ゆえに事実だけを告げる酷薄な響きがあった。
「我々は、人間との友好を望んでいます。私たちは人間たちのように憎しみあい、傷つけ合うことをしません。ただ、最愛の伴侶とともに、淫らに暮らすことを望んでいるのです。そこに嘘はありません」
「戯言だ……」
しかも淫らとは……。
魔物娘には女性しかいないと言う。淫らに過ごす伴侶を見つけるために男性をアプリで誘っている……。そう考えれば辻褄は合うが、それがそれだけだとは言い切れない。
この部署に長年席を置いているMr.ロックとしては、はいそうですかで納得できることではなかった。
「私たちはあなたがたとともに気持ちよくなりたいだけなのです。そこに他意はありません。もちろん社長のように金銭に魅力を感じるものもいますが、それも最終の目的としては、愛する伴侶と淫らに暮らすことに行き着きます」
「…………」
あんまりな内容ではあるが、粛々と話す響きには真摯なものがあった。機械だからではない、生身の、機械身としての心底からの響きがそこには存在していた。
「信じてもらえないのはわかります。このようなアプリのような方法を取ることに、あらぬ疑いをかけることもわかります。ですが、このようにしなくては事態はより悪い方に傾きかねないことを、そのような部署にいるあなたは理解できるのではありませんか?」
Mr.ロックは黙った。たしかにそれはその通りではあった。
アプリのような形で秘密裏に削り取っていく。そうしなくては人外などと言う彼女たちに反発する輩も出ただろう。それは彼女たちが危険だからではなく、人外だからと言うだけで反発する者、反発自体をしたい暇な輩も存在するのだ。
だがそれを信じるにせよ信じないにせよ。
自分はこの存在しないはずの部署の統括だ。
組織人としては、魔物娘を討伐することが正しい。
Mr.ロックは魔物娘への抵抗を示そうとする。
だが、
「それに、あなたは否応なしに理解します。たしか、あなたには目に入れても痛くない愛犬がいましたよね?」
Mr.ロックはハッとした。そして間髪入れずに言っていた。
「リリィちゃんのことぁああーーーーッ!」
感情抑制に熟達しているはずの彼の吠え声に、司令室の人間の全員がビックリした。いまにも超サ〇ヤ人になってしまいそうなほどの、怒髪天を衝くほどの威勢だった。彼らも感情抑制はしているが、その驚愕は抑えきれない。
「きさまぁあッ! リリィちゃんになにかしてみろッ! 魔物娘など根絶やしにしてくれるわぁあッ!」
岩のように厳ついMr.ロックの顔が鬼のような面相に変貌し、口角泡を飛ばして恐ろしいどころではない。司令室の人間は誰もが声をかけられない。
え、犬でキレるの?
と言おうものならば、首を引っこ抜かれそうだ。
だがそこに声をかけるものがいた。たぬギガスではない。
「ご主人さま、落ち着いてください」
「え」
とMr.ロックの目が点になった。
まさかーー、
「リリィちゃん?」
「はい、ご主人さまのリリィですワン」
クーシーのニッコリとした微笑みに、彼は絶句した。
その彼に彼女は抱きつく。
「魔物化後、転送させていただきました」
シレッと言うたぬギガスの言葉など彼には届かない。犬なのに、ケモなのに、人間のようなおっぱいがちっぱいで腕で形を変えている!
「ご主人さま。やったぁ、やっとご主人さまとお話できるようになりました。ご主人さまぁ……」
甘えた声音にMr.ロックの人類としての矜持、社会人としての責務、魔物娘への抵抗はゼロだった。
少しだけ威儀を正して、
「君の話、信じよう」
「Mr.ローーック!」
職員たちの虚しい慟哭が響いた。
◇
その後、他の職員たちにもツボを的確に抑えた魔物娘が現れ、存在しないはずの部署は魔物娘融和政策執行部と名前を変えることになり、上のお偉い方にもたぬきさんの手が伸びるのだが、依然として大々的には魔物娘の存在を公にすることにはならなかった。
ちょっとずつ、ちょっとずつね、と言うことらしい。
そして気づいた頃にはこっちの世界は魔物娘の手でこーろころ、があのリリムさんたちにとっては理想と言うことだ。この世界はこの形式で行きましょう、と。
ちなみに、研究所に突入した部隊はあの後スタッフがキッチリとコード触手で、たぬギガスの手足となって働くオートマータに改造した。先にイチャモンつけて手ェ出してきたんはそっちやからなぁ、落とし前はこれくらいもらわんとなぁ、とは真の緑のたぬき、社長サンの言葉である。
そしてこの部署は今日も忙しく働いている。
「おいおいリリィ、職場についてきたらダメだろ」
「でもご主人さまと片時も離れたくなくて……ですワン」
「リリィ……」
「やめてくださいMr.ローック! 厳ついおっさんとクーシーのその絵面は犯罪的なものがあります! しかも犬種チワワでその小さな体格、完全に犯罪です!」
「だが魔物娘なら大丈夫だ」
「わーん!」
感情抑制、どこ行った?
