空の王者
分厚い雲を抜けた。
風は身を切るように後ろに抜け、星々を流星として追いやる。
尻の下にはゴツゴツとした竜の鱗。締めた膝から帰ってくる感触は硬いが、痛みを覚えるものではない。彼女の体が、パートナーである自分を傷つけることはないのだ。
青年はワイバーンの背に乗っていた。
彼女は竜の姿をとり、エメラルドの体躯には星々のきらめきが映っている。鞍も手綱もつけず、彼女の魔法のおかげで、彼はそのまま彼女の背に乗って、星月夜の雲海を、東に向けて進んでいた。
「大丈夫? 疲れてない?」
いかつい竜の口から出た言葉とは思えないほどに透き通り、そして凛々しい音色だった。
「大丈夫。君こそ疲れてないか?」
「もちろん。あなたを背中に乗せているのに、私が疲れるわけないわ。それに、たくさん魔力ももらったし」
甘えた声音が耳をくすぐる。青年は恥ずかしげな顔で頬をかく。
この高度、この速度であれば、彼らの会話が他に聞こえるわけがない。彼らの声が届くのは、同じ位置にいるものだけだ。
ビョウビョウと、風が流れていく。
風と彼女の声以外は聞こえない。雲の上は静謐な景色で、まさに天上の世界だった。
下は一面の真っ白な雲海。
上は宝石を砕いたような星々。
彼女の羽の一打ちで、視界の端の星々が消えていく。
ぐんぐんと、彼女の解き放たれた力強さが、体に伝わってくる。
随分はしゃいでいるな。
彼は微笑ましい気持ちで彼女の鱗を撫でる。夜気に冷えた鱗の下に、灼熱の体温を感じた。
「くすぐったいわ」
と、彼女は笑った。
「悪い」
青年は慌てて手を離した。しかし、抗議するようないっそう強い羽ばたきに体をゆすられた。
「……ううん。気持ちいい。もっと、触って?」
艶を含んだ声音に、彼は苦笑してしまう。
「いいけど、感じすぎて落ちるなよ」
「大丈夫よ」彼女はちょっとだけムッとしたようだった。相手が竜の姿で、顔を合わせていなくとも、それくらいは分かる。もちろん、その悪戯っぽい含みにも。
「でも、あなたとだったら落ちてもいいかも、どこまでもーー、二人で堕ちていく」
「あはは。どっちに?」
彼が尋ねると、彼女は彼の意図を察したらしく、翼を大きく一打ちして、雲海に沈む。視界が真っ白に染まり、お互い以外に感じ取れるものはない。それから浮上すると、今度は、垂直に落下するように星空に向かって飛翔する。井戸の底できらめくガラスのような星々。真っ暗な闇の中に落ちていくのでも、二人の体が離れることはない。
星空に身をくねらせたワイバーンの肢体は、まるで、透き通った水底で、白魚が踊るようだった。
「乱暴だな」
振り回されつつも、彼はーー彼女も、楽しそうだった。
彼らは今、ようやく反魔物国の勢力圏を抜けたところであった。
彼は竜騎士というわけではない。
傷ついたワイバーンを見つけた、一木こりでしかなかった。反魔物国に生まれついた彼は、それまで魔物を、人を食らう悪しきものだと思っていた。
だが、それは彼女を一目見た瞬間に、一瞬のうちに、泡(あぶく)が弾けるように消え去ってしまった。
森の中、傷つきながらも険しい目で彼を見据え、木漏れ日のようにふる月明かりを浴びて凛と立っていた彼女に、彼は心を奪われた。あれほど力強くて美しい生き物は、初めて見た。
月明かりに濡れたエメラルドの鱗はどんな宝石よりも魅力的で、死に抗う、静かで、そして熱い生命力を感じた。ベルベッドのように広がるはずの翼膜は破れ、まるでボロ布をまとっているようだったが、乞食に身をやつしても折れない、貴人のような誇りがあった。
彼は自分の小屋に彼女をかくまい、その傷が癒えるまで懸命に世話をした。数日後にやってきた兵士たちはうまくやり過ごした。
果実酒を密かに作るための秘密の地下室が、こんなことに役立つとは思ってもいなかった。もっとも、なんとか兵士を返して彼女の様子を伺えば、傷の癒えない身だというのに、我慢ができずに酒盛りを始めていた姿には、閉口したものだったが……。
そうして、彼女の傷が癒えた頃だったか、癒える前だったか。
彼らが結ばれたのは自然なことだった。
傷の癒えた彼女と彼は、反魔物国から抜け出すことを選んだ。
いい具合に雲に覆われた暗い、今日この夜。
彼女は竜の姿ととると彼を背に乗せて、放たれた矢のように、一直線に雲の中に潜り込んだ。身を隠すために雲の中をひたすらに突き進み、彼らはようやく雲の上に出たのである。
これから何をやって生きていこうという不安はある。
しかし、楽しそうな彼女を見ていれば、どうにかやっていけると感じる。
故郷を捨てた寂しさの縦糸と、彼女と歩む期待感の横糸が、織物となって自らを包んでいるようだった。
「見て」
と、彼女が弾んだ声で言った。
「わかってる。ああ、綺麗だ」
彼は感動に身を震わせる。
雲の切れ端からは海がのぞみ、丸い水平線の彼方から陽光がのぞいていた。まるで目覚める瞳から光が漏れ出してくるような光景に、彼らは惚けてしまう。
青黒い海を染め上げて、星を散らす明けの訪れは、まさしく世界が始まる風景だった。
この先の不安を吹き飛ばし、希望の目覚めるその朝日を浴びて、ワイバーンの鱗がエメラルドに輝きを放つ、その時だった。
「うわぁっ!」
「きゃあ!」
突然の乱気流に、彼らはさらに空へと巻き上げられた。
猛烈に身を引きちぎるような荒々しい風の中、彼は彼女にはぴったりとしがみつき、彼女も彼を守ろうと、懸命に翼を打った。
そうして朝と夜の狭間で弄ばれる彼らの耳に、声が聞こえた。
ーー失礼。あくびをあいてしまった。
ようやく乱流が収まって、体制を立て直した彼らは互いに目を見開く。
信じられないものがいた。
彼らが今まで懸命に羽ばたいて超えてきた雲海が、引きちぎられたように散っていた。そこには、まるで山脈かと思われるような、巨大なワイバーンがいた。その翼は西から東の空を全て覆うかのように広く、その鱗の一枚一枚は岩盤と見まごうほどに厳然としている。その尾は一打ちで谷を穿つだろう。
彼らを弄んだあの風は、そのあくびだったと言うのだ。
ワイバーンならば彼女なのだろうか……。だが、彼女が人型になったところなど想像もできない。
まるで神のような。
そうとしか言いようのない存在。
叡智をたたえた湖のような瞳に見つめられて、青年と、彼を乗せる小さなワイバーンの目からは涙があふれた。必死で抱き合うちっぽけな二人を見て、巨大なワイバーンは幾千年も超えてきたようなしわがれた声で言う。
ーーくく。今は竜と人が手を取り合うのか。いがみ合っていた時代を超えて。いや、竜騎士はまた別だったか? 細かいことなんて覚えていないな。しかし……、種の諍いなど、種の垣根など、男女の情愛には関係ない。それは昔から変わらないこと。ああーー、安心した。
その、どこまでも深い瞳に映されて、彼らは、相手にとって、自分たちは時間という地平に立つ、一つの点だと知った。それでも、その存在が目を向けずにはいられないものだったらしい。
ーー幸せになりな。なんて言うのは野暮だろう。
見に余る祝福に、目を白黒とさせる一組の人と翼竜の男女に、巨大なワイバーンは彼らを見据え、ふぅと息吹を吐いた。それはまるで、この星が呼吸をしたかのように雄大な風だった。
きりもみし、叫び声をあげつつ吹き飛ばされていく彼ら。
その暖かくも激しい風は、彼らを猛烈に東へと押しやる。
目も回しそうな風に運ばれて、彼らは海を越える。彼らは新天地で、新しい生活を送るに違いない。
飛ばされる風の中でもいっそう固く抱き合った彼らを、その存在は確信を持って見送る。そうして彼らが見えなくなってしまうと、
ーーさあ、私はまた一眠りしようか。
太古の存在はそう言うと、再び雲をまとって身を沈める。
愛し合う男女の行く先など、もう語るまでもないことではないか。
真っ青な海の上には、太陽がすでにその顔を晒していた。
空と海の境には島々の緑が映える。大陸の山々は起伏に富んだ影を作り、また、山肌に青空をかぶる。
空の切れ端のような巨大な雲は、いずことも知れずに流れていく。
今はとある、西の国にかかったところであった。