いくつもの電子機器が立ち並び、それぞれの前で真剣な顔つきの職員たちが、逐一状況を把握、更新、対応していた。
奥にはひときわ大きなデスクが置かれ、その席に座している男は、五十代を越えたところだろうか。ポマードでオールバックに髪を固め、顔を構成するパーツは岩でできているのではないかと思えるまでに厳つく、この男の表情は変わるのだろうか、と疑問を呈させるまでに厳然としていた。
眉間に深く刻まれたシワは、今現在のものか、それともこれまでの彼の人生で刻まれたものか。岩肌のクレバスのような粛々具合である。
男は諸手を組み、口元を隠し、事態の推移を見守っていた。
彼の視線の先には大スクリーンのモニターが表示されている。
逐次の衛星写真が隅に配置され、画面の中央には何やら研究所らしきものの構造が、透過形式で表示されている。そこにいくつもの点滅する赤い光点が、持ち場についた。
「全部隊の配置、完了しました」
部下の一人の報告に、彼は重々しい口を開く。まるで重厚な扉が軋みをあげて開くかのような有様だった。
「状況開始」
『了解!』
部屋にはまるで一つの大きな生き物しかいないかと思わせるような、一糸乱れぬ返答。職員、司令室詰めの隊員たちも、実働部隊には変わりない。
状況は開始された。
この任務は失敗できない。
これは我が国を侵略者の魔の手から守る、まさしく、人類の防波堤とも言える役目なのだから。
岩のような司令官は、凝然とことの推移を見守る。
◇
魔物娘。
はじめその報告を受けたとき、あまりの荒唐無稽さに、〇〇部統括〇〇〇〇は、岩のような表情が剥がれ落ちそうになった。
何を馬鹿な、と言う言葉がまず心中に湧いた。だが、
本当なのだな、と言う自律機構が働いた。
長年の訓練による賜物だ。それがまるで自分に搭載されたプログラムのようになる頃には、すでに本当の名前は失っていた。この平和な我が国に、存在しないはずの部署を統括する、存在しない男だ。
だが名前がなければ不便だから、便宜上Mr.ロックと呼ばれている。自分としては顔に似合わずJポップが好きなのだが、さすがにMr.Jポップよりはロックの方がしっくり来る(違う、そのロックじゃない。鏡を見ろ、鏡を。と言えるような人間は存在しない。なぜなら彼は存在しないか)。
「そいつらが我が国に入り込んでいると」
Mr.ロックは強面の顔を崩さずにそう言った。
話す相手も、存在しない人間だ。相手がもたらす情報は、正しいか正しくないかではなく、正しかったことになる情報だ。なにせここに話が来た時点で、標的は滅ぼされる運命にあるのだから。その確度をたしかめることは出来なくなる。
ならば運命などと言う蓋然性に欠ける言葉よりも、必然と言った方が相応しいだろう。
魔物娘。
読んで字の通りに人外。
それをどうやって確かめたか、恐らくは口に出すのも憚られる手段を取ったのだろう(いいえ、スマホの画面に奇妙なアプリが出たとある職員がそいつを使用したところ判明した情報です。その職員は現在も在籍中……)。
彼女たち(魔物娘には女性しかいない。それはそうだ。魔物“娘”なのだから)は異世界の存在であり、奇妙なアプリを使って人間の男性を食い物にしていると言う(彼は知らないことだが、性的に。そして金銭的に!)
これは異世界からの侵略に他ならない。
やつらは堂々とぽんぽこ商事などと言う珍妙な名のフロント企業を抱え、裏ではアプリを配信して男性を次々と陥れているらしい。
普段は人間同士のきな臭いイザコザに応対していると言うのに、今回はまさか人外から人間を守るための戦い……。まるで映画のような状況だったが、彼の岩のような顔は微塵も動くことなく、粛々と任務を承諾した。
フロント企業であるぽんぽこ商事は街中に存在する。ご丁寧に不夜城と称されるまでの商業ビル群の只中だ。世界規模で展開されるビジネスには、時間の概念は遅いか速いかしか存在しない。夜も昼もない。その財力を鑑みるに、やつらは随分人間社会に食い込んでいるらしい。そこを強襲したいところだが、ないはずの部署がそのようなビルに侵入するには多大なリスクが存在する。しかも相手は人外なのだ。思わぬ抵抗を受けることも考えられる。
ゆえに、まずは郊外に作られていると言う運営部の建物を強襲し、出来たのならば魔物娘とやらを捕縛し、交渉に使う。もしくは生態調査……。おそらくは人類を守ると言う名目の他に、未確認生物を他国との交渉材料に使いたいと言う高度な政治的判断もあるのだろう。
しかしそれ以上は考える必要はない。他国の諜報拠点を潰すことはあるが、今回の自分たちの任務は別なのだからーー。
部隊は展開され、状況は開始された。
あとは化け物どもを始末させてもらうだけだ。
相手がいくら人外と言えども、科学兵器にひれ伏すことになるだろう。
大スクリーンで、Mr.ロックに応えるように赤い光点が瞬いた。同じ地上だと言うのに、まるで遠い星のような煌めきだった。
◇
全身を暗色の装備で覆い、顔もすべて隠して暗視ゴーグルを装着した部隊員たちが、一つの扉の前に左右に分かれて位置取った。彼らの卓越された技巧と装備は、人間をワーバットと見まごう暗やみでの機動性を与えていた。だが建物内に侵入した彼らは少々肩すかしを覚えた。
防犯カメラも警報装置、防犯装置の類も、自分たちに気づいて向かって来る魔物娘もいない。
灯りの消えた建物の廊下は、まるで病院の廊下のように寒々しく不気味な印象を与えるが、それは肩すかし感も含め、覚えた途端になかったものとして消え去る。
感情抑制(エモーションブロック)機構は万全だ。
任務に支障をきたすような余計な感情は、片っ端から粛殺される。
自分たちは機械だ。一糸乱れず目的を遂行する。それは犬の群れと言うには無機質で、蜂の群れといった方が、例えとしては言い得て妙だ。
彼らが展開したドアの中からは気配がしていた。
人外との遭遇。
汗が滲んでもおかしくないシチュエーションであるが、機械に徹する彼らは汗一つすらかかない。
手のジェスチャーで合図し、行動のタイミングを計る。
3、2、1、GO!
スッとドアを開け、最小限の隙間からスプレー缶のようなものを投げ入れ、ドアを閉めた。
カッと真昼の太陽よりも鋭い閃光がドアの隙間から漏れた。中からは何かのくぐもったような呻き。
よし、効いた。
少々の感情の振れ幅を置き去りにして、彼らは室内へと突入した。
だが、さすがの彼らでも、はじめて目の当たりにした“そいつ”にはーー。
/
司令室はザワついた。そのさざめきは余韻を残して電子機器の立てる無機質な音に絡め取られる。司令室の人間にも感情抑制はかかる。つまりはすぐに引き波のようにさざめきは消えた。
だがMr.ロックですらも岩のような顔面筋を動かし、眉を寄せそうになった。
大スクリーンに映し出されたのは半透明緑色の女性。女性の形は取っているが、ぷるぷるとしたボディーはまるでスライムのようで……否、彼女はまさしくスライムなのだろう。
人間がこの閃光弾を受ければ、反射的に体を丸め、まるで胎児のようになって倒れ込んでしまうはずだ。だと言うのに、この人外は……。
「あへぇええ……。眩しかったぁ……パチパチぱっちんお星さまが飛んでるぅ……」