風は身を切るように後ろに抜け、星々を流星として追いやる。
尻の下にはゴツゴツとした竜の鱗。締めた膝から帰ってくる感触は硬いが、痛みを覚えるものではない。彼女の体が、パートナーである自分を傷つけることはないのだ。
青年はワイバーンの背に乗っていた。
彼女は竜の姿をとり、エメラルドの体躯には星々のきらめきが映っている。鞍も手綱もつけず、彼女の魔法のおかげで、彼はそのまま彼女の背に乗って、星月夜の雲海を、東に向けて進んでいた。
「大丈夫? 疲れてない?」
いかつい竜の口から出た言葉とは思えないほどに透き通り、そして凛々しい音色だった。
「大丈夫。君こそ疲れてないか?」
「もちろん。あなたを背中に乗せているのに、私が疲れるわけないわ。それに、たくさん魔力ももらったし」
甘えた声音が耳をくすぐる。青年は恥ずかしげな顔で頬をかく。
この高度、この速度であれば、彼らの会話が他に聞こえるわけがない。彼らの声が届くのは、同じ位置にいるものだけだ。
ビョウビョウと、風が流れていく。
風と彼女の声以外は聞こえない。雲の上は静謐な景色で、まさに天上の世界だった。
下は一面の真っ白な雲海。
上は宝石を砕いたような星々。
彼女の羽の一打ちで、視界の端の星々が消えていく。
ぐんぐんと、彼女の解き放たれた力強さが、体に伝わってくる。
随分はしゃいでいるな。
彼は微笑ましい気持ちで彼女の鱗を撫でる。夜気に冷えた鱗の下に、灼熱の体温を感じた。
「くすぐったいわ」
と、彼女は笑った。
「悪い」
青年は慌てて手を離した。しかし、抗議するようないっそう強い羽ばたきに体をゆすられた。
「……ううん。気持ちいい。もっと、触って?」
艶を含んだ声音に、彼は苦笑してしまう。
「いいけど、感じすぎて落ちるなよ」
「大丈夫よ」彼女はちょっとだけムッとしたようだった。相手が竜の姿で、顔を合わせていなくとも、それくらいは分かる。もちろん、その悪戯っぽい含みにも。
「でも、あなたとだったら落ちてもいいかも、どこまでもーー、二人で堕ちていく」
「あはは。どっちに?」
彼が尋ねると、彼女は彼の意図を察したらしく、翼を大きく一打ちして、雲海に沈む。視界が真っ白に染まり、お互い以外に感じ取れるものはない。それから浮上すると、今度は、垂直に落下するように星空に向かって飛翔する。井戸の底できらめくガラスのような星々。真っ暗な闇の中に落ちていくのでも、二人の体が離れることはない。
星空に身をくねらせたワイバーンの肢体は、まるで、透き通った水底で、白魚が踊るようだった。
「乱暴だな」
振り回されつつも、彼はーー彼女も、楽しそうだった。
彼らは今、ようやく反魔物国の勢力圏を抜けたところであった。
彼は竜騎士というわけではない。
傷ついたワイバーンを見つけた、一木こりでしかなかった。反魔物国に生まれついた彼は、それまで魔物を、人を食らう悪しきものだと思っていた。
だが、それは彼女を一目見た瞬間に、一瞬のうちに、泡(あぶく)が弾けるように消え去ってしまった。
森の中、傷つきながらも険しい目で彼を見据え、木漏れ日のようにふる月明かりを浴びて凛と立っていた彼女に、彼は心を奪われた。あれほど力強くて美しい生き物は、初めて見た。
月明かりに濡れたエメラルドの鱗はどんな宝石よりも魅力的で、死に抗う、静かで、そして熱い生命力を感じた。ベルベッドのように広がるはずの翼膜は破れ、まるでボロ布をまとっているようだったが、乞食に身をやつしても折れない、貴人のような誇りがあった。
彼は自分の小屋に彼女をかくまい、その傷が癒えるまで懸命に世話をした。数日後にやってきた兵士たちはうまくやり過ごした。
果実酒を密かに作るための秘密の地下室が、こんなことに役立つとは思ってもいなかった。もっとも、なんとか兵士を返して彼女の様子を伺えば、傷の癒えない身だというのに、我慢ができずに酒盛りを始めていた姿には、閉口したものだったが……。
そうして、彼女の傷が癒えた頃だったか、癒える前だったか。
彼らが結ばれたのは自然なことだった。