妙に嬉しそうなーー官能的と称してしまっても良いかもしれないーー、そんな貌で仰け反っていた。
状況に合わない反応に、はじめて見る人外、現場の隊員たちに司令部の人間は一瞬筋肉が強張った。が、それはすぐに解けて即応する。
このような不定形の相手……。捕まえられるかと言う疑念はあったが、手錠をかけることができた。
「一室、クリア」
報告には安堵と感嘆の入り混じった、不思議な音色のため息が溢れた。
感情抑制が効くとは言え、過度に感情が揺れ動けば、その波紋は表在化してしまう。だがすぐに感情の波は抑制され、淡々と任務は続けられる。
◇
それは呆気ないものだった。
魔物娘たちが潜むこの建物は順に制圧されていった。あまりにも簡単で、突入時の閃光弾、催涙弾の類以外、一発の弾丸も使ってはいない。
もはやあいてが魔物娘だと言う人外であることも忘れ、普段の任務と変わらず、彼らの方こそ人外ではないのかと思える迅速さ、精密性で着実に進行して行った。そして隠された扉を見つけ出し、合流し、地下へと向かうエレベーターに順次乗り込んで行く。
喜びもなく、怒りも悲しみもなく、ただただ黒づくめの装備が進むその様は、蟻じみていた。
「罠か……」
と訝しむものはMr.ロックだけではなかっただろう。
しかし罠にしては随分と仲間を捕まえさせてくれる。そのすべてがスライムだった。
魔物娘とはスライムしかいないわけではないと聞いていたが……。
地下室。自分たちの侵入はもうバレているに違いない。それならば罠でないわけがない。危険だ。だが感情を抑制された彼らは行く。死んでも変わりがいる。そもそも自分たちは存在しない人間たちだ。もしもここで死んだとしても、情報は逐次発信されている。情報が集まれば次の人間はもっと上手くやるーー。
バックアップも詰めている。
少なくとも、ここにいる魔物娘たちは逃さないーー。
チィンンーー。
エレベーターが、止まった。
「なんだあれは……」
スライムたちに慣れた隊員たちだったが、辿り着いた地下室で、突如として廊下に現れたそのスライムの大きさには目を見張った。天井にコードやパイプの配線が縦横無尽に走る、まるで生き物の体内のような空間だった。
しかも彼女は、優雅に礼まで取ったではないか。感情のさざ波はすぐに黙殺されるが、
「ご機嫌よう、人間の皆様がた、私たちの住処にようこそ」
「しゃべった……」
誰彼ともなく声は重なった。
「するとこいつは上位個体とでも言うのか……」
「はい、お初にお目にかかります。私はクィーンスライム。私の子供たちが随分とお世話になりました」
繁殖している……。その事実に恐ろしいものを感じたものは一人ではない。それならばここはスライムの繁殖場……。それはすぐに感情抑制され得ても、余韻となって漂い続けるほどの衝撃だった。しかし子供なら人質(この場合は人外質とでも言うべきか)として有効であるはずだ。それに、彼女が母体であると言うのなら、彼女を制圧すれば……。
だが人の考えを読めるわけではないだろうが、彼女はそれを見越すようなことを言う。それに、
「無駄ですよ。それにもう、事態は済んでいます」
「なに?」
と誰かが言った時だった。その衝撃は感情抑制の効果を超えた。
廊下の上部に取り付けられていたい配線がはずれ、隊員たちに襲いかかったのだ。まるでのたうつ触手のようだった。だが隊員たちは冷静に、咄嗟に抜き放ったナイフでパッと打ち払った。
「へぇ」
と、クィーンスライムと名乗った美女が艶やかに頬を歪めた。
隊員たちは即座に銃を抜き放ち、射撃した。
バラララララッ!
無慈悲な銃弾が殺戮の礫となって降り注いだ。
だが美女は艶やかな微笑みを崩さず、凝然と立ち尽くしていた。
スライムボディを抜け、悩ましい肢体が穴だらけになって行く。
「無駄です。そんなものでは私は殺せません。それに」
パチンとスライムの指を鳴らした。
びゅるんッ!
新手のコードが隊員たちに襲いかかった!
目に見えるコードはすべて切ってあった。それはどこから……。あらゆる壁の隙間からだった。あまりの数に彼らは……、
ずるん、ずる、ずる……。
クスリ、と。
司令部の画面には艶然と微笑むクイーンスライムの美貌が大写しになった。
「部隊編成は予定通り女の子ばかり。ふふ、労働力、Getー」
◇
「アルファ部隊は全滅か……。ベータ、準備を」
司令室に無味乾燥な命令が走った。
その時だった。
「おかわりくれるなんて太っ腹やなぁ」
標的の建物が映っている大スクリーンに、その場に似つかわしくない可愛らしくコミカルなデザインの、狸の耳と尻尾が生えた女性が現れた。アプリに登場するSD刑部狸、アイテム屋の狸さんだ。だがこの場で彼女が例のアプリ『まもむすGO』に出てくるアコギなマスコットキャラクターであることを知る者はいない。
「侵入された!? この通信はいくつもの秘匿回線を使っている……」
「あはは、そないなこと、無駄や。なにせウチはスーパーコンピューター以上の計算能力に、あっちの魔術体型も応用。この世界面には太刀打ちできる電子はないんやないかなぁ」
狸さんの瞳がニィ、と歪んだ。だがすぐに朗らかに口元も笑みを象る。だがどうにも、それは可愛らしくともぞくりとさせる笑みだった。
「しっかしウチは運営に忙しい、言うんに、社長も人遣いが荒い荒い。いんやぁ、機械遣い、言うべきかなぁ」
彼女は優雅な所作で一礼した。
「はじめまして。ウチ……」止まった。うって変わった、流麗でも、機械音じみた音声に切り替わる。「擬似人格システム停止、これより私自身の声で通告させていただきます。このキャラクターはコミカルですが、然るべき人物には然るべき応対が必要でしょう」
画面上のアイテム屋たぬきのマスコットキャラクターの画像はぶれ、代わりに機械然とした少女のグラフィックが立ち上がった。その姿はデフォルメされたイラストではなく、まさに生身の、いや、この場合は機械身と言うべきかーー、そのままの機械の少女が画面に封入されたかのようだった。彼女には画面越しの機械でありながらも、生身の女よりも艶かしく思わせる部分があった。
「アイテム屋たぬき改め、まもむすGOシステム統括局。ウロボロスシステム搭載オートマータ、たぬギガスと申します。魔導量子コンピュータとでも申しましょうか。私一基でこの星の情報量を計算することも可能となります。私が、このアプリの本体です。以後お見知り置きを、存在しない部署統括Mr.ロック。たぬギガスの名は私もどうかとは思いますが、私は機械、使用者にそのように名称登録されればそう名乗らざるを得ません」
はなはだ遺憾です。
たぬギガスと名乗った彼女は機械とは思えない声音で流々と言った。
「お前が、アプリの本体……」
Mr.ロックが言った。たぬたぬ商事が流したアプリ『まもむすGO』。それがどのようなものかは一応の情報として知っている。
男性に魔物娘を探させ、そのために金銭を要求し、会えたら会えたで男性を奪い去る。
まさに魔のアプリだ。
「はい、すべてのアイテム屋たぬきは、私の循環式演算機構によるインフィニティ分割リソースによってロールされています。私を潰せば制御能力的に、まもむすGOの運営は立ち行かなくなります」
そんなことを言ってしまってよいのだろうか。
良いのだろう。
この行為は、手の内を晒しても痛くも痒くもないと言う、示威行為。そこには純然として大きな実力差があるのだぞ、と彼女は暗黙に語っているのだった。
「驕るなよ。人外」
「いいえ、事実です」
互いの言動の意図を読みあった応答だった。それは彼女が、人の心情、思考をも計測できると言う意味だった。
Mr.ロックは部下の一人を見た。だが相手は首を振った。
システムへの侵入経路を逆探知して相手の位置を割り出す、もしくは反撃を試みようとしたのだが、うまくいかないようだった。
ここの設備に容易く侵入し、反撃も許さない……。
現場だけでなく司令部まで押さえられた。
敗北の味だった。
「人外、なにを望む?」
ロックは問うた。
人類の代表などと言う大それた役目を担ったつもりではなかった。ただ抗う一人の人間として問うた。
「人間との、友好を」
誰もが息を呑んだ。
「なにを、言っている……」
「言葉通りの意味です」
たぬきのマスコットキャラクターはコミカルに動き回ったが、彼女は機械然とした淡々とした、抑揚のない声音でそう言った。ゆえに事実だけを告げる酷薄な響きがあった。
「我々は、人間との友好を望んでいます。私たちは人間たちのように憎しみあい、傷つけ合うことをしません。ただ、最愛の伴侶とともに、淫らに暮らすことを望んでいるのです。そこに嘘はありません」
「戯言だ……」
しかも淫らとは……。