傷の癒えた彼女と彼は、反魔物国から抜け出すことを選んだ。
いい具合に雲に覆われた暗い、今日この夜。
彼女は竜の姿ととると彼を背に乗せて、放たれた矢のように、一直線に雲の中に潜り込んだ。身を隠すために雲の中をひたすらに突き進み、彼らはようやく雲の上に出たのである。
これから何をやって生きていこうという不安はある。
しかし、楽しそうな彼女を見ていれば、どうにかやっていけると感じる。
故郷を捨てた寂しさの縦糸と、彼女と歩む期待感の横糸が、織物となって自らを包んでいるようだった。
「見て」
と、彼女が弾んだ声で言った。
「わかってる。ああ、綺麗だ」
彼は感動に身を震わせる。
雲の切れ端からは海がのぞみ、丸い水平線の彼方から陽光がのぞいていた。まるで目覚める瞳から光が漏れ出してくるような光景に、彼らは惚けてしまう。
青黒い海を染め上げて、星を散らす明けの訪れは、まさしく世界が始まる風景だった。
この先の不安を吹き飛ばし、希望の目覚めるその朝日を浴びて、ワイバーンの鱗がエメラルドに輝きを放つ、その時だった。
「うわぁっ!」
「きゃあ!」
突然の乱気流に、彼らはさらに空へと巻き上げられた。
猛烈に身を引きちぎるような荒々しい風の中、彼は彼女にはぴったりとしがみつき、彼女も彼を守ろうと、懸命に翼を打った。
そうして朝と夜の狭間で弄ばれる彼らの耳に、声が聞こえた。
ーー失礼。あくびをあいてしまった。
ようやく乱流が収まって、体制を立て直した彼らは互いに目を見開く。
信じられないものがいた。
彼らが今まで懸命に羽ばたいて超えてきた雲海が、引きちぎられたように散っていた。そこには、まるで山脈かと思われるような、巨大なワイバーンがいた。その翼は西から東の空を全て覆うかのように広く、その鱗の一枚一枚は岩盤と見まごうほどに厳然としている。その尾は一打ちで谷を穿つだろう。
彼らを弄んだあの風は、そのあくびだったと言うのだ。
ワイバーンならば彼女なのだろうか……。だが、彼女が人型になったところなど想像もできない。
まるで神のような。
そうとしか言いようのない存在。
叡智をたたえた湖のような瞳に見つめられて、青年と、彼を乗せる小さなワイバーンの目からは涙があふれた。必死で抱き合うちっぽけな二人を見て、巨大なワイバーンは幾千年も超えてきたようなしわがれた声で言う。
ーーくく。今は竜と人が手を取り合うのか。いがみ合っていた時代を超えて。いや、竜騎士はまた別だったか? 細かいことなんて覚えていないな。しかし……、種の諍いなど、種の垣根など、男女の情愛には関係ない。それは昔から変わらないこと。ああーー、安心した。
その、どこまでも深い瞳に映されて、彼らは、相手にとって、自分たちは時間という地平に立つ、一つの点だと知った。それでも、その存在が目を向けずにはいられないものだったらしい。
ーー幸せになりな。なんて言うのは野暮だろう。
見に余る祝福に、目を白黒とさせる一組の人と翼竜の男女に、巨大なワイバーンは彼らを見据え、ふぅと息吹を吐いた。それはまるで、この星が呼吸をしたかのように雄大な風だった。
きりもみし、叫び声をあげつつ吹き飛ばされていく彼ら。
その暖かくも激しい風は、彼らを猛烈に東へと押しやる。
目も回しそうな風に運ばれて、彼らは海を越える。彼らは新天地で、新しい生活を送るに違いない。
飛ばされる風の中でもいっそう固く抱き合った彼らを、その存在は確信を持って見送る。そうして彼らが見えなくなってしまうと、
ーーさあ、私はまた一眠りしようか。
太古の存在はそう言うと、再び雲をまとって身を沈める。
愛し合う男女の行く先など、もう語るまでもないことではないか。
真っ青な海の上には、太陽がすでにその顔を晒していた。
空と海の境には島々の緑が映える。大陸の山々は起伏に富んだ影を作り、また、山肌に青空をかぶる。
空の切れ端のような巨大な雲は、いずことも知れずに流れていく。
今はとある、西の国にかかったところであった。
17/09/24 13:43更新 / ルピナス