魔物娘には女性しかいないと言う。淫らに過ごす伴侶を見つけるために男性をアプリで誘っている……。そう考えれば辻褄は合うが、それがそれだけだとは言い切れない。
この部署に長年席を置いているMr.ロックとしては、はいそうですかで納得できることではなかった。
「私たちはあなたがたとともに気持ちよくなりたいだけなのです。そこに他意はありません。もちろん社長のように金銭に魅力を感じるものもいますが、それも最終の目的としては、愛する伴侶と淫らに暮らすことに行き着きます」
「…………」
あんまりな内容ではあるが、粛々と話す響きには真摯なものがあった。機械だからではない、生身の、機械身としての心底からの響きがそこには存在していた。
「信じてもらえないのはわかります。このようなアプリのような方法を取ることに、あらぬ疑いをかけることもわかります。ですが、このようにしなくては事態はより悪い方に傾きかねないことを、そのような部署にいるあなたは理解できるのではありませんか?」
Mr.ロックは黙った。たしかにそれはその通りではあった。
アプリのような形で秘密裏に削り取っていく。そうしなくては人外などと言う彼女たちに反発する輩も出ただろう。それは彼女たちが危険だからではなく、人外だからと言うだけで反発する者、反発自体をしたい暇な輩も存在するのだ。
だがそれを信じるにせよ信じないにせよ。
自分はこの存在しないはずの部署の統括だ。
組織人としては、魔物娘を討伐することが正しい。
Mr.ロックは魔物娘への抵抗を示そうとする。
だが、
「それに、あなたは否応なしに理解します。たしか、あなたには目に入れても痛くない愛犬がいましたよね?」
Mr.ロックはハッとした。そして間髪入れずに言っていた。
「リリィちゃんのことぁああーーーーッ!」
感情抑制に熟達しているはずの彼の吠え声に、司令室の人間の全員がビックリした。いまにも超サ〇ヤ人になってしまいそうなほどの、怒髪天を衝くほどの威勢だった。彼らも感情抑制はしているが、その驚愕は抑えきれない。
「きさまぁあッ! リリィちゃんになにかしてみろッ! 魔物娘など根絶やしにしてくれるわぁあッ!」
岩のように厳ついMr.ロックの顔が鬼のような面相に変貌し、口角泡を飛ばして恐ろしいどころではない。司令室の人間は誰もが声をかけられない。
え、犬でキレるの?
と言おうものならば、首を引っこ抜かれそうだ。
だがそこに声をかけるものがいた。たぬギガスではない。
「ご主人さま、落ち着いてください」
「え」
とMr.ロックの目が点になった。
まさかーー、
「リリィちゃん?」
「はい、ご主人さまのリリィですワン」
クーシーのニッコリとした微笑みに、彼は絶句した。
その彼に彼女は抱きつく。
「魔物化後、転送させていただきました」
シレッと言うたぬギガスの言葉など彼には届かない。犬なのに、ケモなのに、人間のようなおっぱいがちっぱいで腕で形を変えている!
「ご主人さま。やったぁ、やっとご主人さまとお話できるようになりました。ご主人さまぁ……」
甘えた声音にMr.ロックの人類としての矜持、社会人としての責務、魔物娘への抵抗はゼロだった。
少しだけ威儀を正して、
「君の話、信じよう」
「Mr.ローーック!」
職員たちの虚しい慟哭が響いた。
◇
その後、他の職員たちにもツボを的確に抑えた魔物娘が現れ、存在しないはずの部署は魔物娘融和政策執行部と名前を変えることになり、上のお偉い方にもたぬきさんの手が伸びるのだが、依然として大々的には魔物娘の存在を公にすることにはならなかった。
ちょっとずつ、ちょっとずつね、と言うことらしい。
そして気づいた頃にはこっちの世界は魔物娘の手でこーろころ、があのリリムさんたちにとっては理想と言うことだ。この世界はこの形式で行きましょう、と。
ちなみに、研究所に突入した部隊はあの後スタッフがキッチリとコード触手で、たぬギガスの手足となって働くオートマータに改造した。先にイチャモンつけて手ェ出してきたんはそっちやからなぁ、落とし前はこれくらいもらわんとなぁ、とは真の緑のたぬき、社長サンの言葉である。
そしてこの部署は今日も忙しく働いている。
「おいおいリリィ、職場についてきたらダメだろ」
「でもご主人さまと片時も離れたくなくて……ですワン」
「リリィ……」
「やめてくださいMr.ローック! 厳ついおっさんとクーシーのその絵面は犯罪的なものがあります! しかも犬種チワワでその小さな体格、完全に犯罪です!」
「だが魔物娘なら大丈夫だ」
「わーん!」
感情抑制、どこ行った?
18/09/01 10:01更新 / ルピナス
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